2012年12月3日月曜日

「ライ麦畑でつかまえて」____ジェーン・ギャラハーとは何か

 久々の更新です。やっとものが書ける環境になりつつあります。だいぶ感覚がなまってしまったようで、少し不安ですが。今回は「ライ麦畑でつかまえて」の影の主人公ともいえるジェーン・ギャラハーについての覚書です。箇条書きに近いまさにnaoko_noteですが。

  「ライ麦畑でつかまえて」には主人公ホールデンの他にも何人かの個性的なキャラクタが登場する。冒頭では前回少し触れたスペンサー先生、それからルームメイトのアクリーとストラドレーター、そしてストラドレーターがデイトしたジェーン・ギャラハーの四人は小説前半の重要人物である。ただしジェーン・ギャラハーはホールデンとストラドレーターとの会話およびホールデンの回想の中で触れられるが、直接ストーリーの展開の中に姿を現すことはない。だが、ホールデンは、というよりサリンジャーは執拗にジェーン・ギャラハーについて言及する。そもそもホールデンが、どのみち放校になるにせよ、予定より早くペンシーを出たのは、彼がストラドレーターにジェーン・ギャラハーを「やったのか」どうかについて訊ねたのに対し、、ストラドレーターが「それは職業上の秘密という奴でしてね」とはぐらかしたことが直接のひきがねになったのだ。

 「やったのかよ?」というホールデンの言葉は原文ではGive her the time?となっている。日本語でも「やった」という言葉は、様々な漢字が当てられて複雑な意味をもつ。Give the timeを「やった」と訳したのは訳者の野崎孝さんの名訳だと思うのだが、原文も日本語訳もその意味するところは深い。

 ホールデンとジェーンはどんな関係だったのだろう。二年前の夏、メイン州にあった彼女の家のドーベルマンが隣のホールデンの家の庭に排泄したことがきっかけで二人は友達になったという。ひと夏を二人は一緒にスポーツを楽しみ、ゲームをしたり、ときには(ホールデンが嫌いなはずの)映画を見に行ったりもした。アメリカ中産階級の子女の典型的なひと夏の体験が語られるのだが、中でも印象的なのが、二人がチェッカーをしていたときのエピソードである。

 ジェーン・ギャラハーという少女はまず「(チェッカーをするとき)自分のキングを絶対に動かさない」人物として紹介される。そのことは何回も繰り返して記述される。ある土曜日の午後二人はそうやってチェッカーをしていたのだが、突然土砂降りの雨が降り出す。すると、ヴェランダでゲームをしていた二人の前に彼女の母親の再婚相手の「カダヒさん」という男が現れて「家のどこかに煙草はないか」と彼女に聞く。ところが彼女はまったく答えない。男はあきらめて家の中に戻ったが、その後ホールデンの問いかけにも彼女は口をとざしたままである。そして、チェッカ-盤の赤い桝目上に涙を一滴こぼして、それを指ですりこんでしまう。それを見たホールデンは泣き出した彼女の顔一面に接吻する。口以外のすべてに。

 その後ジェーンはいったん家の中に入っていって「赤と白のセーターを着て来」て、二人は映画に行く。事件の顛末はこれだけなのだが、ホールデンは彼女のどこにそんなに惹かれたのだろう。ジェーンの容姿は「厳密な意味では美人といえないと思うけどね、でもイカしたな」と語られる。ちょっと不思議なのは、「口が、唇から何から、五十くらいの方向に動くんだよ」というホールデンの描写である。?縦横斜めくらいは私も動かそうと思えば動かせるかもしれないが、「五十くらいの方向」は?まぁ、何より彼女がホールデンにとって魅力的だったのは、彼と同じセンスの持ち主だったからだろう。彼女は「いつも何かを読んでた」し「しかも、とてもよい本を読んでる」と語られ、ホールデンは彼女に「アリーの野球のミットを、そこに書いてある詩から何からそっくり見せてやった」のだ。そしてそうしたのは「うちの者たちを除けば、彼女だけだった」のである。

 「ライ麦畑でつかまえて」に登場する人物はかなりの数になるのだが、実はそれぞれの人物が絡み合うことはほとんどなく、すべてホールデンとの出会いの場面で登場するだけである。逆にいえば、この小説はホールデンの目を通してそれぞれの人物を描いたものと言えるのではないか、とさえ考えられる。その中で、このジェーン・ギャラハーを除けば、ホールデンが価値観を共有するのは、死んでしまった弟のアリーと小さな妹のフィービーだけである。ホールデンはフィービーに再三電話しようと思うのだが、結局電話できないまま最後に直接彼女のところに忍び込む。ジェーンとも電話はつながらない。大事な人間には最後まで電話できないのだ。それにしてもジェーンはストラドレーターとデイトした後無事に家に戻ったのだろうか。

 まだまだ読み込みがたりなくて、こなれていない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2012年10月31日水曜日

「ライ麦畑でつかまえて」___「スペンサー先生とは何か」

 ここ二ヶ月余り雑事に追われて、まったく更新できない日々が続いております。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。

 
 そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot  your  noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。

 二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。

 「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。

 スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。

 今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年8月16日木曜日

「テディ」____オレンジの皮と輪廻転生

 「テディ」について書くのはこれが三回目である。以前書いたものを踏まえて、というより大幅に修正したものを早く出さなければいけないと思っていた。いま、完全なものが出せるわけではないのだが、とりあえずの経過報告をしたいと思う。

 あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。

父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」

 この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。

 後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。

 その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」

 最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。

 もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。

ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。

ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。

八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年8月7日火曜日

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」____「わたし」はどんな絵を描いたのか

『ナイン・ストーリーズ』には三つの一人称の小説が収められている。「笑い男」「エズミに捧ぐ」そしてこの「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」である。「笑い男」と「エズミに捧ぐ」は非常に複雑な構造で、入り組んだストーリーの展開を追っていくうちに、語り手が誰なのかが分からなくなってしまう。それに比べると表題の作品は「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」を継父にもつ「わたし_(ド・ドーミエ=スミスという偽名をもつ)」が語る青春の回顧談として無理なく最後まで読んでいくことができる。ただ一つだけ腑に落ちないのは冒頭の一文である。

 「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」

 かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。

 それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。

 『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。

 ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。

 シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。

 「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。

 以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。

 これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。

 自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?

 あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。

 もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年7月20日金曜日

「セロひきのゴーシュ」___自虐と他虐の孤独な自画像

これも賢治の代表的な作品である。私は「セロひきのゴーシュ」に二回出会った。最初は遥かな(?)昔、まだ若い母親だったとき、自分の子供に読み聞かせるために絵本を購入した。茂田井武という賢治と同じように夭折した画家の挿絵がついていた。二回目は、それからかなりの月日が経って、子供の勉強をみる仕事をしていたとき、NHK学園という通信制高校の現代文のテキストに採用されていた。教えていた子、といっても十代の後半だから若者といったほうが正確かもしれない。彼の容姿や雰囲気が茂田井画伯の描いたゴーシュに似ているのが、興味深かった。たぶん、偶然ではないと思うのだが。

有名な作品なので、あらすじを紹介するまでもないと思う。ゴーシュという孤独な若者が、コンクールのために一人で深夜まで猛練習をする。そこに、猫とかっこうと狸と野ねずみが訪れる。それぞれの動物との交流を経て、ゴーシュはセロの演奏に上達し、コンクールの本番では、アンコール演奏の指名を受けるまでになる。この作品のテーマとして、芸術による自己昇華あるいは大自然の意志との感応(瀬田貞二氏)を見るのはもちろん正しいし、まずそれを考えなければいけないのだろう。だが、どうしても、私にはそれだけで割り切れない複雑なものが残るのである。「ゴーシュさんは一生懸命練習しました。動物たちもやってきました。それでみんなにほめられる演奏ができました。よかったです」では済まない何かがあって、それがこの作品をいつまでも心に残るものにしているのだ。

この作品を読んで、まず驚くのは、最初に訪れた猫に対するゴーシュの残虐さである。ゴーシュの畑でもいできたトマトを持って、半ば道化を装いながら陣中見舞いにやってきた猫をいたぶって、その舌でマッチをするという行為は尋常ではない。次にぎょっとするのは、一緒にドレミファを練習したかっこうを外に出すためにガラスをけり破って窓を壊す場面である。「のどから血が出るまでは叫ぶ」と言って叫び続け、出口を求めてはガラスにぶつかり血まみれになるかっこうも常軌を逸しているが、それを外に出すために自らも危険を冒すゴーシュがなにより常軌を逸している。

ところで、本題とはあまり関係がないかもしれないのだが、この作品を読んでいつも思うことがある。「町はずれの川ばたにある水車小屋」に「たった一人ですんでいて、午前は小屋のまわりのちいさな畑でトマトの枝を切ったり、甘藍の虫をひろったりして」いるゴーシュとはいったい何だろう。「トマト」や「甘藍」は当時(1920年代後半~30年代前半)一般的に栽培されていたのだろうか。現代でいえば、朽ちかけた廃屋にすんで高級メロンなどを作っているようなものではないか。童話の世界にリアリティを求めることが無理なのかもしれないが、何だか不思議な感じである。もう一ついえば、賢治の童話の登場人物の名前について、賢治の作品には片仮名表記=外国風の名前と、漢字もしくは平仮名表記=日本風の名前との2種類の名前が存在する。そして、それぞれの作品世界には明らかな違いがあると思われる。オツペル、ジョバンニ、グスコープドリの登場する作品世界と、又三郎、小十郎、虔十の登場する作品世界は、同一次元のものではない。前者は現実とは別次元の、もっといえばある種の理想に到達し得る世界として描かれているのではないか。

それでは「セロ引き」の「ゴーシュ」が登場するこの作品世界は理想郷たり得るのだろうか?たしかにゴーシュは演奏を成功させ、楽長に賞賛され認められた。愛らしい狸の子と一緒に演奏して平和に夜を明かすこともできた。そして、野ねずみの子の病気をなおすという奇跡のようなことも起こった。ゴーシュを取り巻く世界は変わったのである。だが、ゴーシュの孤独は変わらなかったのではないか。ゴーシュにほんとうのドレミファを教えたかっこうは永遠に行ってしまったのである。「ああ、かっこう。あの時はすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ。」という最後のゴーシュの独白は「おいゴーシュ君。君には困るんだなあ。表情ということがまるで、できていない。怒るも喜ぶも感情ということがさっぱり出ないんだ」という楽長の指摘と対をなして、この作品中最も印象的である。怒ったのではなかったのだ。あまりにも孤独で、それゆえ不器用だから、「感情というものが出な」かったのだ。「感情というもの」が「ない」わけでは決してないのに。

「サリンジャーに戻ります」といいながら、また宮沢賢治について書いてしまいました。賢治の作品に関しては、もう一つ「風の又三郎」についても書きたいと思っています。その前に「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」について書かなければなりませんが。

今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年6月19日火曜日

「なめとこ山の熊」____死との融和_破綻した予定調和の世界

宮沢賢治の作品の中で、もっとも心惹かれる小説である。何故そんなに心惹かれるのだろう。熊と人間が「なりわい=生業」のために切り結ぶ生と死が鮮烈に描かれているのだが、それだけではない。むしろ、主人公小十郎と熊の交流の場面で、熊は擬人化され過ぎているし、荒物屋の主人と小十郎の関係は誇張され過ぎているのではないか、という感も否めない。それでもなお、この作品にこめられたある種のメッセージ性が感動をよぶのである。私だけかもしれないが。

「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という書き出しでこの小説は始まる。「おもしろい」というのだから、語り手がいるのだが、語り手は徹底して物語の外側で語り、作品世界の中に登場することはない。「オツペルと象」の語り手と同じである。もうひとつ「オツペルと象」と共通していることがあって、語りの文体が常体なのである。賢治の童話は多くが敬体の文章で書かれている。童話集『風の又三郎』の解説を書いている谷川徹三氏の言うように「天成の教育者であった」賢治は、つねに語られる相手=子どもを意識して作品を作っていたので、子どもが受け入れやすいように「ですます」体を多く使ったのだと思われる。しかしこの作品はそうではない。語り手が語る相手は、必ずしも子どもを第一に意識しているのではないのだ。そして「オツペルと象」の語り手が最後には、「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」と韜晦してしまうのに対して、「なめとこ山の熊」は、小十郎の死骸をとりまく熊の様子を「ほんとうにそれらの大きな黒いものは、参の星(オリオン)が天のまん中に来ても、もっと西に傾いても、じっと化石したようにうごかなかった」と描写して、最後まで語りの姿勢を変えることなく語りきるのである。

物語は「なめとこ山の熊」を「片っぱしから捕った」熊捕りの名人の小十郎と熊たちとの交流を語る。交流というより、殺すか殺されるかの勝負、といった方がほんとうは正確なのだろう。殺した熊に因果を含める小十郎の姿が描かれるが、「米などは少しもできず、味噌もなかったから、九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもっていく米はごくわずかずつでも要った」から、生きていくために殺さなければならなかったのだ。殺さなければ、すなわち自分が、否七人家内が全員飢え死にするのである。

小十郎と熊との関係は、時の推移とともに微妙に変化していく。「小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした」という文章の後、小十郎は月あかりの中で「後光がさすように思え」た母子の熊の姿を見つける。この場面で描かれる母子の情景はまるで一幅の絵画のように美しく、その会話」は詩のようである。小十郎はこの二匹の熊を射つことができないばかりか、「なぜかもう胸がいっぱいになって、もういっぺん向こうの谷の白い雪のような花と、余念なく月光をあびて見ている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。」だが、小十郎がこの母子を見つけたのは、彼が「柄にもなく登り口をまちがってしまった」ため、去年つくった小屋にたどり着くまでに、犬も自分もへとへとにつかれてしまったので、水のある場所に下りて行こうとしたからである。剛毅な小十郎にかすかな衰えの兆候が見えはじめたのだ。

この後小十郎と荒物屋の主人との商談の様子が語られる。小十郎は命を切り結んで手に入れた熊の胆をさんざんに買い叩かれて、わずかな金と馳走で懐柔されてしまう。荒物屋の主人の老獪さと小十郎の卑屈さとが方言をまじえてリアルに描かれる。ここで語り手は「けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がどんどん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」と断定せずにはいられない。命しか売るものがない労働者とそれを買い叩く商人=資本家の一方的な力関係を前にして、なすすべもない語り手はせめてことばで弾劾するしかない。

そうやって小十郎が命の代償として手に入れたものは何か、という問いをつきつけたのは、木によじ登ろうとしていた大きな熊だった。「お前は何がほしくておれを殺すんだ」と問われた小十郎は「お前に今ごろそんなことを言われると、もうおれなんどは何か栗かしだの実でも食っていて、それで死ぬなら死んでもいいような気がする」 と答える。「九十になるとしよりと七人家内にもっていく」わずかな米のために殺生を重ねる生活世界から死の地平にかなりな角度で傾斜した姿勢である。残した仕事もあるので二年だけ待ってくれ、という熊のことばに小十郎は立ちすくんでしまう。そして、約束通りちょうど二年目の朝、熊は小十郎の家のまえで血を吐いて死んだのだった。その姿を「小十郎は思わず拝むようにした」

小十郎が最期を迎える朝の情景は、この作品の中でもっとも印象深い場面だ。少し原文を引用したい。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るとき、今まで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年とったでばな、けさまず生まれで始めで、水へはいるの嫌(や)んたよな気するじゃ。」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母は、その見えないような目をあげてちょっと小十郎を見て、何か笑うか泣くかするような顔つきをした。
今生の別れを告げる母子の情景は、月光の中で美しく描かれた熊の母子の情景よりもっと美しくて、はるかにせつない思いを伝えてくる。

「じいさん、はやくお出や」と孫たちに笑われて山に入った小十郎はあっけなく熊に殺された。かつて、小十郎は、何のために自分を殺すのか、と問われた熊と会話し、熊を射たなかったが、最後はことばを交わす間もなく自分が殺されたのだ。しかもいまわの際に小十郎は「おお、小十郎、お前を殺すつもりはなかった。」という熊の声を聞くのである。この最後の場面は謎である。熊はほんとうに小十郎を殺す気がなかったのか。だとしたら何故「棒のような両手をびっこにあげて、まっすぐに走って来た」のだろう。そして小十郎が鉄砲を射ったのに、何故「少しも倒れないであらしのように黒くゆらいでやってきた」のか?熊は何者なのか?

小十郎に死をもたらした熊が何者なのかについて一つの仮定があり、この作品といくつかの共通する部分をもつ「オツペルと象」とこの作品とを比較するためにも検討したい命題なのだが、それはまた別の機会にしたい。とりあえずのまとめとして、最初に私が述べた「この作品にこめられたある種のメッセージ性」の具体的な内容について、書いておきたいと思う。それを端的にいえば、「死の荘厳さ」、であろうか。小十郎と約束を交わしてその通りに死んでいった熊も、そうでない熊も、そして小十郎自身の死も、死は同じように荘厳な事実である。そしてそれ以外の何ものでもない。「畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出てもだれも相手にしねえ」小十郎の家族を残したまま、死はただ死として彼に訪れたのだ。死が生の完成であり、終着であるという予定調和の世界は最初から破綻している。語り手は、「まるで生きているときのようにさえざえして何か笑っているようにさえ見えた」顔の小十郎の死骸が「栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の平らに」置かれ、そのまわりを「黒い大きなものがたくさん輪になって集まって」「回回教徒の祈るときのように、じっと雪にひれふしたままいつまでも動かなかった」と語って、時を停止させるのである。

ほんとうはサリンジャーの原文講読を進めなければいけないのですが、どうしてもこの作品が気になっていたので、寄り道してしまいました。また明日からサリンジャーに戻ろうと思っています。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

2012年6月10日日曜日

「愛らしき口もと目は緑」___緊密な恋愛心理サスペンス

  比較的短編で、よくできた心理小説のように思われる。深夜、密着した男と女の間に、突然電話のベルが割り込んでくる。一瞬ためらった後、男は受話器を取る。スタンドの灯りに照らされた男の様子は「もうほとんど白髪に近い」髪を「きれいに手入れを施したばかり」で「要するに『著名人らしい』髪型であった」と描写される。「リー? 寝てたのかい?」と電話の最初に相手の男が言うことから、時は深夜であることがわかる。


  電話をかけてきた男は「アーサー」と呼ばれる。彼は妻のジョーニーが帰るのに気づかなかったと白髪まじりの男__「リー」と呼ばれる__に聞いてきたのだ。アーサーと妻のジョーニー、そして白髪まじりの男は一緒にパーティに参加していたらしい。白髪まじりの男は傍らの女に目をやることもなく、アーサーの妻にはまったく気づかなかった、と答える。ここからアーサーと白髪まじりの男の電話器を介した長い会話が始まる。

  会話の前半は、居所が不明な妻への不信を訴えるアーサーと、それをなだめて、なんとか彼を落ち着かせようとする白髪まじりの男のやりとりが続く。男はアーサーにジョーニーは「エレンボーゲン夫婦」と一緒に出かけたのではないか、と言う。 そう信じこませたいようだ。だがアーサーは信じられない。(当然のことであるが)。ジョーニーがいかに気の多い女であるかを訴え続けるアーサーに、彼の話を突然さえぎって、白髪まじりの男は、今日の裁判の結果を尋ねる。彼らは二人とも弁護士であるらしい。

  裁判の詳しい内容は不明だが、「三つのホテル」に関する訴訟で、どうやらアーサーは敗訴になったらしい。会話の、というより小説の途中で突然挿入されるこの裁判とはいったい何だろうか。「ヴィットリオの気狂い野郎」と呼ばれる裁判長と「南京虫のしみだらけのシーツ」を証拠に提出した「ルームメードの低脳野郎」のおかげで敗訴になってしまった、とアーサーが嘆く裁判とは?

  敗訴になったことで「三つのホテル」のジュニアの怒りを怖れるアーサーは、軍隊に戻るかもしれないと言い出す。ジョーニーとの関係についても、去年の夏に別れてしまえばよかった、と言い出すかと思えば、かわいそうだから別れなかったとも言い、「愛してもいるし愛してなくもある」と「揺れ動く」。そしてアーサーは以前ジョーニーに捧げた詩を白髪まじりの男に聞かせるのだ。「肌白く薔薇色の頬。愛らしき口もと目は緑」原文はこうなっている。
Rose my color is and white, Pretty mouth and green my eyes.
この詩を白髪まじりの男に聞かせた後、アーサーの言葉は微妙に変化していく。ジョーニーが彼にスーツを自腹で買ってくれた思い出を語って、彼女の人柄のよさを言い始める。それだけでなく、いまから白髪まじりの男の家に行っていいかと聞くのだ。

  虚をつかれた白髪まじりの男は、何とか彼を言いくるめて、そのまま自宅で妻を待つようにと説得して電話を切る。女とともに危機を切り抜けた喜びを分かち合ったのもつかの間、再び電話が鳴る。妻のジョーニーが帰ってきた、とアーサーが報告してきたのだ。エレンボーゲンさん夫婦と一緒にいたらしい、と言う。ニューヨークを離れてコネチカットに小さな家を買って、ジョーニーとやり直したい、とアーサーは言う。裁判の結果についても、ジュニアに会って何とか努力したい、と話し続けるアーサーをさえぎって白髪まじりの男は電話を切る。茫然自失の男は火のついた煙草を指の間からとり落としてしまうのだ。はたして彼は何故そんなに動揺したのだろうか?

  以前私はこの小説を「信仰、希望、愛」とサブタイトルをつけて紹介した。それは、間違いではなかったかもしれないが、やはりもう一段の読み込みが必要なのだと思われる。白髪まじりの男とアーサー、この二人のどちらがボールを持っているのか?そして、作中「いわばアイルランドの若い警官と言った感じで男を見守っている」と形容される女は何者なのか?題名となっている「愛らしき口もと目は緑」とは何を意味するのか?

  書くことにも読むことにも集中できない日が続いています。一にかかって私自身の努力不足ですが、何とか先に進みたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年5月30日水曜日

「エズミに捧ぐ」___いくつかの確認事項として

 「エズミに捧ぐ」について、いま新しく書き加えることはほとんどないのだが、ごく当たり前ののことをいくつか確認しておきたい。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。

その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he  always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.

以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。

問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。

この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。

遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年5月10日木曜日

「小舟のほとりで」____ほほえましい家庭小説

『ナイン・ストーリーズ』の5番目、連作の真ん中に位置する短編である。九つの連作中もっとも短く、よくまとまった感動的な作品のように見える。いわれない中傷に傷ついた少年と彼を癒す若い母親の物語、として心地よい読後感をもたらす。ここに巧妙な謎が仕掛けられている、と考えることは無理ではないか、と思ってしまう。

 この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With  string  you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。

この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。

珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。

連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。

まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

































2012年5月2日水曜日

「笑い男」再び___「笑い男」とは何か

前回私は、「笑い男___その用心深い入れこ構造と表現の重層性」の中で、「笑い男」と「コマンチ団」の「団長」をアメリカインディアンのメタファーとして解釈した。その解釈は間違っていないと思うが、それは「サリンジャーの読み方」の第二層目としてそうも読める、というべきで、これはやはりもう一層下の歴史的次元の事実を踏まえて解釈しなければならない。それでは、「笑い男」と「コマンチ団」、そして「団長」とは何か?

『ナイン・ストーリーズ』の九つの連作の中で、この「笑い男」とこれに続く「エズミに捧ぐ」は、もっとも中心的な部分であると思う。作品の長さといい、構造の複雑さといい、サリンジャーが渾身の力を注いで書いたものではないか。そもそも「笑い男」の「原義」は何か?この小説の入り組んだ謎をとく鍵はそこにある。それはまた「エズミに捧ぐ」の謎を解く鍵でもあるのだが。 

「用心深い入れこ構造」のなかで、「笑い男」にかんする描写は、あまりにも現実離れしている。「金持ちの宣教師夫妻の一人息子」で、「中国の山賊どもに誘拐された」が、夫妻が身代金を払うことを拒んだために「万力で頭を挟んで、右のほうへ何回かねじった」ために、大人になると「ヒッコリーの実のような形の顔をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いている」顔を「芥子の花びらで作った薄紅色の仮面」で包み、「阿片の匂いをふりまいて歩いた」とある。荒唐無稽とは、このような表現をいうのだろう。何故このような荒唐無稽な表現をしなければならなかったのか。その底に、サリンジャーはどんな真実を潜ませたのだろうか。

孤独のうちに、深い森の動物たちとひそかに交流しながら、笑い男は成長した。山賊たちのノウハウを身につけたばかりか、それを遥かに超える方式で、世界中で富を収奪し、世界一の資産家になった。これは、アメリカ・インディアンのメタファーではないだろう。文字で記された彼らの歴史には、そのような記述はない。その資産の大部分を「ドイツの警察犬を育てることに一生をささげたつつましやかな修道僧」に寄付し、残りはダイヤモンドに換えて、エメラルド色の金庫に収め、黒海に沈めてしまった、と語られる「笑い男」とは、何を意味するのか?その「笑い男」の一代記を語る「団長」とは何か?「団長」の荒唐無稽な話を胸をときめかせて聞く「私」をはじめとする「コマンチ団」とは何か?

「団長」については、「笑い男」の息の仕方を「言葉で説明するより、むしろ実演してみせた」とあることから、「笑い男」と同じカテゴリーに属する存在、というよりほぼ「笑い男」そのもの、といえるかもしれない。そして、「私」をはじめとする「コマンチ団」のメンバー二十五人は、みな「自分を笑い男の直系の子孫と考えていた」だけでなく、「自分の本当の素性を名乗り出ようと、その機会をうかがっていた」し、ひそかに行動に出る準備もしていたのである。つまり、「笑い男」と「団長」と「私」は、複雑にねじれあった構造の中で直接に結びついていたのだ。だから、メアリ・ハドソンとの破局が決定的になったとき、「笑い男」の最期は必然となり、それはまた、「私」をはじめとする「コマンチ団」の恐ろしい運命をも決定することになったのである。

このところ身辺雑事あいついで、読むことも書くこともままならない日が続いています。以前書いたものの大幅な修正をしたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月17日火曜日

「和人(シャモ)のユーカラ」____深沢七郎の記号

サリンジャーを読んでいると、どうしても深沢を語りたくなる。今日は単行本『みちのくの人形たち』に収録されている「和人(シャモ)のユーカラ」を取り上げてみたい。

 この作品は「海」1980年十二月号に発表されたものである。例によって書き出しは「大雪山は決して恐ろしい山ではない」という不思議な文章で始まる。主人公の「私」は大雪山のふもとに新しい自動車道路をつくる計画が出来て、その反対の立場の人達のための調査団の一員となり、一行より一週間早く大雪山にやって来た。「私」は三年前にも大雪山のふもとに来て、不思議な大男に会った。そのときに「偶然に摑まえた幸運」を「確かめなければ幸運になるとは思えない」ので、三年前と同じ連絡線「大雪丸」と急行「大雪」でS市に着いたが、一泊しただけで、以前泊まった大雪山の山荘「あふン荘」を訪れた。

 「あふン荘」は「玄関だけがアイヌの舟形を思わせる様に新しく作ってあ」る古い民家で、四つしか部屋はなく、「不如帰」のヒロインと同じ名前の「ナミちゃん」という「卵焼きの得意な」三十過ぎの女中さんが一人で切り盛りしている。三年ぶりに訪れた「私」を彼女も「声を覚えていますよ」と覚えていた。三年前と同じように山荘の庭一面に咲き乱れる「タンポポ」を見て、「私」は大男と出会ったときの回想にふける。 

 「私」が「あの山男のようなアイヌの人」に逢ったのは「あふン荘」から僅か離れた「大雪山のふもとと言っても入口でカラ松の木の高くそびえて」いる場所だった。霧の中だか「ガスの晴れ間」だか、「目の前が明るくなったほどあざやかに」現れたその大男は「彫りの深い、太い眉毛」で「カーキー色のズボン」「ジャンパー風な上衣」で「復員軍人」か「終戦直後の引揚者のような服装」である。「霧深い大雪山で背の低い私は雲つくような大男の顔の中に光った、やさしそうな輝きを見つけた」「私」と相手は、お互いに親しみを感じて立ち止まった。大男はヒビが入った鍋を修繕するために広い道のほうに行くらしい。その男の案内で「私」は「景色のきれいな場所」に案内される。

 そこは「山に囲まれた谷間の広いなだらかな傾斜地」で「タンポポばかりで雑木もないし、ほかの草もない」「タンポポのワイドスクリーンのような場所」だった。そこに「咲き終わっても飛び散らないで、長く灰色の花になって、そのまま咲いている」花のことを「シャモの言葉で"幽霊"という意味です」と大男は言う。「私」は「幽霊ですか、幽霊ね、幽霊タンポポというのですね」と、大男が詩人かもしれないと思って、職業を聞いてみたが、彼は黙っている。「シャモ」と目の前で言われてびっくりした「私」は大男に「 あなたは、アイヌのかたですか」と聞くが、相手はこれにも黙っている。「内地の人もシャモといいます、アイヌの人もシャモといいます」と同じことをくりかえし、「xxxxxxxx xxxxx xxxxxxxxx xxxx」とわけのわからない発音をする。

 「タモの木の 枝と、枝の間は俺のものだ と、言います」と「タンポポの平原に向かって歌っているよう」な大男の言い方を「歌みたいですね」という「私」に「ユーカラです」と大男は言う。「xxxxx xxxx、xxxx」と妙な発音をした後「シャコタンの島は、持って歩けないのさ と言います」「ノボリベツの煙は 俺のものだ と言います」「太平洋の水は、持って歩けないのさ と言います」とくりかえす大男は、さらに「シャモにもユーカラがある」と言い、「シャモのユーカラは怖いですね、歌っている顔つきや、手つきは」と言う。シャモは手まねをしながら話をするのが怖い、という大男に、外国人は手まねをしないのか、と「私」が聞いても大男は黙っている。「黙っているのは『イエース』ということかもしれない、アイヌには肯定する言葉はないのかもしれない」と「私」は思う。

 さらに大男は「xxxxx、xxxxx、xxxxx、俺らの ジィさん バァさんは ニセコの山から降ってきた と言います」と続け、ジィさん、バァさん、三代以前のことはなにもわからないし、必要ない、生きている意味のようなことも必要ない、シャモに盗られてしまったから、知ってもしかたがない、と言う。執拗にその言葉を繰り返す大男は、「私」が帰ろうとした途端、「シャモのユーカラは気味が悪いですね」とちからをこめた言い方でむしかえす。「バンザイ」と両手を揃ってあげる様や、「大勢で手を叩く音」が無気味で、「ユーカラは、言葉に現せない歴史」だから「歌になる」のだ、と言う。また、シャモは死んだ人を持ち歩くし、そのときにユーカラを歌う。それは「死の約束を諦めさせる呪文で、死の歴史を意味づけるための歌」だと言うのだ。それは経文だ、経文は唱えると言って、歌うとはいわない、と言う「私」に、「あれは歌を歌うのと同じです」、と大男は譲らない。

 つづけて、葬儀の儀礼と経文を唱えることを怖ろしい、と言う大男に不快感を覚えはじめた「私」に気づいて、大男は「道まで案内しましょう」と立ち上がって歩きだした。もとの道に出てから、あふン荘に戻るまで、何度も道に迷ってしまった「私」はあふン荘の裏の顔見知りの「とりや」に立ち寄る。「純粋のアイヌ人」だという「とりやさん」では、子供二人と奥さんがライスカレーを食べていて、客が二人いた。「とりやさん」は大男のことを「アイツ」と呼び、彼はアイヌではなく、アイヌより先住の人たちで、「アイツは我々のことも、日本人のこともシャモと言うよ」と言う。アイヌの先祖と大男の先祖は今でも仇敵のようで、お互いに「糞へび」とか「ナメクジの子」とか呼び合っている。もともと「シャモ」とはあの大男の先住者たちの発音で「シーシーモー」あるいは「シーシーマー」すなわちマムシのことだそうで、マムシの発音の中には「糞へび」の意味が含まれているとも言うのだ。

 三年前は、大男が葬儀の儀礼を気持ち悪いと言ったことで不快になり、別れてしまったが、「私」はもういちど大男に逢って、人が死んだらどうするか聞かなければならないのだった。あふン荘に泊まった「私」は大男とタンポポの広場を探して歩きまわった。二日たっても逢えないので、諦めようときめた「私」は宿で「とりやさん」の声を聞いて、後を追ってとりやに行った。とりやさんも「私」を覚えていて、大男は「別荘」「涼しいところ」に行っていると言う。「アイツの女はロシア女だよ」とか「アイツの親も、涼しいところに住んでいた」と言われた「私」は大男に逢うことを諦める。

 翌日、観光取扱所で、札幌に行くために「どれに乗っても行った先で乗り換えられる」と言われた「私」は、稚内網走方面に行く「七十人も乗れるバス」に「二人分の席に腰掛けて」乗り込む。翌朝になると、バスは海岸線を走っている。海が見えた途端、「私」は「涼しいところ」を思っていた。疲れて眠りながら、「私」は大男の歩いている姿を見、彼の死について思うのだ。象の墓場、死骸を見せないという猫の死、あの大男やその親たちの死の場所を思っている。岩角から現れた大男が、すこしずつ海へ入って、沈んでいるのが「私」に見えてくるのだ。  

 あらすじの紹介で随分長くなってしまいました。1980年前後の深沢の作品はサリンジャーを読むのと同じような作業を強いられます。日本語で書かれてるので、辞書を引く必要はありませんが、奇妙にねじれた、不思議な構造の日本語です。「楢山節考」や「笛吹川」には決して使われない文体です。今まで不注意に読みとばしていたこの時期の作品をもう一度読み直す必要を強く感じています。本人は「楢山節考」と「笛吹川」だけでいい、と言っていたそうですが、したたかに、執拗に、最後まで抵抗をつづけたこの作家の記号をしっかりと解読したいと思っています。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月16日月曜日

「対エスキモー戦争前夜」___「善きサマリア人」は誰か・その2

 「善きサマリア人」はやはりジニー・マノックスであるというのが現時点での私の結論である。細かい点については、まだ解決できない謎がたくさんあるのだが、大筋のところではほぼ輪郭が見えてきたように思う。

 本題に入る前に Just Before the War With the Eskimos という題名の意味をもう一度考えてみたい。Just Before という英語は「前夜」という日本語よりもっと切迫した語感を持つように思われる。まさに「直前」なのである。the War With the Esukimos の「直前」。それでは the Eskimos とは何か?the War With the Eskimos とは?

題名の「対エスキモー戦争前夜」は、作中セリーヌの兄フランクリンが「こんだエスキモーと戦争するんだ。知ってるか、あんた」とジニーにたずねることに由来するのだろう。「耳の穴をかっぽじって聞いとくれ」というのだから、よほど大事なことだ、とセリーヌの兄は考えているのだ。彼は何故会ったばかりのジニーにそんな話をしたのだろうか。

 その理由は二つある。一つはジニーも彼と同じように「指を切った」という経験を共有していることで、もう一つは、かつてジニーの姉ジョーンに彼が求愛した過去があるからである。「ブリ屋仲間の女王様」とセリーヌの兄が呼ぶジョーンに、「42年のクリスマス・パーティ」で出会った彼は「八遍も手紙を書いた」。だが返事は一度も来なかったのだ。

 そしてジニーも彼と言葉を交わしているうちに、彼の「指の傷」について積極的にかかわっていく。「マーキュロは効くかな?」と聞く彼に「ヨーチンでなきゃだめよ」と答え、「猛烈にしみるんじゃないか?」と言われても「でも死にやしませんからね」と駄目を押す。なかば無意識に怪我していないほうの手で傷に触ろうとしたセリーヌの兄は、ジニーの「触っちゃだめ」という言葉を聞いて、何故か非常な衝撃を受け、「夢でも見てるような表情」を浮かべるのである。

 だが、ジニーがセリーヌに払わせようとしていたタクシー代を放棄して、「あたし、遊びに来るかもしれない」と彼女に告げたのは、さらにもう一つ決定的な動機が芽生えたからだと思われる。それは、セリーヌの兄と入れ替わりに部屋に入ってきたエリックとの会話の中で示された「ぼくのアパートに同居していた・・・作家だか何だか知らない」奴の「善きサマリア人」のエピソードだろう。「餓死寸前」の作家に「善きサマリア人を地で行ったようなもん」の世話をやいてやった挙句が、「手の届く限りの物をそっくり持ち出して」「朝の五時か六時にぷいっと出て行っちまった」という結末を迎えたのである。この一連の顛末を聞いたジニーは、セリーヌが再び部屋に入ってくると、彼女がドレスを着替えていることを見咎めることもせずに、もうタクシー代は要らないと言い、セリーヌの兄に近づきたいという態度をとり始めるのだ。ジニーはフランクリンの「善きサマリア人」となる宣言をしたのである。

 ようやく五合目まで登ったという実感です。頂上制覇はまだまだ先のことのようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月9日月曜日

「コネチカットのひょこひょこおじさん」___語られているのは過去である

七転八倒しながらサリンジャーの原文をよんでいる段階です。過去に書いたものを徹底的に書き直すつもりですが、とりあえず、ある程度の見通しがついたものから少しずつ書いてみたいと思います。

 以前「コネチカットのひょこひょこおじさん」について、「語られているのは過去か」と書いた。疑問符、というより付加疑問のような内容だった。訪問者のメアリ・ジェーンズの側に立って、解釈を試みたのだった。だが、いま、「ライ麦畑でつかまえて」という「手」を借りてclappingを試みて、その結果、「語られているのは過去である」という、私なりの結論に達した。ただし、主人公エロイーズのかつての恋人ウオルトとの美しい追憶の過去ではない。

 前回私は、自分から訪問を申し出たメアリ・ジェーンズが、何故遅れてきたのか、しかも様子がおかしいのか、と疑問を呈した。今回は、そのメアリが会いたがっていたラモーナというエロイーズの娘について考えてみたい。ラモーナは作中「きれいなドレスを着ている」「小さな子供の声__a small child's voice」という表現がされているが、その他年齢とか髪の毛の色など何も描写されていない。強度の近眼で眼鏡をかけていて、オーヴァーシューズを履いたままで屋内に入るのを度々注意されている。「ジミー」という名の「架空の恋人」をもっている。ラモーナとは何か。そして、メアリ・ジェーンズは何故ラモーナに根掘り葉掘りいろいろなことを聞きたがったのだろう。

 この小説は、二人のさりげない昔話の中に、具体的に情景を思い浮かべようとすると、はっきりとした像を結べない場面がいくつもある。「シカゴで買った黒いブラジャー」をした大学の女友達が部屋に飛び込んできたという場面や、列車の中でエロイーズとウオルトの二人がコートを頭からかぶっていたときの一連の描写は、どんなことがあって、何が「おかしかった」のかよくわからない。不思議である。

 謎を解く鍵は、最後にエロイーズがラモーナの眼鏡を裏返しにする場面にあると思われる。暗闇の中、エロイーズはラモーナの部屋のナイト・テーブルに突進して彼女の眼鏡を手にとって、頬に押し当て「かわいそうなひょこひょこおじさん」と泣きながら繰り返しつぶやいて、「レンズを下にして」戻すのである。すべての謎がそれで解けるわけではないのだが。というよりわからないことだらけなのだが、おおまかな方向性はつかめると思う。

 この小説の中で、エロイーズが語るのは過去だが、サリンジャーーが語るのも過去である。語られているのは、小説的現在であり、また過去なのだ。

 七転八倒中の、とりあえずの経過報告です。前回書いたものを大幅に修正する必要があると考えています。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月4日水曜日

『ライ麦畑でつかまえて』と『悪霊』___ホールデンとスタヴローギン

私はドストエフスキーのよい読者ではない。どころか、何度読んでも、登場人物の名前がなかなか覚えられず、途中で投げ出したくなる。『罪と罰』は比較的単純なストーリーで、わかったような気になったが、どれほどわかったのか怪しいものである。『白痴』は、なんだかわからないが、主人公の「キリスト公爵」と呼ばれるムイシュキンが、キリストどころか、かえって周囲を不幸に陥れる役割を演じてしまうのが、何を意味するのかわからないなりに面白かった。『悪霊』は、「超人スタヴローギン」が、最後になぜ自殺するのか、そもそも「スタヴローギン」とは何か、その謎はいまでもわからない。また、ドストエフスキーが、小説の本筋に関係のない「スタヴローギンの告白」を挿入することにこだわったのも謎である。

 ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。

 イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。

 『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。 

 聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。

 まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。

 毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月28日水曜日

「バナナ魚には理想的な日」四度_____「バナナ魚」とは何か

きわめて根本的な問題提起である。「バナナ魚」とは何か。「サリンジャー」とは何か、という問題提起であり、「サリンジャー現象」とは何か、という問題提起でもある。

私のサリンジャー体験は『フラニーとゾーイ』から始まった。そのことがサリンジャーの作品に対して、かなりバイアスのかかった受容を余儀なくさせてしまったように思う。作品の中で語られる一見宗教的、哲学的な話題を、作品の主題のように受けとめてしまった。だが、繰り返すが、小説は「世態、風俗」をこそ読むべきなのである。「物に即して物を語る」のでなければ、小説を書く意味はないだろう。

 だから、「バナナ魚」は、あくまで「バナナ魚」であって、「あくなき物欲」とか「捨て切れないエゴ」などの抽象的な概念ではない。「バナナを食べる魚」なのである。作品中にそう書かれている。「バナナを食べて、食べ過ぎて穴から出られなくなってしまう」という「悲劇的な運命」をたどる「物」である。シーモアはシビルを連れて海に出て、シビルがそれを見つけたから、ホテルに戻って、自分の部屋で、眠るミュリエルの隣のベッドで「七・六五ミリ口径のオルトギース自動拳銃」を取り出し、「自分の右のこめかみを撃ち抜いた」のだ。

それでは、シビルが見つけた「バナナ魚」という「物」は何の「物」か?これが何か、ををつきとめるのは、実は日本語に訳されたものを読んでいる限り、かなり困難、というか絶望に近いのではないか。日本語の限界なのか、翻訳というものの限界なのか、はたまた翻訳家の問題なのか、私にはわからない。外国語を一対一の対応で日本語に置き換えるという作業は成り立つのだろうか、とさえ思ってしまう。

たとえば、バナナ魚を見つけたシビルにシーモアが接吻する場面、野崎孝さんの訳は、「こら!」とシビルが叫ぶ。シーモアも「そっちこそ、こらだ!」となっている。橋本福夫さんは「いやだわ!」「こっちこそいやだわ、だ!」と訳している。原文は
"Hey!" "Hey,yourself"なのである。私だったら、「やったね!」「そっちこそ、やったよ!」くらいに訳したい。野崎さん、橋本さんは、シーモアがシビルの足に接吻したことに対してのシビルの反応として「いやだわ!」や「こら!」という訳をつけたのだろう。だが、ここは「バナナ魚を見つけた!」という喜びと驚きのニュアンスを大事にしたいところだと思う。

それから、小説の前半、全体の半分以上の分量を占めるミュリエルと母親の会話も、日本語の訳ではたんに通俗的な母親が、繊細な神経をもった青年と結婚した娘を心配している日常的なもののように感じられる。原文でもそうなのだが、それでもどこかニュアンスが違う。そう訳すしかない、とは思うものの、でも、なんとかならないものか、という訳がついている部分が何箇所もある。でも、それは翻訳の問題というより、サリンジャー自身が仕掛けた罠なのだろう。「サリンジャ―」とは何者なのか?

 サリンジャーとは何か、はひとまず置いて、「サリンジャー現象」については、はっきりしている。『ナイン・ストーリーズ』の裏カバーに「九つの『ケッ作』」という表記がされていることに明らかなように、体制に批判的な若者の青春をユーモラスに描いた「アンチ・ヒーロー」の物語であり、純真な子供、ないし子供時代への共感の物語として彼の作品を受け止め、それにたいする讃歌である。だが、ほんとうにそうなのか。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは「やせっぽちで、弱虫で、平和主義者」だと自称しているが、同時に「僕は嘘つきで、いくらだって嘘がつけるんだ」とも言っている。私が見る限り、ホールデンは「アンチ・ヒーロー」どころか、まぎれもないヒーローだ。カッコいい、カッコよ過ぎるヒーローなのである。そして、シーモアもまた、まぎれもないヒーローなのだと思う。戦争で神経を病んだ、繊細な若者ではなく。 

 おそらく、サリンジャーは、文字の表面だけを追いかけていたら、必ず彼の仕掛けた罠に嵌まるように、書いたのだろう。特に「日本語」で訳した場合に。そして日本語になった自分の小説が、どのように読まれるか、ずっと関心をもちつづけていたに違いない。彼の「日本」への理解と関心は、たんなる東洋趣味という範疇のものではないように思われる。

 今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

2012年3月26日月曜日

『ナイン・ストーリーズ』という挑戦____片手の鳴る音はいかに

ただいまさびついた英語力でサリンジャーの作品の原文講読中です。日暮れて、道遠し。いつになったら読み終わるのでしょう。でも、原文を読んでいると、日本語訳ではわからなかったことが、あっさりわかってしまうことが多いので、時間はかかっても、とにかく、手に入るものはすべて、原文で読もうと思っています。いまの段階であまり書くこともないのですが、『ナイン・ストーリーズ』について、すでにだいぶ書いたので、それを補筆、訂正というより、もう一段の読み込みをしなければならない、ということだけを改めて確認しておきたいと思います。

 『ナイン・ストーリーズ』の冒頭は
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音は以下に__禅の公案__」
という文章が掲げられている。これも、念のために原文を(ちょっと煩わしいのだが)確かめてみよう。
We know the sound of two hands clapping.
But what is the sound of one hand clapping?
                      ___A ZEN KOAN

 ほとんど直訳、といってよいかと思うのだけれど、それでもやはり微妙に違うのである。日本語では、「両手の鳴る音」であって、「音」は自然に「鳴る」こともあり得る。だが、サリンジャーはthe sound of two hands clapping と書いている。「二本の手で拍手して」鳴る音、なのである。そして、次にone hand clapping「一本の手で拍手したら」どんな音になるか、と聞いているのだ。いうまでもなく拍手は二本の手でするものだ。一本の手ではできない。それを敢えて聞いているのは、まぎれもなく私たち読者へ挑戦状をつきつけているのだ。『ナイン・ストーリーズ』という「一本の手」で、あなたたちはどんな音を鳴らすのか、と。

 私も一所懸命に「一本の手」で音を鳴らそうとしてきた。だが、音はやはり鳴らなかったのだ。もう「一本の手」がどうしても必要なのだ。もう「一本の手」__『ライ麦畑でつかまえて』という手が。そう、この二冊の本はお互いがお互いを映しあう鏡であり、合わせて音を鳴らす「手」なのである。そして、これらの小説群はどれも、戦車も大砲も登場しないが硝煙のにおいのたちこめる「戦争小説」なのだ。  

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月21日水曜日

「バナナ魚には理想的な日」三度______「鏡の中に見るごとく」___サリンジャーとは何か

もうしばらく書かないと言ったのに、また書いてしまう軽挙妄動の私です。でも、このままだと、ブログを読んでくださっている方たちを、半ばミスリードした状態のような気がします。もう少し書いておきたいと思います。

 「グラース・サーガ」と呼ばれる一連の小説を書くにあたって、サリンジャーが拠り所にしたのは、以前にも書いたようにコリント信徒への手紙一の13章いわゆる「愛の讃歌」だと思われる。その中でも特に11節から12節「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」

 少し長くなったが、サリンジャーの方法論はここにあると思う。「鏡の中に見るごとく」は有名な言葉だが、その意味するところは深い。「シーモア・グラース」の「グラース」はもちろん「鏡」を意味する。私たちは作品を読むとき「シーモアという鏡」の中に事象を見るのである。鏡の中に見る事象はどのように見えるか。

 ところで、平均的な日本人である私は、表題の作品に限らず、サリンジャーの作品すべてを、最初は日本語に訳されたかたちで読む。橋本福夫さんも野崎孝さんもすばらしい訳をつけてくださっているのだが、やはり原文を読まないとどうしても理解できない箇所はいくつかある。だから、私たちは「鏡の中の事象」をさらに「日本語というフィルター」をかけて見ていることになる。せめてそのフィルターだけでもいったん外してみると、「おぼろに映ったもの」はいくらかでも、はっきり見えるようになる。

 それでもきっと私たちは「今は一部しか知らない」のだろう。なんだか聖書の講釈をしているようだが、そうではない。サリンジャーの作品世界の話である。「バナナ魚には理想的な日」に限らず、サリンジャーの小説は三通りの読み方がある。三通りの次元、といったほうがいいのかもしれない。文字で書かれた現実の次元、その下層にある神話的次元(いままでの私の読解はここまでだった)、もっとも深層にある歴史的次元の三つである。私たちがサリンジャーの作品を理解しようと思うなら、目を皿のようにして一字一句見逃さずに文字を追い、そこに神話的次元のメタファーを読み取り、それを媒介にして歴史的次元の事実を見つけ出さなければならない。「もっとグラスを見る」。この小説の中でシビルが最初につぶやく言葉はSee more glassであり、Did you see more glass?なのである。Seymourではなく。

 もう一度コリント信徒への手紙一の13章に戻ろう。続く13節はこうである。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」_____果たして、サリンジャーは愛を語ったのか?

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月20日火曜日

「権力小説としての源氏物語」_____「朧月夜」という存在

「小説」を「読む」と言うことについて考えている。「よむ」の原義は「数を数える」だと聞いたことがある。中国語の「念_nian」英語の「read」の原義は何だろう。いずれにしても、小説は、坪内逍遥が人情に次ぐとした「世態風俗」をこそ「読む」べきなのだろう。

 いつか「権力小説としての源氏物語」を書きたいと思っている。本居宣長という学者が「もののあはれ」という言葉を発明したために、日本の古典文学はかなり偏った受容の歴史がかたちづくられてしまったのではないだろうか。「幽玄」とか「わび、さび」と言う概念もわかったようで、でも、私にはよくわからない。「源氏物語論」などというたいそうなものではなくても、「権力小説」として源氏物語を読み直してみたい、と言う気持ちは以前からあった。サリンジャーを読んでいて、さらにその思いが強くなった。

 といっても、源氏物語の作品中の系図をすべて覚えるだけでも大変で、まとまった論を展開するにはまだかなりの時間を要するので、ここでは、「朧月夜」という女性について少し書いてみたい。朧月夜は、源氏物語に登場する女性たちの中では、なぜか取り上げられることが少ないような気がする。だが、この女性こそ、光源氏の運命を左右する役割を担った存在なのである。

 源氏二十歳、桜の宴が果てて、断ち切れぬ藤壺への思いをしのびながら宮中を歩いていた源氏は、よせばいいのに(原文「なほ、あらじに」)自分の義父のライバルである右大臣家の弘徽殿女御の細殿に立ち寄る。奥の戸が開いていて、「朧月夜に似る物ぞなき」と口ずさむ声がして、若い女が歩いてくる。源氏は強引にその女の袖をとらえて、契りをかわしてしまう。女も「この君なりけり」と源氏であることに気づき、かたくは拒めなかった。だが、彼女は弘徽殿女御の妹の六の君で、尚侍として入内することになっていたのである。

 やがて、このことは弘徽殿女御の知るところとなり、源氏は父の桐壺帝が死ぬと、明石に流されることになる。源氏の配流は、深層では藤壺女御との密通の罪によるものだが、物語の表面では、また現実にも、朧月夜との密会が原因である。そして、その明石の地で、源氏は明石の上と出会い、明石の上に生ませた子を入内させ、栄耀栄華の人生を展開していくのだ。

 朧月夜との交情は、彼女がつかえた朱雀帝の譲位後、復活する。文のやり取りなどしているうちに、源氏はまたしても強引に朧月夜のもとにしのびこんでしまう。嘆きながらも源氏を拒みきれない朧月夜に、源氏は「さればよ。なほ、け近さは」となかば軽蔑しながらも愛を交わすのだ。

 ところで、「昔、藤の宴し給ひし、この頃のことなりけんかし」___源氏と朧月夜の最初の密会は「二月の廿日あまり、南殿の桜の宴せさせ給ふ」とあるのに、ここで「藤の宴」となっているのはどういうことなのか?この後も「この藤よ。いかに染めけん色にか」「沈みしも忘れぬ物を懲りずまに身も投げつべき宿の『藤』波」と藤にこだわるのは、藤壺女御のイメージを朧月夜に重ねているのだろうか?

 ところが、源氏が「かの御心弱さも、すこし軽く思ひなされ給ひけり」とあなどっていた朧月夜は、さっさと出家してしまう。「おぼし捨てつとも、さりがたき御回向の中には、まづこそは」と未練がましい源氏に、朧月夜は「回向には、あまねき方にても、いかがは」とにべもない。源氏はといえば、あろうことか、朧月夜の文を紫の上に見せて「いといたくこそ、はづかしめられけれ」と愚痴をいうのである。

 源氏の運命が暗転していくのが明らかになるのはここからである。朱雀院と藤壺女御の間にできた女三の宮を源氏が正妻に迎え入れてから、源氏の周辺はさざなみが立ち始めるのだが、朧月夜を初めとして、源氏周辺の女性が次々に出家してしまう。源氏がどうしても出家を許さなかった紫の上は衰弱して死んでしまう。正妻として迎え入れた女三の宮は、源氏のライバル右大臣家の御曹司柏木と不倫を犯してしまう。源氏は紫の上を犠牲にしてまで正妻にした女三の宮を出家させざるを得ないばかりか、彼女が生んだ薫君を自分の子として育てなければならない。かつて父桐壺帝が源氏の子と知りながら、冷泉帝を育てたように。

 源氏の運命の節目に登場して、その方向を変える朧月夜は、軽はずみなところもあるが感性豊かで魅力的な女性として描かれている(ように私には思われる)。軽率にみえた身の処し方も、最後はみごとにけじめをつける。源氏物語の中で、私が一番好きな女性だ。だが、ここで私は源氏物語の女性像を評するつもりはない。その女性が源氏物語の中でどのような役割を持つか、についてささやかな考察を試みたのだが、ほんの試論にもなっていない段階である。

 今日も未整理な文章に最後までつきあってくださってありがとうございます。

2012年3月19日月曜日

「みちのくの人形たち」___再び深沢七郎ヘ

サリンジャーを読んでいたら、もう一度深沢七郎を読みたくなった。もともと深沢を読んでいて、サリンジャーに行ったのだが、また戻ってきた。でも、またライ麦畑に戻る予定だけれど。

 以前「みちのくの人形たち」を読んだときは、「楢山節考」「笛吹川」を書いた作家が、なんでこういう小説を書いたのだろう、と納得できなかった。こういう境地に住むならば、小説など書かなくてもいいではないか、と歯がゆい思いだった。いま思うと、浅薄の極みなのだが。

 「そのヒトが私の家に来たのは、日曜日のしずかな午後だった。」とこの小説は始まる。東北から出稼ぎにきているらしいそのヒトは、「もじずり」という山草を「私」の家にもってきて植えたいので土を見に来た、という。結局、「私」の家の土には合わないということだったが、翌年、「私」はそのヒトの誘いに応じて、もじずりを見にそのヒトを訪ねる。

 東北ハイウェイを降りてから、そのヒトの家まで車でたどりつくのは大変だった。土地の言葉がよく聞き取れないので道がわかりにくいのだ。それでも、やっとたどりつくと、まだ若いのに、そのヒトは土地の人から「ダンナ様」と呼ばれていた。「松の木の下枝が傘のようになった根元にあった」もじずりを見せてもらった。ねじれた花茎に小さい蕾が下から咲き始めているその花は、「しのぶもじずり誰ゆえに、乱れそめにし我ならなくに」と歌った「河原左大臣」のように「珍しいばかりでなく高貴な美しさなのだ」と形容される。

 「私」は、そこまで連れてきてくれた知人の息子と別れて、そのヒトの家に泊まることにした。そのヒトは、「私」のこともなぜか「ダンナさま」と呼ぶ。その晩「ダンナさま」と呼ばれるそのヒトの家に青年が屏風を借りにきた。お産に使うという。翌朝、体が弱い老人の「私」はトロッコを用意してもらってその青年の家に行ってみると、そこには線香の匂いがする。生まれてきた子は生かされなかったのだ。そして夕べ青年が借りて行った屏風は逆さになっていた。

「ダンナさま」と呼ばれるそのヒトの家は代々産婆だった。昔は子供が多く生まれたので、どこの家でも間引きをした。そのヒトの家には、間引きの罪を重ねた両腕を切り取ったという先祖の女の人の像が、仏像のように仏壇の奥にまつられてあった。

トロッコに乗せてもらってダンナさまに送られた「私」は、その後土地の人の軽トラを乗り継いで、バスの停まる町に出た。町の土産物売り場をのぞいていた「私」は、そこにある人形が、昨日ダンナさまの家に帰省してきた男女の子たちと同じであることに気がつく。「その表情はなんと霊的なのだろう。あの二人の中学生も、この人形も両腕のないご先祖さまと形も、顔も同じなのだ」

土産物売り場のほうを眺める気力もなくなった「私」はバスに乗って、居眠りをしてしまう。気がついて、前の座席に移動して、「もしや」と思って後ろをふりむくと、乗客の顔が「きちんと並んでいる。突然、私は乗客の頭や顔が、あの土産物売り場の人形に変わった」。「私」は浄瑠璃の「いろは送り」の語りが浮かび、「太棹三味線の音が聞こえて、バスの外の風景はあの屏風の絵の山や森になって人形たちは並んでいる」

 あらすじの紹介が、またしても長くなってしまった。深沢は1980年代前後にたくさん作品を発表している。そのどれもが一筋縄ではいかないもののように思われる。「楢山節考」や「笛吹川」のように本格的な戦争小説__反戦小説と言ってもいいと思うのだが__と読めるものは「風流無譚」の悲劇の後、まったくといっていいほど書かれなくなってしまったので、深沢は「性」と「無常」の世界に逃避してしまったのか、と私は思っていた。だが、この小説の中に、私たちが覗くのは、そんな抽象的もしくは宗教的な「世界の深淵」といったものではない。もっと具体的で現実的な過去から現在への時間そのものである。作中「そのヒト」が「ダンナさま」に変わり、「私」も「ダンナさま」と呼ばれるようになるように、そして花茎をねじらせながら下から咲き続けるもじずりのように、連綿と続く時間そのものを、私たちは見なければいけないのだろう。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月18日日曜日

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」再び___徹底的な読み直し宣言

昨日書いたように、『ナイン・ストーリーズ』と『ライ麦畑で捕まえて』は極めて密接な関係がある。一口に言ってしまえば、これらの作品はサリンジャーみずからがいうように「戦争小説」なのだ。その中で、私は「ド・ドーミエースミスの青の時代」について、完全にサリンジャーの罠に嵌まってしまっていた、と言わざるを得ない。サリンジャーがストレートな作品なんか書くはずがない。「文学は心理学でも精神分析学でも、社会学でもない」なんて、偉そうに啖呵を切っておきながら、自分はこの作品を説教小説のように読んでいたのだ。

 具体的にどう読み直すかは、その読み直した結果を、このブログで書くことができれば、そうしたいと思う。このブログを読んでくださっている方々をミスリードしてしまったのではないかと危惧している。それも、もしかしたら、サリンジャーの意図したところかもしれないが。彼は読者にいつも挑戦状をつきつけているのだ。ひとつひとつが「勝負!」なのである。

 もうひとつ、ことわっておきたいのは「対エスキモー戦争の前夜」の「フランクリン」という名前について、前回ブログに書いたときに、あえて触れなかったが、探検家の「フランクリン」以外に、当時もっと人々の意識にのぼりやすかったのは「フランクリン・ルーズベルト」である。だからあの小説は、「美女と野獣」と「北西航路探検」と「戦争」の話なのだ。「愛らしい口もと、わが眼は緑」についても、「戦争小説」として読み直さなければならない。そして、私が書かなかった「小舟のほとりで」もこのように読まなければならない。「小舟のほとりで」は、正直どう読めばいいのかわからなかった。もしかしたら、この小説が一番難しいのかもしれない。
 
 「サリンジャーについてもう何も書きたくない」なんて書いて、またすぐ書いてしまった。過ちは訂正せねば、というより私はすぐ気が変わるのです。よろしければ、これからもおつきあいください。「勝負!」と挑戦状をつきつけられたら、やっぱり勝ちたいですものね。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月17日土曜日

「ライ麦畑でつかまえて」___サリンジャーについてもう何も書きたくない

竹内康浩先生の「ライ麦畑についてもう何も言いたくない」のもじりではない。竹内先生の本は大変興味深く読んだ。先生とは「1946年7月18日」の日付にかんしては、ニアミスくらいに意見の接近があったのだが、でもとても遠く離れてしまった。サリンジャーについて、言いたいことはたくさんあるような気がするが、それは書かないで「読書の楽しみ」として私のなかであたためておこうと思っている。少なくともいまは。

 ただ、何も書かなくなる前に、もう一度「サリンジャー現象」について考えてみたい。前回私は、文学をあのようなかたちで「消費」してしまっていいのだろうか、と疑問を呈した。文学を受容するとき、どのようなしかたが一番「正しい」のか、ということである。それは人それぞれだろう、という答えがすぐに聞こえてくるような気がする。だが、ほんとうにそうなのか。つきつめれば、「文学とは何か」という根源的な問いになる。

 坪内逍遥が「小説の主脳は人情にあり。世態風俗これに次ぐ」と、意識的にミスリードして以来、この国の近代文学の受容は、ずいぶん偏ったありかたになってしまったのではないか。文学は心理学や精神分析学ではない。いうまでもなくオカルトでもない。もちろん社会学でもないけれど、つねに、それが生み出された時代__「時」との緊張関係においてとらえられるべきだ。私自身はまったく社交的な人間ではなく、ひとりでいることが大好きだが、それでも地球上で決して一人では生存できない「ヒト」が「人間」であるために、「ひと」は必ず「社会」の一員として生きなければならない。どのように生きたか、あるいは生きるための葛藤があったか、を書かずにいられないのが文学者だろう。人間が社会的存在でないならば、文学も言葉も何の必要もない。 

 revealと言う言葉がある。隠されていたことがあきらかになる、あきらかにする、と言う意味で、自動詞にも他動詞にも使う。自然にあきらかになれば「啓示」であろうし、努力してあきらかにすれば「啓蒙」であろう。「暴露」という意味もあるが。あきらかにしようとしてあきらかになる、ということが必ずしもhappyとは限らない。無明の闇に沈んだままがよかった、ということもある。ホールデンが西部の町で、唖でつんぼのまねをして森のはずれに小屋を建て住みたいと願ったように、時間も空間も区別のない無明の闇の平和を願う自分が、私のどこかに存在するのではないかと思ったりもする。

 最後に、それでも、やはり、このブログを読んでくださっている方たちに、二つだけ一緒に考えていただきたいと思う。「赤いハンチング」とは何か。「セントラルパークの池の家鴨(と魚)」とは何か。それから、『ナイン・ストーリーズ』の諸作品について、とくに「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」については、もっと考えなくてはいけないことがあるのに気づいた。『ライ麦畑でつかまえて」』と『ナイン・ストーリーズ』は相互補完的な関係にあると思う。サリンジャーの表現はつねに両義的なのだ。

 でも、また書きたくなるかもしれません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月15日木曜日

「ライ麦畑でつかまえて」___戦争の影

前回ペンシー・プレップの創立を「一八八八年」と書いた。野崎孝さんの訳ではそうなっているのだが、講談社英語文庫版では「一八八六年」となっている。おそらくこちらが正しいと思う。サリンジャーが年号や固有名詞を使うときは必ず意味がある。一八八六年はアメリカ独立宣言から百年後で、自由の女神が完成した年であり、アパッチ族が最終的に降伏した年でもある。「イカシタ子がさ、馬に乗ってからに、障害を跳び越えてる写真なんか出しちゃって」る広告を「千ばかしの雑誌に」出している「ペンシー」は、この年に創立されたのだ。

 ホールデンの回想はペンシーが「サクソン・ホール」という高校とフットボールの試合をやった土曜日から始まる。この試合をホールデンは「トムソン・ヒル」の「独立戦争なんかに使ったイカレタ大砲のそばに立って」見ていた。。「サクソン・ホールとの対抗試合はね、ペンシーじゃ重大事件ということになって」いるので、「もしもペンシーが負けたら首でもくくらなきゃならないみたい」なのだ。たんなるフットボールの対抗戦というよりもっと重い響きがあるような書き方である。

 だが、ホールデンはこの試合を「競技場へ降りていかないで」「トムソン・ヒルのてっぺんなんかに突っ立って」見ていた。ゲームに参加することはおろか、観客にすらならないで傍観していたのである。そもそも、自分がフェンシングのチームのマネージャをしていたにもかかわらず、対抗試合に出かける途中の地下鉄の中に用具一式を忘れてしまったので、試合が中止になっったという経緯がある。自分が闘うのが苦手なだけでなく、他人を闘わせることもできないのだ。当然のこととして、帰りの列車の中で村八分にされる。ホールデンは、「ペンシー」という共同体からも、自分がマネージャをしていたフェンシング・チームという共同体からも疎外されるのだ。

ホールデンの回想は、 戦闘行為を想起させるフットボールの試合の場面から始まったが、小説の後半18章では、直接戦争について述べられる。18章では、ホールデンは誰とも会わず、ラジオ・シティの映画館で、クリスマスのステージ・ショーを見た後、戦争中記憶を失った男の映画を見る。それから、戦争について考え始めるのだが、彼は戦地で死ぬことより、「軍隊」に入って生活することが耐えられない、と思う。特に「前の奴の首筋を見て歩く」行軍がいやで、いっそ射撃部隊の前に立たせてもらったほうがいいと言うのだ。そしてこの章の最後では、原子爆弾が発明されてうれしい、と言い、今度戦争があったら、「原子爆弾のてっぺんに乗っかってやる」と「誓ってもいいや」と言うのだ。

 「原子爆弾のてっぺんに乗っかって」という言葉は強烈で、しかも複雑である。ホールデンの弟アリーが「白血病」で死んだのは一九四六年七月十八日と明記されているが、この2日前アメリカは「クロスロード作戦」と呼ばれるビキニでの原爆実験を行っている。そしてアリーが死ぬと、ホールデンが(なぜか)ガレージで寝て、「拳で窓をみんなぶっこわしてやった」とある。「拳で窓をみんなぶっこわす」「原子爆弾のてっぺんに乗っか」るという行為は、たんに自己破壊を意味するだけのものだろうか。とくに後者は、いうまでもなくハルマゲドンを想起させるものだが、同時に「雲の上に乗ったイエス」____イエスの再臨__のイメージをも喚起するのではないか。

 そう考えると、ホールデンがニューヨークで買った「赤いハンチング」とは何か。これは「フェンシングの剣やなんかをみんな失くしちまったことに気がついたすぐ後」買ったものだ。「フェンシングの剣やなんかをみんな失くしちま」う____これは「武器よさらば」ではないか。第18章でホールデンは「武器よさらば」のことを「あんなインチキ本」と言っているが、それでもD・Bに「読ませられた」とある。しかしホールデンは、フェンシングの剣は失くしたが、それに代わる「人間を射つ」もの(これは武器だろう)としてハンチングをかぶるのだ、とアクリーに説明している。小説の最後のほうで、ホールデンがフィービーに赤いハンチングを投げつけられ「死にそうになった」と言う場面があるが、「死にそう」はたんなる比喩だろうか。

 ホールデンが「死にそう」になるのは、この他二か所あって、いずれも「首の骨を折りそう」になる場面だ。それについても考えてみたいのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月13日火曜日

「ライ麦畑でつかまえて」____死への誘惑

いまさらあらすじを書く必要もないと思われるくらい有名な小説である。こんな難しい作品がどうしてそんなに読まれたのか、というより流行ったのか不思議なのだけれど。過去何回か起きた「ライ麦畑でつかまえて」現象というものを振り返ると、文学作品の受容ということについて考えざるを得ない。文学はあのようなかたちで「消費」されていいのだろうか。これはサリンジャーの問題ではなく、私たちの問題なのだが。

 「母に捧ぐ」と冒頭に掲げられたこの小説は「去年のクリスマスの頃にへばっちゃって」「西部の町なんかに来て静養」中だという「僕」が「兄貴のD・Bに話したことの焼き直し」を話し始めるという書き出しで始まる。主人公の「僕」十六歳のホールデンは「一八八八年の創立以来、常に頭脳明晰にして優秀なる青年を養成してきた」ペンシーというプレップスクールを退学になる。クリスマス休暇を目前に寮を脱け出した「僕」は、ニューヨークのあちこちを遍歴し、最後に自宅にしのび込み、妹のフィービーに会う。妹にお金を借りて、いったんはかつての高校の教師のもとで夜を明かそうとするが、そこにも居られず、結局は家に戻ることになる。

 例によってサリンジャーはさまざまな「罠」を仕掛けているので、あらすじを紹介してもあまり意味がないかもしれない。余談だが、この小説を読んでいて、『ナイン・ストーリーズ』の中の「エズミに捧ぐ」の謎が一つ解けたような気がする。あるいは、謎が一つ増えた、といおうか。それはともかく、というかそれと関連して、というか、この小説の隠されたプロットの一つで、たぶん一番大きなものは「子殺し」_死への誘惑だろう。サリンジャーは、主人公のホールデンが「パパに殺される!」とフィービーに何度も言わせている。ホールデン自身同部屋のストラドレーターに殴られて血まみれの姿で寮を脱け出すのだが、その寮はストラドレーターに「ここはまるで死体置場みたいじゃないか」と言われる場所である。葬儀屋をしている卒業生が多額の寄付をして建設され、その名がついた棟なのだ。そしてストラドレーターの吹く口笛は『十番街の虐殺』である。小説の最後の部分、精神に異常をきたし始めたホールデンが行きずりの子どもを案内していった先が博物館のミイラのある場所だった。「そこはなにしろ落ちついて静かで、気持ちがよかった」のだ。

 雪が降って、白一色の「死体置場」から、血まみれの主人公は赤いハンチングをかぶって脱出する。隣の部屋のアクリーに「おれの郷里のほうじゃな、そんな帽子は鹿射ちにかぶるんだぜ」といわれて「こいつは人間射ちの帽子さ」と答えた赤いハンチングは何の象徴だろうか。いったんはフィービーに渡したその赤いハンチングをかぶって、降りだした雨にずぶ濡れになりながら、「僕」はフィービーが回転木馬に乗ってぐるぐる回りつづけるのを見て、「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになる。「ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、まわり続けてる姿が、無性にきれいに見えた」____はたして死は克服できたのだろうか。  

 主人公ホールデンの象徴性に満ちた個々の遍歴のエピソードおよびフィービーの存在と役割についてはまた触れるとして、最後に、これは「誰に向けて語られたのか」という問題を提起したい。小説の最後の部分で「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とある。「大勢の人」とは誰なのか。何のために「大勢の人」に話したのか。「誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」というラストの言葉は、語られた事柄がはるか昔の別世界の出来事のように響いてくるのだが。  

 これもまた未整理のnoteです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月7日水曜日

「テディ」その2___テディとは何か

この小説のストーリーは単純である。十歳の天才少年テディが海を渡って、イギリスの大学でインタビューを受け、家族とともにアメリカに戻る途中の船の中で、妹に水の入っていないプールに突き落とされて死ぬ(たぶん)。そして、テディはそのことを予見していた、という。一見単純なストーリーだが、実はいくつものプロットが複雑に絡み合っていて、さりげない描写の暗示する深層の事柄を読み解くのは、まさにトランプの神経衰弱のような作業が必要だ。いまの段階では、まだ全部のカードがぴったり揃えられたとはとても言えないのだが。

 物語はテディがグラッドストーンの旅行鞄の上に乗って、舷窓から身を乗り出して外を見ているところから始まる。朝もう早くない時間だというのに、両親はなぜかほとんど裸でベッドの中だ。テディの風体は異様だ。素足に汚れたバスケット・シューズ、大きすぎる半ズボン、肩のところに穴のあいたTシャツ、黒い鰐皮のベルトだけが立派だった。髪の毛がひどくのびて「特に首すじのところなど、すぐにも鋏を入れたいくらい」。だが、「淡い鳶色の目で心もち藪睨み」ではあるが「これこそほんとうに美しい顔」で、「句切りながら言う一つ一つの言いまわしが、何というか、小型にしたウィスキーの海にすっぽりと浸された小さな古代の島といった感じ」と形容される。テディの言葉にはまったく関心がなさそうな両親だが、母親は、十時半に水泳の練習があるので、遊びに出ている妹のブーパーを探して連れてくるようにと言い、父親もテディがブーパーに持たせたカメラを すぐさま返すように命じる。

  船室を出たテディは、「白い糊のきいた制服を着た金髪の大柄な女」に左手で頭の天辺を撫でられたり、美貌の海軍少尉に言葉遊びのゲームの始まる時間を聞いたりしながら、聖ジョージが竜を退治している壁画の描かれた階段を上がって、妹を運動用甲板で見つける。そこは「日当たりのよい開墾地というか、まるで森の中の空き地」のような場所で、妹はそこでマイロンという男の子を傍らに、赤と黒のデッキ・ゴルフの円盤を積み上げていた。そして「あたしがいるのは二人の巨人だけ」で「二人であきるまで双六をやって、あきたらあそこの煙突に登って、みんなにこいつをぶつけて、みんな殺してしまうんだ」と「物知り顔に言」うのである。

 「兄さんなんか大嫌い!この海にいる人はみんな嫌い」とブーパーに悪態をつかれながら、何とか彼女の首にカメラを吊るし、船室に戻るよう言い含めたテディは、運動用甲板の下の日光浴甲板のデッキ・チェアに座って、手帳を取り出し、昨日自分で書いた文を注意深く読み直すと、今度はあらたに書き始める。日付は一九五二年十月二十七日、二十八日である。その様子を上の運動用甲板から見ていた青年が、下に降りてきて、テディに話しかける。「腿のところが並外れて太く」長い肢をもったニコルソンと名のるその青年は、テディが手帳に書きこんでいる様子を「まさに若きトロイの戦士のように颯爽と書きまくっていた」と「物語でも語って聞かせるように言いだした」。そして、テディとニコルソンはさまざまな問答をする。

 存在と認識についてニコルソンと問答するうち、テディはあり得る話として、この後自分が妹に水の入っていないプールに突き落とされるかもしれない、と言う。そして、それは悲劇的なことではない、夢の中で悲しいことがあっても、目が覚めれば、大丈夫であるのと同じことだと言う。そう言って、テディはニコルソンと別れた。その一分半後にプールから幼い女の子の遠くまで鋭く響く悲鳴が聞こえた。

 あらすじの紹介にずいぶん字数を費やしてしまったので、隠されたプロットについては、私が見つけられたものをいくつか挙げておこうと思う。もっとも深層にあるのは、「聖ジョージの竜退治」のプロットであろう。ただし、「聖ジョージ」と「竜」は実は同じ象徴で表わされる。また、明らかにそれとわかる記述で語られているのは、巨人伝説および巨岩伝説である。それと関連してトロイの戦士の伝承も切り離せない。作中テディの言葉として、ヴェーダンタの輪廻について説かれるが、これは比喩ではなく直接真理として呈示される。輪廻の「輪」がこの小説のキーワードだと思われる。テディとは何か、いう問いの答えは、輪廻の「輪」であり、それを具象化する生物なのだ、とひとまず仮定してもそれほど的を外れてはいないように思う。

 ナイン・ストーリーズの中で、この作品が一番難関でした。最後の結末をどう読むかによって、作品の解釈が正反対になってしまうからです。サリンジャーはここでもルール違反ぎりぎりの手法をとっている、と思えてしかたがないのです。はたしてテディは、みずから予見した死を従容とうけいれたのでしょうか。 

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2012年3月6日火曜日

「テディ」その1___テディは超能力者か

これも難解な小説である。だが、超常現象をあつかった作品ではない。例によって、いくつもの隠されたプロットを組み合わせて、読む者が神経衰弱になりそうな細工をこらしている。そのプロットとは何かを考える前に、テディという少年が、はたして超常能力をもつ人間として描かれているのか、ということを考えてみたい。

 小説の後半で、ニコルソンという青年の問いかけに答えて、テディは自分の前世を語る。自分は霊的にかなり進んだ人間だったが、一人の女性とめぐり会い、瞑想をやめた。その女性とめぐり会ったことで、もう一度この世に戻り、アメリカ人の肉体に生まれ変わることになった、と言う。前世についての意識、感覚というものは、テディに限らず、誰でも子どものころにもっていたのではないだろうか。私自身も小学校にあがる頃まで、しきりに自分の前世について考えていた記憶がある。それがどんなものだったか、というよりただ「前世」そのものを意識にのぼらせていたように思う。

 小説の前半で、海に浮かんだオレンジの皮についても、テディが言っていることとまったく同じことを私も考えていた。テディは、自分がオレンジの皮を見なければ、それがそこにあるということを知らない、知らなければ、存在するということさえ言えなくなる、と言う。私は小、中、高校と電車通学をしていたのだが、車窓の景色がどんどん変わっていくのをつり革につかまりながら眺めて、私が見ている景色、というより景色の中に存在するすべてのものは、私が見なくなっても存在するのだろうか、という感覚を覚えることがあった。中学生になってからもその感覚は残っていた。年配の国語の先生が、何かの授業で「あなた方の中で『存在の不思議』について考えたことのある人はいませんか」と聞かれて、もしかしたら、これがその「存在の不思議」とやらではないか、と思ったことがある。なぜか、答えるのが恥ずかしくて、黙って下を向いていたのだけれど。  

 つまり、十歳の少年として、テディは当たり前の能力を失わないでもっていた、ということなのだ。六歳のときに「すべてが神だ」と知って神の毛が逆立った、四歳の時は有限界から脱け出した、と言うのは彼の認識にかんすることで、もしかしたら私たちも子どものころはそういう認識をもち得たのかもしれない。大人になるということは、感覚、意識、認識がどんどん鈍くなっていくということなのだろう。「死んだら身体から跳び出せばいい。それだけのことだよ。誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか」という認識も特別なものではない。深沢七郎も「笛吹川」などで、登場人物の共通認識としてごく普通に書いている。深沢の小説の中では、昨日死んだ子どもが今日は別の家に赤ん坊となって生まれる、と誰もが当たり前に信じている。

 それでは、テディが死を予見できた、ということはどう考えればいいのか。厳密には、「予見」でなくて「予測」だろうが。彼は、最初に両親がいる船室から出ていくときに「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と言っている。両親はそれに気づく気配もない。彼は、サン・デッキで日記を書いている最中に話しかけてきたニコルソンには、直後に起こり得る自らの死について詳しく語っている。だが、ニコルソンもまた起こりうるかもしれない事態そのものには関心がなさそうだ。そして、事態は可能性から現実になった、と思われる。もしかしたら、そうではなかったかもしれないのだが。

 なぜ彼が自分の死を予見できたのか、あるいは死ななければならなかったのか、を考えるには、幾層にも重ねられた隠されたプロットを見つけださなければならないのだろう。はたして、それができるかどうかわからないのだが、もう少し時間をかけてこの小説を詠みこんでみたいと思う。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2012年3月2日金曜日

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」__自意識と救い

これはサリンジャーには珍しくストレートな作品のように思われる。いまは三十を過ぎたと思われる「わたし」が十代の終わりか二十歳そこそこのときに経験した出来事を回想する。語り口は軽妙で、読んでいて思わず笑ってしまう。ただし、あまりにも可笑しくて、その自意識が痛々しくもあるのだけれど。そういえば、いま手元にある新潮文庫の『ナイン・スートーリーズ』のカヴァーの裏に「九つのケッ作からなる自選短編集」とある。なぜ「傑作」でなく「ケッ作」なのか。吉本のバラエティ番組ではないのだ。サリンジャーに失礼であろう。語り口は嗜虐的、というより自虐的だが、これはまともな「傑作」である。

 主人公の「わたし」は、亡くなった母親の再婚相手つまり継父とともに、十年ぶりにフランスからニューヨークに戻ってくる。十年前には感じなかった孤独が「わたし」を襲う。「わたし」には居場所がない。購読していたフランス語の新聞で〈古典巨匠の友〉と言う美術の通信講座の講師募集をみつけた「わたし」は、早速応募する。帰国の船中で「自分が気味が悪いほどエル・グレコに似ていることに注目し続けた」「わたし」は年齢を十歳ちかくも偽り、風刺画で有名な「オノレ・ドーミエ」を大叔父にもつ「ジャン・ド・ドーミエ」と名のって採用される。

 口髭まで生やして精いっぱいめかしこんだ「わたし」は〈古典巨匠の友〉のあるカナダのモントリオールに行く。だが、〈古典巨匠の友〉はモントリオールのちっぽけな三階建てのアパートの二階で、出迎えた校長の〈東京帝室美術院〉前会員のヨショトという男も貧相な小男だった。仕事は郵送されてくる絵の添削指導である。だが、どれもこれも「わたし」のプライドを傷つけ、意気阻喪させるような作品ばかりで、慣れない食事と粗末な部屋の生活に我慢の限界を超えようとしたとき、手にしたのが修道女の絵だった。キリストが埋葬される場面を描いたその絵と、作者の「シスター・アーマ」に興味を覚えた「わたし」は、懇切丁寧な添削に加えて、「小包みたいな手紙を書いた」。

 シスター・アーマとの出会いだけを希望のよすがに、苦痛極まりない仕事に取り組んでいた「わたし」にヨショト氏が修道院の院長からの手紙を渡す。それはシスター・アーマの勉学の許可を取り消すというものだった。打ちのめされた「わたし」はいやいやながら添削指導を受け持っていた他の四人の生徒に「才能がないから絵画きになることは断念するように」とフランス語で書いた手紙を投函する。シスター・アーマにもまた長い手紙を書いて、「タキシードを着こんで」一流のホテルに予約を入れ、外出する。だが、途中で以前「『コニー・アイランド風』特大ホットドックを四本と泥水みたいな色のコーヒーを三杯」食べたスナックで「スープとロールパンとブラックのコーヒー」ですませ、ホテルの予約はキャンセルしてしまう。そして、シスター・アーマへの手紙を書き直すために学校に戻ろうとする。

 語り手が「異常な経験」と呼ぶ奇跡が起こったのは、その途中薄明るい夜九時半ごろだった。学校の建物の一階は整形外科の医療器具を売る店で、昨日は誰もいなかったショー・ウインドウの中に三十がらみの女の人がいて、マネキンの脱腸帯を取り替えているところだった。彼女はガラスの外で覗いている「わたし」に気がついて狼狽し、転んでしまう。だがすぐ立ち上がってまた取り落とした脱腸帯をしめ直す。「経験」が起こったのはそのときである。「突然太陽が現れて、わたしの鼻柱めがけて、秒速九千三百マイルの速度で飛んで来た。わたしは目がくらみ、ひどくおびえて__ウインドウのガラスに片手をついてようやく身体を支えた」

 これはまさしく使徒言行録九章の「パウロの回心」だ。ダマスコへの道でイエスはパウロに現れる。彼以外のひとにイエスの姿は見えないが、「突然、天からの光」が彼の周りを照らし、彼はイエスの言葉を聞く。そしてパウロは起き上がっても目が見えず、三日間何も食しなかった。「わたし」がその異常な「経験」をしたのは数秒のことだった。だが、「わたし」は部屋に戻ると、シスター・アーマへ手紙をだすことはやめ、絵画きを断念するよう言い渡したた四人には復学するように手紙を書いた。「今度の手紙はひとりでに筆が動いてゆくような感じだった」  

 愛していた母は亡くなり、継父とともに半ば異国のようなアメリカに戻ってホテル暮らしの「わたし」は、「おのれの手に触れるものが片端から孤独の結晶に変じるのを発見」する。過剰な自意識と背中合わせの孤独だ。年齢を偽り、道化となって美術講師を演じるものの、疎外感はどうしようもない。「おれは一介の訪問客、琺瑯引きのし瓶や便器の花が咲きほこり、目の見えぬ木製のマネキン人形の神が、値下げの札のついた脱腸帯をしめて立っている花園を訪れた一介の訪問客に過ぎぬではないか」という疎外感がシスター・アーマを偶像にまつりあげたのだ。その「わたし」が救われたのは、「わたし」がなんらかの努力をしたからではない。まったく一方的にそれは起こったのである。それが起こったのはほんの数秒のことだったが、「ふたたび目が見えるようになったとき、ウインドウの中にはすでに女性の姿はなく、後には二重の祝福を受けた世にも美しい琺瑯の花の花園が微かな光を放っていた」 

 「エズミに捧ぐ」の中で「愛する力を持たぬ苦しみが地獄である」と書いたサリンジャーは、この小説の中では「愛する対象をもつことができない」疎外という現実に、道化として立ち向かおうとして空回りする人間を描いた。その道化が、道化の衣装を脱ぎ捨てて、「タキシードを着こんで」正装して世の中に打って出る決意をかためたとき、「異常な経験」は起こった。そして「わたし」はもう一度日常の世界に入っていった。「良かれ悪しかれ、シスター・アーマにはその後二度と連絡しなかった」偶像はもう必要なかったのである。

 未整理な読書感想文以前の文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月28日火曜日

「エズミに捧ぐ」その2___テキストへの信頼性とリアリティ

リアリティとは何か、ということを考えている。私たちが文学作品を読むとき、少なくともそのテキストに書かれていることは、一貫する真実である、という無意識の前提で読んでいる。語りが一人称であれ、三人称であれ、作品の中では「真実」__「事実」ではない__が語られていると信じて最後まで読むのだ。「エズミに捧ぐ」を読んでいて、ある不快ともいうべき違和感をどうしてもぬぐえないのは、その前提が揺らぐからだ。そして、その前提の揺らぎは、サリンジャー自身がそう仕向けたものなのだ。サリンジャーはルール違反ぎりぎりのことをやっている。

 語り手の「私」がこれは回想記ですとことわって始まった小説は、その直後「一九四四年四月」と日時を特定したうえでストーリーを展開する。主人公の「私」は史上最大の上陸作戦といわれた「ノルマンディー作戦」に備えた諜報活動のためにデヴォンシアにいる。この作戦がいかに厳しいものだったかは記録が示す通りである。作戦準備のための演習ですでに七百名以上の死者をだしたともいわれている。訓練の最終日に「私」は激しい雷雨の中「引金を引く指がむずむずするような思いとはおよそ離れた気持ち」で外出する。雷に打たれるのも弾丸に撃たれるのも、どちらも「こちらでどうにかできることではないのだから」という思いで。ここまでは、「この小説」の語り手、そしてサリンジャーが文字に定着させたリアリティーを疑わせるものは何ひとつない。異常を日常として生きる人間の孤独な姿が浮かび上がってくる。

 場面はその後「町の中心部__町の中でもおそらく、ここが一番ひどい雨に見舞われているらしかった」教会の中に移る。そこで子供たちが練習している聖歌の響きに「私」は感動する。中でも、際立った声でみんなをリードしている「少女に「私」は目をとめる。その少女が、弟と家庭教師らしき婦人とともに、一足先に教会を出た「私」が立ち寄った喫茶店に入ってきて、「私」と言葉をかわす。リアリティはこのあたりから微妙にゆらぎだすのだ。

  喫茶店の中での三人の会話にも行動にも不自然なところはない。あどけないがやんちゃなチャールズと、彼をたしなめながら、自分たちの身の上を「私」に語るエズミ、少し緊張しながらも彼女の言葉にこたえる「私」のやり取りが一人称で書かれる。ここで少し違和感を覚えるのは、エズミとチャールズの言葉が直接話法で書かれるのに、「私」の言葉は短い応答の言葉がいくつか直接話法で書かれるが、ほとんどが間接話法で記されていることだ。「私」は用心深く背景に退いて、小さな貴婦人のエズミと小さな暴君のチャールズの姿が鮮明に浮かび上がってくる。キャンベル・タータンの服を着て、雨に濡れた美しい金髪をしきりに気にしながら、大人びた言葉づかいで「私」と会話するエズミと、「「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか」という謎謎を繰り返してエズミと「私」の会話に割り込んでくるチャールズの様子は具体的すぎるくらい具体的に語られる。いま目の前に二人がいるような気分になるほど、生き生きとした描写が続く。

 リアリティがゆらぎだすのは、自己紹介を終えたエズミが、「わたしのために」「愛と汚辱の短編」を書いてほしいと頼むあたりからだ。「十三歳くらい」の少女エズミがなぜ「わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」と言うのか。そしてなぜ「お身体の機能がそっくりそのままでご帰還なさいますように」と、ある種不気味な言葉を別れの挨拶にしたのか。やんちゃなチャールズは帰り際なぜ「片方の肢がもう一方のより数インチも短い人みたいに、ひどいびっこを引きながら歩いてゆく」と描写されるのか。エズミとは何ものなのか?チャールズとは?また、「私」の前歯に真っ黒な詰め物がしてある、という記述が繰り返されるのも異様である。

 小説の後半は「私の口から明らかにすることは許されない理由によって」三人称で記述される。だが、語り手は「私」で「私」が三人称で書いている、と読者は無意識のうちに前提している。たしかにそのはずである。そして、誰もがX曹長は「私」である、と信じる。Z伍長はクレーと呼ばれる男で、クレーにはロレッタという心理学に詳しい妻とその母親がいる、と理解する。それ以外に考えられない。だが、小説の冒頭、「私」が結婚式に出られない理由として「家内の義母が、四月の最後の二週間をうちに来て、われわれのところで過ごすのを楽しみにしている」という文章があったのは偶然なのだろうか。それから「アルヴィン」という犬は何のために登場したのか。そもそも本当に犬はいたのだろうか。

 小説の読者は、作品の中で書かれている事柄は、作品中では「真実」である、と信じられるから読み進むことができる。信じることができるから「リアリティ」が存在するのであって、「リアリティ」があるから信じられるのではない。だが、「エズミに捧ぐ」と言う小説は、敢えてリアリティをゆるがすような構成で書かれてる。エズミと「私」の出会い、X曹長とクレーのやりとり、それらは一見いかにもリアルな、一方は「愛」に一方は「汚辱」にかかわるエピソードのようでありながら、実はその細部に複雑な罠が仕掛けられた「短編」の一部なのだ。前回は「語り手は誰か」という問題提起をしたのだが、今回はもうひとつの疑問を提出してとりあえずのまとめとしたい。それは、「この小説」は「何時」書かれたのか。そして「どこで」書かれたのか、という疑問である。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月27日月曜日

「エズミに捧ぐ」その1___「語り手」は誰か

これもまた難解極まりない小説である。サリンジャーの小説作法には大分慣れてきたつもりだったが、ここまで仕掛けられると、もうサリンジャーを読むのはやめようかとさえ思った。

 小説は、結婚式の招待状を受け取った「私」が、花嫁との六年前の出来事を回想する、という書き出しではじまる。一九四四年の四月、イギリスのデヴォン州でノルマンディー上陸作戦に備えた特殊訓練を受けていた「私」は訓練最終日激しい雨の中外出する。子どもたちが聖歌の練習をしているのを聞きに教会に入った「私」は、その中でひときわ美しい声を響かせている少女に目をとめる。教会を出て喫茶店に入った「私」は、遅れて入ってきたその少女から話しかけられる。「エズミ」と名のった少女と彼女が連れていたチャールズという名の弟は、両親が亡くなったため、伯母に育てられたという。亡くなった父親が古文書の蒐集をしていて名文家だったと話すエズミは、「短編作家のつもり」と言う「私」に、「わたしだけのために、短編をひとつ」書いてほしいと頼む。そしてなぜか「どちらかと言えば、汚辱のお話が好き」なので「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」と言う。エズミは、自分のほうから先に必ず手紙を書くと約束し、「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」という言葉を残して、喫茶店から出ていった。

 小説の後半は、「場面はここで一転する」と書かれて始まる。「私は依然として登場するけれど、これから以後は、私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう」という文章の後、文体は三人称で書かれる。  

 翌年五月のヨーロッパ戦勝記念日から数週間後の夜十時半ごろ、バヴァリアのガウフルトの民家に、フランクフルトの病院から退院してきたX曹長がいる。彼は文字を読むことも書くことも思うようにできず、指はたえずふるえている。郷里の兄からの無神経な手紙に神経を苛まれているX曹長の部屋にZ伍長という年下の戦友が入ってくる。「Z伍長」と呼ばれながら、なぜか「クレー」とも呼ばれるこの男はX曹長と対照的に神経のタフな人間である。X曹長のことを「神経衰弱になりやがった」とうれしそうにいうクレーは、ノルマンディー上陸作戦で砲撃を受けたとき、ジープのボンネットにとび乗った猫を撃ち殺した話をし始める。X曹長の再三の制止にもかかわらず話を続けるクレーに、彼は「あの猫はスパイだったんだ。」と「ユーモア」と取れなくもない言い方で、逆に彼の神経を逆なでする。だが、そのことがX曹長自身の心身を一気にずたずたに切り裂き、彼は屑籠に吐いてしまう。

 ようやくクレーを部屋から追い出したX曹長は、手紙を書くために机の上をかたづけようとして、「緑色の紙に包まれた小箱」を見つける。封を開けると、それは、前年六月七日付のエズミからの手紙だった。箱の中には、X曹長の安否を気づかう文章に添えて、エズミが身につけていた父親の腕時計が一緒に入っていた。彼は、送られてくる途中でガラスがこわれてしまった時計を長いこと手にしていたが、そのうちに快い眠気を覚える。

 ここまで三人称で書かれていた小説は、最後にまた一人称に戻る。最後はこう終わるのだ。「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」
 
 あらすじの紹介だけで大分長くなってしまった。今日は、「この小説」の作者は誰か、語り手は誰か、という問題提起をして終わりたいと思う。それからまた、「私の口から明らかにすることを許されない理由」とは何か、と言う問題も提起したい。そのヒントは、あらすじの紹介では触れなかったが、作中一度だけ登場する「アルヴィン」 という名の「犬」にある。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月23日木曜日

「ながめ(長雨)」と「しぐれ(時雨)」___日本の雨の歌

今日はサリンジャーはちょっとお休みです。朝から雨なので、日本の雨の歌をいくつか紹介したいと思います。日本人は雨の歌が好きです。「長崎は今日も雨だった」___いいですねぇ。前川清が若かったですね。「雨の外苑、夜霧の日比谷」って、題名は何だったでしょうか。もうひとつ日本人は地名を詠みこんだ「ご当地ソング」も好きです。若き日の森進一が絶唱した「港函館、通り雨」の「港町ブルース」もありますね。「雨と地名の日本歌謡史」をいつか書きたいと思っています。

 「起きもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめ暮らしつ」
「伊勢物語」第二段と「古今和歌集」に載っている。古今和歌集では、「弥生のつひたちより、忍びに人にものらいひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける、在原業平朝臣」とある。女のもとを訪れた男が、「起きもせず寝もせで___逢うには逢ったが、結局本意は遂げられないで一夜明かしてしまった。おりしも季節はもの忌みの春で、昼間もぼうっとした気分でいます。」と相手の女に送った歌である。古代は農耕の作業を始める前に、厳重な禁欲生活を送らねばならなかった、と折口はいう。それが春の長雨の時期と重なるので、春は「ながめ_長雨_禁欲」の季節として意識されたのである。

 「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」
「古今集」に「小野小町」作として載っている有名な歌。「花」が何とも特定されていないのだが、その花びらの色が変わってしまった、と時の推移を嘆いた歌である。「いたづらに」_無為のうちに_という言葉は「うつりにけりな」にかかるのか「ながめせし間に」にかかるのか、あるいは「世にふる」にかかるのか、揺れ動くものがあるが、この言葉が一首の焦点だろう。こちらの「ながめ」も禁欲してぼうっとしている間に、という意味と実際に「長雨が降る」という意味の両方がこめられているのだろう。「花の色」を自分の容貌にたとえたものであるとする解釈は、いわゆる「小町伝説」にひかれたものだと思われる。単純に花びらの色が変わってしまったことに、時の推移を気づかされて、それを嘆いたものと解釈した方が、悲しみが深い。

  「うらさぶる 心さまねし。 ひさかたの 天の時雨の流らふ。見れば」
以前もとりあげた萬葉集巻一長田王の歌。折口信夫が「どうしてこんな歌ができたのかと思うほどだ」と激賞した歌である。「うらさぶ」も「心さまねし」も、現代語にどう訳すか難しい言葉である。「うらさぶ」は、「さざ波の国つみ神のうらさびて、荒れたる都みれば 悲しも」という高市黒人の歌が参考になるだろう。魂が遊離した状態をさす言葉であると思われる。「心さまねし」は寡聞にして他に用例を知らない。漠然とした不安な心理をいうのだろう。騒がしい相聞や儀礼的な羈旅歌にまじって、ひとり自分の内面を見つめようとする、心がしんとなる歌だ。雨の歌ではないのだけれど、長田王の歌のなかで私が好きなものをもう一首。
「聞きしごと まこと貴く 奇(くす)しくも神さびおるか。 これの水島」萬葉集巻三

 「袖ひづる時をだにこそ嘆きしか身さへ時雨のふりもゆくかな」
「蜻蛉日記」と「続古今集」に「長月のつごもりのころ、いとあはれにうちしぐれけるけしきを見て 右近大将道綱母」として載っている。「涙で袖がぬれただけでも悲しかったのは昔のことでした。今はこの身まで時雨に、いえ涙にぬれそぼって年をとっていくのです」「蜻蛉日記」中随一の絶唱だと思う。夫兼家との葛藤は、道綱母が「石山詣で」で山に籠ることで頂点に達した。だが、それも父の倫寧の勧告で下山を余儀なくされる。これは、その激動の夏の後、冬の訪れをつげる時雨に兼家との愛の終わりを実感したものである。

 平安時代を過ぎると、何故か「ながめ」の歌は詠まれなくなる。歌人たちの生活と「農耕作業開始前の禁欲」という観念が結びつかなくなっていったのだろうか。かわって「しぐれ」は日本の雨の歌、というより「わび」「さび」という文化の規範意識と密接に結びついて盛んに詠まれるようになる。
「世にふるは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」新古今集 三条讃岐から始まって
「世にふるもさらに時雨の宿り哉」宗祇
「世にふるも更にに宗祇のやどり哉」芭蕉
と続いて、さらに
「初時雨猿も小蓑をほしげ也」
また民謡の世界でも
「さんさ時雨か萱野の雨か」と謡われる。

 近代になっても雨の歌の伝統はやむことがない。
「雨は降る降る、城ケ島の磯に。利休鼠の雨が降る。」北原白秋の「城ケ島の雨」である。
「雨の歌」は日本文学の発想の原点なのだ。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月22日水曜日

「対エスキモー戦争の前夜」(続きの続き)___再び『美女と野獣』のプロットについて

  作中エリックに「ぼくは八遍見たな。あれこそまさに醇乎たる天才だね」と言わせているコクトーの『美女と野獣』から、サリンジャーは「ここまでやるの!」と言いたくなるくらい本歌取りをしている。まず、セリーヌの兄フランクリンとエリックは、野獣と美女ベルを慕うアヴナンの役割だろう。「髪は寝乱れ、金色の薄い鬚は二,三日も剃刀を当ててなかったと見えてまばらに伸びて」ジニーが「これまでお目にかかったことがない」と描写されるセリーヌの兄は野獣で、「整った顔立ち、短めに刈った髪形、背広の仕立て、絹のネクタイ」のエリックがアヴナンだ。それから、野獣の城の燭台をさしだすものが人間の「手」であるという奇怪な画面とジニー「マノックス(手の絆)」も無関係ではないだろう。

 セリーヌの兄の関心が指に集中しているのは、野獣が自分の爪が尖った指を見つめる動作を連想させる。口から出した煙を鼻から吸い込むという「フランス式喫煙術」とは、野獣の城の彫像が鼻から煙を出すシーンとほぼ同じ動作だ。「ベルが鳴りやがった。」と言って退場するセリーヌの兄と入れ代わりに入ってきたエリックは、自分が「善きサマリア人」よろしく助けた作家に恩を仇で返された、と長話をする。だが、「もっぱら口先だけで喋っている感じ」なのだ。もしかしたら、『美女と野獣』のアヴナンのように、借金のかたに家財道具を持ち出されてしまったのかもしれない。犬の毛だらけなのも、映画の冒頭で、アヴナンの射た矢が危うく室内にいた犬を射抜きそうになったことと関係があるのかもしれない。

 極地探検にもなぞらえ得るような過酷な飛行機工場での労働で、もともと病弱なセリーヌの兄は満身創痍であり、孤独だ。ジニーの「バンド・エイドないの?」という問いに、彼は「ああ、ないね」と答える。彼に手をさしのべてくれる存在はなかったのだ。だが、ジニーはその事実に心を動かされる。変化は彼女の内面におきた。この次のエスキモーとの戦争は年寄りでないと行かせてもらえない、というセリーヌの兄の言葉に「でもあなたはどっちみち行かなくてもいいわね」と反応して、自分の言葉が彼を傷つけたのではないかと心配する。だから、彼がさしだすサンドイッチの半分を「とってもおいしそう」と言って「苦労して飲み込」んだのだ。

 さて、ジニーはセリーヌの兄の「善きサマリア人」になれるのか。彼女は、見かけはいいが通俗的で中身のないエリックには目もくれなかった。そしてセリーヌに「あたし、遊びに来るかもしれない」と言って彼女を驚かせる。彼女の兄に関心をもったことを明らかにしたのだ。だが、「復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日かかったジニー」は、セリーヌの兄のくれたサンドイッチをどうするだろうか。サンドイッチは、野獣が美女ベルにくれた宝物の入った箱を開ける魔法の鍵ではないのだから。   
  
 これで、ひとまず「対エスキモー戦争の前夜」の読書感想文にもなっていないnoteは終わりにします。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月21日火曜日

「対エスキモー戦争の前夜」(続き)____もう一つの隠されたプロットとサリンジャーの命名法

今日はサリンジャーの小説の登場人物の名前について考えることで、難解極まりない「対エスキモー戦争の前夜」を読んでみたい。サリンジャーの小説は「ミュリエル」「シビル・カーペンター」「エロイーズ」そしてもちろん「シーモア・グラース」と、作中の役割を象徴する名前がつけられている。

 まず、主人公の少女「ジニー・マノックス」。ジニーはいうまでもなくヴァージニアの愛称であるが、マノックスとは何か。これはエスペラント語で「手」を意味する「MANO]とラテン語で「絆」の意の「NEXUS」だそうである。それから、セリーヌの兄「フランクリン」_これはファーストネームだろうか。作中この名で呼ばれるのは、彼を訪れたエリックが「フランクリンを見かけなかった?」と聞く場面だけである。その他は、常に「セリーヌの兄」と呼ばれる。おそらくこの「フランクリン」は北大西洋航路を探検したジョン・フランクリンを連想させる役割をもつものだろう。ジニーの姉が「ジョーン」というのは偶然だろうか。この小説の隠されたもうひとつのプロットは、フランクリン隊の北大西洋航路の探検ではないだろうか。

 「指の野郎を切っちまってさ」と部屋にとびこんできたフランクリンはジニーに彼女も指を切ったことがあるかとたずねる。その様子は「まるで前人未踏の境地に一人踏み込んで行く孤独から、彼女の同伴を得て救われたいと願っているようだ」と書かれる。また、「おれ、出血多量で死にそうなんだ。君、その辺にいてくれよ。輸血してもらわなきゃなんないかも」という彼の言葉は、フランクリン隊の隊員の多くが壊血病にかかって死んでいったことを連想させる。オハイオの飛行機工場で働いていた「三十七ヵ月」は、フランクリンの第一回の探検が1819年から1822年の3年間だったことに対応しているようだ。この探検で隊員八人が餓死、一件の殺人、人肉食も指摘されているという事実が、彼の「おれは彼女(ジョーン)に八遍も手紙を書いた。八遍だぜ。なのに彼女は一遍だって返事をよこさなかった」という言葉に関係があるのだろうか。彼の様子を見まもっていたジニーが突然「触っちゃダメ」と叫ぶのはどんな場面が生じたからか。 

 「さて、着替えでもするか。・・・チェッ!ベルが鳴りやがった。じゃあな」と言って「姿を消した」フランクリンと入れ替わりに部屋に入ってきたエリックもまた飛行機工場で「何年も何年も」働いていた。エリックは、なぜ軍隊に行かなかったのか。「エリック」という名前は何を意味するのか。

まだ解けない謎はいくつもあって、そもそも題名の「対エスキモー戦争の前夜」とは何か。それから、最後の「数年前、復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった」という怖ろしい一文をどう読めばいいのか。疑問はつきないのですが、今日はひとまず、ここまでにします。

 というのは、今朝の新聞で光市の母子殺人事件の死刑が確定した、という報道を読んで、心が波立って、続きをまとめることができなさそうだからです。。「罪なき者まず石を打て」でも触れたように、法の厳罰化、とくに少年法のそれがすすんでいることを憂えてきました。報道によれば、犯行時少年だった被告に死刑が適用されるのは、永山則夫以来六人目だそうです。今回は実名報道もされました。賛否両論ある今回の判決確定だと思いますが、私は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」というマタイによる福音書7章冒頭の一節を、自戒の言葉としてかみしめたいと思います。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月19日日曜日

「対エスキモー戦争の前夜」___善きサマリア人は誰か

表題は『ナイン・ストーリーズ』第三作である。これは難解です。作中にすんなり感情移入できる人物がなかなか見つからない、ということが、テーマを分かりにくくしている原因のひとつかもしれない.

 十五歳の少女ジニーはクラスメートのセリーヌと毎土曜日の午前中テニスをしている。いつも自分が全額負担してる帰りのタクシー代を彼女にも払わせようと、彼女の自宅までついて行く。肺炎で寝ているという母親のもとにいったん引き下がったセリーヌの代わりに、兄のフランクリンがジニーの前に現れる。彼は「屑籠に手をつっこんで」指を怪我している。フランクリンは「骨のとこまでぐさっと」切って、「出血多量で死にそうなんだ」というわりには、ジニーと話しこんでいる。どうやらフランクリンは、かつてジニーの姉とつきあっていて、ふられたらしい。姉は海軍少佐の男と婚約しているのだ。さえない容貌で体も弱いらしいフランクリンは八遍も手紙を書いて一度も返事がもらえなかったと言う。戦争中オハイオの飛行機工場で働いていたというフランクリンは、窓の下を通る人々を「あの阿呆ども」と呼ぶ。今度はエスキモーと戦争するので、「六十ぐらいの奴」がみんな戦争に行くのだと言う。彼は昨夜デリカテッセンで買ったというサンドイッチの残り半分を持ってきて、ジニーにすすめる。ジニーがようやく一口飲みこんだところで「ベルが鳴っ」て、フランクリンは姿を消す。

 フランクリンと入れ替わって部屋に入ってきたのはエリックとフランクリンが呼んだ男で、フランクリンとは正反対の非のうちどころない容姿である。彼は初対面のジニーに、いきなり「善きサマリア人」をやろうとした自分が裏切られたという話を始める。餓死寸前の「作家だか何だか知らない」男を引き取って面倒をみていたが、その男が「手の届くかぎりのもの」をもちだして出て行ってしまったというのだ。話し終えて、ジニーのコートに目をとめたエリックは、彼女の名前をたずねるが、ジニーは教えない。エリックは、今上映されているコクトーの『美女と野獣』は素晴らしい映画で、もう八遍見たが、いまからフランクリン、セリーヌと一緒に見に行くのだという。

 セリーヌがドレスに着替えて部屋に入ってきたのを見たジニーはエリックがまだ喋っているのをさえぎって、彼女のところに行き、タクシー代はもう要らない、と言う。そして、晩御飯の後で電話して、遊びに来るかもしれない、と言って、セリーヌを驚かせる。ジニーは、帰りのバス亭まで歩く途中で食べ残しのサンドイッチを捨てようとして、やはり捨てずにポケットにしまいこんだ。

 この小説の隠されたプロットは二つある。「善きサマリア人」と「美女と野獣」である。

今日はパソコンの調子が悪く、下書きが消えてしまうトラブルが続くので、続きはまた明日にします。
途中までよんでくださってありがとうございました。

2012年2月17日金曜日

「バナナ魚には理想的な日」再び___「スノビズムといこうぜ」

表題の小説を今回野崎孝さんの訳で読んでいて、気がついたことがある。シーモアがシビル・カーペンターを浮き袋に乗せて、波乗りをする場面だ。不安そうに「波が来た」というシビルに「波なんか無視しちまおう」とシーモアはこたえるのだが、問題はその後の彼の言葉だ。『ニューヨーカー短編集』の橋本福夫訳では『お上品ぶった二人づれというわけさ」となっているが、野崎訳では「スノビズムといこうぜ」となっている。こちらが原文の直訳だろう。これは「眼から鱗」だった。シーモアの死はまさに、「スノビズムといってしまった」のだ。

 スノッブ、スノビズムという言葉を、私はたんに「知ったかぶり」とか「知識のひけらかし」くらいの意味にとらえていた。だが、コジェーブという哲学者の定義によれば、スノビズムとは「「与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、『形式的な価値に基づいて』それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機がなかったとしても、スノッブはあえてそれを否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ、愛でる」ことである。コジェーヴは日本の切腹をその例に挙げている。名誉、義理などの形式的な価値のために、実質的に死ぬ理由がないにもかかわらず、死を選ぶことが、スノビズムだという。

 シーモアが生を否定した「形式的な価値」とは何だろうか。それは、シビルが「バナナ魚を見つけた」と言った言葉のうちにある。「バナナをくわえてた?」というシーモアの問いにシビルは「ええ、6本」と答える。するとシーモアはシビルの足を持ち上げて、その土踏まずの部分に接吻する。そして、「もうひきあげることにする。きみもじゅうぶんだろう?」と波乗りをやめてしまう。うまく波乗りが成功して恐怖と背中合わせの歓喜に満たされたシビルは、シーモアの愛を受け入れたのだ。だからシーモアは彼女の足に接吻した。そして、それで、儀式は完了した。この世で最も崇高な存在との結合。シャロン・リプシュッツという美しい空想上の名前をもつシビル・カーペンター。それはSibyl_Sybil Carpenter イエスの誕生と復活を予言するシュビラ=巫女であり、イエスそのものである。そもそも、波乗りという行為はバプテスマのメタファーだろう。シーモアはみずからを「イエスの履物のひもを解く値打ちもない」とするバプテスマのヨハネになぞらえたのか。

 ホテルに戻ったシーモアは、妻のミュリエルが眠る傍らで、拳銃自殺する。「部屋には仔牛皮の新しいトランク類やマニキュアの除光液の臭いが漂っていた」とある。「ミュリエル」という名もまた、ギリシャ神話の「没薬をつかさどる香の女神」である。そしてシビル_シュビラは冥界への案内をする巫女だともいわれている。

 これは、たんに謎解きをしただけで、何を言っていることにもなっていません。まさにnoteです。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

「コネティカットのひょこひょこおじさん」__語られているのは過去か?

『ナイン・ストーリーズ』の二作目の作品である。メアリ・ジェーンとエロイーズという女性二人が、エロイーズの家で、お酒を飲みながら会話している。二人は一九四二年、ほぼ同時期に大学を中退したかつてのルームメイトである。エロイーズは結婚してラモーナという娘がいるが、メアリ・ジェーンは今は独身で働いている。他愛もない会話が続くが、エロイーズは夫や姑とうまくいっていない様子で、娘のラモーナもおかしな子である。酔いが進むにつれて、エロイーズは、戦争中に事故で死んでしまった恋人のことを語り始める。ウオルトというその恋人の追憶に浸りながら、泣きだしてしまうエロイーズと、彼女の話を聞きながら、自分も酔いつぶれてしまうジェーン。最後は、エロイーズが、大学時代に着ているドレスが野暮ったいと言われて泣いた話をもちだし、ジェーンに「あたし、いい子だったよね」「ね、そうだろ?」と聞くところで終わる。

 『ナイン・ストーリーズ』の一作目「バナナ魚には理想的な日」がシーモア・グラースの自殺までを語る小説なので、ウオルトという青年の追憶が美しく語られるこの小説も、同じように、喪失の悲しみをテーマとする作品分析が多い。題名の「コネティカットのひょこひょこおじさん」も、エロイーズがウオルトと一緒に駈けだして転んで足首をくじいたときに、彼が彼女を「かわいそうなひょこひょこおじさん」と呼んだことに由来する。(uncle_ankle)そうだろうか。エロイーズの不幸は、彼女がウオルトを失ったことに原因があるのだろうか。夫を愛することができないのも、夫がウオルトのように「おかしいか、さもなきゃ優しいかどっちか」でない人間だからだろうか。夫「ルー」とはどんな人間なのだろうか。そして、エロイーズの話の「聞き役」のメアリ・ジェーンは、何のためにこの家を訪れたのだろうか。

 メアリ・ジェーンは約束の時間に二時間も遅れてエロイーズの家に着いた。わけのわからない理由を言って、ひどく狼狽している様子である。「電話をかけたのはどっち?」というエロイーズの言葉からメアリ・、ジェーンの方が訪問を申しでたのに、である。エロイーズの家について間もなく、「鏡をのぞいて歯をしらべた」のはなぜか。。エロイーズの娘のラモーナが帰ってくると、なぜかまた取り乱して、飲み物を絨毯の上にこぼしてしまう。そしてラモーナが誰に似ているのか知りたがる。エロイーズがウオルトの追憶にひたっていると、メアリ・ジェーンは「ルーはユーモアのセンスないの?」とそれをさえぎる。そして「それ(ユーモアのセンス)がすべてじゃないからね」と言う。亭主の知性なんて信用したら大変なことになる、というエロイーズの言葉を「憂鬱そうな顔をして」聞いていたメアリ・ジェーンは、「ルーは知性がないとはいえないわよ」と「声に出して」言う。

 エロイーズの美しい回想の「聞き役」として登場するメアリ・ジェーンは、たぶん、エロイーズとルーの生活の様子を探り来たのだ。彼女の関心はウオルトがどのような人間であったか、ではなく、エロイーズがウオルトのことをどのようにルーに告げたか、そして、その結果、ルーとエロイーズの関係がどのようになったか、である。メアリ・ジェーンはルーを愛しているのだ。エロイーズはそのことに気がついていないが、自分がルーに愛されていないことはわかっている。家の中は荒廃している。一人娘のラモーナは、架空の恋人を仕立てることで、空想の世界に逃げ込んでいる。そのラモーナの世話もエロイーズは投げやりだ。ラモーナが架空の恋人に逃げ込むように、エロイーズも追憶の世界に逃げ込むしかない。孤独なラモーナが現実を見るために絶対に必要な道具の「眼鏡」を頬に当ててエロイーズは泣く。「かわいそうなひょこひょこおじさん」と何度も繰り返して。孤独なエロイーズが現実と向き合うためには、そう唱えるしかなかったのだ。だが、やがてエロイーズは「レンズを下にして」眼鏡を置き、泣いているラモーナに接吻して階下に降りていく。そして、眠っているメアリ・ジェーンを起こして聞くのだ。「あたし、いい子だったよね」と。

 訳は野崎孝さんのものを使いました。glassという原語が「鏡」になったり「眼鏡」になったり、あるいは「グラス」、そしてもちろん「グラース」という姓、」というように、日本語にすると違う言葉になってしまいます。最後のI was  a nice girl ,wasn't  I?も「あたし、いい子だったよね?」の訳でいいのかちょっと迷います。解釈もこれでいいのかどうか確信はないのですが、メアリ・ジェーンの役割に注目して読んでみました。読書感想文にもなっていない段階です。

 今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

2012年2月15日水曜日

「笑い男」___サリンジャーその用心深い「入れこ構造」とテキストの重層化

このところサリンジャーに嵌まっております。深沢七郎を書くためにちょっと寄り道、のつもりが、こちらがメインロードになりそうです。でも、本格的にサリンジャーを書くためには、やはり原文にあたる必要があって、テキストがそろうかなぁ、とためらっています。なぜはまったかというと、たぶん、ミステリを読むのに近い感覚があるからだと思う。一つの謎が解けると、次の謎にチャレンジしたくなる。これって純文学の読み方として正しいのだろうか、など反省しながら、乱読しています。今日は、前回と同じく『ナイン・ストーリーズ』の中から「笑い男」について。 

 物語は1928年、当時九歳だった「私」が回想する形式で始まる。「私」は男子児童二十五人からなる「コマンチ団」という団体の一員で、日曜以外は「団長(チーフ)」の引率のもとで、自由な時間を集団競技のスポーツ、キャンプ、あるいは博物館めぐりなどで過ごす。団員の結束は固く、団長への信頼は絶大なものがあった。この「団長(チーフ)」が「コマンチ団」の少年たちを「囚人護送車にも似た」バスで送迎するときに「笑い男」の話をして聞かせる。つまり、この小説は、いまは大人になった「私」の回想の中に、ジョン・ゲダツキーという名の「団長(チーフ)」の語る「笑い男」の話が入り込む、という形になっている。

 笑い男は、金持ちの「宣教師」夫妻のひとり息子だったが、幼児のとき中国の山賊に誘拐され、身代金を払ってもらえなかったために、「ヒッコリーの実のような形の頭をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いているといった顔」にされてしまった。だが、芥子の花びらで作った仮面で顔を包まれ、生き延びた笑い男は、山賊のノウハウを手に入れると、逆に山賊を「地下深いところにありながら内部には気持よい装飾が施されている廟」に閉じ込め、国境を越えて活躍して、世界一の資産家になる。資産の大部分を寄付したり、ダイヤモンドに換えた上で海に沈めてしまった笑い男は、チベット国境の小屋の中で「米を食い、鷲の血を啜りながら」ブラックウイングという斑狼、オンバという小人、白人に舌を焼き切られたホングという蒙古人の大男、欧亜混血で笑い男に思いを寄せる娘の4人の仲間と共に生きていた。

 ここまで「笑い男の話」が進んだ後、「メアリ・ハドソン」という名の団長のガールフレンドが出現する。「ビーヴァのコートを脱ぎ、こげ茶のドレスで」コマンチ団の少年たちにまじって、初めて球を打ったらしいメアリは、大当たりで、それから一か月の間、彼らと一緒に野球をする。「笑い男の話」が、男の破滅に向かって急展開するのは、メアリがいつもの時間にバスに乗り込まなかったときのことだった。

 笑い男の親友の斑狼ブラックウイングが、宿敵デュファルジュ父娘に捕われてしまう。ブラックウイングの釈放と引き換えに、笑い男は自分の身を、みずからすすんで父娘に差し出す。だが、父娘は笑い男を欺いて、ブラックウイングのかわりに「左足を白く染めた」狼を鎖でつないでおく。「その身を有刺鉄線で一本の立木に縛り付けられた」笑い男は、「アルマン」というその狼から「自分はブラックウイングではない」という事実を告げられ、欺かれたのを知って、仮面の下の素顔を父娘にさらしてみせる。娘は気絶したが、父親は笑い男を拳銃で撃ち続ける。

 団長は笑い男の話を、ここでいったん終え、メアリを待つのをやめて、セントラルパークに向かう。少年たちがいつものように野球を始めて、しばらくして、メアリがパークに現れる。「乳母車をひいた二人の子守に両側から挟まれたような恰好で」座っていたが、メアリは少年たちにまじってゲームに参加することも、「私」の自宅への招待に応じることもなかった。「メアリ・ハドソンがコマンチのラインナップから永遠に脱落したということは、私には分かりすぎるほど分っていた」のだ。

 帰りのバスの中で、笑い男の最後が語られる。拳銃で撃ち殺されたはずの笑い男は、なんと弾丸全部を吐き出して、デュファルジュ父娘に「恐ろしい笑いを笑っ」て彼らをショック死させてしまう。有刺鉄線で立木に縛りつけられた笑い男は、とめどなく血を流すにまかせていたが、あるとき森の動物たちに救いを求め、小人のオンバを連れてくるように頼む。瀕死の笑い男のもとに到着したオンバは鷲の血を差し出すが、笑い男はそれを飲まず、ブラックウイングの名を呼ぶ。ブラックウイングがすでに殺されてしまったことをオンバから告げられた笑い男は、鷲の血の入った瓶を握りつぶし、みずからの仮面を剥ぎ取って死ぬ。「そしてその顔が、血に染まった地面に向ってうつむいたのである。」笑い男の話がここで終わると、コマンチ団の少年たちは、いちように恐怖に襲われる。バスを降りて、一枚の赤いティッシュペーパーが風にはためいているのが「芥子の花びらで作った誰かの仮面のように」見えた「私」は「歯の根も合わぬ」ほどふるえ、帰宅すると「すぐに床に入るように言われたのである。」

 この小説の中で、「コマンチ団」の少年たちに「笑い男」の話を語る「団長」の容姿は、低い身長、ずんぐりした胴長の体型、黒い髪、大きな鼻など、明らかにアメリカインディアンの特徴をそなえている。バスの運転席に「後ろ向きに跨いで腰をかけ」る姿勢で語るのだが、それは、まさに「馬乗り」のポーズだ。「私」が回想する話の中で「笑い男」は「団長(チーフ)」のメタファーであり、「笑い男」の話は、ホースインディアンと呼ばれた「馬盗人」「コマンチ族」の物語のメタファーなのだ。(おそらく、白人の母とインディアンの父の混血で、最後の酋長(チーフ)といわれた「クアナ・パーカー」が「笑い男」のモデルだと思われる)「鬱蒼と茂る深い森の中に入って」動物たちと仲良しになり、そこでは仮面を脱いで、「動物たちの言葉」を使いながら「美しい優しい声で彼らに話かけたのだ」と述べられる笑い男の姿は、自然と一体になって生きるインディアンそのものではないか。

では、メアリ・ハドソンとは何か。「団長(チーフ)」の「ガールフレンド」として出現し、いっときはコマンチ団と交わりながら、「乳母車をひいた二人の女にはさまれ」団長に別れを告げなければならなかったのはなぜか。
「メアリ・ハドソンがコマンチのラインナップから永遠に脱落した」と信じてしまった「私」が「蜜柑を握りしめながら」「後ろ向きに歩いて行くのは常にもまして危険を孕み、・・・いやというほど「乳母車」にぶつかってしまっ。」た、とあるのは何を意味するのか。「乳母車」とは何か。「蜜柑」とは?

 メアリ・ハドソンとは、たぶん「白人」のメタファだろう。彼女が「自分もゲームに加わりたい」と言いだすと、それまで「ただ彼女の『女性』らしさを単に見つめるだけだったわれらコマンチどもの目つきが、今度は睨みつけるように変わった」とあるのは、インデアンに近づこうとした白人への彼らの警戒感の暗示だろう。あるいは、作者は特定の個人をモデルにしているのかもしれない。インディアンとアメリカの白人の歴史に詳しくない私がわからないだけで、すぐに思い浮かぶような人物がいるのかもしれない。「後ろ向きに歩」くとは、後退または撤退作戦を意味し、「乳母車」は「幌馬車隊」か。「蜜柑」とはインディアンの武器だろう。

 いずれにしろ、メアリ・ハドソンが泣きながら走り去っていった後、笑い男の悲惨な、しかし従容として死んでいく様子が「団長」の口から語られる。これもインディアンの滅亡のメタファであることは間違いないと思われるのだが、ここに至って、悲劇はもう一つのイメージを喚起する。「有刺鉄線で『立木』に縛りつけられ、血を流して死んでいく」「弱々しい声で愛するウイングの名を呼んだ」が、もはやウイングが存在しないことを知って「胸を引き裂くような最後の悲しみの喘ぎが笑い男の口からもれた」「それが彼の最後だった。そしてその顔が、血に染まった地面に向ってうつむいたのである」という叙述は、まさに十字架上のイエスのそれではないか。福音書の伝えるイエスの死は「午後三時過ぎ」とあるが、コマンチ少年団は「学校のある日には、いつも『午後の三時に』」団長の車が迎えに来てくれるのだった。そして、笑い男の最後を語る団長がバスに乗り込んできたのは「ある四月の、ひどく肌寒い日」「五時十五分の黄昏が落ちかけていた」ときだった。イエスの死は午後三時過ぎ「太陽が光りを失っていた」ときだった。

この小説は、コマンチ団」の一員だった「私」の回想という構造の中に、「団長(チーフ)」の語る「笑い男」の話という構造が入れ込み、それぞれの登場人物が、別の次元の存在のメタファーであり、しかも、それが重層的である。非常に複雑な入り組んだ構造で、細部に私が解き明かしていないメタファーもいくつかあるだろう。そしてこれは「インディアン」というアメリカ社会のマイノリティーのメタファーであると同時に、もう一つのマイノリティーである作者サリンジャーの属するユダヤ民族のメタファーなのではないか。小説の最後で、当時「九歳(サリンジャーの実年齢)」だった「私」は、帰宅と同時に倒れ込んでしまうほど恐怖にふるえた。自分だけが「現存する笑い男の嫡出の子孫」である、つまりインディアンの嫡出の子孫である「私」は救いようのない悲惨な最後をむかえる笑い男の運命と自分を重ね合わせたのだ。それはまた、作者サリンジャーが、けっして直接には語らない、けれど、終生自分の存在の根の部分で意識せざるを得なかった「宿命」ではなかったか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月13日月曜日

「バナナ魚には理想的な日」___喪失からの出発

初めてサリンジャーの作品を読んだのは「バナナ魚には理想的な日」だった。これもまた『ニューヨーカー短編集』に掲載されているものを読んだ。日本で『ニューヨーカー短編集』が発行されたのは1969年だったが、作品自体は1948年に発表されている。私にとっては、当時も今も難解な作品である。

 「ミュリエル」という名の若い女性が、旅先のフロリダのホテルから母親に長距離電話をかけている。新婚の夫と旅行にきたのだが、夫のシーモアという男は精神異常者だというので、母親は心配でならないのだ。だが、夫から「一九四八年のミス精神的浮浪者(スピリチュアル・トランプ)」と呼ばれている若い女性は、いっこうに気にしている様子はない。長距離電話の順番を待っている間に『セックスは快楽か___それとも地獄』という雑誌を読んだり、爪にマニキュアを塗ったりしている。

 同じホテルの砂浜でシビル・カーペンターという小さな女の子が母親に陽やけどめ油をぬってもらっている。母親がホテルに上がって、解放された少女は、砂浜で寝ころんでいるシーモアのところに走っていく。明日父親がホテルに来るという少女を浮き袋にのせて、シーモアは海に入る。そこで、バナナのある穴に入り込んで、たべすぎて出られなくなって死んでしまう「バナナ魚」を探そうと言う。浮き袋の上で波乗りに成功した女の子は「バナナ魚」を一匹見つけたとシーモアに報告する。シーモアは女の子の足に接吻して海から上がる。女の子は走ってホテルに戻り、シーモアも自分の部屋に戻って、妻の眠っているベッドの隣で拳銃自殺する。

  謎に満ちたこの作品は、サリンジャーのいわゆる「グラース・サーガ」の第一作である。おそらく「グラース」という一家の姓も、新約聖書のコリント人への手紙13章「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」を暗示するものだろう。ミュリエル、シビル「カーペンター(大工の意。イエスの職業は大工であったといわれる)」という名前も聖書からの出自を直接示すのだろう。だが、この作品の中では、なぜシーモアが精神異常になったのか、俗物で平凡なミュリエルを妻にしたのか、そして自殺しなければならなかったのか、いっさい語られることはない。また、作中引用される「ちびくろサンボ」の虎の数は、実際は4匹なのに、なぜ「6匹」とシビルにいわせているのか。シビルが見つけたバナナ魚がくわえていたバナナの数もまた「6本」だったことにはどんな意味があるのか。シーモアの「足」にたいするこだわりはなぜか。などなど、謎は謎としてただ呈示されているだけである。

 作中、シーモアが妻のミュリエルを「一九四八年の精神浮浪者(スピリチュアルトランプ)」と年号を冠して呼んだのは何か意味があるのだろうか。1948年はイスラエルの建国、同時に第一次中東戦争が勃発した年でもあった。この小説の中で「ロウとオリーブ」が好きな女の子シビルは、オリーブの好きな大学生のフラニーに成長するのだろうか。「シャロン」という美しい名で呼ばれる三歳半の女の子とは何か。さまざまな謎をはらんで、「1948年」シーモアは死ぬ。そして「シーモア神話」が誕生する。イエスが死んで、福音書が書かれたように。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月10日金曜日

「甲州子守唄」__深沢七郎の世界の続き

私が生まれて育ったのは東京郊外の町だった。純農村地帯だったのが、戦後まもなく大企業の工場誘致をして、周囲に住宅が増え、比較的早い時期に新興住宅地に変わっていった。だから言葉は標準語と呼ばれるものに近かったが、それでも、土地に住みついていた人たち独特の言い回しがあって、町を流れる川の向こうとこっちで「言葉が違う」ともいわれていた。だが、私は小、中、高校と地域の学校に通わなかったので、土地ことばが使えない。「故郷の訛りなつかし」という感覚を知らない。日本人なら、いつでも、どこでも、だれとでも通用する「標準語」しか話せない、ということがある種のコンプレックスになっているような気がする。私が深沢七郎を愛読するのは、その甲州弁だか石和弁だかが懐かしいからかもしれない。

 「甲州子守唄」は1964年_昭和39年に発表された。笛吹川の橋のたもとに住む「徳次郎」とその母親「オカア」の一家の物語である。不思議なことに深沢の小説の登場人物には苗字がない者が多い。それどころか、固有名詞さえ与えられていない場合もある。この小説でも、徳次郎とならぶもう一人の主人公「オカア」の名前は最後まで記されない。名前などなくても、物語はどんどん進む。さらさらと、それこそ「川の流れのように」深沢は「エンサイクロペディア・イサワーナ」とでも呼びたいような世界を語るのだ。

 物語は、明治の終わり、徳次郎が「アメリカさん」とよばれる移民になって、出稼ぎに行くところから始まる。オカアは、徳次郎がアメリカに行って稼いで20年もすれば「俺家(おらん)でもお蚕を飼ったり」田畑も買える。家も建てられると夢を抱く。徳次郎も、1万円は稼いできて、世話になった母親の妹にも「百円ぐれえは」やろうと思っている。「おばさんだものを」義理は欠くことができないと思っているのだ。「しっかりやっておいでなって」と村の人が叫ぶ中、徳次郎は石和の駅を出発する。

 「10年たったら、帰(けぇ)ってこう、きっと、嫁をきめておくから」と徳次郎に約束してオカアは心待ちにしていた。渡航費用の借金をひと月で返してきた徳次郎は、10年後、砂糖とシャボンと横浜で買ってきた餅マンジュウを土産に戻ってきた。だが、肝心の嫁が決まらない。「アメリカなんかへ行けばうちの人とは生き別れのようなもんさよ」と誰も相手にしてくれないのだ。それになんだか、徳次郎の様子がよそよそしくなっている。アメリカでいくら貯めてきたかをオカアにも教えないのだ。やっと決まった嫁は、乞食の「オクレやん」という女が世話した「狐ッ付きみたいに口がとがっている」不器量のため嫁ぎそびれていたチヨという娘だった。10日ばかりいて、徳次郎はチヨを連れてまたアメリカに戻った。

 さらに10年後、徳次郎はアメリカで生まれた三人の子とチヨの一家五人で帰国した。金は貯めてきて横浜の銀行に預けて利息だけでも相当な収入になるのだが、アメリカに行く前は「百円ぐれえは」やろうと思っていた母親の妹が「20円あればトタン屋根にしたり、湯殿がつくれるけんど」と頼みに来ると、徳次郎は「ゼニを貸してくりォというようなつもりだったらおばさんとは思っちゃいんからね。いますぐ縁を切ってもらいてえ」と怒る。アメリカに行って「ヒトが変わって、薄情に(すっちょなく)な」ってしまったのだ。

 徳次郎が「アメリカさん」になってせっかくためたお金は、戦争になって物が足りなくなるとインフレでどんどん目減りしてしまう。徳次郎が最初に送ってきたお金でささやかな商いを始めていたオカアは、闇の物々交換に手を出すようになる。したたかに闇商売で儲けたオカアだったが、戦争が終わる頃には「髪の毛も白いし顔も頭も胸も白い象のような皺になって」座ってばかりいる。徳次郎が、闇で商うサッカリンにうどん粉をまぜているのを知っても「(いい人間(ひと)で終わってしまうことなんか出来んさ)」と開き直り、「(いいさ、いいさ、、恥をかいてもしかたがねえさ)」とひとりごとを言うのだった。

 「甲州子守唄」は徳次郎とオカアの物語を軸に、石和近辺の風俗と人情の変遷を描く。40年あまりの出来事を一気に読み下せるのは、なにより登場人物の使う石和弁が面白いからである。作者は、いいことも悪いことも、なんでも区別せずに、さらさらと書いていく。作中、もっとも印象的だった石和弁は、戦争中、「ボコに乳(うんま)をやっていた」女のひとが機銃掃射で撃たれて言った「あれ、わしァ困るよう、死ぐじゃアねぇらか」ということばと、それを教えてくれた人の「場即(ばそく)だそうでごいす」ということばである。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月9日木曜日

「愛らしい口もと、わが眼は緑」___信仰、希望、愛

『ニューヨーカー短編集Ⅲ』に掲載されていた表題の小説を初めて読んだのはいまから40年以上も前だった。若かった私は、この小説をよくできた心理小説ないし風俗小説として読んでいたような気がする。唐突な結末が、でも何となく、納得できてしまうのが不思議だった。

 物語は、男と女がベッドを共にしているところに、女の夫から電話がかかってくる。一緒にパーティにでかけた妻が家に戻らないので、居どころを知らないか、と聞いてきたのだ。電話を受けた男は、夫の話に適当に応答しながら、なんとかなだめて、女が帰ってくるのを待つように説得しつづける。弁護士らしい夫は、裁判に負けたこともあって、どん底の精神状態である。夫は、妻である女が男にだらしがないことを呪い、教養がないことをののしり、だが、そんな妻がいかに無邪気で魅力的な女であるか、いかに自分に献身的に尽くしてくれたことがあったかを語って、電話を切ろうとしない。最後に夫は、男の家に行って一杯飲ませてくれという。もちろん、夫に来られたくない男は、妻を家で待つように夫を説得して電話を切る。するとまもなく、また夫から電話がある。男と話し終わった直後に妻が帰ってきた、と言う。そして、ニューヨークという都会を離れて、二人の生活をやり直し、裁判の結果についても善後策を講じてみるつもりだと言うのだ。話し続ける夫をさえぎって電話を切った男は、放心状態で、落とした煙草を拾い上げようとした女をどなりつける。

表題は、作中、夫が妻である女に送った自作の詩「わが色はバラ色にして、白し、愛らしい口もと、わが眼は緑」の一部である。「あいつは緑色の眼なんかしちゃいない__あいつの眼は海の貝殻みたいだ」とある。夫にとって、妻である女は、愛することのすべてだった。だが、女から愛される望みは、少なくとも夫が女を愛するように愛されることは、ほとんど望めなかった。いや、まったく望めなかった。その望みのない望みに夫は賭けたのだ。信じられない妻を信じたのだ。不可能な愛を可能にしたのだ。まさに、「信仰と希望と愛、この三つのものは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは愛である」(コリント人への手紙13章13節)である。

 電話を受けた男は、女の夫の「信仰告白」に打ちのめされる。男とベッドをともにしているのは、「ジョーニイ」と呼ばれる女のぬけがらではないのか。真実の「ジョーニイ」は夫のもとにいるのではないか。男に残されたものは何があるだろう。優位な立場にたって、うまくやりぬいたと思っていた男は、じつは自分が決定的な敗者である、という事実に呆然とするのみだった。

 この作品と、これより以前に発表された「バナナ魚には理想的な日」のシーモアの自殺を関連付けて考えてみようと思っています。まとまったものを書くには、もう少し時間が必要なようです。

 今日もできの悪い読書感想文を読んでいただいて、ありがとうございます。

2012年2月6日月曜日

田中小実昌『アメン父』について__物語は否定できるか

昔田中小実昌の訳でチャンドラーを読んだことがある。ハヤカワミステリの『湖中の女』と『高い窓』だった。清水俊二さんの感傷的なようできちんと勘所を押さえた名訳を読み慣れていたので、田中小実昌の短く文節を区切って言葉をつなげていく訳になじめなかった。今でも、『湖中の女』と『高い窓』を読み返す気がしないのは、チャンドラーのせいではなく訳がしっくりこないからだと思う。推理小説は哲学書ではないのに、いちいち立ち止まって言葉を吟味していては、ストーリーを追うことができないのだ。


『アメン父』は田中小実昌の父「田中種助」(のち遵聖と改名)とイエスの物語である。種助の伝記ではない。書き出しはこうである。
「大きな机の上に、いくつか分けてつんであった。若いときの父に関するものなどだという。」物語は父が軍港呉の山腹に教会と住居を建てたところから始まる。父は「(神から)拝命された」どこの派にも属さない、十字架もない集会の牧師である。父と信者たちは、集会をする場所を「教会」と呼ばず、「中段」と呼んだ。その下に牧師をつとめる父の家があり、さらにその上にも建物があったからである。十字架がないのに、「集会でのわめいたりさけんだりの祈りには、ジュウジカジュウジカという言葉がよくきこえた。」とある。ずいぶん、ラディカルといえば聞こえがいいが、狂信的な感じがする。小実昌は「信仰はココロではない」と何度もくりかえしているが、そこまでいけば、「ココロではない」に決まっている。「言葉」でも「行い」でもないだろう。ただ「十字架」なのか。それでは、何も言っていないのと同じことのように思われるが。

 誤解のないようにことわっておくのだが、これは「田中種助の物語」ではない。「種助とイエス(と小実昌自身の)の物語」なのだ。少なくとも、私はそう読んだ。「物語」について、マルグリット・デュラスの『愛人』の最初にこういう文章がある。
「私の人生の物語などというものは存在しない。そんなものは存在しない。物語をつくりあげるための中心などけっしてないのだ。道もないし、路線もない。ひろびろとした場所がいくつか、そこにはだれかがいたと思わされているけれど、それはちがう、だれもいなかったのだ。」
「だれもいなかった」けれど、語る「わたし」はいて、この後デュラスは「私の青春のごく小さな小さな部分の物語」を始める。小実昌は「道もないし、路線もない。ひろびろとした場所」の時間、空間を行きつ戻りつしながら、種助とイエスと、そして自分自身の物語を語るのだ。

 種助とイエスの出会いは、時系列で整理すれば、明治四十一年種助がアメリカに移民として入国し、シアトルの農園で働いていたときのことだった。「朝五時から晩の九時半までノベツにはたらかなければならぬ」生活の中、明治四十五年ユニテリアンの久布白直勝牧師から洗礼を受ける。のち種助はユニテリアンを「理知信仰」としてこれからはなれる。帰国して大正十四年「はじめて天来の霊感に触れ」歓喜するが、時とともにこれを失い絶望する。だが、昭和二年五月一二日「この機においつめられるや、忽然として観照の光明に接し、生けるキリストの十字架解明の一大発見を与えられ」る。昭和三年一月に小倉市西南学院シオン教会を辞任し、八月十七日呉市に独立教会アサ(聖なるものに遵うの意_種助いわく)会を設立し、牧師となる。ふりかえると、種助の転機というべきものは三度あったが、そのつど信仰を深めた、といった単純なものではなかったようだ。むしろ、転機が訪れるたびに、混迷と絶望は深まっていったように思われる。

 こうして時系列を整理しても、種助についてもイエスについても小実昌自身についても、何も語っていないことに気がつく。小実昌自身が周到に「物語ること」をさけているからだ。「人生の物語などいうものは存在しない」と書いていながら、臆面もなく何葉かの写真を小説に添えたデュラスにたいして、小実昌は、父の写っている何枚かの写真について、文中何度も言及しながら、一枚も載せない。信仰は因果律ではないし、いわんや物語でもないのだから、物語をつくってしまう要素はなるべく排除したのだろうか。それでも、『アメン父』は物語なのだと思う。すくなくとも、「物語」を「解体」した「小説」である。テーマは種助とイエス、ではなく、小実昌その人とイエスだ。

 今日も出来の悪い読書感想文を読んでくださってありがとうございます。

2012年2月5日日曜日

「太っちょのオバサマ」は誰か_____深沢七郎のキリスト

太っちょのオバサマはキリストである。これはサリンジャーの『フラニーとゾーイ』の「ゾーイ」で最後にゾーイが明かす秘密だ。といっても、今日のテーマはサリンジャー論ではない。私はサリンジャーのよい読者ではない。ただ自意識の牢獄で苦闘するフラニーに、最後にゾーイが投げかけることば「そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。・・・・よく聴いてくれよ___この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみには分からんだろうか?・・・・ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」(野崎孝訳)の意味が長い間わからなくて、ずっとやりのこした宿題を抱えているような感覚を心のどこかにもっていたのだ。

 わかった、と思えたのは、深沢の小説を読み直すようになってからだった。今日取り上げる「揺れる家」は、サリンジャーの「フラニー」が出版されたのと同じ1955年_昭和30年に執筆され、「ゾーイ」が出版されたのと同じ1957年_昭和32年に発表された作品である。荷物を運搬する舟の上で生活する一家四人の出来事が庄吉という少年の語りで語られる。庄吉一家は庄吉の祖父「おじい」と母親「母あちゃん」、「吉」と呼ばれる父親「父うちゃん」、と戸籍すら定かでない少年「庄吉」が舟の中の狭い二畳間に住んでいる。庄吉は実は「おじい」とおじいが養女に迎えた「母あちゃん」の間に生まれた子で、「父うちゃん」はその事実をごまかすためにおじいが探してきた婿なのだった。「杓子くらいしかない小さい顔で頭はとんがり帽子のように尖っって瓢箪みたい」な「よりによった醜男で頭の足りない」父うちゃんはおじいだけでなく母あちゃんからも無視され、辛い目に合っている。だが父うちゃんは庄吉にはいつもやさしく、面倒をみてくれるのだった。

 ある夜、暗闇のなかでおじいと母親、父ちゃんの三人の無言の格闘劇が繰り広げられる。母あちゃんを巡って、三人とも一歩もゆずらぬ肉のせめぎ合いがあったのだ。翌朝、おじいが父うちゃんをたたきのめして、舟から追い出してしまう。事件はその後、母あちゃんの両親の介入で収まるかに見えたのだが、父うちゃんが行方不明になり、クリスマスの朝、おじいが警察に連行されるという展開になる。誰もが、父うちゃんはおじいに川に突き落とされて死んでしまったと思ったのだが、正月になって、庄吉はすれちがった肥舟の上に立っている父うちゃんを見つける。幽霊かと思った父うちゃんはじつは生きている人間だと知った庄吉は、見えなくなった父うちゃんに向かって、舟からころげおちそうになるくらい大きく手を振った。

 「フラニーとゾーイ」と偶然にも同じ年に発表された深沢の「揺れる家」は、サリンジャーが精緻な自我の分析と宗教批判を展開してようやく最後に用意した救済を、なんの衒いもなくまっすぐに呈示している。父うちゃんこそ「太っちょのオバサマ」だ。なんの力もなくて、なにもできなくて、けれど、庄吉にとっては父うちゃんはキリストだった。物語の最初に、父うちゃんが流れてきた板切れを拾って、玩具にするために、庄吉の背中に投げてくれる場面がある。血がつながっていなくても、自分が辛い目にあっていても、父うちゃんは庄吉を愛してくれたし、庄吉も父うちゃんが好きだった。キリストは教会の中で聖書を読み讃美歌を歌うときにいるのではない。街の中に、家の中に、どこにでもいるのだ。だれもがキリストになれるし、ならなければいけない。いや、すでにキリストなのだ。この後「楢山節考」のおりんに具現化される深沢のキリストは、この小説の中では、おりんのように美化され理想化された形でなく、現実のどこにでもいそうな能なしの姿でぽんと現れた。救いは天からくるのではなく、私たちのうちにあるのだ。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月2日木曜日

深沢七郎の世界___近代的自我とは何か

この頃また深沢七郎を読み始めている。なんだか深刻そうな、ちゃらちゃらした言葉が煩わしくなるときがあって、無性に深沢の描く「庶民」の「あたたかさ」に触れたくなることがある。

 「おくま嘘歌」は昭和37年から42年にかけて発表された「庶民列伝」という連作の第一作である。本名は「つば」だが、死んだ亭主の名前が熊吉だったので「おくまさん」と呼ばれるようになったくまは「色が黒くて背(せい)が低く、足が短くて四角の様な肩幅で、顔はでかいが眼が細く、アタマが小さくて頸が短」いが「ひとに親切だし、正直だし、働き者」だ。息子と娘の二人の子どもはりっぱにそだち、孫にも恵まれて、生活に不自由はないが、鶏を飼うのが上手で、卵を産ませて商いをしている。楽しみは嫁に行った娘の顔を見にバスを乗り継いで出かけることだが、、孫に会いたくて来たと嘘をつく。娘にひとときでも楽をさせたいので、孫の子守をしてやるのだが、娘に気兼ねをさせたくないのだ。肩にずっしり重い子をおぶって、ふらふらになっても「なーに、いっさら」と嘘をつく。夕飯の蕎麦を打ってやって、目いっぱい働いて、家に帰って、また、今度は息子たち家族のために「なに、いっさら」と働くのである。体の自由がきかなくなると、栄養のあるものは「舌がまずくて」嫌いになり、栄養のないトコロテンを「口あたりがいいら」と食べて、みずから死期を早めるのだ。

 ここに描かれる「庶民」おくまは、徹底的に他者のために生き、他者のために死んでいく。みずからのゆたかなエロスを他者に幸せをあたえることだけにふりむける。知識とか教養ということばとは無縁の、だが、実に繊細で意志の強い人間を「庶民」と呼んで、深沢は提示したのだ。

 もう一つ「おくま嘘歌」とは対照的な「庶民」の話。「おくま嘘歌」より以前の昭和24年ごろに書かれた「魔法使いのスケルツオ」という小説の主人公おつまは、小商いと金貸しで生計をたている。死んだ亭主の母親を世話しているが、どはずれた吝嗇なので、満足に食事もあたえない。息子が二人いるが長男は金の無心に来るだけである。あるとき、長男と修羅場を演じた挙句、金をむしり取られたおつまは、腹いせに姑の食事を断ってしまう。どんなに懇願しても食事がもらえない姑は、餓死寸前の身で部屋のすぐ下を流れるドブ川の岸に降りる。そこで野菊をつんで戻り、むしろに突き刺して死んでいく。その後、おつまは姑の葬式で、手伝いの近所の連中や戻ってきた二人の息子にさんざん散財をさせられる。みんなこの機会に吝嗇なおつまからむしりとってやろうとたくらんできたのだった。

 こちらは徹底的に自分の慾だけに生きる人間を描いた。おつまには、倫理、道徳の観念のかけらもない。唯一「世間」は存在して、最後にその「世間」にやられてしまうのだ。「(稼いでも、みんな使われてしまうのだ)そう思うと涙がポロポロとこぼれてきた」口惜しくてたまらない。だが、反省などとは無縁である。(嫌な奴だったなァ)と思う「姑の姿が戒名だけの小さな形になってしまったので、そう思えばなんだか安心して、口惜しさも少しは我慢する気になってきた。」

 徹底して他人のために生きたおくまと、徹底して自分のためだけに生きたおつま。そのどちらも、懐疑とか内省とか、いわゆる近代的自我とは無縁の人間たちである。あるがままの状況に生き、あるがままの状況を生き抜いていった人間たち。おつまの姑も、受け入れざるを得ない状況を受け入れ、死んでいった。深沢はその姑に人間としての尊厳を保たせるために、野菊を一輪手向けたのだ。日本の社会にも、ほんの少し前までおつまの姑のような人たちは実在していたのだろう。もちろんおつまも、それからおくまも。そのだれもが「あたたかい」のである。つくりものでない、生身の人間の肌触りが懐かしいのである。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月31日火曜日

「罪なき者まず石を打て」___法の内面化

 「酒鬼薔薇」と名のる少年の事件が起こったのは十数年前のことだった。衝撃的な事実が報道され、非常に特殊な事件だったにもかかわらず、当時子どもをもつ親だけでなく、多くの人がこの事件を自分のこととして受け止めた。一人事件を起こした少年だけでなく、私たちが築き上げ、それなりの成熟度に達した日本の社会の側にも問題があるのではないかという議論が起こりつつあったと思う。

 だが、少年法の規定で裁判が公開されなかったこともあって、事件にたいする関心は次第に薄れていった。その後も少年による犯罪は相次いだのだが、興味本位な報道が多く、事件の核心に迫ろうという姿勢はほとんど見られなかった。気がつけば、世の中の風潮が、少年法だけでなく、一般に刑法というものの厳罰化に向かっているように思われる。それでよいのだろうか。「罪なき者まず石を打て」ではなかったか。

 「罪なき者まず石を打て」はヨハネによる福音書だけが伝えるエピソードである。朝早くイエスが神殿で民衆に教えていると、ユダヤ人指導者たちが、イエスを陥れようとして、姦淫した女を連れて来た。そして「律法では、こういう女は石で打ち殺せと命じているが」とイエスに問いかけた。だが、イエスは無言で、地面に指で何か書き続けているだけだった。再三の問いかけにイエスは答える。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉に、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていった。一人残った女にイエスは言う。「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 旧約聖書の伝える「律法」の規定は、具体的かつ厳格である。それはけっして体系的、概念的な「法律」ではない。少なくとも近代的な「法」ではなく、「刑罰の定め」という印象を受ける。非常に細かく複雑な刑罰で、しかも現代の私たちの感覚ではきわめて過酷である。独裁者の恣意で罰せられるのではなく、きちんと成文化した規定で罰せられるのだから、合理的であるとはいえようが。ユダヤ人指導者たちは、イエスに「(この過酷な)律法に従って、この女を殺せ、と命じるのか。命じなければ、法を破る、すなわち神に逆らうことになる」と迫った。律法の形式的な厳格性を利用して、自分たちは手を洗って高みの見物のまま、イエスの判断の言葉尻をとらえようとしたのだ。イエスは答えなかった。そして、問題を彼らユダヤ人指導者たちに投げ返したのだった。あなたたち自身は裁くことができるのか、と。

 このエピソードはヨハネだけが伝えている。マタイによる福音書には、同じく姦淫の罪について「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」というイエスの言葉がある。とても、同じ人物の言葉とは思えない。このエピソードはヨハネが創作したものだろうか。それとも、マタイの方が創作なのだろうか。いずれにしろヨハネの描くイエス像は四福音書の中で非常に個性的である。イエスは、真理そのものでありながら、真理を説いて、人々を真理に導く教師として描かれているように思われる。イエスに問う人に、イエスは問い返す。「あなたはどうするのか」と。問いかけて、立ち止まらせて、その問いが自分に向けられたものだということに気づかせるのだ。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月30日月曜日

「家にてもたゆたふ命。波の上に浮きてし居れば、奥処(おくか)しらずも」___存在の不安

以前二か所に家を持っていて、その間を行き来する生活をしていたことがあった。一つは一か月に一度くらいの割合で風を通しに帰る程度だったが、庭が割合広かったので、家庭菜園などしていた。優雅な生活といえなくもなかったが、一年くらいして、貸家にしてしまった。貸家にした理由は、経済的なこともあったが、それよりも二つの家を行き来することが、私の気分を不安定にしたからだった。いつか曽野綾子さんが書いていたのだが、女には二種類あって、「家事女」とそうでない女がいるそうだ。私は間違いなく「家事女」で掃除、洗濯、簡単な食事つくり(大量に食べるので、ほとんど手作りです)をしていれば、それだけで満ち足りた日常を送ることができる。家は、私にとってそういう自分のエロスをみたす空間なので、それが二つに分離しているのは、とても落ち着きが悪いのだ。どちらの家にいてももう片方の家が気になってしまう。魂が二つの家の間を揺れ動いているようだった。

 表題の歌は萬葉集巻十七大伴旅人のけん従の歌。旅人が任地大宰府から都へ上る船の旅の途中で詠んだもの。折口信夫は「萬葉集中第一の傑作」と激賞した。
「家にてもたゆたふ命」_男にとっては家にあっても、魂は落ち着くことがないのだろうか。まして、危険な海の旅では、魂はどこまで浮遊していくのだろう。

 日本の歌のなかで、最も早く「文学を発見」したのは羈旅歌_旅の歌だったと折口はいう。道中通過する土地の神に挨拶の儀礼として地名を詠みこむ歌を奉げ、土地の神を慰撫したのである。
「ともしびの 明石大門にいらむ日や。こぎ別れなむ家のあたり見ず 柿本人麻呂」
だが、古代の旅の厳しさは、たんなる挨拶儀礼をこえて、自分一個の生存の不安をみつめる歌をうみだす。
「いづくにか 吾は宿らむ。高島の勝野の原に この日暮れなば 高市黒人」
しかし、黒人の歌は、まだ必ず地名を詠みこんでいて、羈旅歌として形式を保っている。それにたいして、「家にても」の歌には、地名も固有名詞もない。不安心理の内省は抽象化、観念化の域に達している。どちらが優れているかということではない。文学が共同体の儀礼から展開していく過程を示しているということだろう。そしてこの歌はそこから一気に存在の原点に到達してしまったように思われる。

 萬葉集中で、もう一つ同じように生存の不安を見つめた歌がある。
「うらさぶる心さまねし。ひさかたの天(あめ)の時雨の流らふ。見れば 長田王」

 このところ身辺雑用が続いております。書く時間も読む時間もなかなかとれないのですが、できる限り書いていきたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月27日金曜日

「君はぼくを買ったんだよ、テリー」____資本主義のテキストとしての『長いお別れ』

昭和29年「もはや戦後ではない」という言葉が流行語のようにあちこちで聞かれた。テレビはまだない時代だったから、ラジオで聞いたり新聞の紙面で見たりしたのだろうと思う。「もはや戦後ではない」という言葉がもてはやされたのは、まだ十分「戦後」の現実があったからである。傷痍軍人の姿はさすがに見なくなっていたと思うが、家並みは貧しく、商品も豊富ではなかった。近くに米軍の基地があって、兵士の姿を日常的に目にした。

 レイモンドチャンドラーの最高傑作『長いお別れ』がアメリカで出版されたのは、昭和29年_1954年である。私はこの小説に2度魅了された。一度目は青春の記念碑として。2度目は完成度の高い資本主義のテキストとして。といっても、この作品を初めて私が読んだのは、昭和42年_1967年なので、その間13年の隔たりがある。13年の間にアメリカは変わり、日本も変わった。朝鮮動乱停戦の後、アメリカはベトナム戦争に介入し始めていた。貧しかった日本は朝鮮特需を経て、高度成長にさしかかろうとしていた。そして、私は青春の記念碑としてこの小説を愛読する年齢になっていた。女主人公アイリーン・ウエイドのことば「時はすべてのことをみにくく、いやしく、見すぼらしくするのです。・・・人生の悲劇は美しいものが若くして消え失せてしまうことではなく、年を重ねてみにくくなることです。」(清水俊二訳)に酔った。自分が「年を重ねて、みにくくなる」ときが来ることは想像できなかった。

 この小説をもう一回読み直したのは、日本がバブルと呼ばれた時代だった。「みにくく」なったとは思いたくなかったが「年を重ねた」ことは確かだった。アイリーンとテリー・レノックスの悲恋物語として読んでいたこの小説が、アメリカ全盛時代の社会構造を、推理小説の形式で批判したものだということに気がついた。私が年齢とともに経験を積んだこともあるが、日本の社会がようやくアメリカ50年代に近づいたことも大きかったと思う。一文無しで酔いつぶれていたテリー・レノックスが、大富豪の娘と二度目の結婚をした後、彼の周囲の上流階級の生活について「働かないでよくて、金に糸目をつけないとなると、することはいくらでもある。ほんとはちっとも楽しくないはずなんだが、金があるとそれに気がつかない。ほんとの楽しみなんて知らないんだ。彼らが熱を上げてほしがるものと言えば他人の女房ぐらいのものだが、それもたとえば、水道工夫の細君が居間に新しいカーテンをほしがる気持ちとくらべれば、じつにあっさりしたものなんだ。」と探偵マーロウに語る場面がある。私がこの言葉を実感として受け止めることができるようになるには、アメリカから三十年遅れて、バブル華やかな80年代の「金妻シリーズ」を待たなければならなかった。

 プロットの組み立てが下手なチャンドラーだが、この小説はしっかりした構成と、人物や場面の生き生きとした描写、一度聞いたら忘れがたいセリフなど、彼の最高傑作であることは間違いないと思う。その中に、チャンドラーがアメリカ社会と資本主義というものをどのように捉えていたかを示す印象的な言葉がある。偽装の逃亡劇を演じるためにマーロウを利用したテリーが、再びマーロウのもとに現れ、「からだに正札をつけていない人間は君だけじゃないんだぜ、マーロウ」と言う。それにたいしてマーロウは「君はぼくを買ったんだよ、テリー。何ともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときの何気ない動作やしずかなバーで飲んだ何杯かの酒で買ったんだ。」とこたえる。あらゆるものが商品化される社会で、最も高価なものは人間の魂だ。最も売ってはいけないものほど最も高く売れる。そのことに本人が気づいていなければ最高だ。テリー・レノックスが気づいていなかったとは思わないが。

 「手綱をゆるめて馬に乗ったことはない」と自負するチャンドラーの文章は、すみずみまで神経が行き届いていて、訳文も素晴らしい。私のつたない紹介がその魅力を十分伝えられないのが残念だ。50年代のアメリカ全盛時代に近づきながら、それを超えられないままバブル崩壊を経験し、「失われた20年」を過ぎたいま、ようやく「西洋浪花節」などと揶揄されることもあったチャンドラーを再評価できる時がきたと思う。「しゃれた服を着て、香水を匂わせて、まるで五十ドルの淫売みたいにエレガントだぜ」とは、最後にマーロウがテリーに投げかけた言葉だが、これはまさにバブルのときの日本社会そのものではなかったか。

 少し休もうと思ったのですが、ちょっと時間があって、また書きたくなってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月26日木曜日

「草庵に暫く居ては打やぶり」___芭蕉その一所不住の精神

引っ越しが大嫌いである。箸一本から布団、冷蔵庫まで、一つ一つ分類整理しながら梱包して、またその荷をほどくなど、考えただけでも、身の毛がよだつ。整理整頓ということができないから、必要最小限のもの以外は、この際捨てよう、ということになる。引っ越すたびに捨てて、捨てて、だからけっこう簡素化された暮らしをしております。というよりお金がないだけかも。毎日ルーティンの家事をして、終わったら一人でお茶を飲んで、というのが理想の暮らしである。その暮らしに引っ越しなどという亀裂を入れることは、できるだけ避けたいと思っているのだが、現実には、かなりの回数を重ねてきた。平穏な日常をこよなく愛しているのに、なぜか、「動きたく」なってしまう。「動く」ことを余儀なくされることもあったが。

 表題の句は芭蕉七部集「猿蓑」巻五「市中は物のにほひや夏の月」と始まる歌仙の名残の十一句。
「そのままにころび落たる升落 去来」
「ゆがみて蓋のあはぬ半櫃 凡兆」
と庶民の生活日常を詠む句が続いたあと、突如
「草庵に暫く居ては打やぶり」
と返す。なんという激しい気迫!当然西行の
「吉野山やがて出じと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」が連想されようが、「打やぶり」という語の強さが、いわゆる隠者文学の踏襲の域をはるかに超えている。

 芭蕉は「野ざらし紀行」「奥の細道」という、隠者というより求道者としての大旅行を終えて、元禄三年近江の膳所で新春を迎えた。だが、ここも
「行春(ゆくはる)を近江の人と惜しみける」
と去って、四月石山奥の幻住庵にこもる。
「先(まづ)たのむ椎の木もあり夏木立」と落ち着くかにみえたが、その後いったん嵯峨の落柿舎に滞在、さらに九月郷里の伊賀に、師走は京、四年の春は再び湖南に、と短い間に目まぐるしく移動した。七部集中最高峰といわれる「猿蓑」は、まさに「一所不住」の生活の中で編纂されたのである。そこまで芭蕉を駆り立て、追いやったものはなんだったのだろう。去来はこの芭蕉の句につけて、
「いのち嬉しき撰集のさた」
と、西行を想起しつつも、師の骨身を削る編纂をたたえているが。

 ずいぶん長くものを書くということから離れてきた。読むことからも離れてきたが。ふたたびものを書くことがあるとは思ってもみなかった。いま、ブログという形式が与えられて、自由に書くことができるのはなんという幸せだろう。まさに、数十年の生活を「打やぶ」って書き始めた。だが、ここで少しペースダウンして、他人の書いたものを読みたくなった。ブログに載せるために読み直した作品のあれこれを、もう一回ゆっくりと味わいたいと思うようになった。そのために書くことに割く時間はどうしても少なくなると思うが、またつきあっていただければ、幸いです。我が儘ついでに、創作能力の乏しい私が作った俳句の紹介です。

「こぶし咲きぬ 一所不住の生涯に」

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月25日水曜日

「初めに言(ことば)ありき」____人間たらしめるもの

ヨハネによる福音書は不思議な書物である。イエスの事跡を伝えるのに、マタイのように「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とルーツをたどることもなく、ルカが伝える美しいクリスマスストーリーとも無縁である。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と力強く宣言するマルコとも違う書き出しだ。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と旧約の創世記と同じように「初めに・・・があった。」と天地創造を語り始める。天地創造を、ことばによって認識するのでなく、天地創造の原初に、ことばが「あった」とするのである。そして、その「ことば」によってすべてが成り、その「ことば」のうちに命があった、とする。言い捨てられて消滅してしまう「ことのは」でなく、原初から存在し、すべてを成り立たせる働きをするもの、生きて動く「いのち」あるものが「ことば」である、と。

 以上のような形而上学的記述は、論理としては理解しうるとしても、実感として「わかる」とはとてもいえない。私が実感として「初めにことばありき」を理解できたのは、もう十数年以上前、子どもの勉強をみる仕事をしていたときのことである。

 初めて彼女に会ったのは、彼女が五年生の時だった。「うちでは勉強をみてやれなくて」と母親がつれてきたのだが、まず驚いたのが、必ず指を使って計算することだった。暗算という概念はないようだった。それから本を読めないことだった。内容がわからないといったことではなくて、音読ということができないのだ。一行上から下に読み下すことができなくて、何度も同じところを行ったり来たりしてしまう。ある程度以上の分量になると、文字を「ことば」というまとまりとして読み取れなくなるようだった。お話することも上手ではなかった。いつも、同じ女の子の絵をかいていた。

 私にできることは、徹底して彼女の話を「聞く」ことだけだった。彼女から「ことば」をひきだすこと、彼女が、自分のうちに「ことば」をもっているということに気づかせること、同時に世界は「ことば」で成り立っているということを理解させること、そのためには、まず、彼女を受け入れ、彼女から聞かなければならなかった。数の概念や読書感想文はそのずっと後だった。そう、「初めにことばありき」だったのだ。

 彼女との数年間は楽しかった。私が彼女に教えたことより、彼女から私が学んだことのほうがずっと多かった。とくに、人が言葉を習得するとはどういうことなのかについて、考えさせられた。いまでも考えている。ことばによって、ことばの内にある命の光によって、人は人たらしめられるのだろう、と思っている。ことばを奪ってはならないし、ことばを失いたくない。希望はことばにしかないから。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2012年1月23日月曜日

「ぶどう園と農夫___悪しき農夫のたとえ」___イエスは誰に語ったのか

ヨハネを除くすべての福音記者が伝える「ぶどう園と農夫のたとえ」について書くことには葛藤がある。これはたとえ話なのだから、このたとえ話から、何を読み取るかが大事なので、物語の内容にいちいちこだわることは、躓きの石です、という声が聞こえてくるような気がする。

 それぞれの福音記者の叙述には、細部で微妙な違いがあるが、ここでは、最も早く書かれたと思われるマルコによる福音書の記述を紹介しよう。ユダヤの祭司長、律法学者、長老たちと「権威についての問答」をした後、次のように「イエスはたとえで彼らに語った」。

 ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、僕を農夫のところに送ったが、農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせずに帰した。また僕を送ったが農夫たちは頭を殴り、侮辱した。更にまた送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と愛する息子を送ったが、農夫たちは『これは跡取りだから、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』と捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。ぶどう園の主人は、戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

 ここで農夫にたとえられているのは、いうまでもなく祭司長以下のユダヤ支配層である。ぶどう園に送られてきた僕は旧約の世界に登場する預言者たちだ。あなた方は、預言者たちの言葉を聞かず、かたくなで、その存在を抹殺してきた。最後に送られて来た神の子も殺して、すべてを手に入れようとしている。イエスの批判は鋭い。そして、現実にその通りになったので、このたとえ話は無理なく受け入れられてしまう。少なくとも「聖書」の世界のなかでは。

 では、この話を、現実の「農夫」と呼ばれている人たちに語ったら、どうなるだろう。「そうです。収穫物はご主人のものですから、きちんとご主人に渡します。私たちは、その分け前をいただければありがたいのです」となるだろうか。もちろん、現実には、農夫たちは分配に口を出す権利などもつはずもない。そういう社会のなかで、このたとえ話は語られたのだ。分配に口を出す権利などなく、そんなことが考えられもしなかった社会でも、権利、義務などの観念でなく、実際の生活のひっ迫から農民が立ち上がることはあっただろう。だが、ぶどう園の「労働者」に対してあれほど共感を寄せていたイエスは、ここでは、「農夫」に一片の同情もない。遠く離れた所に住む大土地所有者がまったくの不労所得を搾取する、という当時の現実を無条件に肯定したうえで、この「たとえ話」を語っているのだ。

 福音記者たちは、イエスはこのたとえ話を、イエスを陥れようとしているユダヤ支配層に向けて語ったと記している。おそらく実際そうだったのだろう。彼らは神の国を管理する義務を負っていて、忠実に実行しなければならないのに、それを怠り、腐敗しているという事実を激しく糾弾したのだ。だが、この話は、「聖書」の中で「悪しき『農夫』のたとえ」として定着してしまったことで、さまざま問題をはらんでしまったのではないか。まず、第一に、これを「たとえ話」として読む私たちは、無意識のうちに、自分をぶどう園の主人と主人が遣わした僕の側においている。農夫すなわちイエスから糾弾されるユダヤ支配層の側ではない。そうだろうか。私たちは、彼らとどれほどの違いがあるのか。また、たとえ話とはいえ、農民が領主に反抗することは、無条件に悪である、としたことで、「この世の秩序には従順でありなさい。その上で、心のなかに信仰をたもちましょう」という方向付けがなされたのではないか。このたとえ話のすぐ後に、ヨハネ以外の福音記者すべてが、「カイザルのものはカイザルへ」というイエスの言葉を記録しているのは偶然ではないだろう。

 福音記者たちは、このたとえ話を締めくくるイエスの言葉として「聖書にこう書いてあるのを読んだだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」と記す。だが、私は、おそらくイエスがこのたとえ話を構築する際に土台としたイザヤ書5章と合わせて、この話を読むべきだと思う。
「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を」とはじまるこの詩は
「よいぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。」と展開し
「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに この地を独り占めにしている」と現実の大土地所有者を弾劾している。民族を滅亡に至らせるものは、彼らの腐敗、不正なのだ、と。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月22日日曜日

「沫雪の ほどろほどろに降り頻けば、平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも」____個人的感慨としての詩歌

萬葉集巻八 大伴旅人の歌。以前「男の恋歌」でとりあげた「ますらをと思へる吾や。みづくきの 水城の上に、涙のごはむ」の作者が、任地九州にあって、降る雪に故郷を思って詠んだ歌である。「ほどろほどろに降り頻けば」の「ほどろほどろ」が好きである。水分を多く含んだぼたん雪が、次から次へと地上に舞い下りてくるさまを、重過ぎも軽すぎもしない語感でみごとにとらえている。いつやむともしれない雪を、旅人はじっと見ている。そして、遠くはなれた都の生活と都の人を思っている。ここでは、雪は「豊年の予祝」として、儀礼的に詠まれているのではない。雪は、旅人の心を、いまあるこの場から遠くにときはなつ作用を及ぼすものとして詠まれている。雪は、というより歌は、共同体的な発想から抜け出して、個人の感慨の表現として詠みだされる一歩を踏み出したのだと思う。

 さてここで、昨日とりあげた永田耕衣さんの雪の俳句。
「雪景の生死生死(しょうじしょうじ)と締り行く」
旅人が「ほどろほどろ」ととらえた雪のふるさまを、「生死生死(しょうじしょうじ)」と表現している。雪が空から降ってきて、地面にすい込まれる様子を「生まれて死んで、生まれて死んで」と直観したものだろう。一秒にも満たない時間のうちに展開する雪の誕生と死、そのなかに永遠をみているのか。それとも永遠が遠ざかっていくのをみているのか。興味深いのは、この句
Sekkeino SyouziSyouzito Simariyuku とS音が句の先頭にきていることだ。S音の連続が一句全体に緊張感とある種の神聖感をもたらしている。と同時に、ここには詠む人の「個人的感慨」というようなものは、もはや消えてしまって、一句は乾坤一擲、宇宙を切り取る大勝負のおもむきがある。

 ちなみに、旅人の標題の歌を同じくローマ字表記してみる。
Awayukino Hodorohodoroni Hurisikeba NaranoMiyakosi Omohoyurukamo
となって、みごとなまでにS音はない。母音のAとOが多用され、子音のN、Mがはさまれることで、一首は、なまあたたかな感触がする。

 日本の歌が、共同体の儀礼歌から、個人の感慨の表現としての文学へ、という過程をたどる際に、もう一人必ず触れなければならない歌人として、旅人の先達高市黒人がいるが、ここでは黒人の業績について書く余裕がない。黒人は、萬葉集の中で私が最も好きな歌人であったが。一首黒人の雪の歌を紹介しておく。
「婦負(めひ)の野に 薄をしなべ降る雪の 宿かる今日し悲しく思ほゆ」
旅人ほど完全に個人的感慨の歌ではない。だが、羈旅歌としての儀礼より、じみじみと心細さのつたわってくる歌だと思う。

 萬葉の後半で、個人としての感慨_共同体の儀礼ではなく私のための文学_としての一歩をふみだした詩歌は、「私のため」をも通りぬけてしまって、永遠をつかみ取ろうとする禁断の領域にはいってしまったのか。最後に耕衣さんの俳句をひとつ。
「秋雨や空杯の空(くう)溢れ溢れ」
これは「あきさめや くうはいのくうあふれあふれ」と読むのでしょうか?それとも「しゅううやくう さかずきのくうあふれあふれ」と読むのでしょうか?

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月21日土曜日

「男老いて男を愛す葛の花」_____永田耕衣さん讃歌

永田耕衣さんのファンである。もう亡くなってしまわれたけれど。阪神淡路大震災に遭遇されて、トイレに入っていて助かった。その体験を詠んだ俳句が当時の新聞に掲載されていて、その前衛ぶりに目を瞠いた覚えがある。残念ながらその十七文字を忘れてしまったので、何とか探したいと思っている。いま手もとに句集『生死(しょうじ)』があるが、平成二年までの自選集なので、大震災後の句はない。

 もともと謎解き、パロディの要素を強く持つ俳句は、注釈抜きで私ごときが理解できるものは少ない。とくに永田耕衣のように「乾坤一擲」といった趣のある句は、読んですぐわかるものはわずかだ。それでも、標題の「男老いて男を愛す葛の花」は、あっけらかんとわかり過ぎるくらいに
「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈超空」を踏まえたものだ。この歌は以前『「あたらし」と「あらたし」_折口信夫』で取り上げたもので、折口(歌人として釈超空を名のる)の処女歌集『海山のあひだ』の巻頭の歌である。折口は同性愛者で、この『海山のあひだ』は「この集をまづ與へむと思ふ子あるに__かの子らや われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに わびつつをゐむ」と始まる。折口の歌二首が、いかにも折口らしい、抑制しようとしてもしきれぬ情念の屈折をうかがわせるものであるのにたいして、永田耕衣の俳句はそのものずばり、単純明快である。「男を愛す葛の花」何が悪いか、と痛快だ。

 この句の少し前には、「室生寺行 妻同伴」と前書して
「組みて老い来にけり凄し葛の道」という句がある。「葛の道」は実景であろうが、やはり浄瑠璃「葛の葉」の「恋しくば尋ね来てみよ 和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」が響いてくるようだ。それにしても「組みて老い来にけり」とはほんとうに「凄い」。女人高野と呼ばれる室生寺への道は険しく、境内もまた起伏に富んだものだったように思われるが、「凄し」は道だけにかかることばではないだろう。

 「死ぬほどの愛に留まる若葉かな」
はて、この句はどういう意味でしょう。まったくわからないのだが、この句の少し前に
「生は死の痕跡吹くは春の風」という句がある。こちらが、乾いた、でも生暖かいニヒリズムという感覚の句なのにたいして、「死ぬほどの」の句はそのニヒリズムを瞬間超えたものがあるように感じる。

 大震災に遭遇されても、奇跡的に生き延びた耕衣さんだったが、骨折がもとで、俳句を書けなくなり、その後しばらくして亡くなられた。百歳までも生きられると思ったのに。
「虎杖のぽんと折るると折れざると」
いつまでも折れないと思っていたのだが。

 今日も、出来の悪い感想文を読んでくださってありがとうございます。

2012年1月19日木曜日

「注文の多い料理店」_____被害者は誰だ

今日は、もう一つの教科書の定番「注文の多い料理店」について考えてみたい。これも難解な童話で、しかも、「オッペルと象」のようなすっきりとした読後感は得られない。今でも、大変人気のある作品のようで、読み聞かせの催しなども行われているようだが、はたしてこれは「おもしろい」話だろうか。

 二人の金持ちの若い男が猟をするために山奥にやってきて、「あんまり山が物すごいので」つれてきた犬を死なせてしまう。道に迷って、お腹もすいた男たちは「西洋料理店 山猫軒」と看板のかかった家を見つけて喜ぶ。だが、実はその店は、山猫が、入ってきた男たちを食べるための店だった。男たちは次から次へとつけられる注文に素直にしたがって、どんどん奥に入り込んで、気がついたときは、逃げ場がなくなってしまった。絶体絶命の男たちを救ったのは、死んだはずの犬だった。犬たちが扉を破り、山猫をやっつけたのだった。

 これはハッピーエンドだろうか。「助かってよかった!」と感情移入できる主人公たちだろうか。道楽の殺生をするためにやってきて、つれてきた犬が死んでも、悲しむどころか、損をした、とくやしがる男たちよりも、うまく男たちを誘導できなくて、最後に犬にやっつけられてしまう山猫の方に同情してしまう。物語には登場しない「親方」のために、「どうせぼくらには、骨もわけてくれやしないんだ」といいながら、自分たちの「責任」になるからといって、必死の呼び込みをする。賢治は、この呼び込みの場面をユーモラスに描いているが、この後山猫たちは犬にやっつけられてしまうのだ。いつの世も前線にいる者だけがリスクを負うのだ。

 賢治は男たちの酷薄さと俗物根性を執拗に描写する。ユーモアでくるみこまれた賢治の怒りは、男たちを死の瀬戸際まで追いやった。死んだはずの犬を生き返らせてなんとか救い出すことにしたのだが。しかし、犬にやっつけられてしまった山猫はどこへ行ったのか?また、「骨もわけてくれない」親方の下で、一生懸命働いているのだろうか。

 今日も、出来の悪い作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月18日水曜日

オッペルと象____白い象の悲しみ

以前子どもの勉強をみる仕事をしていた時期があった。その頃、宮沢賢治の作品からは「オッペルと象」と「注文の多い料理店」がほぼ定番で教科書に取り上げられていた。どちらも非常に難解な作品で、教師は、これらの教材をどのように指導するのだろう、といつも思っていた。日清、日露の二つの戦争を経て、近代化が加速した一方で、多くの矛盾を抱えた当時の社会構造への批判をまず読み取るべきだとしても、けっしてそれだけにとどまらないものを、とくに「オッペルと象」はもっているように思う。 

 この作品を読み終わって、何より印象的なのは、「『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう言った。」という最後の文章である。白い象の、助け出された喜びよりも、どうしようもない悲しみがしずかにつたわってくる。では、白い象はいったい何が悲しかったのか。

  森という異界からやって来た白い象が、農民を労働者として雇い新式の器械を駆使して工場を経営する地主資本家のオッペルのもとで働く。無邪気に労働の楽しさを享受していた象は、だんだん過酷になる労働と、反比例して劣悪化していく待遇のために衰弱するが、仲間の象によって救出され、オッペルと彼の工場は崩壊する。

 農民一揆を想起させるような救出劇が描かれるが、これは一揆の寓意ではないだろう。当の農民は、とっくにオッペルを見捨てて、降参の意をあらわしているのだから。「グララアガア」という擬音語を繰り返し、「象はいちどに噴火した」「まもなく地面はぐらぐらとゆれ、そこらはばしゃばしゃくらくなり」とあるのは、なんらかの天変地異をあらわしていると思われる。

 つまり、これは異界からやってきた白い象が、狡猾な人間にその無邪気な善意を利用され、搾取されて、死にそうになったが、異界から仲間がやってきて救出される、という貴種流離譚の一種なのだ。不思議なのは、白い象は、みずからすすんでオッペルの意に沿うように行動する。「赤い竜の目をして」オッペルを見下ろすようになっても、彼に逆らうことはないのだ。すべてを受け入れ、「もう、さようなら、サンタマリア」と死を覚悟する。白い象とはいったいなにものなのか。

 白い象がなにもので、なにがほんとうに悲しかったのか、さまざまな解釈が成り立つと思われるが、なんだか軽々しく言葉にしてはいけないような気がする。作者が、この物語を閉じるにあたって「おや、君、川にはいっちゃいけないったら」という一行を付け加えたのは、「これはお話だよ。このお話はこれでおしまい」、とみずから韜晦の姿勢を示したのではないか。

 この物語では異界から「やってきた」白い象は、少年ジョバンニとなって、今度は「銀河鉄道」に乗って「幻想第四次」の異界に「旅立つ」だろう。そして、「どうしてこんなにひとりさびしいのだろう」と思いながら、「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」決意をして、もう一度地上に戻ってくるのだ。

 今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

2012年1月17日火曜日

「わたしはまことのぶどうの木」___死と復活と再生

前に住んでいた家の庭にぶどうの木が一本あって、ある年突然、信じられないくらいたくさん実をつけた。毎日毎日、顔がぶどうの色になるくらい食べたのだが、とても食べきれないので、潰して、広口瓶に入れ、ふたをして放っておいたら、数日で発酵して、ぶどう酒ができた。夏の終わりでまだ暑い日が続いたので、ちょうどいい加減の温度が保たれたのだと思う。それからしばらく秋になると葡萄酒をつくった。うっすらと粉をふいて、はじけるようなぶどうの粒を圧搾器で潰して、皮も実も種もみんないっしょに広口瓶の六合目くらいまで入れて、最後に発酵を進めるためにちょっと砂糖を加えて、ふたをして、そうすると、さあ、ぶどう酒の天地創造劇の始まりです。

 押し潰されて無残な姿になっていたぶどうの粒が、だんだん皮とどろどろの実に分離してくる。この段階は、皮も実も草色と泥色の混じったような色で、全体にどよーんとした感じ。しばらくすると、少しずつ、泡が出てきて、発酵が始まる。泡がたくさん出て、発酵が進むと、行ったり来たり上下運動をしていたぶどうが皮と実に分離し始める。いつのまにか、どよーんとしていた広口瓶の中身が、きれいな桜色になってくる。ほんとうにきれいな桜色だ。この段階で上澄みを飲んだら、きっと甘口のおいしいぶどう酒なのだろう。でも、甘いお酒がダメな私は、このまま発酵させて、きれいな桜色が、きれいなワインレッドに変わるのを待つ。透明で美しいワインレッドになったら、出来上がり。ざるで漉して、液体は適当な酒瓶に詰める。底にたまった澱も絞って、二番絞りのぶどう酒になる。

 この過程を見ていて、聖書のなかにぶどうに関する記事が多いのがわかるような気がした。これはまさに、死と復活と再生の過程ではないか。一粒の麦ならぬぶどうが刈り取られて、無残に潰され、容器の中に押し込められる。そこから、発酵という復活が始まるのだ。発酵はけっして穏やかな作用ではない。いつか、欲張って広口瓶の八合目くらいまでぶどうを入れたら、内側からもの凄い力で瓶のふたが開けられ、中身が部屋中にとび散った。あのエネルギーはどこから生じるのだろう。まさに、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れよ」である。十分に発酵して、最後にアルコールとして再生すれば、ほぼその状態で安定する。

 聖書の中でも、とくにヨハネによる福音書はぶどうに関するたとえを多く記している。第15章「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という一節が有名だが、第2章の水をぶどう酒に変える奇跡も印象的である。婚礼に招かれたイエスが、母に「ぶどう酒がなくなりました」と言われ「わたしの時はまだ来ていない」と言いながらも、水がめに満たされた水をぶどう酒に変える。これは、ヨハネによる福音書だけが記す奇跡であって、ヨハネはこう記している。「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」

 家の庭にあったぶどうの木は、何年かしたら、まったく実が生らなくなった。ぶどう農家の人に聞いたら、ぶどうは剪定が大事で、たくさん実をつけさせてはならず「地面に木洩れ日がさすくらい」に隙間をあけておくそうだ。それから間もなく、その家を貸して、私たちは引っ越した。いまは、新しく住人となった方たちが、いったんは見る影もなくなったぶどうの木を大事に育ててくださって、去年は初夏に青い花実をつけた。今年はいく房か実るだろうか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月16日月曜日

愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら___俳句は抒情詩か?

蕪村の有名な句である。高校時代にこの俳句を読んだとき、自然に伝わってくる「憂愁」の近代性に驚いた記憶がある。日本語の読める人なら、この句を理解するのに、何の説明もいらないだろう。「かの東皐にのぼれば」と題する三句連作の最後の句である。

三句を順にあげると
「花いばら 故郷の路に 似たるかな」
「路たえて 香にせまり咲く いばらかな」
「愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら」

 第一句、野いばらの群生に故郷の風景を連想し、第二句では、道を覆って群生する野いばらのむせ返るような匂いをうたう。そして第三句、ここで初めて、「愁ひつつ」と蕪村その人の姿が現れ、野いばらは背景に退く。清楚な白い花を咲かせる「花いばら」は、作者の「愁い」に甘美で官能的な彩をそえている。美しい、美しすぎる抒情詩の連作のようにみえる。

 だが、俳句は抒情詩だろうか。芭蕉の時代にすでに、「俳句」は「発句」だけが自立して、前後の句を必要としない句が誕生していた。しかし、厳密にいえば、それらを抒情詩の範疇に入れることはできない。俳句は、作者個人の思いの独白というより、座の文学として、共同体の他者にむかって開かれた表現だからである。また、俳句は「俳諧」であり、諧謔と自己批判の要素をもつもので、自己完結的な抒情詩の枠からどうしてもはみだしてしまう。

  それでは、蕪村のこの連作は抒情詩であって、俳句ではないのか。このことを考えるために、もう一度連作中の「花いばら」を検討してみたい。「花いばら」は美しい花であると同時に鋭い棘である。「故郷の路」は棘で覆われた道だった。さらにはむせかえるほどの「いばら」の群生で、「路たえて」しまうのだ。傷心の作者蕪村が、岡にのぼって出合ったたもの、それは甘美な望郷の思いや官能的な香りだけではなかったのではないか。もっと複雑な感覚を「花いばら」と「いばら」という言葉を使い分けることによって表現したかったのではないか。それが表現出来てはじめて、この連作はようやく俳句として成り立つのだ、と思う。それでも、ずいぶん自己完結的な、短歌的抒情に傾きそうなところまできているようだが。

 参考までに 「花いばら」は、芭蕉の時代にはどのように詠まれていたのかを知るうえで、興味深い例をあげておきたい。「花いばら」を詠んだものはそんなに多くない、というより、かなり稀なのだが、『芭蕉七部集』最初の「冬の日」に
「花棘 馬骨の霜に咲かへり 杜国」とある。野ざらしの馬骨に置いた霜を、野いばらのかえり咲きに見立てたものであって、短歌的抒情とはずいぶん遠いところにあると思う。

 今日も、出来の悪い作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 
 

2012年1月15日日曜日

「ぶどう園の労働者のたとえ」__平等ということ

以前夫が勤めていた会社は、十数名の社員全員が同じ給料だった。ボーナスも同額だった。たった10万円だったけれど。素晴らしい社長だった。のんだくれで、夫の入社後2年も経たないうちに死んでしまったので、たんに面倒だから、全員一律の給料にしたのか、人間の評価など人間にはできるはずもない、というような深い考えがあってそうしたのか、今となっては確かめるすべもないが。

 それで、いよいよマタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみたい。といっても、今日は時間がないので、このたとえのあらすじの紹介です。

 ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明け前に出て行って、何人かの労働者を1デナリオンの約束で雇い、次に9時ごろまた広場に出て行って何人か雇い、12時、午後3時、最後に夕方5時になっても仕事に就けないで広場に立っている人々がいたので、雇った。さて、賃金を払うことになって、主人は監督に「最後に来た労働者から始めて、最初に来た者まで順に、賃金を払うように」と指示する。ところが、最初に雇われた人たちが、最後に雇われた人たちと自分たちの賃金が同じであることで、主人に不平を言う。「最後に来た連中はたった1時間しか働かないのに、1日中暑い中を働いたわたしたちと同じとは」。これに対して主人は「友よ」と呼びかけ、こう言うのだ。「あなたに不当なことはしていない。わたしは、あなたと1デナリオンの約束をした。わたしは最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ」

 マタイはこの記事を「天の国は次のようにたとえられる」と書き始めているが、これは「たとえられる」のではなく「天の国は次のようになっている」と記すのが正しいだろう。これは「たとえ」ではない。自分の肉体労働しか売るものがない労働者にとって、働くことができない、ということは死に直結する。遊び呆けて広場にいたのではないのだ。働くことができないから、お腹を空かせて立っていたのだ。夕方5時になって、今日誰も雇ってくれなかったら、一晩中みじめに夜を明かさなければならない。だから主人は、最後に雇った者から先に賃金を払うように、監督に命じたのだ。これで、朝から働いていた者も夕方やっと働けた者も、平等に明日を迎えることができる。これが神の国でなくて、なんであろうか。

 あらすじの紹介で、私の言いたいこともほぼ尽くしたと思うのですが、できれば後日「ぶどう園の農夫のたとえ」についても、考えてみたいと思います。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月13日金曜日

「貧しい者は幸い」か___山上の垂訓を考える

GDPの推移だの労働者の賃金の減少だの、いちいち数字をあげなくても、私たちの暮らしが年を追うごとに貧しくなっているのは、多くの人が共有する実感だろう。絶対的な窮乏ではない。まだ、何とか食べていくことはできるし、こどもを学校にやることもできる。でも、なんだか体のなかから生き血を抜かれているかのように、社会全体から活気が乏しくなっているのだ。先が見えない時代、ともよくいわれる。そうではないだろう。先は見えている。ベクトルは下だ。そして、まだ底には到達していない。簡単にいえば、もっと悪くなる、と多くの人は思っているが、その現実に向き合うのがつらいから「先が見えない」と言っているのだ。

 それで、聖書のなかの有名な「山上の垂訓」を考えてみたい。この記事は、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されている。イエスが山に入って、弟子たちに語ったとされる言葉である。マタイの記事では「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」となっているがルカは」端的に「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と記している。ここでは、より原典に近いといわれるルカの記事を中心に考えてみたい。

 ルカは続けて次のように記す。「今、飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」貧しくて、飢えて、泣いている人々、どうしてそういう人々が幸せなのか。ここから、余剰を削ぎ落す、いわゆる清貧の思想の類を読み取ろうとするのはナンセンスである。イエスの時代も現代も、地球上には貧しくて、飢えて、泣いている人たちのほうが圧倒的に多いのだ。

 この「・・・・人々は・・・・である。・・・・人々は・・・・である」という倫理学の教科書みたいな口語訳聖書から離れて、今は一般に使われていない文語訳を振り返ってみたい。、たしか「幸いなるかな、貧しき者、神の国は汝らのものなり」となっていたと思う。もう一つ、英語の聖書では、こうなっている。
Blessed are you poor, for yours is the kingdom of God.
Blessed are you that hunger now,for you shall be satisfied.
Biessed are you that weep now,for you shall laugh.
原典のギリシャ語はどうなっているかわからないのだが、おそらく口語訳よりは、文語訳、そして英語の聖書のほうに近いのではないか。Blessed are you ・・・はたんなる倒置ではない。「祝福はあなたがたにある!」という宣言なのだ。いま、目の前にいるあなたがたに!飢えて、泣いているあなたがたに!
for yours is the kingdom of God. なぜなら、あなた方のものなのだ、神の国は。
for you shall be satisfied .なぜなら、私があなたがたをお腹いっぱいにするのだ。
for you shall laugh. なぜなら、私があなたがたを笑えるようにするのだ。

 shallは、話者が必然と考える未来について発語するときの助動詞である。目の前で、飢えて、泣いているあなた、私はあなたを祝福する、そしてあなたがたに神の国をもたらし、お腹いっぱい、笑えるように必ずする、という狂気のような強い意志を、語順の倒置と助動詞shallから読み取るべきなのだ。イエスは本気で行動しようとしたのだし、実際にしたのだ。そして、十字架にかかったのだ。

 さて、ここで私は自問する。私は、祝福される者として、イエスとともに、イエスの側にいるのか?それとも、傍観者として、イエスを十字架につけた者と同じ側にいるのか?

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月12日木曜日

「しるしなき恋をもするか」___男の恋歌

昨日に続いて、聖書のなかの「ぶどう園の農夫のたとえ」と「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみようと思ったのですが、もう少し後にします。今日は萬葉集の中から、男の恋歌をいくつか紹介します。

 「しるしなき恋をもするか 夕されば ひとの手まきて 寝なむ子ゆゑに」巻十一 作者不詳
こんな実るあてのない思いに身を焦がすとは。夜ともなれば、ほかの男の腕の中で寝る女のために___人妻への恋をうたったもので「恋をもするか」の「か」にやるせない思いがこもっている。だが「作者不詳」とあるので、個人の独白というより、民謡のように集団に膾炙した歌なのだろう。空想の世界では、不倫は人に甘美な感情を呼び起こさせる。現実の不倫は、苦くみじめな思いに満ちたものだろうけれど。

「ちりひぢの数にもあらぬわれ故に 思ひ侘ぶらむ妹が かなしさ」巻十五 中臣宅守
ものの数にも入らないような自分のために、うちのめされている恋人が愛おしい。___ こちらは作者名が記されていて、歌の成立事情もある程度わかっている。宅守は、狭野茅上娘子(さのちがみのおとめ)との結婚問題が罪に問われて、越前の国に流された。この歌は、二人の間で交わされた「宅守相聞」六三首の一首である。一般には、茅上娘子の情熱的な歌群の方が有名である。宅守の歌はその情熱をうけとめるには、いくらか力が足りないような印象を受ける。「こんなダメな男に惚れたお前は可愛いが・・・・」なんて、他人事みたいに言っていていいの!という感じがする。

「ますらをと思へる吾や みづくきの 水城の上に 涙のごはむ」巻六 大伴旅人
立派な男と自負していた俺なのに。別れのときに、こんな所で涙を拭う始末だとは。___旅人は家持の父。九州大宰府の帥として五年間在任し、任期を終えて都に帰るときの歌。愛人だったと思われる遊行女児島が、水城まで旅人を送り、別れを惜しんで詠んだ歌への返歌である。旅人はこの時すでに六十歳を超えていて、病を得ていた。そうでなくても、児島とは永遠の別れになるだろう。万感の思いが込み上げてくるのを抑えられなかった。不覚の涙、しかし、颯爽とした「ますらを振り」の歌である。

 こうしてみると、女の恋歌が、技巧をこらしていても、相手への直接的な「訴へ」であるのにたいして、男の恋歌はどこか客観的で反省的である。弱々しく見えるのは、最後まで理性といわれるものを捨てきれないためかもしれない。

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