2018年7月25日水曜日

小津安二郎『東京物語』__「主は冷たい土の中に」__紀子に渡された時間

 生と死、家族のあり方を描いた傑作として評価が定まっている作品である。尾道から老夫婦(妻が六八歳、夫はそれよりいくらか年上か)が上京する。長男と長女の家に滞在するが、それぞれの生活の都合があって、結局義理の娘(亡くなった次男の嫁)の世話になる。帰りの列車の中で具合が悪くなった妻は尾道に帰ると急死してしまう。「ハハキトク」の電報で子供たちが尾道に集まるが、葬式が終わるとその日のうちに帰っていく。最後に残った次男の嫁も、尾道の小学校で教師をしている次女と東京での再会を約束して帰京する。

 プロットの展開といい、登場人物の性格描写と言い、リアリティに満ちていて、これもまた不自然なところなどどこにもないように見える。何となく次男の嫁_紀子の献身ぶりが浮き立ってしまうようなところがあるのだけれど、その素晴らしい日本語、というか東京山の手の上流階級風のことばと物腰、表情に納得してしまう。

 しかし、それでもやはり、この映画はおかしいのである。今日、映画はDVDその他で繰り返し見ることができる。時には、映像を中断して、停止画像を検証することもできる。そのような操作をして「おかしさ」を発見することは、観客として邪道かもしれないが、小津もまた確信犯的アンフェアだといわざるを得ない。

 熱海の宿で眠れぬ夜を過ごして、東京に帰った周吉ととみの夫婦は、泊まろうと思っていた長女の家を追い出されてしまう。とみは紀子のアパートに泊めてもらう。時計の鐘が十二時を告げている。アパートの部屋で、紀子に肩を揉んでもらうとみ。とみの表情はほんとうに柔和で幸せそうだが、紀子のそれはニュートラルである。とみに向かい合う時は十分に笑みをたたえているが、そうでないときは、はっとするほど冷酷な表情をする。それがまた、慄然とする美しさなのである。

 まだ若いのだから、と再婚をすすめるとみに「もう、若かありませんわ」と自嘲気味に答える紀子。その目はなまめかしい、というか妖しいというか、複雑な色を帯びていて、夫を亡くした後の紀子の生活が葛藤に満ちたものであったことをうかがわせるようだ。「それじゃぁ、いいとこがありましたら」と受け流す紀子に、さらに「苦労をかけた・・」と言いつのるとみ。行く末を案じるとみに紀子は「あたし齢取らないことに決めてますから」と冗談とも本気ともわからないことをいう。「ええ人じゃのう、あんた」と、とみは俯いて涙ぐむのだが、紀子はどこか突き放した口調で「じゃ、おやすみなさい」と切り上げ、電灯を消す。とみの背中を見る紀子の視線は獲物をうかがう動物のような冷酷さである。

 カメラはさらに、仰向けになった紀子の横顔を映す。目を見開いて、上を見上げる紀子は何事か考えている様子である。二度瞬きをして、かすかに喉もとを動かし、何か飲み込むようである。とみと紀子の間にはひそかに張り巡らされた緊張の糸が存在するのだ。薊を意匠した紀子の浴衣も無気味である。棘だった葉の模様が蝙蝠のように見える。

 とみの危篤を兄嫁から職場の電話で知らされた紀子の表情もまた、ぞっとするものがある。受話器を置いて自分の机まで歩いていく紀子。タイプライターの音が続く。俯いているが、その表情は険しい。覚悟を決めたような気配も感じられる。机に向かって鉛筆を回転させながら、何事か考えているようだが、不貞腐れたようにも見える顔つきである。これが、あのアパートで慄然とするまでの美しさを見せた紀子と同一人物かと思うほど不細工に映っている。

 そして、この直後、この映画で最も不思議な映像が挿入される。電動ドリルで穴を開ける音とともに、画面いっぱいに組まれた鉄骨が映し出される。鉄骨の向こうにビルの壁が見える。回天窓の大きさと形から、オフィス街のビルだと思われる。画面が切り替わって、鉄骨の組まれた上に空が広がる。自動車のクラクションの音も聞こえる。

 この画面が、とみの死、そして紀子の運命と何の関係があるのか。

 ラスト近く、出勤する京子を東京での再会を約束した紀子が見送る。この間二、三分のシーンだが、京子と紀子が会話する座敷の外側に鶏頭の花がぼんやりと映っている。鶏頭の花は座敷の両側に植えられている。周吉ととみの出発時にはなかった鶏頭の花が、とみの葬儀のあたりから頻繁に映されるが、無気味である。そういえば、冒頭、出勤前の京子と周吉夫婦のやり取りのシーンで、座敷の向こうに蛸の干したものがぶら下がっている。これもまた気持ちのよいものではない。人間の頭蓋骨のように見える。

 画面の不思議といえば、周吉ととみが紀子のアパートで食事をする場面がある。隣の部屋の若い主婦から酒を借りてきた紀子が周吉に酒をすすめ、出前の丼を取る。配達された丼にとみが箸をつけた途端、背後のガラスがひび割れているのである。周吉が盃を干したときには気が付かなかったが、とみがものを食べた瞬間にひび割れて、テープのようなもので補修されたガラスになるのだ。そもそもこの映画にはひび割れたガラスがあちこち出現する。長男の開業する医院の薬棚のガラスもひびだらけである。

 ラストはやはり紀子と周吉の対決になる。出勤する京子が玄関を出ると、紀子は踵を返して手早く部屋を片付け、周吉に「わたくし、今日お昼からの汽車で」と、帰京する旨を告げる。周吉に対しては、紀子は「わたくし」という自称で話すのだ。紀子の行為に謝意を述べる周吉に、紀子は「何にもおかまいできませんで」と返し、「ありがとう」と周吉があらためて礼を言うと「いいえ・・・」とバツが悪そうに俯く。

 亡くなる前に紀子のアパートでとみが言ったのと同じことばを周吉も繰り返す。良縁があったら再婚してほしい、亡くなった息子のことは忘れてもらって構わない、と。さらに、周吉は、とみが紀子のことをこんなに、良い人はいないと褒めていたことを伝える。すると紀子は「お義母さま、わたくしのことを買いかぶっていらしたんですわ」と答え、「わたくし、ずるいんです。お義父様やお義母様が思ってらっしゃるほど、そういつもいつも省二さんのことばかり考えているわけじゃありません」と言う。

 「ええんじゃよ、忘れてくれて」と周吉が言うと、紀子は「でも、この頃思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです」と答え、堰を切ったように言葉を重ねるのだ。この場面、カメラは、なぜか周吉の後ろ姿の向こうに紀子をとらえる。行く末の不安と未来に起こるかもしれない出来事への期待を必死に訴える紀子の表情は、無言の周吉の背中越しに見えるのだ。

 「心の片隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」と言う紀子に、周吉は「ずるうはない」と答える。「いいえ、ずるいんです。そういうことお義母様には申し上げられなかったんです」と紀子が返して、ここからカメラはまた紀子を近くでとらえる。周吉が「やっぱりあんたはええ人じゃよ。正直で」がと言うと紀子は「とんでもない」と顔をそむけて泣く。

 涙をこらえている風情の紀子に、周吉はとみの形見の懐中時計を差し出す。このシーンにも鶏頭の花が映っている。ちょうど紀子の齢くらいからとみが持っていたという時計を紀子に、と言う周吉の言葉に紀子は涙をたたえた目で「すみません」とうつむく。そして、紀子の幸せを祈る、と周吉が続けると、紀子は手で顔を覆って泣き崩れる。

 この後「主は冷たい土の中に」の曲が流れる。小学生の合唱のようである。小学校の校舎、バケツをもった子供たちが歩いている廊下、京子が算数を教えている教室が映される。教室の窓から外を見る京子。紀子の乗る汽車が轟音とともに疾走して行くシーンが危険なほどの近さで映される。

 汽車の中で、懐中時計を見る取り出して、蓋を開け確かめる紀子。髪型を変え、ブラウスも変えて、周吉と対話していたときとは別人のようである。ニュートラルな表情だが、最後に何事か決意したような気配になる。汽笛が鳴る。

 以上、「紀子物語」をざっとトレースしてみたが、これが『東京物語』の中でどのような役割を果たすのか、いまの私には解が見つけられないのである。紀子の行動については、まだあといくつか触れたい箇所もあるのだが、長くなるのでまた次の機会にしたい。もっとも根本的なのは、「堀切」という駅名が明示された荒川の土手下を中心とする場所が、なぜ「東京物語」の舞台に選ばれたのか、という疑問である。それは『東京物語』の構造にかかわる核心の問題なのだろうが。

 ラストちかくの紀子と周吉の対決について、もう少し二人の心理の襞に立ち入って書かなければならないのですが、これ以上冗長な文章を続けるのも憚られるので、これもまた次の機会にしたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2018年7月9日月曜日

小津安二郎『晩春』の謎__Z、コカコーラ、三つの林檎

 前回「紀子と周吉の永劫回帰」の最後に、「Z」はなかった、と書いたが、実は最後に「Z」が登場するのである。紀子と周吉の婚前旅行の旅館で二人が帰り支度をしている。紀子がストッキングをぐるりと束ねて仕舞っている。周吉は旅先に持参した本を鞄に入れている。最後に周吉が手に取ったのが「Also Sprach Zarathustra_ツァラトゥストラはかく語りき 」である。ここに大文字の「Z」がの登場する。

 周吉が「Also Sprach Zaratuustra」をいったん手に取って確かめるような動作をしながら、「(これからは)佐竹君に可愛がって貰うんだよ」と言う。すると、しばらく無言のままだった紀子は「あたし、このままお父さんと一緒にいたいの。どこにも行きたくないの」と本心を吐露し始める。お嫁に行ったってこれ以上楽しいことがあるとは思えない。お父さんが好きなの。お父さん、奥さんお貰いになったっていいのよ。このままそばにいさせて。お願い。・・・と紀子は周吉のそばににじり寄っていく気配を見せる。これはもう、父を慕う娘の情、という範疇のものではない。

 これに対して、周吉は、「人間の歴史の順序」などという言葉を用いて紀子を説得しようとする。大演説を打つのである。理路整然と結婚と幸せについて語るのだが、どうも紀子の気持ちに届いているようには思えない。それでも、紀子は涙をこらえながら、「わがまま言ってすみません」とあやまる。一応は諦めたように見えるのだが。

 さて、「Z」とは何か。たんに「終止符」の記号だろうか。それともZarathustraの頭文字の意を含むのだろうか。あるいは、Z計画、Z旗・・・これは関係ないか。

 紀子と周吉の婚前旅行では、浴衣姿の二人が枕を並べて横たわるシーンの壺のショットが有名である。この壺の意味については様々な解釈がなされているようだが、私が知りたいのは、壺に描かれている模様である。なんだかよく分からないのだが、あまり気持ちのいいものではない。何となく『お茶漬けの味』の小暮美千代が着ている浴衣の模様に似ているような気がする。

 浴衣の模様といえば、このシーンの紀子の浴衣の模様はアヤメであって、明らかに蛇のメタファーであることはいうまでもない。こんな説明はまさに「蛇足」だが。

 『晩春』は紀子と周吉の物語であると同時に紀子と服部の物語でもある。周吉(曾宮家と)服部の物語、といってもいいかもしれない。冒頭「Z」をめぐって周吉と服部が会話するのだが、もう一つ「リンシャンカイホウ」なる麻雀用語が二人の会話の中に出てくる。「嶺上開花」と書くらしいが、麻雀に疎い私には何の事かよくわからない。要するに「この前の麻雀は僕が(周吉ではなくて)トップだった」と服部は言っているのである。? 

 映画の前半に、紀子と服部が自転車で由比ガ浜の海沿いの道路を行く場面がある。二台の自転車を並走させて二人は楽しそうにサイクリングをしている。二台の自転車と乗っている二人を、カメラは後ろから、前から、斜め後方から追っていく。二人の上半身もアップで映される。ちょっと不思議なのは、道路標識が英語で書かれていることである。矢印の標識の上に大きなコカコーラの瓶が描かれた看板を通り過ぎ、砂浜に自転車をとめて、二人は海の近くに歩いていく。コカコーラが昭和二十四年の日本に存在していたことも驚きだが、道路標識も英語で書かれていることも意外だった。これは鎌倉だけのことだったのだろうか。

 海の見える場所で寄り添うように二人は腰を下ろす。二人の会話は紀子が唐突に「じゃ、あたしはどっちだとお思いになる?」と服部に聞くところから始まる。「あなたは焼きもちなんか焼く人じゃないでしょう」と服部は答えるのだが、紀子は「ところがあたし、焼きもち焼きなの。あたしがお沢庵切るとつながっているんですもの」と言う。まるで禅問答のようだが、つながったお沢庵というモチーフはもう一度、二人が「BALBOA」という喫茶店で会う場面でも繰り返される。

 つながったお沢庵は蛇腹を連想させ、まさに蛇なのだが、ここでは、語り合う二人の姿が、どう見ても恋人同士であることに注目したい。紀子と服部の関係は真正の大人の関係ではないだろうか。サイクリングから帰ってきて、上機嫌で「花」をハミングしている紀子の白いソックスの足の裏が汚れているのも、どうしても気になるのだが。紀子はどこをソックスで歩いたのだろう。

 余談だが、「服部」という苗字を調べていくといろいろ面白いことがわかる。服部家の跡継ぎは代々「半蔵」を名乗る習わしがあって、皇居の「半蔵門」も「服部半蔵」に由来するのだとか。これもまた蛇足だけれど。

 紀子の結婚式当日の曾宮家にも服部がいる。まるで紀子の親族のような顔をして礼服を着て周吉と並んで椅子に座っている。「佐竹熊太郎」という紀子の花婿の姿は最後まで画面に現れることはない。二階の自分の部屋で花嫁衣裳に身を包み、涙をこらえて周吉に挨拶する紀子と、紀子の手を取って介添えしながら部屋を出て行く周吉の後ろ姿が映される。紀子が登場する画面はこれが最後である。

 この後は、式を終えた周吉とアヤが割烹「多喜川」で盃を傾けるシーンがあって、ここでも少しおかしいことがある。周吉がアヤを「のりちゃん」とか「スーちゃん」とか呼んでいて、アヤも何も言わずにそれに受け答えしているのだ。? 最後には「きっと(家に)来ておくれよ、アヤちゃん」と言うのだけれど。

 ラスト近く、手伝いの女も帰って、家の中に唯一人になった周吉が礼服の上着だけ脱いだ姿で、椅子に座る。テーブルの上に林檎が三つ置かれている。周吉がそのうちの一つを取り上げ、ナイフで皮を剥き始める。くるくるくるくるナイフが回って林檎の皮が剥けていく。ほとんど剥き終わったところで、ナイフが手から落ちて、がっくりとうな垂れる周吉。

 この後映像は波立つ海面に切り替わって終わるのだが、三つの林檎と海はどんな関係があるのか。なぜ林檎は三つなのか。誰が置いたのか。何のために。

 『晩春』はこの上なくシンプルなストーリーなのに、いつまでも、どうしても解けない謎に満ちています。ぴんとはりつめた緊張感の漂う画面は一つの手抜きも許されないジグソーパズルで組み合わされているかのようです。分解して、組み合わせて、また分解して・・・終わりのない作業の繰り返しなので、ひとまずこれで切り上げようと思います。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。