2013年12月21日土曜日

大江健三郎「みずから我が涙ぬぐいたまう日」______ハピィ・デイズという逆説

 どうして大江健三郎はこんなにもわかりにくいのだろう。標題の「みずから我が涙ぬぐいたまう日」のわかりにくさなど犯罪的ではないか、と思ってしまう。いま平行して読んでいる三島由紀夫のほうが、彼が頑なにこだわった旧字体と修辞的な文章に慣れれば、ずっと素直に読めてしまうような気がする。

 この小説のわかりにくさの第一は、叙述の複雑さにあるだろう。語り手の作家がみずからを「かれ」と呼んで「同時代史」を語り、その語るところを「遺言代執行人」あるいは「看護婦」と呼ばれる「かれ」の妻(と推測される人間)が「口述筆記」をする、という体裁で叙述されるのだ。さらに二重括弧《》でくくられる地の文があるのだが、ここでも語り手の作家は「かれ」と呼ばれるので、読む側は、語られる内容が語り手の主観的な思い込みなのか、それとも客観的な事実なのかをしばしば混乱してしまう。これはアンフェアなやりかたではないか。


 わかりにくさの第二は叙述される内容そのもののゆらぎである。いったい語り手の「かれ」は本当に癌なのか。物語の冒頭「いったい、おまえは、なんだ、なんだ、なんだ!」と叫んで登場する男(これがじつは「かれ」の母親であることがラスト近くで示唆される)と「おれは、癌だ癌だ、肝臓がんそのものがおれなんだ!」という「かれ」とのやりとりは夢なのか、それとも現実なのか。

 また「かれ」の語る「同時代史」___「あの人」と呼ばれる父親(らしき人物)の追憶は真実なのか。満州に渡って何やら策動していたものの、一九四二年春日本に戻るとそのまま郷里の家の倉に閉じこもり、一九四五年敗戦の日まで水中眼鏡をかけ、ラジオのヘッドホーンを放さなかったという「あの人」の行動の意味するところは何か。 そして最後の「蹶起」の日___末期の膀胱癌で出血の止まらない身でありながら木車に乗せられて「あの人」が郷里を出ていったのは八月十五日の敗戦の日なのか、それともその翌日なのか。そもそもそれはほんとうに「蹶起」だったのか。

 こうしたわかりにくさを増幅する、というよりわかりにくさの根源が「かれ」の母親である。「かれ」の追憶の中で語られる母親はつねに「あの人」と呼ばれる父親を否定する存在である。母親の祖父は「明治四十五年に摘発された、戦時においてはおよそそれを口にだすこともはばかられる事件に関係があった模様」の人物であり、母親は中国大陸で育ったのだが、「かれ」の長兄が軍を脱走すると、「かれ」の両親の対立、憎悪は決定的なものになる。「かれ」自身は、膀胱癌でありながら極度に肥満して自らの用をたせぬ「あの人」の側について、「あの人」と倉で一緒に暮らす「ハピィ・デイズ」を送る。その追憶の日々を、いま「かれ」は happy days are here again という歌をうたいつつ語る。そして、みずから「あの人」の遺品の水中眼鏡をかけ、肝臓癌の末期患者となることで「あの人」の事跡の追体験を試みるのだが、その「ハピィ・デイズ」をことごとく否定したのが母親なのだ。

 その母親が物語りの後半、突然二重括弧でくくられた地の文に登場する。そこで彼女は、「かれ」の「ハピィ・デイズ」の頂点ともいうべき蹶起の真相について、「かれ」の言葉を真っ向から否定するのだ。「かれ」は、「あの人」が血まみれの身ながら脱走兵たちを率いて蹶起したという。バッハの受難曲を高唱する兵隊たちに曳かれた木車に乗せられた「あの人」とともに「かれ」自身も進んで行った。軍の飛行場に乗りこんで戦闘機を奪い大内山を爆撃するという計画は、しかし、当然のことだが失敗した。軍資金を調達すべく、母親の持っていた株券を現金化するために立ち寄った銀行を出た途端、「あの人」は撃ち殺され、将校以外の兵隊たちも銃殺されてしまったのである。

 「かれ」の語る蹶起の真相はこうである。「それはまさに市街戦だったのだ、しかも頭上には日本軍かアメリカ軍か、おそらくは双方の戦闘機が低空飛行して、轟々と市街を鳴りひびかせていたのである。・・・・・・・・一九四五年八月十五日、天皇は人間の声でかたるところのものたるべく地上に急降下した。その天皇が八月十六日、あらためて急旋回、急上昇をおこなおうとしていたのだ。いったんは爆死せざるをえないにしても、国体そのものとして、あらたによみがえり、かつてよりなお確実に、なお神的に、普遍の菊として日本のすべての国土、すべての国民を覆う。巨大な紫色の背光に、オーロラのような輝きをあたえられた黄金の菊の花として現前する。わが国の歴史に立つ数多い神々が、いったん人間の声で語るものへと急降下した天皇に、国体の威厳を再逆転させるため、飛行する殉死者の爆弾によるみそぎをこそもとめるということがありえなかったろうか?」

 このみそぎこそ、まさに純粋天皇誕生の瞬間である。だが、「かれ」が実際に見とどけたのは、天皇ではなく「あの人」の死であり、その死の瞬間にあらわれた「巨大な紫の背光にかこまれた輝く黄金の菊の花」だったのである。

 母親が突然行動に出たのは「かれ」がここまで語り終わったときである。彼女は「かれ」が片時も外さなかった父親の遺品の水中眼鏡をひきずりあげて、眩しさのために滲ませた「かれ」の涙を手慣れたやりかたでぬぐいとってしまう。そして「かれ」のことばを真っ向から否定しはじめるのだ。「あの人」は最初から本気で大内山を爆撃する気などなかった。現実に「あの人」が株を換金した金は将校に持ち逃げされ、銀行を出た途端「あの人」と兵隊たちを撃ち殺したのは、別の銀行強盗のグループだった。「あの人」が「かれ」をつれていったのは「口にだすこともはばかられる事件」を起した人間を祖父にもつ子だったからで、にせ蹶起の失敗にそなえたアリバイつくりのためである。「かれ」もそれがわかっていたから、撃ち合いが始まる前に逃げ出したのだというのだ。

 彼女の語る真相はこうである。「自分の躰のなかに大逆罪をおかすような者の血が流れており、いつそれがはっきり形をとって動き出すのかと、心底恐れていた子供が、実際これから大内山を襲撃するのだというようなことをいわれると、責任はみな自分の躰にあって、自分の躰を流れる血が、国の歴史をひっくりかえすようなことをひきおこす手引きになるのだと考えて、それでどこまでも、どこまでも、自分自身の躰からさえも、逃げ出してしまいたいと思ったんですが!・・・・・・・」

 母親と「かれ」と、狂気ははたしてどちらだろうか。あるいは、どちらも狂気なのだろうか。「神話か歴史のなかの、架空にちかい人物のように響く」と「遺言代執行人」にいわれる「あの人」は実在するのか。これらの疑問に解を与えるのでなく、さらに決定的に混乱に陥れるのが、冒頭に登場するヒゲダルマ風の男がじつは変装した母親だったという結末である。もしかすると、この小説は読者を混乱に陥れるために書かれたのではないだろうか。

 以前「アンフェア」というテレビドラマがあったが、この小説も「アンフェア」ではないか。そして、「かれ」がくりかえし歌う happy days are  here again という歌もまたアイロニーに満ちている。この歌は一九二九年十月ニューヨーク株式市場が大暴落したときにイントロデュースされ、続く大恐慌の時代にルーズベルトが大統領選挙のテーマ・ソングにしたことで大流行したのだ。軽快なテンポとリズムにのって happy days are  here agein と歌いまくり、ルーズベルトは不利といわれていた大統領選に勝った。そして日米戦争が導かれていったのである。

 この難解な小説のとりあえずの途中経過報告です。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年12月2日月曜日

大江健三郎『月の男(ムーン・マン)』___象徴天皇のアトムスフィア満ちる月面世界に昇華する___不思議な不思議な物語

 「月の男(ムーン・マン)」は不思議な作品である。

 「みずから我が涙をぬぐいたまう日」という作品とあわせて『みずから我が涙ぬぐいたまう日』として出版され、その序に作者みずから「二つの中篇をむすぶ作家のノート」という自作自解の文章を書いている。それによれば「この過去と未来をつらぬく天皇制に根ざした多様な枷によって自分を縛ることから出発し、なんとか自由をかちえようとした作家は、彼自身の右側に『みずから我が涙をぬぐいたまう日』の真暗の水中眼鏡をかけた自称癌患者をおき、左側に『月の男』の、悔悛して環境保護運動にはいった逃亡宇宙飛行士をおいて、自分の想像力を前にすすませるための、一対の滑車としたのである」ということである。サブタイトルに掲げたへたくそな和歌もどきは私がつくったもので、「作家のノート」冒頭に記された

純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する

の対句として考えた。(こんなことをしていいのでしょうか)

 『月の男(ムーン・マン)』が不思議な作品である理由の一つに、この小説がほとんど批評の対象になっていないということがあげられる。作者の右側におかれたという『みずから我が涙ぬぐいたまう日』はその語りの複雑さにもかかわらず、多くの人に読まれているようである。錯綜する時系列から聞こえてくる荘厳な悲劇のシンフォニーに魅了されるのだろうか。それにたいしてこの『月の男(ムーン・マン)』はNASAから逃げ出した元宇宙飛行士が、妹の強姦死のニュースを聞いてアメリカに戻り、人力飛行機の普及に献身するというストーリーとしては単純な話である。機械文明から環境保護へ、人間の感覚を失った「科学」批判というテーマが受けいれられやすいので、なんとなくわかったような気になってしまうのではないか。だが、そんなにすんなり納得してもいけないと思う。

 
 物語は語り手の作家である「僕」と、かつて「僕」と関係がありいまはムーン・マンとよばれる元宇宙飛行士の情人である女流詩人の二人がムーン・マンのダイアローグの相手または通訳となって進められる。またスコット・マッキントッシュという反捕鯨運動家と、細木(サイキ)というヴェトナム戦争の脱走兵支援の運動をしている「新左翼」の活動家が登場する。スコットはムーン・マンに騙されて鯨の生肉を食べさせられて嘔吐し、日本での反捕鯨キャンペーンを中止して帰国するが、細木は反捕鯨のデモンストレーションと称してイルカのぬいぐるみを被り、事故とも自殺ともあるいは殺人ともつかぬ焼死をしてしまう。ムーン・マン自身は一九六九年六月十五日アポロ11号が月に着陸した日に、先に帰国したスコットによりもたらされた妹の強姦死の報せを聞いて「月の力が復讐したんだ」といって、長くのびていた鬚と髪を切り、アメリカ大使館に出頭する。

 二年間の拘束を経て、ムーン・マンは自由の身になり、彼の自由のために尽力してくれたスコット・マッキントッシュの影響もあって、鳥と「交感(コレスポンデント)」できるという人力飛行機の普及運動をはじめる。情人だった女流詩人とは正式に結婚し、彼女から「僕」に航空便が届く。それには人力飛行機運動のキャンペーンのために映画をつくりたいので、出版社に紹介してほしいと書かれていた。彼女のもとめに応じて渡米した「僕」は「静かな人々」と化したムーン・マン一家すなわちムーン・マンことルーヴィン・ガーシェンソン、彼の妻となった女流詩人フサコ・ガーシェンソン、二人の間に生まれた女の子アルテミス・桂・ガーシェンソンらに迎えられ、無数の人力飛行機を__それはゴム仕掛けの鳥なのだが__見るのである。

 以上があらすじだが、不思議なのは、このお伽話のような物語に「現人神」が登場することがどうしても唐突に思われてならないのである。ムーン・マンが日本語に興味を覚えたのは「現人神」という言葉とその存在があったからだという。そして、彼がNASAを脱出して日本に来たのは「現人神」たるあの人に会って、「月に行くな」といってほしいからだというのだ。そういうことは例がないから、と。この「誇張していえばキリスト教史全体にも匹敵しそうな巨大なユダヤ人の野心をそなえていた」とされる男にとって「現人神」とは何か。

 「現人神」は物語の最後にまた招致される。ムーン・マンは、あの人は反・人間のシンボルとして宇宙開発の先頭にたつのではなく、エコロジカルな意味で全世界的に大切にされるべきだと主張する。「およそ二千年ちかくも一つの生物学的な血のつながりを保っている、エコロジカルにまったくめずらしい貴重な種」だから、というのがその理由である。!彼はさらに、あの人が白い人力飛行機に乗り、下方で二人乗りの人力飛行機に乗っている宇宙飛行士姿の自分と水中眼鏡をかけた自称癌患者の青年に向けてメッセージを送るというシナリオを思い描くのだ。そしてそのメッセージは「二十世紀後半のすべての人間を救済するためのものでなければならない・・・・・・」という。

 荒唐無稽は、大江の場合、この作品に限ったことではないが、やはりふつうに考えてこれは不思議なほど荒唐無稽である。ここには主人公の語りに異を唱えるリアリストが存在しない。『みずから我が涙ぬぐいたまう日』の「遺言代執行人」や「母親」のような。ムーン・マンの情人でありながらその解説者だった女流詩人は「インディアン英語」を話す寡黙な妻となってしまい、なにより語り手の「僕」は、ニュー・ハンプトンの牧場に飛ぶ無数のゴムの鳥を見て Ah, birds, future birds と「涙の発作のような昂揚に襲われたのである」と物語を結ぶのである。

 最後に、小さな不思議をもう一つ取り上げたいのだが、長くなるので、それはまた機会があれば書いてみたいと思う。いつになるかわからないのだが。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。