2017年8月16日水曜日

大江健三郎『晩年様式集』_____終活ノートの告白その1_「三・一一」とは何か

 「イン・レイト・スタイル」とルビが振られたこの小説について、何か月も何も書けないでいる。ひとえに私が怠惰なためである。これを書こう、という意欲がどうしても湧きあがらないのだ。言い訳じみたことをいえば、読後感が散漫なのである。もっといえば、「物語」が語られないのだ。いくつかの、非常に重要な事柄は存在するが、それは「物語」になっていない。「事実の告白」として作品中に提示されているだけなのだ。だから、読者としての興味、関心は作品世界の中に見出すことができなくて、作品世界の外側にある事実に向かってしまう。それが作者のもくろみなのかもしれないが。

 読後感が散漫な印象を与える理由のひとつに、作中「書き手」(語り手ではない)が三人存在するということがあると思う。作家の「私」、妹の「アサ」、娘の「真木」がそれぞれの文章を書き、パソコンで活字化したものを綴じ合わせ編集し、私家版の雑誌として「晩年様式集」とタイトルをつけた、と「前口上」に書かれている。書かれている事柄の時系列が前後したり、書き手の感情がもつれたりして錯綜して、かなり読みにくい。妹のアサと娘の真木は総じて作家の「私」に批判的である。とくにアサの「告発」が私の「告白」を余儀なくさせる結果となる。前作『水死』では、フィクサー・アサの役割が際立っていたが、今回は「告発者・アサ」として、重要な役割を果たすことになる。

 アサのアシスタントとしてアメリカから召喚されるのが『懐かしい年への手紙』の主人公「ギー兄さん」の遺児ギー・ジュニアである。ギー・ジュニアは、ギー兄さんの不可解な死の後、その遺産を相続した母の「オセッチャン」とともに幼少時アメリカに渡り、そこで教育を受ける。長じてTVのプロデューサーとなった彼は「カタストロフィ委員会」なるものを立ち上げ、「三・一一」直後の日本を訪れるのである。

 ところで、素人の本読みとして、あえて言わせてもらえば、この作品におけるギー・ジュニア(それから母親のオセッチャンも)の生育歴とキャラクターは『燃え上がる緑の木』や『宙返り』のそれと矛盾するところが多すぎるのではないか。前二作の「ギー」は知能犯的悪童であり、不良少年である。その彼が、申し分ない知性と教養、語学力を持ち、「私」の家族をサポートする。そのことによって、「私」の告白を引き出す役割を果たす、という次第はプロットの展開に必要ではあっても、ご都合主義すぎるように思われるのだが。

 そもそも「三・一一」とは何だったのか。それはこの作品における「三・一一」の意味であるとか、作家の「私」にとっての転機であるとかをこえて、いまに続く決定的な出来事の意味を問うことである。日本にとっても、世界にとっても。作家の「私」は、「三・一一後」に、それまで書いていた長編小説に興味を失った、と記している。ところが、私には、作家の「私」にとって、「三・一一後」が何であるか、あるいはあったのか、わからないのである。

 小説の冒頭、「三・一一後」福島に急行したNHKの取材チームによる特集番組が紹介されている。避難指示が出ている村落に一軒だけ残っている家がある。出産間近の馬がいて避難するわけにはいかない。取材したチームのプロデューサーは、翌日仔馬が生まれたことを家の主人から聞く。だが、仔馬を草原で走らせてやることはできない、とも。放射能雨で汚染されているから。

 この映像を見て「私」は泣くのだ。ここまでは、自然な感情の流れとしてすんなり読むことができる。?となるのはその後ダンテの『神曲』「地獄篇」の一節を引用する部分からである。原文に続いて、寿岳文章の訳が記されている。少し長くなるが訳とそれに続く本文を引用してみたい。

 「よっておぬしには了解できよう。未来の扉がとざされるや否や、わしらの知識は悉く死物となりはててしまふことが」
 私はあの時、いま階段の踊り場で哀れな泣き声を自分にあげさせたものが(それはこれまで味わったことのない、新種の恐怖によっての、おいつめられた泣き声であって)、TVの画像という「言葉」で、いま現在の、そこの状態について、どんな物証もなく、知識もない私に告げられた真実によってだった、とさとった。もう私らの「未来の扉」はとざされたのだ、そして自分らの知識は(とくに私らの知識は何というほどのこともなかったが、ともかく)悉く死んでしまったのだ・・・・・・

 生まれた仔馬を草原で走らせてやることができない、という飼い主の言葉は仔馬のみならず、人間を含むあらゆる生物にとって、すこやかな生を脅かすとてつもないことが起こってしまったことを意味する。だが、「私」は直接的な生存の恐怖に対して、というよりむしろ「知識の死物化」に対して悲嘆にくれた、というのだ。どこか感情のボタンが掛けちがえられていないだろうか。

 放射能の汚染による生存の恐怖は障害をもつ息子のアカリの思いとして表現されている。「私」が若い時に書いた『空の怪物アグイー』という小説の中で殺された赤んぼうアグイーが、なぜかアカリにとって何より大事な存在として、再び登場する。アカリは空に浮かぶアグイーを放射能の汚染から何としても守らなければならないと思っているという設定になっている。「三・一一」とアグイーの再登場はどんな関係があるのだろうか。

 『晩年様式集』という小説中に召喚されるのは『空の怪物アグイー』だけではない。最も重要なものは『懐かしい年への手紙』の世界であり、その主人公のギー兄さんである。ギー兄さんとはどのような存在であったのか。そしてもう一人再登場するのが『取り換え子」の塙吾良だ。ギー兄さんについて、塙吾良について、『懐かしい年への手紙』、『取り換え子』の世界を承継しながら、最後はひっくりかえす、その作業をするためにこの小説は書かれたのではないかと思うのだが、長くなるので具体的な検討は次回にしたい。

 書かなければ読んだという事実さえないのと同じことになってしまうので、ともかくも書いてみました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。