2020年7月28日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__「昭和維新」と「神風連」__英雄伝説の完成

 前回のブログで「まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。」と書きながら、なかなか書けないでいる。

 昭和七年、本多繁邦は三十八歳になった。

と書き出される時代は、内外の危機的状況のもと「昭和維新」を旗印に、とくに右翼勢力の側から実力行使が相次いだ。今日の目から見れば、昭和六年三月事件から昭和十一年二.二六事件まで九つの暗殺、テロ事件が起こり、それらの血生臭さがきわだつが、このように暴力による破壊行動に収斂するにいたるには、じつは明治後半から大正を経て、深刻で複雑な社会、文化の変化があったのはいうまでもない。

 この間の歴史を、たんに事象の表面をなぞるのではなく、そこに生きた日本人の思想、感情の屈折を精緻に分析、叙述した『昭和維新試論』(橋川文三著)という名著がある。余談になるが、教養や知識の蓄積が乏しい私は、この本を読んで多くのことを教えられた。というより、自分の無知、不勉強に気づくことを余儀なくされた、と言った方がいい。朝日平吾、渥美勝、田沢義鋪といった人物のことなど、この本を読まなければ、名前さえ知ることもなかっただろう。非常に概念的な言い方になるが、一九〇〇年前後からの内外の社会の激変が、とくにその底辺で生活する庶民の生存に危機的な影響をもたらし、「実存」(という言葉が当時使われたかどうかわからないのだが)の悲哀、あるいは「不安」という感情が世相に蔓延した、という論が『昭和維新試論』の中で述べられている。

 『奔馬』冒頭で、作者は、本多の同僚の裁判官に、オスカー.ワイルドの「今の世の中には純粋な犯罪というものはない。必要から出た犯罪ばかりだ。」という言葉を語らせている。本多もそれに対して「社会問題がそのまま犯罪に結晶したような事件が多いね。それもほとんどインテリでない連中が、自分では何もわからずに、そういう問題を体現している。」と答えている。実際、裁判官として本多は、娘を娼家に売った農民が約束の金を半分も貰えぬのに腹を立てたあげく、誤って娼家の女将を死なせてしまった事件を裁いている。

 一九二九年のニューヨーク株の大暴落から始まる世界恐慌が庶民の生活を危機に追い込んだことはよく知られているが、日本ももちろんその例外ではなかったのである。だが、一方、そのような庶民の困窮を、豪奢な晩餐後の酒席の話題として会話する階級が存在したことも、三島は『奔馬』のなかで伝えている。

 一家の飢えを救うには、兵隊となった息子の遺族手当ををもらうしかないすべがないので、早く息子を戦死させてくれ、と小隊長に手紙を書いた貧農の話が語られるのは、軽井沢の財閥男爵の炉端である。「通貨の安定こそが国民の究極の幸福である」と金本位制復帰を説いて「九割を救うために一割が犠牲になってもやむをえない」とする主賓の「金満資本家」蔵原武介をはじめ、「つややかな頬」や「つややかな手」をもつ男たちは、十分な食事と酒の後、貧農の願いがかなって、名誉の戦死を遂げた息子の話に涙するのだ。

 この間の事情は、小説の末尾近く、蹶起前日にとらえられた飯沼勲が、初回の公判の場で、裁判長の求めに応じて、心情を吐露するかたちで縷々述べられている。簡潔で要を得た勲の説明は、二十歳の青年勲の現実認識とその説明、というより作者三島のそれのように思われてならないのだが、それはさておき、暗雲晴れやらぬ皇国の現状を憂える勲が、みずから行動を起こすための決定的な啓示となったのが「神風連」であり、「必死の忠」であると述べていることは、複雑で多層的な問題を含んでいる。

 明治九年熊本で、廃刀令に反対する士族の反乱がおこる。「敬神党の乱」あるいは「神風連の乱」と呼ばれる。乱を起こしたのは、国学者、神道家の林櫻園を祖と仰ぐ太田黒伴雄ら約百七十名の人々で、神託のままに「敬神党」を結成して、十月二十四日に熊本鎮台を襲った。ウィキペディアに月岡芳年という画家の描いた「熊本暴動賊魁討死之図」という錦絵が掲載されているが、刀と槍と薙刀を武器とした敬神党の面々が、近代兵器を備えた鎮台に攻め込むさまは、このような美しい錦絵とはほど遠い地獄図だったろう。蹶起した百七十余名のうち、死者、自刃者百二十四名、残り約五十名が逮捕され、斬首されたものもあったという。

 三島は『奔馬』前半「神風連史話 山尾綱紀著」という書物の全文引用の体裁で神風連の乱を語る。「神風連史話」は、「その一 宇気比」から始まり、「その二 宇気比の戦」「昇天」と結ばれる短編小説となっている。目次が示す通り、敬神党の人々の戦いは、古神道、神ながらの道の精神に貫かれたもしくはその精神を貫くための戦いであり、結末であった。

 彼らには、厳密な意味での戦略はなかった。敵を滅ぼすためではなく、「もののふ」としてのアイデンティティに賭けた戦いで、敗北は必定だったように思われる。むしろ、自刃を目的として蹶起したのであり、戦いはそこに至る過程にすぎなかったようである。血塗られた死の美学がくりひろげる抒情詩が「神風連史話」であった。山尾綱紀という架空の作家にたくして、三島はそのように書いている。そして『奔馬』の主人公飯沼勲は「神風連史話」という「書物」から「召命」ともいうべき啓示をうけたのである。「神風連の乱」という歴史の事実からではなく。

 「神風連史話」が厳密な意味での「神風連の乱史」でないことは、勲からこの書物を借りて読んだ本多の勲への手紙の中で指摘されている。周到にも三島は、『奔馬』という作品中で「神風連史話」に対する的確な批判をしているのである。統一的な「物語」をつくるために、「事実」の中に含まれる多くの矛盾が除去されていること。敬神党の敵である明治政府の史的必然性を逸していること。そのために「全体的な、均衡のとれた展望」を欠いていること。

 三十八歳の裁判官本多は以上の点を指摘し、「神風連史話」に傾倒する勲に教訓を垂れている。「過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化」することは歴史を学ぶことではない。「純粋性と歴史の混同」をしてはならない、と戒めるのである。「神風連史話」の的確な批評であり、これに傾倒する勲への適切な忠告である。____だが、『奔馬』という小説のはらむ最も核心的な謎がここにあると思われてならない。

 本多という人物の言葉を借りて、このように的確な「神風連史話」の批判ができるなら、つまり、そのような歴史認識をもっているなら、作者三島は、何故、『奔馬』を書いて、それを遺作としたのか。明治九年の「神風連の乱」の時代の純粋は、「昭和維新」の時代のそれではありえないならば、昭和四五年の11・25のそれともまったくの別物である。

 通俗的で愚かな私は、いつも、この部分で躓いて堂々巡りの思考に陥ってしまうのだが、『奔馬』という小説は破綻のない、完成度の高い作品であると思う。本多は勲への手紙の中で、「神風連史話」を「一個の完結した悲劇であり、ほとんど芸術作品にも似た、首尾一貫したみごとな政治事件であり、人間の心情の純粋さのごく稀にしか見られぬ徹底的実験」と評しているが、これはそのまま『奔馬』にあてはまる評価である。『春の雪』の松枝清顕と同じく、飯沼勲もまた、輪廻転生の主体のひとつであって、二十歳で死ぬことを運命づけられていたのだった。夭折の英雄伝説の完成である。

 「神風連史話」はおびただしい血と死を流して悲劇を完成するが、『奔馬』は飯沼勲と蔵原武介の二人の血によって完結する。飯沼勲が何故蔵原武介を殺さなければならなかったかについては、また別の機会に考えてみたい。私は三島の文学の隠されたテーマとしての「父殺し」の主題がここに存在すると思うのだが、それを書くのには、まだあまりにも力不足である。

 以前も書いたのですが、三島由紀夫の小説は、私にとってあまりにも「面白過ぎる純文学」で、読むことじたいに堪能してしまい、それについていざ何かを書こうとすると、どこから手をつけていいかわからないのです。今回の『奔馬』についても、その面白さの一ミリも伝えることのできないもどかしさでいっぱいです。もう一回「父と子」のテーマで書こうと思っています。物語の展開で、重要な役割を果たす「佐和」という中年の男に焦点をあてて考えてみたいのですが。

 今日も不出来な感想文を最後まで読んでくださってありがとうございます。