2020年12月2日水曜日

映画『ミッドナイトスワン』__ライトノーヴェルから純文学へ__「映画」という奇跡

  とあるブログで取り上げられていた『ミッドナイトスワン』という映画を観に行った。いま流行りのLGBTと母性をテーマとしているようだが、全編不気味な緊張感が漂う画面の連続だった。

 あなたの母になりたい__。

 陽のあたらない場所で、あたたかな愛が生まれる。

という原作小説のカバーの惹句とはかなり異なった感触の作品である。

 映画を観てから原作小説を読んでみた。意外なことに、小説の方は、映画を観ているときのヒリつくような異様な感覚におそわれることはなかった。カバーの惹句にそったプロットの展開が、登場人物の心理を丁寧に描写しながら繰り広げられ、破綻なくラストまで読みすすめることができる。

 ニューハーフショークラブで働く「凪沙」という主人公が「一果」という少女をひきとり、彼女のバレーの才能を育てることで母性に目覚める。だが、肝心なときに一果を虐待していた実の母親が現れ、一果を連れ去ってしまう。残された凪沙は、肉体も女になれば母になることもできる、とタイで性転換の手術をする。手術を終えた凪沙は一果を連れ戻そうと広島の実家を訪れるが、早織や周りの親族に阻まれ、実家から追い出されてしまう。傷心の凪沙は、手術の後遺症もあって、心身ともにボロボロになり、死んでいく。おおまかなストーリーは映画も小説も同じなのだが、いくつか、微妙に異なる点があって、それが映画と小説の読後感の違いにつながってくるように思う。

 小説では、凪沙の初恋の思い出や過去の恋愛体験、凪沙が一果のバレーの月謝を払うために始めた職場の青年と凪沙とのかかわりなどいくつかのエピソードが語られるが、映画では省かれている。また、貧しい一果がバレーを続けられるよう尽くしてくれた「りん」という少女と一果の友情も小説の中では詳しく語られていて、映画のように、無表情な一果にりんが一方的に思いを寄せる、という展開にはなっていない。総じて、誰もが納得できるストーリーの展開であり、結末であって、よくできたライトノーヴェルである。

 映画は謎に満ちている。小説の原作と映画の監督が同一人物であるということが、私には、不思議である。小説の中に流れる「日常」が映画にはないのだ。あるとすれば、それは小説の日常とは違う「日常」である。

 凪沙と一果が食事をする場面がある。映画では、凪沙が一果を引き取ってすぐに食事をつくってあげたようになっているが、原作では、一果がバレー教室に通い始めて半年、とあるので、二人の関係がかなり親密になって、共同生活も軌道に乗り始めたころのことである。「ハニージンジャーソテー」という豚肉の生姜焼きが食卓に並べられる。映画では味噌汁とごはん、人参の千切りが山盛りのサラダもついている。美味しそう、と見えなくもないが、なんとなくメニュー用のつくりものっぽい。ラスト近く、中学を卒業した一果が瀕死の凪沙を訪れて、「ハニージンジャーソテー」をつくるのだが、こちらは黒焦げになった豚肉が原形をとどめず、不気味である。原作では「少しこげていたけれど本当に美味しかった。ひどく懐かしい味がする。」と凪沙の心情が語られているが、どう見てもそうは思えない出来映えである。

 映画の「日常」は、ひとことでいえば、グロテスクなのだ。「追っかけスワン」の人たちからは非難轟々だろうが、いわゆる「美しい」映像で成り立っている映画ではない。冒頭真っ赤なルージュをひく唇と真っ赤なマニキュアを塗る爪が映し出される。それから、ニューハーフショーの舞台で踊る四人が履く真っ赤なバレーシューズ、純白の衣裳に真っ赤な靴がなんとも異様だ。血潮を連想させる赤である。

 この映画の色使いは特徴があって、赤と青が際立っている。一果が広島から高速バスで新宿に着いたときのリュックは赤で、凪沙がベージュのトレンチコートの下に着ているセーターも赤、タイで手術して「女になった」凪沙が来ているトレンチコートもむごたらしいような赤である。ニューハーフショーの舞台で一果が躍る場面があるが、背後のカーテンは赤い。バレースタジオのカーテンも赤だったような気がする。

 凪沙がブルーのセーターを着たり、一果が赤いトレーナーを着たりする場面もあるが、印象的なのは一果の母親早織の衣装がつねに青であるということだ。勤め先のキャバクラで酔い潰れている場面、広島から上京して凪沙のアパート一果を迎えに来る場面、凪沙が広島の実家に一果を連れ戻しに来たときも、そして一果の卒業式の晴れ着風のスーツも、早織の衣装はすべて青である。例外は、バレーのコンテストの舞台で立ちすくんでしまった一果を、舞台に駆け上がってだきしめる場面で、早織は紫_赤と青の混合_のパーカーを着ている。

 ほとんど使われないが、非常に印象的な場面でつかわれているのが黄色である。ニューハーフクラブのママがお店で一果に黄色のジュースを差しだして、「これなま100パーセントよ。お飲みなさい」というのだが「なま100パーセント」って何のなま100パーセント?それから一果があやしげな撮影会で、カメラを持った男に「これ着て」と迫られるのが黄色のビキニである。切羽詰まった一果は男に椅子を投げつけ、男は救急搬送されてしまう。

 夜の場面が多く、全体にざらっと暗いトーンの映像が続くが、ラスト近く、瀕死の凪沙が一果に付き添われて、海を見に行くバスの車内の映像は明るく美しい。凪沙は黒いサングラスをかけ、蒼白の顔に赤い口紅が映える。文句なしに美しい凪沙がそこにいる。凪沙にもたれかかって眠っている一果も可憐だ。バスから降りて、杖をたよりに砂浜を歩く凪沙は、もうトレードマークのブーツを履いていない。黒いローヒールの靴が砂浜にめり込んでいく。青い空と青い海、白い砂、どこまでも明るい画面で、「きれい…」とつぶやきながら、凪沙が死んでいく。うっすらと髭の生えた横顔、だが、美しい。

 原作では、凪沙の死に気づいた一果は嗚咽し、「天国へ行けば二人(亡くなったりんと凪沙)に会える」、と海に入っていく。そして、肩まで海につかって死を覚悟したとき、鳥の羽音を聞く。振り返った一果は、何かが空へ飛び立つのを見る。いまわの際の凪沙が見た幻の白鳥かもしれない。原作は

 大きな影は一果の頭上を一度優雅に旋回し、力強く羽ばたくと、まっすぐ太陽に向かって飛び続ける。

そして、そのまばゆい光に溶けるように、消えていった。

と結ばれる。原作のプローグ

 少女は眩しい太陽をただ見つめているのが好きだった。

とみごとに対応している。

 映画のラストは若干、もしくはかなり異なっている。凪沙の望みで白鳥の湖のオデットを踊っていた一果は凪沙の死に気づくが、その死を確かめると、まったく無表情で海に入っていく。襲いかかる波をものともせず、どんどん進んでいく。その後、場面は転換して、トレンチコート(凪沙の着ていたものと同じように見える)をひるがえし、ジーパンに赤いヒールを履いた一果がさっそうと階段を登っていく。日本を離れて一年半、海外留学中の一果は国際的なコンテストに出場するのだ。晴れやかなスポットライトを浴びて、一果は、白鳥の湖のオデットを踊り終える。

 原作にないこの結末の部分は、ハッピーエンドでストーリーを完結するために付け足された、原作の延長上のエピソードだろうか。見終わって、なんだか喉元に異物がつかえたような感覚になってしまうのは私だけなのだろうか。全身に孤立感と孤独を漂わせて登場した一果が、流暢な英語を話して、世界に羽ばたくバレリーナになっていく。それはたしかに、ハッピーエンドなのだろうけれど。

 最後に、ささいなことだが、この作品の凪沙や一果の実家が広島にあるという設定になっているのは何故だろう。他の地方都市でもよかったのかしらん。それから、なぜ、「凪沙」なのだろうか。「渚」ではなく。原作者の山本氏は松田聖子のファンで、聖子の「渚のバルコニー」という歌から主人公の名を「なぎさ」とした、といっているが、それならふつうは「渚」と表記するだろう。「一果」という名前も、どこから思いついたのだろう、と不思議である。

 解けない謎がいくつもあって、たった二回観ただけのこの映画のことをずっと考え続けている。ああいい映画だった、とカタルシスを味わっておしまいにしてしまうことができないという点で、この映画は私にとって「純文学」なのである。

 見終わってずいぶん時間が経ったのに、何もまとまったことがかけませんでした。最初に観た時の衝撃をうまくつたえることができず、あいかわらずの非力を感じています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2020年10月28日水曜日

三島由紀夫『奔馬』__「佐和」という存在___父と子の相克

   前回の投稿から随分長い時間が経ってしまった。書けない理由はいくつもあって、いろいろ総合すると、私の能力不足という厳然たる事実に行きつく。もう三島由紀夫につきあうのはこれまでにしようか、と思ったりもするのだが、それでも、力不足ながら、『奔馬』という小説のもっとも魅力的な登場人物(と思っているのは私だけかもしれないが)「佐和」について少しだけ書いてみたい。

 佐和は、『奔馬』の主人公飯沼功の父茂之の経営する「靖献塾」という右翼団体の最年長の塾員で「呆れるほど非常識な、四十歳の、妻子を國に置いて出てきた男である。肥って、剽軽で、暇さえあれば講談倶楽部を讀んでゐる。」と紹介される。他の塾員とは親密な関係を結ぶことがない__そのように父茂之が配慮している__勲にとって、唯一親しく話すことができるのが佐和だった。

 「神風連史話」に傾倒する勲は、同志を募って、腐敗した政、財界の要人を殺そうと企てる。一人一殺である。勲たちに理解を示す陸軍の中尉も参加することが期待され、二十人の同志の結成式もすませていた。その勲の計画を、何故か佐和が気づくのである。

 十月のある晴れた日、佐和は一人で下着を洗濯している。佐和は、いざというときに男は純白の下着をつけていなければならない、と常々言って毎日洗濯に精を出しているのである。靖献塾は塾頭始め、佐和以外皆出はらっている。大学から帰ってきた勲に、佐和は、勲たちがひそかに計画を練ろうとしている集まりに自分も参加したいと言い出す。勲は困惑するが、佐和はその場ではそれ以上深追いせず、自分の部屋に勲を誘って、今度は靖献塾の内幕を暴露する。

 ありていに言えば、勲の父茂之は三年前に巧妙かつ周到な強請をはたらいて、大金を得たのである。使い奴のさきがけとなって先方に赴いたのが佐和だった。思想を生業とする人生で、生活の糧を得るには、もっとも効率の良い方法なのだろう。これで靖献塾は裕福になったのである。「正義」とは、勲が帰宅途中で見かけた紙芝居の「黄金バット」のように、異様な金色のグロテスクな姿をしているものなのかもしれない。

 だが、勲をひどく愕かせたのは、最後の佐和の言葉である。誰を殺ってもいいが、蔵原武介はいけない。そんなことをすれば、飯沼先生が誰よりも傷つく、と佐和はつけたしのように言ったのだ。

 いったん自室に戻った勲は、木刀を提げて再び佐和の部屋を訪れる。先ほどの佐和の言葉の真偽を糾そうとしたのだ。父は大悪党の蔵原武介と本当に関係があるのか、と。ところが佐和は、勲の「現実が認識したい」という言葉を逆手にとって、「現実がわかると確信が変わるのか」と問い、それなら勲の志は幻にとらわれていたというのか、と逆襲するのである。

 勲は言葉に詰まるが、佐和が本当のことを言うまで動かない、と部屋に居座る。しばらくして、佐和は押入れから白鞘の短刀を取り出してそれを抜く。そして、蔵原を殺すのは自分にやらせてくれ、と懇願し、咽び泣くのだ。

 いったい佐和は、何故、勲に父茂之と蔵原の関係を暴露し、どうしても勲たちが蔵原を殺すなら、自分を同志に加えてくれ、というのか。靖献塾の大事な後継で、塾頭茂之の愛する勲を守る一心だろうか。それとも、佐和自身が悪党蔵原を殺さねばならない、と思い詰めているのか。

 佐和の泣く姿を見ているうちに、勲の方に余裕が生まれる。自分たちは「明治史研究會」なるものの会員で、集まって気焔をあげているだけだ、としらを切ったのである。勲は、心の中で、佐和が個別に蔵原を刺すなら、それでいい、と判断した。仮にも、それを言葉でみとめてはならない。彼は「指導者」になったのである。

 ところが、佐和の方が一枚も二枚も上手だった。勲の親友相良の家に「明治史研究會御一同様」という書留が届く。相良が勲たちが秘密に集まる場所に持参したその書留の中には、佐和が郷里の山林を売って作ったという千円が入っていた。そればかりか、佐和は、どうやって嗅ぎつけたのか、勲が新たに借りた隠れ家に現れ、一同を前にして、彼らの誓いの言葉を唱えるのである。

 佐和はたんに勲たちの仲間になっただけではない。勲たちの計画を実現可能なものとするために選択と集中の指針を与え、その実践のための具体的なやり方を示したのである。そして、蔵原武介殺害の役割をみずから担うことを否も応もなく決定し、いつか勲に見せた白鞘の短刀で人を刺す要領を、巧みな言葉とたしかな実技で教えたのだ。

 いよいよ決行を二日後に控えた十二月一日の朝、塾長の使いで外出した佐和を除く一同十一人が集まっていた隠れ家に警察が踏み込んできて、全員が捕まってしまう。佐和も靖献塾に戻ったところを逮捕される。一件は「昭和神風連事件」と名付けられ、世間を騒がせるが、一年の裁判を経て下された判決は、被告人全員の刑を免除する、というものだった。世間の風潮もまた、有為の若者にたいする同情に満ちていたようだった。

 判決の出た昭和八年十二月二十六日から三日後二十九日、皇太子命名の儀がある日、勲は佐和を誘って宮城前の提灯行列に参加する。群衆の中で佐和をまいた勲は、銀座に引き返して短刀と白鞘の小刀を買い、熱海の蔵原武介の別荘に忍び込み、佐和に教わった通りのやり方で、短刀で彼を刺した。それから、蜜柑畑の蜜柑を一つもぎとって食べ、白鞘の小刀を腹に突き刺したのだった。

 さて、佐和とは何者なのか。勲にとって、佐和はどのような役割を果たしたのか。その行動は謎に満ちている。そもそも、決行二日前に、勲たちの計画を父の茂之に伝えたのは勲を愛する槇子だが、佐和は最初から勲の計画、というより意志を知っていた。四谷の隠れ家の場所も知っていたのである。佐和が超優秀なスパイの訓練を受けていたのでないとすれば(もしかしたらその可能性もあるかもしれないが)、勲からすべてを打ち明けられていた槇子から聞いていた、としか思われない。槇子と佐和は、勲の知らないところでつながっていたのだろうか。

 また、槇子の密告は、勲を牢屋にぶち込んで、自分一人のものにしたい一心からだという佐和の言葉は本当だろうか。本当のようにも思われるし、そうでないようにも思われる。

 それから、最後に、最も重大な謎がある。提灯行列の群衆の中で勲を見失った佐和は、なぜ、「群衆のなかをあてどもなく四時間も」探した後、靖献塾へ帰って勲の失踪をつげたのか。三日前塾生が蔵原武介の不用意な不敬行為を報じる新聞を勲に見せたとき、すばやくそれを奪い取ったのは佐和である。勲が姿をくらませば、蔵原の別荘を目指すことは十分予想できた。すぐに父の茂之に連絡をとって、蔵原の別荘を警戒させれば大事に至らなかったはずである。

 目くるめくような絢爛豪華な悲劇『春の雪』の登場人物を影で動かしていたのは、蓼科という老女だった。清顕と聡子は蓼科の掌の上で遊ばされていたようにも思われる。蓼科は、エデンの園で、アダムとイヴに罪を犯すようにそそのかした蛇のような役割を果たすのだ。その後、蓼科は『奔馬』の次の『暁の寺』に再登場して、空襲で焼け野原になった東京の旧松枝邸で本多と再会する。九五歳!という設定で、化け物のような厚化粧をして、本多のくれた生卵をその場で食べてしまう。蛇の本性をあらわしたかのように。

 『奔馬』で蓼科と同じような役割を果たすのが佐和だが、佐和は蓼科のようにグロテスクに誇張されたキャラクターではない。飄々ととらえどころがなく、それでいて行動も頭のはたらきも俊敏である。だが、その存在は両義的で謎に満ちている。勲に蔵原武介を殺させたのは、まぎれもなく佐和だが、はたしてそれは佐和の本意だったのか。それとも「上手の手から水が漏れた」のか。

 勲は蔵原武介を殺した。そして、夜の海の気配にかこまれて自刃した。「父殺し」は成就したのか。それとも「子殺し」が成就されたのか。

 「父と子の相克」という主題は最終作第四部の『天人五衰』に持ち越されるのだが、それについて書くことができるのは、まだかなり先のことになってしまうかもしれない。というより、『暁の寺』以降、作品のトーンがあまりにも変わって、なんだか三島由紀夫の形而上学や心理学を読まされているような気がして、魅力的な登場人物を見つけられないのである。私の知力、教養が圧倒的に足りないのだろうと思うのだが。

 三か月ぶりに書いてみて、あまりの不出来に愕然としています。最後まで付き合って、読んでくださって、本当にありがとうございます。

 

2020年7月28日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__「昭和維新」と「神風連」__英雄伝説の完成

 前回のブログで「まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。」と書きながら、なかなか書けないでいる。

 昭和七年、本多繁邦は三十八歳になった。

と書き出される時代は、内外の危機的状況のもと「昭和維新」を旗印に、とくに右翼勢力の側から実力行使が相次いだ。今日の目から見れば、昭和六年三月事件から昭和十一年二.二六事件まで九つの暗殺、テロ事件が起こり、それらの血生臭さがきわだつが、このように暴力による破壊行動に収斂するにいたるには、じつは明治後半から大正を経て、深刻で複雑な社会、文化の変化があったのはいうまでもない。

 この間の歴史を、たんに事象の表面をなぞるのではなく、そこに生きた日本人の思想、感情の屈折を精緻に分析、叙述した『昭和維新試論』(橋川文三著)という名著がある。余談になるが、教養や知識の蓄積が乏しい私は、この本を読んで多くのことを教えられた。というより、自分の無知、不勉強に気づくことを余儀なくされた、と言った方がいい。朝日平吾、渥美勝、田沢義鋪といった人物のことなど、この本を読まなければ、名前さえ知ることもなかっただろう。非常に概念的な言い方になるが、一九〇〇年前後からの内外の社会の激変が、とくにその底辺で生活する庶民の生存に危機的な影響をもたらし、「実存」(という言葉が当時使われたかどうかわからないのだが)の悲哀、あるいは「不安」という感情が世相に蔓延した、という論が『昭和維新試論』の中で述べられている。

 『奔馬』冒頭で、作者は、本多の同僚の裁判官に、オスカー.ワイルドの「今の世の中には純粋な犯罪というものはない。必要から出た犯罪ばかりだ。」という言葉を語らせている。本多もそれに対して「社会問題がそのまま犯罪に結晶したような事件が多いね。それもほとんどインテリでない連中が、自分では何もわからずに、そういう問題を体現している。」と答えている。実際、裁判官として本多は、娘を娼家に売った農民が約束の金を半分も貰えぬのに腹を立てたあげく、誤って娼家の女将を死なせてしまった事件を裁いている。

 一九二九年のニューヨーク株の大暴落から始まる世界恐慌が庶民の生活を危機に追い込んだことはよく知られているが、日本ももちろんその例外ではなかったのである。だが、一方、そのような庶民の困窮を、豪奢な晩餐後の酒席の話題として会話する階級が存在したことも、三島は『奔馬』のなかで伝えている。

 一家の飢えを救うには、兵隊となった息子の遺族手当ををもらうしかないすべがないので、早く息子を戦死させてくれ、と小隊長に手紙を書いた貧農の話が語られるのは、軽井沢の財閥男爵の炉端である。「通貨の安定こそが国民の究極の幸福である」と金本位制復帰を説いて「九割を救うために一割が犠牲になってもやむをえない」とする主賓の「金満資本家」蔵原武介をはじめ、「つややかな頬」や「つややかな手」をもつ男たちは、十分な食事と酒の後、貧農の願いがかなって、名誉の戦死を遂げた息子の話に涙するのだ。

 この間の事情は、小説の末尾近く、蹶起前日にとらえられた飯沼勲が、初回の公判の場で、裁判長の求めに応じて、心情を吐露するかたちで縷々述べられている。簡潔で要を得た勲の説明は、二十歳の青年勲の現実認識とその説明、というより作者三島のそれのように思われてならないのだが、それはさておき、暗雲晴れやらぬ皇国の現状を憂える勲が、みずから行動を起こすための決定的な啓示となったのが「神風連」であり、「必死の忠」であると述べていることは、複雑で多層的な問題を含んでいる。

 明治九年熊本で、廃刀令に反対する士族の反乱がおこる。「敬神党の乱」あるいは「神風連の乱」と呼ばれる。乱を起こしたのは、国学者、神道家の林櫻園を祖と仰ぐ太田黒伴雄ら約百七十名の人々で、神託のままに「敬神党」を結成して、十月二十四日に熊本鎮台を襲った。ウィキペディアに月岡芳年という画家の描いた「熊本暴動賊魁討死之図」という錦絵が掲載されているが、刀と槍と薙刀を武器とした敬神党の面々が、近代兵器を備えた鎮台に攻め込むさまは、このような美しい錦絵とはほど遠い地獄図だったろう。蹶起した百七十余名のうち、死者、自刃者百二十四名、残り約五十名が逮捕され、斬首されたものもあったという。

 三島は『奔馬』前半「神風連史話 山尾綱紀著」という書物の全文引用の体裁で神風連の乱を語る。「神風連史話」は、「その一 宇気比」から始まり、「その二 宇気比の戦」「昇天」と結ばれる短編小説となっている。目次が示す通り、敬神党の人々の戦いは、古神道、神ながらの道の精神に貫かれたもしくはその精神を貫くための戦いであり、結末であった。

 彼らには、厳密な意味での戦略はなかった。敵を滅ぼすためではなく、「もののふ」としてのアイデンティティに賭けた戦いで、敗北は必定だったように思われる。むしろ、自刃を目的として蹶起したのであり、戦いはそこに至る過程にすぎなかったようである。血塗られた死の美学がくりひろげる抒情詩が「神風連史話」であった。山尾綱紀という架空の作家にたくして、三島はそのように書いている。そして『奔馬』の主人公飯沼勲は「神風連史話」という「書物」から「召命」ともいうべき啓示をうけたのである。「神風連の乱」という歴史の事実からではなく。

 「神風連史話」が厳密な意味での「神風連の乱史」でないことは、勲からこの書物を借りて読んだ本多の勲への手紙の中で指摘されている。周到にも三島は、『奔馬』という作品中で「神風連史話」に対する的確な批判をしているのである。統一的な「物語」をつくるために、「事実」の中に含まれる多くの矛盾が除去されていること。敬神党の敵である明治政府の史的必然性を逸していること。そのために「全体的な、均衡のとれた展望」を欠いていること。

 三十八歳の裁判官本多は以上の点を指摘し、「神風連史話」に傾倒する勲に教訓を垂れている。「過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化」することは歴史を学ぶことではない。「純粋性と歴史の混同」をしてはならない、と戒めるのである。「神風連史話」の的確な批評であり、これに傾倒する勲への適切な忠告である。____だが、『奔馬』という小説のはらむ最も核心的な謎がここにあると思われてならない。

 本多という人物の言葉を借りて、このように的確な「神風連史話」の批判ができるなら、つまり、そのような歴史認識をもっているなら、作者三島は、何故、『奔馬』を書いて、それを遺作としたのか。明治九年の「神風連の乱」の時代の純粋は、「昭和維新」の時代のそれではありえないならば、昭和四五年の11・25のそれともまったくの別物である。

 通俗的で愚かな私は、いつも、この部分で躓いて堂々巡りの思考に陥ってしまうのだが、『奔馬』という小説は破綻のない、完成度の高い作品であると思う。本多は勲への手紙の中で、「神風連史話」を「一個の完結した悲劇であり、ほとんど芸術作品にも似た、首尾一貫したみごとな政治事件であり、人間の心情の純粋さのごく稀にしか見られぬ徹底的実験」と評しているが、これはそのまま『奔馬』にあてはまる評価である。『春の雪』の松枝清顕と同じく、飯沼勲もまた、輪廻転生の主体のひとつであって、二十歳で死ぬことを運命づけられていたのだった。夭折の英雄伝説の完成である。

 「神風連史話」はおびただしい血と死を流して悲劇を完成するが、『奔馬』は飯沼勲と蔵原武介の二人の血によって完結する。飯沼勲が何故蔵原武介を殺さなければならなかったかについては、また別の機会に考えてみたい。私は三島の文学の隠されたテーマとしての「父殺し」の主題がここに存在すると思うのだが、それを書くのには、まだあまりにも力不足である。

 以前も書いたのですが、三島由紀夫の小説は、私にとってあまりにも「面白過ぎる純文学」で、読むことじたいに堪能してしまい、それについていざ何かを書こうとすると、どこから手をつけていいかわからないのです。今回の『奔馬』についても、その面白さの一ミリも伝えることのできないもどかしさでいっぱいです。もう一回「父と子」のテーマで書こうと思っています。物語の展開で、重要な役割を果たす「佐和」という中年の男に焦点をあてて考えてみたいのですが。

 今日も不出来な感想文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年5月26日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__海と白い奔馬

 三島由紀夫『豊穣の海』第二作『奔馬』は、とくにそのラストが昭和四五年十一月二十五日の事件と関連づけて論じられることが多い。たしかに、『奔馬』は1970.11.25の盾の会の蹶起とその失敗を予告、というより実践したもののように見える。それは、ある意味まさにその通りなのかもしれないが、いや、その通りであるからこそ、ここに書かれていることは、言葉を失ってしまうほどの衝撃的な事実なのではないか。

 三島由紀夫とは何者なのか。

 最初に題名の「奔馬」という言葉について考えてみたい。ほとんどの辞書には「奔馬_荒れ狂って走る馬。また、勢いの激しいことのたとえ」とある。「奔馬」という言葉は、「一人一殺」あるいは「一殺多生」のスローガンのもと要人テロとその計画があいついで起こった昭和維新と呼ばれる時代とそのヒーローを象徴するものとして用いられていると思われる。

 昭和六年三月事件から始まり、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、神兵隊事件、十一月事件、国体明徴、天皇機関説排撃事件、永田鉄山中将殺害事件、そして昭和十一年二.二六事件にいたる六年間に九つもの重大事件が起こった。日本国内だけでなく、世界のあちこちで暗殺テロが相次いだ。人々はこうした殺人、破壊行為を「国家革新」の旗印のもとに、むしろ肯定的に受け止める風潮だった。この時期は、事件を起こした実行者たちだけでなく、それを裁く司法までも含めて、「昭和維新」の美名のもとに、荒れ狂った馬のように理性を失っていたのである。

 ところで、「奔馬」という言葉は、前作『春の雪』の文章の中にもさりげなく埋めこまれている。夭折する美の体現者松枝清顕の親友本多繁邦が、湘南の海の砂浜で海に対峙している。ここに書かれている繁邦の思いは、作者三島の歴史観のエッセンスといってもいいものだろう。それを簡潔に要約することは私の能力を超えているが、いくつかの文章を抜き書きして考えてみたい。

 ・・・・そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮の退き際、一つの波打ち際、一つの境界に他ならなかった。
 ……海はすぐその目の前で終わる。
 波の果てを見ていれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終わるのだ。
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 あの橄欖いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり怒号だったものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいずれ囁きに変わってしまう。大きな白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去って、最後に蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
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 しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力強く見えていた渚の波も、実は希薄な衰えた拡がりの末としか思われなくなる。次第次第に、沖へ向かって、海は濃厚になり、波打ち際の海の濃厚な成分は凝縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の水平線にいたって、無限に煮詰つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達している。距離とひろがりを装いながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この希いあわただしい波の重複のはてに、青く結晶したもの、それこそは海なのだ。

 これを、私の言える一言でいえば、「諦観」だろう。あるいは「時間の概念のない歴史」を鳥瞰する目。波打ち際という境界にあって、無限の彼方の「距離とひろがりを装いながら、青く結晶したもの」を見る目。海は始原の、永遠の「青い結晶」に凝縮され、「逞しい横隊を組んだ」「白い奔馬」は、はその「蹴立てる白い蹄」の残像が記録されるだけだ。

 この諦観が『春の雪』という第一作で呈示されていることは、『豊饒の海』四部作を語るうえで、決して見逃してはならない点であると思われる。そして、ここに私の「躓きの石」がある。このように、諦観もしくは韜晦の境地に到達していながら、なぜ『奔馬』の後『暁の寺』『天人五衰』を書き継がなければならなかったのか。それから、作家の実人生を作品読解に持ち込まない、という自戒をあえて破る愚を冒していえば、なぜ「三島事件」は起きたのか。

 以上の疑問がいつまでも私の中にわだかまっていて、堂々巡りの思考からぬけだせないでいるが、まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。この作品の成立には、明治九年熊本で起こった神風連の乱が影響を与えているといわれるが、実はプロットの大枠は昭和八年の神兵隊事件によるのではないか。また、個々の登場人物の造型にはそれぞれの事件のさまざまな実在の人物をモデルにしているようである。尊皇愛国の志に燃えた若者が本懐を遂げるまでの直線的な物語のように見えて、かなり複雑な仕掛けが隠されているように思われる。仕掛けの一端でも読み解ければ、と思うのだが、難題である。何かまとまったことが書けるようになるまで、もう少し時間がほしいと思う。

 気がつけば日常の光景が一変していて、信じられないような世界に生きています。何が起こっているのか、何故なのか、「今」を理解できなくてもがいています。情報はあふれていますが、必要なのは情報ではなくたしかな実在感です。薄気味悪い浮遊感の漂う中で、性根を据えて作品に向かい合う時間がつくりだせないでいます。ひとえに非力のなせるわざですが。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2020年4月12日日曜日

折口信夫『死者の書』__反逆者の伝承__藤原仲麻呂を中心に

 前回「南家郎女と水の女」を投稿してから随分と時間が経ってしまった。次は小説としての『死者の書』の「世態風俗」について書いてみたい、としながら果たせないでいる。

 『死者の書』前半は、滋賀津彦と呼ばれる大津皇子と南家郎女の出会いが語られ、その描写は鬼気迫るものがあって、しかも、不思議なリアリティがある。折口でなければ書けない文章であって、口述筆記する折口の息の匂いがつたわってくるような気がする。

 ところが中段になって、大伴家持が登場し、藤原仲麻呂と会話する場面では、木に竹を接いだように、文章の調子ががらりと変わる。藤原京から平城京へ都が変わり、権力闘争が相次ぐ。そのさなかに身を置きながら、流れに乗りきれない自分の内面を確かめようとする家持の視点から、出来事が語られる。だが、『死者の書』中段の主人公は、家持ではなくて、じつは、藤原仲麻呂なのではないか。

 家持が仲麻呂の邸宅に招かれ饗応を受けている。仲麻呂の息子久須麻呂と家持の娘の縁談がもちあがっていたようだから、そのための饗応だったのかもしれない。家持は、十歳年上の仲麻呂の悠揚迫らぬ風格に気おされそうになる。会話はふたりの共通の話題の漢文学から、神隠しにあったという南家郎女の話に及ぶ。春の日長の、何事も起こっていないかのような、平和で満ち足りた光景が展開するのだが、家持は一抹の不安を覚える。恵美屋敷の立派過ぎる庭が、気になるのだ。立派な庭に住んだ貴族の末は滅びてしまう、という。

 高校日本史程度の知識しかない私が七、八世紀の歴史を俄か勉強して、あらためて驚いたのは、近畿地方の狭い地域を中心に、血で血を洗う権力闘争が絶えなかったという事実と、その経緯のむごたらしさが目を覆うばかりであったことである。叔母の光明皇太后の権威を盾に、権力をみずからの手に集中させた藤原仲麻呂は律令体制の施行に驀進する。作品中の家持との会話にも窺われるように、仲麻呂は当代一流の知識人であり教養人であった。『懐風藻』の編者の一人ともいわれている。その仲麻呂が橘奈良麻呂の変に際して行った処罰は苛烈極まるものだった。皇族を含む四百人以上が逮捕され、ほとんどが訊杖という杖で打たれる拷問によって獄死している。家持と仲麻呂の会話は、家持が越中から帰京して八年後と書かれているので、この事件の後という設定になっている。

 光明皇太后の死後、仲麻呂の運命は暗転する。天皇の大権である貨幣鋳造権までも手中にして、政、官、軍の大権を掌握した仲麻呂だが、孝謙上皇に謀反を起こそうとしたとの密告があって、近江に逃れ、越前を目指す。だが、吉備真備を指揮官とする孝謙上皇方の討伐軍に、海、陸両方から攻められた仲麻呂軍は、わずか九日であっけなく敗れる。湖上に船を出して逃れようとした仲麻呂は妻子ともに皆殺しにされるのだ。

 昔見し 舊き堤は年深み 池の渚に 水草生ひにけり

 手入れの行き届き過ぎた庭を目にして危惧する家持の心を読んだかのように、仲麻呂は
古歌を呟く。萬葉集巻三山部赤人が、仲麻呂の祖父不比等の館跡で詠んだ歌 

 いにしへの 古き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり

 として知られているものだが、一句目「昔者之」を、折口は「いにしへの」ではなく、「昔見し」と訓んで、仲麻呂に呟かせている。余談ながら、折口は「口訳萬葉集巻三」中の表記も「昔見し」としているので、そう訓むのが正しいと考えていたのだろう。山部赤人にとって、淡海公藤原不比等の館跡はたんに漠然とした「いにしえの古き堤」ではなく、「昔見し舊き堤」だった。ほんの一昔前のことだったかもしれない。赤人はそこが水草の生い繁るがままにまかされていることに時間の推移を見ている。しずかな感動と、たしかな鎮魂の思いが過不足なく表現されていると思う。そしてその思いは、仲麻呂に寄せる折口の思いでもあったのではないか。

 「庭はよくても、滅びた人ばかりはないさ。」と、家持の顔色をよんだ仲麻呂は言ったが、信じ難いほど急転直下の成りゆきで滅亡してしまう。そんなに仲麻呂の権力の基盤は脆かったのだろうか。一方、対話の相手の家持は、相次ぐ政変からあやうく身をかわしながら、仲麻呂の死後二十年以上生き延びている。藤原宿奈麻呂の仲麻呂暗殺計画に加わっていたともいわれるが、罪に問われることはなかった。もっとも、死後に起った藤原種継暗殺事件に関与していたとされ、埋葬を許されなかった、とあるので、名門貴族の氏上でありながら、順風満帆の生涯とは程遠かったようである。

 物語の本筋に直接関係ない家持と仲麻呂の対話は、何故木に竹を接いだように、挿入されたのだろうか。折口はこの後、「たなばたつめ」のモチーフを用いて南家郎女が曼荼羅を織り上げる物語を語る。家持と仲麻呂のその後の消息が語られることは二度とない。「當麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされた」と、仲麻呂の庇護のもとにあった大炊王が即位したことを記すのみである。

 折口の「民俗学」は、徹底して「歴史」を語らない。膨大な文献を渉猟して緻密に組み立てられた、むしろ「言語学」に近いもののような気がする。そのこと自体がきわめて政治的であると思う。小津安二郎の映画が日常茶飯に徹して、政治を語らないのと同じように。「歴史」を語らないという禁欲。過去の文献を読み解きながら、文献に書かれた「事実」に触れないという禁欲。その禁欲が、折口を読む者に、いいようのない息苦しさを覚えさせるのではないか。

 それでは『死者の書』の中で、折口は歴史を語っているだろうか。語っているようにも見えるし、そうでないようにも見える。いえることは、折口は、ここではのびやかに書いている、ということだ。大仏開眼に沸く奈良朝の「世態風俗」、家持と仲麻呂の二人の「人情」、それらを折口は楽しみながら書いているように思われる。折口が「民俗学」の中では解放できなかったもの、徹底して禁欲してきたこと、「事実」に触れるということは「小説」の中だからこそなし得たのだと思う。それが「歴史」ではなく、「伝承」の記録というかたちであっても。

 『死者の書』に登場する大津皇子、天若日子、隼別皇子、そしていうまでもなく藤原仲麻呂はみかどに弓引く企てをした反逆者として非業の死を遂げた者たちである。折口は、南家郎女の物語を縦糸に、彼ら反逆者の伝承を横糸にして『死者の書』という曼荼羅を織り上げたのだと思われる。

 『死者の書』については、郎女の見る「俤人」が何故「金髪、白皙」の「色人」なのか、という問題を考えなければならなく、そして、その解についてもある仮説があるのですが、いまは、まだ、まとまったことが書けそうにありません。自分の文章作成能力の乏しさをつくづく 感じています。
 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 

2020年3月4日水曜日

NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」を見て_personからindividualへ

 深夜つれあいとユーチューブをネットサーフィンしていたら、「認知症の第一人者が認知症になった」というドキュメンタリーに出会った。タイトルにある通り「痴呆症」と呼ばれていたものを「認知症」と名づけた文字通りの第一人者が、その症状を発症してから、一年余りの生活に取材して映像化した作品である。一時間に満たない番組をつくるために、どれほどの映像、というか情報を切り捨てたのだろう。過不足なく、抑制のきいた映像が流れるのだが、それでいて、取材する側とされる側ドキュメンタリーにかかわる人それぞれの思い、息づかいが伝わってくるような気がした。

 この番組は相当な反響をよんだものらしく、ネットで標題のタイトルを探したら、たくさんの感想が寄せられていた。いま現在身内の方を介護している人、介護の経験はないが、これから起こりうるかもしれない事態として自らの老後を考えている人などのいくつかのコメントを読んだが、それらがじつに達意の文章で、エッセイとはこうやって書くものだ、と感心かつ同感しながら読んでいた。

 具体的な事柄についての感想は、ご本人とご家族の方たちのプライヴァシーにかかわり、微妙な問題を含む場合もあるかと思うので、さし控えたい。それで、私が印象的だったふたつの場面について考えてみたい。

 ひとつは、認知症になった先生が、介護施設に招かれて「私はキリスト教の信仰に出会って……」、と話し始めた場面だが、その後話の続きがカットされてしまった。帰宅後、終始先生に付き添ってサポートしている長女の方が「キリスト教の話はしない方がいい」と父親に言っている場面があるので、おそらくその判断を優先したのだと思われる。介護施設のお年寄りを前に、先生がどんな話をしたのか、どうしてキリスト教の話はしない方がいいと判断したのかわからないのだが、私はその話を聞いてみたかった。先生はいつキリスト教に出会ったのか。認知症を自覚する前なのか、それとも後なのか。また、先生の出会ったキリスト教とはどんなキリスト教なのか。というより、先生はキリスト教の何に出会ったのか。

 もうひとつは、番組の最後に近い場面で、長女の方が「お父さん、私が誰かわかる?」と聞くと、先生が「わからん」と答えるくだりである。その前に先生はインタビューーに答えて、自分が見ている景色はと以前と変わらない、と言っているので、長女の方も以前と同じ存在として認識していると思われる。姿、かたち、年齢、声等々、それとして認識しているのだが、「みずこか?」と奥さんの名を呼び、「わからん…」とつぶやく。目の前にいる人間が妻なのか娘なのか、それとも他の誰かなのか、わからない。存在は認めても、自分との関係性が抜け落ちている。これは絶対の孤独である。

 認知症も様々なかたちがあるようだが、門外漢で経験が乏しい私には、詳しいことがわからない。ただ、このドキュメンタリーを見て思うことは、老いるとは、この方も言われるように、「自分の中にあるものをひとつひとつ失っていくこと」なのだ、という当たり前のことであり、それを受け入れていく過程なのだ、ということである。そして、それはそんなに悪いことでもないし、悲しむことでもないような気がする。

 他者との関係性が欠落していくことは、他者との関係を結ぶための「顔_仮面_ペルソナ」が剥ぎ取られていく過程である。「人間」から「ひと」になっていく。person からindividual になっていくのだ。もうこれ以上分けられない存在、究極絶対の個。

 もちろん、これは、私の想像の世界の中で理念としてのみ成り立つ図式かもしれない。現実はもっと複雑で情念に満ちた世界があるのだろう。だが、「キリスト教の信仰に出会った」という先生の言葉を聞いたとき、私もその信仰に出会ったような気がしたのである。というか、もし私がキリストに出会うことがあるとしたら、そういう絶対の孤独、究極の個に近づくときだろう、と思うのだ。

 折口信夫の続きを書かなければならないのですが、相変わらず悪戦苦闘しています。それで、というわけでもないのですが、ちょっと折口の呪縛から逃れたくもあって、寄り道してしまいました。不出来な作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年2月18日火曜日

折口信夫『死者の書』__水の女と南家郎女__入水と「白玉」

 前回『死者の書』のもう一人の主人公藤原南家郎女について、彼女をとりまく時代状況「世態風俗」を考えてみたいと書いたのだが、その前に、やはり「水の女」と「たなばたつめ」というモチーフにどうしても触れなくてはいけないような気がする。松浦寿輝氏は南家郎女について「水の女とたなばたつめの系譜」と総括して、折口信夫の「水の女」と「大嘗祭の本義」の一節を引用してしている。

 みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから「神の嫁」となる。(「水の女」)
 此みづのひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾はれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。(「大嘗祭の本義」)

  「みずのをひも」とは、大嘗祭の儀式において、物忌みに籠った天皇の体に結ばれた紐であり、その解きかたを知っているのは神に仕える処女=水の女だけである、とされている。だが、ここでの松浦氏の論の中心は「水の女」の行為あるいは機能にあるのではない。氏は、大嘗祭の儀式の核心が、物忌みに籠った天皇が「神の魂を受け取るために女性化を強いられ」る「独身者同士が軀を擦り合わせる倒錯した舞台」にあることを示唆している。「水の女」が「みずのをひもを解く」行為は、「神の魂を受け取」り、神格化が完了した天皇を忌から解き放ち、再び共同体の場にもどす重要な役割をになうが、あくまで、先の倒錯した舞台劇が行われた上で、それに続く秘事であるとされている。

 「水の女」の基本的な概念が、松浦氏の引用した折口の文章にあり、また氏の解析に同意もするのだが、『死者の書』の南家郎女と「水の女」の関わりについて、もう少し、小説の文脈に沿って考えてみたい。「水の女」は折口の論文の中でも有名なものであるが、折口の他の論文同様、非常に難解で、かなり大部の論文である。「みぬま」という語の解釈から始まるこの論文が主題とするものは、じつは複雑多岐にわたっている。記紀神話をはじめとする多くの伝承や文献の知識、素養が乏しい私が容易に要約できるはずもないが、南家郎女という女主人公を形象化するうえで、折口が何をヒントにしたかを探ってみたい。

 余談だが、「水の女」「若水の話」「貴種誕生と産湯の信仰と」「最古日本の女性生活の根底」と続く折口の古代研究の論文の多くが女性に関するものであったことに、いまあらためて、かるい驚きを覚えている。

 『死者の書』で「藤原南家郎女」と呼ばれる女性は、奈良県当麻寺につたわる「当麻曼荼羅」を一夜にして織り上げた「中将姫」として伝説化された存在だが、藤原豊成の娘で、母は当麻氏出身の藤原百成ともいわれ、実在した人物のようである。藤原南家郎女の屋敷があった奈良の三条と当麻寺はかなりの距離で、作品中にあるように、春秋二回の彼岸の中日に美しい人の俤を見て憧れたからといって、嵐の中を徒歩でたどりつくことのできる距離ではない。当麻_曼荼羅_南家郎女を結んで伝説化するには、何らかの因縁があったのだと思われる。

 幼いときから美しく聡明だった郎女は、父から贈られてきた「称讃浄土摂受経」の写経をはじめる。そして春、秋の彼岸の中日、夕日の沈む一瞬に、山の端に美しい人の姿を見る。だが、半年後の春分の日に雨が降り、沈む夕日と美しい人の姿を見ることができなくなった郎女は、いたたまれずに家を飛び出す。夕日の沈む方向へ、俤(おもかげ)人を求めて、南家郎女は嵐の夜一晩中歩き続け、二上山の麓当麻の里にたどりつく。

 知らぬ間に結界をおかし、寺の境内に入っていた郎女は、朝になって、寺人に見つけられ、寺に留め置かれることになる。そして、その夜、郎女は孔雀明王を祀る小さな廬の中で、夜を徹して、当麻の語部の媼の語りを聞くことになるのだ。

 媼は、まず、郎女の祖中臣氏の神わざを語る。中臣・藤原の遠い祖あめの押雲根命が、日のみ子の飯、酒を作る水を求めて、大和国中に得られず、当麻の地二上山に八か所の天水の湧き口を見つけたこと。それ以来、代々の中臣が日のみ子の食す水を汲みに当麻の地に来ること。「お聞き及びかえ。」と念を押しながら媼は語る。当麻と南家郎女を結ぶ縁は水であったのだ。

 語り終わって、いったん口をつぐんだ媼は、今度は神懸って歌いはじめる。

  ひさかたの 天の二上に
  我が登り  見れば
  とぶとりの 明日香
  ふる里の  神南備山隠り、
  家どころ  多(サハ)に見え、
  豊にし   屋庭は見ゆ
  濔彼方(イヤヲチ)に見ゆる家群
  藤原の   朝臣が宿
   遠々に   我が見るものを
   たかだかに 我が待つものを
  處女子は  出通(イデコ)ぬものか。
  よき耳を  聞かさぬものか。
  青馬の   耳面刀自。
   刀自もがも。 女弟(オト)もがも。
   その子の    はらからの子の
   處女子の    一人
   一人だに、   わが配偶(ツマ)に来よ。

  ひさかたの  天の二上
  二上の陽面(カゲトモ)に、
  生ひをゝり  繁み咲く
  馬酔木の  にほへる子を
   我が    捉り兼ねて、
  馬酔木の  あしずりしつゝ
   吾はもよ偲ぶ。藤原處女

 二上山に埋葬された大津皇子の独白である。長い眠りから「徐(シズ)かに覚めた」大津皇子は、「まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあって、心はなかった」が、当麻の語部の媼の口を通して、處女子を、「藤原處女」を求めるのだ。幽界の大津皇子には、南家郎女が、磐余の池で処刑される寸前に一瞬に視線をかわした耳面刀自に見えるという。

 ところで、また余談だが、この長歌は折口の創作だろうか。松浦寿輝氏は、歌人折口を「三流」と評して、「うた」がない、と断じている。たしかに、折口とほぼ同時代の斎藤茂吉のように「うたいあげる」ことは折口にとって不可能だった。折口自身は「調子が張っている」かどうかを歌の評価の基準にしていたが、折口の歌で「調子が張っている」ものは少ないのではないか。むしろ「うたえない」歌人だったと思う。だが、この長歌は、「うたう」のでなく、「つぶやく」あるいは「くどく」歌である。そして、出典を探し求めずにいられないくらいに、この時代の息づかいをつたえてくるのだ。歌が「時代と寝る」ものだとすれば、折口の歌は、彼の時代と寝ることができなかった。「古代」の時代と寝たのだ。
 
 折口信夫は「水の女」の後半で

私は古代皇妃の出自が、水界に在って、水神の女である事、竝に、その聖職が、天子即位甦生を意味する禊の奉仕にあった事を中心として、此論を完了しようとしてゐのである。

と述べている。冒頭松浦氏の引用した「大嘗祭の本義」の文章を要約したものである。折口には珍しく、近代的というか合理的な説明のように見えて、私のようなレベルの読者でもすんなりわかったような気がしてくる。だが、ここに至るまで、折口はじつに様々な伝承、文献を渉猟して「水」_「神」_「女」の織りなす物語を吟味検証しているのだ。

 折口は、貴人のために女が水に潜る行為は、天皇即位甦生の儀式だけでなく、貴人誕生時に産湯を使わせる場面でも行われるという。また、たんに「潜る」というよりは、その「冷たさに堪える」ことが、ある目的を成就させるという発想があった、とも指摘している。儀式化される以前、「禊」の原初には、「水を浴びる」という程度の内容より、はるかに重く、危険をともなう場面があったのではないか。折口は「水の女」中「とりあげの神女」の章末尾で、入水すること_潜る(くくる)ことがそのまま死を連想させる伝承をいくつかとりあげている。それらの伝承をヒントに、『死者の書』の白眉ともいえる郎女の入水の夢の場面が書かれたのではないか。
  
 周りの侍女たちが寝静まった夜更け、廬の中、郎女が座る帳台に跫音が近づいてくる。昨晩は廬の戸が激しく叩かれたのだった。恐怖と同時に鮮烈なときめきがほとばしって、郎女は思わず目をつむる。昨夜、当麻の媼は、大津皇子が藤原處女を求めて声にならない叫びをあげているのだと言った。あるいは、皇子と同じように反逆の罪をおかした「天若日子」が祟るのだ、とも。

 やがて帷帳がうごいて、瞬間指が見える。細く白い、まるで骨のような指が帷帳を摑んでいる。思わず、郎女の洩らした言葉は
 なも 阿彌陀ほとけ あなたふと 阿彌陀ほとけ
だった。寝食を忘れて写経に励んだ称讃浄土経の文である。
 なうなう。あみだほとけ……。再びつぶやく。
帷帳は元のまま垂れて、何事もなかったかのようなかったかのようだが、白い骨、白玉の並んだような骨の指がいつまでも郎女の目に残っている。そしてその後、郎女は入水の夢を見るのである。

 郎女は「海の中道」を歩いて行く。踏んでいるのが砂ではなく、白く光る玉だと気がついて、拾うのだが、拾っても拾っても掌に置くと砂のように砕けて散ってしまう。

姫は__やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく裳もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。
ずんずんと下がって行く。水底に水漬く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹の白い珊瑚の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのまゝに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光__。ほっと息をついた。
まるで、潜(ミズ)きする海女が二十尋、三十尋の水底から浮び上がって嘯(ウソブ)く様に、深い息の音で、自身明かに目が覚めた。

 非常に美しいイメージの連続だが、死の隠喩に満ちている。ここは「海の中道」だが、生き物の気配はない。「白玉」があるだけだ。拾おうとすると砕け散って砂となる無数の白玉。等身大の輝く大きな白玉。それを抱き持った郎女の身も白玉となり、さらに白い珊瑚の木になってしまう。
 「白玉」とは何か。夢の直前に見た帷帳をつかむ「白い指」が「「白い骨、白玉の竝んだような骨の指」とが書かれていることから推察すれば、それは「白骨」ではないだろうか。

 折口に「石に出で入るもの」という論文がある。その中で、「玉_たま(魂)」について説明している。「玉」は、外見だけでなく、それに内在しているものを問題にしているので、見る人が玉だとみれば、貝でも石でも人の骨でも「玉」であって、人の骨を玉に見立てた歌が萬葉集に少なくとも二つあるともいっている。

 「白玉」=「白骨」という仮定が正しいとすれば、夢の中で「輝く、大きな玉」と抱き合ったまま海底に沈む郎女は、自身も白玉=白骨となって、白骨同士の、いわば死の抱擁をかわすのだが、果たして「みづのをひもを解いて」禊は完了したのだろうか。目覚めた郎女が、もう一度「なうなう 阿弥陀ほとけ」とつぶやくと、明るい光明の中に、山の端に見た美しい俤人が姿を現したのである。郎女はその白玉の指をはっきりと見たのだが、起き直ると、天井の光の輪が揺れているだけだった。

 南家郎女については「たなばたつめ」のモチーフも考えなければいけないのですが、これについてはまた回を改めたいと思います。ここまでくるのも悪戦苦闘の連続でした。家持と藤原仲麻呂が作品中に突如登場することの意味も考えたいのですが、なかなか先が見えません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年1月22日水曜日

折口信夫『死者の書』__大津皇子「くれろ。おつかさま」の謎__松浦寿輝『折口信夫論』に触発されて

 三島由紀夫の『奔馬』について書こうと思い、背景となった昭和維新の時代を調べていて、松浦寿輝氏の『折口信夫論』に出会った。出会いの必然はこの著書の後記にある

 この国の、奇妙に柔らかく弾性に富んだ不可視の権力システムの謎は、折口のあの薄気味悪い文章や詩歌の中に、ことごとく畳みこまれているのではないかとつねづね考えていたからである。

という文章がすべてを語っている。松浦氏の『折口信夫論』には、全編珠玉のような文章がきらめていて、そうだ、そうだと「激しく同意」しながら一気に読了した。折口を読まない人でも、この本を読めば折口の最も核心的なものに触れることができるのではないか。もう半世紀以上も折口を読んでいながら、何もいえずに立ちつくしている私は、自分のふがいなさに自信をなくしかけている。

 だが、あえてひとつ言わせてもらうことができるとしたら、これらは折口の「同性」だから書けた文章なのではないか。論の初頭からたびたび引用される折口の「大嘗祭の本義」について、松浦氏は最後にこういっている。

 この「褥=寝床」が異性を排除した独身者の床であるという点をいま一度強調しておくことにしよう。「水の女」が現れ、禊を行い、新天皇がまとうべき衣を織り、それを着せかけてくれるのは、物忌みが明けた後になってからのことにすぎない。「喪の儀礼のさなかにあっては、女との婚姻の証である「水の羽衣」は未だ奪われたままであり、仮死状態を耐えている宙吊りの「死者」は「をゝ寒い。……著物を下さい。著物を___」とおらびつづけなければならない。大嘗祭の「褥」は、異性との交接が行われるエロスの床ではなく、同性同士が軀を擦り合わせる倒錯の舞台なのである。

  文中「仮死状態を耐えている宙吊りの死者」とは、折口信夫の『死者の書』の主人公「滋賀津彦」こと大津皇子である。天皇への反逆を企てたとして処刑され、二上山に埋葬されている死者が数十年後によみがえる。『死者の書』の冒頭「彼の人の眠りは、徐に覚めて行った。」と書き出され、少しずつ意識と記憶を取り戻していった死者は、むき出しの裸体に気づき、寒さに震えながら「著物をください。」と叫ぶのだ。松浦氏の『折口信夫論』は、主として折口の小説『死者の書』をテキストとして取り上げ、その創作の秘儀に迫りつつ、折口自身も気づかなかったのではないかと思われる「折口」を示現させるのだ。

 「大嘗祭」に戻れば、折口自身が、この儀礼についての具体的な描写を「大嘗祭の本義」という論文の中深く畳みこむように、つまり用心深く隠すかのように置いているのと同じく、松浦氏もこの著書の最後でようやく一気に核心を抉り出す。ここに書かれてあることが事実かどうかは検証のしようがないのだが、折口と、そしてもちろん松浦氏とも異性である私には、この文章自体が「同性同士が軀を擦り合わせ」ている」ているように感じられてならない。折口の残虐な魅惑にあえて「十分以上に素肌をさら」すことができるのは同性の特権である。異性は最初から疎外されている。

 だが、だから、それゆえに、松浦氏が『死者の書』の大津皇子(作品中では滋賀津彦と呼ばれる)が召喚する三人の女たち__耳面刀自、姉御(大伯皇女)、おつかさま__の差異に関心がなさそうであるのが、少しものたりないのである。以下、三人の女たちに滋賀津彦がどのように訴えたのかたどってみたい。

 長い眠りから覚めた滋賀津彦の意識が、まず最初に、記憶から呼び起こしたのは耳面刀自だった。謀反の罪をきせられ、磐余の池で処刑される寸前に一目見た耳面刀自を、滋賀津彦は思い続けていた。滋賀津彦は言う。

 おれによって来い。耳面刀自。

 滋賀津彦の独白の中で最も多くその名が呼ばれるのは耳面刀自である。耳面刀自は実在の人物と考えられている。大織冠藤原鎌足の娘で、天智天皇の長子大友皇子の妃となったが、壬申の乱で大友皇子が敗れ自殺したため、妃である耳面刀自も死んだとされている。あるいは、近江宮から脱出し、父鎌足の故地鹿島を目指して九十九里浜に上陸したが、その地で亡くなったという伝説もある。

 作中滋賀津彦と呼ばれる大津皇子は、天武天皇の子でありながら、天智天皇の近江宮で育てられた。人質としての存在だったかもしれない。だから、耳面刀自のことを

 おまへのことを聞きわたった年月は、久しかった。

というのだろう。だが、いつ明けるとも知れぬ岩窟の暗闇の中で

 子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳える子どもを。

と執着するのは異様である。

 「滋賀津彦。其が、おれだったのだ。」と記憶を取り戻して歓びの激情をおぼえたとはいえ、「岩屋の中に矗立(シュクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかった」と描写される滋賀津彦の生々しい欲望は、不思議な現実感をもって読む者の感性を脅かす。それは、立ち枯れの木と描写される滋賀津彦のむこうに、いや内側に、折口信夫その人の姿がすけて見えるような感覚を覚えてしまうからかもしれない。

折口信夫は「耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、さらに深い印象であったに違ひはない。彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髄の心までも、唯彫りつけられたやうになって、残っているのである。」とのみ記すのだが。

 その次に思い出したのは、伊勢の斎宮となった姉の大伯皇女だった。作中彼女の

 いその上に生ふる馬酔木をたをらめど見すべき君がありと言はなくに
 うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと思はむ

二首の和歌が記されている。弟が処刑された後、墓の前で哭きながら歌ったものとされている。誅歌(なきうた)と書かれていて、紛れもなく死者のための歌だが、この二首は、は、誅歌というよりむしろ恋人たちがかわす相聞歌の感情が漂っている。相聞歌と挽歌はいずれも相手の魂を「乞う」歌なので、厳密な区別がつきにくいものだが、万葉集には大伯皇女の歌がこの二首以外にも四首記録されている。そのいずれもむしろ民謡的な相聞歌である。

 よい姉御だった。

折口はあっさりと、滋賀津彦にそういわせているが、墓の戸をこじあけようとする大伯皇女の姿は尋常ではない。

 最後に召喚される「おつかさま」は謎である。実在の大津皇子の母は天智天皇の娘大田皇女だが、大津皇子が七歳の時になくなっている。目覚めた滋賀津彦は

 をゝ寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かったというのなら、あやまります。著物をください。著物を___。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。

と「おつかさま」に訴えかけるのだが、はたして「おつかさま」は早世した太田皇女だろうか。滋賀津彦は

 恵みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでない此世かも知れぬ。

と、「おつかさま」の生死について判断できない。ただ言えることは、「おつかさま」は権力者なのである。「おれが悪かったというのなら、あやまります。」と滋賀津彦が言うのは、いうまでもなく「おつかさま」が「尊い」からであり、「恵みのないおつかさま」でも「お縋りする」しかないのだ。「憐みのないおつかさま」は「おれの妻の、おれに殉死するのを、見殺しになされた。」とも書かれている。大津皇子の実母大田皇女がこのような権力者であったとは考えられない。そもそも大津皇子が処刑され、大津皇子の妃山辺皇女が殉死した時に、大田皇女はすでに他界している。権力者である「おつかさま」は実在のモデルがあるのだろうか。それとも何か抽象的な存在なのだろうか。

 こうしてたどってみると、歌を詠んでくれた姉の大伯皇女の記述が、むしろ一番あっさりしている。この姉弟の関係は、当時からすでに近親愛的な叙事詩としてストーリーが組み立てられていた形跡があるのだが、作者折口はなぜかそこに関心をふりむけようとしないのである。それに対して、耳面刀自と「おつかさま」にからむ滋賀津彦は、奇妙なというか、異様なというか、その具体的身体の描写とあいまって、「死者の性欲」とでもいうべきオーラに満ちている。はたして、この滋賀津彦が南家郎女の俤にあらわれる「黄金の髪と白い肌」の主となるのだろうか。

 こうして書いてくると、松浦氏の明晰かつ抽象化された論の枠組みに無理やり夾雑物を紛れ込ませようとしているようにも思われてくる。だが、『死者の書』は小説として書かれている。「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と坪内逍遥の言葉にあるように、「人情」と「世態風俗」について、もう少しこだわってみてもいいのではないか。「世態風俗」については、もう一人の主人公南家郎女と彼女を取り巻く状況を考えてみたい。その上でもう一度松浦氏の『折口信夫論』にもどって、何か言えることがあるかどうか考えてみたいとも思っている。

 「権力とは現勢化するエロスの反復形態である」という『折口信夫論』の帯の文章は、まさに金言だと思うが、ならばなおのことそのエロスがどのように具体化されているかを、日常、生活者の感性で探ってみたいのである。

 ずいぶん長いこと書かないでいたことも手伝って、未整理に拍車がかかる文章となってしまいました。最後まで読んでくださってほんとうにありがとうございます。