2014年4月14日月曜日

三島由紀夫『宴の後』____シンデレラボーイにされた政治家

 功成り遂げた美貌の料亭女将が硬骨かつ高潔な老政治家に恋をして、彼の選挙のために情熱と知略と全財産をささげて戦い、破局をむかえる。言ってみればそれだけの小説で、よくできてはいるがどこに文学的興味を覚えればいいのか、との趣もある。この小説が有名になったのは、いまはごく普通の日本語となった感のある「プライヴァシー」の侵害という件で作者の三島由紀夫と小説を出版した新潮社がモデルとなった政治家有田八郎に提訴されたからである。

 政財界の要人が利用する高級料亭雪後庵の女将福沢かづは客として店で出会った元大使の野口雄賢に惹かれる。寡黙で朴訥でありながら事に当たって迅速な行動力を見せた野口は、過去を懐かしむだけの他の客と際立って異なっていた。妻を亡くして独り身を通していた野口とかづはどこか不器用ながらやがて結ばれ、正式に結婚する。

 結婚は天涯孤独で運命を切り開いてきたかづに「野口家の墓に入れる!」という安心感をもたらしたが、雪後庵の客は少しずつ減り始めた。雪後庵の客は保守党の要人で、野口は革新党の政治家だったからである。そのような状況で野口に都知事選立候補の要請があった。料亭経営に以前ほど熱情を傾けられなくなっていたかづは、野口の背中を押してこの要請を受けさせ、みずから主導権をとって動き始める。違反すれすれのなりふり構わぬ選挙運動もしたが、最後に相手陣営がかづの過去をスキャンダラスに暴露した文書を撒いたこともあって野口は敗れる。かづもありったけの金を使ったが、最後は保守党の金が勝ったのだ。

 落選した野口は陶淵明の「帰去来辞」のような生活を望むが、かづはそこにおさまることができる人間ではなかった。選挙戦のさなかにいったん閉めた雪後庵を再開しようと保守党のかつての顧客に奉加帳を廻したかづに野口は激怒し、二人は離婚する。物語の最後は、選挙参謀でかづのよきパートナーだった山崎という男が、雪後庵再開の招待状への返信としてしたためた手紙で締めくくられている。

 以上のあらすじは概ね事実に基づいていると思われる。もとより小説はフィクションなので、事実そのままでなくても訴えられることはない。だから原告の有田氏も「プライヴァシーの侵害」という抽象的な理由で提訴せざるを得なかった。だが、もう少し詳しく事実と小説の関係を見ていきたい。問題としたいのは、まず、有田氏と妻となった「かづ」こと畔上輝井の結婚生活についてである。

 小説の中ではかづは野口と知り合ってまもなく都知事選を迎えたように書かれている。だが、畔上輝井と有田八郎は大戦中の一九四四年に事実上の夫婦(入籍は一九五三年)となり、戦後はじめての衆議院議員選挙で有田は新潟一区から出馬し最高得票で当選している。その後一九五五年二回目の衆議院選挙で落選し、直後都知事選に立候補するがこれも落選、『宴の後』で書かれた選挙戦はその後一九五九年に再び行われた都知事選のものである。つまり有田氏と畔上輝井との結婚生活は少なくとも一五年は続いたのである。「紅の豚」のジーナではないが、「(この国では)人生はもうちょっと複雑なの」ではないか。

 また元大使の野口が学者肌で理想主義的な政治家として描かれていることも微妙な問題を孕んでいると思う。実際の政治家有田八郎はチャイナスクールと呼ばれるアジア通で、近衛、平沼、米内の三代の内閣で外務大臣を務め、日独伊防共協定を締結した人物である。終戦直前に天皇に上奏文を書いたことでも知られ、豪胆かつ実務的な政治家のように思われる。小説の中で、彼を潔癖で清貧の人として描くのは間違っているとはいえないが、政治家として有能な側面をないがしろにしている感が否めない。そのあたりが有田氏を提訴に踏み切らせた真の動機ではないだろうか。

 妻となった畔上輝井という人については資料がほとんど見当たらない。有田氏と知り合ったときすでに高級料亭「般若苑」の女将だったことは事実だが、その後三田に「桂」という料亭を出し有田氏の生活を支えた、といわれる。「桂」という店名は有田氏の実父山本桂の「桂」にちなんだかとも思われ、資金の出所が畔上輝井の側だけだったのかどうか疑問である。また「般若苑」についても、畔上輝井が実際に取得したのは一九四九年だったので、それまで所有していたのは誰だったのだろう。不思議なのは、小説の中でも実際にも、「超」がつくほどの高級料亭を女手ひとつでどうしたら手に入れることができたのだろうか、ということである。(つい最近高名な実業家が般若苑の跡地(もしくはその一部)を買って白亜の宮殿風建物を建てたということで話題になった)小説の中では、野口がかづに貢がれたシンデレラボーイとして描かれているが、普通に考えれば、まずシンデレラが畔上輝井だろう。

 三田の「桂」という料亭は、戦後まもなく起きた「辻嘉六事件」の舞台となった何やらきな臭い匂いもする場所である。『宴の後』裁判は案外奥の深いものだったのかもしれない。そもそもこの小説は激動の昭和三五年雑誌「中央公論」に連載されながら中央公論社から単行本として出版されず、新潮社から出たのである。作者三島がそれほどにもこだわって出版したのは何故なのだろう。ここに描かれる政治および政治家の姿はむしろ類型的で、一般読者の通念におもねっているようにも思われ、文学作品として心血を注ぎきったものとまではみえないのだが。

 ともあれ六〇年安保を境に日本の革新勢力とその運動は転換期を迎え、有田氏個人の政治生命は完全に終息したのである。

 書かなければ、と思いながらなかなか進まず、散漫な文章になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。