2014年2月25日火曜日

三島由紀夫『金閣寺』序論___生きるために殺す___「モデル小説」という「私小説」

 ミイラ取りがミイラになって、いつまでも三島にかかわっています。でも、やはり大江健三郎に戻っていかなければならないと考えているので、三島についてはこの『金閣寺』と『宴のあと』という二つの作品を取り上げて一応の区切りとしたいと思います。

 読めば読むほど三島由紀夫は端整な作家である。ほとんどの作品が起承転結が完璧で描写も的確なので、きちんと読めばちゃんとわかるように書かれている。わからないのはこちらの読み込みが足りないか、理解力が不足しているのである(要するに私が馬鹿だということ)。小説『金閣寺』は冒頭
 「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」
と始まる。さらに
 「父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描き出した金閣は、途方もないものであった」
と続く。主人公の「私」にとって、まだ見ぬ金閣は「金閣寺」そのもの自体だけでなく、この世の至上の美すべての象徴であった。

 一方「私」は体力、容貌に劣等感をもつ吃音障害の少年だった。外界への融通無碍な働きかけに障害をもつが故の権力への志向、それと表裏一体の徹底した孤独を養って「私」は育っていった。そして「私」は「この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた」と語るのである。

 その「使命」とは何かを考える前に、僧侶としての修行に入る前、中学生のときの二つのエピソードを取り上げてみたい。一つは海軍機関学校の生徒の美しい短剣に切り傷をつけたことである。休暇をとって母校に遊びにきた眩くも凛々しい海兵生徒の(みずからも自覚している)数年後の死を待ちながら、待つことの重みに耐えかねて、「若い英雄の遺品」に見えた短剣を傷つけたのだった。

 もう一つは「有為子」という美しい娘の死を語るエピソードである。「私」は夏の朝有為子を待ち伏せしたが、自転車に乗って現れた彼女を前にして「石」と化してしまった。ベルを鳴らしながら傲然と去った有為子の告げ口で、面倒をみてもらっていた叔父から叱責された「私」は有為子の死をねがうようになる。
 「私は有為子のおもかげ、暁闇のなかで水のように光って、私の口をじっと見ていた彼女の眼の背後に、他人の世界__つまり、われわれを決して一人にしておかず、進んでわれわれの共犯となり証人となる他人の世界__を見たのである。他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽に顔を向けられるためには、他人が滅びなければならぬ。・・・・・」

 そしてそのねがいは成就する。海軍の脱走兵と恋に落ち、妊娠した彼女は志願看護婦として勤めていた病院を追い出され、憲兵に捕まる。囮となって恋人の潜む名刹の御堂に向かった有為子は恋人の脱走兵に撃ち殺されたのである。有為子は囮になることで恋人を裏切ったが、「裏切ることによって、とうとう彼女は俺を受け容れたんだ。」と思った「私」をも裏切って死んだのだ。死んだ有為子は美と愛と憎しみの象徴として「金閣」と同値の存在となったのである。

 「金閣」は、「私」がそれから疎外されているが故に、「私」にとって至上の美であり、唯一の愛の対象であった。そしてまた「それ故に」「凡ての無力の根源」でもあった。この図式から、「私」が生きるためには、十全に生きるためには、「金閣」を焼くことは必然という結論が導き出されることに障害はない。決行の当夜、闇の中に燦然と輝く幻の金閣を見て、激甚の疲労に襲われ、行為を躊躇う「私」に記憶の底から言葉が近づいてくる。
 「裏に向かひ外に向かって逢着せば便ち殺せ」
 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず透脱自在なり」

 以上は『金閣寺』という小説から、観念的、形而上学的な骨組みだけを取り出して試みた分析である。小説はプロットだけで成り立つものではもちろんないので、作中魅力的な人物が複数造型され、それぞれ重要な役割を果たす。「私」と正反対のアポロンのような存在として描き出されるが最後に自殺してしまう鶴川、「私」と同様に障害をもち、それを生きるために徹底的に利用する柏木、「私」の生殺与奪の権を握り、しかもそれを容易に行使しようとしない道詮和尚、「私」をごく自然に「全く普遍的な単位の、一人前の男として扱」ったまり子。とくに道詮和尚は、「私」を罰しない(=「私」に応答しようとしない)ということで、私」を放火に追いやった。そしてまり子は「私」と外界との壁をあっけなく融かしてしまい、そのことが「企図」の段階にあった放火を「行為」へと踏み出させたのである。これらの人物があまりにも生き生きとリアルに描かれているので、ある種通俗小説を追いかけているかのような錯覚に陥ってしまう。だが、これは純文学である。

 何故ならこれは「モデル小説」をよそおった「私小説」だからだ。この小説は主人公の「私」の疎外感の原因が吃音障害であるという出発点と、最後に放火の後「生きようと私は思った」という結末と、その両方とも事実と異なっていると思われる。吃音障害は生得のものではない。言語を習得し使用できるようになる幼児期の何らかの心理的抑圧が原因である。私見だが父子関係の軋轢によるのではないだろうか。だが、この小説で描かれるのは、ひとつ蚊帳の中で母親が不倫の行為をしているのを見ないように子供の目をふさぐ弱く卑怯な父親である。吃音障害と無力な父親という設定は矛盾している。また、最後に放火した後、現実の放火犯はカルチモンを飲んで切腹を図っている。彼は「金閣」とともに「死のう」としたのだ。

 「金閣」を焼いて「生きよう」と思ったのは「私」なのだ。「私」は「金閣」を焼かなければ生きられないと思ったのだ。_______では、「金閣」とは何か。

 『金閣寺』については、機会があれば本論を書いてみたいと思っています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年2月5日水曜日

深沢七郎「風流夢譚」__「私」は誰でしょう

 先日ネット上で「風流夢譚」が電子書籍化されていることを発見した。この空前絶後の不敬小説が、と、ある感慨と同時にかすかな違和感を覚えた。時代はどう変わったのだろうか。

 一九六〇年(昭和三五年)中央公論12月号に発表されたこの小説は、その内容よりも発表直後に巻き起こった賛否両論の激しいぶつかり合いと、二ヵ月後に起こった右翼少年のテロ行為によって中央公論の社長宅が襲われ、社長夫人が重傷を負い、お手伝いさんが亡くなったという事件のほうが記憶に残っている人が多いだろう。小説の批評、評価は私などの分を超えた分野であり、事件とその影響についても軽々に判断できることではない。ただひとつ、いま読み直してみて気がついたことがあるので、少しだけ書いてみたい。それは、この荒唐無稽な夢物語を語る「私」についての検討である。

 
 深沢の小説は、あの独特な甲州弁と他の作家ではありえない日本語の使い方から、一見ちゃんぽらんに見えるのだが、じつは計算され尽くした構成のもとに成り立っている。それは彼がギタリストであるからだという人もいる。この小説も見事な構成である。

 冒頭作者は「あの晩の夢判断をするには、私の持っている腕時計と私の妙な因果関係を分析しなければならないだろう」と、「私」の腕時計の話から始める。腕に巻いているときだけ正確に時を刻むが、腕からはずすと止まってしまう時計で、アメリカ婦人が帰国の際に「私」の友人に5千円で売り、友人にすすめられて「私」はそれを3千円で買ったのである。中味は燦然と輝く金に見えるが、トタンのメッキのインチキ品かもしれない。正確な時刻を知るには、甥のミツヒトが高級なウエストミンスターの置時計を置いてあるので、不便は感じなかった、と書かれる。ある晩おそく帰宅した「私」は、自分の腕時計もウエストミンスターの時計も深夜1時50分をさしていたのを意識した後、眠ってしまい夢を見たのだった。

 夢の中で「私」は井の頭線の満員電車に乗って渋谷に行き、そこで八重洲行きのバスを待っている。ここでもバスを待つ人があふれている。まわりはみんな労働者の様な人達で、なぜか「私」は先頭に立っている。次から次へとバスが来るが、来るたびに並んでいる人達が運転手をひきずり降ろして乗り込んでいく。都内で革命の様なことが起こっていて、諸外国が応援してくれて、こちらは武器、弾薬、ミサイルまで入手したらしい。「私」は二つの毛糸玉を転がしながら編物をあんでいる中年の職業婦人らしい人に誘われて、皇居行きのバスに乗り込む。

 皇居広場は屋台の店が立ち並び、お祭り騒ぎの中、皇太子夫妻が首を落とされ、天皇皇后もすでに斬首されている。この記述が不敬小説とされる所以だろうが、斬首の場面の描写は「スッテンコロロカラカラ」と無機的な擬音語が二回使われているだけで、あっけらかんと淡白である。まったく同時期に(小説新潮12月号)発表された三島由紀夫の「憂国」の微に入り細を穿った陰惨な切腹場面と対照的だ。作者がこだわるのは、斬首に使われたマサキリが「私」のものであるということなのである。「(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナくなって)」「(首など切ってしまって、キタナクて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)」と、執拗な記述が続く。また、人形でも見ているかのように衣装に関心があるようで、天皇皇后の洋服に「英国製」と商標マークがついていると書いている。

 この後「わしなど30年も50年もおそば近くにおつかえした者だ」という首にネックレス(のように見える文化勲章)を巻いた老紳士が登場する。「天皇皇后のご成婚の仲人をして文化勲章を貰った」というこの老紳士は、美智子妃の着物の模様や色紙に書かれたそれぞれの辞世の和歌の講釈を始める。そこに現れるのが、とうの昔に亡くなった昭憲皇太后である。

 「65歳くらいの立派な婆さんである。広い額、大きい顔、毅然とした高い鼻、少ししかないが山脈の様な太い皺に練白粉をぬって、パーマの髪も綺麗に手入れがしてあるし、大蛇のような黒い太い長い首には燦然と輝く真珠の首飾りで、ツーピースのスカートのハジにはやっぱり英国製という商標マークがはっきり見えているのだ」

 いったい深沢は作中人物の容姿、服装などの描写をすることは稀である。昭憲皇太后のここまで念入りな描写は何を意味するのだろう。さらに不思議なのは、昭憲皇太后が現れると、いままでただの野次馬だった「私」がいきなり彼女と取っ組み合いを始めるのだ。双方とも「糞ッたれ婆ァ」「糞ッ小僧」とののしりあうのだが、甲州弁でかわされる二人のかけあいには、なぜか奇妙な親密感が漂う。「私」と昭憲皇太后とはどんな関係があるのだろう。ののしりあいの果てに昭憲皇太后の頭をなぐろうとした「私」は彼女の頭に自分と同じ「ハゲ」を見つけて「わーっ」と飛びのくのだが、これは何を意味するのだろう。そもそも「私」とは何者なのか。

 渋谷では゛キサス・キサス″を演奏しながら行進してきた軍楽隊が皇居前広場に来て、゛アモーレ、アモーレ、アモーレミヨ_"__死ぬ程愛して___をやりだして、演芸会の準備が始まる。小太鼓と大喇叭とトランペットの大群がやって来て、薄闇の空一面に花火が上がる。轟音とともに天を覆う花火が、火の粉となって頭上に降りそそぐと、「私」は「(こんないい花火を見て)」「(あゝ、これで思い残すこともない、死んでもいい)」と思うのである。そして、「私も腹一文字にかき切って」死のうと思って、辞世の歌を作って「パーンとピストルでアタマを打った」。

 ピストルを打たれて死んだはずの「私」が、自分の頭蓋骨に詰まった白いウジを見て「「ウジだッ」と叫んだところで甥のミツヒトに起される。目がさめると、ミツヒトのウエストミンスターの時計が時を打つ前の前奏を鳴らしはじめ、それが終わると寺院の鐘のように「ベーン、ベーン」と2時を知らせた。そして、いつもは腕からはずすと止まってしまう「私」の腕時計も2時かっきりを指していた。

 腕時計はなぜ止まらなかったのだろう。「(あッ、俺が夢を見ていた間は、この時計も起きていたのだ)と私は涙が出そうになる程嬉しくなって腕時計を抱き締めた。」と語り終える「私」とは、いったい誰でしょう。それから、渋谷で「私」を皇居行きのバスに誘った編物をしている「中年の職業婦人」と、作中披露される珍妙な辞世の歌をもっともらしく講釈する「老紳士」とは何ものなのか。

 
 一九六〇年は激動の年であった。この小説は中央公論12月号の巻末に掲載されていて、最終頁の下半分は「すたっふ・さろん」と「編集後記」という編集者たちの署名入りの短文で埋められている。当時の編集者達の危機意識の深刻さに触れて、隔世の感がある。時代はあの年を分水嶺として確実に変わっていったのだ。このあと中央公論は翌六一年1月号から三島由紀夫の「宴のあと」を連載するのである。

 正直、「風流夢譚」を取り上げるのは、いささかの躊躇いがありました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。