2015年12月21日月曜日

大江健三郎『水死』__コギーという記号とあらゆる手続きの演劇化

 大江健三郎の小説を読んで分かった、と思ったことは一度もない。分かった、と思うときがきたら、そのとき私は大江の読者でなくなるだろう。『水死』も分からない小説で、いろいろな分からなさがあるが、まずは「コギー」なる名称と存在が分からない。

 物語の始めに、古義人が賞をもらったときの記念碑に刻まれた詩(?)を紹介している。
 
 コギーを森に上らせる支度もせず
 川流れのように帰って来ない。
 雨のふらない季節の東京で、
 老年から 幼年時まで
 逆さまに 思い出している。

 最初の二行は古義人の母が作った俳句だという。まず、これからして不思議である。一九三五年生まれの古義人の母(当然母は古義人より少なくとも二十歳は年上)が息子を「コギー」と呼ぶだろうか。しかも、「コギー」は古義人のことであるが、また古義人の息子アカリのことだともいう。この後、妹のアサにも「コギー兄さん」と呼ばせているので、「コギー=古義人」を強調したかったのだろう。だが、アサはいつも古義人を「コギー兄さん」と呼ぶわけではない。

 次に「コギー」を議論の対象としたのは、劇団「ザ・ケイヴ・マン(穴居人)」のリーダーで「長江の穴に住む人」との異名のある穴井マサオである。穴井は「コギー」を「長江さんの全小説を縦断的に脚色して、と考えている主題なんです」という。「穴井マサオ」とは、「コギー」を『水死』という小説のテーマにするために作者大江によって作品中に呼び出されたキャラクターのように思われる。「コギー』とは、穴井によれば、長江の作品中「幾つかの、別々の対象にあたえられている名前」である。それは、子供の時一緒に暮していた自分と瓜二つの子供であり、アグイーという名の死んだ赤ん坊であり、『懐かしい年への手紙』のラストに登場する幼く無垢なアカリである。

 長江が、長江だけがその実在を主張する「コギー」を「ぬいぐるみ」にして可視化し、「水死小説」に登場させようという穴井の計画は「水死小説」の破綻によって立ち消えになってしまった。「コギー」の代わりにぬいぐるみとして劇中に登場するのは、ウナイコの発案した「死んだ犬」(!)だが、これについてはまた後で検討したい。「コギー」は物語の後半、再び作品中に呼び出される。古義人の前に再び現れた穴井マサオは、古義人から去った「コギー」を取り戻す最後のチャンスが洪水下の父の出航だったという。現実には古義人は入り江に戻り、父について行くコギーを見送って、チャンスを逃してしまったのだが、彼は、古義人が「水死小説」を書くことで最後の逆転をはかると期待したのだ。

 ともにある人、癒す人、イノセントそのもの、としての「コギー」がついえて、最後に復活するのは「尸童(しどう)」、しかばねの童のモデルとして、である。谷間の森の円形劇場で「死んだ犬を投げる」公演を成功させたウナイコは東京の大劇場に出演する。そこで彼女は平家物語の建礼門院に取り憑く物の怪の「よりまし」_霊媒を演じる。ウナイコからその「よりまし」の話を聞いた古義人は「よりまし」に「尸童(しどう)」を見るが、ウナイコは「尸童(しどう)」のモデルが「コギー」だという。「コギー」はしかばねの童で、霊媒だったのか!______「水死小説」の、というより『水死』の結論はここにくるのか?

 「コギー」という「長江さんの全作品をつらぬく記号」(穴井マサオの言葉)が何を意味するのか、性急な結論はしばらく置くとして、もうひとつわからないことについて考えてみたい。それは、この作品の中で「演劇」の果たす役割は何か、ということである。ウナイコは漱石の『こころ』を題材に、観客を巻き込んだ討論劇の方法を取り入れ、討論の相手方にぬいぐるみの犬_「死んだ犬」と呼ばれる_を投げつけるという過激なパフォーマンスで喝采を浴びる。___だが、ほんとうにそんなことが、とくに中学、高校の「演劇授業」として許容されるのか?「死んだ犬を投げる」というパフォーマンスのヒントは、物語の冒頭、古義人がウナイコの質問に答えるかたちで、ラブレーの「パンタグリュエル」の説明をする中にあるのだろうが、「パンタグリュエル」ほどグロテスクかつ残酷でないにしても、どう考えても教育的でない。どころか許されない行為だろう。

 ところが、「死んだ犬を投げる」劇で成功したウナイコは、みずから企画した『メイスケ母出陣と受難』ではさらに過激な演出をする。前回のブログでも書いたが、『メイスケ母出陣』は国際的映画女優のサクラさんが直接古義人の母に取材して制作、主演した映画である。地域の一揆を指導した少年「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだ「メイスケ母」の伝承を映画化したもので、シナリオを古義人が書いた。今回はその演劇版だが、映画の最後で、サクラさんの「アー、アー」という声で暗示される強姦シーンを実際に舞台上で演じる、という。しかも、強姦されるのは、劇中のメイスケ母だけでなく、メイスケ母の衣裳を脱ぎ捨てたウナイコ自身である、という設定になっている。

 当然、このことは地域に波紋をまき起す。のみならず、かつてウナイコを強姦した元文部省の高級官僚小河を谷間の森に呼び寄せることになる。ウナイコ自身が舞台上で十七年前の強姦の場面をそのまま演じ、その相手もあきらかにされるからである。ウナイコは小河自身を舞台に引き出すことを考えていたが、出てこなければ、代役を相手に「死んだ犬を投げる」芝居をするつもりだった。小河を呼び寄せるのには、古義人も一役買っていた。ウナイコが強姦された際の血と体液のついた下着、堕胎させられた処理後の品物を、劇団「ザ・ケイヴ・マン(穴居人)」のスケ&カクが舞台上でふりかざすというコントのシナリオを書いたのは、いうまでもなく古義人だからである。

 谷間の森に呼び寄せられた元文部省の高級官僚小河は、配下の者にウナイコとアカリ、ウナイコの片腕でもある親友のリッチャンを拉致させ、大黄さんの錬成道場に軟禁する。アカリとリッチャンを人質にとって、古義人に立ち合わせ、ウナイコに上演を断念させようとしたのだ。だが、強姦ではなかった、と主張する小河は、本当にそうでなかったかどうか、十八年前の再現をしてみようというウナイコの挑発にのってしまう。ウナイコは「尸童(しどう)」_「よりまし」と化して、小河に致命的な一撃をあたえたのだ。情動にかられ再びウナイコを犯した小河は、リッチャンから報告を受けた大黄さんに銃弾二発で倒される。古義人はアサの処方した睡眠薬で深い眠りを眠り、目覚めたとき、すべては終わっていた。

 「記号」というもの、「演劇」と小説、あるいは現実との関係、について、私のなかで見えてくるものは、まだ、ほとんどない。いま、世界中でおこる出来事は瞬時に報道され、可視化される。そこでは固有名詞は記号ではないのか、出来事は地球という舞台で上演される演劇ではないのか、という妄想にかられることがある。唐突なようだが、大江健三郎は何のために小説を書くのか。「すでにあったこと」を書くのか。「これから起こること」を書くのか。『さようなら、私の本よ!』の最後で長江古義人は「徴候」を集めて残すのだ、と言っていたが。

 徹底的に能力不足、体力も不足していたのか、なんとも舌足らずな文章のままでした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年12月14日月曜日

大江健三郎『水死』___フィクサー・アサの役割と沈黙する古義人

 この小説ほど古義人の妹アサの活躍する作品はない。アサは、物語りの発端から終末まで事件の展開の節目節目に登場して、その主導権を握っていく。アサから古義人への手紙、というかたちで語り手としての役割も担っている。一方、古義人はなんら主体性なく沈黙がちで、結末の破局までなすすべもなかったようにみえる。本当になすすべもなく、何もしなかったのかはひとまず保留しておくが。

 古義人は、「赤革のトランク」を餌にアサに呼び寄せられて、四国の「森の家」に赴く。そして、古義人の作品を演劇化してきたという演劇集団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の活動と同時進行のかたちで「水死小説」の完成をめざすが、期待していた資料が得られず断念する。

 古義人の断念は十年前に亡くなった母とアサの連携プレーによるものだ。古義人の父が手のこんだ手段を用いて残した「赤革のトランク」には、古義人が「水死小説」を完成させる手がかりとなるものは何ひとつ残されていなかった。母が長い年月をかけてすべて処分してしまったのだ。母の傍らでそれを見ていたアサは、古義人が期待する資料が何も残されたいないのを知りながら、むしろ古義人に「水死小説」を断念させるために彼を「森の家」に呼び寄せたのである。

 しかし、たんに「水死小説」を断念させるのが目的ならば、母もアサも「赤革のトランク」ごと捨ててしまえばよかったのだ。そうしなかったのは、母が、穴井マサオのいう「(父を)斃れたヒーローとして書きたいもうひとつの昭和史」ではなくて、古義人が別の「水死小説」を_「あまり愚かでないお父さんのことを小説に書く日がくることを考えていた」からだ。母の遺志を実現するために、「不撓不屈」のアサはフィクサーとして八面六臂の活躍をする。

 そのうち最も重要なのが、ウナイコという反・時代精神の女優と連携し、彼女を徹頭徹尾支援することだった。ウナイコが「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」から自立して演劇活動をするために、アサは「森の家」の所有権を土地ぐるみウナイコに譲渡するよう古義人に要請し、古義人はそれを受けいれたのである。

 「水死小説」を断念した古義人は、穴井マサオに誘われて、父の水死した亀川で敗戦の日と同じように、ミョート岩の裂け目からウグイを見る。その後クロールで泳いだのが無理だったのか、古義人は大眩暈」の発作に襲われる。帰京してからもその発作は続き、さらに息子のアカリとも決定的な破局を迎えてしまう。古義人が大事にしている楽譜にアカリは好意で印にをつける。ところが、楽譜を汚されたことに激怒した古義人が、印をつけたアカリに「きみは、バカだ」と言ってしまったのだ。「水死小説」は挫折し、「斃れたヒーロー」としての父_子関係は破綻したのだが、現実の父_子の関係も破局を迎えてしまった。

 ウナイコ_アサ連合の活躍はめざましかった。ウナイコは漱石の「こころ」を朗読劇に仕立てて、中学、高校に出前授業をする。その演劇授業の集大成として谷間の中学校の円筒劇場で公演するという運びになったのは、ウナイコの実力もさることながら、「狭い谷間で、批判もいろいろある長江古義人の妹として永くやってきた」「政治的人間」のアサの根回しがあったからである。

 アサはまた、「重大な病気」が発見された古義人の妻千樫の依頼で、千樫に付き添うために上京する。アサと入れ替わるかたちで、古義人とアカリが四国の「森の家」に行くことになる。ここで重要なのは、アサが古義人を「元気づけるためのプラン」として、古義人の話し相手として「大黄さん」をさしむけたことである。

 「大黄さん」については前回「大黄さんに関する備忘録」でもふれたが、もう少し補足してみたい。本文中アサの言葉として、大黄さんとは「本来は黄さんだったのに子供としては柄が大きいので大黄さん、孤児の引揚者として作られた戸籍の名は大黄一郎、、それが気の毒だとお母さんが採集する、薬草の大黄が村での呼び名がギシギシなので、そういうておった人」と定義されている。この定義は以前『取り替え子』でも述べられていたが、何だかおかしくないだろうか。「大黄さん」より「ギシギシ」のほうが名前として「気の毒」でないか?どうでもいいことなのかもしれないが、やはり腑に落ちないのである。「ギシギシ」__「技師」「義士」あるいは「義子」__これこそ「空想」でなくて「妄想」なのだろうが。妄想ついでに「大黄さん」は「大王さん」?

 大黄さんと古義人の対話の主題はずばり「王殺し」である。古義人は「赤革のトランク」に残されていたフレイザーの『金枝篇』の講釈をする。『金枝篇』は「高知の先生」が古義人の父に貸したものだという。「高知の先生」は『金枝篇』のうち「王殺し」に関する三巻を古義人の父に貸して、政治教育をしたのである。共同体の豊饒と繁栄を失わないために、衰えの見え始めた王は倒され、倒した者が新たな王になる、という原始社会のセオリーを、古義人は「人間神を殺す」という言葉で語る。

 これに対して大黄さんは事実に即して古義人の父と古義人の行動を語る。大黄さんは、すべてを「見て」いたのだ。古義人の父が、取り巻きの将校たちの誰よりも「高知の先生」に傾倒し、本気で蹶起を考えていたこと、だが、谷間の「鞘」をそのために利用し、冒すことは断固として拒絶したこと、そして、大水の夜たった一人で転覆必至の舟で漕ぎ出していったこと、古義人は置き去りにされたこと、古義人の父の遺体を水底で発見したのも大黄さんだった。アサにみちびかれて古義人は大黄さんと向き合い、そうすることで事実と直面せざるを得なかったのである。

 アサはこの後、反・時代精神の女優ウナイコの『メイスケ母出陣』の演劇化をすすめる活動に協力して、古義人も巻き込む。『メイスケ母出陣』は『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の国際的女優サクラさんが制作、主演した映画だが、日本で公開されることはなかった。『メイスケ母出陣』の演劇化は成功するが、思いがけない(あるいは当然の)事件が起こり、事態は一挙に破局に向かう。ここでも、アサの行動は非常に重要なポイントとなる。そのことについては、古義人の状況も含めて、もう少し詳しく見ていきたいが、長くなるので、また回を改めたい。

 ここまでくるのに悪戦苦闘の連続でした。未整理な乱文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年12月5日土曜日

大江健三郎『水死』__「大黄さん」に関する備忘録

 『水死』はやはり不思議な小説である。この作品だけ読めば、起承転結整っていてスキがないようにみえるが、長江古義人シリーズの最新作としては、これまでの作品との破綻があちこちにあると思う。もちろん、これも作者大江の戦略なのだろうが。

 前回のブログ「ウナイコという戦略_『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を読み換える」でも指摘したように、『水死』は『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を確信犯的に読みかえるところから出発している。『みずから・・・』のあの人は一義的に「父」となり、語り手の「かれ」は十歳の少年となって、古義人自身と一体化している。ここまでは、重層的な作品世界の一元化、の範囲だと思うが、問題は蹶起」という事件の起こった「時」のズレである。『みずから・・・』では敗戦の翌日となっているが、『水死』では敗戦を目前にした時点、となっていて、戦争はまだ終わっていない。『みずから・・・』も『水死』もそれぞれ独立した作品なのだから、この程度のズレは問題にすべきでない、という考え方もあるだろうが、それにしても釈然としないものが残るのだ。

 水死した父の後を継いで超国家主義者の錬成道場のリーダーとなった大黄さんはこの小説で極めて重要な人物として登場するが、大黄さんとは何者か。大黄さんが初めて長江シリーズに登場したのは『取り替え子』だったと思うが、当時高校生の古義人より少なくとも五~十歳は年上で老獪、狡猾な大人として描かれていた。とすると、『水死』の時点では八十歳を超えているはずである。だが、この作品に登場する大黄さんは精悍かつ知的な老人で、八十をとうに超えた人とはどうしても思えないのだ。そもそも大黄さんは『取り替え子』では死んだことになっている。さすがに、この点にかんしては作者大江も気がひけたとみえて、道場解散に際して弟子たちが「生前葬」をして古義人にすっぽんを送った、ということにしているのだが。

 錬成道場そのもが、『憂い顔の童子』の時点で、松山の財閥に土地ごと買い取られて、あとかたもなくなったはずである。それをもう一度復活させて新たなキャラクターを大黄さんに与えたのは何故だろう。そもそも大黄さんは、古義人に、間歇的に「通風」というテロを行ってきた張本人なのである。古義人は何回も郷里の訛りのある複数の人間に押さえつけられ、足の親指に砲丸を落とされるという体験をしている。もちろん実行犯は配下の人間であるが。これは間違いなく脅迫で、その目的は、「アレ」をバラすな、ということだ。この「アレ」こそが『取り替え子』と『憂い顔の童子』の核心だった。

 『さようなら、私の本よ!』、『﨟たしアナベル・リー総毛立ち身まかりつ』にまったく登場しない大黄さんに新たなキャラクターを与えて復活させ、魅力的なヒーローとして一気に結末をつけさせたのは何故か。だが、結末、といっても、大黄さんが「赤革のトランク」でないもうひとつのやや大きなトランク_古義人の父の持ち物だった_から取り出して小河を撃った銃はどうやって入手したものか、という疑問が残されている。もしかして、それは塙吾良を囮に大黄さんの道場におびき寄せられたアメリカ兵ピーターの持っていたものではなかったのか。だとすると、問題の焦点はもう一度「アレ」に、1951・4・28の日米講和条約の時点に遡る。古義人の父の死を語る大黄さんの言葉も、それをうけて沈黙する古義人の態度も、その意味するところの揺らぎは私のなかで容易に解決されないのだ。

  今回ほど自分の非力を思い知らされたことはありませんでした。もう大江の作品について書くのはやめようかと思いましたが、まずは、書けることから書いてみよう、とメモをしたためました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年11月9日月曜日

大江健三郎『水死』__ウナイコという戦略__『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を読み替える

 『水死』は不思議な小説である。主人公は誰か?大江健三郎は何故この小説を書いたのか?

 十七歳の少女が強姦され堕胎をさせられる。十七年後女優になった彼女は強姦した男に復讐する。物語の縦糸はこれである。縦糸に絡む横糸として、作家長江古義人の「水死小説」がある。縦糸と横糸で織り成された作品は未完に終わった水死小説の「現実」による完成を遂げて終わる。

 さて、それで、この小説の主人公は誰か?古義人の娘真木の似姿として登場し、ウナイコとよばれる(本名はミツコ)女優、ウナイコを強姦した元文部省の高級官僚を銃殺する錬成道場の主宰者大黄さん、古義人の妹でウナイコの強力な支援者かつ隠然たるフィクサーのアサ、そして未完の水死小説を断念し、ウナイコのために「メイスケ母出陣」の脚本を書く古義人、そのいずれもそれぞれの物語を持って登場する。それぞれの物語がもつれながら絡みあい、放れ、そして最後に唐突に終わる。ここでは、小説の冒頭に颯爽と登場するウナイコについて考えてみたい。

 運河に沿った道路で転倒しかけた古義人を文字通りサポートしてくれた娘ウナイコとの出会いは、しかし偶然ではなかった。偶然にみえた出会いは、古義人の妹アサの助言により周到に準備されたものだった。以後、ウナイコと彼女の劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の仲間たちは、四国の「森の家」を根拠に古義人の「水死小説」の進行をリアルタイムで追いながら活動を始める。

 ウナイコという奇妙な名の由来はアサが語っている。古義人の娘真木が小さい頃古代の「うない(髪)」のような髪型をしていて、それがウナイコとよばれるようになった娘の髪型と同じだったこと、髪型だけでなく真木とウナイコは似ていること、そして劇団のリーダーの「穴井」_アナイとの発音も似ていることからウナイコ自身がウナイコと改名したのだという。古義人の母が教えたという古歌も引用されている。

 郭公(ほととぎす)をちかへり鳴けうなゐこが打ち垂れ髪のさみだれの空 躬恒 拾遺集

「うなゐこが打ち垂れ髪の」の部分の解釈が、私のなかでどうしても揺らぐのと、「郭公をちかへり」の「をちかへり」に、たんに「若返り」というような軽い語感におさまらないものがあって、複雑な思いがする。「をちかへる」という言葉については折口信夫がよく言及していたように記憶するのだが。

 小説の中でウナイコの果たす役割は何だろう。彼女は、穴井マサオとともに古義人の作品を演劇化する劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」のリーダーとして活動するが、次第に劇団から自立していく。その過程で、かつて古義人が書いた『みずから我が涙ぬぐいたまう日』が、ウナイコにとっても古義人にとっても読み直されていく、ということが起こる。これは非常に重要かつ複雑な転換である。

 古義人が「森の家」に帰ってまもなくの日曜日「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」が演劇版『みずから我が涙ぬぐいたまう日』のリハーサルを行う。ウナイコはベッドに横たわる(自称癌患者の)作家の幻影の少年を演じる。皇居爆撃のための飛行機を調達するために、少年の父を木車に載せ、トラックで地方都市へ向かう軍人たちは外国語の歌を合唱する。バッハのカンタータ(「マタイ受難曲」から)である。原文はドイツ語だが、少年の父はこのように訳して少年に説明する。
 
 天皇陛下ガ、オンミズカラノ手デ、ワタシノ涙ヲヌグッテクダサル、死ヨハヤク来イ、眠リノ兄弟ノ死ヨ、早ク来イ、天皇陛下ガミズカラソノ指デ、涙ヲヌグッテクダサル

 「天皇陛下、オンミズカラ」は実際は「Heiland selbst 救い主みずから」となっているのだが、ここでは、問題は訳語の違いではなく、ウナイコ扮するゴボー剣に戦闘帽の少年だけでなく、現実の古義人自身が観客席で歌い始めたことである。それも、一緒に見ていた妹のアサが「あんなに入れ込んで歌っているのを聴いたことはないよ」と言うほど熱心に。

 「ずっとずっと感性のなかに埋もれていた歌が、将校や兵隊たちに扮している「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の合唱を聴いているうちに……もしかしたら、コギー兄さんの魂のあたりによみがえったんじゃないの?」とアサは続ける。優れた音楽はある種の魔性があって、理性や経験をこえた情念で人間を囮にしてしまう。(賛美歌や聖歌を捨てきれない私はつくづくそう思う)自分自身も合唱に感動したアサは、古義人の情念が「水死小説」のベクトルとなることを恐れる。

 ウナイコもまた、実際に舞台で少年を演じながら、ドイツ語で歌う古義人を見て衝撃を受ける。そして、十七年前伯母と靖国神社に行って、日の丸と軍服軍帽に長剣をもった男を見ながら吐いてしまった、という体験を話す。実はこのとき彼女は妊娠していたのだが。

 この一連の文脈で『みずから我が涙ぬぐいたまう日』は、超国家主義者の父と父を慕う少年の物語として読まれている。だが、『みずから我が涙ぬぐいたまう日』はそのような一義的な小説だろうか。『みずから我が涙ぬぐいたまう日』については、以前「ハピィ・デイズという逆説」とサブタイトルをつけて書いているので、興味のある方はそちらを参照していただければありたい。少年の父はつねにあの人とゴシックで記され、「神話か歴史の中の、架空にちかい人物」のようだと書かれている。水中眼鏡とヘッドホーンに身をかためた主人公の作家は「かれ」と自称し、みずからの語りを「遺言代執行人」と呼ぶ妻に口述筆記させるのだが、これを叙述する文章もまた三人称なので地の文でも作家は「かれ」と呼ばれる。非常に入り組んだ複雑な構成なのだ。

 なので、当然のこととして、難解極まりない作品となっている。だが、この小説は、意表をついた出だしといい、生き生きとしたプロットの展開といい、謎だらけのまま一気呵成に最後まで読ませる魅力にあふれている。そして、私は独断と偏見で、ひそかに、この小説は、野次とヘリコプターの轟音の中で声を振り絞って演説し、死んでいった三島由紀夫へのレクレイムでありオマージュだと思っている。

 多面的重層的な『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を、超国家主義者の蹶起と殉死、そこに傾斜していく古義人の「戦後の改革を徹底して支持する教条主義とはまた別に、深くて暗いニッポン人感覚」という主題に一義化してしまった理由は、この後ウナイコが高校生対象の演劇で取り上げる漱石の「こころ」の主題と共通する要素に絞り込みたかったからだろう。時代精神と殉死、そして決して文字化されることなく語られる大逆事件___『水死』の中に突然登場する「高知の先生」が指し示す存在は何かについて考えなければならない。いうまでもないことだが、ウナイコはこれらの主題にたいして批判的である。演劇を討論の場とし、反対意見を述べる相手方に「死んだ犬を投げる」という奇妙、というよりグロテスクな方法は、彼女の批判の過激な実践の手段だった。

 ウナイコについては、これからが本論、といったところですが、長くなるので、続きはまた回を改めたいと思います。相変わらずの未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年10月10日土曜日

夏目漱石『こゝろ』__いくつかの不思議の妄想的分析その2__「自白」が守った「純白の記憶」

 渡部直己氏も触れていることだが、『こゝろ』の中には、登場人物が心中を吐露する文脈で「自白」という言葉が多用されている。上巻「先生と私」では二箇所だが、下巻「先生の遺書」では十六箇所、計十八箇所で使用され、後半に頻出する。これが作者の無自覚な用法でない証拠には、「告白」という言葉も「先生と私」の中で使われている。「告白」という言葉が使われているのは三箇所、それも先生が自分の厭世観を「覚悟」ということばで吐露するひとつながりの文脈の中にあって、その部分だけである。では「自白」は、どのような場面で使われてているのだろうか。

 最初に「自白」という言葉が使われたのは、先生が奥さんとの関係について感想を洩らしたときのことである。
 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかいない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」
 私は今前後の行き掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか判然いう事ができない。」
 
 次は前回取り上げた
 「私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。」
という部分である。

 下巻「先生と遺書」では、まず冒頭「私」に就職の世話を頼まれた先生がそれに対して
 「・・・・・・・・・・しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。」
とことわる場面。

 それから先生が叔父に欺かれて親の財産の多くを失った経緯を説明する文脈で
 「自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。」

 この後Kが登場する。
 「自白すると、私は自分でその男を宅に引張って来たのです。」

 Kは真宗の寺に生まれ、医者の家に養子に入ったが、「道」のために医学を捨て、そのことで養家から出され実家からは勘当される。経済的にも精神的にも追い詰められたKを救い出し、支えるために、先生は彼を自分の下宿に連れてきたのである。

 夏休みに入って「私」は渋るKを誘って一緒に房州を旅行する。「行商」のように炎天下を歩きながら、夜になるとKと先生は「人間らしい」かどうかということで議論する。Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉にたいして先生がもちだした「人間らしい」という言葉の裏には「私」のお嬢さんへの感情があったが、それを直接言い出せなかったのは

 「……勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。」

 旅行後、下宿先の家の人間関係は微妙に変化した。お嬢さんとKの距離が急速に縮まったのだ。そしてとうとう先生はKに「お嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた」のである。ここから「自白」という言葉が頻出する。「恋の告白」はすべて「自白」という言葉に置き換えられる。

 「彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。」
 「私の心は半分その自白を聞いていながら……」
 「……こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、……」

 「Kの自白以前と自白以後とで、彼の挙動にこれという差異が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で……」
 「私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているか……」
 「それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白について、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。」

 Kは恋する者の弱みで先生に進退を相談する。思いもかけずKに先を越されてしまった先生だったが、相手の不安に乗じて、無防備な彼を完膚なきまでに打ちのめし、退路を断つ。先生がKに投げかけた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は

 「復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。」

 このときKのもらした「覚悟」という言葉に焦った先生は仮病を使って、Kとお嬢さんを遠ざけ、奥さんにお嬢さんを貰う談判をする。話はあっけなくかたづいて、先生はお嬢さんと結婚することになるが、奥さんの口からそれを聞いたKは二日後の日曜日の朝、頚動脈を切って自殺してしまう。

 「その時私の受けた第一の感じは、Kから突然の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。」

 以上「自白」という言葉が使われている箇所を拾い出してみたが、そのいずれも「告白」という言葉を使う方が自然のように思われる。何故強引に「自白」を使うのかも問題だが、ここでは度重なる「自白」によっても明らかにされない「こゝろ」について考えてみたい。剛毅なKを自殺に追い込んでいく先生の「こゝろ」は詳細にその内側から語られ、「道」を求めて精進するKの「こゝろ」、また「男のように判然したところのある」奥さんの「こゝろ」も、先生の側からある程度語られるが、お嬢さんの「こゝろ」は、何故か、というより当然のように語られないのである。お嬢さんこそは、二人の男(もしくは語り手の「私」を含め三人の男)の関係の中央に位置して、彼らの死(語り手の「私」は死なないが)に最も重要な関わりをもつ存在であるのに。

 お嬢さんの「こゝろ」は語られないが、「静」と名がついた彼女の言動の描写は精彩を放っている。美人で、他人にもそう思われていると知っている女のbehaviorの描き方は実に巧みで、漱石がいかに深く女を「知って」いたかがよくわかる。そんな女が、一つ屋根の下に若い男二人と一緒に暮して、男たちの気持ちがわからない、ということがあるだろうか。お嬢さんは先生の気持ちもKの恋心も十分知っていたはずである。そして、先生の優柔不断もKの禁欲もお嬢さんには関係がない。彼女は自分に寄せる二人の好意を分かっていて、二人を「操った」のではなく、自然にふるまっただけなのだ。だからこそ、遺書の最後で、先生は「妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが、私の唯一の希望なのですから」と語り手の「私」に念を押すのである。

 はたしてお嬢さん_「静」と呼ばれる先生の奥さんはKの死の真相に気づかなかったのだろうか。小説の前半で語り手の「私」と二人で先生の態度についてやりとりする彼女は、知的で機知に富んでいて、かつコケットリーに満ちているが、先生がKの秘密にふれそうになったときには、巧妙にそれを遮ってもいるのである。さらにいえば、明治天皇の死に際して「最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」というときに「では殉死でもしたらよかろうと調戯」って、死のトリガーとなったのも彼女なのだ。

 小説『こゝろ』は謎に満ちている。そもそも、死を決意してから十日もかけてこのような長文の「遺書」を書くという行為が可能だろうか、と思ってしまう。また、「私は今自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。」という言葉の激烈さは何を意味し、「私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。」とはどんな「命」なのだろうか。不思議なことはいくつもあるが、ここでは、この長文の「遺書」という名の「自白文」が「静」と呼ばれる先生の奥さんの記憶の「純白」を無垢のまま守ったことを確認しておきたい。

 体力が落ちたのかもともと能力不足なのか、なかなか続きが書けませんでした。もうひとつ、Kという文字が何か、という根本的なことを考えなければいけないのですが、これについてはすでに論が出尽くしているようにも思います。私自身は、原点にかえって「水死」との関係という視点で考えた場合、KはKingという立場で読んでいきたいと思っています。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2015年9月28日月曜日

夏目漱石『こゝろ』___いくつかの不思議の妄想的分析その1___「私」は誰でしょう

 大江健三郎の「『水死』を読んでいて、作中重要な要素として引用される漱石の『こゝろ』を読まなければいけないと思った。大江が『こゝろ』を漱石の意図通りに引用しているわけではないのはいうまでもない。むしろ『こゝろ』をどのように戦略的に利用しているのか、が知りたかったのだ。読んでみて、最初に思ったのは、漱石は不思議なことをごく自然にみえるように書いてしまう人だな、ということだった。大江健三郎は不思議なことを不思議、というよりあからさまに「変なこと」として書く人で、「変」を際立たせるのだが。

 近代文学に無知な私は、『こゝろ』を読むにあたって、渡部直己氏の『不敬文学論序説』を参考にしたことを、まずことわっておかなければならない。この小説が、森鴎外の『雁』と同じく、その作中に直接的な関連を疑わせる片言一句を見出させないまま、当時の世相を震撼させた「大逆事件」に呼応して書かれたものである、という渡部氏の論は正確かつ強靭である。私のような小説読みビギナーがこれに付け加えてさらに何をいうことがあろうか、とも思うのだが、氏が、たぶん紙数の制約から、省かざるを得なかったであろう論と論をつなぐ具体的なことがらのいくつかについて考えてみたい。

 『こゝろ』のあらすじについては、いまさら紹介するまでもないだろう。「先生」と呼ばれる人とその親友Kが下宿先の「お嬢さん」をめぐって葛藤する。先生はKの思いを知りながら、先を制してお嬢さんの母親に談判してお嬢さんを貰うことに成功する。Kは自殺し、先生はKの死をひきずりながらお嬢さんとの結婚生活をおくるが、明治天皇とそれに続く乃木大将夫妻の死を追うようにして自殺する。

 以上の事柄が語り手の「私」の一人称で語られ、最後は「先生の遺書」という形式で、事柄の真相が先生の一人称で語られる。第一部「先生と私」と第三部「先生の遺書」が、明治天皇と乃木大将の死、おそらくそれらに続くであろう「私」の父の死を記録する第二部「両親と私」をはさんで、事柄の表裏をなすように構成されている。一見緻密な心理劇のようであり、何の破綻もないようだが、どこか納得できないものが残るのだ。

 まず第一に疑問に思うことは、語り手の「私」は、中立公平な純客観的記録者だろうか、ということである。「私」は何故先生を追いかけるのか、どうして先生に近づこうとしたのか、その動機は最後まで明かされない、というより、小説のなかで問題とされないのである。「私」と先生の出会いは鎌倉の海岸であったが、小説冒頭に置かれる出会いの場面はこう書かれている。

 「私は実に先生をこの雑踏の間に見付け出したのである。」

 「見付け出した」ということは、「私」が意志をもって先生を探していたことを意味する。つまり「私」は先生を「知っていた」のである。面識があったかどうかはわからないが。また、この後も

 「私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。」

 と「見つけ出す」という言葉を繰りかえし使っている。何のために「私」は先生を探していたのか。

 それから、ささやかな疑問だが、先生が鎌倉の海岸で伴れていた「一人の西洋人」と先生の関係はどのようなものだろうか。先生がKを葬った雑司ヶ谷の墓地は外人が多く葬られているようだが、それは、社交の乏しい先生が「一人の西洋人」と一緒にいたところを「私」に発見されたことと関係があるのだろうか。また、先生は何故Kの墓をそのような場所に定めたのだろう。Kの生家は真宗の裕福な寺だった、とあるので「イサベラ何々」だの「神僕ロギン」だのと並んで葬られる、ということにかなり異和感があるのだが。

 「私」は急速に先生と親しくなり、先生の家に出入りして先生の奥さんともことばをかわすようになり、家族の一員であるかのような待遇を受けるようになる。(先生の奥さん_かつての「お嬢さん」については、また回をあらためて考えてみたい。彼女はこの小説の主要人物中ただ一人「静」という固有名詞をあたえられている存在である)そして、先生の人生に翳をおとしているのが、身内に裏切られて財産の多くを失ってしまったという体験であるということを打ち明けられる。注目すべきは「私」が先生のその「談話」に満足せず、隠さず「過去」を教えてほしいと要求するくだりである。

 「私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。」(下線は筆者。以下も同じ)

という文章があるが、その後「私」は

 「先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値の無い物になります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」

と、巧妙に先生に迫るのである。そして

 「私の過去を訐いてもですか」

という先生の言葉を引き出し、

 「私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。」

と記す。ここまで先生を追い込む動機はなんだろうか。「思想上の問題について、大いなる利益を受けたことを自白する。」と書きながら、それがどのような思想であるかについての言及はいっさいなく、ただ「隠すな」と言っているのである。自白だとか罪人だとか、まるで警察か検事の取り調べのような用語の多用は異常である。

 先生と「私」の関係については、その類似性が多くの評者によって指摘されている。資産家の家に生まれたこと、大学教育を受けたこと、それでいて職につかないことなどであるが、私見ではもう二点ある。一つは、上にみたように、ごく親しい他者を執拗に追い詰めることである。「私」が先生を 追い詰めたように、かつては先生がKを追い詰めたのである。そしてもう一つは先生の「奥さん」との関係になるのだが、これについてはもう少し検討して書いてみたい。

 これくらいの名作になると、私が書かなくても誰かが書いているだろうから、とつい怠けて時間ばかり経ってしまいました。『こゝろ』を仕上げないと『水死』にむかえないので、悪戦苦闘しています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年8月20日木曜日

大江健三郎『﨟たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ』__「﨟たし」と「らうたし」のはざまに

 これは「M計画」というプロジェクトにかかわったサクラさんという国際的な映画女優と作家の「私」、そして「私」の東大の同期生で敏腕プロデュサーの「木守有(こもりたもつ)」の物語である。表題の「﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ」とは、特異な人生を生きたサクラさんを、エドガー・アラン・ポーの詩Annabel Lee にうたわれる夭折した美女のアナベル・リィになぞらえるところに由来する。物語は「私」とWhat! are you here? と呼びかける木守有との三十年ぶりの再会から始まる。以降、小説の大半は三十年前の出来事の回想である。

 「M計画」とは、実在した中世ドイツザクセンの商人ハンス・コールハースの反乱を題材に、十九世紀初頭に劇作家ハインリヒ・クライストが書いた『ミヒャエル・コールハースの運命』という作品をアメリカ、ドイツ、中南米、アジアの各国で映画化しようというものである。「M計画」の本部、という言葉が小説のなかにでてくるが、それがどのような実体をもつものかはあきらかにされない。アジア版『ミヒャエル・コールハースの運命』は韓国で制作されることになっていたが、シナリオを書く金芝河が逮捕され製作不可能となってしまう。アジア担当のプロデューサーである木守は善後策を講じるために主演女優のサクラさんと東京を訪れ、金芝河逮捕に抗議してハンスト中の「私」と東大在学以来の再会を果たす。

 サクラさんと「私」は、サクラさんが「私には本当に、本当に・・・・・・恐ろしいくらい懐かしい場所です」という松山で接点があった。「私」が高校時代出入りしていた松山のアメリカ文化センターが、サクラさんを保護していた占領軍の情報将校の職場となり、彼女も保護者とともに松山に移ってきたのである。そして「白い寛衣」を着たサクラさんは「お堀端」に横たわり、保護者の米軍情報将校が8ミリフィルムの映画「アナベル・リィ」を撮影したのだ。

 作中「アナベル・リィ」の詩は日夏耿之介の訳で引用される。だが、日夏訳はその内容、雰囲気がポーの原詩と微妙に異なっているように思われる。

 It was many and many a year ago,
     In a kingdom by the sea,
  That a maiden there lived whom you may know
    By the name of ANNABELL  LEE;
  And this maiden she lived with no other thought
     Than to love and be loved by me.

《在りし昔のことなれども
 わたの水阿(みさき)の里住みの
 あさ瀬をとめよそのよび名を
 アナベル・リィときこえしか。
 をとめひたすらこのわれと
 なまめきあひてよねんもなし》

一読して、英語圏の人でなくても初歩的な英語力があれば理解可能な原詩を、なぜこんなおどろおどろしい擬古文で訳さなければならなかったのか、素朴な疑問がわくのだが、ここでは次の二点を指摘しておきたい。

 その一は、In a kingdom by the sea というフレーズについて。このフレーズは各スタンザごとに執拗に繰り返され、この詩のキーワードであると思われるが、日夏耿之介はすべて「わたの水阿の里住みの」と訳している。In a kingdom by the sea は、「海のほとりの王国で」とkingdom をいかして訳さなければならないのではないか。

 もうひとつはshe lived with no other thought / Than to love and be loved by me を「をとめひたすらこのわれと/なまめきあひてよねんもなし」と訳すのは、もちろん誤訳ではないが、かなり脚色がある、といわざるを得ない。だが、むしろそれ故に、この詩を、そのタイトルごと頻繁に作中に引用する意味があるのかもしれない。「なまめきあひてよねんもなし」について、「私」がサクラさんの真の庇護者である柳夫人と論を交わす場面があるのだが、これはサクラさんと彼女の保護者であり、また夫となった米軍の情報将校との隠微で狡猾な関係をいっているのだと思われる。

 そもそもthe beautiful Annabel Lee を「﨟たしアナベル・リィ」と訳したのは日夏耿之助だが、「らうたし」に「﨟たし」と漢字を振ったことも日夏の戦略である(日夏以外にも使用例はあるようだが、明治以降のものである)。「らうたし」は「あどけない、いたいけな」というニュアンスの古語で、「﨟」という漢字を振られるとどうしても落ち着かないのである。そして、その落ち着きの悪さこそ、作者大江健三郎の意図したものではないか。大江は、いわば日夏の戦略に乗って、あるいは乗ったふりをして、をれを利用し尽くしたのだ。

 「﨟たけた」ということばがある。「﨟」は僧侶の出家後の年数、経験の深さを表すことばだそうで、「﨟たけた」は上品、優美などのニュアンスを含む成熟した女性の美をいうものだろう。それにたいして「らうたし」は、その使用例からみて、未熟な者、幼い者にたいする庇護の感情を含むことばのようである。「﨟たけた」美女として登場したサクラさんが、未遂に終わった「M計画」にかかわり、それが挫折する過程で、自分の存在の真実を発見する。幼くして孤児になった自分を、「らうたし」と保護してくれた米軍情報将校が、じつは残酷きわまる冒涜者だったこと、その人間との関係が彼が死ぬまで「平和に」続いていたこと、これらの真実を、なかば強制的に知らされて、サクラさんの自我は崩壊する。もともとサクラさんの自我は、精緻に構築された魔宮のなかに閉じ込められて成立していたのだが。

 三十年ぶりに日本を訪れたサクラさんは、みずから監督をつとめ、木守と「私」の三人だけで自主映画をつくる。それはもはやグローバルな「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化プロジェクトではなく、「私」の郷里の森に伝わる「メイスケさんの生まれ替わり」と「メイスケ母」の物語である。二度の一揆を成功に導いた「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだだけでなく、みずからが一揆を主導した「メイスケ母」の「口説き」は「私」の祖母が芝居に仕立て、戦後の苦境のさなかに興行した。サクラさんはその芝居を自分が座長となって「メイスケ母」を演じることで復元し、それをそのまま撮影する。郷里の森の「鞘」を舞台に、観客も演技者も女だけの野外劇場に「口説き」の果てのサクラさんの叫びがこだまする。____それは歓喜の叫びか、苦痛のそれか、それともその両方なのか。It's only movies,but movies it is! 「らうたし」アナベル・リィが「﨟たし」アナベル・リィとなった産声だろうか。

 この小説が戦後の日米関係を寓意しているのはあきらかなのだが、サクラさんと作家の「私」、そして「木守」の関係については、また回をあらためて考えてみたい。小説の最初の部分で老女となったサクラさんのいう「幼女から少女期の自分が何もわからずにやるようにいわれ・・・・・・それも恐ろしいアメリカの軍人から・・・・・・強制されて作られたもの」とは何だろう。最後の「口説き」芝居の映画化はそれへの「熟考した応答として老女の自分が企てる仕事」である、とサクラさんは言っているのだが。

 書くことも考えることも遅々として進まず、時間ばかり経ってしまいました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年7月8日水曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』__大江健三郎とは何か__「ミシマ問題」から炙りだされるもの

 大江健三郎の作品はどれも難解なのだが、それは、一部に言われているような文章のわかりにくさ、というような次元の問題ではない。ストーリーの起承転結が不自然で納得できない、というわけでもない。読んでいるときは立ち止まることもなく、すらすら進んで結末までいって、最後の大江節に単純な感動すら覚えてしまう。でも、それでいて、何が書かれていたか、つかめないのである。

 『さようなら!私の本よ』には何が書かれているのか?ドストエフスキーの『悪霊』、セリーヌの『夜の果てへの旅』というロバンソン小説なるテーマ、執拗に持ち出される「ミシマ」ないし「ミシマ問題」、『ゲロンチョン』および『四つの四重奏』の中から縦横に引用されるエリオットの詩、それらは一見作品の重要な要素をなすもののようでありながら、事実重要な要素なのだが、実は真相を覆い隠す、といえば言い過ぎならば、真相を複雑化するための仕組みなのではないか、という疑念をいだいている。

 そもそもこの小説が発表された二〇〇五年の時点で、何故「ミシマ」なのか。1970.11.25の三島由紀夫の死から三五年が経とうとしていた。だが、問題は過ぎ去った年月の長さではない。「楯の会」を組織して自決した三島を2001・9・11のテロと結び付けて語ることに無理があるのだ。だからこそ「ミシマ」、「タテの会」という表記が使われ、決して「三島」「楯の会」と書かれることはないのだけれど。

 作中「ミシマ」を、市谷の陸上自衛隊突入とその死という状況にしぼって登場させ、念の入ったことにその首までさらしだす。古義人と繁がミシマの異常に嫌ったという毛蟹の鍋で酒を酌み交わしているとき、アカリが二人の会話に割り込んで、「本当に背の低い人でしたよ、これくらいの人間でした。」と言って、蟹の肉片と三杯酢にまみれた掌で生首の高さを指し示す場面が挿入される。「ミシマ問題」を議論するのに、このような猟奇的な要素は必要だろうか。

 さらに、死んでしまったミシマにたいして生前「ミシマ=フォン・ゾーン計画」なるものが存在したという。これもミシマが同性愛者であるという前提のもとに夢想された計画で、地下の魔窟に集めた美少年の魅力で彼を政治的な活動から遠ざけることを目的にしたものであるとされている。「長江さんはミシマに対して、derisively に振る舞うことがある、ともシゲさんから聞いています・・・・・・」と清清が言っているが、「ミシマ問題」の取り上げ方自体がderisively であるように思われてならない。なぜ、このような取り上げ方をしなければならなかったのか。三島の政治思想が、長江古義人(必ずしも=大江健三郎ではない)とのそれと同様に「児戯に類する」という判断については、私も同感するところはあるのだが。

 ここで少し脇道にそれるようだが、市ヶ谷突入時に三島が残した檄文について考えてみたい。これを読んで、まず驚いたのが、その文章の凡庸さ、格調の低さである。これが、あの絢爛豪華な旧仮名遣いの文豪の書いたものとはにわかに信じ難い。内容も、要するに、国の腐敗、堕落は、自衛隊を「国軍」と成し得ない(アメリカの押し付けた)憲法が原因であり、前年の1969・10・21の首相訪米の際に「国軍」となる機会を失った自衛隊にクーデターを呼びかけ、みずからは死して憲法改正を成し遂げようというものである。檄文には「男の涙」、「武士の魂」、「日本の真姿」などの言葉がならぶが、これらはほんとうに「三島のことば」だろうか。軍歌を奏でて街宣車の上から市民を睥睨する人たちの文句とどこがちがうのか。

 これを、たとえば、2・26事件の青年将校の書いた「蹶起趣意書」とくらべれば、「蹶起趣意書」の、日本を取り巻く内外の危機的状況とその打開を訴えた簡潔明瞭にして緊迫感のある文章が際立ってみえる。「皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。」という結語が大げさなものに感じられず、「陸軍歩兵大尉野中四郎 外 同志一同」と記された人たちのまさに死を賭した思いが伝わってくる。2・26事件の青年将校を蹶起にむけて押し出した状況の深さと拡がりは三島のそれと比較にならなかったのだろう。

 実在したかどうかわからない「ミシマの手紙」まで持ちだして死せる「ミシマ」を作品中に呼び戻し、再び1970・11・15の事件に関心を振り向ける。文学に関係のない人間でも、日本中の誰もが「三島由紀夫」に関心を集中させる原因となった「床に立った生首」を描写する。そうすることで、あの事件が何を意味するものだったのかをもう一度考えさせる。それは必ずしも一義的な正解を要求するものではない___という問題の立て方は、これまで大江健三郎が繰り返し行ってきたことである。明治維新、大逆事件、二・二六事件、1945・8・15、そして1951・4・28サンフランシスコ講和条約締結、1960・1970の安保闘争、これら日本の近現代史は大江の作品中で、何回も、ときには寓話の形で取り上げられ、その意味を問われ、また意味の再解釈がなされてきた。

 過去の出来事を、「歴史」というカテゴリーに押し込め、風化させてしまうのではなく、混沌とした事実の塊りを掘り起こして、謎は謎のまま、あるいは謎を作り出して、読者の関心を喚起する。それが大江健三郎の小説作法であるのはいうまでもないが、注意すべきは、その作業を行っているのは、これもまたいうまでもなく作者である大江健三郎であって、長江古義人ではない、ということである。『取り替え子』、「憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ』の三部作は、大江の作品のなかでもとりわけモデルが特定されやすく私小説風であるが、間違っても私小説ではない。「本当のこと」を書くために「ウソ」をまぜるのが私小説であるなら、「ウソ」に力をあたえるために「本当のこと」をまぜたものが大江健三郎の小説だろう。『憂い顔の童子』で古義人の母がいうように。

 だから「ミシマ」にたいして「derisivelyあるいはmockinglyに振る舞うことがある」のは「長江古義人」であって、大江健三郎ではない。三島が自死という形で完結してしまった1970・11・25のストーリーを、大江はもう一度掴みだして光をあてる。その上で、「ミシマ」の希求が絶望的に不可能であって、その不可能性が1970・11・25の時点だけでなく、いまにいたるまで不可能であり、未来永劫不可能であることを語るのだ。では、その語り部大江健三郎とは何か?何のために語るのか?語ることによって、読者をどこに導こうとするのか?これもまた『憂い顔の童子』で古義人の母が言っているのだが、「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せる」ことはあるのだろうか?

 未整理なまま投げ出してしまったような不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年5月23日土曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』___T.S.エリオット「バーント・ノートン」を中心に

 もう一ヶ月近く読んでいるのに、「バーント・ノートン」と『さようなら、私の本よ!』について書くことができない。とにかく、わからないのだ。わからないことが二つあって、一つは、「バーント・ノートン」を含む『四つの四重奏』という詩集自体が難解であるということであり、もう一つは大江健三郎はどのような目的でエリオットを引用したのか、ということである。『さようなら、私の本よ!』という作品の流れの中に置かれるエリオットの詩の断片は、その部分だけ読むと実に自然な作中人物の心情の吐露であるが、それに納得してしまってよいのか。前回とりあげた「ゲロンチョン」の舞台となる家は「若い作家が夢みるような山荘」とはまちがってもいえないのである。

 「バーント・ノートン」は『四つの四重奏』の第一番目の詩である。題名となったBurnt Norton とは「燃えたノートン邸」であるが「燃えたノートン」でもある。館の主人が発狂して放火し、みずからも焼け死んだという。エリオットはエミリーという女友だちとともに、いまは薔薇の生い茂るこの廃園を訪れ、非常なインスピレーションを受けた。『さようなら、私の本よ!』の中では、伊丹十三がモデルと思われる塙吾良が感動し、映画化を構想した、という部分が引用される。

 そして池は日光のためにできた幻の水で溢れていた
 すると蓮は静かに 静かに浮かび上った
 水面は光の中心となってきらめいた 
 そして彼らはわれわれの後にいた 池に反射しながら  
 やがて一片の雲が過ぎた 池はからっぽになった  
 行け と小鳥がいった 葉の茂みは子供たちでいっぱいだから
 感動しながら隠れ 笑いを殺している

 日常の中に示現した一瞬の永遠。刹那の至福。甘美で口あたりのよいイメージが喚起される。だが、「バーント・ノートン」の世界はそんなに一筋縄ではいかないものがある。

  Time present and time past
  Are both perhaps present in time future,
  And time future contained in time past.

 「バーント・ノートン」の冒頭 は「時」についての抽象的思弁的な議論である。現在と過去は未来の中に存在し、未来は過去に含まれる。これは輪廻の時間論のように思われるが、永劫の輪廻が止揚される一点がある。

 What might have been and what has been
   Point to one end, which is always present.

 永遠の現在あるいは永遠に現存する一瞬、それがどのようなものであり、どのようにしてもたらされるか、「バーント・ノートン」という詩は精細にそれを語り、読者をそこに導こうとする。薔薇園での甘美な回想の後、2番目のスタンザは次のように始まる。

   Garlic and sapphires in the mud
   Clot the bedded axle-tree.
   The trilling wire in the blood
   Sings below inveterate scars,
   Appeasing long forgotten wars.

 泥の中の大蒜とサファイアが埋もれた車軸にこびりつき、血の中で震える弦は根深い傷跡の下で唄い、永く忘れられた戦争を宥める___非常に難解だが、それゆえに(私にとっては)薔薇園の回想よりさらに魅力的な始まりである。long forgotten warsとは何を指すのか。この後さらに


 The dance along artery
   The circulation of the lymph

と血なまぐさいイメージが続くが、ここで一気に転換して

 Are figured in the drift of  stars
   Ascend to summer in the tree.

視点は上昇し、樹上の高みから俯瞰する構図となる。最初のスタンザでone end と呼ばれた一瞬はここではthe still point と呼ばれ、それがどのようなものかが言葉をつくして語られる。それには

    At the still point of turning world. Neither flesh nor
    Fleshless;
    Neither from nor towards; at the still point ,there the dance is
    But neither arrest nor movement. And do not call it fixty.

矛盾する事柄を繋ぎ合わせる撞着語法やパラドックスという手法が頻繁に使われる。要するに現実の日常ではありえないことなのだ。だから、この詩は日常を止揚する地点に読者を導こうとする説教詩、といってしまってもよいのかもしれない。

  Here is a place of disaffection

と始まる第三連では、現実の地上がいかにそれとかけ離れているかを描写していく。

    Time before and time after
    In  a dim light : neither daylight 
    Investing form with lucid stillness
   ・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・
 Nor darkness to purify the soul

ここでは「時」はtime before and tme after と何事かの_たぶんthe still point の「前後」となっている。それは虚ろな光。光に満ちた静けさをかたちにする昼間の光でもなく、魂を純化する暗闇でもない。the still point に到達するために、詩人は下降を要求する。

   Descend lower, descend only
   Into the world of perpetual solitude

 そして最後のスタンザで最初の薔薇園の回想にもどって茫漠とひろがる現在の無意味を嘆く。見事な起承転結だが、それで終わっては「陰謀論で読む」にはほど遠いので、短く挿まれた第四連をとくに時制に注目して読んでみたい。

   Time and the bell have buried the day.
   The blcack cloud carries the sun away.
   Will the sunflower turn to us,will the clematis
   Stray down , bent to us; tendril and spray
   Cluch and cling?
   Chill
   Fingers of yew be curld
   Down on us? After the kingfisher’s wing
   Has answered light to light, and is silent, the light is still
   At the still point of the turning world.

 「時と鐘がその日を葬り、黒い雲が太陽を運び去る」__たんに一日が晩鐘とともに暮れた、ということではなく、the  day とあるので、特定の日に起こった事柄をいっているのだろう。have buried すでに葬られた事実は完了している。黒い雲が太陽を運び去るのは永遠の真理をいう現在形。「ひまわりは私たちの方に向いてくれるだろうか、クレマチスは俯いて私たちの方に身を屈め、巻きひげと小枝でからみついてつかむだろうか」__ひまわりとクレマチスは何のメタファーなのか?the sunflower  the clematis とあるのでこれも特定のひまわりとクレマチスである。暗黒の世界から私たちを救い出す存在なのか?これはwillではじまる未来形。実現するかどうかは the sunflowerとthe clematisの意志にかかっている。おそろしいのは次の一語だ。

   Chill

「冷たい」あるいは「凍える」と訳し形容詞としてFingerにかかるとするのが文法的に正しいのだろうが、「殺す」という意味もある。一行の先頭にぽつんと一語だけ置かれているのが目をひく。「イチイの指が私たちのほうに曲がって下りてきたら?」これは仮定法現在。願望なのか危惧なのか。「かわせみの翼が光に応答し、そして静寂。」光の応答はすでに起こった(現在完了形)が、静寂は続く。その光はいまだある。廻る世界の静止の点に。静寂と光は現在形。絶対の現在。

 これは黙示録的現在であり、同じく未来であり、また過去の光景なのだろう。同時に歴史的現実であり、過去であり未来だろう。「時」についての抽象的な議論のように見えた冒頭の三行はまさにこのスタンザと対応しているのではないか。

 「バーント・ノートン」は甘美な追想の詩でないのはいうまでもないが、抽象的、宗教的な思弁を展開しただけのものでもない。最初に引用した薔薇園の部分も作中塙吾良監督がいうように、そのシーンを撮っていれば「そのすべてを現在の時として感受している、つまり、いまよりもっと良い生き方をしているおれ自身もしっかり撮れているはずなんだ!」と手放しで賛美する対象だとは思えないのである。

 薔薇園の子供たちは「バーント・ノートン」の最後にも登場する。

   Sudden in a shaft of sunlight
   Even while the dust moves
   There rises the hidden laughter
   of children in the foliage
   Quick now, here, now,always
   Ridiculous the waste sad time
   Stretching before and after.

 突然一筋の陽光が射し、塵が舞う最中にたちのぼる子供たちの笑いとは何か。「いますぐに、さあいま、いつでも」と何を促しているのか。塙吾良のいう「いまよりもっと良い生き方をしているおれ自身」とはどんな「おれ自身」なのだろう。それはエリオットが執拗にうながす回心と同じベクトルのものだろうか。

またまた陰謀論にならず、試行錯誤の英文解釈でした。このペースでやっていると、今年中に「エリオットを読む」を卒業出来るかどうかわからなくなってきたので、次は作品そのものに戻ってもう少し考えたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年4月25日土曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』__T.S.エリオット「ゲロンチョン」を中心に

 名前だけ聞いて頭の上を通りすぎる存在だったエリオットについて調べていて、なんとも複雑な思いをかみしめている。ヨーロッパにおける、というより近、現代史の時間、空間のなかで、「ユダヤ」もしくは「ユダヤ人」という存在がどのような意味をもってきたか、あるいはもたされてきたか、という問題をあらためてつきつけられたように思う。もちろんそれは今につながるものだ。エリオットは、同志とされるエズラ.パウンドほどではないにしろ、「反ユダヤ主義」と批判される時期があったのだ。「ゲロンチョン」に登場するユダヤ人の大家の描写はあきらかに偏見と侮蔑に満ちている。だが、いまはエリオットの「反ユダヤ主義」を論考するつもりはない。問題としたいのは、なぜ大江健三郎がエリオットに、そして「ゲロンチョン」という詩にこだわったのかということである。少し詳しく「ゲロンチョン」の内容を検討してみたい。

  Here I am, an old man in a dry month,
  Being read to by a boy, waiting for rain
  I was neither at the hot gates
  Nor fought in the warm rain
  Bitten by flies, fought.
  My house is a decayed house,
  And the Jew sqqarts in the window sill, the owner,
  Spawned in some estaminet of Antwerp,
  Blistered in Brussels, patched and peeled in London.
  The goat coughs at night in the field overhead;
  Rocks, moss, stonecrop, iron, merds.
  The woman keeps the kitchen, makes tea,
  Sneezes at evening, poking the peevish gutter.
                                          I an old man
  A dull head among windy spaces.

 本文では深瀬基寛の訳で

まかりいでましたこちらは雨なき月の老いの身
童にもの讀ませつゝ、雨の降るのを待ってます。
われひとたびも激しき戰ひの城門にたちしことなく
はた降りしきる雨を浴び
鹽澤に膝ひたし、だんびら刀振りかぶり
ぶとにまれて戰ひしことさらにない。
わたしの家は、ぼろ家です、
 
と、六行目までがまず引用される。ここまでは芝居気たっぷりに登場したan old manの自己紹介である。問題は、作者大江が、たぶん意図的に省略した7行目以下である。
And the Jew squarts  in the window sill, the owner,(初版ではthe jewと小文字)
窓べりに蹲るユダヤ人が大家として登場し、その人物がアントワープで生まれ、ブリュッセルで疱やみになり、ロンドンで絆創膏をあて、皮を剥がした、となんともいかがわしい経歴が語られる。さらに、深夜に咳をする山羊と、くしゃみをしながら台所仕事をする女が現れ、屋外の描写がそれにはさまれる。in the field over head , Rocks, moss, stonecrops, iron, merds とあるのはたんに荒涼とした原野、ではなく戦場の光景であろう。

 ところで、一つの、根本的な疑問がある。an old man は大家のユダヤ人であるのか?それとも店子の一人なのか?作者の大江はどのように解釈しているのか。私は、エリオットがみずからをユダヤ人と同化してこの詩を作ったとは思えないので、店子の一人、舞台に登場する狂言回しの役だと考える。この詩の六連目にも
  The tiger springs in the new year.…when I
  Stiffen in a rennted house
とあるのだ。(下線部筆者)ところが、作中の繁は、繁と塙吾良は、ふたりそれぞれに、ユダヤ人の大家とゲロンチョンと呼ばれる老人を同一人物として捉え、その姿によりそって自分たちの老後を語ったと言う。では、古義人自身はどうなのか。ここには、非常に重要な問題が曖昧なままにされている。

 この後は
  Signs are taken for wonders. ‘We would see a sign!’
  The word within a word,unable to speak a word,
  Swaddled with  darkness. In juvescence of the year
  Came Christ the tiger
と、宗教的な啓示の言葉が綴られる。そして

  In depraved May, dogwood and chestnut, floweringjudas,
  To be eaten, to be divided, to be drunk
  Among whispers; by Mr.Silvero
  With caressing hands, At Limoges
  Who walked all night in the next  room;

  By Hakagawa,bowing among the Titians;
  By Madame de Tornquist, in the dark room
  Shifting the candles; Fraulein von Kulp
  Who turned in the hall, one hand on the door.
      Vacant shuttles
  Weave the wind , I have no ghost,
  An old man in a draughty house
  Under a windy Knob.

と、室内の様子が描写される。日、仏、独(?)の国際色豊かな店子が住んでいるようだが、日本人らしきハカガワという人物だけ敬称がつかず、ティティアーノの絵にお辞儀をしている、と戯画的に描かれているのが興味深い。それぞれがあい集うことなく、「空のシャトルが風を織る」と結ばれているのは、紡ぎだす糸のない不毛の状況の隠喩だろうか。

 以下
  After such knowledge, what forgiveness? Think now
  History has many cunning passages,contrived corridors
  And issues,decieves with whispering ambitions,
  Guides us by vanities.…
と、an old man _エリオットの歴史哲学が語られる。しかし After such knowledge, what forgiveness?
とはどんな知識、いかなる赦しを指すのか。この詩に書かれた光景から、私達は何を読み取ればいいのだろう。というより古義人は、十九歳の冬に大学の書店で買ったときから今にいたるまで、この詩の何に深く影響されてきたのか。作中二度にわたって引用される
  Neither fear nor courage saves us.
 恐怖もまた勇気もわれらを救わざることを。
の節とそれに続く            Unnatural vices
    Are fathered by our heroism. Virtues
    Are forced upon us by our impudent crimes.
    These tears are shaken from the wrath-bearing tree.
                        自然に背く惡徳は
 われらのヘロイズムにより産み出さる。諸々の美徳も
 われらの犯す厚顔の罪によりわれらに強要せらる。
 みよこの涙、悲憤の實る樹上よりはふり落つるを。
という箴言だろうか。

 これらの箴言が、繁のいうように、古義人の「政治的あるいは社会的な考え方、あえていえば思想」にたいして影響を与えたのはたしかだろう。だが、より本質的なことは、古義人にとって、この詩が「予言的な恐ろしい力」をもつことだったのではないか。

 「ゲロンチョン」の最後のスタンザに
                                                   What will the spider do
    Suspend its operations, will the weevil
    Dlay? De Bailhache, Fresca, Mrs.Cammel, whirled
    Beyond the circuit of the shudering Bear
    In fractured atoms.
とあるのはどういうことだろう。the spider 、 the weevil と定冠詞のついた「蜘蛛」と「ゾウムシ」とは何を指すのか。また「震える熊座の向こう側で、破砕された原子の中をぐるぐる回る」三人とは何のことなのか。この詩が書かれた二十世紀初頭、フクシマはいうに及ばず、ヒロシマ、ナガサキも予兆だになかったのに。

 「陰謀論で読む」といいながら、またまたただの英文解釈以下になってしまいました。懲りないことに、「バーントノートン」と「イーストコーカー」にも挑戦してみたいと思っています。そして、作中執拗に言及される「ミシマ」についても考えなければならない。まったくの独断と偏見ですが、三島由紀夫は「天皇」を考えていた。それにたいして大江健三郎は「天皇制」を考えていたのではないか、とも思うのですが。
 今日も拙い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年4月16日木曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』___T・S・エリオットを中心に

 もう2ヶ月以上も経つのに、『さようなら、私の本よ!』について書けない。体力の衰えなのか、はたまた能力の限界なのか。それで、半ばやけのやんぱちで、アカデミズムの権化みたいな大江健三郎を陰謀論風に読んでみた。妄想『さようなら、私の本よ!』である。

 そもそもこの小説は9.11の世界貿易センターの崩壊に立ち会った(そして体調を悪くした?)アメリカ国籍の建築家椿繁と、彼の幼ななじみ(かつ異父弟?)の長江古義人の冒険譚なのである。

 経済的な問題から、古義人は「北軽」の大学村のはずれに建てた二棟の別荘のうち「小さな老人(ゲロンチョンと表記される)の家」を残して、もう一棟の「おかしな老人の家」と敷地全部を「小さな老人(ゲロンチョン)の家」を設計した繁に売ることになる。「小さな老人の家」とは、古義人が若い頃夢みた山荘のイメージがT・S・エリオットの同題の詩にある家だったことから名づけられた。古義人と繁はそれこそスープの冷めない距離に住んで、つかずはなれずの関係になるのだが、二棟の家に住むことになるのは、この二人だけではなかった。繁は、「ウラジミール」と「清清」という彼の教え子であり、また「ジュネーヴ」という隠語で呼ばれる組織から指令を受ける「同志」との「根拠地」として不動産を買ったのである。

  「ジュネーヴ」からの指令、というより繁が「ジュネーヴ」に提案したのは、東京の高層ビルを爆破する計画である。そして古義人の役割はその計画の実行寸前に彼がNHKに出向いて計画を告げ、人々を避難させる、というものだったのだが、「ジュネーヴ」はこれを却下した。時期尚早とされたのだ。繁は爆破_unbuildと表記される_をより小さな規模にしてビルの一室で行うことにするが、古義人は自分の「小さな老人(ゲロンチョン)の家」をその実行場所に提供する。爆破は成功するが、その記録をビデオで残そうとした実行犯の若者のうち一人が爆破の際に「鉄パイプに片目を貫通される」事故で死んでしまう。

 あらすじとしてはこれだけで、いままでの大江健三郎の作品に比べれば単純、と言ってよいもののように思われるが、これに組み込まれるプロットあるいはモチーフは例によって豊富である。全体のプロットは、作品中にもまとまって引用されるドストエフスキーの『悪霊』である。登場人物がそれぞれ自分の好きな、またはそれを自分になぞらえうるような『悪霊』中の人物をあげている。爆破の実行犯で死んでしまう「タケチャン」は自殺するキリーロフ、生き延びて潜伏するもう一人の実行犯の武は首謀者ピョートルに殺されるシャートフ、そして、古義人はピョートルの父無能なステパン氏が好きだと言う。古義人と武、タケチャンの三人が会話して、戦後民主主義、悔い改めたブタ、といったテーマを話し合う場面があって、そこで展開される議論はそれなりに興味深いものがあるのだが、問題はむしろ、爆破を計画する繁がこの場面に登場せず、彼の役割があきらかにされていないことではないか。

 繁と古義人の関係は、最後まで真相がわからない。いえることは、二人はペアであり、ツインであるということだ。作品中では「ロバンソン小説」なるものの構想を古義人が昔からもっていたとされ、セリーヌ『夜の果てへの旅』のあらすじが紹介される。『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュとロバンソンの関係が古義人と繁のそれに重ね合わされるのだろう。バルダミュとロバンソンについて、「自分でも忘れるほど前から、古義人はpseudo-coupleということを考え」ていた、と書かれているのだが、pseudoは辞書を引くと「偽りの」という日本語があてられている。繁と古義人、バルダミュとロバンソン、そしてまたウラジミールと清清、武とタケチャンもカップルであり、さらには清清とネイオもそう呼ぶことが出来ると思うが、彼らを「偽りの」カップルと呼んでいいのだろうか。大江健三郎は、小説の中で外国語をそのまま、或いは翻訳して日本語におきかえるとき、微妙に意味をズラすことがあるように思う。たとえば、『宙返り』の中で主人公を「師匠」と呼んでパトロン」とルビをふったように。そしてそのズレは確信犯的、戦略的なものであると考えている。

 ズレといえば、作中頻繁に引用され重要なモチーフとなる「小さな老人の家」_ゲロンチョンというエリオットの詩についても、非常に微妙な、巧緻な仕掛けが施されているように思われるのだが、長くなるので、それについては次回で考えたい。いまは、そもそも、自宅のある成城でも故郷の谷間の村でもなく、「北軽」という別荘地_ある種の租界_で、同一の敷地に建つ「小さな老人の家」と「おかしな老人の家」の二つの建物のうち一棟が爆破されるというプロットが指し示すものは何かという問題を提起したい。いうまでもなくこの小説は9・11の後書かれたものである。また、その実行犯はともかく、誰がこれを指示したか、ということも。次回では、ゲロンチョンを中心にエリオットの詩を読みながらそのことについてささやかな検討をしてみたいと思う。「ゲロンチョン」という詩は、決して「若い作家が夢みる」ような山荘を描いたものではないのである。

 「陰謀論で読む」といいながら、まったく陰謀論になっていないのですが、次回は付け焼刃の英文学の勉強をしながらエリオットの詩に挑戦したいと思います。(できるでしょうか)今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2015年3月10日火曜日

大江健三郎『憂い顔の童子』___「童子」と「アレ」の楕円構造その2

 物語の後半は、古義人の旧友である「黒野」という人物の登場から始まる。黒野は、ローズさんいわく「『ドン・キホーテ』のなかで作者が本当に悪いやつとみなしているヒネス・デ・パサモンテ」のような人、と紹介されている。大学の同窓だが、関わりがあったのは反・安保運動の渦中で、古義人は彼の様ざまな企ての後始末をするはめになった。それでいて黒野は、古義人を「いろいろ運動に近づくが、本腰入れぬ、上昇指向のオポチュニスト」と批判していた。

 黒野が「私のヒネス・デ・パサモンテ」と古義人に呼ばれる理由は、ノーベル賞をもらった古義人が文化勲章を辞退した件に関わってくる。黒野は匿名の手紙でこう書いてきたのだ。

 勲章をもらったうえで、そのレプリカを作ってそれに新型の爆弾をしのばせて頸につるし、晩餐会に出れば、《真先にきみの頭が吹っ飛ぶのは当然だが、この国で歴史始まっていらい、誰ひとりなしえなかったことをやった人物として、記憶されることになる!きみも『政治少年の死』の作者だろう?》

 そして古義人が『政治少年の死』に書いた
 純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する
の実現をうながすのだ。

 事後、黒野は古義人が文化勲章を辞退した理由は知っている、とせせら嗤いながら、その「秘密」を公表しないことで、古義人に「貸し」を作った、と考えている。ローズさんはそう推測し、古義人もそれを否定しないのである。「貸し」は本当なのだろうか。

 黒野の登場とともに、物語の舞台は古義人の住まいの十畳敷から「奥瀬」と呼ばれる、かつて古義人の父が開いた超国家主義者の錬成道場のあった場所に移る。古義人と吾良とピーターという米兵の「アレ」があった所である。

 『取り替え子』で詳しく語られる「アレ」とは、超国家主義者だった父の後を継いだ「大黄さん」の主宰する道場を訪れた古義人と吾良と米兵ピーターの経験した事件である。使用不能になった銃を要求されたピーターが大黄さんたちに殺されたのではないか、古義人と吾良はそれに手を貸してしまったのではないか、その真相は最後までわからない。

 錬成道場のあった地所はバブル時にホテルの経営者に売られ、いまそこに田部という経営者の夫人が「十八世紀ヨーロッパの王家や貴族が芸術家や学者を招待する」という夢を実現させようと、たんなる温泉施設ではない「新しいホテル」を建設している。黒野はそこに古義人を巻き込もうとしていた。長江古義人が主宰する「シニア世代の知的活性化セミナー」なるものが、本人の知らない間に地元の新聞に発表され、すでに具体化され始めているのだった。

 古義人はこの話をことわることもできたのだが、黒野の強引さに押されるかたちで受け入れ、真木彦さんが積極的に実務を引き受けたのである。黒野は、セミナーの一環として、六十年代に「若いニホンの会」に集まったメンバーをもう一度組織して「老いたるニホンの会」を立ち上げようと言うのだ。だが、黒野はたんなるオーガナイザーとして「老いたるニホンの会」を考えているのではなかった。本来志向しながらそのように生きられなかった分野に戻るために、彼自身は「本格小説」をものしたいという。「女性的な情の濃さが切れ込みの深い眼に満ちている」「疲れた山羊のような顔が、やはりハンサムというほかない」と描写される黒野は、波乱万丈な人生の総決算として小説を書くことを思っているのだ。

 奥瀬に建つ新しいホテルの文化セミナーは中止になった。ローズさんとの閨房の秘事を真木彦さんから聞いて得意げに話す田部夫妻の下劣さに古義人が憤ったからである。奥瀬のホテルに集まった「老いたるニホンの会」のメンバーは、最後にパフォーマンスとして機動隊を迎え討つ「我が青春のジグザグデモ」をすることになる。リーダーの麻井を中心とするデモは難なく目的とするホテルの音楽堂に到着するが、その後余勢をかってさらに機動隊を粉砕しようとして、あべこべに機動隊員の扮装をした若者たちに摑まってしまう。古義人も左右に腕をとられて音楽堂から斜面を滑り落ちていく。それはまさに吾良が遺した米兵ピーター殺害のシナリオさながらだった。そして、自分を捕らえている二人が真木彦さんと動くんであることに気づいた古義人は、憤怒のままに腕を振り払おうととして、空中に投げだされ、赤松の木に激突する。古義人は頭蓋骨に重傷を負い、黒野は心臓発作で死んでしまう。

 黒野は本当に古義人にとって「私のヒネス・デ・パサモンテ」だったのか。どうも私にはそうは思われない。彼は「作家にならなかったもう一人の古義人」_古義人の影武者とも言うべき存在のように思われる。「私のヒネス・デ・パサモンテ」は真木彦さんではないのか。古義人から執拗に「アレ」の真相を引き出そうとする試みは、真に古義人のためなのか。

 「アレ」の真相はついに明かされないのだが、最後に「加藤典明」という評論家の文章を真木彦さんが古義人に見せ、その中にある「強姦と密告」という文字に憤りながらも触発された古義人が「密告」について新たな光を見出す場面がある。講和条約発効日に古義人は吾良の住んでいた寺のお堂を訪ねた。そのとき、住職がじきじきに電話の呼び出しに来たのである。吾良にかかってきたその電話がピーターからのものだった可能性がある、ということ。もし、そうであれば、「密告」はピーターの所業だった。ピーターは、大黄さんたち練成道場が講和条約発効日に蹶起する計画を米軍に密告していた。そして、道場の若者たちは死体となって基地のゲート前に横たわっていた。・・・・・・・ピーターは被害者でなく、加害者の側だった・・・・・・・

 最後のどんでん返しが真相だと仮定すると、「アレ」について書かれたすべてがまったく異なった解釈を強いてくる。そのことは必然的に、読者に「アレ」について書かれたすべての「読み直し」を要請してくるのだ。そうすることによって、読者は敗戦直後に何が起こって、何が起こらなかったかをもう一度検証し直す。起こったこと、起こらなかったことの意味を考えるために。

 最終章で意識不明の古義人に、妻の千樫が中野重治の『軍楽』の一節を読み聞かせる場面がある。敗戦直後、復員したばかりの元日本兵(おそらく中野重治自身がモデル)が、進駐軍のブラスバンドが演奏する音楽を聞く。その音楽はこう書かれている。

《・・・・・男はふるえあがるような、痛いようなものを感じた。それは男に西洋的なものでも東洋的なものでもなかった。民族的なものでさえなかった。それは、人のたましいを水のようなもので浄めて、諸国家・諸民族にかかわりなく、何ひとつ容赦せず、しかし非常にいたわりぶかく整理するような性質のものに見えた。・・・・・・・・
殺しあったもの、殺されあったものたち、ゆるせよ・・・・・・はじめて血のなかから、あれだけの血をながして、ただそのことで曲のこの静かさが生まれたかのようであった。二度とそれはないであろう・・・・・・諸国家、諸民族にかかわりなく、何ひとつ容赦せず、しかし非常にいたわりぶかく・・・・・・》

 中野重治という人の文学と生の軌跡について何も語れぬ私は、この文章についても、何もいうことができない。ローズさんは(大江自身が、だろうが)声を震わせて
「私ハ、読ミマシタガ、ワカラナイデス。ナゼ、二度とそれはないであろう、ナノカ?二度モ三度モアッタ、イマモ同ジ米軍ガ、ヤリ続ケテイマス。」
というのだが、古義人の妻の千樫はローズさんに呼びかける。
「よくわからない同士で、練習してみましょうか。古義人はもう涙を流していません。耳を澄ましているような感じです。」

 駆け足であらすじだけ書き散らした文章で、あらためて自分の非力を痛感しています。『憂い顔の童子』については、ひとまずこれで卒業にして、何とか次にとりかかりたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年3月2日月曜日

大江健三郎『憂い顔の童子』____「童子」と「アレ」の楕円構造・その1

 『憂い顔の童子』を読み始めてからもう三ヶ月になるのに、いまだに何も書けないままである。ひとつには私の生活が、ものを書いたりあるいは読んだりすることさえも厳しい状況にあった、といえなくもないのだが、それはやはり言い訳で、作品と私の間に「いま、これを書かなくては」というのっぴきならない緊張の関係が成り立たなかったのだ。大江健三郎の「良い読者」どころか「読者」であること自体に自信をうしなってしまいそうな気がする。

 この小説の目次をみて気がつくことは、ひとつひとつの章がこれまでの大江の作品にくらべて非常に短い、と感じられることである。序章「見よ、塵のなかに私は眠ろう」から終章「見出された「童子」」まで二十一章ある。いったん通読すれば、章題を見てその内容を思い出すことができるので、章題は索引のような役割を果たしているようだ。

 序章「見よ、塵のなかに私は眠ろう」は特に重要である。ここに、以下に続く物語のテーマがすべて呈示されている。主人公の作家長江古義人が谷間の森に帰って暮らし、「童子のこと」をするのは、死にゆく母の強い要請が誘引するものであった、ということ。古義人のもっともよき理解者であり、最も深い批判者であった母の言葉としてあるように、古義人の書くものは「ウソの世界」を思い描いたものであって、本当のことは「ウソに力をあたえるため」に交ぜるのだということ(その逆ではない、いうまでもなく)。そして最後に、章題「見よ、私は塵のなかに眠ろう」の出典であるヨブ記_義人の苦難をうたった長詩として有名である_とくにその七章21節
 「今や、わたしは横たわって塵に帰る。
 
 あなたが捜し求めても
 わたしはもういないでしょう」
という敗北宣言である。だが、それはほんとうに敗北宣言なのか。

 長男のアカリを連れて郷里に帰った古義人は、「ローズさん」という古義人の作品の研究者と同居して「童子のこと」にとりかかる。「童子」とは、五歳のとき自分を置いてひとり森に戻ってしまったコギーであり、コ・ギーであることから「ギー兄さん」と呼ばれる古義人の作品の主人公たち、また、明治の終わりに別子銅山の住友騒動で鉱夫の側に立って県警と採鉱課相手に調停した「(歴史上)はっきり実在した人物」とされる動(アヨ)童子、西南戦争で敗走する西郷隆盛が託した二頭の犬を世話し、遺された一頭とその仔犬の血筋を増やすことに一生をささげたという「老人になった童子」のことである。「童子のことをする」とは、「童子」について「書くこと」である。第十一章「西郷さんの犬を世話した童子」のなかで、ローズさんが古義人のノートに記された文章としてこう説明している。

《私の主人公が何故、東京という中心の土地に住まうことを止めて、周縁の森のなかに帰っていくのか?私の影武者でもあるかれは、自分の作り出した作品世界において根本的な主題を、はっきりいえばつまりノスタルジーのいちいちをあらためて検証しようとしているのです。とくに土地の伝承のうちにある、つねに少年として森の奥に生きており、この土地を危機が見舞う際、時を越えてその現場に出現し、かれらを救う「童子」についてあきらかにしよう、とめざしています。》

 ここまで自作自解をやられると、みもふたもない感もするのだけれど、「童子」についてあきらかになったか、というと、そもそもあきらかにしようとする意図があったのか、と思ってしまう。あきらかになっていくのは、古義人を取り巻く状況の変容である。「谷間の森」と名づけられた郷里の人心は荒廃している。かつてそこが「根拠地」とされ、「教会」が建てられた「倉屋敷」は崩壊の寸前だ。古義人のスポークスマンでもある妹のアサさんも例外ではない。アサさんは古義人にとって、中立、公平な「社会との仲介者」でありながら、最も厳しい批判者でもあるのだ。実際に、「童子」のことを調べていく過程で、古義人は肉体にも精神にもさまざまなダメージを加えられる。

 最初に、初代童子ともいうべき「亀井銘助」が描かれた絵を探して不識寺の松男さん(『燃え上がる緑の木』に登場し、「ギー兄さんの教会の信仰の中心的存在となる)を訪れた古義人が、納戸の上の「いかにも特別なあつかいを受けている感じ」の箱を取ろうとして、落下して納骨堂に突っ込んでしまい、逆さ吊りになった古義人に「引き取り手のない県出身のBC級戦犯」の遺骨が骨壷ごと降り注ぐ、という事件が起こる。たんなる事故ではないようで、松男さんと「三島神社の神主となった同志社出身の真木彦さん」がはかったことのようである。古義人の左足は「ギブスに捕われの身」になってしまう。

 次に古義人が受けたダメージは、あきらかに真木彦さんのたくらみによるものである。真木彦さんは古義人の義兄である吾良の死について古義人と話すうちに、その真相をあぶりだそうとする。神主の真木彦さんは、土地の習俗である「御霊」の行進に、吾良と足を潰されたアメリカ兵の御霊を登場させる。吾良と古義人が高校生のときにかかわった事件があって「アレ」と呼ばれるのだが、かれらのせいでアメリカ兵が殺されたかもしれないのだ。吾良とアメリカ兵の御霊を見た古義人は恐怖とも怒りともつかぬ情動に突き動かされて森の中を走り出し、斜面から沢に墜落する。そうして左耳に裂傷を負ってしまうのだ。

 真木彦さんはこれ以降も執拗に「アレ」を追及する。なぜ神官の真木彦さんが「アレ」と古義人にこだわるのか。作者は(もちろん古義人は、ではない)は真木彦を恋してしまったローズさんに、「古義人はこの世紀の変わり目の、真の小説家なんです。一方で真木彦は、あなたが想像力で作りあげた「救い主」を検討して、この土地で、それらを超えた「救い主」を現実に作り出したいんです。わかりましたか?真木彦は革命家なんです!」と言わせている。_______しかし、古義人が真の小説家であることはうなづけても、真木彦は革命家なのだろうか。また、彼が執拗にアレを追求して、というよりアレを利用して再び古義人にダメージを負わせ再起不能かもしれない状態にまで追い込むのは革命の戦略といえるのだろうか。

 物語は後半、古義人が若い頃参加していた「若い日本の会」のメンバーが登場して、革命と童子とアレが複雑に入り組んだ展開をなしていくのだが、長くなるので、回を改めて続けたい。不出来で半端な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。