2015年4月16日木曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』___T・S・エリオットを中心に

 もう2ヶ月以上も経つのに、『さようなら、私の本よ!』について書けない。体力の衰えなのか、はたまた能力の限界なのか。それで、半ばやけのやんぱちで、アカデミズムの権化みたいな大江健三郎を陰謀論風に読んでみた。妄想『さようなら、私の本よ!』である。

 そもそもこの小説は9.11の世界貿易センターの崩壊に立ち会った(そして体調を悪くした?)アメリカ国籍の建築家椿繁と、彼の幼ななじみ(かつ異父弟?)の長江古義人の冒険譚なのである。

 経済的な問題から、古義人は「北軽」の大学村のはずれに建てた二棟の別荘のうち「小さな老人(ゲロンチョンと表記される)の家」を残して、もう一棟の「おかしな老人の家」と敷地全部を「小さな老人(ゲロンチョン)の家」を設計した繁に売ることになる。「小さな老人の家」とは、古義人が若い頃夢みた山荘のイメージがT・S・エリオットの同題の詩にある家だったことから名づけられた。古義人と繁はそれこそスープの冷めない距離に住んで、つかずはなれずの関係になるのだが、二棟の家に住むことになるのは、この二人だけではなかった。繁は、「ウラジミール」と「清清」という彼の教え子であり、また「ジュネーヴ」という隠語で呼ばれる組織から指令を受ける「同志」との「根拠地」として不動産を買ったのである。

  「ジュネーヴ」からの指令、というより繁が「ジュネーヴ」に提案したのは、東京の高層ビルを爆破する計画である。そして古義人の役割はその計画の実行寸前に彼がNHKに出向いて計画を告げ、人々を避難させる、というものだったのだが、「ジュネーヴ」はこれを却下した。時期尚早とされたのだ。繁は爆破_unbuildと表記される_をより小さな規模にしてビルの一室で行うことにするが、古義人は自分の「小さな老人(ゲロンチョン)の家」をその実行場所に提供する。爆破は成功するが、その記録をビデオで残そうとした実行犯の若者のうち一人が爆破の際に「鉄パイプに片目を貫通される」事故で死んでしまう。

 あらすじとしてはこれだけで、いままでの大江健三郎の作品に比べれば単純、と言ってよいもののように思われるが、これに組み込まれるプロットあるいはモチーフは例によって豊富である。全体のプロットは、作品中にもまとまって引用されるドストエフスキーの『悪霊』である。登場人物がそれぞれ自分の好きな、またはそれを自分になぞらえうるような『悪霊』中の人物をあげている。爆破の実行犯で死んでしまう「タケチャン」は自殺するキリーロフ、生き延びて潜伏するもう一人の実行犯の武は首謀者ピョートルに殺されるシャートフ、そして、古義人はピョートルの父無能なステパン氏が好きだと言う。古義人と武、タケチャンの三人が会話して、戦後民主主義、悔い改めたブタ、といったテーマを話し合う場面があって、そこで展開される議論はそれなりに興味深いものがあるのだが、問題はむしろ、爆破を計画する繁がこの場面に登場せず、彼の役割があきらかにされていないことではないか。

 繁と古義人の関係は、最後まで真相がわからない。いえることは、二人はペアであり、ツインであるということだ。作品中では「ロバンソン小説」なるものの構想を古義人が昔からもっていたとされ、セリーヌ『夜の果てへの旅』のあらすじが紹介される。『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュとロバンソンの関係が古義人と繁のそれに重ね合わされるのだろう。バルダミュとロバンソンについて、「自分でも忘れるほど前から、古義人はpseudo-coupleということを考え」ていた、と書かれているのだが、pseudoは辞書を引くと「偽りの」という日本語があてられている。繁と古義人、バルダミュとロバンソン、そしてまたウラジミールと清清、武とタケチャンもカップルであり、さらには清清とネイオもそう呼ぶことが出来ると思うが、彼らを「偽りの」カップルと呼んでいいのだろうか。大江健三郎は、小説の中で外国語をそのまま、或いは翻訳して日本語におきかえるとき、微妙に意味をズラすことがあるように思う。たとえば、『宙返り』の中で主人公を「師匠」と呼んでパトロン」とルビをふったように。そしてそのズレは確信犯的、戦略的なものであると考えている。

 ズレといえば、作中頻繁に引用され重要なモチーフとなる「小さな老人の家」_ゲロンチョンというエリオットの詩についても、非常に微妙な、巧緻な仕掛けが施されているように思われるのだが、長くなるので、それについては次回で考えたい。いまは、そもそも、自宅のある成城でも故郷の谷間の村でもなく、「北軽」という別荘地_ある種の租界_で、同一の敷地に建つ「小さな老人の家」と「おかしな老人の家」の二つの建物のうち一棟が爆破されるというプロットが指し示すものは何かという問題を提起したい。いうまでもなくこの小説は9・11の後書かれたものである。また、その実行犯はともかく、誰がこれを指示したか、ということも。次回では、ゲロンチョンを中心にエリオットの詩を読みながらそのことについてささやかな検討をしてみたいと思う。「ゲロンチョン」という詩は、決して「若い作家が夢みる」ような山荘を描いたものではないのである。

 「陰謀論で読む」といいながら、まったく陰謀論になっていないのですが、次回は付け焼刃の英文学の勉強をしながらエリオットの詩に挑戦したいと思います。(できるでしょうか)今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

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