2014年11月27日木曜日

大江健三郎『取り替え子』__フリーダ・カーロとモーリス・センダック(その2)

 『取り替え子』の最終章は「終章 モーリス・センダックの絵本」となっている。作品全体のエピローグのようでもあり、『取り替え子』という小説を絵に見立てて、それをおさめる額縁のような役割を果たしているようでもある。モーリス・センダックの数ある絵本の中、"Outside  Over  There"(『まどのそとのそのまたむこう』)をほぼまるごと紹介して、妻の千樫の語りで文脈をすすめていく。

 わたくしごとになるが、モーリス・センダックの絵本は遥か昔の若い母親だったときに「こぐまのくまくん」シリーズをいくつか買って、子どもに読み聞かせた。子どもたちが喜ぶから、というより、たぶん、自分がそれらの絵本を読むのが楽しかったからだろう。必ずしもcomfortable___いごこちよい、とでも訳せばよいだろうか_な絵ではないけれど、登場人物の表情やストーリーの流れに、微妙な翳がさすことがあって、それが魅力だった。いまネット上でセンダックを検索すると、あまり頑健とは思われない、むしろ非常に繊細な外見の写真と、ブルックリンのゲットーに育ったという彼の生い立ちがでてきて、それから、晩年に五十年間連れ添ったパートナーの精神科医に先立たれた後同性愛だったことを公表した、とあって、なんとなく納得してしまった。作品理解に余計なことかもしれないけれど。

 私は「こぐまのくまくん」シリーズしか知らないのだが、"Outside  Over  There"を含めて、モーリス・センダックの世界に共通するのは、「いつも不在な父」ではないだろうか。"Outside  Over  There"では、「パパが航海に出ただけで」「ママは深い憂愁と放心に捉えられてしまった」と書かれていて、そのママのことを、千樫は「私のお母様」と考えていた、とある。「私のお母様」の夫=千樫(と兄の塙吾良)の父は早くに亡くなって不在であり、さらにいえば、古義人も同様だった。センダックの世界と『取り替え子』の世界は「不在の父」という共通項が隠されている。

 父が不在である、ということは、子どもと残された母親との関係に何ほどかの翳を落とすと思われる。物語に即していえば、"Outside  Over  There"の赤んぼうは、頑健な男親がいたら、やすやすと盗まれることはなかっただろう。そして、まだ少女のアイダが、母親になり代わって___そのことはアイダが母親の黄色い雨外套を着ることに象徴されている__赤んぼうを取り戻しに窓から飛び出す危険を冒す必要もなかった。少女のアイダは、赤んぼうと同じような子どもであることが許されていない。大人の、むしろ父親の代わりでもあるかのごとく、彼女の妹を「きたならしいゴブリン」の手から救い出す闘いをしなければならない。そして千樫は、そのようなアイダと自分を同一視するのである。

 ところで"Outside  Over  There"とはどのような世界なのだろうか。それについては、モーリス・センダック自身がセミナーで、そこからの帰還が決してたやすいものではないと語っている、と書かれている。『取替え子』の作品世界に即して考えれば、それが古義人と吾良が少年のときに経験したアレであり、作中「外側のあの向こう」と書かれている時間、空間の出来事なのだろう。それはモーリス・センダックが描いている世界より、もっとずっと複雑な「こと」なのではないだろうか。『取替え子』の最後で、作者は吾良の残した二つのシナリオ、というかたちでそれを示唆しているが、その二つのシナリオが真相をあきらかにするものだとは思われない。しかし、果敢な千樫は、"Outside  Over  there"のアイダのように、いやアイダよりもっと勇敢にアレに立ち向かい、これから生まれてくる者が「外側のあの向こう」に連れ去られないように、出発するのである。

 作品の」中心、核となる部分になかなか到達できず、私自身が「欠説法」で書いているような有様になってしまいました。「アレ」と何やらいかがわしい響きを持つ事柄の真相にいたる道のりについては、もう少し考えを整理してから書きたいと思います。書けるかどうか、自信はないのですが。

 今日も未整理な覚書を読んでくださってありがとうございます。

2014年11月26日水曜日

大江健三郎『取り替え子』___フリーダ・カーロとモーリス・センダック (その1)

 小説後半の古義人の受けた暴力について考えていかなければならないのだが、どうしても集中できないでいる。それで、ちょっと閑話休題、作中取り上げられる二人の画家、フリーダ・カーロとモーリス・センダックのことを書いてみたい。

 フリーダ・カーロはメキシコの女流画家で、たしか大江の『同時代ゲーム』でも名前が出てきたように思う。作品のほとんどが自画像で、美しい人だったようだが、六歳のとき小児麻痺にかかり、十八歳で恋人と一緒に乗っていたバスが路面電車と衝突、腹部をバスの手すりに貫徹されるという重傷を負う。一生肉体の痛みに苦しんだ人だった。私生活も波乱万丈で、何回も恋をして、何回も恋に破れた。(そのうちの一人がスターリンとの権力闘争に敗れて、メキシコに亡命してきたレフ・トロツキーだった)最初から無理な妊娠、出産をし、その結果三回流産した、とある。痛みは人間をかえってエネルギッシュにするのだろうか、と思ってしまうような人生である。

 大江がこの小説で取り上げているのは「ヘンリー・フォード病院」と「ふたりのフリーダ」という絵である。作中、古義人は田亀に惑溺する自分を立て直そうとベルリン自由大学の客員教授としてベルリンに赴く。百日のQuarantine(隔離、交通遮断、検疫etc・・・など辞書の訳語がそのまま羅列されている)を終えて帰国し、時差ボケに悩む古義人は、彼の帰国を待ち構えていたかのように、郷里から送りつけられてきたスッポンを悪鬼のようになって殺戮せねばならなかった。無惨で無為な殺戮の後、彼は書斎でなじみの本に囲まれていることで安堵する。

 不思議なのは、ここからで、彼は自分の頭蓋のなかに赤い心臓を透視し、それらの弁にこまかな血管がいくつもつながっていて、体外に出て書棚の書物に届いている、というのだ。そう透視することで安堵ともの悲しい失墜感を覚えた、という。そして、それがフリーダ・カーロの「ヘンリー・フォード病院」の絵と同じ構図だと思っていたのだ、とある。

 ところが、「ヘンリー・フォード病院」という絵は、そういう構図ではない。古義人も自分の思い入れがまちがっていたことに気づくのだが、土台の枠組みに「ヘンリー・フォード病院」と書いてあるベッドに横たわった裸身の女性は、下腹のところで何本かの赤い紐を束ねて持っていて、その紐がなにやらわけのわからないもの(私がよくわからないだけかもしれないが)___胎児やカタツムリや旋盤機械や花束などらしい___につながっている。シーツに性器からのものらしい出血がはっきりと描かれているので、赤い紐は血管なのかもしれない。ベッドは空中に浮き上がっているように描かれ、遠景に工場らしきものがいくつか小さく描かれている。

 「ヘンリー・フォード病院」は有名な作品なので、古義人が、というより大江健三郎が記憶違いをする筈はない、と思うのだが、何故このような取り上げ方をしたのだろうか。古義人は、というか大江は、フリーダ・カーロの「ふたりのフリーダ」という絵に言及して、それとの混乱をほのめかしているのだが。

 「ふたりのフリーダ」は白いスペイン風(?)の衣裳を着た女性とメキシコの民族衣装(?)を着た女性がそれぞれの左手と右手をかさねて並んで座っている。メキシコ風の衣裳の女性のむきだしの心臓からスペイン風の衣裳の女性の衣服に覆われた心臓に、細い血管を通して、血液が送りこまれている。何とか出血を止めようとスペイン風の衣裳の女性はカンシを手にしている。これも有名な作品のようだが、ちょっと不思議なのは、作中「雲の密集するスクリーンの前に立つ『ふたりのフリーダ』の肖像」とあるが、どう見てもこれは坐像である。後ろに籐で編まれたような腰掛が見えるのだ。これも、たんに作者の記憶違いなのだろうか。

 要するにフリーダ・カーロは、「頭蓋のなかに赤い心臓があって、そこから出る血管がもの_書物_とつながっている」ような絵は描いていないのだ。そのようなイメージは古義人自身の、普通の人にはなかなか理解できない感覚でしか見えない幻視なのである。フリーダ・カーロが生涯痛みに苦しみ、実際に体を切り刻まれながらも、なお情熱とエネルギーに満ちて創作を続けたのに対して、古義人は、古いなじみの本に囲まれて、それらと血脈を通じている、と思い込むことで余生を「死んでいる者のように穏やかに生きてゆけそうに感じた」のだ。だが、そのような彼を再び創作に追い込むモノを携えて、妻の千樫がやってくる。

 モーリス・センダックについても書こうと思っていたのですが、思いのほか長くなってしまったので、続きはまたの機会にしたいと思います。今日も不出来な覚書を読んでくださってありがとうございます。

2014年11月19日水曜日

大江健三郎『取り替え子』___「欠説法」と言う語り方___アンフェアなモデル小説

 悪戦苦闘して『宙返り』を読んだ後、『取り替え子』を読み始めると、時系列が錯綜するものの、身辺雑記風の書き方なので、すらすら読めてしまう。ネット上の評価では「わかりやすい文章」という言葉が多く見受けられる。だが、文章そのものは『宙返り』等の大江健三郎の他の小説とそんなに違っているとは思われない。たぶん、主人公の塙吾良のモデルは大江の義兄であり、高名な映画監督であった伊丹十三である、ということに疑いの余地がないので、誰もが生前の伊丹十三その人と彼の事跡を思い浮かべながら読むからだろう。でも、これは「わかりやすい文章」で書かれているかもしれないが、「わかりやすい小説」ではない。

 この小説は実にアンフェアなモデル小説である。作者=大江健三郎=長江古義人であり、伊丹十三=塙吾良である、と誰もが無意識のうちに前提して読みすすめる。念の入ったことに、小説の後半に一葉の写真が挿入され、それが若き日の古義人のものであると書かれている。ダメ押しの証拠写真、であろうか。

 ところが、そのような一対一対応を微妙にゆるがせる仕掛けが施されている。作中引用される長江古義人の小説の題名が現実に出版されているものとほんの少し違っているのだ。『万延元年のフットボール』は『ラグビー試合1860』、『みずから我が涙ぬぐいたもう日』は『聖上は我が涙をぬぐいたまい』と書き換えられている。引用される文章は現実に出版されているものと同じなのに、どうして題名を変える必要があったのか。長江古義人=大江健三郎を無条件に前提させないためなのか。

 小説の冒頭もまたアンフェアな出だしである。「書庫のなかの兵隊ベッドで」古義人が吾良から送られたテープを再生して聞いている。「おれは向こう側に移行する」という吾良の声の後ドシンという大きな音がして、さらにそのしばらく後「しかし、おれはきみとの交信を断つのじゃない」という吾良の言葉が記される。そしてその晩、古義人の妻であり吾良の妹の千樫が吾良の自殺を告げる。テープが再生した吾良の声とドシンという大きな音は手の込んだ吾良の仕掛けなのか。それとも古義人の幻聴なのか。あるいはまた、「こういう書き方をする小説」なのだ、と読者に対する暗黙の強制がなされているのだろうか。

 こういう書き方をする小説なのだ、と読者は納得して読まなければならないのだろう。序章「田亀のルール」で始まる小説の冒頭、前述の吾良の言葉に続けて、作者は吾良に「そのために田亀のシステムを準備したんだからね」と言わせている。「田亀」とは吾良が送りつけてきたテープの再生装置であり、そのかたちがタガメ_田亀に似ていることからそう名づけられたのである。「田亀のルール」とは古義人が吾良と交信するためのルールであり、読者がこの小説を読むためのルールなのだ。それにしてもタガメ_田亀とはなんともグロテスクな生物ではある。吾良と古義人の魂の交信の回路にこのようなグロテスクな生物の名前をつけたのは何故だろうか。

 
 小説はすでに「向こう側」に行ってしまった吾良と古義人の対話を中心として展開していく。そこで開示される情報は、事件当時報道されていたものと大きく異なるところはないように思われる。吾良=伊丹十三をイメージした場合、いかにもありそうなエピソードがいくつか書かれるが、そういうものを通じて吾良=伊丹十三の死の真相に迫ろうとしても無駄である。作者がそれを目的としていないからだ。小説の中盤から、作者は吾良の死と直接に関係があるか否かを曖昧にしたまま、古義人の受けた暴力に主題をずらしていく。しかし、その暴力についても、結局、読者は何も知らされることはないのだ。

 修辞学に「欠説法」もしくは「黙説法」という技法があるそうだが、この小説は全体としてその技法でなりたっているのではないか。作品の中に、いくつもの事実と事実らしきもの、それを補強するためのフィクションが存在する。しかし、その中心となる事柄は決して語られない。吾良の死と古義人の受けた暴力とを結びつける過去の出来事の真相は何か。読者の関心をそこに向けて集中させることはするが、集中させられた関心は行き止まりになってしまう。いったい「真相」そのものは存在するのか。おしまいは、いつもの大江節で

__もう死んでしまった者らのことは忘れよう、生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

と結ばれるのだが、他の人はいざ知らず、私は死んでしまった者のことをそんなに簡単に忘れることはできない。まだ生まれて来ない者のことだけ思うほどの余裕もない。もう少し詳しく小説の後半、古義人の受けた暴力と谷間の村で起きた出来事について考えてみたいが、長くなるので今回はここまでとしたい。

 読みやすいようで、なかなか手の込んだつくりの小説だと思います。迷路の中で作者と鬼ごっこをしているような気がします。とりあえずの経過報告で、抽象的なことしか書けず、力不足の感ひとしおです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
 

2014年11月3日月曜日

大江健三郎『宙返り』__「百合」というモチーフ

 いつまでも同じ作品にこだわっていて、発展がないのだけれど、もうひとつだけ考えてみたいことがある。「静かな女たち」と呼ばれるグループとその象徴ともいえる百合の花について、である。

 「静かな女たち」とは、師匠(パトロン)が宙返りした後も、信仰を守り続けた人々のグループで、「小田急線の急行でも新宿から一時間かかる距離の、田畑を残した住宅地帯」で、神奈川県の西南部にある閉鎖された小学校を改築して住んでいる、と書かれる。非常に具体的な記述で、グーグルで地図を開けばおよその場所が見当がついてしまう。

 いったい、大江健三郎の小説は、細部の描写が生き生きとリアルで、とくに食事の場面など、登場人物と一緒に料理を前にしているような錯覚におちいってしまう。そしてそれが、ある種の幸福感を読者にもたらすのだけれど、しかし、実はそのことが厄介なのだ。そうやって組み立てられたプロットが、たんに現実の出来事を記述するだけでなく、神話的なモチーフを暗示しているのではないか、と思われてならないからだ。

 「四月も終わりに近い土曜日の午後」師匠(パトロン)から新しい案内者(ガイド)になるよう依頼された木津と育雄は、「静かな女たち」が出家して生活している小学校を訪れる。季節はずれの雪が降りはじめるなか、彼らがそこで見たのは、校庭を掘り起こして立ち並んだビニールハウスのなかで百合を段ボールの箱に詰める女たちの姿だった。印象的なのは、無音で作業を続ける蒼ざめた女たちのたたずまいより、むしろ、「生なましく獣じみているほど強い百合の匂い」で、「木津と育雄は,気圧されて立ちどまっていた」と書かれる。

 何故「百合」なのか。百合は、「薔薇」とならんで古くから文学作品に登場してきた植物だが、おそらく、この場面では賛美歌(「うるわしの白百合」)にあるように、イエスの墓に咲いた、という伝承を踏まえているのだろう。
 
 
うるわしの白百合 ささやきぬ昔を、
 イエス君の墓よりいでましし昔を。

 四十数人の「静かな女たち」が次からつぎへと百合の花を段ボールに詰める作業をしていた、という描写は、彼女たちが生活の糧を得るための仕事をしていたという説明のためにだけなされたのではない。なりわいとして、「救い主」の葬送の準備をしていたということを暗示しているのではないか。

 ところで、「百合」には、もうひとつのイメージが重なり合う。それは旧約聖書「雅歌」で歌われる官能的な、恋人のメタファーとしての「百合」である。

 わたしたちの寝床は緑の茂み。
 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。

 わたしはシャロンのばら、野のゆり。

 おとめたちの中にいるわたしの恋人は
 茨の中の咲きいでたゆりの花

 これはおそらく、バルザックの『谷間の百合』のイメージの源だと思われる。そして、この『谷間の百合』のパロディ、というか変奏曲とでもいうべきものが、作中の萩青年と津金夫人の恋愛であると思われる。物語の終盤、「静かな女たち」が集団で青酸カリを飲んで自殺することを知らされた萩青年が、二十五人の死体処理をやっている自分をイメージし、直後に津金夫人の生身の肉体を思うことで救いをもとめようとした、書かれている。「死」へのベクトルと「生」へのベクトルが「百合」の両義性において結びついているのだ。

 この作品に限らず、大江健三郎の紡ぎだす世界はさまざまな神話のイメージが満ちあふれている。それはけっして牧歌的なものだけではない。むしろ、どす黒い、グロテスクなものが潜んでいることが多い。(詳しく触れる余裕はないのだが、「静かな女たち」の代表の老婦人が「樫の木」に自分たちの集団をたとえているのも意味が深いと思われる。)一方、さりげない説明的な記述が、なかなか油断できない内容を含んでいることもあって、大江の作品はなんでもありの曼荼羅模様の感がある。『宙返り』はとくにそうであると思う。

 これでいったん『宙返り』の備忘録はおしまいにしようと思います。いつかきちんとしたものを書きたいと思っていますが、つくづく非力な自分を思い知らされています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2014年10月31日金曜日

大江健三郎『宙返り』決して解けない謎___アンフェアなのは誰か

 この小説の中で、私がどうしても了解できないものが二つある。一つは「ヨナ書」の取り上げ方で、もう一つは「悔い改めと終末」の内容である。もっとも根本的なことが納得できないでいる。

 
 以前も書いたが、「ヨナ書」の主題は赦す神、愛の神である。ヨナは「アミッタイの子』と書かれているので預言者の一族であろう。彼は悪をなす都市ニネベに悔い改めを説きに行くよう神に命じられたが、その命に背き、神から逃れようとして、タルシシという町に向かう船に乗る。嵐が来て、そのわざわいが自分のせいだとされたヨナはみずからを海に投げ入れさせ、波風を静める。すると、神は大きな魚の腹にヨナを呑み込ませ、ヨナの悔い改めの祈りにこたえて、かれを吐き出させる。ヨナはニネベに行き、神の怒りを伝える。ニネベの人々は王から奴隷まで一人のこらず悔い改め、正しい生活をする。神はニネベの町の悔い改めを見て、彼らを滅ぼすのをやめる。

 ところがヨナは神がニネベの町を赦したことに憤る。彼は「死んだ方がいい」と言って、ニネベの町のはずれに小屋を建て、なりゆきを見まもろうとする。彼が暑さに苦しむのを見た神は、一晩でとうごまの木を生やして小屋を覆うが、また一晩で虫をわかせて木を枯らしてしまう。そして、とうごまの木を惜しむヨナに、ニネベの町を惜しむ神の意志を述べるのである。

 ヨナは、神に背いてタルシシに逃れようとしたみずからの過ちに気づき、悔い改めて海に投げ入れられたから、神から大きな魚を与えられ、その腹の中で嵐をやり過ごすことが出来たのである。ところが、ニネベの人々がヨナの言葉で悔い改め、悪の道から外れると、そのことで神に憤る。その怒りは理不尽であるということを、神はとうごまの木をもって知らしめたのである。ここには人間の悔い改めと神の赦しがどのように行われたかということが具体的に記されている。

 繰り返すが、悔い改めとは行為である。ヨナがみずから望んで嵐の海に投げ入れられたように。そして大きな魚の腹の中で、誓いをたてたように。またニネベの人々が(獣までも)荒布をまとい、断食して狂暴な行いをやめたように。その行いを神は嘉するのである。そのように「ヨナ書」には書かれている。

 ところが『宙返り』が取り上げる「ヨナ書」では、赦す神、思い直す神に対して「抗議するヨナ」にだけ焦点があてられる。「抗議するヨナとして登場する育雄は、少年の時、神の「ヤレ!」と言う声を聞き、彼に同性愛を強いたシュミット氏を火掻き棒で殴り、半身不随の身にする。そして、再び「ヤレ!」という声を聞いたように思って、シュミット氏を殺してしまう。未成年だった育雄は巧妙にふるまって罪に問われなかったが、それからずっと「ヤレ!」という神の声にこだわっている。再び「ヤレ!」と言わない神に抗議する「よな」が育雄なのである。

 しかし、これは非常に手の込んだ主題のすり替えではないだろうか。ヨナは、あまりにも重い使命から何とか逃れようと神に背いたが、背いたことを悔い改めた。そして、命を懸けてニネベに行き、神の言葉を伝えた。それ故、彼が神に抗議するのは、人間の限界を示すものだろう。だが、「よな」と書かれる育雄は、殺人を犯した人間なのである。「ヨナ」と「よな」を相通じる存在として取り上げるのは無理である。「よな」にもう一度「ヤレ!」と言ったのは神でなく、踊り子(ダンサー)なのだ。

 「悔い改め」と「終末」の内容についても、私には理解できない。「このままではこの惑星がたちゆかない」あるいは「この後百年もつとは思われない」と言う言葉が何回も繰り返されるが、それはどのような事象を指していうのだろうか。自然の荒廃なのか、はたまた人間倫理の退廃なのだろうか。「終末を早める」ために、原発の事故を誘発する、という発想にいたっては、ナンセンスを通り越して、無気味である。この小説が発表された12年後の現実に何が起こったか。「終末を早める」ために事故が誘発されたのではなく、「事故が終末を早めた」可能性は大いにあるのだから。師匠(パトロン)が「大きな瞑想」の中で見る「終末」が、人々は生きてはいるが、生産活動がまったく行われなくなった中都市の様子であるというのも暗示的である。

 「悔い改め」と言う言葉が何を指すのかが、またわからない。作中「静かな女たち」の祈りの生活と「急進派」の社会への働きかけが描かれるが、それらは「悔い改めの行為」だろうか。というより、作者はそれらを「悔い改めの行為」と考えているのだろうか。『宙返り』には、キリスト教の用語、概念が頻繁に引用される。「「悔い改め」はいうまでもなくその中心的概念だが、そもそも何故悔い改めるのか。「終末」を迎えるから、裁きの場で神の国に入れるように悔い改めるのか、それとも、元来「罪ある存在」だから悔い改めるのか。そして「悔い改める」とは「何をどうする」ことなのか。

 おそらく宗教の中心的概念とは、このように、あくまでも「概念」あるいは「ことば」であって、であるからこそ、そこにはいかようなものをも置くことができるのだろう。だから、個々の人間の具体的、個別的状況に対応して、「救済」の「ことば」を与えることができるのだろう。作中、自殺した母親の呪縛に苦しむ古賀医師に師匠(パトロン)がそうしたように。

 作者は繰りかえし繰りかえし「終末」と「悔い改め」をもちだして神学論を展開する。だが、何回読んでも、私にはそれらが生活とかけ離れた形而上的、思弁的な観念論にしか受け取れない。それより、「宙返り」後の十年間、師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は何をして食べていたのか、などと考えてしまう。二人で地獄をみつめあっていた、と書かれているが、成城という高級住宅街の一角に二棟の住居をかまえて生活をする費用はどこからでていたのだろうか。

 この小説にはこのほかにも何重にも罠が仕掛けてあって、少しでも油断するとその罠にからめとられてしまいそうだ。いや、からめとられないでいることは不可能かもしれない。大江健三郎のやり方は、この小説に限らないのだが、あまりにもアンフェアである。作中の育雄や踊り子(ダンサー)がアンフェアなのではなく、作品自体の成り立ちがアンフェアなのである。

 いうまでもないことだが、「アンフェア」は非難のことばではない。

 いつまで経っても考えがまとまらず、堂々巡りのままで、不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2014年10月20日月曜日

大江健三郎『宙返り』の謎___「十三人組」と「モースブルッガー委員会」_「パトロン」とは何か

 私は大江健三郎のエッセイ、とくに小説の方法論について書かれたものをほとんど読まない。意識して読まないようにしている。それで、なおさらそうなるのかもしれないが、そもそも大江の小説が「何を書いたものか」ということがさっぱりわからない。わかったような顔をしていままで書いてきたものはすべてたんなる備忘録である。前回「踊り子(ダンサー)とは何か」と同じように、今回も私自身が考えを進めるための文字通りnaoko_noteである。

 そもそも「パトロン」とは何か。日本語の「師匠」に「パトロン」とルビをふるのは無理がないだろうか。「パトロン」という日本語は日常生活で「師匠」の意味に使われることがあるのか。普通は「支援者」とくに経済的なそれを指して使われると思う。文化、芸術のそれから、一個人の支援者にいたるまで「パトロン」とは「(とくに経済的な)支援」を「する側」の人物をいうのであって、「される側」をそう呼ぶことはない。ところが『宙返り』では「宙返った救い主」が「師匠」と表記されるが常に「パトロン」とも表記されるのである。「パトロン」には「支援者」という標準的な意味の他に、何か特別の意味があるのだろうか。

 「パトロン」を支援してきた(つまり「パトロン」のパトロン)のは「国際文化交流財団」なる存在であることがほのめかされている。あるいは財団の理事長である製薬会社の社長なのかもしれない。この製薬会社の社長は、師匠(パトロン)と初対面の名詞交換の際に、白亜の社屋のヘルメス像の前で師匠(パトロン)頭をコツンと殴られた、というエピソードが書かれている。師匠(パトロン)と理事長を引き合わせたのは「無邪気な」萩青年なのだが、彼は父親が高名な医学者であり、その縁で製薬会社の社長が理事長をつとめる「国際文化交流財団」の仕事をすることになったらしい。師匠(パトロン)の周囲には医学_製薬会社のコネクションがはりめぐらされている、と推測するのは考え過ぎだろうか。作中、じつにしばしば踊り子(ダンサー)は師匠(パトロン)に薬を飲ませるのである。

 理事長は、師匠(パトロン)の世話に専従したいという萩青年の申し出を快諾し、なおかつ彼に財団の嘱託として給料もだす、としたうえで、バルザックの十三人組の話をする。師匠(パトロン)には十三人組の気分に似通うところがある、というのである。十三人組とは何か。

 理事長によれば「十三人組というのは、暗黒世界もふくめて、十三人の実力者がフランスの一時代を支配する、という着想」ということだが、バルザックの小説に書かれているのは、かなり猟奇的な事件であり陰惨な結末のようである。実際、小説の最後で師匠は信者の姉弟とともに焼身自殺を遂げる。「あの人には十三人組の気分に似通うところがある」という理事長の言葉はなんとも無気味ではないか。

 さらに無気味なのが師匠(パトロン)とともに焼身自殺を遂げる立花さんという人物の登場の仕方である。立花さんはカトリック系の大学(上智大であることが暗示される)の図書館司書であり、知的障害をもつ弟とともに自立の道を探る堅実そのものの女性として描かれるが、彼女は「モースブルッガー委員会」というサークルを介して、無邪気な萩青年と出会うのである。「モースブルッガー委員会」とは何か。

 「モースブルッガー」とはオーストリアの小説家ロベルト・ムジールの未完の大作『特性のない男』の登場人物の名前である。大江はモースブルッガーを「奇怪な性犯罪者」と呼んでいるが、たんなる婦女暴行魔ではない。猟奇的な快楽殺人を犯す人物である。「モースブルッガー委員会」は、『特性のない男』の読書会から発展して、犯罪を捜査する人たちにとどまらず、犯罪の当事者を会に招き、話を聞くというところまで行き着いた、と書かれている。敬虔そのものの立花さんがそのようなサークルに参加していたとする設定は何を意味するのだろうか。それから、無邪気な萩青年が、仕事帰りの立花さんと会って別れた後、桜木立の暗闇から街燈の点る舗道に向けて歩き出して、桜の枝でしたたか眼と鼻を横殴りされた、というエピソードは何故記されなければならなかったのか。

 以上、小説の本筋とあまり関係がないように見えるが、私にはどうしても見過ごすことの出来ない点について書いてみた。もうひとつ同じように見過ごせないのが、無邪気な萩青年と津金夫人の恋愛譚である。この、ハッピー・エンドともみえる恋愛譚は何故挿入されなければならなかったのだろう。そのことについては、またあらためて考えてみたい。それから、師匠(パトロン)についての最大の疑問___師匠(パトロン)の性的能力についても。師匠(パトロン)にはかつて妻子がいた、とも書かれているのだけれど。

 ついに最後までまとまりのない乱文でした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年10月12日日曜日

大江健三郎『宙返り』__片肢のない蝉__「踊り子(ダンサー)」とは何か

 前回私は「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」をまず明らかにしなければいけない、と問題を提起した。さて、ところが「何を書いたか」がさっぱりつかめないのである。いっそ謎は謎のままでおいて、次の『取替え子』を読もうかと思った。だが、やはり気になるので、ごく細かい箇所で、あまり議論にならないような部分かもしれないが、私には非常に印象的な描写がなされているところを取り上げてみたい。『宙返り(下)』の最初の部分、四国の谷間の森のかつてギー兄さんが教会をたてた場所に、「無邪気な青年(この無邪気の意味もなかなか複雑である__無邪気はナイーヴイノセントか、あるいはその両方の意味をもつのか)」と称される萩という青年と踊り子(ダンサー)が師匠(パトロン)たちの先乗りとして入った翌朝の出来事である。

 
 地獄のように暗く静かな、雨に降り込められた夜が明けて、踊り子(ダンサー)は自分たちが泊まった家のすぐ下を無数の沢蟹が流れていくのを発見し、「新鮮な血」が流れている、と驚愕する。沢蟹は大江の作品のなかで重要なモチーフとなっている(『同時代ゲーム』の最後、語り手の「僕」が全裸となって森に入り、無数の沢蟹を食べて真っ赤な口になっているところを発見されたのを思いだす)が、その沢蟹を調べに行った踊り子(ダンサー)は、堰堤に降りる細道で胸部の片肢が第一関節までしかない蝉を見つける。羽化したばかりの蝉は蕗の葉に登ろうとしては転がり落ちるのだ。踊り子(ダンサー)はその蝉を萩青年に頼んで柏の枝にとまらせてやる。

 
 片肢がない蝉、という設定がまず、グロテスクである。そのような不具の生き物が羽化することがあるのだろうか、と疑問がわくのだが、作者はここに異形の存在を「虫」として呈示し、踊り子(ダンサー)の次の言葉を導きたかったのだと思われる。

__土のなかに千日も潜っていて、地上に出てみると樹にしがみつく肢が足りないのでは、さぞかし驚いたと思うわ。鳴き声がよくとおりそうな枝を選んで、とまらせてくれる?蝉が鳴くのは生殖のためでしょう?

 踊り子(ダンサー)の言葉はたんなる生き物への憐れみあるいは愛情の表現でないのはいうまでもない。この言葉と照応するのは、小説の末尾近く、最後の「大きな説教」のなかの師匠(パトロン)の言葉である。師匠(パトロン)は、ヒマワリの種を持ち去ろうとする五十雀が、恐慌に襲われたように、チチッと鳴くことに言及する。自分が「大きな瞑想」からこちら側にもどって案内者(ガイド)に喋った言葉はそのチチッに類したものだったと言うのだ。

 その師匠(パトロン)を踊り子(ダンサー)は「初めてあの人を見た時は、掘り起こされたばかりの甲虫の幼虫を思ったもの。黄ばんだ紙のような皮膚に柔らかそうな肉がつまっていて」と表現し「私は案内者(ガイド)が飼っている特殊な生き物を世話する気持ちだったもの。」と言っている。踊り子(ダンサー)とは何か。

 小説の最初に萩青年と踊り子(ダンサー)の出会いが描かれている。そこで踊り子(ダンサー)は「たいていの若者に充分魅惑的なはずの、若さと美しさをそなえた、加えて並なみならぬ個性もうかがわせる娘だった。」と書かれるが、より重要なのは次のような具体的描写である。「それこそこちらと抱き合って踊りたがってでもいるように、小柄で華奢な身体を近付けて親しくささやきかける。しかもその声に、たいてい批評的な鋭い言葉をのせてよこさずにはいられないのだ。」「黙っている際にも口をうっすらと開けてほの暗い赤さの口腔の奥まで見せている」その他にも、「細いがつよい頸」など踊り子(ダンサー)の身体の特徴は繰りかえし表現されるが、とくに、「踊り子(ダンサー)がいつも口を開けている」という特徴は折に触れて強調される。一方の萩青年の身体的特徴がほとんど描かれていないのに比べて、彼女のそれが執拗に繰り返されるのは何故だろうか。

 そしてそのような踊り子(ダンサー)について、無邪気な萩青年が「踊り子(ダンサー)の柔らかくささやくような話しぶりと、いつも口を開いている感じ___だからといって愚かしく見えるのではなくて、利発で機敏な動きをする表情の小休止というふうだ___との結合を寛大に見過ごす、少なくともニュートラルに受けとめるということがなかなかできなかったのであった。」と書かれるのである。

 この小説は師匠(パトロン)の「宙返り」の小説であるのはいうまでもないが、同時に奇怪な出会いをした育雄と踊り子(ダンサー)の小説でもある。少年育雄の抱いた「プラスチックの構造物」の「翼」で「処女膜を破られた」少女が、魁夷な若者となった育雄に「ヤレ!」と言った小説なのだ。

 とりあえずひとつの謎に挑んでみました。不出来な走り書きの文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年10月7日火曜日

大江健三郎『宙返り』___「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」

 『懐かしい年への手紙』、『燃え上がる緑の木』と続いた「魂のこと」を扱う小説は、『宙返り』でおしまいになる。谷間の森を舞台に繰り広げられた宗教三部作はこれで完結する。それぞれの作品の主人公は、初代ギー兄さん、二代目ギー兄さん、「師匠(パトロン)」と変化し、語り手も「僕」から「サッチャン」、最後の『宙返り』では作者の分身であるかのような画家「木津」の視点で語られるが三人称の小説である。どの作品も「魂のことをあつかう人々」が主人公である。「魂のこと」そのものが真のテーマであるとは必ずしも思えないのだが。


 題名になっている「宙返り」という言葉もしくは行為は、作中でも触れられているように、一七世紀トルコに生まれ、メシアを自称したサバタ・ツヴィのイスラム教への改宗に由来すると思われる。ユダヤ人社会でいわゆる「偽メシア」と呼ばれる人物はツヴィ以外にも何人もいるようだが、その奇行、カリスマ性でツヴィは傑出した存在だった。ツヴィを「救い主」と証し自らを「預言者」と名告ったガザのナタンとの二人組は十七世紀の東アジア、ヨーロッパを熱狂と混乱の渦にまきこんだのである。「死か、さもなくばイスラム教への改宗か」とスルタンに迫られたツヴィはあっさりと改宗したが、『宙返り』に登場する『救い主」と「預言者」は、二人そろってTVカメラの前でそれまでの信仰の全否定のパフォーマンスを行った。そして、この信仰の全否定を「宙返り」という言葉で呼び、「救い主」を「師匠(パトロン)」預言者を「案内者(ガイド)」と言い換えたのはアメリカのメディアであった。

 「宙返り」から十年後師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は再び活動を始める。物語は案内者(ガイド)の死を経て師匠(パトロン)が四国の谷間の森に移住して教会をつくり、そこで焼身自殺を遂げるまでが、主に木津の視点で語られる。この小説は「一年以内にしるしを示す、あるいはしるしとな」った男の歴史である。同時に歴史を書くことになった木津の恋人「よな」と呼ばれる育雄という青年の物語でもある。『宙返り』のもう一つの重要なテーマは旧約聖書の「ヨナ記」にみる神とヨナの対決である。大江健三郎は赦す神という「ヨナ記」の主題を、たぶん意図的にずらせて、神とヨナの対決あるいは神に抗議するヨナに焦点を合わせ、かつて神から「ヤレ」という声を聞き、再びその声を待ち望む育雄とパトロンの物語にしたのだ。

 大江の、とくに中期から後期の作品は、それらの複雑な組み立て方から、「如何に書かれているか」が評論の対象になることが多いように見受けられる。旧作の引用、再解釈、他作品のときには(英語以外の言語による原文での)引用など、文脈を直線的にたどるのが困難をきわめることがしばしばである。(「わかりにくくすること」そのものが大江の方法論の目的ではないかと思っている。)そのため、その複雑で入り組んだ文脈をときほぐすことがまず必要とされるからだろう。だが、作品論は「何を書いたか」をまず第一にあきらかにするべきである。少なくとも私のようなまったくの素人にはそのように思われる。

 『宙返り』は何が書かれているのか。前半は語り手木津と同性の恋人育雄、師匠(パトロン)、師匠(パトロン)のマネージャー役の踊り子(ダンサー)が登場し、偶然と必然のいりまじった出会いが描かれる。木津は師匠(パトロン)に惹かれていく育雄とともにいたい、という思いから、死んだ案内者(ガイド)の後を継いでパトロンの新しい案内者(ガイド)の役割をひきうける。師匠(パトロン)は木津を相手に、また亡くなった案内者(ガイド)の通夜集会で旧信者のグループと報道陣を前にして、説教する。その教義は、「一者」、「光の粒子」など、ギリシャ自然哲学とグノーシスと黙示録などの混在したもののようで、私は、そのように言われればそういう世界もあるのかもしれない、というしかない。師匠(パトロン)が一貫して説くのは、この世の終わりが近いということ、悔い改めが必要だということである。

 後半は舞台がお馴染み四国の谷間の森に移る。二代目ギー兄さんの死後、遺棄されたかたちとなっていた「燃え上がる緑の木」の教会の施設と農場を師匠(パトロン)が「新しい人」の教会を開くために譲り受ける。「新しい人」の教会には師匠(パトロン)を囲んで、「宙返り」後の十年間祈りと悔い改めの信仰を守り続けた「静かな女たち」のグループと、かつて案内者(ガイド)に育てられ、そして案内者(ガイド)を死に追いやった「急進派」の集団がおり、その周囲には教会に施設と農場を譲った二代目ギー兄さんの未亡人サッチャンとその(?)息子ギー、施設を管理してきたアサさん、「燃え上がる緑の木」の伝道の先兵となったがいまは寺に戻った「不識寺の松男さん」など前作の登場人物の姿が見える。なぜか資産の大半を「燃え上がる緑の木」の教会につぎ込んだ片腕の「亀井さん」は登場しないのだけれど。

 なかでも重要なのが、「童子の蛍」という少年グループを率いるギーである。少し乱暴ないい方をすれば、師匠(パトロン)の焼身自殺を成就させた実行犯は育雄と踊り子(ダンサー)であり、なくてはならぬ共犯者となったのがほかならぬギーである。そしてまた、テン窪の大檜を焼き尽くすことを提案し、その準備をしたのはギーの母(?)サッチャンであった。谷間の森を舞台とする宗教三部作は、テン窪大檜の焼失とともに幕を閉じたのである。

 この後大江健三郎は二度と宗教を作品中に登場させることはない。そして谷間の村は大江の分身と目される「長江古義人」に決して親和的でなく、むしろ敵意をあらわにする存在となっていく。


 能力不足と努力不足で整理のつかない文章になってしまいました。この魅力的な作品については、もう少し細部にこだわってみたいことがあるので、また続きを書きたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年8月15日金曜日

大江健三郎『宙返り』___「反キリスト」作家大江健三郎___「宙返り」した悔い改め

 「作家・大江健三郎」は「反キリスト」である。『宙返り』の主人公「師匠(パトロン)」が反キリストだというのではない。『懐かしい年への手紙』から『燃え上がる緑の木』『宙返り』と宗教団体をテーマに小説を書いた作家・大江健三郎が反キリストなのである。そして私はそのことについて必ずしもネガティヴに捉えているのではない。少なくともいまのところは。

 作品としての『宙返り』については、まだ卒読の段階なので詳しく書くことはできない。もっともっと読み込んで作品論を書けるようになってからいうべきなのかもしれない。だが、大江の長編としてはめずらしく三人称で書かれたこの『宙返り』はなかなか複雑で、何通りにも読めてしまうので、解釈の落ち着きを待っていては埒が明かないような気がする。何通りにも読めてしまう、それが作者の狙いであるのだろうが、どんな読み方をしても気になることがある。それを書かないでは先に進めないので、まずはそのことから書いてみたい。

 大江は原水爆についてどう考えているのだろうか。先に『ヒロシマの生命の木』について書いた拙文でも触れたように、原水爆は純然たる経済行為である。爆弾投下は戦闘行為であるとともに、経済行為なのである。爆弾の企画、製作、投下=消費はお金をもってあがなわれる。広島、長崎への原水爆の投下は、莫大な利益を生む経済行為であって、自然災害ではないのだ。一方、『宙返り』のもう一人の主人公ともいうべき「案内人(ガイド)」の父のことばとして、作中次のようなことが語られる。

 軍医という立場上、中国人への直接の残虐行為から免れていた自分は、復員して原爆で潰滅させられた長崎を見た。敬虔なカトリック信者だった妻は赤ん坊を残して殺されていた。
「自分は、これこそが神のおはからい、神の御業だと思う」
「ある場所で罪が行われる。罪に参加しなかった者も、その場所にいたということのみで、同じく罪のある者ではないか?」
「さらにいえば、神が人間に大きい罰をあたえる時、それは罪ある人間、罪のない人間を問わないのではないか?なにより人間であることこそが罰せられるのであるから」

 括弧でくくった三つの文章は、そのままこの小説のもっとも重要なモチーフ「ヨナ書」のテーマであり、「よな」と記される重要人物「育雄」の問いの根本にあるものだと思うが、今は作品論に入ることをさけて、このような文章を書く大江健三郎という作家について考えたい。この三つの文章は先の3・11フクシマの直後、石原慎太郎が「天罰だ」と言ったのとどこが違うのか。共通しているのは「人間であることで罰せられる」という言いまわしである。

 そうではないだろう。いま3・11フクシマはひとまずさておいて、広島、長崎は原爆投下を命じながら、みずからは絶対に安全な場に身を置いて、ぬくぬくと利益(必ずしも経済的利益だけではない)を手中にした人間たちがまず罪に問われるべきである。罰せられるべきである。原水爆というものの存在すら知らなかった大多数の庶民が一方的に残酷に殺されたのに、どうして彼らが「人間であるということ」で罰せられなければならないのか。人間が起した現実の出来事の実相を見ないで、その悲惨を「神のおはからい」といい、「その場所にいたということのみで、同じく罪のある者ではないか?」というのは支配者に都合のいいすり替えである。

 案内者(ガイド)の父は、『人間であることこそが罰せられる」苦しみを生き続けるために生きるのであり、それを介して「悔い改める」ために生きるという。「「悔い改め」は『宙返り』の大きななテーマである。それは黙示録的終末とともに『宙返り』のなかで繰りかえし取り上げられるのだが、いまは作品からいったん離れて考えてみたい。「悔い改め」とはいったいどのようなことか。もっと言えば、何をしたら悔い改めたことになるのか。

 作中の「静かな女たち」のように、俗世間から身を避けて、「祈り」に集中することなのか。「エフェソ人への手紙」を引用して「情欲から身を遠ざけ云々」とあるような禁欲的な生活をすることが「悔い改め」にいたるのか。そもそも、大江の作品にでてくるようなハイ・ブロウな人たちならいざしらず、私を含めた大多数の庶民に「悔い改め」は必要だろうか。「悔い改め」が必要なのは、まず第一に原爆投下にかかわったごく少数の支配者たちであろう。「師匠(パトロン)」と「静かな女たち」の「悔い改め」はまさに「宙返り」している。彼らはまず、空前絶後の悪をなした人間たちを「糾弾」しなければならないのだ。そして、ほんとうに罰せられるべきは誰かをあきらかにしなければならない。

 作品論に入る前にのっけから刺激的な文章になってしまいました。『宙返り』はいままでに読んだ大江の小説の中で、ある意味一番面白く、魅力的な作品だと思います。もう少し熟読して、また書きたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年7月31日木曜日

たとえば薔薇___コクトー、三島、そして大江健三郎

 大江健三郎の『宙返り』を読んでいます。これも手強い。大江の小説では数少ない三人称の叙述であることで、ちょっと勝手が違う感じがする。そもそも、冒頭からして、状況が具体的に絵として描けない。で、ちょっと閑話休題。「薔薇」の話です。

 『燃え上がる緑の木』第二部「揺れ動く」は主人公ギー兄さんの父「総領事」の死を中心に語られる。ハイライトはその葬儀の模様で、篤志家「亀井さん」の資力で完成した礼拝堂で執り行われ、ギー兄さんはここで名実ともに「救い主」としてデヴューする。そのとき礼拝堂をみたしたのは、ニグロスピリチュアルの女声と「薔薇の奇蹟」_薔薇の香りだった。先のギー兄さんの妻だったオセッチャンの連れ子「真木雄」が礼拝堂の裏の湧水の出る場所に香りのもとを入れたのだった。

 おそらく亡くなった総領事が生前彼の身辺の世話をしていた真木雄にそのことを託していたのだろう。死を前にしてイエーツを貪るように読んでいた総領事のなかで、薔薇の香りと霊(スピリット)の本性の結びつきは緊密なものだった。葬儀礼拝の最後に、「やはり淡いものながら、新しく礼拝堂に満ちるようだった」と書かれる薔薇の香りのなかで、ギー兄さんは「《慰めぬしなる霊よ、われらにきたり給え》」と結んだのである。

 でも、なぜ薔薇の香りと霊(スピリット)が結びつくのだろう。私はイエーツの詩を原文でも日本語訳でも読んだことがなく、読んでも詩人の感性を理解できないかもしれない。西洋の神秘思想の源流の一つに一七世紀初めに突然出現して忽然と姿を消した「薔薇十字社」という秘密結社がある。イエーツは「黄金の夜明け団」という秘密結社に参加していたから、「薔薇十字社」の神秘思想の流れをくむものだった可能性はある。ヨーロッパの美術、文学における「薔薇」は特別な意味があるようだ。

 
 以前サリンジャーの「対エスキモー戦争前夜」でとりあげたコクトーの「美女と野獣」という映画のなかでも薔薇は重要な記号である。事の発端は美女ベルが、父親にお土産として薔薇の花を一輪所望したことなのだ。貿易商の父親は、あてにしていた荷が入らなくて一文無しになり、深夜迷い込んだ館の薔薇を手折おうとして、館の主の野獣に見つかってしまう。激怒した野獣の命令に従い、父親の身代わりになってベルは館に赴くのだ。そして最後に、王子の姿に戻った野獣はベルに二人のなかは「薔薇がとりもつ縁」だと言う。

 コクトーの映画の影響でもないだろうが、戦後一時期薔薇が流行ったことがあった。「薔薇」とかいて「しょうび」と読ませた雑誌があったような記憶がある。澁澤龍彦という作家が関係していたような気がするがたしかではない。たしかなのは三島由紀夫の薔薇への傾倒である。いまは稀観本となってしまった写真集『薔薇刑』はあまりにも有名だ。私は写真を見るのは好きだが、「解釈」しなければならない写真は苦手なので、高額な対価を払って『薔薇刑』を入手しようとは思わない。ネットで見られる限りの写真についての感想は、特にない。薔薇は何色なのだろう、白黒の写真だからよくわからないなあ、たぶん赤だろうが、写真では黒に見えて、黒だったら、ちょっとすてきだなあ、とか、ミーハー度満開の思いにひたったりしている。なかでひとつ、う~ん、という写真があって、それについてだけはつい「解釈」してしまいそうになる。「エノラ・ゲイ」ってこのこと?など。

 ちょっときわどい話になりそうなので、最後にウィキペディアでちゃんと調べた知識をひとつ。セオドア、フランクリンと二人の大統領をだしたルーズヴェルトという苗字はRoosevelt(ローズヴェルトともいう)で、「薔薇の畑」という意味だそうである。アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは野球が好きで、それにちなんで「ルーズヴェルト・ゲーム」というゲームもあるそうですね。そういえば、『ナイン・ストーリーズ』の中心に位置する「笑い男」では、「団長」の恋人の美女メアリ・ハドソンも毛皮のコートを身にまとい、はじめて握るバットをもって颯爽と登場、二塁打をかっとばしました。

 なんて余計な話です。

脈絡もなく思いつきの乱筆乱文を今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いまからまた、『宙返り』に戻ります。

2014年7月23日水曜日

大江健三郎『燃え上がる緑の木』__『懐かしい年への手紙』との断絶

 もう1ヶ月以上もしかしたら2ヶ月にわたって『燃え上がる緑の木』について考えている。何を書こうか?というより大江健三郎は「何を書いたのか?」ということが掴めないのだ。

 こういう言い方も正確ではないかもしれない。作品を一通り読めば、ひとつの宗教的共同体の成立と崩壊の過程がドラマチックな演出のもとに十分に描かれている。問題は、その過程があまりにも定石通りで、作者の構想は完璧に作品化されているけれど、ひとつひとつのプロットあるいは登場人物が作者の構想を実現するための駒でしかないような感じがすることだ。作品の均衡を打ち破って動き出すようなプロットや魅力的な人物が見当たらないのである。

 「救い主」に祀り上げられ、その役割をみずから引き受けながら、教団=宗教共同体から逃げ出す主人公「ギー兄さん」、その父親でイエーツを読んで死んでいく「総領事」、作者の分身K伯父さん、K伯父さんの旧友の遺児でマルチの才能をもち、教会音楽をリードするザッカリー、ギー兄さんの義母で熱心な信者となる「弓子さん」、総領事の友人で世界を駆け巡る音楽家でありながらギー兄さんの言葉を忠実に記録する「泉さん」、ギー兄さんを迫害するが後に回心して私財を投げうち教会を支える「亀井さん」、外部から教団を支援する地元ホテルの支配人「胡さん」(実は香港独立運動にかかわっている)、先のギー兄さんを裏切るかたちとなったが、今回は教団の公平なかじとりをする「徳田医師」、大学を停学して中途から教団に参加し、農場経営に携わって教団の主導権を握る「愛、育、英の伊能三兄弟」、最後までギー兄さんにつきしたがう「ター」、東京の若者向け雑誌編集者だった「ミツちゃん」、ギー兄さんを純粋に慕う知的障害の少年「ジン」、死の恐怖とその超克についてギー兄さんに問う脳腫瘍の少年「カジ」、ギー兄さんに心臓病を治してもらった「登君」とその母親、同じくーギー兄さんに眼を治してもらい、登君の母親とともに巡礼団を組織して旅立つ禅宗の僧侶「松男さん」・・・・様々な人物がその役割を担って登場する。いずれも個性的ではあるが、いかにもその通り、と妙に納得してしまう描かれ方なのだ。

 魅力的な人物がいないことが作品をわかりにくしているわけでは、もちろんない。問題は、そうやって、いってみれば類型的な人物を配置して組み立てられた「物語」が『懐かしい年への手紙』を発展、完成させたように見えながら、じつは、大きな亀裂、断絶を生じていることである。断絶の第一は、「『懐かしい年への手紙』では存在の片鱗すらもみせなかった「オーバー」が物語の冒頭に「屋敷」の家長として登場することである。『懐かしい年への手紙』では、先のギー兄さんが、複雑な家庭の事情ながら、若くして莫大な資産を相続し、「屋敷」の家長となる。そして、父の「おてかけさん」だったセイサンと関係をもつのだが、その娘のオセッチャンを妻にする。であれば、先のギー兄さんが死ねば、「屋敷」の財産は、妻のオセッチャンが相続の権利をもつのが当然ではないか。しかも、作品の末尾でオセッチャンはギー兄さんの子を孕んでいるようにほのめかされている。ところが、『燃え上がる緑の木』に登場するオセッチャンは、オーバーのたんなる使用人のあつかいである。

 オーバーの登場は、その人物が「新しいギー兄さん」を指名して、彼に土地の「魂」を承継させるという「神話」を語るためだったのだろう。先のギー兄さんの「魂のこと」が、ダンテの神曲をめぐる形而上学的かつ個人的なものだったのにたいして、オーバーが(新しい)ギー兄さんに教え込んだそれは、徹底して民俗学的な口誦による共同体全体のものだった。ギー兄さんは、というより『燃え上がる緑の木』という作品は「魂のこと」へ、まずは土着的、民俗学的なアプローチを試みたのである。  

 ギー兄さんが魂のことへ土着的なアプローチを試みたから、というより、オーバーの葬儀の際の偶然的な出来事が彼を特別な存在に祀り上げた。オーバーの遺体を焼く煙を潜りぬけた鷹が野鼠を掌に載せていたギー兄さんを襲撃したのである。(実は棺にオーバーの遺体は入っていなかったのだが。)オーバーがもっていたという「治癒能力(ヒーリングパワー)」が、鷹の一撃を通じてギー兄さんに受け継がれたのだ、という信仰が共同体の中でひろまった。それはおそらく、共同体の側に、そうあってほしいという欲求があって、タイミングよく鷹の襲撃があったのだろう。「奇跡」と呼ばれる出来事の成立にはこのような機微がかかわることが多いのではないか。

 ともあれ、こうしてギー兄さんは「癒す人」として信仰の対象となった。それが「救い主」へ変化していくのは、皮肉なことに、その「治癒能力」が否定される事件が起きたからである。ギー兄さんを慕っていたカジが死んだこと、オーバーの遺体が掘り起こされテン窪に浮かんだことで、ギー兄さんに反感をもつ共同体の人間が集会を開き、彼を吊るし上げ、殴った。そしてそれを手引きしたのが、作者の分身と思われるK伯父さんの妹「アサさん」とこの小説の語り手である両性具有!の「私=サッチャン」だった。

 『懐かしい年への手紙』との断絶のひとつに、この「アサさん」なる人物像がある。『同時代ゲーム』の「妹」は、語り手「僕」の近親相姦の対象であり、性的魅力を振りまく存在だった。『懐かしい年への手紙』では、お行儀はよくなったが、生き生きと活発な村娘だった。ところが、この小説の「アサさん」は、筋金入りの日教組の組合員で出世が遅れたという中学校の「校長の奥さん」である。なおかつ「遺言で託された」ために理屈はともかく化石のような「マルクス・レーニン主義者」なのだ。物語の最後、ギー兄さんを殺したセクトの残党五人組を「なかなかの人物揃い」と評価して救援活動を始めたというほどの。黄色いスバルを駆使して谷間と在を動き回り、徹底して実際的な立場から物語の交通整理をする彼女には、性的魅力のかけらもない。

 性的(魅力があるかどうかは判断に悩むところだが)存在という点では、「サッチャン」は性的存在そのもである。両性具有なのだから。神話の世界では両性具有は神の特性なのだろうが、この小説でサッチャンという両性具有の存在は、アサさんと共謀してギー兄さんが殴られるように仕向けた。そして殴られたギー兄さんと性行為をして、彼を「救い主」として受けいれた人間なのである。

 大江健三郎は、巧妙にもこの小説では自らを「K伯父さん」と呼んで語り手の役から降り、代わりに、「サッチャン」というオトコオンナからオンナオトコに「転換」した両性具有という名の「半陰陽」の若者に「このようなことがあったと言いはる」ように書くことを勧める、と記すのだ。この作品のわからなさの根本はここにあるのだろう。『燃え上がる緑の木』という定石通りの教団興亡史は、そのまま両性具有の「サッチャン」の自分史なのだ。「転換」したサッチャンは、「性の三位一体」を夢見るギー兄さんと結ばれ、そのことによって「転換」に意味をあたえた、と「言いはる」。「救い主」を支えるために「転換」して待機していたのだ、と。こう「言いはる」サッチャンの論理を、言葉の上でなく、実感として理解することは、少なくともいまの私にはできない。

 作品の後半は、イエーツだけでなく、アウグスチヌスやシモーヌ・ヴェーユを引用して「魂の暗夜」に迫ろうという筆遣いである。シモーヌ・ヴェーユは私も一時期読んだことがあって(もちろん翻訳)、フランス語がまったくわからないのが残念だった。この作品が発表された九〇年代前半はヴェーユが読まれた時期だったのだ、となつかしく思う。ヴェーユ自身は第二次大戦中にハンガーストライキをして死んだ人だったが、何故かこの時期日本でもよく読まれた。研ぎ澄まされた感性が記す独特の哲学的断片が人を惹きつけるのだが、生活者としてこの世に根を下ろすことができなかった人だった。そのことはまた、この作品がバブル崩壊後の日本の経済情勢に触れながら、驚くほど生活に楽観的であるのと無関係ではないだろう。もう確実に峠を越して、山を下り始めているのに、まだ「魂のこと」に集中する集団を描くことができた時期だった。Rejoice!と結ぶことが可能な時代だったのだ。


 もっと丁寧に作品に寄りそいながら書かなければいけないのですが、どうしても集中しきれませんでした。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年5月28日水曜日

大江健三郎『懐かしい年への手紙』___Kちゃんによる福音書あるいは黙示録___神話の世俗化と世俗の神話化

 この難解な作品については、文庫本の出版にあたり作者自身が「著者から読者へ__『ギー兄さん』」と題してあとがきをつけ、さらに小森陽一氏のゆきとどいた解説が書かれている。いまさら私が言うことなどあろうか、という思いもするのだが、せっかく一ヶ月以上もダンテだイエーツだマタイ伝だと悪戦苦闘したので、気がついたことを少しだけ書いてみたい。

 最初に『懐かしい年への手紙』という表題について。
「懐かしい年」とは何か。作者みずから作中「循環する時」の意に用いていると書いてあり、それがまず第一義なのだろうが、解説の小森氏は「年」をトポスとしてとらえている。ほぼそれで遺漏はないのだろうが、もう少しささいなことにこだわってみたい。「懐かしい」は解説の小森氏も指摘するように、『同時代ゲーム』の「壊す人」の「壊す」に通じるとされており、「懐かしい年」は「壊す年」あるいは(小森氏は「壊れる年」と表記されているが)「壊される年」でもある。始めもなく終わりもない円環構造の中で、それまでの世界が「壊される」特定の期間__それが「懐かしい年」なのではないか。

 次に「ギー兄さん」とは何か。
これも作者みずから前述文庫版の「ギー兄さん」と題したあとがきの中で、架空の人物であり、現実に出会った多くの人格の合成になる理想像であると書いている。そのとおりなのだろう。だがそれだけではないと思う。そもそもギー兄さんはいわゆる「人格者」として描かれてはいない。年若くしてデタラメと開き直って「家業?」の「千里眼」をやり、同居する母と子の両方と関係をもつばかりか、かつての恋人とその友人に卑劣極まりない性的屈辱を与える。Kちゃんに対してはよき教師であり的を射た批評家であったが、真に彼の自立を促すものであったのかという点では疑問の余地もある。「ギー兄さん」とは何か。そしてギー兄さんとKちゃん_「僕」との関係はいったい何なのか。

 ギー兄さんと僕の関係を端的にあらわす表現がこの小説のはじめの部分に出てくる。敗戦の年十歳になったばかりの「僕」がギー兄さんの自習の相手(これも不思議な関係だが)に選ばれて、はじめてギー兄さんの「屋敷」に行ったときのことである。
「僕はギー兄さんが勉強をする自習相手に選ばれて、村一番の資産家の、固有名詞のように屋敷と呼ばれている住居に出頭したところだったのである」(下線は筆者)
「出頭」とはこのような場合に使う表現だろうか。しかも「僕」は、母親が借りてくれた従兄の革靴を途中で脱いで橋のたもとにかくし、はだしで屋敷の土間に立ち、その後金盥で足を洗ったのである。はだしで「出頭」し、水で足を洗う___この行為の意味するものは何か。たんに泥で汚れたから足を洗った、ということではなく、ある種の宗教的象徴的行為なのではないか。だとすれば、この小説は「ギー兄さん」という「架空の人物」(?)の軌跡を記す福音書として読むことができるのではないだろうか。

 「その秋、僕が生まれ育った森のなかの、谷間の村で暮している妹から電話があった」とはじまる物語の最初の部分にギー兄さんからの手紙が二通記されている。その二通目、こちらのほうが時期的には早く書かれたものだが、書き出しはこうなっている。
《「無花果の樹よりの譬えを学べ、その枝すでに柔らかくなりて葉芽めば、夏の近きを知る」聖書のこの一句に、自分が深くひきつけられたことをいいたいと思う。・・・・・」
美しい夏の訪れにこころをはずませる文章のように見えるが、実はそれだけではない。いやむしろ、そのような日常的な感覚から異次元の世界への飛躍の契機として「無花果の樹」を想起しているのだ。

 この「無花果の樹の教え」は、ギー兄さんの手紙にもあるように、マタイ伝24章32節に挿入されたイエスの言葉である。32節以前にはエルサレム神殿の崩壊と世の終わりのさまが具体的に示され、選ばれた人達が苦難のあとイエスの再臨を迎えることが述べられている。新共同訳聖書では以下のように書かれている。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」枝が柔らかくなり、葉が伸びて夏が近づくということは季節の到来を告げるのではなく、イエスの再臨に先立つ世の終わりを意味するのである。

 さらに、ギー兄さんはプラトンの「パイドロス」をひいて、樹木の枝が柔らかくなるとその部分ガムズガユクなって翼が生えてくる様子に感情移入するという。私には「枝が柔らかくなる」という感覚もしくは状況が(ことばとしてはわかるような気がするが)わからないし、樹木の枝が翼になるというシュールな感覚はもっとわからない。これらは神話の世界の出来事のように思われる。森の魔力の磁場のなかで生まれ・育ち「このように美しい少年がいるのかと思った」と描写される「ギー兄さん」と呼ばれる存在は、一部の評者がいうような作者の分身などではなく、神話の世界の人物なのではないだろうか。

 作品中いたるところにちりばめられる死と再生のモチーフ(冒頭、四国の郷里にむかう旅のはじめに、ヒカリが癲癇の発作を起して「大きい公衆便所のようにも見える地下道に、釈迦の涅槃図のような恰好で倒れていた」と書かれているのも小説全体のテーマであり最後のギー兄さんの運命の暗示であろう)、実体を持った存在として語られる魂の問題、生殖機能を失うギー兄さん=去勢の暗示、など、この小説は神話を世俗的に語ったのではないか。あるいは世俗的な現実を神話化したのか。

 神話の完成はいうまでもなくギー兄さん=森の神の死である。「煉獄のモデル」をつくり「魂の浄化」をするために、自らの私有地である「テン窪」を堰きとめて人造湖をつくろうとしたギー兄さんは殺された。堰きとめられつつあるテン窪という湿地帯が、「壊す人」の事跡の始原にあったような黒い水をたたえ、くさい臭いをたてはじめて、下流の人々がその堰堤の決壊を怖れたからである。

 だがギー兄さんはたんなる被害者ではない。みずから夢のなかの話として、人造湖となったテン窪に小舟を浮かべ、自分が合図して堰堤を爆破させる、そして真黒い水ともども、自分が鉄砲水になって突き出す。その黒々としてまっすぐな線が自分の生涯の実体であり、世界中のあらゆる人々への批評なのだ、と語っている。現実に「僕」の妹は「ステッキをついて工事現場で陣頭指揮するギー兄さんは、正直いえば狂信者めいてきてね」と悪魔的な破壊者の様相を呈するギー兄さんの姿を客観的に描写する。もはや、「隠遁者ギー」の面影はない。ギー兄さんは、頭蓋骨に重傷を負うことになる安保デモのときにも、ステッキならぬ雨傘をふりかざして大立ち回りをしたのだったが。

 さて、話は戻るが、この小説は神話を世俗化したのか、あるいは世俗的な現実を神話化したのだろうか。その両者の幸福な(?)一致が宗教だろうか。そしてこれは、Kちゃんによるギー兄さんの福音書なのか、それとも、「懐かしい年_壊される年」への手紙という黙示録なのか。ギー兄さんの堰堤工事を弾劾して谷間と在のいたるところに貼りめぐらされたビラの黒い水人殺しという文字は無気味である。作品発表当時は思いもよらなかった出来事が起こってしまったいまとなっては。

 この小説については、「ギー」という音(隠遁者ギーとギー兄さんの(実名の)音の共通性ということばが冒頭に出てくる)、固有名詞で語られる作中人物の容姿の描写など、考えなければならない問題を多く含むが、解決にいたるまでまだ長い道のりがあると思う。

 この作品にくらべれば『同時代ゲーム』はずっとわかりやすかった、と思えてきました。あくまで、「くらべれば」ですが。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年5月7日水曜日

深沢七郎『風流夢譚』___「時計仕掛け」の革命夢譚

 いま大江健三郎の『懐かしい年への手紙』を読んでいる。錯綜した時系列の要所々々にダンテの「神曲」、イエーツの詩、新旧約の聖書などが原文または文語訳、ときにはラテン語などでかなりの分量が引用され、西洋文学にたいして通り一遍の知識と教養しかない、もしくはそれすらも覚束ない私は悪戦苦闘を強いられている。それでも大半は、(当たり前だが)日本語で書かれている。日本語および日本文学の読者として、この作品を読み進めるにあたって、どうしても看過できない、というほど大げさでもないかもしれないが、喉に突き刺さった骨のような感触を覚える部分があるので、それについて書いてみたい。

 ひとつは主人公ギー兄さんが淡い思いをよせた女優のSさんを懐古してくちずさむ「のうさてな、逢ひ見ての後の心にくらぶれば、かほど物をば思はじものを、昔恋ひしやな、今の身や」という古歌とも謡ともつかぬ語句である(下線は筆者)。作中妻のオユーサンが指摘するように百人一首にある権中納言敦忠の歌から引用しているのだが、原歌は「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」(下線は筆者)である。ここは打ち消しの助動詞「ず」(この場合は連用形「ざり」)しか使えない。「思はじ」の「じ」は否定の意志、推量の助動詞「じ」(この場合は連体形「じ」)なのだが、それでは前の句と意味が繋がらない。日本語として意味が成り立たないのである。「のうさてな・・・・」は何度も繰り返されるので、その部分を読むたびに意識は混乱してそこでたちどまってしまう。

  もうひとつは、こちらが本題なのだが、自作『セヴンティーン』を発表し右翼から攻撃されたことに関連して、深沢七郎の『風流夢譚』に言及した箇所である。ほぼ時期を同じくして発表された『風流夢譚』について大江健三郎は「天皇家をめぐり、土着的な独自のグロテスク趣味に、強い風刺性をないまぜたこの小説」と総括している。?「土着的な独自のグロテスク趣味」とはあまりに皮相なもっといえば浅薄な見方ではないか。深沢はその独特な石和弁とおよそ作家らしからぬ日本語の使い方からそのように誤解されるかもしれないが、きわめて都会的、理知的な作家である。『風流夢譚』のグロテスク趣味とは何を指していうのか。私には大江健三郎の情愛を伴わない性描写の方がよほどグロテスクに感じられる。もっとも、「グロテスク」は非難の言葉ではないのだが。

 前回のブログでも述べたように、『風流夢譚』は堅固な構成の作品である。前回は「私は誰でしょう?」と語り手に焦点を当てて考察してみたが、今回は作品の枠組みをつくる「時間」について考えてみたい。冒頭「あの晩の夢判断をするには、私の持っている腕時計と私との妙な因果関係を分析しなければならないだろう」と書かれているが、この小説には二つの時計が重要な役割を果たすのだ。一つは「アメリカ婦人」のものだったのを「私」が友人から買った腕時計であり、もう一つは同居している甥の「ミツヒト」が家に置いてある「高級なウエストミンスターの大型時計」である。「アメリカ婦人」のものだった腕時計は「私」が腕からはずして寝ると止まって、朝起きて腕につけると動きだすのだが、「ウエストミンスターの置時計」はつねに正確な時を刻む。「私」は二つのタイム・スケジュールにのっとって生きているのである。

 日中活動しているときは「アメリカ婦人」のものだった腕時計の時間が流れるが、眠っているときは腕時計は止まっている。一方「ウエストミンスター」の置時計は休むことなく動いていて、厳然として流れは止まることがない。ただ「あの晩」の午前1時50分から2時の10分間だけは「私」の腕時計も動いていて、「私」は革命の夢を見た。グロテスクな描写などどこを探してもなく、あっけらかんと、それこそ大江のいう「祝祭としての革命」の夢である。夢の中味を詳しく吟味することは次の機会に譲って、いまは、この夢が二つの時間の流れが一致した僅か10分間に見られたものだった、ということを指摘しておきたい。アメリカの時計とイギリスの時計が重なって動いた10分間。そして夢の中で繰り返し出現する「イギリス製」の皇族の衣裳。それは偶然の一致だろうか。

 ほんとうは『懐かしい年への手紙』に集中すべきなのですが、大江の『風流夢譚』へのあまりにおざなりな評価の仕方に一言いいたくなって寄り道してしまいました。大江健三郎という作家が日本語および日本文学に対してどのような姿勢をとっているのか、についてはもっと時間をかけて考え続けなくてはいけないように思います。

 今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年4月14日月曜日

三島由紀夫『宴の後』____シンデレラボーイにされた政治家

 功成り遂げた美貌の料亭女将が硬骨かつ高潔な老政治家に恋をして、彼の選挙のために情熱と知略と全財産をささげて戦い、破局をむかえる。言ってみればそれだけの小説で、よくできてはいるがどこに文学的興味を覚えればいいのか、との趣もある。この小説が有名になったのは、いまはごく普通の日本語となった感のある「プライヴァシー」の侵害という件で作者の三島由紀夫と小説を出版した新潮社がモデルとなった政治家有田八郎に提訴されたからである。

 政財界の要人が利用する高級料亭雪後庵の女将福沢かづは客として店で出会った元大使の野口雄賢に惹かれる。寡黙で朴訥でありながら事に当たって迅速な行動力を見せた野口は、過去を懐かしむだけの他の客と際立って異なっていた。妻を亡くして独り身を通していた野口とかづはどこか不器用ながらやがて結ばれ、正式に結婚する。

 結婚は天涯孤独で運命を切り開いてきたかづに「野口家の墓に入れる!」という安心感をもたらしたが、雪後庵の客は少しずつ減り始めた。雪後庵の客は保守党の要人で、野口は革新党の政治家だったからである。そのような状況で野口に都知事選立候補の要請があった。料亭経営に以前ほど熱情を傾けられなくなっていたかづは、野口の背中を押してこの要請を受けさせ、みずから主導権をとって動き始める。違反すれすれのなりふり構わぬ選挙運動もしたが、最後に相手陣営がかづの過去をスキャンダラスに暴露した文書を撒いたこともあって野口は敗れる。かづもありったけの金を使ったが、最後は保守党の金が勝ったのだ。

 落選した野口は陶淵明の「帰去来辞」のような生活を望むが、かづはそこにおさまることができる人間ではなかった。選挙戦のさなかにいったん閉めた雪後庵を再開しようと保守党のかつての顧客に奉加帳を廻したかづに野口は激怒し、二人は離婚する。物語の最後は、選挙参謀でかづのよきパートナーだった山崎という男が、雪後庵再開の招待状への返信としてしたためた手紙で締めくくられている。

 以上のあらすじは概ね事実に基づいていると思われる。もとより小説はフィクションなので、事実そのままでなくても訴えられることはない。だから原告の有田氏も「プライヴァシーの侵害」という抽象的な理由で提訴せざるを得なかった。だが、もう少し詳しく事実と小説の関係を見ていきたい。問題としたいのは、まず、有田氏と妻となった「かづ」こと畔上輝井の結婚生活についてである。

 小説の中ではかづは野口と知り合ってまもなく都知事選を迎えたように書かれている。だが、畔上輝井と有田八郎は大戦中の一九四四年に事実上の夫婦(入籍は一九五三年)となり、戦後はじめての衆議院議員選挙で有田は新潟一区から出馬し最高得票で当選している。その後一九五五年二回目の衆議院選挙で落選し、直後都知事選に立候補するがこれも落選、『宴の後』で書かれた選挙戦はその後一九五九年に再び行われた都知事選のものである。つまり有田氏と畔上輝井との結婚生活は少なくとも一五年は続いたのである。「紅の豚」のジーナではないが、「(この国では)人生はもうちょっと複雑なの」ではないか。

 また元大使の野口が学者肌で理想主義的な政治家として描かれていることも微妙な問題を孕んでいると思う。実際の政治家有田八郎はチャイナスクールと呼ばれるアジア通で、近衛、平沼、米内の三代の内閣で外務大臣を務め、日独伊防共協定を締結した人物である。終戦直前に天皇に上奏文を書いたことでも知られ、豪胆かつ実務的な政治家のように思われる。小説の中で、彼を潔癖で清貧の人として描くのは間違っているとはいえないが、政治家として有能な側面をないがしろにしている感が否めない。そのあたりが有田氏を提訴に踏み切らせた真の動機ではないだろうか。

 妻となった畔上輝井という人については資料がほとんど見当たらない。有田氏と知り合ったときすでに高級料亭「般若苑」の女将だったことは事実だが、その後三田に「桂」という料亭を出し有田氏の生活を支えた、といわれる。「桂」という店名は有田氏の実父山本桂の「桂」にちなんだかとも思われ、資金の出所が畔上輝井の側だけだったのかどうか疑問である。また「般若苑」についても、畔上輝井が実際に取得したのは一九四九年だったので、それまで所有していたのは誰だったのだろう。不思議なのは、小説の中でも実際にも、「超」がつくほどの高級料亭を女手ひとつでどうしたら手に入れることができたのだろうか、ということである。(つい最近高名な実業家が般若苑の跡地(もしくはその一部)を買って白亜の宮殿風建物を建てたということで話題になった)小説の中では、野口がかづに貢がれたシンデレラボーイとして描かれているが、普通に考えれば、まずシンデレラが畔上輝井だろう。

 三田の「桂」という料亭は、戦後まもなく起きた「辻嘉六事件」の舞台となった何やらきな臭い匂いもする場所である。『宴の後』裁判は案外奥の深いものだったのかもしれない。そもそもこの小説は激動の昭和三五年雑誌「中央公論」に連載されながら中央公論社から単行本として出版されず、新潮社から出たのである。作者三島がそれほどにもこだわって出版したのは何故なのだろう。ここに描かれる政治および政治家の姿はむしろ類型的で、一般読者の通念におもねっているようにも思われ、文学作品として心血を注ぎきったものとまではみえないのだが。

 ともあれ六〇年安保を境に日本の革新勢力とその運動は転換期を迎え、有田氏個人の政治生命は完全に終息したのである。

 書かなければ、と思いながらなかなか進まず、散漫な文章になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月19日水曜日

三島由紀夫『金閣寺』___「父」と「子」そして「母」の「家庭小説」___「非政治」という政治性

 水上勉の『金閣炎上』を読んでふたたび『金閣寺』を考えている。学者でも評論家でもなく小説読みビギナーとして、まず思うことは、なぜ三島由紀夫はこのように実像とかけはなれた人物を描きだしたのか、ということである。三島の『金閣寺』に登場する主人公「私」(溝口)、母、そして金閣和尚の道詮の人間像は水上勉『金閣炎上』の林養賢、母の志満子、慈海和尚とあまりにも異なっている。とくに林養賢と母の志満子は、『金閣寺』の中ではひたすら醜く、母の志満子は作中固有名詞すらあたえられず、養賢(「私」)は偏執的精神異常者の外貌をもつ。彼ら母子の人格の復権は、水上勉が『金閣炎上』を著わすまで二十年待たなければならなかった。三島が同じようなモデル小説『宴のあと』を書いたときは、モデルとされた有田八郎氏が社会的地位も高く、経済的にも知的にも充分な能力があったため、世に言う「プライバシー裁判」を起された。だが、『金閣寺』のモデルとなった林母子はなんら社会的地位のない庶民で、作品が世に出たときにはすでに死んでおり、遺族もまたもう事件に触れてほしくないという判断だったのだろう。死人に口なし、である。

 醜く狷介不羈で自尊心の塊りに描かれた主人公「私」(溝口)はいうまでもなく作者三島の自画像だろう。同じく障碍を負いながらそれを逆手にとって道徳的反逆者を標榜する柏木、この二人と正反対で悪意ということを知らないアポロンのような青年として登場し、あっけなく自殺してしまう鶴川、これらも同様に三島の自画像だと思われる。私見では、『金閣寺』には主人公「私」と、「母」、そして道詮老師の三人しか登場しない。冒頭登場して恋人に撃ち殺される有為子は女=母の象徴である。柏木に捨てられる美しい女たちは生き残った有為子だ。最後に「私」を性の世界にみちびくまり子は、反転した「母」だと思われる。そして道詮老師は、あっけなく死んでしまった「私」の「父」に代わる『父』であり、富と権力をほしいままにする存在である。要するにこの小説は、「父」と「母」と「子」の三者が複雑にからみあう「家庭小説」なのではないか。だとすれば、ここにあるのはどす黒い近親憎悪だろう。

 いまその近親憎悪の様相を精緻に分析するつもりはない。問題にしたいのは、「父」「母」「子」という三者に介入してくる他者の不在ということである。「家庭小説」の中に「社会」がないのだ。金閣放火はあくまでも「私」と『父』道詮老師の関係の破綻を契機に、「私」が生きるために行われる。

 「私」と老師の関係が緊張を余儀なくされるのは、進駐軍兵士の子を孕んだ娼婦の腹を「私」が踏んで女を流産させた出来事が契機となる。ここになんらかの政治的寓意をうけとることも可能かもしれないが、このエピソードから読み取るべきは、女の腹を踏むよう米兵に強制された「私」が、その行為にひそかな快感を覚え、それに気づきながら知らないふりをした老師のなかに「私」が自分と同質のものが存在するのをさとった、ということである。「私」は隠微な背徳の喜び老師と共有したと感じたのだ。「老師は、私の感じた中核、その甘美さの中核を知っていた!」

 関係が決定的に破綻にいたるのは、「私」が偶然に、あるいは物語的には必然に、和尚が女連れでハイヤーに乗り込むのを見てしまった事件から始まる。雑踏のなかをひとりで歩いていた「私」は芸妓と連れ立って歩いていた老師を見つけ、とっさに自分が見られたことを危惧した。だが、なぜかぼろぼろの風体をした黒い尨犬のあとを追ううちに再び老師と出会ってしまう。動顚した「私」は、発すべき言葉を出せないままに、和尚に向かって笑いかけてしまう。そして老師は「馬鹿者!わしをつける気か」と叱咤したのである。

 この事件の後、「私」はあの日の出会いがなかったかのような老師の無言に耐えられなくなっていく。ついに「私」は老師の連れていた芸妓の写真を買い、それを新聞の間に挟んで老師に届ける。脅迫ともみえる行為をなした「私」の心理を作者はこう説明している。
 「自室に坐って、学校へ行くまでのその間、鼓動のいよいよ高まるのに任せながら、私はこうまで希望を以て何事かを待ったことはない。老師の憎しみを期待してやった仕業であるのに、私の心は人間と人間とが理解し合う劇的な熱情に溢れた場面をさえ夢みていた。」

 当然のことながらこんな空想は実現するはずはなかった。老師は女の写真を紙に包み「私」が学校に行っている間に「私」の机の抽斗に入れておいたのである。写真は「私」から老師へ、老師から「私」へ、ひそかに届けられ、同じようにひそかに返還された。そして、老師が人目を忍ぶ行為を余儀なくされ、そのことが「私」への憎しみを産んだ、という思いは「私」のなかで「得体のしれない喜び」となった。「私」と老師は憎しみを媒介に結ばれたのである。

 この結びつきは老師の一方的な決別宣言で崩壊する。老師は「私」を金閣の後継にする意志がない、と言い渡したのである。その返答として「私」はまたしても別事を言う。老師が「私」のことを隈なく知るように、「私」も老師を知っている、と言ったのである。それは表面的にはハイヤーに女と一緒に乗り込んだことを指すが、より深層の次元では背徳の喜びを共有していることを示唆している。それに対する老師の答えは、「私」が老師を知っている、ということを否定するものではなく、知っていても何の益にもならぬ、というものだった。老師は現世のすべてを見捨てているのだった。背徳の喜びまでも。___「私」は出奔を考えた。自分のまわりにただよう「血色のよい温かみのある屍」の漂わす「無力」から遠ざかりたかったのだ。「無力」ではないが、「凡ての無力の根源である」金閣からも。

 柏木に旅費を用立ててもらった「私」は海に向かった。「西舞鶴」で列車を降り、河口沿いを歩いて荒涼とした晩秋の由良の浜に着いたのだった。そしてそれは「正しく裏日本の海だった!私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力の源泉だった。」と書かれる。海は「私」に親密だった。私は自足し、何ものにも脅かされず、ひとつの想念につつまれた。『金閣を焼かねばならぬ』

 想念を現実の行動に移すにはもうひとつの力がはたらかねばならない。「私」は逗留先の宿の女将に警察に不審者として通報されたことから居所が知れ、再び金閣に戻ったが、寺の門前に待っていたのは母だった。その母の醜く歪んだ顔を見下ろして、「私」は母から解放されたと感じる。

 「・・・・・・しかし今、母が母性的な悲嘆におそらくは半ば身を沈めているのを見ながら、突然私は自由になったと感じた。何故であるかは知れない。母がもう決して私を脅かすことはできないと感じたのである。」

 「私」を脅かしていたのは母だった、と書かれていることは興味深い。醜い母、どこまでも醜さが強調される母、その醜さの根源にあるものが「希望」だと書かれていることも。

 「湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。」

 身をもち直すよう哀願する母の姿が、「私」の絆しを断ち切って、想念を現実の行動へと踏み出させたのである。

 この後「私」が束ねた藁に燐寸の火をつけ金閣を焼くにいたるまで、じつはかなり複雑な心理のあやが、とくに老師との間の微妙なそれが語られるのだが、長くなるのでいまはその部分を割愛したい。だが、放火決行の直前にたまたま金閣を訪れた生前の父の友であり、老師の友でもある禅海という禅僧との「私」の会話について、書いておきたい。禅海和尚は老師と正反対ともいえる豪放磊落、直情の人として描かれる。「私」は和尚に酌をしながら、自分がどう見えるかを問う。善良で平凡な学僧に見えるという和尚に、「私」は「私を見抜いて下さい」と言う。そして和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と判断を下す。この言葉が「私」を走りださせたのである。

 「私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。」

 この最後の会話の部分は謎である。「私」と老師=『父』との葛藤に結末をつける行為に向けて、最後に背中を押した会話は禅問答のようである。「禅海」和尚もまた『父』なのか。

 そして最後、闇のなかに絢爛と輝く金閣を観照し、「私」は「弱法師」の俊徳丸の日想観を思う。ここにもまた、「父」と「子」がある。

 駆け足で、粗雑に筋書きを追った文章になってしまいました。ほんとうは、『金閣炎上』にある「東山工作」をまったく取り上げないこと、敗戦の日に道詮和尚が「南泉斬猫」の講話をしたことなど、三島がこの作品から「政治」「社会」を徹底的に遠ざけたことについて、もっと書きたかったのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。「政治」を遠ざけるということ、そのことが完全に政治なのですが。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2014年3月11日火曜日

水上勉『金閣炎上』___信仰と宗教

 
 敗戦を郷里の成生でむかえた養賢は翌昭和二十一年四月に金閣寺に戻り、昭和二十二年四月に大谷大学に入学する。病もほとんど癒えたかに見えた。希望をもって大学に進み、成績も悪くはなかった。一、二学年は上位の成績を残している。ところが三学年になるとほとんどすべての課目の点数が急落し、最下位の席次になってしまう。何故このようなことになってしまったのか。ほんとうのところは、もしかしたら本人もわからなかったのかもしれないが、水上勉は養賢がまだ金閣に戻っていなかった昭和二十年敗戦直後に起こった「東山工作」とよばれる出来事に注目して、その原因を推測している。

 昭和二十年八月十六日南京国民政府が瓦解、主席の陳公博は日本に亡命する。八月二十五日に特別機で南京を脱出した陳公博とその一行計七名は鳥取県米子市に到着したが、数箇所を転々とした後に九月八日夜金閣寺に入る。亡命を指揮し、実際に陳氏一行の世話をしたのは日本政府であり京都府(知事および県警)で、府知事の発案で市内の寺院にかくまうことが提案されたようである。当時の府知事三好重夫氏が懇意だった天竜寺派管長関精拙師に依頼、精拙師はこれを受諾し、みずからは重篤の病床にあるため、法嗣の牧翁師をよんで金閣寺にたのめと指示した。金閣寺の慈海和尚はこれを受け入れたのである。

 日本の国民ばかりでなくアメリカ進駐軍からも秘密に庇護しなければならない一行は金閣寺では「東山商店一行」とよばれた。十月一日に陳公博が中国に帰国するまでの1ヶ月弱に関しては資料が複数あるが、そのいずれもが、彼らの(少なくとも傍目には)贅沢な、飢えに苦しむ庶民とは別世界のような生活ぶりを伝えている。とくに有名なのが金閣寺の前の池の鯉を丸揚げにして食べたというエピソードである。水上勉はこの一連の出来事を複雑な視線でみつめている。

 「慈海師の信奉する一所不住、不立文字の禅が、どこにあっても不住であり、不立であるとするなら、将軍の別荘にあっても、禅はあり得て不思議ではない。だが、そこに住んで、参観者の志納金によって喰う以上は、不住であるはずはなく、そこは禅者の常住地獄である。」

 
 ここまで厳しい視線を養賢も共有したか否かわからない。政治権力と金は、誤解を恐れず言うなら、宗教の基盤である。どんな宗教も政治権力から離れてあるいは対立して国家の中で存立することはできない。また金がなければ組織を維持できない。突き詰めて考えれば、金閣寺に限らず、寺院とは修行者にとって常住地獄なのではなかろうか。若い養賢が「地獄は一常住みかぞかし」と割り切ることが出来たとは思えないから、敗戦後の金閣が日々退廃、堕落していくように感じて、正義感と一体のリゴリズムに固まっていったとしても不思議はない。

 
 金閣の観光収入が増すのにつれて、事務方が寺の作務に介入してきて、そのことが徒弟たちとの軋轢をうみ、養賢のリゴリズムをより強固なものにしたかもしれない。だが、彼が孤立感を深めたのは、母志満子が成生の西徳寺から放逐されたことも原因と思われる。以前は彼自身が母に生家に戻るよう言ったのだが、実際に彼女が寺から追われてしまえば、養賢には帰る場所はない。そこにしか生きる場がない金閣が、信仰の上でも日常生活の面でも意識せぬ地獄でしかなかったら、それを消滅させて自分も死のう、と思うことはありうるのではないだろうか。

 『金閣炎上』後半は、放火を犯した後の養賢にかかわった人たちや裁判の記録が大半を占める。
それを読んでさまざまな思いがあるが、水上勉は昭和二十三年に金閣庭園の修理をうけもった久垣秀治氏の一文をひいて、養賢の人格を弁護し寺院側の体制を問題視している。久垣氏は「少年が法を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい」と記している。これはそのまま自身長く仏教とかかわってきた水上勉の思いだろう。また、養賢が収容されていた加古川刑務所総務部長の橘恵龍氏が、金閣和尚の慈海師に書いた手紙を取り上げている。僧侶出身で大谷大学の先輩でもあった橘氏は養賢の心身衰弱を見て、金閣にもう一度戻りたいという彼の思いを代弁し、慈海師に連絡を請うたのである。だが、当然のことながら、慈海師の返答はない。昭和二十五年八月養賢は僧籍を除籍されている。

 刑務所の中で養賢は『歎異抄』を読んだのだろうか。五日に一度の割合で書いたという慈海師への手紙には「よき人のお仰せを蒙りて念仏申しおりますが」「いずれの行をも及び難き」という語句が散見される。「禅をやって自分の精神症状を吹飛ばす心算をしてゐます」という文章もあって、自力、他力を問わず何とか救いを得ようと懸命な努力を続けていたことがうかがわれる。だが、結核の進行と独居生活の長期化からか心身ともに衰弱の一途をたどり、昭和三十年十月釈放後すぐに入院した京都府立洛南病院で翌三十一年三月七日死亡した。入院直後から喀血が続き、最後は大量の喀血だったという。死に立ち会った小林淳鏡氏によれば、養賢は最後に「殺仏殺祖」についてながく考えてもわからなかったとつたえたということである。

 私は仏教についてはまったくの門外漢だが、養賢が獄中親しんだと思われる歎異抄に「念仏申さんと思ひ立つ心のおきるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずからしめたまふなり」という一節があることを思う。

 養賢の母志満子は彼が逮捕された直後、面会に行って拒否され、大江山山麓の実家に戻る途中保津峡に身を投げ死んでいる。水上勉は養賢と志満子の墓をたずねて成生の西徳寺、志満子の生家の大江山麓を探した。京都の金閣寺には無論養賢の墓はない。そして最後に養賢の父道源の生家がある安岡部落の共同墓地に二人の墓が別々に並んで建てられているのを発見する。ともに林家の建立したものである。水上勉は、孤独に、現世では救われることなく死んでいった母子に次の文章をたむけてこの長編を閉じる。

 「母子が俗家へ帰ったのだから、養賢としては、身近な在家である林家にもどって不思議はない、と思えるものの、大江山麓から嫁にきた志満子が、里の実家に眠らず、夫の実家の墓地で、成生の夫とはなされて眠るけしきは『三界に家なし』と仏門でいう女のありようを思わせた。子の墓石とならび、二基とも風霜で肌も荒れ、台石にはまだらにうす苔が被っていた。誰が供えたか、枯竹の花筒に、黄菊の束が差し込まれ、よごれた葉は涸れていた。

 養賢が林家に寄寓していた中学時代に、成生から海沿いの陽照り道を、日傘さして通った志満子が、『よく一人ぼっちで道ばたの石に腰かけ、海を見ていなさった』と話してくれた酒巻広太郎の思い出の光景が私の瞼にゆらぎづけた。

 帰りに村人に聞いてみると、母子の墓には、僧形の墓参者はひとりとてないとのことだった。」

 三島由紀夫の『金閣寺』の資料として読み始めた『金閣炎上』だったが、小説としての面白さ、水上勉のこころざしの深さゆえに我を忘れてひきこまれてしまった。『金閣寺』との比較はまた次の機会に、だがなるべく早くしたいと思っている。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月6日木曜日

水上勉『金閣炎上』____母と子への鎮魂歌

 三島由紀夫が『金閣寺』を書くために、膨大な資料から何を切り取って何を捨てたか、あるいは改変したかを知りたくて、水上勉の『金閣炎上』を読んでみた。『金閣炎上』は三島の『金閣寺』より二十年以上後に出版されたものだが、犯人の林養賢と事件に関して丹念な取材を積み重ねたもので、第一次資料として参考になるのではないかと考えたからである。

 裁判の記録や犯人の青年の周辺の人物への聞きこみなど、事実の経過をたどるための資料として読むことを考えていたのだが、読み始めていくらも経たないうちに、三島の『金閣寺』とはまったく違ったおもしろさに夢中になってしまった。こんなに小説がおもしろいものだということに、人生の後半になってやっと気がついたのである。三島の『金閣寺』が、絵画にたとえて端正な屏風絵だとしたら、水上勉の『金閣炎上』は荒削りなデッサンあるいは油絵のように思われる。立体的な画面から厳しい裏日本の風土と昂然と生きて無残に死んでいった孤独な母と子の姿が浮かび上がってくる。

 金閣寺放火犯の林養賢は若狭湾に突き出た京都府成生(なりう)岬で生まれた。生家は西徳寺という禅宗の末寺である。成生という集落がいまも存在するのかどうかわからないが、当時は二十二戸の檀家があり、漁で生計をたてていた。数年おきに鰤の大漁があって集落は裕福ともいえたが、寺は貧しかった。

 養賢の父道源の家は成生の南に位置する青葉山山麓の安岡という部落の中農だったが、病弱のため部落の寺の徒弟となって得度、二十五歳で無住だった西徳寺に赴任した。翌年道源は妻を娶る。妻の志満子は京都の大江山麓の尾藤という村の生まれである。成生にくらべ広大な水田を持つ村で、志満子はそこのやはり中農といえる家の長女だった。勝気で学校の成績もよかったが、早くに母をなくし家事をみるため高等科を中退しなければならなかった。大江山麓から二十四歳で辺境の成生に嫁ぐのにどんな事情があったのかわからない。水上勉は土地の漁婦の言葉をかりて、志満子の嫁ぐ日の姿をこのように描いている。

 「お寺へ嫁さんがくるというんで、浜とまでみんな出て見てました。ほしたら、田井の港で舟を下りやんしたとみえて、村口の坂をトランク一つと、日傘をもった背のひくい志満子さんが、紫地に花柄の銘仙の袷に、黄色い帯しめて、小股歩きにとぼとぼおいでなさってのう。あの日は、たぶん、浜の弥太夫さんの家で化粧やら、着替えやらなさって、西徳寺入りなさったとおぼえとります。式というてものう、総代さんやら五、六人が本堂にあつまりなさって、盃事しなさっただけで夕方に終わったようにおぼえとります。そのまま志満子さんは寺に泊りなさりました」

 
 それから足かけ五年経って昭和四年三月十九日林養賢が生まれた。結核の夫に代わって田畑を耕し、山にも入って、暮れれば蔭地の寺に戻って食事の仕度をする日々を送り、二十八歳の春志満子はたった一人で養賢を生んだのである。道源も志満子も子の誕生を喜ばぬ理由があるわけはないが、水上勉は周囲の複雑な視線をこう記している。

 「風の吹きつける野ざらしの産小舎跡は部落から離れていたために、こんな所まできて子を産まなければならなかった部落の因習のふかさを思わせた。志満子がその小舎で養賢を出産していなかったにしても、限られた農地しかない貧寒部落で、うとまれての出産であることをつゆ知らず、冬空にひびいたろう、幾人かの子の産声をきく思いがした。眼の下の淵はふかくえぐれ、紺青の水は岩裾に密着して、波立ちのない淀んだ深い穴であった。」

 吃音は養賢が三歳のときから始まったが、彼は三島の小説の主人公溝口のようなひよわで醜い少年ではなかった。大柄で学力も体力もまさっていた。年下の子どもの面倒見もわるくはなかった。彼に経文と尺八を教えた父は昭和十七年冬に死んだ。死ぬ前に父は一面識もない金閣寺の慈海和尚に手紙を書いて、養賢の入山を願い出た。多くの徒弟を戦争で徴集されていたこともあって、入山は許された。

 十三歳で得度した養賢は入山したが、戦時下で食糧事情が逼迫していたために、いったんは安岡の叔父の元に帰る。その後一年ほどでまた京都に戻り、金閣寺から花園中学に通って卒業する。この間母の志満子と何らかの確執があったのではないかと水上勉は推測している。花園中学在学中に養賢は父と同じく結核を発症する。勤労動員の過酷な労働が原因であろう。大学入学を目前にして、病を得た養賢は再び郷里に戻らなければならなかった。昭和二十年五月のことであった。

 敗戦を成生で迎えた養賢は翌年四月まで西徳寺で母と寺を守った。だが、そこはもう母と子が安住できる場所ではなかった。養賢はなんとしても金閣に戻ることを望み、母の志満子には大江山の生家に帰るように告げたのである。養賢の心中になにがあったのかはわからない。水上勉は西徳寺の檀家で寺のすぐ前に住む酒巻広一からの聞き書きとして、養賢が降り積もる雪の中、「くぐつ」と呼ばれる罠にかかった小動物をあつめて進む姿を臨場感あふれる文章で記してる。養賢はくぐつを作るのも仕掛けるのも巧みだった。父ゆずりの毛糸の首巻きをして学生服の肩をぬれるにまかせ、養賢は獲物をひきずって進んだ。同行した酒巻広一はこのときの養賢のたたずまいを「勇ましくもおぞましい」と述懐しているが、水上勉は以下のように記している。

 「・・・・人はたてまえだけでは生きられぬ。仏弟子も腹がへれば、鳥も兎も食う。女犯の戒を守るのが金閣住職のたてまえだったが、先住敬宗師の奔放な肉食、女性道楽を耳にしていた養賢にこのくぐつあそびが、深く宗教上の反省を強いられながらの行為であったかどうか、そこのところはわからない。広一からこの話をきいて、吹雪の中をひたすら獲物に向い、つき進んでいた養賢の、着ぶくれした十六歳の冬に、私はのちの金閣放火の、小雨の降る一夜をかさねて息をつめる。」


 水上勉はこの後敗戦の翌年に金閣にもどった養賢がどのように変わっていったか、あるいは金閣がどのように変わっていったかを書いていくのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年2月25日火曜日

三島由紀夫『金閣寺』序論___生きるために殺す___「モデル小説」という「私小説」

 ミイラ取りがミイラになって、いつまでも三島にかかわっています。でも、やはり大江健三郎に戻っていかなければならないと考えているので、三島についてはこの『金閣寺』と『宴のあと』という二つの作品を取り上げて一応の区切りとしたいと思います。

 読めば読むほど三島由紀夫は端整な作家である。ほとんどの作品が起承転結が完璧で描写も的確なので、きちんと読めばちゃんとわかるように書かれている。わからないのはこちらの読み込みが足りないか、理解力が不足しているのである(要するに私が馬鹿だということ)。小説『金閣寺』は冒頭
 「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」
と始まる。さらに
 「父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描き出した金閣は、途方もないものであった」
と続く。主人公の「私」にとって、まだ見ぬ金閣は「金閣寺」そのもの自体だけでなく、この世の至上の美すべての象徴であった。

 一方「私」は体力、容貌に劣等感をもつ吃音障害の少年だった。外界への融通無碍な働きかけに障害をもつが故の権力への志向、それと表裏一体の徹底した孤独を養って「私」は育っていった。そして「私」は「この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた」と語るのである。

 その「使命」とは何かを考える前に、僧侶としての修行に入る前、中学生のときの二つのエピソードを取り上げてみたい。一つは海軍機関学校の生徒の美しい短剣に切り傷をつけたことである。休暇をとって母校に遊びにきた眩くも凛々しい海兵生徒の(みずからも自覚している)数年後の死を待ちながら、待つことの重みに耐えかねて、「若い英雄の遺品」に見えた短剣を傷つけたのだった。

 もう一つは「有為子」という美しい娘の死を語るエピソードである。「私」は夏の朝有為子を待ち伏せしたが、自転車に乗って現れた彼女を前にして「石」と化してしまった。ベルを鳴らしながら傲然と去った有為子の告げ口で、面倒をみてもらっていた叔父から叱責された「私」は有為子の死をねがうようになる。
 「私は有為子のおもかげ、暁闇のなかで水のように光って、私の口をじっと見ていた彼女の眼の背後に、他人の世界__つまり、われわれを決して一人にしておかず、進んでわれわれの共犯となり証人となる他人の世界__を見たのである。他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽に顔を向けられるためには、他人が滅びなければならぬ。・・・・・」

 そしてそのねがいは成就する。海軍の脱走兵と恋に落ち、妊娠した彼女は志願看護婦として勤めていた病院を追い出され、憲兵に捕まる。囮となって恋人の潜む名刹の御堂に向かった有為子は恋人の脱走兵に撃ち殺されたのである。有為子は囮になることで恋人を裏切ったが、「裏切ることによって、とうとう彼女は俺を受け容れたんだ。」と思った「私」をも裏切って死んだのだ。死んだ有為子は美と愛と憎しみの象徴として「金閣」と同値の存在となったのである。

 「金閣」は、「私」がそれから疎外されているが故に、「私」にとって至上の美であり、唯一の愛の対象であった。そしてまた「それ故に」「凡ての無力の根源」でもあった。この図式から、「私」が生きるためには、十全に生きるためには、「金閣」を焼くことは必然という結論が導き出されることに障害はない。決行の当夜、闇の中に燦然と輝く幻の金閣を見て、激甚の疲労に襲われ、行為を躊躇う「私」に記憶の底から言葉が近づいてくる。
 「裏に向かひ外に向かって逢着せば便ち殺せ」
 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず透脱自在なり」

 以上は『金閣寺』という小説から、観念的、形而上学的な骨組みだけを取り出して試みた分析である。小説はプロットだけで成り立つものではもちろんないので、作中魅力的な人物が複数造型され、それぞれ重要な役割を果たす。「私」と正反対のアポロンのような存在として描き出されるが最後に自殺してしまう鶴川、「私」と同様に障害をもち、それを生きるために徹底的に利用する柏木、「私」の生殺与奪の権を握り、しかもそれを容易に行使しようとしない道詮和尚、「私」をごく自然に「全く普遍的な単位の、一人前の男として扱」ったまり子。とくに道詮和尚は、「私」を罰しない(=「私」に応答しようとしない)ということで、私」を放火に追いやった。そしてまり子は「私」と外界との壁をあっけなく融かしてしまい、そのことが「企図」の段階にあった放火を「行為」へと踏み出させたのである。これらの人物があまりにも生き生きとリアルに描かれているので、ある種通俗小説を追いかけているかのような錯覚に陥ってしまう。だが、これは純文学である。

 何故ならこれは「モデル小説」をよそおった「私小説」だからだ。この小説は主人公の「私」の疎外感の原因が吃音障害であるという出発点と、最後に放火の後「生きようと私は思った」という結末と、その両方とも事実と異なっていると思われる。吃音障害は生得のものではない。言語を習得し使用できるようになる幼児期の何らかの心理的抑圧が原因である。私見だが父子関係の軋轢によるのではないだろうか。だが、この小説で描かれるのは、ひとつ蚊帳の中で母親が不倫の行為をしているのを見ないように子供の目をふさぐ弱く卑怯な父親である。吃音障害と無力な父親という設定は矛盾している。また、最後に放火した後、現実の放火犯はカルチモンを飲んで切腹を図っている。彼は「金閣」とともに「死のう」としたのだ。

 「金閣」を焼いて「生きよう」と思ったのは「私」なのだ。「私」は「金閣」を焼かなければ生きられないと思ったのだ。_______では、「金閣」とは何か。

 『金閣寺』については、機会があれば本論を書いてみたいと思っています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年2月5日水曜日

深沢七郎「風流夢譚」__「私」は誰でしょう

 先日ネット上で「風流夢譚」が電子書籍化されていることを発見した。この空前絶後の不敬小説が、と、ある感慨と同時にかすかな違和感を覚えた。時代はどう変わったのだろうか。

 一九六〇年(昭和三五年)中央公論12月号に発表されたこの小説は、その内容よりも発表直後に巻き起こった賛否両論の激しいぶつかり合いと、二ヵ月後に起こった右翼少年のテロ行為によって中央公論の社長宅が襲われ、社長夫人が重傷を負い、お手伝いさんが亡くなったという事件のほうが記憶に残っている人が多いだろう。小説の批評、評価は私などの分を超えた分野であり、事件とその影響についても軽々に判断できることではない。ただひとつ、いま読み直してみて気がついたことがあるので、少しだけ書いてみたい。それは、この荒唐無稽な夢物語を語る「私」についての検討である。

 
 深沢の小説は、あの独特な甲州弁と他の作家ではありえない日本語の使い方から、一見ちゃんぽらんに見えるのだが、じつは計算され尽くした構成のもとに成り立っている。それは彼がギタリストであるからだという人もいる。この小説も見事な構成である。

 冒頭作者は「あの晩の夢判断をするには、私の持っている腕時計と私の妙な因果関係を分析しなければならないだろう」と、「私」の腕時計の話から始める。腕に巻いているときだけ正確に時を刻むが、腕からはずすと止まってしまう時計で、アメリカ婦人が帰国の際に「私」の友人に5千円で売り、友人にすすめられて「私」はそれを3千円で買ったのである。中味は燦然と輝く金に見えるが、トタンのメッキのインチキ品かもしれない。正確な時刻を知るには、甥のミツヒトが高級なウエストミンスターの置時計を置いてあるので、不便は感じなかった、と書かれる。ある晩おそく帰宅した「私」は、自分の腕時計もウエストミンスターの時計も深夜1時50分をさしていたのを意識した後、眠ってしまい夢を見たのだった。

 夢の中で「私」は井の頭線の満員電車に乗って渋谷に行き、そこで八重洲行きのバスを待っている。ここでもバスを待つ人があふれている。まわりはみんな労働者の様な人達で、なぜか「私」は先頭に立っている。次から次へとバスが来るが、来るたびに並んでいる人達が運転手をひきずり降ろして乗り込んでいく。都内で革命の様なことが起こっていて、諸外国が応援してくれて、こちらは武器、弾薬、ミサイルまで入手したらしい。「私」は二つの毛糸玉を転がしながら編物をあんでいる中年の職業婦人らしい人に誘われて、皇居行きのバスに乗り込む。

 皇居広場は屋台の店が立ち並び、お祭り騒ぎの中、皇太子夫妻が首を落とされ、天皇皇后もすでに斬首されている。この記述が不敬小説とされる所以だろうが、斬首の場面の描写は「スッテンコロロカラカラ」と無機的な擬音語が二回使われているだけで、あっけらかんと淡白である。まったく同時期に(小説新潮12月号)発表された三島由紀夫の「憂国」の微に入り細を穿った陰惨な切腹場面と対照的だ。作者がこだわるのは、斬首に使われたマサキリが「私」のものであるということなのである。「(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナくなって)」「(首など切ってしまって、キタナクて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)」と、執拗な記述が続く。また、人形でも見ているかのように衣装に関心があるようで、天皇皇后の洋服に「英国製」と商標マークがついていると書いている。

 この後「わしなど30年も50年もおそば近くにおつかえした者だ」という首にネックレス(のように見える文化勲章)を巻いた老紳士が登場する。「天皇皇后のご成婚の仲人をして文化勲章を貰った」というこの老紳士は、美智子妃の着物の模様や色紙に書かれたそれぞれの辞世の和歌の講釈を始める。そこに現れるのが、とうの昔に亡くなった昭憲皇太后である。

 「65歳くらいの立派な婆さんである。広い額、大きい顔、毅然とした高い鼻、少ししかないが山脈の様な太い皺に練白粉をぬって、パーマの髪も綺麗に手入れがしてあるし、大蛇のような黒い太い長い首には燦然と輝く真珠の首飾りで、ツーピースのスカートのハジにはやっぱり英国製という商標マークがはっきり見えているのだ」

 いったい深沢は作中人物の容姿、服装などの描写をすることは稀である。昭憲皇太后のここまで念入りな描写は何を意味するのだろう。さらに不思議なのは、昭憲皇太后が現れると、いままでただの野次馬だった「私」がいきなり彼女と取っ組み合いを始めるのだ。双方とも「糞ッたれ婆ァ」「糞ッ小僧」とののしりあうのだが、甲州弁でかわされる二人のかけあいには、なぜか奇妙な親密感が漂う。「私」と昭憲皇太后とはどんな関係があるのだろう。ののしりあいの果てに昭憲皇太后の頭をなぐろうとした「私」は彼女の頭に自分と同じ「ハゲ」を見つけて「わーっ」と飛びのくのだが、これは何を意味するのだろう。そもそも「私」とは何者なのか。

 渋谷では゛キサス・キサス″を演奏しながら行進してきた軍楽隊が皇居前広場に来て、゛アモーレ、アモーレ、アモーレミヨ_"__死ぬ程愛して___をやりだして、演芸会の準備が始まる。小太鼓と大喇叭とトランペットの大群がやって来て、薄闇の空一面に花火が上がる。轟音とともに天を覆う花火が、火の粉となって頭上に降りそそぐと、「私」は「(こんないい花火を見て)」「(あゝ、これで思い残すこともない、死んでもいい)」と思うのである。そして、「私も腹一文字にかき切って」死のうと思って、辞世の歌を作って「パーンとピストルでアタマを打った」。

 ピストルを打たれて死んだはずの「私」が、自分の頭蓋骨に詰まった白いウジを見て「「ウジだッ」と叫んだところで甥のミツヒトに起される。目がさめると、ミツヒトのウエストミンスターの時計が時を打つ前の前奏を鳴らしはじめ、それが終わると寺院の鐘のように「ベーン、ベーン」と2時を知らせた。そして、いつもは腕からはずすと止まってしまう「私」の腕時計も2時かっきりを指していた。

 腕時計はなぜ止まらなかったのだろう。「(あッ、俺が夢を見ていた間は、この時計も起きていたのだ)と私は涙が出そうになる程嬉しくなって腕時計を抱き締めた。」と語り終える「私」とは、いったい誰でしょう。それから、渋谷で「私」を皇居行きのバスに誘った編物をしている「中年の職業婦人」と、作中披露される珍妙な辞世の歌をもっともらしく講釈する「老紳士」とは何ものなのか。

 
 一九六〇年は激動の年であった。この小説は中央公論12月号の巻末に掲載されていて、最終頁の下半分は「すたっふ・さろん」と「編集後記」という編集者たちの署名入りの短文で埋められている。当時の編集者達の危機意識の深刻さに触れて、隔世の感がある。時代はあの年を分水嶺として確実に変わっていったのだ。このあと中央公論は翌六一年1月号から三島由紀夫の「宴のあと」を連載するのである。

 正直、「風流夢譚」を取り上げるのは、いささかの躊躇いがありました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年1月31日金曜日

「永遠の0」___魅力的なウエルダンストーリー

 めったに映画は見ないのだが、先日いま話題の「永遠の0」という映画を見に行った。簡潔で緊密なプロットで、ある特攻兵士の物語が語られる。大学を出て司法浪人の生活に目標を見失った青年が、姉に誘われて特攻兵士として死んだ宮部久蔵という祖父の生前を調べはじめ、そのことによって自分自身が変わっていく。詳しいストーリーは省くが、よくできたすじ回しで、じつに魅力的なウエルダンストーリーであると思う。

 楽しむことが何よりの魅力的な映画に、くだくだしい理屈付けも野暮なのだが、あまり他の人が書いていないようなことをちょっとだけ書いてみたい。

 この映画は、その構成が計算され尽くしたシンメトリーな様式性が美しい。主人公の青年と彼を取り巻く若者たちの弛緩した日常と、戦時下の若者たちの緊迫した生活が交互に描写される。また、主人公の青年も彼の(血はつながっていないが)いまの祖父も同じ司法の世界に生きる人間として設定されている。かたや司法試験不合格記録更新中の若者であり、かたやすでに半ばリタイアしたベテラン弁護士という違いはあるが。

 だが、映像として最も美しいシンメリーが構成されているのは、戦時下に、妻と生まれたばかりの子のもとに帰った宮部が、一夜を明かして早朝自宅を出るときのシーンと、戦後、宮部に託されて彼の妻の生活をみてきた大石が自分の思いを打ち明けて彼女の家を出ようとするシーンである。どちらも去ろうとする男の背中を女が引き止める。女の必死な思いが男を立ち止まらせるが男は振り返らない。振り返らないで女の思いにこたえるのだ。相対して抱擁するよりはるかに濃密な、そして鮮烈なエロスがほとばしる。

 もう一つの様式美は、ストーリーがきれいなループを描くことである。祖父の生きた証を求めて過去を探索していた主人公の青年は、結局自分の足元に真実が埋もれていたことを知ったのである。祖父の生前の姿を探求することが自分探しの旅でもあった。出発点と到着点が重なってくる。まさにO__オーでありゼロなのだ。そしてそのループOはいのちの連鎖でもある。

 このすばらしいウエルダンストーリーに少しだけ疑問をはさめば、戦時下で非常識なほど家族思いでなおかつ主体的人間として描かれる宮部が特攻志願をすることが唐突すぎるのだ。前半の凛々しく人間愛にあふれた小隊長が、うってかわって退廃と自堕落なたたずまいで無為に生きるようになったのはなぜか。そこを描くことはこの映画の美学に反するのだろうか。

 それから、最後に主人公の青年が橋の手すりにもたれて見上げる空にゼロ戦が飛ぶシーンはどう解釈すればいいのだろうか。映画としては岡田準一が入神の演技で戦艦に突入するシーンで完結ではなかったのか。

 東京の空にゼロ戦が飛ぶというシーンは様々なことを考えさせる。もし、このシーンがなかったら、このウエルダンストーリーは荘重な、そして完結した悲劇だった。主人公の青年が見たゼロ戦には誰が乗っているのだろう。ループがもういちど廻って過去が未来になる日が来るのだろうか。

 すばらしい映画にたいする取りとめもない駄文です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年1月22日水曜日

三島由紀夫『仮面の告白』___面白すぎる純文学

 いまはほとんど議論の対象にならなくなったけれど、一時期かなり真剣に「純文学とそれ以外の小説」の区別が問題になったことがある。純文学とそれ以外__中間小説、大衆小説と呼ばれていた__では発表される雑誌も違っていた。いずれのジャンルの小説も、いま考えると不思議なくらい量産されていて、毎月発行される雑誌も御三家(新潮社、文芸春秋、講談社)中心に数多かった。当時の流行作家だった瀬戸内晴美(寂聴)が「挿絵がついていないのが純文学で、挿絵つきはそうでない」という定義をしていて、そうなのか、と納得した覚えがある。その当時もいまも「純文学」というものを読んでわかった気になったことは一度もないのだが。

 三島由紀夫は当時最もきらきらした流行作家で、かつ純文学の作家だった。ただ、私の文学体験が折口信夫全集からはじまるかなり特殊なものだったので、同時代人としての三島に関しては、高校の読書感想文の課題図書となった『潮騒』を読んだ、というより読まされた記憶しかない。当時の私にはさっぱり面白くない作品だった。純真だが貧乏で粗野な若者と美貌の資産家の娘が愛し合って、試練を乗り越えて結ばれる、というハッピィ・エンドの物語のどこに文学的興味をもてばよいのかわからなかった。いま読み直すと、この小説は、神話的枠組みの中で、どこまでも健康に異性間の愛と純潔を語り上げたという点で、三島の他の作品と際立って異なっていると思われる。

 純文学かそうでないかの区別に話を戻すと、私なりの区別の仕方があって、それは、作品を読んだあとの後味のちがいである。純文学は、読み終わって、また同じその作品をもう一度読みたくなるのだ。読後に感動とともに謎が残っているので、それをつきとめたくなるのだろう。読み終わって、「ああ面白かった。で、次は何を読もうか」と未練なく読み捨てられるのは純文学ではない、という独断と偏見にみちた私の判断基準からいえば、上記の『潮騒』はまぎれもなく純文学である。だが、それ以外の三島由紀夫の作品は、いま読むとどれもあまりにも面白くて、しかも次の作品が読みたくなり、これがはたして純文学なのだろうか、と思ってしまう。私は三島の遺作ともいうべき「豊饒の海」四部作から読みはじめたのだが、それからやめられなくなって手当たり次第に濫読している。(なのでちっともブログが書けませぬ)

 「豊饒の海」四部作については、いつかきちんとしたものを書きたいと考えている。それから、これはまちがいなく「純文学」であり、大江健三郎や深沢七郎にも大きな刺激と影響を与えた「憂国」も取り上げたいと思っているが、ここではあまりに面白い純文学として「仮面の告白」について、少しだけ書いてみたい。

 有名な小説なのであらすじを紹介するまでもないと思う。三島由紀夫が二十四歳の時に書かれた「ゐたせくすありす」だといわれている。「自分が生まれた光景を見た」という不思議な体験を語ることからはじまるこの小説は、「近江」という少年への恋、残虐と恍惚が入り混じった死への異常な関心と傾斜、異性に対する不能を語りながら、「園子」という美貌の少女を登場させる。戦時下にこんな生活があったのかと思うような別世界で、天真爛漫で育ちのよい園子は語り手の「私」を愛する。その一途な愛が、あまりにも一途なので、かえって愛されている「私」を嫉妬させるほどに。だが「私」は愛を成就させることはできない。

 「愛の不能」が三島の作品だけでなく、世界的な文学や芸術のテーマであった時代が当時だったのかもしれない。なんだかよくわからないけれどそんなようなテーマをうたったフランス映画を観に行った記憶がある。でも、いま「仮面の告白」で取り上げたいのは、そんな観念的なテーマについてではない。一途に「私」を愛する園子の見事な悪女性について、である。園子が悪女だとは作品の中に一言も書かれていない。少女期特有の甘やかな感傷を身にまとい、園子は純粋に「私」を愛そうとする。「私」も彼女以外に真剣に想う相手はいない。彼女と「私」の間に愛を阻む条件はないのである。戦時下で頻繁に空襲があり、いつ日常が断たれるかという状況はあっても、それだからむしろ一層園子の愛はまっすぐなのだ。純粋な善そのもののような園子を三島は身も凍るような悪女にしたのである。

 「私」は園子の家から正式に縁談がもちこまれそうになると、逃げてしまう。そして原爆が落とされ戦争が終わった。官吏登用試験を目前にしている「私」は「偶然に」園子と再会する。配給の蒟蒻が入ったバケツをもって「私」の前に現れた彼女は人妻になっていた。その後再び彼女の兄の家で出会った二人は逢瀬を重ねるようになる。「どうして私たち結婚できなかったのかしら。」「あたくしをおきらいだったの?」とたずねる園子に、今度は「私」は「もう一度二人きりで会えない?」と誘い、彼女もそれに応じたのだ。どこまでいってもプラトニックな関係のままで。このかぎりなく狡猾で隠微な関係を三島はこう描写する。

 私たちはお互いに手をさしのべて何ものかを支えていたが、その何ものかは、在ると信じれば在り、無いと信じれば失われるような、一種の気体に似た物質であった。これを支える作業は一見素朴で、実は巧緻を要する計算の結果である。私は人工的な「正常さ」をその空間に出現させ、ほとんど架空の「愛」を瞬間瞬間に支えようとする危険な作業に園子を誘ったのである。彼女は知らずしてこの陰謀に手を貸しているように見えた。知らなかったので、彼女の助力は有効だったということができよう。

 しかし破綻はまちがいなくやってきた。再会から一年経った晩夏のある日、逢引の場所のレストランでの会話である。

 彼女は指輪のきらめく指でプラスチックのハンドバッグの留め金をそっと鳴らした。
「もう退屈したの?」「そんなこと仰言っちゃ、いや」
何かふしぎな倦怠が彼女の声の調子にこもってきこえる。それは「艶やかな」と謂っても大差のないものである。

 この後、夫に対する良心の呵責から受洗を考えているという彼女を誘って「私」は行き慣れぬ踊り場に足を運ぶ。そこで出会った名もしらぬ半裸の若者の肉体と刺青に「私」は突然の情欲に襲われる。忘我のうちに幻想を見ていた「私」は園子の「あと五分だわ」という叫びに我にかえる。彼女の逢引に使える時間は逼迫していたのだ。しどろもどろで取り繕う「私」に彼女はこう言うのだ。

 ・・・やがて そのつつましい口もとには、なにか言い出そうとすることを予め微笑で試していると謂った風の、いわば微笑の兆しのようなものが漂った。
「おかしなことをうかがうけれど、「もう」でしょう。「もう」勿論あのことはご存知の方(ほう)でしょう」

 彼女は、「私」が女を買おうとして自分の不能を確定させた一晩の経験を知っているはずはない。ただ、彼女のなかの「女」がこう言わせたのである。それがたわむれな、あるいは偶発的なものでない証拠に、彼女はさらにたたみかけて聞くのだ。

 私は力尽きていた。しかもなお心の発条(ばね)のようなものが残っていて、それが間髪を容れず、尤もらしい答えを私に言わせた。
「うん、・・・・・・知っていますね。残念ながら」
「いつごろ」
「去年の春」
「どなたと?」

 「私は」、執拗に相手の名を聞く園子に「きかないで」と答えるのがやっとだった。完膚なきまでにたたきのめされた「私」の心象風景を三島はこう描写して一編を閉じる。

 ___時刻だった。私は立ち上げるとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったとみえ、からっぽの椅子が照りつく日差しのなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲み物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。

 こんなにも魅力的な悪女を書き得たのが弱冠二十四歳の青年だったということが信じられない。園子をこのような悪女に造型するために、「私」は性的倒錯の不能者として描かれなければならなかったのだが、現実に女を知らない人間が書ける小説ではないのは言うまでもない。このあとも三島は次々と魅力的な悪女を書いてく。というより、『潮騒』のような例外を除けば、三島は悪女だけをかいたのではないか。遺作となった「豊饒の海」は悪女のオンパレードのように思われる。

 大江健三郎を読み解くために三島由紀夫に取り組んだつもりだったのですが、やはり地がでて、ミーハー度満開の読書感想文になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。