2016年11月9日水曜日

大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー」を聴く女たち』「泳ぐ男__水のなかの「雨の木(レイン・ツリー」」___再び八十年代とは何だったか

 連作短篇集の最後の作品である。これまでの四作も不思議な小説だったが、この小説は、解釈、というより読解が拒まれているような気がする。たんに私の能力不足かもしれないが。

 年上の女が若い男を誘惑する。男はたぶん童貞で、女のあからさまな挑発と積極的な行動にひきずられて、危険な性的ゲームを続ける。作家の「僕」は、若い男のあて馬の役割を負わされ、彼と女との成り行きを見まもる。結末は、女は強姦され、扼殺される。だが、若い男は犯人ではない。犯人は「僕」と同じ大学出身の高校の英語教師だった。

 あらすじを紹介すると週刊誌の実話記事のようだが、とくに不自然ではない。人物の造型や細部の描写も、具体的でリアルである。外資系旅行会社のOLという設定の「猪之口さん」と呼ばれる女が、露悪的ともいいうるほどの挑発をしたあげく、「玉利君」という男に扼殺されるまでの経緯は委細を尽くして執拗に描写される。それはグロテスクだが、ありえないことではないだろう、と思う。問題は、「玉利君」が女を扼殺した(もしかしたらその時点では死んでいなかったのかもしれない、と思わせる記述があるのだが)後、「偶然」通りかかった「犯人」の行動と心理である。


 「犯人」は子供遊び場(なぜ「公園」という単語を使わないのか、微かな疑問を覚えるのだが)のベンチに下半身をさらけだして死んでいる(ように見える)女とその場を逃げ出した玉利君の様子から、強姦未遂であることをさとる。すると「犯人」の関心は、死んでいる女でなく、強姦未遂のまま逃げ出した玉利君に向けられるのである。このままでは玉利君は生涯を棒に振ってしまうことになる。自分は彼を救ってやろう。そのために、彼が未遂で終わった強姦を彼に代わって成就してやろう。そう思って「犯人」がそれを実行しているときに何人かの人間がやってきて懐中電灯で「犯人」を照らす。その瞬間死んだはずの女の躰が動く。「犯人」はやみくもに逃げ、追いつめられて鳩小屋によじ登り、ズボンからベルトを抜きとって首吊りジャンプをする。


 という「犯人」の行動と心理は、実は作家の「僕」の夢想とないまぜになった推測である。その推理を補強するのが、事件後初めて直接会話をかわすことになった玉利君の告白であり、「犯人」の妻である女教師のことばである。女教師は夫が露出趣味があったことを「僕」に告げるが、それよりも重要なのは、夫が「自己中心の思い込み」ではあるが、自分が犠牲になって誰かを救うことを一度決心したら、実際やり遂げる人間だったと語ったことである。

 大江健三郎の小説が不思議なのは、作品を読んでいるときは当たり前のこととして受け入れてしまう事柄が、現実に起こったら、決して受け入れられないだろう、ということである。酔って通りかかったら女が下半身剥き出しで縛られていた。身動きしないので、死んでいる、と思っただろう。そういう状態で性欲が湧くものだろうか。そんなにたやすく屍姦ができるのか。それは「犯人」の妻である女教師のいう夫の「猥褻行為」の範疇から逸脱している。

 だが、それよりも不思議なことは、屍姦という言葉にするだけでもおぞましい行為の動機が、自分が犠牲になって、強姦未遂を犯した若者を救うためである、とされていることである。そしてその行為は、「犯人」と同じ出身大学の作家の「僕」が夢想したことでもあるのだ。ここには、「犯人」と「僕」の親和性あるいは同一性がほのめかされているのだが、一方そういった親和性、同一性を打ち消すような記述もある。死の直前に「僕」の父親がいったとされることばである

 __おまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。・・・・・

 この父親の言葉がこの文脈で出てくることがさらに不思議である。「僕」が玉利君の身代わりになろうとしてできなかったことの説明にはまるでなっていないからだ。「僕」でなく「犯人」が身代わりになったことで玉利君は「人間のもっとも悪い堕落」に陥っていくことは確かだろうが。

 小説というものは何をどう書いてもいいのだろうが、大江健三郎の小説の書き方はどうしてもアンフェアだと思ってしまう。そもそもこの小説の冒頭にはかなりの分量で前置きがあって、「僕」がこれを書くに至った経緯が書かれているのだが、これを書いている「僕」は作家大江健三郎なのか、作品中の「僕」なのか。読み続けるうちに揺らいでくるのである。それも作者の計算通りなのだろうが。

 この作品から何を読み取ればいいのか、まるでわからない。「生き残っている者」にはdecenncyを守るくらいが関の山だと「僕」にいわれた玉利君は、「僕」に示唆されて「自分をコロス」トレーニングに集中する。玉利君はそうやってすべてを削ぎおとして、次の犯罪___猪之口さんで果たせなかった完全な強姦と扼殺にに向かって邁進している、と書いて作者は物語を閉じるのだ。この小説が「読売文学賞」なるものを受賞したという八十年代とは何だったのか。

 時間がかかった割には問題解決ができないままでした。それでもなんとか、一区切りつけて次は『晩年様式集』に向かいたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。