2012年10月31日水曜日

「ライ麦畑でつかまえて」___「スペンサー先生とは何か」

 ここ二ヶ月余り雑事に追われて、まったく更新できない日々が続いております。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。

 
 そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot  your  noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。

 二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。

 「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。

 スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。

 今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。