2012年4月17日火曜日

「和人(シャモ)のユーカラ」____深沢七郎の記号

サリンジャーを読んでいると、どうしても深沢を語りたくなる。今日は単行本『みちのくの人形たち』に収録されている「和人(シャモ)のユーカラ」を取り上げてみたい。

 この作品は「海」1980年十二月号に発表されたものである。例によって書き出しは「大雪山は決して恐ろしい山ではない」という不思議な文章で始まる。主人公の「私」は大雪山のふもとに新しい自動車道路をつくる計画が出来て、その反対の立場の人達のための調査団の一員となり、一行より一週間早く大雪山にやって来た。「私」は三年前にも大雪山のふもとに来て、不思議な大男に会った。そのときに「偶然に摑まえた幸運」を「確かめなければ幸運になるとは思えない」ので、三年前と同じ連絡線「大雪丸」と急行「大雪」でS市に着いたが、一泊しただけで、以前泊まった大雪山の山荘「あふン荘」を訪れた。

 「あふン荘」は「玄関だけがアイヌの舟形を思わせる様に新しく作ってあ」る古い民家で、四つしか部屋はなく、「不如帰」のヒロインと同じ名前の「ナミちゃん」という「卵焼きの得意な」三十過ぎの女中さんが一人で切り盛りしている。三年ぶりに訪れた「私」を彼女も「声を覚えていますよ」と覚えていた。三年前と同じように山荘の庭一面に咲き乱れる「タンポポ」を見て、「私」は大男と出会ったときの回想にふける。 

 「私」が「あの山男のようなアイヌの人」に逢ったのは「あふン荘」から僅か離れた「大雪山のふもとと言っても入口でカラ松の木の高くそびえて」いる場所だった。霧の中だか「ガスの晴れ間」だか、「目の前が明るくなったほどあざやかに」現れたその大男は「彫りの深い、太い眉毛」で「カーキー色のズボン」「ジャンパー風な上衣」で「復員軍人」か「終戦直後の引揚者のような服装」である。「霧深い大雪山で背の低い私は雲つくような大男の顔の中に光った、やさしそうな輝きを見つけた」「私」と相手は、お互いに親しみを感じて立ち止まった。大男はヒビが入った鍋を修繕するために広い道のほうに行くらしい。その男の案内で「私」は「景色のきれいな場所」に案内される。

 そこは「山に囲まれた谷間の広いなだらかな傾斜地」で「タンポポばかりで雑木もないし、ほかの草もない」「タンポポのワイドスクリーンのような場所」だった。そこに「咲き終わっても飛び散らないで、長く灰色の花になって、そのまま咲いている」花のことを「シャモの言葉で"幽霊"という意味です」と大男は言う。「私」は「幽霊ですか、幽霊ね、幽霊タンポポというのですね」と、大男が詩人かもしれないと思って、職業を聞いてみたが、彼は黙っている。「シャモ」と目の前で言われてびっくりした「私」は大男に「 あなたは、アイヌのかたですか」と聞くが、相手はこれにも黙っている。「内地の人もシャモといいます、アイヌの人もシャモといいます」と同じことをくりかえし、「xxxxxxxx xxxxx xxxxxxxxx xxxx」とわけのわからない発音をする。

 「タモの木の 枝と、枝の間は俺のものだ と、言います」と「タンポポの平原に向かって歌っているよう」な大男の言い方を「歌みたいですね」という「私」に「ユーカラです」と大男は言う。「xxxxx xxxx、xxxx」と妙な発音をした後「シャコタンの島は、持って歩けないのさ と言います」「ノボリベツの煙は 俺のものだ と言います」「太平洋の水は、持って歩けないのさ と言います」とくりかえす大男は、さらに「シャモにもユーカラがある」と言い、「シャモのユーカラは怖いですね、歌っている顔つきや、手つきは」と言う。シャモは手まねをしながら話をするのが怖い、という大男に、外国人は手まねをしないのか、と「私」が聞いても大男は黙っている。「黙っているのは『イエース』ということかもしれない、アイヌには肯定する言葉はないのかもしれない」と「私」は思う。

 さらに大男は「xxxxx、xxxxx、xxxxx、俺らの ジィさん バァさんは ニセコの山から降ってきた と言います」と続け、ジィさん、バァさん、三代以前のことはなにもわからないし、必要ない、生きている意味のようなことも必要ない、シャモに盗られてしまったから、知ってもしかたがない、と言う。執拗にその言葉を繰り返す大男は、「私」が帰ろうとした途端、「シャモのユーカラは気味が悪いですね」とちからをこめた言い方でむしかえす。「バンザイ」と両手を揃ってあげる様や、「大勢で手を叩く音」が無気味で、「ユーカラは、言葉に現せない歴史」だから「歌になる」のだ、と言う。また、シャモは死んだ人を持ち歩くし、そのときにユーカラを歌う。それは「死の約束を諦めさせる呪文で、死の歴史を意味づけるための歌」だと言うのだ。それは経文だ、経文は唱えると言って、歌うとはいわない、と言う「私」に、「あれは歌を歌うのと同じです」、と大男は譲らない。

 つづけて、葬儀の儀礼と経文を唱えることを怖ろしい、と言う大男に不快感を覚えはじめた「私」に気づいて、大男は「道まで案内しましょう」と立ち上がって歩きだした。もとの道に出てから、あふン荘に戻るまで、何度も道に迷ってしまった「私」はあふン荘の裏の顔見知りの「とりや」に立ち寄る。「純粋のアイヌ人」だという「とりやさん」では、子供二人と奥さんがライスカレーを食べていて、客が二人いた。「とりやさん」は大男のことを「アイツ」と呼び、彼はアイヌではなく、アイヌより先住の人たちで、「アイツは我々のことも、日本人のこともシャモと言うよ」と言う。アイヌの先祖と大男の先祖は今でも仇敵のようで、お互いに「糞へび」とか「ナメクジの子」とか呼び合っている。もともと「シャモ」とはあの大男の先住者たちの発音で「シーシーモー」あるいは「シーシーマー」すなわちマムシのことだそうで、マムシの発音の中には「糞へび」の意味が含まれているとも言うのだ。

 三年前は、大男が葬儀の儀礼を気持ち悪いと言ったことで不快になり、別れてしまったが、「私」はもういちど大男に逢って、人が死んだらどうするか聞かなければならないのだった。あふン荘に泊まった「私」は大男とタンポポの広場を探して歩きまわった。二日たっても逢えないので、諦めようときめた「私」は宿で「とりやさん」の声を聞いて、後を追ってとりやに行った。とりやさんも「私」を覚えていて、大男は「別荘」「涼しいところ」に行っていると言う。「アイツの女はロシア女だよ」とか「アイツの親も、涼しいところに住んでいた」と言われた「私」は大男に逢うことを諦める。

 翌日、観光取扱所で、札幌に行くために「どれに乗っても行った先で乗り換えられる」と言われた「私」は、稚内網走方面に行く「七十人も乗れるバス」に「二人分の席に腰掛けて」乗り込む。翌朝になると、バスは海岸線を走っている。海が見えた途端、「私」は「涼しいところ」を思っていた。疲れて眠りながら、「私」は大男の歩いている姿を見、彼の死について思うのだ。象の墓場、死骸を見せないという猫の死、あの大男やその親たちの死の場所を思っている。岩角から現れた大男が、すこしずつ海へ入って、沈んでいるのが「私」に見えてくるのだ。  

 あらすじの紹介で随分長くなってしまいました。1980年前後の深沢の作品はサリンジャーを読むのと同じような作業を強いられます。日本語で書かれてるので、辞書を引く必要はありませんが、奇妙にねじれた、不思議な構造の日本語です。「楢山節考」や「笛吹川」には決して使われない文体です。今まで不注意に読みとばしていたこの時期の作品をもう一度読み直す必要を強く感じています。本人は「楢山節考」と「笛吹川」だけでいい、と言っていたそうですが、したたかに、執拗に、最後まで抵抗をつづけたこの作家の記号をしっかりと解読したいと思っています。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月16日月曜日

「対エスキモー戦争前夜」___「善きサマリア人」は誰か・その2

 「善きサマリア人」はやはりジニー・マノックスであるというのが現時点での私の結論である。細かい点については、まだ解決できない謎がたくさんあるのだが、大筋のところではほぼ輪郭が見えてきたように思う。

 本題に入る前に Just Before the War With the Eskimos という題名の意味をもう一度考えてみたい。Just Before という英語は「前夜」という日本語よりもっと切迫した語感を持つように思われる。まさに「直前」なのである。the War With the Esukimos の「直前」。それでは the Eskimos とは何か?the War With the Eskimos とは?

題名の「対エスキモー戦争前夜」は、作中セリーヌの兄フランクリンが「こんだエスキモーと戦争するんだ。知ってるか、あんた」とジニーにたずねることに由来するのだろう。「耳の穴をかっぽじって聞いとくれ」というのだから、よほど大事なことだ、とセリーヌの兄は考えているのだ。彼は何故会ったばかりのジニーにそんな話をしたのだろうか。

 その理由は二つある。一つはジニーも彼と同じように「指を切った」という経験を共有していることで、もう一つは、かつてジニーの姉ジョーンに彼が求愛した過去があるからである。「ブリ屋仲間の女王様」とセリーヌの兄が呼ぶジョーンに、「42年のクリスマス・パーティ」で出会った彼は「八遍も手紙を書いた」。だが返事は一度も来なかったのだ。

 そしてジニーも彼と言葉を交わしているうちに、彼の「指の傷」について積極的にかかわっていく。「マーキュロは効くかな?」と聞く彼に「ヨーチンでなきゃだめよ」と答え、「猛烈にしみるんじゃないか?」と言われても「でも死にやしませんからね」と駄目を押す。なかば無意識に怪我していないほうの手で傷に触ろうとしたセリーヌの兄は、ジニーの「触っちゃだめ」という言葉を聞いて、何故か非常な衝撃を受け、「夢でも見てるような表情」を浮かべるのである。

 だが、ジニーがセリーヌに払わせようとしていたタクシー代を放棄して、「あたし、遊びに来るかもしれない」と彼女に告げたのは、さらにもう一つ決定的な動機が芽生えたからだと思われる。それは、セリーヌの兄と入れ替わりに部屋に入ってきたエリックとの会話の中で示された「ぼくのアパートに同居していた・・・作家だか何だか知らない」奴の「善きサマリア人」のエピソードだろう。「餓死寸前」の作家に「善きサマリア人を地で行ったようなもん」の世話をやいてやった挙句が、「手の届く限りの物をそっくり持ち出して」「朝の五時か六時にぷいっと出て行っちまった」という結末を迎えたのである。この一連の顛末を聞いたジニーは、セリーヌが再び部屋に入ってくると、彼女がドレスを着替えていることを見咎めることもせずに、もうタクシー代は要らないと言い、セリーヌの兄に近づきたいという態度をとり始めるのだ。ジニーはフランクリンの「善きサマリア人」となる宣言をしたのである。

 ようやく五合目まで登ったという実感です。頂上制覇はまだまだ先のことのようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月9日月曜日

「コネチカットのひょこひょこおじさん」___語られているのは過去である

七転八倒しながらサリンジャーの原文をよんでいる段階です。過去に書いたものを徹底的に書き直すつもりですが、とりあえず、ある程度の見通しがついたものから少しずつ書いてみたいと思います。

 以前「コネチカットのひょこひょこおじさん」について、「語られているのは過去か」と書いた。疑問符、というより付加疑問のような内容だった。訪問者のメアリ・ジェーンズの側に立って、解釈を試みたのだった。だが、いま、「ライ麦畑でつかまえて」という「手」を借りてclappingを試みて、その結果、「語られているのは過去である」という、私なりの結論に達した。ただし、主人公エロイーズのかつての恋人ウオルトとの美しい追憶の過去ではない。

 前回私は、自分から訪問を申し出たメアリ・ジェーンズが、何故遅れてきたのか、しかも様子がおかしいのか、と疑問を呈した。今回は、そのメアリが会いたがっていたラモーナというエロイーズの娘について考えてみたい。ラモーナは作中「きれいなドレスを着ている」「小さな子供の声__a small child's voice」という表現がされているが、その他年齢とか髪の毛の色など何も描写されていない。強度の近眼で眼鏡をかけていて、オーヴァーシューズを履いたままで屋内に入るのを度々注意されている。「ジミー」という名の「架空の恋人」をもっている。ラモーナとは何か。そして、メアリ・ジェーンズは何故ラモーナに根掘り葉掘りいろいろなことを聞きたがったのだろう。

 この小説は、二人のさりげない昔話の中に、具体的に情景を思い浮かべようとすると、はっきりとした像を結べない場面がいくつもある。「シカゴで買った黒いブラジャー」をした大学の女友達が部屋に飛び込んできたという場面や、列車の中でエロイーズとウオルトの二人がコートを頭からかぶっていたときの一連の描写は、どんなことがあって、何が「おかしかった」のかよくわからない。不思議である。

 謎を解く鍵は、最後にエロイーズがラモーナの眼鏡を裏返しにする場面にあると思われる。暗闇の中、エロイーズはラモーナの部屋のナイト・テーブルに突進して彼女の眼鏡を手にとって、頬に押し当て「かわいそうなひょこひょこおじさん」と泣きながら繰り返しつぶやいて、「レンズを下にして」戻すのである。すべての謎がそれで解けるわけではないのだが。というよりわからないことだらけなのだが、おおまかな方向性はつかめると思う。

 この小説の中で、エロイーズが語るのは過去だが、サリンジャーーが語るのも過去である。語られているのは、小説的現在であり、また過去なのだ。

 七転八倒中の、とりあえずの経過報告です。前回書いたものを大幅に修正する必要があると考えています。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月4日水曜日

『ライ麦畑でつかまえて』と『悪霊』___ホールデンとスタヴローギン

私はドストエフスキーのよい読者ではない。どころか、何度読んでも、登場人物の名前がなかなか覚えられず、途中で投げ出したくなる。『罪と罰』は比較的単純なストーリーで、わかったような気になったが、どれほどわかったのか怪しいものである。『白痴』は、なんだかわからないが、主人公の「キリスト公爵」と呼ばれるムイシュキンが、キリストどころか、かえって周囲を不幸に陥れる役割を演じてしまうのが、何を意味するのかわからないなりに面白かった。『悪霊』は、「超人スタヴローギン」が、最後になぜ自殺するのか、そもそも「スタヴローギン」とは何か、その謎はいまでもわからない。また、ドストエフスキーが、小説の本筋に関係のない「スタヴローギンの告白」を挿入することにこだわったのも謎である。

 ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。

 イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。

 『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。 

 聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。

 まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。

 毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。