2015年8月20日木曜日

大江健三郎『﨟たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ』__「﨟たし」と「らうたし」のはざまに

 これは「M計画」というプロジェクトにかかわったサクラさんという国際的な映画女優と作家の「私」、そして「私」の東大の同期生で敏腕プロデュサーの「木守有(こもりたもつ)」の物語である。表題の「﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ」とは、特異な人生を生きたサクラさんを、エドガー・アラン・ポーの詩Annabel Lee にうたわれる夭折した美女のアナベル・リィになぞらえるところに由来する。物語は「私」とWhat! are you here? と呼びかける木守有との三十年ぶりの再会から始まる。以降、小説の大半は三十年前の出来事の回想である。

 「M計画」とは、実在した中世ドイツザクセンの商人ハンス・コールハースの反乱を題材に、十九世紀初頭に劇作家ハインリヒ・クライストが書いた『ミヒャエル・コールハースの運命』という作品をアメリカ、ドイツ、中南米、アジアの各国で映画化しようというものである。「M計画」の本部、という言葉が小説のなかにでてくるが、それがどのような実体をもつものかはあきらかにされない。アジア版『ミヒャエル・コールハースの運命』は韓国で制作されることになっていたが、シナリオを書く金芝河が逮捕され製作不可能となってしまう。アジア担当のプロデューサーである木守は善後策を講じるために主演女優のサクラさんと東京を訪れ、金芝河逮捕に抗議してハンスト中の「私」と東大在学以来の再会を果たす。

 サクラさんと「私」は、サクラさんが「私には本当に、本当に・・・・・・恐ろしいくらい懐かしい場所です」という松山で接点があった。「私」が高校時代出入りしていた松山のアメリカ文化センターが、サクラさんを保護していた占領軍の情報将校の職場となり、彼女も保護者とともに松山に移ってきたのである。そして「白い寛衣」を着たサクラさんは「お堀端」に横たわり、保護者の米軍情報将校が8ミリフィルムの映画「アナベル・リィ」を撮影したのだ。

 作中「アナベル・リィ」の詩は日夏耿之介の訳で引用される。だが、日夏訳はその内容、雰囲気がポーの原詩と微妙に異なっているように思われる。

 It was many and many a year ago,
     In a kingdom by the sea,
  That a maiden there lived whom you may know
    By the name of ANNABELL  LEE;
  And this maiden she lived with no other thought
     Than to love and be loved by me.

《在りし昔のことなれども
 わたの水阿(みさき)の里住みの
 あさ瀬をとめよそのよび名を
 アナベル・リィときこえしか。
 をとめひたすらこのわれと
 なまめきあひてよねんもなし》

一読して、英語圏の人でなくても初歩的な英語力があれば理解可能な原詩を、なぜこんなおどろおどろしい擬古文で訳さなければならなかったのか、素朴な疑問がわくのだが、ここでは次の二点を指摘しておきたい。

 その一は、In a kingdom by the sea というフレーズについて。このフレーズは各スタンザごとに執拗に繰り返され、この詩のキーワードであると思われるが、日夏耿之介はすべて「わたの水阿の里住みの」と訳している。In a kingdom by the sea は、「海のほとりの王国で」とkingdom をいかして訳さなければならないのではないか。

 もうひとつはshe lived with no other thought / Than to love and be loved by me を「をとめひたすらこのわれと/なまめきあひてよねんもなし」と訳すのは、もちろん誤訳ではないが、かなり脚色がある、といわざるを得ない。だが、むしろそれ故に、この詩を、そのタイトルごと頻繁に作中に引用する意味があるのかもしれない。「なまめきあひてよねんもなし」について、「私」がサクラさんの真の庇護者である柳夫人と論を交わす場面があるのだが、これはサクラさんと彼女の保護者であり、また夫となった米軍の情報将校との隠微で狡猾な関係をいっているのだと思われる。

 そもそもthe beautiful Annabel Lee を「﨟たしアナベル・リィ」と訳したのは日夏耿之助だが、「らうたし」に「﨟たし」と漢字を振ったことも日夏の戦略である(日夏以外にも使用例はあるようだが、明治以降のものである)。「らうたし」は「あどけない、いたいけな」というニュアンスの古語で、「﨟」という漢字を振られるとどうしても落ち着かないのである。そして、その落ち着きの悪さこそ、作者大江健三郎の意図したものではないか。大江は、いわば日夏の戦略に乗って、あるいは乗ったふりをして、をれを利用し尽くしたのだ。

 「﨟たけた」ということばがある。「﨟」は僧侶の出家後の年数、経験の深さを表すことばだそうで、「﨟たけた」は上品、優美などのニュアンスを含む成熟した女性の美をいうものだろう。それにたいして「らうたし」は、その使用例からみて、未熟な者、幼い者にたいする庇護の感情を含むことばのようである。「﨟たけた」美女として登場したサクラさんが、未遂に終わった「M計画」にかかわり、それが挫折する過程で、自分の存在の真実を発見する。幼くして孤児になった自分を、「らうたし」と保護してくれた米軍情報将校が、じつは残酷きわまる冒涜者だったこと、その人間との関係が彼が死ぬまで「平和に」続いていたこと、これらの真実を、なかば強制的に知らされて、サクラさんの自我は崩壊する。もともとサクラさんの自我は、精緻に構築された魔宮のなかに閉じ込められて成立していたのだが。

 三十年ぶりに日本を訪れたサクラさんは、みずから監督をつとめ、木守と「私」の三人だけで自主映画をつくる。それはもはやグローバルな「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化プロジェクトではなく、「私」の郷里の森に伝わる「メイスケさんの生まれ替わり」と「メイスケ母」の物語である。二度の一揆を成功に導いた「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだだけでなく、みずからが一揆を主導した「メイスケ母」の「口説き」は「私」の祖母が芝居に仕立て、戦後の苦境のさなかに興行した。サクラさんはその芝居を自分が座長となって「メイスケ母」を演じることで復元し、それをそのまま撮影する。郷里の森の「鞘」を舞台に、観客も演技者も女だけの野外劇場に「口説き」の果てのサクラさんの叫びがこだまする。____それは歓喜の叫びか、苦痛のそれか、それともその両方なのか。It's only movies,but movies it is! 「らうたし」アナベル・リィが「﨟たし」アナベル・リィとなった産声だろうか。

 この小説が戦後の日米関係を寓意しているのはあきらかなのだが、サクラさんと作家の「私」、そして「木守」の関係については、また回をあらためて考えてみたい。小説の最初の部分で老女となったサクラさんのいう「幼女から少女期の自分が何もわからずにやるようにいわれ・・・・・・それも恐ろしいアメリカの軍人から・・・・・・強制されて作られたもの」とは何だろう。最後の「口説き」芝居の映画化はそれへの「熟考した応答として老女の自分が企てる仕事」である、とサクラさんは言っているのだが。

 書くことも考えることも遅々として進まず、時間ばかり経ってしまいました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。