2014年10月31日金曜日

大江健三郎『宙返り』決して解けない謎___アンフェアなのは誰か

 この小説の中で、私がどうしても了解できないものが二つある。一つは「ヨナ書」の取り上げ方で、もう一つは「悔い改めと終末」の内容である。もっとも根本的なことが納得できないでいる。

 
 以前も書いたが、「ヨナ書」の主題は赦す神、愛の神である。ヨナは「アミッタイの子』と書かれているので預言者の一族であろう。彼は悪をなす都市ニネベに悔い改めを説きに行くよう神に命じられたが、その命に背き、神から逃れようとして、タルシシという町に向かう船に乗る。嵐が来て、そのわざわいが自分のせいだとされたヨナはみずからを海に投げ入れさせ、波風を静める。すると、神は大きな魚の腹にヨナを呑み込ませ、ヨナの悔い改めの祈りにこたえて、かれを吐き出させる。ヨナはニネベに行き、神の怒りを伝える。ニネベの人々は王から奴隷まで一人のこらず悔い改め、正しい生活をする。神はニネベの町の悔い改めを見て、彼らを滅ぼすのをやめる。

 ところがヨナは神がニネベの町を赦したことに憤る。彼は「死んだ方がいい」と言って、ニネベの町のはずれに小屋を建て、なりゆきを見まもろうとする。彼が暑さに苦しむのを見た神は、一晩でとうごまの木を生やして小屋を覆うが、また一晩で虫をわかせて木を枯らしてしまう。そして、とうごまの木を惜しむヨナに、ニネベの町を惜しむ神の意志を述べるのである。

 ヨナは、神に背いてタルシシに逃れようとしたみずからの過ちに気づき、悔い改めて海に投げ入れられたから、神から大きな魚を与えられ、その腹の中で嵐をやり過ごすことが出来たのである。ところが、ニネベの人々がヨナの言葉で悔い改め、悪の道から外れると、そのことで神に憤る。その怒りは理不尽であるということを、神はとうごまの木をもって知らしめたのである。ここには人間の悔い改めと神の赦しがどのように行われたかということが具体的に記されている。

 繰り返すが、悔い改めとは行為である。ヨナがみずから望んで嵐の海に投げ入れられたように。そして大きな魚の腹の中で、誓いをたてたように。またニネベの人々が(獣までも)荒布をまとい、断食して狂暴な行いをやめたように。その行いを神は嘉するのである。そのように「ヨナ書」には書かれている。

 ところが『宙返り』が取り上げる「ヨナ書」では、赦す神、思い直す神に対して「抗議するヨナ」にだけ焦点があてられる。「抗議するヨナとして登場する育雄は、少年の時、神の「ヤレ!」と言う声を聞き、彼に同性愛を強いたシュミット氏を火掻き棒で殴り、半身不随の身にする。そして、再び「ヤレ!」という声を聞いたように思って、シュミット氏を殺してしまう。未成年だった育雄は巧妙にふるまって罪に問われなかったが、それからずっと「ヤレ!」という神の声にこだわっている。再び「ヤレ!」と言わない神に抗議する「よな」が育雄なのである。

 しかし、これは非常に手の込んだ主題のすり替えではないだろうか。ヨナは、あまりにも重い使命から何とか逃れようと神に背いたが、背いたことを悔い改めた。そして、命を懸けてニネベに行き、神の言葉を伝えた。それ故、彼が神に抗議するのは、人間の限界を示すものだろう。だが、「よな」と書かれる育雄は、殺人を犯した人間なのである。「ヨナ」と「よな」を相通じる存在として取り上げるのは無理である。「よな」にもう一度「ヤレ!」と言ったのは神でなく、踊り子(ダンサー)なのだ。

 「悔い改め」と「終末」の内容についても、私には理解できない。「このままではこの惑星がたちゆかない」あるいは「この後百年もつとは思われない」と言う言葉が何回も繰り返されるが、それはどのような事象を指していうのだろうか。自然の荒廃なのか、はたまた人間倫理の退廃なのだろうか。「終末を早める」ために、原発の事故を誘発する、という発想にいたっては、ナンセンスを通り越して、無気味である。この小説が発表された12年後の現実に何が起こったか。「終末を早める」ために事故が誘発されたのではなく、「事故が終末を早めた」可能性は大いにあるのだから。師匠(パトロン)が「大きな瞑想」の中で見る「終末」が、人々は生きてはいるが、生産活動がまったく行われなくなった中都市の様子であるというのも暗示的である。

 「悔い改め」と言う言葉が何を指すのかが、またわからない。作中「静かな女たち」の祈りの生活と「急進派」の社会への働きかけが描かれるが、それらは「悔い改めの行為」だろうか。というより、作者はそれらを「悔い改めの行為」と考えているのだろうか。『宙返り』には、キリスト教の用語、概念が頻繁に引用される。「「悔い改め」はいうまでもなくその中心的概念だが、そもそも何故悔い改めるのか。「終末」を迎えるから、裁きの場で神の国に入れるように悔い改めるのか、それとも、元来「罪ある存在」だから悔い改めるのか。そして「悔い改める」とは「何をどうする」ことなのか。

 おそらく宗教の中心的概念とは、このように、あくまでも「概念」あるいは「ことば」であって、であるからこそ、そこにはいかようなものをも置くことができるのだろう。だから、個々の人間の具体的、個別的状況に対応して、「救済」の「ことば」を与えることができるのだろう。作中、自殺した母親の呪縛に苦しむ古賀医師に師匠(パトロン)がそうしたように。

 作者は繰りかえし繰りかえし「終末」と「悔い改め」をもちだして神学論を展開する。だが、何回読んでも、私にはそれらが生活とかけ離れた形而上的、思弁的な観念論にしか受け取れない。それより、「宙返り」後の十年間、師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は何をして食べていたのか、などと考えてしまう。二人で地獄をみつめあっていた、と書かれているが、成城という高級住宅街の一角に二棟の住居をかまえて生活をする費用はどこからでていたのだろうか。

 この小説にはこのほかにも何重にも罠が仕掛けてあって、少しでも油断するとその罠にからめとられてしまいそうだ。いや、からめとられないでいることは不可能かもしれない。大江健三郎のやり方は、この小説に限らないのだが、あまりにもアンフェアである。作中の育雄や踊り子(ダンサー)がアンフェアなのではなく、作品自体の成り立ちがアンフェアなのである。

 いうまでもないことだが、「アンフェア」は非難のことばではない。

 いつまで経っても考えがまとまらず、堂々巡りのままで、不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2014年10月20日月曜日

大江健三郎『宙返り』の謎___「十三人組」と「モースブルッガー委員会」_「パトロン」とは何か

 私は大江健三郎のエッセイ、とくに小説の方法論について書かれたものをほとんど読まない。意識して読まないようにしている。それで、なおさらそうなるのかもしれないが、そもそも大江の小説が「何を書いたものか」ということがさっぱりわからない。わかったような顔をしていままで書いてきたものはすべてたんなる備忘録である。前回「踊り子(ダンサー)とは何か」と同じように、今回も私自身が考えを進めるための文字通りnaoko_noteである。

 そもそも「パトロン」とは何か。日本語の「師匠」に「パトロン」とルビをふるのは無理がないだろうか。「パトロン」という日本語は日常生活で「師匠」の意味に使われることがあるのか。普通は「支援者」とくに経済的なそれを指して使われると思う。文化、芸術のそれから、一個人の支援者にいたるまで「パトロン」とは「(とくに経済的な)支援」を「する側」の人物をいうのであって、「される側」をそう呼ぶことはない。ところが『宙返り』では「宙返った救い主」が「師匠」と表記されるが常に「パトロン」とも表記されるのである。「パトロン」には「支援者」という標準的な意味の他に、何か特別の意味があるのだろうか。

 「パトロン」を支援してきた(つまり「パトロン」のパトロン)のは「国際文化交流財団」なる存在であることがほのめかされている。あるいは財団の理事長である製薬会社の社長なのかもしれない。この製薬会社の社長は、師匠(パトロン)と初対面の名詞交換の際に、白亜の社屋のヘルメス像の前で師匠(パトロン)頭をコツンと殴られた、というエピソードが書かれている。師匠(パトロン)と理事長を引き合わせたのは「無邪気な」萩青年なのだが、彼は父親が高名な医学者であり、その縁で製薬会社の社長が理事長をつとめる「国際文化交流財団」の仕事をすることになったらしい。師匠(パトロン)の周囲には医学_製薬会社のコネクションがはりめぐらされている、と推測するのは考え過ぎだろうか。作中、じつにしばしば踊り子(ダンサー)は師匠(パトロン)に薬を飲ませるのである。

 理事長は、師匠(パトロン)の世話に専従したいという萩青年の申し出を快諾し、なおかつ彼に財団の嘱託として給料もだす、としたうえで、バルザックの十三人組の話をする。師匠(パトロン)には十三人組の気分に似通うところがある、というのである。十三人組とは何か。

 理事長によれば「十三人組というのは、暗黒世界もふくめて、十三人の実力者がフランスの一時代を支配する、という着想」ということだが、バルザックの小説に書かれているのは、かなり猟奇的な事件であり陰惨な結末のようである。実際、小説の最後で師匠は信者の姉弟とともに焼身自殺を遂げる。「あの人には十三人組の気分に似通うところがある」という理事長の言葉はなんとも無気味ではないか。

 さらに無気味なのが師匠(パトロン)とともに焼身自殺を遂げる立花さんという人物の登場の仕方である。立花さんはカトリック系の大学(上智大であることが暗示される)の図書館司書であり、知的障害をもつ弟とともに自立の道を探る堅実そのものの女性として描かれるが、彼女は「モースブルッガー委員会」というサークルを介して、無邪気な萩青年と出会うのである。「モースブルッガー委員会」とは何か。

 「モースブルッガー」とはオーストリアの小説家ロベルト・ムジールの未完の大作『特性のない男』の登場人物の名前である。大江はモースブルッガーを「奇怪な性犯罪者」と呼んでいるが、たんなる婦女暴行魔ではない。猟奇的な快楽殺人を犯す人物である。「モースブルッガー委員会」は、『特性のない男』の読書会から発展して、犯罪を捜査する人たちにとどまらず、犯罪の当事者を会に招き、話を聞くというところまで行き着いた、と書かれている。敬虔そのものの立花さんがそのようなサークルに参加していたとする設定は何を意味するのだろうか。それから、無邪気な萩青年が、仕事帰りの立花さんと会って別れた後、桜木立の暗闇から街燈の点る舗道に向けて歩き出して、桜の枝でしたたか眼と鼻を横殴りされた、というエピソードは何故記されなければならなかったのか。

 以上、小説の本筋とあまり関係がないように見えるが、私にはどうしても見過ごすことの出来ない点について書いてみた。もうひとつ同じように見過ごせないのが、無邪気な萩青年と津金夫人の恋愛譚である。この、ハッピー・エンドともみえる恋愛譚は何故挿入されなければならなかったのだろう。そのことについては、またあらためて考えてみたい。それから、師匠(パトロン)についての最大の疑問___師匠(パトロン)の性的能力についても。師匠(パトロン)にはかつて妻子がいた、とも書かれているのだけれど。

 ついに最後までまとまりのない乱文でした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年10月12日日曜日

大江健三郎『宙返り』__片肢のない蝉__「踊り子(ダンサー)」とは何か

 前回私は「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」をまず明らかにしなければいけない、と問題を提起した。さて、ところが「何を書いたか」がさっぱりつかめないのである。いっそ謎は謎のままでおいて、次の『取替え子』を読もうかと思った。だが、やはり気になるので、ごく細かい箇所で、あまり議論にならないような部分かもしれないが、私には非常に印象的な描写がなされているところを取り上げてみたい。『宙返り(下)』の最初の部分、四国の谷間の森のかつてギー兄さんが教会をたてた場所に、「無邪気な青年(この無邪気の意味もなかなか複雑である__無邪気はナイーヴイノセントか、あるいはその両方の意味をもつのか)」と称される萩という青年と踊り子(ダンサー)が師匠(パトロン)たちの先乗りとして入った翌朝の出来事である。

 
 地獄のように暗く静かな、雨に降り込められた夜が明けて、踊り子(ダンサー)は自分たちが泊まった家のすぐ下を無数の沢蟹が流れていくのを発見し、「新鮮な血」が流れている、と驚愕する。沢蟹は大江の作品のなかで重要なモチーフとなっている(『同時代ゲーム』の最後、語り手の「僕」が全裸となって森に入り、無数の沢蟹を食べて真っ赤な口になっているところを発見されたのを思いだす)が、その沢蟹を調べに行った踊り子(ダンサー)は、堰堤に降りる細道で胸部の片肢が第一関節までしかない蝉を見つける。羽化したばかりの蝉は蕗の葉に登ろうとしては転がり落ちるのだ。踊り子(ダンサー)はその蝉を萩青年に頼んで柏の枝にとまらせてやる。

 
 片肢がない蝉、という設定がまず、グロテスクである。そのような不具の生き物が羽化することがあるのだろうか、と疑問がわくのだが、作者はここに異形の存在を「虫」として呈示し、踊り子(ダンサー)の次の言葉を導きたかったのだと思われる。

__土のなかに千日も潜っていて、地上に出てみると樹にしがみつく肢が足りないのでは、さぞかし驚いたと思うわ。鳴き声がよくとおりそうな枝を選んで、とまらせてくれる?蝉が鳴くのは生殖のためでしょう?

 踊り子(ダンサー)の言葉はたんなる生き物への憐れみあるいは愛情の表現でないのはいうまでもない。この言葉と照応するのは、小説の末尾近く、最後の「大きな説教」のなかの師匠(パトロン)の言葉である。師匠(パトロン)は、ヒマワリの種を持ち去ろうとする五十雀が、恐慌に襲われたように、チチッと鳴くことに言及する。自分が「大きな瞑想」からこちら側にもどって案内者(ガイド)に喋った言葉はそのチチッに類したものだったと言うのだ。

 その師匠(パトロン)を踊り子(ダンサー)は「初めてあの人を見た時は、掘り起こされたばかりの甲虫の幼虫を思ったもの。黄ばんだ紙のような皮膚に柔らかそうな肉がつまっていて」と表現し「私は案内者(ガイド)が飼っている特殊な生き物を世話する気持ちだったもの。」と言っている。踊り子(ダンサー)とは何か。

 小説の最初に萩青年と踊り子(ダンサー)の出会いが描かれている。そこで踊り子(ダンサー)は「たいていの若者に充分魅惑的なはずの、若さと美しさをそなえた、加えて並なみならぬ個性もうかがわせる娘だった。」と書かれるが、より重要なのは次のような具体的描写である。「それこそこちらと抱き合って踊りたがってでもいるように、小柄で華奢な身体を近付けて親しくささやきかける。しかもその声に、たいてい批評的な鋭い言葉をのせてよこさずにはいられないのだ。」「黙っている際にも口をうっすらと開けてほの暗い赤さの口腔の奥まで見せている」その他にも、「細いがつよい頸」など踊り子(ダンサー)の身体の特徴は繰りかえし表現されるが、とくに、「踊り子(ダンサー)がいつも口を開けている」という特徴は折に触れて強調される。一方の萩青年の身体的特徴がほとんど描かれていないのに比べて、彼女のそれが執拗に繰り返されるのは何故だろうか。

 そしてそのような踊り子(ダンサー)について、無邪気な萩青年が「踊り子(ダンサー)の柔らかくささやくような話しぶりと、いつも口を開いている感じ___だからといって愚かしく見えるのではなくて、利発で機敏な動きをする表情の小休止というふうだ___との結合を寛大に見過ごす、少なくともニュートラルに受けとめるということがなかなかできなかったのであった。」と書かれるのである。

 この小説は師匠(パトロン)の「宙返り」の小説であるのはいうまでもないが、同時に奇怪な出会いをした育雄と踊り子(ダンサー)の小説でもある。少年育雄の抱いた「プラスチックの構造物」の「翼」で「処女膜を破られた」少女が、魁夷な若者となった育雄に「ヤレ!」と言った小説なのだ。

 とりあえずひとつの謎に挑んでみました。不出来な走り書きの文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年10月7日火曜日

大江健三郎『宙返り』___「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」

 『懐かしい年への手紙』、『燃え上がる緑の木』と続いた「魂のこと」を扱う小説は、『宙返り』でおしまいになる。谷間の森を舞台に繰り広げられた宗教三部作はこれで完結する。それぞれの作品の主人公は、初代ギー兄さん、二代目ギー兄さん、「師匠(パトロン)」と変化し、語り手も「僕」から「サッチャン」、最後の『宙返り』では作者の分身であるかのような画家「木津」の視点で語られるが三人称の小説である。どの作品も「魂のことをあつかう人々」が主人公である。「魂のこと」そのものが真のテーマであるとは必ずしも思えないのだが。


 題名になっている「宙返り」という言葉もしくは行為は、作中でも触れられているように、一七世紀トルコに生まれ、メシアを自称したサバタ・ツヴィのイスラム教への改宗に由来すると思われる。ユダヤ人社会でいわゆる「偽メシア」と呼ばれる人物はツヴィ以外にも何人もいるようだが、その奇行、カリスマ性でツヴィは傑出した存在だった。ツヴィを「救い主」と証し自らを「預言者」と名告ったガザのナタンとの二人組は十七世紀の東アジア、ヨーロッパを熱狂と混乱の渦にまきこんだのである。「死か、さもなくばイスラム教への改宗か」とスルタンに迫られたツヴィはあっさりと改宗したが、『宙返り』に登場する『救い主」と「預言者」は、二人そろってTVカメラの前でそれまでの信仰の全否定のパフォーマンスを行った。そして、この信仰の全否定を「宙返り」という言葉で呼び、「救い主」を「師匠(パトロン)」預言者を「案内者(ガイド)」と言い換えたのはアメリカのメディアであった。

 「宙返り」から十年後師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は再び活動を始める。物語は案内者(ガイド)の死を経て師匠(パトロン)が四国の谷間の森に移住して教会をつくり、そこで焼身自殺を遂げるまでが、主に木津の視点で語られる。この小説は「一年以内にしるしを示す、あるいはしるしとな」った男の歴史である。同時に歴史を書くことになった木津の恋人「よな」と呼ばれる育雄という青年の物語でもある。『宙返り』のもう一つの重要なテーマは旧約聖書の「ヨナ記」にみる神とヨナの対決である。大江健三郎は赦す神という「ヨナ記」の主題を、たぶん意図的にずらせて、神とヨナの対決あるいは神に抗議するヨナに焦点を合わせ、かつて神から「ヤレ」という声を聞き、再びその声を待ち望む育雄とパトロンの物語にしたのだ。

 大江の、とくに中期から後期の作品は、それらの複雑な組み立て方から、「如何に書かれているか」が評論の対象になることが多いように見受けられる。旧作の引用、再解釈、他作品のときには(英語以外の言語による原文での)引用など、文脈を直線的にたどるのが困難をきわめることがしばしばである。(「わかりにくくすること」そのものが大江の方法論の目的ではないかと思っている。)そのため、その複雑で入り組んだ文脈をときほぐすことがまず必要とされるからだろう。だが、作品論は「何を書いたか」をまず第一にあきらかにするべきである。少なくとも私のようなまったくの素人にはそのように思われる。

 『宙返り』は何が書かれているのか。前半は語り手木津と同性の恋人育雄、師匠(パトロン)、師匠(パトロン)のマネージャー役の踊り子(ダンサー)が登場し、偶然と必然のいりまじった出会いが描かれる。木津は師匠(パトロン)に惹かれていく育雄とともにいたい、という思いから、死んだ案内者(ガイド)の後を継いでパトロンの新しい案内者(ガイド)の役割をひきうける。師匠(パトロン)は木津を相手に、また亡くなった案内者(ガイド)の通夜集会で旧信者のグループと報道陣を前にして、説教する。その教義は、「一者」、「光の粒子」など、ギリシャ自然哲学とグノーシスと黙示録などの混在したもののようで、私は、そのように言われればそういう世界もあるのかもしれない、というしかない。師匠(パトロン)が一貫して説くのは、この世の終わりが近いということ、悔い改めが必要だということである。

 後半は舞台がお馴染み四国の谷間の森に移る。二代目ギー兄さんの死後、遺棄されたかたちとなっていた「燃え上がる緑の木」の教会の施設と農場を師匠(パトロン)が「新しい人」の教会を開くために譲り受ける。「新しい人」の教会には師匠(パトロン)を囲んで、「宙返り」後の十年間祈りと悔い改めの信仰を守り続けた「静かな女たち」のグループと、かつて案内者(ガイド)に育てられ、そして案内者(ガイド)を死に追いやった「急進派」の集団がおり、その周囲には教会に施設と農場を譲った二代目ギー兄さんの未亡人サッチャンとその(?)息子ギー、施設を管理してきたアサさん、「燃え上がる緑の木」の伝道の先兵となったがいまは寺に戻った「不識寺の松男さん」など前作の登場人物の姿が見える。なぜか資産の大半を「燃え上がる緑の木」の教会につぎ込んだ片腕の「亀井さん」は登場しないのだけれど。

 なかでも重要なのが、「童子の蛍」という少年グループを率いるギーである。少し乱暴ないい方をすれば、師匠(パトロン)の焼身自殺を成就させた実行犯は育雄と踊り子(ダンサー)であり、なくてはならぬ共犯者となったのがほかならぬギーである。そしてまた、テン窪の大檜を焼き尽くすことを提案し、その準備をしたのはギーの母(?)サッチャンであった。谷間の森を舞台とする宗教三部作は、テン窪大檜の焼失とともに幕を閉じたのである。

 この後大江健三郎は二度と宗教を作品中に登場させることはない。そして谷間の村は大江の分身と目される「長江古義人」に決して親和的でなく、むしろ敵意をあらわにする存在となっていく。


 能力不足と努力不足で整理のつかない文章になってしまいました。この魅力的な作品については、もう少し細部にこだわってみたいことがあるので、また続きを書きたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。