2013年4月12日金曜日

「人間のひとり勝ち」という自然観___美しい叙情詩

 昨日の日経新聞の夕刊に歌人の馬場あき子さんが「蛇」と題したエッセイを書いておられた。蛇が日常身近な生き物だった頃の体験を語られ、とくにその脱皮という危険な命がけの生命の営みに感動したことが記されている。簡潔でみずみずしい叙情に満ちたエッセイである。

 
 私の幼い頃蛇はやはり珍しい生き物ではなかった。れんげの花が敷き詰めた田植え前の田んぼで遊んでいて、立ち上がると足元に蛇がいたり、風呂場の薪が積み重なっている間から姿を現したり、あるいは通学路の舗道に長々と横たわっていたりした。「蛇は水の中に入ると生き返る」と誰かに聞いて、動かなくなっている蛇を川に投げ入れた記憶もある。異形の存在に恐怖を覚えなかったわけでもなかったと思うのだが、随分大胆なことをしたものだと思う。

 だが、蛇が脱皮する様や抜け殻は見た記憶がない。蝉の抜け殻は今でも夏の終わりになると、いろいろな場所で目にする。以前マンションに住んでいたことがあって、夏の終わりになるともう動けなくなっている蝉をベランダでよく見た。箒でゴミと一緒に集めようとすると、仰向けの姿のまま手足を動かすので、なんとなく触ることがためらわれた。うつ伏せにして体を起こしてやったこともあるが、また仰向けになってしまう。そのまま完全に死ぬまで何日もかかるのである。大人になった私は、そうやって死んでいく無数の中の一個の死に粛然とした。

 生も死もいつでもどこでも無数にころがっている。幼い頃は無数にころがる生と死を当たり前にそのものとして受け止めたのだろう。意味を考えるのは大人になってからだ。だが、無数にころがる生と死の意味づけは、人間にとっての意味、評価なのである。馬場さんが書いているように、人間がそれらに「励まされたり、悲しんだり、恐れたりする思い」をもつことは大切な経験だが、その経験だけを絶対化してはいけない。

 馬場さんの美しいエッセイに異を唱えるつもりは毛頭ないのだが、結びの文章がどうも気になってしまう。馬場さんは(たぶん、生き物と触れる機会の少なくなった)若者が小さな虫まで気味悪がることに触れ、「いろいろな生のかたちを異質なものと思わない感性はしだいに滅びてゆくのだろうか。人間だけがひとり勝ちのように残ってゆく時の流れのなかで」と結語している。生命の本質的同質性ということに異論はない。アメーバーから人間にいたるまであらゆる生命は平等である。だが、そのことは生物としての事実であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 結語「人間だけがひとり勝ちのように残ってゆく時の流れの中で」は危険な文章である。それまでの文脈から自然に導きだされる文章のようだが、それで納得してしまってはいけない。「自然を破壊してきた人間は自然への感性を失ってしまいました。そして罪深い人間はひとり勝ちしています」という告発をたくみに隠しているのである。この告発に賛同するか否かは別として、告発は告発としてきちんと文章化しなければいけない。私はこの告発に賛同することはできない。

 「人間だけがひとり勝ちのように残って」はいけないのか。いや「ひとり勝ちのように残って」いる人間とは、どのような次元から眺められるのだろうか。バブルの頃ならいざしらず、いまの日本で、あるいは世界のどこに「ひとり勝ち」して生活している人間がいるのだろう。ほとんどの人が地べたにへばりついて、その日の糧を得るために働いている。「人間だけがひとり勝ちのように」残らない世界とはどんなものなのか。人間と他の生物が予定調和的に共生できる世界を夢みるのか、それとも地べたにへばりついて働いている人間がまっ先に殲滅され、一握りの人間と他の生物と地球が復活する世界を意図するのだろうか。その道筋をあきらかにしないで「時の流れのなかで」で結語するのはあまりに美し過ぎる。

 サリンジャーを書かなければいけないのに、またより道してしまいました。今日も独断と偏見に満ちた文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年4月9日火曜日

『サリンジャー戦記』を読んで____村上春樹氏へ_一つの根本的な疑問

 さていよいよフィービーについて書かなければならないのだが、それを書くことは『ライ麦畑でつかまえて』の最終的な結論を提示することになる。その前に前回述べたように、二人の学友アクリーとストラドレーター、カール・ルース、グランド・セントラル・ステイションで出会った二人の尼さんなどについても触れておきたい。それで、今回はちょっと閑話休題、村上春樹と柴田元幸という当代きってのサリンジャー読みが対談した『サリンジャー戦記』という本の読書感想文を試みたい。

 対談は「君ってだれだ?」という魅力的な小見出しから始まる。 If  you  really  want  to hear  about  it と書き出されるyou は誰なのか、という問いは謎に満ちた この小説を読み解く上で最も重要な問いだろう。だが、残念なことに魅力的なのは小見出しだけで、結局 you は「ひとつの考え方としてオルターエゴ(もう一つの自我)」ということに落ち着いてしまったようだ。村上春樹は「この小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内面的葛藤というか、『自己存在をどこにもっていくか』という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのかということなんです」と言っている。

 そうだろうか。冒頭の文章に続けて、ホールデンは「・・・まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたのか、とかそういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実を言うと僕はそんなことはしゃべりたくないんだな」と宣言している。その通り、ホールデンはペンシーを脱け出してフィービーを回転木馬に乗せ雨にうたれるまでの三日間の出来事だけを語るのだ。語りの最後に「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とあるから、D.Bだけでなく、その他複数の人間に語ったのだ。「内面的葛藤」を多数の人間に語ってその語りが小説になることがあるだろうか。

 対談はこの小説のあちこちをつつきながらいくつかの謎を見出すのだが、なんだかボタンの掛け違い、という感じがする。ここでは一番大きいボタンをあげておきたい。題名の訳し方である。原題 The  Catcher  in  the  Ryeはいままでの訳では「ライ麦畑でつかまえて」と主語を省いて動詞の連用形で終わるかたちだった。村上訳では「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と一見原題に近いように見える。だが、根本的に違っている。原題は「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」で定冠詞「ザ」が入るのだ。一般的な「捕まえる人」ではなく「その捕まえる人」なのである。特定の個人を念頭において発語しているのだ。

 そもそもThe  Catcher  in  the Rye という題名のもとになったロバート・バーンズの詩はフィービーの言うとおりIf  a  body  meet  a  body  coming  through  the  rye でこれをIf  a  body  catch  a  body と聞き違えるという設定にどうしても不自然なところがある。フィービーに指摘されて気がつくのだが、その後のホールデンの言葉にも納得できない。広いライ麦畑で子供たちがゲームをしていて、誰かが崖から落ちそうになったら その子をつかまえる、そういうものになりたい、という。ライ麦畑に崖?麦畑に崖があるものだろうか。日本の棚田ではあるまいし。ライ麦畑で遊ぶなら、この詩というか俗謡にあるように「二人でキスした、いいじゃないか」だろう。

 ライ麦畑の捕まえ手になりたいというホールデンを造形したサリンジャーを村上春樹は「イノセンスというものを守護しようと、一人で立ち上がった」と言う。と言いながらイノセンス自体は読者にとってもはやキー・ポイントではないとする。その理由も二人の対談の中で説明されるが、なんだかわかったようなわからないような感じである。だいたいアメリカ文学を語る三つの大きななテーマがあるようで、イノセンスとイニシエイションと大脱出である、と昔習ったような気がする。そのどれかを用いれば何かを言ったような格好がつくから、学生時代の私なら嬉々としてレポートを書いたかもしれないが、齢?十歳をこえてそういう作業をする気はない。それは源氏物語を語るのに貴種流離譚等のモチーフをもちだして何かを語った気になるのと同じである。

 話が横道にそれたが、この対談の最後は「イノセンスから愛へ」という小見出しで締めくくられる。「愛へ」となっているが、結論は「ホールデンは優しさをもっているけれど、誰かを真剣には愛さない」ということで「変動的相対性の海の中にいるというか、普遍的な足場を持たない少年の話なんだけど、それが社会的に許される時期というのは、精神的にはかなりきついけれども、この時期しかないんです」ということになる。?ずいぶんいろいろなことを言ってきてこの結論?まぁ、「一人の男の子の内面的葛藤」とか「自己存在」という言葉で作品分析をすれば、こういう結論になるのだろう。私には同語反復としか思えないが。

 大分辛口の読書感想文になってしまったことにわれながら驚いています。最後にこの本を読んで大変参考になったことを一つ書き留めておきたいと思います。それは、対談に先立つ部分「ライ麦畑の翻訳者たち  まえがきにかえて」という村上さんの文章の中に、サリンジャーのアメリカ本国のエージェントから訳者がいっさい解説をつけてはならない、という通知がきてせっかく書いた解説をはずした、とあることです。テキストはテキストとして読まれなければならない、ということでしょう。大変貴重な情報でした。村上さんどうもありがとうございました。

 不出来なしかも高名なお二人に対して大変失礼な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年4月3日水曜日

『ライ麦畑でつかまえて』____アントリーニ先生とは何か

 黒衣の美女サリー・ヘイズとの惨憺たるデイトのあと、ホールデンはかつてフートンの先輩だったカール・ルースと会う。なぜか夜十時という時間に現れてさっさと帰ってしまったこのルースのことも、それから順序は前後するが、グランド・セントラル・ステーションでホールデンと朝食をともにしながらシェークスピアの話をした尼さんのこと、またペンシーの学友二人アクリーとストラドレーターについても書かなければならないのだが、いまはまず、アントリーニ先生について考えてみたい。ホールデンは三日間の逃避行?の最初と最後に「先生」と名のつく人に会うのである。

 妹のフィービーに会いたくて、ホールデンは自宅マンションにしのび込む。だが、そこで夜を明かすことはできないので、かつてエレクトン・ヒルズで英語を教わったアントリーニ先生に電話して泊めてもらうことにする。まだ若い先生にはリリアンという六十くらい(!)年上の大金持ちの奥さんがいて、二人の仲はうまくいっているようだが、不思議なことにこの夫婦は同時に同じ部屋にいることがないので、いつも大声で叫びあっている。この夜も先生の方はハイボール片手にバスロープ姿で現れたが、奥さんは「ホールデン、ちょっとでもあたしを見ちゃだめよ。ひどい格好なんだから」と言って姿を隠そうとする。折りしも「バッファローから来た女房の友だち仲間」とパーティをしていた後で、あたり一面散らかり放題のようである。

 アントリオーニ先生は「僕がこれまで接した中で一番いい先生だった」とホールデンはいう。ホールデンがエレクトン・ヒルズをやめた後も彼の様子を見に家を訪れて食事をともにしたり、ホールデンの方が先生の家に行ったりしていた。この夜ホールデンは極度の体調不良で早く休みたかったのだが、酩酊状態の先生は熱っぽく語ってやまない。

 先生はホールデンが「どこまでも堕ちて行くだけ」の「特殊な堕落」「恐ろしい堕落」に向かって進んでいると言う。彼が「きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で高貴な死に方をしようとしていることが」はっきりと見える、というのだ。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者の言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」を書いた紙をホールデンに渡す。

 さらに先生は学校教育について説き始める。ホールデンは遠からず自分の進むべき道をみつけださずにはいられない。そのときは直ちに学校に入らなければならない、というのだ。そこで自分と同じような経験をして同じような悩みを悩んだ先人の記録に学び、自らもその経験を人に与えることが出来れば、それは「美しい相互援助」というものであり、「こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」と興奮してとどまるところを知らないかのようである。ホールデンのほうは何故か急に眠たくなってあくびをかみころしていたが、先生が「学校教育を続けていけば『自分の頭のサイズ』がわかりかけてくる」というくだりまで話したところでついにあくびをしてしまう。ようやく先生の演説が終わり、ホールデンは窮屈なベッドに身を横たえる。

 出来事が起こったのはその後である。あっという間に眠り込んでしまったホールデンだったが、誰か手で頭をさわったのに気がついて突然目を覚ましてしまう。アントリーニ先生が床に坐ってホールデンの頭を愛撫していたようなのだ。ホールデンは「一千フィートばかしも跳び上がった」。そしてなんとか身支度を整えると、どうしても見つからないネクタイはしないまま、先生の部屋から逃げ出したのである。

 ホールデンはどうしてそんなに怯えたのだろうか。信頼していた先生が同性愛者だったとしても、「身体が気違いみたいに震えて」汗びっしょりになるほど恐ろしい体験だろうか。こういうことは「子供の頃から二十回ほど」も繰り返した、というが二十回繰り返してもなお「がまんができない」体験?それにしては、前述のカール・ルースとの会話で、ホールデンはルースの性生活について同性愛も含めて話題にしているが、その話ぶりは執拗で、異常といってもいいくらいな執拗さに違和感を覚えるほどだ。話題にすることと実際に体験することとはまったく違うのだろうか?

 アントリーニ先生とホールデンの会話はほとんど先生が一方的に熱弁を振るって高邁な教育論を語るのだが、妙に具体的でトーンの異なる箇所がいくつかある。その一つはホールデンが話題にした《弁論表現》の授業について、本題と無関係なことを言って《脱線!》とどなられてばかりいた生徒をホールデンが擁護する場面である。気が小さくて唇のふるえがとまらないこの生徒はいつもこの課目で《Dの上》だったが、あるとき父親が買った農場のことを話していて、途中で彼のおじさんが四十二のときに小児麻痺になったことを興奮して話だした、というのである。それに対してクラスの他の生徒たちは《脱線!》を浴びせかけるが、ホールデンはそのまま話さしてやるべきで、しょっちゅう「統一しろ」「簡潔にしろ」とばかり言う担当の教師も他の生徒たちも間違っているという立場なのだ。彼自身は《弁論表現》の評価は《F》だったという。

 もうひとつ微妙にトーンの異なる箇所があって、それはアントリーニ先生が、ホールデンは「恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいる」という話題を持ち出した部分である。その「堕落の種類」について先生が説明するのだが、その「種類」がちょっと不思議なのである。「君が三十くらいになったとき、どっかのバーに坐り込んでいて、大学時代にフットボールをやっていたような様子をした男が入って来るたんびに憎悪をもやす」というような堕落、あるいは「『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間」になってしまうような堕落、さらに「身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になってしまう」ような堕落と三つの例を挙げるのだが、これらはそんなに「恐ろしい堕落」なのだろうか。この後に抽象的で高邁な教育論が続くので、この部分が際立って異質なものに見えるのである。

 それから、これは日本語訳の問題かもしれないのだが、アントリーニ先生が「自分の頭のサイズ」はいくつか、という箇所について、原文はWhat  size mind you have となっていることに少し引っかかるものを感じてしまう。訳者の野崎さんはこの部分 mind という単語をすべて「頭」と訳していて、ある意味それは名訳だと思うのだが、mind という単語は普通は「心」とか「気持ち」というような感性的なニュアンスの日本語に訳すのではないか?私自身は野崎さんがこの訳語を使ってくれたおかげで随分いろいろなことが見えてきたような気がするのだが。

 
 アントリーニ先生に関して、まだいくつか考えなければならないことがあって、そのひとつが奥さんの名前についての疑問である。奥さんの名前は「リリアン」というのだが、ホールデンの兄D.Bが昔つきあっていた女の名前と同じなのだ。これは偶然なのだろうか。作品の中で違う人間に同じ名前をつけることがあるものだろうか。

 アントリーニ先生については、もしかしたらスペンサー先生より謎の部分が多くあるのかもしれません。とりあえず途中経過の報告です。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。