2013年4月9日火曜日

『サリンジャー戦記』を読んで____村上春樹氏へ_一つの根本的な疑問

 さていよいよフィービーについて書かなければならないのだが、それを書くことは『ライ麦畑でつかまえて』の最終的な結論を提示することになる。その前に前回述べたように、二人の学友アクリーとストラドレーター、カール・ルース、グランド・セントラル・ステイションで出会った二人の尼さんなどについても触れておきたい。それで、今回はちょっと閑話休題、村上春樹と柴田元幸という当代きってのサリンジャー読みが対談した『サリンジャー戦記』という本の読書感想文を試みたい。

 対談は「君ってだれだ?」という魅力的な小見出しから始まる。 If  you  really  want  to hear  about  it と書き出されるyou は誰なのか、という問いは謎に満ちた この小説を読み解く上で最も重要な問いだろう。だが、残念なことに魅力的なのは小見出しだけで、結局 you は「ひとつの考え方としてオルターエゴ(もう一つの自我)」ということに落ち着いてしまったようだ。村上春樹は「この小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内面的葛藤というか、『自己存在をどこにもっていくか』という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのかということなんです」と言っている。

 そうだろうか。冒頭の文章に続けて、ホールデンは「・・・まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたのか、とかそういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実を言うと僕はそんなことはしゃべりたくないんだな」と宣言している。その通り、ホールデンはペンシーを脱け出してフィービーを回転木馬に乗せ雨にうたれるまでの三日間の出来事だけを語るのだ。語りの最後に「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とあるから、D.Bだけでなく、その他複数の人間に語ったのだ。「内面的葛藤」を多数の人間に語ってその語りが小説になることがあるだろうか。

 対談はこの小説のあちこちをつつきながらいくつかの謎を見出すのだが、なんだかボタンの掛け違い、という感じがする。ここでは一番大きいボタンをあげておきたい。題名の訳し方である。原題 The  Catcher  in  the  Ryeはいままでの訳では「ライ麦畑でつかまえて」と主語を省いて動詞の連用形で終わるかたちだった。村上訳では「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と一見原題に近いように見える。だが、根本的に違っている。原題は「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」で定冠詞「ザ」が入るのだ。一般的な「捕まえる人」ではなく「その捕まえる人」なのである。特定の個人を念頭において発語しているのだ。

 そもそもThe  Catcher  in  the Rye という題名のもとになったロバート・バーンズの詩はフィービーの言うとおりIf  a  body  meet  a  body  coming  through  the  rye でこれをIf  a  body  catch  a  body と聞き違えるという設定にどうしても不自然なところがある。フィービーに指摘されて気がつくのだが、その後のホールデンの言葉にも納得できない。広いライ麦畑で子供たちがゲームをしていて、誰かが崖から落ちそうになったら その子をつかまえる、そういうものになりたい、という。ライ麦畑に崖?麦畑に崖があるものだろうか。日本の棚田ではあるまいし。ライ麦畑で遊ぶなら、この詩というか俗謡にあるように「二人でキスした、いいじゃないか」だろう。

 ライ麦畑の捕まえ手になりたいというホールデンを造形したサリンジャーを村上春樹は「イノセンスというものを守護しようと、一人で立ち上がった」と言う。と言いながらイノセンス自体は読者にとってもはやキー・ポイントではないとする。その理由も二人の対談の中で説明されるが、なんだかわかったようなわからないような感じである。だいたいアメリカ文学を語る三つの大きななテーマがあるようで、イノセンスとイニシエイションと大脱出である、と昔習ったような気がする。そのどれかを用いれば何かを言ったような格好がつくから、学生時代の私なら嬉々としてレポートを書いたかもしれないが、齢?十歳をこえてそういう作業をする気はない。それは源氏物語を語るのに貴種流離譚等のモチーフをもちだして何かを語った気になるのと同じである。

 話が横道にそれたが、この対談の最後は「イノセンスから愛へ」という小見出しで締めくくられる。「愛へ」となっているが、結論は「ホールデンは優しさをもっているけれど、誰かを真剣には愛さない」ということで「変動的相対性の海の中にいるというか、普遍的な足場を持たない少年の話なんだけど、それが社会的に許される時期というのは、精神的にはかなりきついけれども、この時期しかないんです」ということになる。?ずいぶんいろいろなことを言ってきてこの結論?まぁ、「一人の男の子の内面的葛藤」とか「自己存在」という言葉で作品分析をすれば、こういう結論になるのだろう。私には同語反復としか思えないが。

 大分辛口の読書感想文になってしまったことにわれながら驚いています。最後にこの本を読んで大変参考になったことを一つ書き留めておきたいと思います。それは、対談に先立つ部分「ライ麦畑の翻訳者たち  まえがきにかえて」という村上さんの文章の中に、サリンジャーのアメリカ本国のエージェントから訳者がいっさい解説をつけてはならない、という通知がきてせっかく書いた解説をはずした、とあることです。テキストはテキストとして読まれなければならない、ということでしょう。大変貴重な情報でした。村上さんどうもありがとうございました。

 不出来なしかも高名なお二人に対して大変失礼な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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