2022年1月27日木曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__つげ義春「ねじ式」と河の神_「め」の世界

  千尋の神話的深層を探る前に、この映画が一部下敷きにしているといわれるつげ義春の漫画「ねじ式」について考えてみたい。

 「ねじ式」は一九六八年雑誌『ガロ』に掲載された短編漫画である。海水浴にきて「メメクラゲ」に左腕を嚙まれ、静脈を切断された男が医者を捜しまわるが、村には医者が見当たらない。なんだか奇妙な漁村で、洗濯物をかけた衣紋かけが林立していたり、家と家の間に日の丸の旗がのぞいていたりする。なんとなく、当時としてもレトロな雰囲気が漂う村の中を男は必死に捜すが、村人は誰も「イシャ」のありかを教えてくれない。

 男は隣村に行って捜そうとして、線路の中を歩くが、折よくやってきた汽車に乗る。たった一両、座席も一つしかなさそうな不思議な蒸気機関車である。狐の面をかぶった子供が運転士である。しかも、汽車は後ろに進んで、到着したのはもとの村だった。

 男は「テッテ的」に捜そうとしたが、目玉マークの眼医者が軒をならべているばかりだ。そして、男は金太郎アメをつくっている老婆に出会い、老婆の所有する「金太郎飴ビル」の一室で開業している「産婦人科の女医」を紹介される。男が捜していたのは「産婦人科の女医」だったのだ。

 老婆と男は不思議な縁があるようだ。男は老婆に「あなたはぼくが生まれる以前のおっ母さんなのでしょう」と聞くが、老婆は「それには深ーいわけがある」といってこたえない。それは金太郎アメの製法特許と関係があるらしい。金太郎アメは、桃太郎のデザインだが、金太郎なのだ。はぁ?老婆と男は金太郎アメのおりくちを見せ合って別れる。

 暗くなって、電柱だか十字架だかが立ち並ぶ家の間を通って、ようやくビルの一室にたどりつく。ここはどういう建物なのだろう。円筒形の建屋が二つ見える。「金太郎飴ビル」と看板がかかっている。そのてっぺんに煙突のようなパイプが何本か立っていて、クレーンのようなものも見える。ここに「産 婦人科」という看板がかかっている。ビルというより工場のようだ。

 内部にはドアのない入口がいくつもあって、中に何かよくわからないものが堆積している。その向こうに女医がいる。着物姿で額に診察用の鏡をつけ、千鳥格子の座布団に座っている。おかしな猫足テーブルに向っていて、テーブルの上にはお銚子が一本と猪口が置かれている。開け放った障子の間から海が見え、遠くに軍艦が一艘浮かんでいて、今まさに砲撃している。

 いまは戦争中なのか?冒頭一コマ目も、左腕をかかえる男の頭上に巨大な戦闘機の影が描かれる。「イシヤはどこだ!」と呻く男の背後に喇叭を吹きながら行進する兵隊の影が描かれるコマもある。

 「シリツをしてください!」と叫ぶ男に「お医者さんごっこをしてあげます」と女医は全裸になって、「麻酔もかけずに」「シリツ」をする。「ギリギリ」と音がして、私にはなんだかよくわからないが、静脈は繋がったようである。男の左腕には蝶ねじが挿し込まれている。この手術は「○×方式」を応用したものだが、「ねじは締めたりしないでください。血液の流れが止まってしまいますから」と女医はいう。

 という回顧談を、左腕に蝶ねじを挿し込んだ男が、モーターボートの後ろに座り、話している場面で終わりになる。なんともシュールな漫画だが、そんなに難解でもない。だが、いまはその謎解きをするつもりはなく、ただ「め」と「「ねじ」を覚えておきたい。

 男がなぜ「イシヤ」を探したのか。なぜ眼医者しかなかったのか。それは、男が切断されたのが左腕だったことと関係があるのか。「ねじ」あるいはそれを締めるスパナの意味何か。

 「千と千尋の神隠し」に戻れば、食べ物のにおいにつられて両親が向かった先は、国籍不明だが、何となく中国風、東アジア風な店が並ぶ飲食店街だった。「生あります」という看板が下がり、「餓えと喰う会」という不思議な垂れ幕が張られている。「呪」「骨」「肉」「狗」「鬼皮」など不気味な文字が目につくが、最も目立つのは「め」という文字と目玉マークだろう。豚になった両親に驚いて、来た道を戻ろうとした千尋をとり囲む「めめ」と目玉マーク、「生あります」の看板(最後のクレジットが流れる絵コンテでは「生めあります」になっている)だった。「油屋」の門前は「めの世界」だった。

 油屋の従業員になった千尋が、オクサレさまならぬ「名のある河の主」を迎えて、神さまに刺さった「トゲ」を見つける。「トゲ」は自転車の左側のハンドルだったが、皆でそれを引き抜くと、大量の廃棄物があふれ出てくる。二槽式洗濯機や便器などに混じって、国旗(あるいは白旗?)が出てくるのも印象的だが、最後に水の底に沈むスパナが映されることに注目したい。

 宮崎駿はなぜここまでして、ねじ式の世界を想起させたかったのか?「名のある河の主」と左腕にねじを挿し込んだ男は関係があるのか?

 「名のある河の主」は千尋を濁流から掬い上げ、「善哉」と言って、千尋に草団子をあたえ、角のない龍の姿になって去る。「名のある河の主」とハク、千尋の関係については、難問である。もう少し、時間をかけて考えてみたい。解が見つかるかどうか、心もとないのだが。

 「めの世界」と油屋については、もっと堀下げなければならないかもしれません。今日も乱雑な走り書きを最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2022年1月24日月曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__油屋と銭屋の双頭支配__荻野?

  前回のブログで、現身として表現された「ちひろ」についてささやかな考察を試みた。今回は、この作品のひとつのテーマである「名前」にこだわって考えてみたい。名前とは、存在をアイデンティファイするもっとも重要な要素であることはいうまでもない。

 まず、姓名の名である「ちひろ」について。ジブリの公式サイトというところでは「千尋」と表記され、映画の中でも湯婆と契約するときに本人が「千尋」と書いている。「ひろ」というやまとことばは、両手を広げた状態の長さを表す単位で、とくに水深について使うようである。

 千尋が契約書に書いた文字は漢字の「尋」で、こちらはもうちょっと深い意味があるようだ。漢字の成り立ちを調べてみると、「右」と「左」を組み合わせた文字で、両方の手にそれぞれ「工」という神具と「サイ」(祝詞をかいたものを収める神具)を持ち、踊る様子をあらわしたものという。ちなみに「踊る」の原義は神事の際の舞踏をいう。「神に祈る」というのが「尋」のもともとの意味であると思われる。湯婆がちひろに、「贅沢な名前だね」と言ったのはこれを指して言ったのだろう。「千」_「ち」_非常に多いの意_も祈りをささげるのだから。

 ここまでは、少し調べれば誰でもほぼ同じ結論にたどりつく推理である。私がわからないのは、苗字の「おぎの」である。公式サイトには「荻野」とあるようだが、千尋は湯婆と契約するときに不思議な文字を使った。草冠に「犾」という字である。「狄」という字を草冠の下に書いて「荻」になるが、草冠の下に「犾」という漢字は見当たらない。「獲」の異体字という説もあるが、それでいいのかどうか疑問である。「犾」という字は「ギン」と読み、犭も犬を表すので「二匹の犬が吠え合っているさま」ともいわれるが、これもよくわからない。たんに千尋がまちがえただけかもしれない。

 ごく常識的に「荻」の字をまちがえた、あるいは隠した、ととるほうが作品を筋道立てて理解しやすいのだろう。「荻」は水辺あるいは湿地帯に生える多年草で、かつては茅葺の屋根に利用していたそうで、銭婆の家はこじんまりした茅葺の家だった。オクサレ様を迎える大湯の周辺も荻で覆われていたし、龍の姿になったハクの背中に生えていたのも荻のように見える。

 苗字は出自を示すので「おぎの(荻野?)」という苗字が奪われたことは属性を失い、自分のルーツを辿れなくなってしまうことを意味する。名前の「尋」という字も奪われたということは、個性を抹消されたということである。「千」という記号だけが許された存在。「油屋」の従業員は湯婆と契約を結ぶが、属性も個性も奪われ、一方的に労働力を提供する「記号」として存在する。

 余談だが、千尋の世話役として魅力的に描かれる「リン」は「五十鈴」だと考えている。リンについては、もう少し勉強してから書いてみたい。

 ひとつ注意しておきたいのは、属性と個性を奪って従業員を支配する湯婆は、全知全能の神ではない。千尋を前に「つまらない誓いをたてちまったもんだよ。働きたいものには仕事をやるだなんて」と愚痴をこぼしているように、湯婆は、勤勉で有能な経営者、というより現場支配人なのである。ヒエラルキーでいえば、湯婆の上には暴君の「坊」がいる。「坊」とは何かという問いも、じつは大問題なのだけれども、ともかく湯婆の上には「誓い」を立てた相手がいる。

 同じように双子の姉銭婆も全能ではない。「あたしたち二人で一人前なのに、気が合わなくてね。ほら、あのひと、ハイカラじゃないじゃない」という事情だが、契約印は銭婆がもっているので、ヒエラルキーは銭婆が上だろう。実務家の湯婆としては身を粉にして働いて、肝心の契約印は金融担当の銭婆が握っているのでは割に合わないと考えたのだろう。それで、これまでも忠実に「ヤバい」仕事をしてきたハクに命じて、契約印を奪わせようとしたのだと思われる。

 湯婆と銭婆については、もう少し書くことがあるのだが、長くなるので、今回はここまでにしたい。名前の問題は、ハクについても掘り下げなければならないが、ハクは物語の最後で、みずから「ニギハヤミコハクヌシ」と名告っているので、ヒントは十分にあたえられている。十分すぎるかもしれない。ジブリファンの方々もいろいろ考察されているようである。

 さて、根本的な問題として、私は「千と千尋の神隠し」という題名の意味がわからない。「神隠し」という言葉は、(主に子どもが)行方不明になることである。千尋が行方不明になったから「「千と千尋の」神隠し』なのか。それならば、『「千と千尋が」神隠し(にあった)』というのではないか。なんとなくおさまりが悪いけれど。「千と千尋の神隠し」は『「千と千尋の神」隠し』ではないか。千と千尋の深層にいる神を隠した話ではないか。千いや千尋の深層に神はいないか?隠されたあるいは抹消された神は?そのことについて、次回考えてみたい。

 最初は千尋=瀬織津姫というモチーフで考えていたのですが、いまはまた別のモチーフを考えています。こちらのほうが重く深いテーマなので、とりかかるには体力気力に万全を期して(というほど大げさでもないか)取り組みたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2022年1月23日日曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__油屋と銭屋の双頭支配__「おぎのちひろ」とは何か

  昨年から島崎藤村の『夜明け前』を読んでいるが、遅々として進まない。あまりにも重く、大きな課題に向き合って、最初から腰が引けてしまっている。それで、つい、精巧に組み合わされたジグゾーパズルを解く感覚で、金曜ロードショー『千と千尋の神隠し』に寄り道してしまった。ところが、これもかなりの難問なのである。

 映画の導入がまず、不思議、というか不気味である。「ちひろ 元気でね また会おうね 理砂」という文字と理砂らしき女の子のイラスト入りのカードと、(たぶん)スイトピーの花束が画面いっぱいに映され、花束の向こうに子どもの足(正確にはむきだしの太ももと靴をはいた足)がちらっと見える。その後画面が切り替わると、車の後部座席に寝転がって、足を段ボールの箱の上にのせている女の子がいる。つまらなそうな顔である。一瞬、花束を抱いた子がお棺の中にいるのかと思ってしまった。

 「ちひろ、ちひろ、もうすぐだよ」という男性の声「やっぱり田舎ね。買い物は隣町にいくしかなさそうね」という女性の声「住んで都にするしかないさ」という男性の声が続く。一家は引っ越しの途中で、身の回りの荷物を載せて乗用車で引っ越し先に向かっているらしい。もうすぐ引っ越し先の新しい家に着くようだが、女の子は転校先の学校を示されてもアカンベエをして「前のほうがいいもん」とふて腐れた様子。そして、花束の花が萎れってっちゃったと母親に訴えるのだが「水切りすれば大丈夫」と取り合ってもらえない。「初めてもらった花束がお別れの花束なんて悲しい」という女の子に母親は「あら、この前のお誕生日に薔薇の花をもらったじゃない」とこたえる。それに対して女の子は「一本ね。一本じゃ花束っていえないわ」と返す。なかなかのものである。 

 この後母親が「カードが落ちたわ。窓を開けるわよ。もう、しゃんとしてちょうだい。今日は忙しいんだから」と女の子に言って、(なぜか)窓を開ける。半開きになった窓から外の景色が流れる。さらに三叉路を右に折れていく乗用車の後部が映される。上に掲げられた標識には「国道21号 とちの木 中岡」とあって、車は右側「とちの木」方面に折れ、つづら折りのようになった坂道を登っていく。坂の上にひな壇状に造成された新興住宅街が目的地のようである。そこそこ大きな家が立ち並ぶ住宅街が画面いっぱいに写され、「千と千尋の神隠し」のタイトルがオーヴァーラップする。ここまで1分39秒である。そしてここまでに、この映画の謎が盛りだくさんにつめこまれている。

 何が謎で、その謎をどう解いたらいいかについては、おいおい触れていくことにして、まずとりあげたいのは、この車は「四輪」のアウディで、当然エアコンもついているはずなのに、どうして窓を開けるのだろうか。季節は、暑くもなく寒くもなさそうで、女の子とその両親の服装も半袖のTシャツの軽装である。女の子がスイトピーの花束を握りしめているところを見ると、たぶん五月だろう。連休を利用しての引っ越しだと思われる。

 タイトルが流れた後、画面は切り替わって、杉の巨木が映される。根本に置かれている鳥居に比べると、とてつもなく大きな木であるが、幹から出た枝はほとんど折れている。鳥居の周りに杉の木を囲むようにしてたくさんの石が散らばっている。どうやら道を間違えたようである。「あのうちみたいの何?」と聞く女の子に母親が「石の祠。神さまのおうちよ」と即答して、車はさらに舗装されていない道を進んで行く。

 落雷に直撃されたような杉の巨木と片寄せられて見捨てられた鳥居、石の祠、これらがもたらすメッセージは誰でも受け止められるもので、私がわざわざ解説するまでもないだろう。その先のトンネルの前に立つ蛙の石像も同様で、賽の神である。前と後ろの両面を向いているのが奇妙といえば奇妙だが。

 母親の制止を振り切って、石畳の道を猛烈なスピードで車は進み、蛙の石像に遮られてトンネルの前で止まる。見上げると、暗い赤っぽい色のトンネルの上に屋根があって、「湯屋」と描かれた古い看板が掲げられている。「湯」と「屋」の間に丸で囲んだ「油」という文字がはさまっている。「門みたいだねえ」といいながら父親は興味を覚えたらしく、トンネルの方に進んでいく。母親は戻ろう、と制止するが、女の子はすぐに車を降りて父親の傍に行く。

 「なんだ、モルタル製か。けっこう新しい建物だよ」と父親は言って、薄暗い奥に出口らしきものを見つけて、中に入ろうとするが、足元の枯草がトンネルの中に吸い込まれて行くのを見て女の子は怖くなる。「戻ろうよ、お父さん」と車のところに戻る女の子を置き去りにして、母親までも「ちひろは車の中で待ってなさい」とトンネルの中に入って行く。置き去りにされた女の子は、何ともしれぬ「ほろほろ」と鳴く鳥の声のような音におびえて、両親の後を追い、トンネルの中にはいって行く。

 女の子は「そんなにくっつかないでよ。歩きにくいわ」といわれながらも、母親の腕にしがみついて進んでいく。出口近くいくらか光の指し込む空間が見えてくる。そこにはたくさんの石柱があって、上のほうに小さなランプが石柱を囲むように吊るされている。いくつもの(たぶん)木製のベンチが置かれ、小さな円いステンドグラスのような窓からかすかな光が差し込んでいる。隅の方に壊れた家具のようなものが乱雑に積み重ねられている。修道院のような雰囲気もするが、なんだか、死を待つ人のための部屋、といった趣がある。あるいは、収容所に送られる人が一時そのときを待つための部屋。

 トンネルを進んでその部屋に入ると、前より明るくなって、電車の音が聞こえてくる。小さな円いステンドグラスと蝋燭の燭台が映される。「案外駅が近いかもしれないね」という母親に「行こう。すぐわかるさ」と父親も応じて、三人はトンネルを脱け出る。

 トンネルを脱けると、見わたす限り広い草原で、ここにも奇妙な形の石像があり、ところどころに朽ちかけた家も散在している。父親が「やっぱり、間違いないな。テーマパークの残骸だよ、これ」と言って上をみあげると、トンネルの上は赤っぽい塗料が剥げかけた倉のような建物である。屋根の上に時計塔が乗っている。建物の側面に丸で囲んで「湯」と描かれ、正面にまた別の時計が描かれていて、時計塔の時計と異なる時刻を示している。その下には「復楽」と書かれた看板がかかっている。

 何とも奇妙なのが、時計の文字盤である。上の時計塔のそれは、直角の二面についていて、そのどちらも一見「10時40分」を指しているようだが、「3」と「9」の位置が逆さまで、しかも数字の並びがくるっている。下の時計は文字盤が数字でなく、漢字で書かれているが、かろうじて読めるのは「6」の位置にある「参」だけである。

 九十年代にたくさん計画されて、その後つぶれてしまったテーマパークの残骸が残っているんだ、と言って、どんどん進んで行く父親とその後を追う母親。女の子ひとり、「もう帰ろうよ!」と叫ぶが両親ともふりむかない。残された女の子の頭の上の方から風が吹きつけて、木の葉が舞う。風は時計のほうから吹いてくるようだ。怖くなった女の子は、しかたなく両親の後を追う。

 ここまで6分40秒である。この後、賽の河原だか三途の川を渡って、石段を上り、無人の食べ物屋で山盛りの料理を貪り、両親が豚になるくだりとそれ以降は、多くのジブリファンがさまざまな考察を試みているので、とりあえず今回はここまでにしたい。この作品は、じつはここまでが謎だらけで、しかも、ほとんどの人が謎に気づかないようである。私にとって、最大の謎はこの女の子_「千尋=ちひろ」と呼ばれる_が何ものなのか、ということである。

 誰でも気づくのは、両親、とくに母親が千尋にたいして冷淡であることだ。トンネルの暗がりを歩くときも「くっつかないで」と言い、大きな石ころだらけの川を渡るときは、「早くしなさい」というばかりで、手を貸そうともしない。よく見ると、車から降りた千尋は極端に手足が細くて、着ている服はだぶだぶである。どう見ても、愛されている子の風体ではない。両親と千尋の関係性は、日常現実の世界で理解しようとしても、無理なような気がする。それは「神隠し」_隠された神の世界に入り込んで解き明かすしかないのではないか。私は一つの仮説をもっているが、長くなるので、今回はここまでにしたい。次回はまず、「おぎのちひろ」という名前を手掛かりに考えてみたい。千尋という存在の深層に隠された神は何か。

 最後に蛇足をつけ加えると、この映画の舞台は、双子の姉妹である「油屋」と「銭屋」が双頭の鷲のように支配する異空間である。銭屋が所有する契約印を油屋が奪おうとして失敗する。最も大きなプロットはこれである。その契約は、誰と誰の間で結ばれるものか、という点が、いまの私には疑問なのだけれど。

 いろいろ調べていて時間ばかり経ってしまいました。自分が神話や歴史をあまりにも知らないことに気づいて愕然としています。なので、どこまで読み解けるかわかりませんが、もう少し考察を進めてみたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。