2012年1月31日火曜日

「罪なき者まず石を打て」___法の内面化

 「酒鬼薔薇」と名のる少年の事件が起こったのは十数年前のことだった。衝撃的な事実が報道され、非常に特殊な事件だったにもかかわらず、当時子どもをもつ親だけでなく、多くの人がこの事件を自分のこととして受け止めた。一人事件を起こした少年だけでなく、私たちが築き上げ、それなりの成熟度に達した日本の社会の側にも問題があるのではないかという議論が起こりつつあったと思う。

 だが、少年法の規定で裁判が公開されなかったこともあって、事件にたいする関心は次第に薄れていった。その後も少年による犯罪は相次いだのだが、興味本位な報道が多く、事件の核心に迫ろうという姿勢はほとんど見られなかった。気がつけば、世の中の風潮が、少年法だけでなく、一般に刑法というものの厳罰化に向かっているように思われる。それでよいのだろうか。「罪なき者まず石を打て」ではなかったか。

 「罪なき者まず石を打て」はヨハネによる福音書だけが伝えるエピソードである。朝早くイエスが神殿で民衆に教えていると、ユダヤ人指導者たちが、イエスを陥れようとして、姦淫した女を連れて来た。そして「律法では、こういう女は石で打ち殺せと命じているが」とイエスに問いかけた。だが、イエスは無言で、地面に指で何か書き続けているだけだった。再三の問いかけにイエスは答える。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉に、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていった。一人残った女にイエスは言う。「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 旧約聖書の伝える「律法」の規定は、具体的かつ厳格である。それはけっして体系的、概念的な「法律」ではない。少なくとも近代的な「法」ではなく、「刑罰の定め」という印象を受ける。非常に細かく複雑な刑罰で、しかも現代の私たちの感覚ではきわめて過酷である。独裁者の恣意で罰せられるのではなく、きちんと成文化した規定で罰せられるのだから、合理的であるとはいえようが。ユダヤ人指導者たちは、イエスに「(この過酷な)律法に従って、この女を殺せ、と命じるのか。命じなければ、法を破る、すなわち神に逆らうことになる」と迫った。律法の形式的な厳格性を利用して、自分たちは手を洗って高みの見物のまま、イエスの判断の言葉尻をとらえようとしたのだ。イエスは答えなかった。そして、問題を彼らユダヤ人指導者たちに投げ返したのだった。あなたたち自身は裁くことができるのか、と。

 このエピソードはヨハネだけが伝えている。マタイによる福音書には、同じく姦淫の罪について「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」というイエスの言葉がある。とても、同じ人物の言葉とは思えない。このエピソードはヨハネが創作したものだろうか。それとも、マタイの方が創作なのだろうか。いずれにしろヨハネの描くイエス像は四福音書の中で非常に個性的である。イエスは、真理そのものでありながら、真理を説いて、人々を真理に導く教師として描かれているように思われる。イエスに問う人に、イエスは問い返す。「あなたはどうするのか」と。問いかけて、立ち止まらせて、その問いが自分に向けられたものだということに気づかせるのだ。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月30日月曜日

「家にてもたゆたふ命。波の上に浮きてし居れば、奥処(おくか)しらずも」___存在の不安

以前二か所に家を持っていて、その間を行き来する生活をしていたことがあった。一つは一か月に一度くらいの割合で風を通しに帰る程度だったが、庭が割合広かったので、家庭菜園などしていた。優雅な生活といえなくもなかったが、一年くらいして、貸家にしてしまった。貸家にした理由は、経済的なこともあったが、それよりも二つの家を行き来することが、私の気分を不安定にしたからだった。いつか曽野綾子さんが書いていたのだが、女には二種類あって、「家事女」とそうでない女がいるそうだ。私は間違いなく「家事女」で掃除、洗濯、簡単な食事つくり(大量に食べるので、ほとんど手作りです)をしていれば、それだけで満ち足りた日常を送ることができる。家は、私にとってそういう自分のエロスをみたす空間なので、それが二つに分離しているのは、とても落ち着きが悪いのだ。どちらの家にいてももう片方の家が気になってしまう。魂が二つの家の間を揺れ動いているようだった。

 表題の歌は萬葉集巻十七大伴旅人のけん従の歌。旅人が任地大宰府から都へ上る船の旅の途中で詠んだもの。折口信夫は「萬葉集中第一の傑作」と激賞した。
「家にてもたゆたふ命」_男にとっては家にあっても、魂は落ち着くことがないのだろうか。まして、危険な海の旅では、魂はどこまで浮遊していくのだろう。

 日本の歌のなかで、最も早く「文学を発見」したのは羈旅歌_旅の歌だったと折口はいう。道中通過する土地の神に挨拶の儀礼として地名を詠みこむ歌を奉げ、土地の神を慰撫したのである。
「ともしびの 明石大門にいらむ日や。こぎ別れなむ家のあたり見ず 柿本人麻呂」
だが、古代の旅の厳しさは、たんなる挨拶儀礼をこえて、自分一個の生存の不安をみつめる歌をうみだす。
「いづくにか 吾は宿らむ。高島の勝野の原に この日暮れなば 高市黒人」
しかし、黒人の歌は、まだ必ず地名を詠みこんでいて、羈旅歌として形式を保っている。それにたいして、「家にても」の歌には、地名も固有名詞もない。不安心理の内省は抽象化、観念化の域に達している。どちらが優れているかということではない。文学が共同体の儀礼から展開していく過程を示しているということだろう。そしてこの歌はそこから一気に存在の原点に到達してしまったように思われる。

 萬葉集中で、もう一つ同じように生存の不安を見つめた歌がある。
「うらさぶる心さまねし。ひさかたの天(あめ)の時雨の流らふ。見れば 長田王」

 このところ身辺雑用が続いております。書く時間も読む時間もなかなかとれないのですが、できる限り書いていきたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月27日金曜日

「君はぼくを買ったんだよ、テリー」____資本主義のテキストとしての『長いお別れ』

昭和29年「もはや戦後ではない」という言葉が流行語のようにあちこちで聞かれた。テレビはまだない時代だったから、ラジオで聞いたり新聞の紙面で見たりしたのだろうと思う。「もはや戦後ではない」という言葉がもてはやされたのは、まだ十分「戦後」の現実があったからである。傷痍軍人の姿はさすがに見なくなっていたと思うが、家並みは貧しく、商品も豊富ではなかった。近くに米軍の基地があって、兵士の姿を日常的に目にした。

 レイモンドチャンドラーの最高傑作『長いお別れ』がアメリカで出版されたのは、昭和29年_1954年である。私はこの小説に2度魅了された。一度目は青春の記念碑として。2度目は完成度の高い資本主義のテキストとして。といっても、この作品を初めて私が読んだのは、昭和42年_1967年なので、その間13年の隔たりがある。13年の間にアメリカは変わり、日本も変わった。朝鮮動乱停戦の後、アメリカはベトナム戦争に介入し始めていた。貧しかった日本は朝鮮特需を経て、高度成長にさしかかろうとしていた。そして、私は青春の記念碑としてこの小説を愛読する年齢になっていた。女主人公アイリーン・ウエイドのことば「時はすべてのことをみにくく、いやしく、見すぼらしくするのです。・・・人生の悲劇は美しいものが若くして消え失せてしまうことではなく、年を重ねてみにくくなることです。」(清水俊二訳)に酔った。自分が「年を重ねて、みにくくなる」ときが来ることは想像できなかった。

 この小説をもう一回読み直したのは、日本がバブルと呼ばれた時代だった。「みにくく」なったとは思いたくなかったが「年を重ねた」ことは確かだった。アイリーンとテリー・レノックスの悲恋物語として読んでいたこの小説が、アメリカ全盛時代の社会構造を、推理小説の形式で批判したものだということに気がついた。私が年齢とともに経験を積んだこともあるが、日本の社会がようやくアメリカ50年代に近づいたことも大きかったと思う。一文無しで酔いつぶれていたテリー・レノックスが、大富豪の娘と二度目の結婚をした後、彼の周囲の上流階級の生活について「働かないでよくて、金に糸目をつけないとなると、することはいくらでもある。ほんとはちっとも楽しくないはずなんだが、金があるとそれに気がつかない。ほんとの楽しみなんて知らないんだ。彼らが熱を上げてほしがるものと言えば他人の女房ぐらいのものだが、それもたとえば、水道工夫の細君が居間に新しいカーテンをほしがる気持ちとくらべれば、じつにあっさりしたものなんだ。」と探偵マーロウに語る場面がある。私がこの言葉を実感として受け止めることができるようになるには、アメリカから三十年遅れて、バブル華やかな80年代の「金妻シリーズ」を待たなければならなかった。

 プロットの組み立てが下手なチャンドラーだが、この小説はしっかりした構成と、人物や場面の生き生きとした描写、一度聞いたら忘れがたいセリフなど、彼の最高傑作であることは間違いないと思う。その中に、チャンドラーがアメリカ社会と資本主義というものをどのように捉えていたかを示す印象的な言葉がある。偽装の逃亡劇を演じるためにマーロウを利用したテリーが、再びマーロウのもとに現れ、「からだに正札をつけていない人間は君だけじゃないんだぜ、マーロウ」と言う。それにたいしてマーロウは「君はぼくを買ったんだよ、テリー。何ともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときの何気ない動作やしずかなバーで飲んだ何杯かの酒で買ったんだ。」とこたえる。あらゆるものが商品化される社会で、最も高価なものは人間の魂だ。最も売ってはいけないものほど最も高く売れる。そのことに本人が気づいていなければ最高だ。テリー・レノックスが気づいていなかったとは思わないが。

 「手綱をゆるめて馬に乗ったことはない」と自負するチャンドラーの文章は、すみずみまで神経が行き届いていて、訳文も素晴らしい。私のつたない紹介がその魅力を十分伝えられないのが残念だ。50年代のアメリカ全盛時代に近づきながら、それを超えられないままバブル崩壊を経験し、「失われた20年」を過ぎたいま、ようやく「西洋浪花節」などと揶揄されることもあったチャンドラーを再評価できる時がきたと思う。「しゃれた服を着て、香水を匂わせて、まるで五十ドルの淫売みたいにエレガントだぜ」とは、最後にマーロウがテリーに投げかけた言葉だが、これはまさにバブルのときの日本社会そのものではなかったか。

 少し休もうと思ったのですが、ちょっと時間があって、また書きたくなってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月26日木曜日

「草庵に暫く居ては打やぶり」___芭蕉その一所不住の精神

引っ越しが大嫌いである。箸一本から布団、冷蔵庫まで、一つ一つ分類整理しながら梱包して、またその荷をほどくなど、考えただけでも、身の毛がよだつ。整理整頓ということができないから、必要最小限のもの以外は、この際捨てよう、ということになる。引っ越すたびに捨てて、捨てて、だからけっこう簡素化された暮らしをしております。というよりお金がないだけかも。毎日ルーティンの家事をして、終わったら一人でお茶を飲んで、というのが理想の暮らしである。その暮らしに引っ越しなどという亀裂を入れることは、できるだけ避けたいと思っているのだが、現実には、かなりの回数を重ねてきた。平穏な日常をこよなく愛しているのに、なぜか、「動きたく」なってしまう。「動く」ことを余儀なくされることもあったが。

 表題の句は芭蕉七部集「猿蓑」巻五「市中は物のにほひや夏の月」と始まる歌仙の名残の十一句。
「そのままにころび落たる升落 去来」
「ゆがみて蓋のあはぬ半櫃 凡兆」
と庶民の生活日常を詠む句が続いたあと、突如
「草庵に暫く居ては打やぶり」
と返す。なんという激しい気迫!当然西行の
「吉野山やがて出じと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」が連想されようが、「打やぶり」という語の強さが、いわゆる隠者文学の踏襲の域をはるかに超えている。

 芭蕉は「野ざらし紀行」「奥の細道」という、隠者というより求道者としての大旅行を終えて、元禄三年近江の膳所で新春を迎えた。だが、ここも
「行春(ゆくはる)を近江の人と惜しみける」
と去って、四月石山奥の幻住庵にこもる。
「先(まづ)たのむ椎の木もあり夏木立」と落ち着くかにみえたが、その後いったん嵯峨の落柿舎に滞在、さらに九月郷里の伊賀に、師走は京、四年の春は再び湖南に、と短い間に目まぐるしく移動した。七部集中最高峰といわれる「猿蓑」は、まさに「一所不住」の生活の中で編纂されたのである。そこまで芭蕉を駆り立て、追いやったものはなんだったのだろう。去来はこの芭蕉の句につけて、
「いのち嬉しき撰集のさた」
と、西行を想起しつつも、師の骨身を削る編纂をたたえているが。

 ずいぶん長くものを書くということから離れてきた。読むことからも離れてきたが。ふたたびものを書くことがあるとは思ってもみなかった。いま、ブログという形式が与えられて、自由に書くことができるのはなんという幸せだろう。まさに、数十年の生活を「打やぶ」って書き始めた。だが、ここで少しペースダウンして、他人の書いたものを読みたくなった。ブログに載せるために読み直した作品のあれこれを、もう一回ゆっくりと味わいたいと思うようになった。そのために書くことに割く時間はどうしても少なくなると思うが、またつきあっていただければ、幸いです。我が儘ついでに、創作能力の乏しい私が作った俳句の紹介です。

「こぶし咲きぬ 一所不住の生涯に」

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月25日水曜日

「初めに言(ことば)ありき」____人間たらしめるもの

ヨハネによる福音書は不思議な書物である。イエスの事跡を伝えるのに、マタイのように「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とルーツをたどることもなく、ルカが伝える美しいクリスマスストーリーとも無縁である。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と力強く宣言するマルコとも違う書き出しだ。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と旧約の創世記と同じように「初めに・・・があった。」と天地創造を語り始める。天地創造を、ことばによって認識するのでなく、天地創造の原初に、ことばが「あった」とするのである。そして、その「ことば」によってすべてが成り、その「ことば」のうちに命があった、とする。言い捨てられて消滅してしまう「ことのは」でなく、原初から存在し、すべてを成り立たせる働きをするもの、生きて動く「いのち」あるものが「ことば」である、と。

 以上のような形而上学的記述は、論理としては理解しうるとしても、実感として「わかる」とはとてもいえない。私が実感として「初めにことばありき」を理解できたのは、もう十数年以上前、子どもの勉強をみる仕事をしていたときのことである。

 初めて彼女に会ったのは、彼女が五年生の時だった。「うちでは勉強をみてやれなくて」と母親がつれてきたのだが、まず驚いたのが、必ず指を使って計算することだった。暗算という概念はないようだった。それから本を読めないことだった。内容がわからないといったことではなくて、音読ということができないのだ。一行上から下に読み下すことができなくて、何度も同じところを行ったり来たりしてしまう。ある程度以上の分量になると、文字を「ことば」というまとまりとして読み取れなくなるようだった。お話することも上手ではなかった。いつも、同じ女の子の絵をかいていた。

 私にできることは、徹底して彼女の話を「聞く」ことだけだった。彼女から「ことば」をひきだすこと、彼女が、自分のうちに「ことば」をもっているということに気づかせること、同時に世界は「ことば」で成り立っているということを理解させること、そのためには、まず、彼女を受け入れ、彼女から聞かなければならなかった。数の概念や読書感想文はそのずっと後だった。そう、「初めにことばありき」だったのだ。

 彼女との数年間は楽しかった。私が彼女に教えたことより、彼女から私が学んだことのほうがずっと多かった。とくに、人が言葉を習得するとはどういうことなのかについて、考えさせられた。いまでも考えている。ことばによって、ことばの内にある命の光によって、人は人たらしめられるのだろう、と思っている。ことばを奪ってはならないし、ことばを失いたくない。希望はことばにしかないから。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2012年1月23日月曜日

「ぶどう園と農夫___悪しき農夫のたとえ」___イエスは誰に語ったのか

ヨハネを除くすべての福音記者が伝える「ぶどう園と農夫のたとえ」について書くことには葛藤がある。これはたとえ話なのだから、このたとえ話から、何を読み取るかが大事なので、物語の内容にいちいちこだわることは、躓きの石です、という声が聞こえてくるような気がする。

 それぞれの福音記者の叙述には、細部で微妙な違いがあるが、ここでは、最も早く書かれたと思われるマルコによる福音書の記述を紹介しよう。ユダヤの祭司長、律法学者、長老たちと「権威についての問答」をした後、次のように「イエスはたとえで彼らに語った」。

 ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、僕を農夫のところに送ったが、農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせずに帰した。また僕を送ったが農夫たちは頭を殴り、侮辱した。更にまた送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と愛する息子を送ったが、農夫たちは『これは跡取りだから、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』と捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。ぶどう園の主人は、戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

 ここで農夫にたとえられているのは、いうまでもなく祭司長以下のユダヤ支配層である。ぶどう園に送られてきた僕は旧約の世界に登場する預言者たちだ。あなた方は、預言者たちの言葉を聞かず、かたくなで、その存在を抹殺してきた。最後に送られて来た神の子も殺して、すべてを手に入れようとしている。イエスの批判は鋭い。そして、現実にその通りになったので、このたとえ話は無理なく受け入れられてしまう。少なくとも「聖書」の世界のなかでは。

 では、この話を、現実の「農夫」と呼ばれている人たちに語ったら、どうなるだろう。「そうです。収穫物はご主人のものですから、きちんとご主人に渡します。私たちは、その分け前をいただければありがたいのです」となるだろうか。もちろん、現実には、農夫たちは分配に口を出す権利などもつはずもない。そういう社会のなかで、このたとえ話は語られたのだ。分配に口を出す権利などなく、そんなことが考えられもしなかった社会でも、権利、義務などの観念でなく、実際の生活のひっ迫から農民が立ち上がることはあっただろう。だが、ぶどう園の「労働者」に対してあれほど共感を寄せていたイエスは、ここでは、「農夫」に一片の同情もない。遠く離れた所に住む大土地所有者がまったくの不労所得を搾取する、という当時の現実を無条件に肯定したうえで、この「たとえ話」を語っているのだ。

 福音記者たちは、イエスはこのたとえ話を、イエスを陥れようとしているユダヤ支配層に向けて語ったと記している。おそらく実際そうだったのだろう。彼らは神の国を管理する義務を負っていて、忠実に実行しなければならないのに、それを怠り、腐敗しているという事実を激しく糾弾したのだ。だが、この話は、「聖書」の中で「悪しき『農夫』のたとえ」として定着してしまったことで、さまざま問題をはらんでしまったのではないか。まず、第一に、これを「たとえ話」として読む私たちは、無意識のうちに、自分をぶどう園の主人と主人が遣わした僕の側においている。農夫すなわちイエスから糾弾されるユダヤ支配層の側ではない。そうだろうか。私たちは、彼らとどれほどの違いがあるのか。また、たとえ話とはいえ、農民が領主に反抗することは、無条件に悪である、としたことで、「この世の秩序には従順でありなさい。その上で、心のなかに信仰をたもちましょう」という方向付けがなされたのではないか。このたとえ話のすぐ後に、ヨハネ以外の福音記者すべてが、「カイザルのものはカイザルへ」というイエスの言葉を記録しているのは偶然ではないだろう。

 福音記者たちは、このたとえ話を締めくくるイエスの言葉として「聖書にこう書いてあるのを読んだだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」と記す。だが、私は、おそらくイエスがこのたとえ話を構築する際に土台としたイザヤ書5章と合わせて、この話を読むべきだと思う。
「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を」とはじまるこの詩は
「よいぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。」と展開し
「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに この地を独り占めにしている」と現実の大土地所有者を弾劾している。民族を滅亡に至らせるものは、彼らの腐敗、不正なのだ、と。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月22日日曜日

「沫雪の ほどろほどろに降り頻けば、平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも」____個人的感慨としての詩歌

萬葉集巻八 大伴旅人の歌。以前「男の恋歌」でとりあげた「ますらをと思へる吾や。みづくきの 水城の上に、涙のごはむ」の作者が、任地九州にあって、降る雪に故郷を思って詠んだ歌である。「ほどろほどろに降り頻けば」の「ほどろほどろ」が好きである。水分を多く含んだぼたん雪が、次から次へと地上に舞い下りてくるさまを、重過ぎも軽すぎもしない語感でみごとにとらえている。いつやむともしれない雪を、旅人はじっと見ている。そして、遠くはなれた都の生活と都の人を思っている。ここでは、雪は「豊年の予祝」として、儀礼的に詠まれているのではない。雪は、旅人の心を、いまあるこの場から遠くにときはなつ作用を及ぼすものとして詠まれている。雪は、というより歌は、共同体的な発想から抜け出して、個人の感慨の表現として詠みだされる一歩を踏み出したのだと思う。

 さてここで、昨日とりあげた永田耕衣さんの雪の俳句。
「雪景の生死生死(しょうじしょうじ)と締り行く」
旅人が「ほどろほどろ」ととらえた雪のふるさまを、「生死生死(しょうじしょうじ)」と表現している。雪が空から降ってきて、地面にすい込まれる様子を「生まれて死んで、生まれて死んで」と直観したものだろう。一秒にも満たない時間のうちに展開する雪の誕生と死、そのなかに永遠をみているのか。それとも永遠が遠ざかっていくのをみているのか。興味深いのは、この句
Sekkeino SyouziSyouzito Simariyuku とS音が句の先頭にきていることだ。S音の連続が一句全体に緊張感とある種の神聖感をもたらしている。と同時に、ここには詠む人の「個人的感慨」というようなものは、もはや消えてしまって、一句は乾坤一擲、宇宙を切り取る大勝負のおもむきがある。

 ちなみに、旅人の標題の歌を同じくローマ字表記してみる。
Awayukino Hodorohodoroni Hurisikeba NaranoMiyakosi Omohoyurukamo
となって、みごとなまでにS音はない。母音のAとOが多用され、子音のN、Mがはさまれることで、一首は、なまあたたかな感触がする。

 日本の歌が、共同体の儀礼歌から、個人の感慨の表現としての文学へ、という過程をたどる際に、もう一人必ず触れなければならない歌人として、旅人の先達高市黒人がいるが、ここでは黒人の業績について書く余裕がない。黒人は、萬葉集の中で私が最も好きな歌人であったが。一首黒人の雪の歌を紹介しておく。
「婦負(めひ)の野に 薄をしなべ降る雪の 宿かる今日し悲しく思ほゆ」
旅人ほど完全に個人的感慨の歌ではない。だが、羈旅歌としての儀礼より、じみじみと心細さのつたわってくる歌だと思う。

 萬葉の後半で、個人としての感慨_共同体の儀礼ではなく私のための文学_としての一歩をふみだした詩歌は、「私のため」をも通りぬけてしまって、永遠をつかみ取ろうとする禁断の領域にはいってしまったのか。最後に耕衣さんの俳句をひとつ。
「秋雨や空杯の空(くう)溢れ溢れ」
これは「あきさめや くうはいのくうあふれあふれ」と読むのでしょうか?それとも「しゅううやくう さかずきのくうあふれあふれ」と読むのでしょうか?

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月21日土曜日

「男老いて男を愛す葛の花」_____永田耕衣さん讃歌

永田耕衣さんのファンである。もう亡くなってしまわれたけれど。阪神淡路大震災に遭遇されて、トイレに入っていて助かった。その体験を詠んだ俳句が当時の新聞に掲載されていて、その前衛ぶりに目を瞠いた覚えがある。残念ながらその十七文字を忘れてしまったので、何とか探したいと思っている。いま手もとに句集『生死(しょうじ)』があるが、平成二年までの自選集なので、大震災後の句はない。

 もともと謎解き、パロディの要素を強く持つ俳句は、注釈抜きで私ごときが理解できるものは少ない。とくに永田耕衣のように「乾坤一擲」といった趣のある句は、読んですぐわかるものはわずかだ。それでも、標題の「男老いて男を愛す葛の花」は、あっけらかんとわかり過ぎるくらいに
「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈超空」を踏まえたものだ。この歌は以前『「あたらし」と「あらたし」_折口信夫』で取り上げたもので、折口(歌人として釈超空を名のる)の処女歌集『海山のあひだ』の巻頭の歌である。折口は同性愛者で、この『海山のあひだ』は「この集をまづ與へむと思ふ子あるに__かの子らや われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに わびつつをゐむ」と始まる。折口の歌二首が、いかにも折口らしい、抑制しようとしてもしきれぬ情念の屈折をうかがわせるものであるのにたいして、永田耕衣の俳句はそのものずばり、単純明快である。「男を愛す葛の花」何が悪いか、と痛快だ。

 この句の少し前には、「室生寺行 妻同伴」と前書して
「組みて老い来にけり凄し葛の道」という句がある。「葛の道」は実景であろうが、やはり浄瑠璃「葛の葉」の「恋しくば尋ね来てみよ 和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」が響いてくるようだ。それにしても「組みて老い来にけり」とはほんとうに「凄い」。女人高野と呼ばれる室生寺への道は険しく、境内もまた起伏に富んだものだったように思われるが、「凄し」は道だけにかかることばではないだろう。

 「死ぬほどの愛に留まる若葉かな」
はて、この句はどういう意味でしょう。まったくわからないのだが、この句の少し前に
「生は死の痕跡吹くは春の風」という句がある。こちらが、乾いた、でも生暖かいニヒリズムという感覚の句なのにたいして、「死ぬほどの」の句はそのニヒリズムを瞬間超えたものがあるように感じる。

 大震災に遭遇されても、奇跡的に生き延びた耕衣さんだったが、骨折がもとで、俳句を書けなくなり、その後しばらくして亡くなられた。百歳までも生きられると思ったのに。
「虎杖のぽんと折るると折れざると」
いつまでも折れないと思っていたのだが。

 今日も、出来の悪い感想文を読んでくださってありがとうございます。

2012年1月19日木曜日

「注文の多い料理店」_____被害者は誰だ

今日は、もう一つの教科書の定番「注文の多い料理店」について考えてみたい。これも難解な童話で、しかも、「オッペルと象」のようなすっきりとした読後感は得られない。今でも、大変人気のある作品のようで、読み聞かせの催しなども行われているようだが、はたしてこれは「おもしろい」話だろうか。

 二人の金持ちの若い男が猟をするために山奥にやってきて、「あんまり山が物すごいので」つれてきた犬を死なせてしまう。道に迷って、お腹もすいた男たちは「西洋料理店 山猫軒」と看板のかかった家を見つけて喜ぶ。だが、実はその店は、山猫が、入ってきた男たちを食べるための店だった。男たちは次から次へとつけられる注文に素直にしたがって、どんどん奥に入り込んで、気がついたときは、逃げ場がなくなってしまった。絶体絶命の男たちを救ったのは、死んだはずの犬だった。犬たちが扉を破り、山猫をやっつけたのだった。

 これはハッピーエンドだろうか。「助かってよかった!」と感情移入できる主人公たちだろうか。道楽の殺生をするためにやってきて、つれてきた犬が死んでも、悲しむどころか、損をした、とくやしがる男たちよりも、うまく男たちを誘導できなくて、最後に犬にやっつけられてしまう山猫の方に同情してしまう。物語には登場しない「親方」のために、「どうせぼくらには、骨もわけてくれやしないんだ」といいながら、自分たちの「責任」になるからといって、必死の呼び込みをする。賢治は、この呼び込みの場面をユーモラスに描いているが、この後山猫たちは犬にやっつけられてしまうのだ。いつの世も前線にいる者だけがリスクを負うのだ。

 賢治は男たちの酷薄さと俗物根性を執拗に描写する。ユーモアでくるみこまれた賢治の怒りは、男たちを死の瀬戸際まで追いやった。死んだはずの犬を生き返らせてなんとか救い出すことにしたのだが。しかし、犬にやっつけられてしまった山猫はどこへ行ったのか?また、「骨もわけてくれない」親方の下で、一生懸命働いているのだろうか。

 今日も、出来の悪い作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月18日水曜日

オッペルと象____白い象の悲しみ

以前子どもの勉強をみる仕事をしていた時期があった。その頃、宮沢賢治の作品からは「オッペルと象」と「注文の多い料理店」がほぼ定番で教科書に取り上げられていた。どちらも非常に難解な作品で、教師は、これらの教材をどのように指導するのだろう、といつも思っていた。日清、日露の二つの戦争を経て、近代化が加速した一方で、多くの矛盾を抱えた当時の社会構造への批判をまず読み取るべきだとしても、けっしてそれだけにとどまらないものを、とくに「オッペルと象」はもっているように思う。 

 この作品を読み終わって、何より印象的なのは、「『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう言った。」という最後の文章である。白い象の、助け出された喜びよりも、どうしようもない悲しみがしずかにつたわってくる。では、白い象はいったい何が悲しかったのか。

  森という異界からやって来た白い象が、農民を労働者として雇い新式の器械を駆使して工場を経営する地主資本家のオッペルのもとで働く。無邪気に労働の楽しさを享受していた象は、だんだん過酷になる労働と、反比例して劣悪化していく待遇のために衰弱するが、仲間の象によって救出され、オッペルと彼の工場は崩壊する。

 農民一揆を想起させるような救出劇が描かれるが、これは一揆の寓意ではないだろう。当の農民は、とっくにオッペルを見捨てて、降参の意をあらわしているのだから。「グララアガア」という擬音語を繰り返し、「象はいちどに噴火した」「まもなく地面はぐらぐらとゆれ、そこらはばしゃばしゃくらくなり」とあるのは、なんらかの天変地異をあらわしていると思われる。

 つまり、これは異界からやってきた白い象が、狡猾な人間にその無邪気な善意を利用され、搾取されて、死にそうになったが、異界から仲間がやってきて救出される、という貴種流離譚の一種なのだ。不思議なのは、白い象は、みずからすすんでオッペルの意に沿うように行動する。「赤い竜の目をして」オッペルを見下ろすようになっても、彼に逆らうことはないのだ。すべてを受け入れ、「もう、さようなら、サンタマリア」と死を覚悟する。白い象とはいったいなにものなのか。

 白い象がなにもので、なにがほんとうに悲しかったのか、さまざまな解釈が成り立つと思われるが、なんだか軽々しく言葉にしてはいけないような気がする。作者が、この物語を閉じるにあたって「おや、君、川にはいっちゃいけないったら」という一行を付け加えたのは、「これはお話だよ。このお話はこれでおしまい」、とみずから韜晦の姿勢を示したのではないか。

 この物語では異界から「やってきた」白い象は、少年ジョバンニとなって、今度は「銀河鉄道」に乗って「幻想第四次」の異界に「旅立つ」だろう。そして、「どうしてこんなにひとりさびしいのだろう」と思いながら、「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」決意をして、もう一度地上に戻ってくるのだ。

 今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

2012年1月17日火曜日

「わたしはまことのぶどうの木」___死と復活と再生

前に住んでいた家の庭にぶどうの木が一本あって、ある年突然、信じられないくらいたくさん実をつけた。毎日毎日、顔がぶどうの色になるくらい食べたのだが、とても食べきれないので、潰して、広口瓶に入れ、ふたをして放っておいたら、数日で発酵して、ぶどう酒ができた。夏の終わりでまだ暑い日が続いたので、ちょうどいい加減の温度が保たれたのだと思う。それからしばらく秋になると葡萄酒をつくった。うっすらと粉をふいて、はじけるようなぶどうの粒を圧搾器で潰して、皮も実も種もみんないっしょに広口瓶の六合目くらいまで入れて、最後に発酵を進めるためにちょっと砂糖を加えて、ふたをして、そうすると、さあ、ぶどう酒の天地創造劇の始まりです。

 押し潰されて無残な姿になっていたぶどうの粒が、だんだん皮とどろどろの実に分離してくる。この段階は、皮も実も草色と泥色の混じったような色で、全体にどよーんとした感じ。しばらくすると、少しずつ、泡が出てきて、発酵が始まる。泡がたくさん出て、発酵が進むと、行ったり来たり上下運動をしていたぶどうが皮と実に分離し始める。いつのまにか、どよーんとしていた広口瓶の中身が、きれいな桜色になってくる。ほんとうにきれいな桜色だ。この段階で上澄みを飲んだら、きっと甘口のおいしいぶどう酒なのだろう。でも、甘いお酒がダメな私は、このまま発酵させて、きれいな桜色が、きれいなワインレッドに変わるのを待つ。透明で美しいワインレッドになったら、出来上がり。ざるで漉して、液体は適当な酒瓶に詰める。底にたまった澱も絞って、二番絞りのぶどう酒になる。

 この過程を見ていて、聖書のなかにぶどうに関する記事が多いのがわかるような気がした。これはまさに、死と復活と再生の過程ではないか。一粒の麦ならぬぶどうが刈り取られて、無残に潰され、容器の中に押し込められる。そこから、発酵という復活が始まるのだ。発酵はけっして穏やかな作用ではない。いつか、欲張って広口瓶の八合目くらいまでぶどうを入れたら、内側からもの凄い力で瓶のふたが開けられ、中身が部屋中にとび散った。あのエネルギーはどこから生じるのだろう。まさに、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れよ」である。十分に発酵して、最後にアルコールとして再生すれば、ほぼその状態で安定する。

 聖書の中でも、とくにヨハネによる福音書はぶどうに関するたとえを多く記している。第15章「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という一節が有名だが、第2章の水をぶどう酒に変える奇跡も印象的である。婚礼に招かれたイエスが、母に「ぶどう酒がなくなりました」と言われ「わたしの時はまだ来ていない」と言いながらも、水がめに満たされた水をぶどう酒に変える。これは、ヨハネによる福音書だけが記す奇跡であって、ヨハネはこう記している。「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」

 家の庭にあったぶどうの木は、何年かしたら、まったく実が生らなくなった。ぶどう農家の人に聞いたら、ぶどうは剪定が大事で、たくさん実をつけさせてはならず「地面に木洩れ日がさすくらい」に隙間をあけておくそうだ。それから間もなく、その家を貸して、私たちは引っ越した。いまは、新しく住人となった方たちが、いったんは見る影もなくなったぶどうの木を大事に育ててくださって、去年は初夏に青い花実をつけた。今年はいく房か実るだろうか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月16日月曜日

愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら___俳句は抒情詩か?

蕪村の有名な句である。高校時代にこの俳句を読んだとき、自然に伝わってくる「憂愁」の近代性に驚いた記憶がある。日本語の読める人なら、この句を理解するのに、何の説明もいらないだろう。「かの東皐にのぼれば」と題する三句連作の最後の句である。

三句を順にあげると
「花いばら 故郷の路に 似たるかな」
「路たえて 香にせまり咲く いばらかな」
「愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら」

 第一句、野いばらの群生に故郷の風景を連想し、第二句では、道を覆って群生する野いばらのむせ返るような匂いをうたう。そして第三句、ここで初めて、「愁ひつつ」と蕪村その人の姿が現れ、野いばらは背景に退く。清楚な白い花を咲かせる「花いばら」は、作者の「愁い」に甘美で官能的な彩をそえている。美しい、美しすぎる抒情詩の連作のようにみえる。

 だが、俳句は抒情詩だろうか。芭蕉の時代にすでに、「俳句」は「発句」だけが自立して、前後の句を必要としない句が誕生していた。しかし、厳密にいえば、それらを抒情詩の範疇に入れることはできない。俳句は、作者個人の思いの独白というより、座の文学として、共同体の他者にむかって開かれた表現だからである。また、俳句は「俳諧」であり、諧謔と自己批判の要素をもつもので、自己完結的な抒情詩の枠からどうしてもはみだしてしまう。

  それでは、蕪村のこの連作は抒情詩であって、俳句ではないのか。このことを考えるために、もう一度連作中の「花いばら」を検討してみたい。「花いばら」は美しい花であると同時に鋭い棘である。「故郷の路」は棘で覆われた道だった。さらにはむせかえるほどの「いばら」の群生で、「路たえて」しまうのだ。傷心の作者蕪村が、岡にのぼって出合ったたもの、それは甘美な望郷の思いや官能的な香りだけではなかったのではないか。もっと複雑な感覚を「花いばら」と「いばら」という言葉を使い分けることによって表現したかったのではないか。それが表現出来てはじめて、この連作はようやく俳句として成り立つのだ、と思う。それでも、ずいぶん自己完結的な、短歌的抒情に傾きそうなところまできているようだが。

 参考までに 「花いばら」は、芭蕉の時代にはどのように詠まれていたのかを知るうえで、興味深い例をあげておきたい。「花いばら」を詠んだものはそんなに多くない、というより、かなり稀なのだが、『芭蕉七部集』最初の「冬の日」に
「花棘 馬骨の霜に咲かへり 杜国」とある。野ざらしの馬骨に置いた霜を、野いばらのかえり咲きに見立てたものであって、短歌的抒情とはずいぶん遠いところにあると思う。

 今日も、出来の悪い作文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 
 

2012年1月15日日曜日

「ぶどう園の労働者のたとえ」__平等ということ

以前夫が勤めていた会社は、十数名の社員全員が同じ給料だった。ボーナスも同額だった。たった10万円だったけれど。素晴らしい社長だった。のんだくれで、夫の入社後2年も経たないうちに死んでしまったので、たんに面倒だから、全員一律の給料にしたのか、人間の評価など人間にはできるはずもない、というような深い考えがあってそうしたのか、今となっては確かめるすべもないが。

 それで、いよいよマタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみたい。といっても、今日は時間がないので、このたとえのあらすじの紹介です。

 ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明け前に出て行って、何人かの労働者を1デナリオンの約束で雇い、次に9時ごろまた広場に出て行って何人か雇い、12時、午後3時、最後に夕方5時になっても仕事に就けないで広場に立っている人々がいたので、雇った。さて、賃金を払うことになって、主人は監督に「最後に来た労働者から始めて、最初に来た者まで順に、賃金を払うように」と指示する。ところが、最初に雇われた人たちが、最後に雇われた人たちと自分たちの賃金が同じであることで、主人に不平を言う。「最後に来た連中はたった1時間しか働かないのに、1日中暑い中を働いたわたしたちと同じとは」。これに対して主人は「友よ」と呼びかけ、こう言うのだ。「あなたに不当なことはしていない。わたしは、あなたと1デナリオンの約束をした。わたしは最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ」

 マタイはこの記事を「天の国は次のようにたとえられる」と書き始めているが、これは「たとえられる」のではなく「天の国は次のようになっている」と記すのが正しいだろう。これは「たとえ」ではない。自分の肉体労働しか売るものがない労働者にとって、働くことができない、ということは死に直結する。遊び呆けて広場にいたのではないのだ。働くことができないから、お腹を空かせて立っていたのだ。夕方5時になって、今日誰も雇ってくれなかったら、一晩中みじめに夜を明かさなければならない。だから主人は、最後に雇った者から先に賃金を払うように、監督に命じたのだ。これで、朝から働いていた者も夕方やっと働けた者も、平等に明日を迎えることができる。これが神の国でなくて、なんであろうか。

 あらすじの紹介で、私の言いたいこともほぼ尽くしたと思うのですが、できれば後日「ぶどう園の農夫のたとえ」についても、考えてみたいと思います。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月13日金曜日

「貧しい者は幸い」か___山上の垂訓を考える

GDPの推移だの労働者の賃金の減少だの、いちいち数字をあげなくても、私たちの暮らしが年を追うごとに貧しくなっているのは、多くの人が共有する実感だろう。絶対的な窮乏ではない。まだ、何とか食べていくことはできるし、こどもを学校にやることもできる。でも、なんだか体のなかから生き血を抜かれているかのように、社会全体から活気が乏しくなっているのだ。先が見えない時代、ともよくいわれる。そうではないだろう。先は見えている。ベクトルは下だ。そして、まだ底には到達していない。簡単にいえば、もっと悪くなる、と多くの人は思っているが、その現実に向き合うのがつらいから「先が見えない」と言っているのだ。

 それで、聖書のなかの有名な「山上の垂訓」を考えてみたい。この記事は、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されている。イエスが山に入って、弟子たちに語ったとされる言葉である。マタイの記事では「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」となっているがルカは」端的に「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と記している。ここでは、より原典に近いといわれるルカの記事を中心に考えてみたい。

 ルカは続けて次のように記す。「今、飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」貧しくて、飢えて、泣いている人々、どうしてそういう人々が幸せなのか。ここから、余剰を削ぎ落す、いわゆる清貧の思想の類を読み取ろうとするのはナンセンスである。イエスの時代も現代も、地球上には貧しくて、飢えて、泣いている人たちのほうが圧倒的に多いのだ。

 この「・・・・人々は・・・・である。・・・・人々は・・・・である」という倫理学の教科書みたいな口語訳聖書から離れて、今は一般に使われていない文語訳を振り返ってみたい。、たしか「幸いなるかな、貧しき者、神の国は汝らのものなり」となっていたと思う。もう一つ、英語の聖書では、こうなっている。
Blessed are you poor, for yours is the kingdom of God.
Blessed are you that hunger now,for you shall be satisfied.
Biessed are you that weep now,for you shall laugh.
原典のギリシャ語はどうなっているかわからないのだが、おそらく口語訳よりは、文語訳、そして英語の聖書のほうに近いのではないか。Blessed are you ・・・はたんなる倒置ではない。「祝福はあなたがたにある!」という宣言なのだ。いま、目の前にいるあなたがたに!飢えて、泣いているあなたがたに!
for yours is the kingdom of God. なぜなら、あなた方のものなのだ、神の国は。
for you shall be satisfied .なぜなら、私があなたがたをお腹いっぱいにするのだ。
for you shall laugh. なぜなら、私があなたがたを笑えるようにするのだ。

 shallは、話者が必然と考える未来について発語するときの助動詞である。目の前で、飢えて、泣いているあなた、私はあなたを祝福する、そしてあなたがたに神の国をもたらし、お腹いっぱい、笑えるように必ずする、という狂気のような強い意志を、語順の倒置と助動詞shallから読み取るべきなのだ。イエスは本気で行動しようとしたのだし、実際にしたのだ。そして、十字架にかかったのだ。

 さて、ここで私は自問する。私は、祝福される者として、イエスとともに、イエスの側にいるのか?それとも、傍観者として、イエスを十字架につけた者と同じ側にいるのか?

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月12日木曜日

「しるしなき恋をもするか」___男の恋歌

昨日に続いて、聖書のなかの「ぶどう園の農夫のたとえ」と「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみようと思ったのですが、もう少し後にします。今日は萬葉集の中から、男の恋歌をいくつか紹介します。

 「しるしなき恋をもするか 夕されば ひとの手まきて 寝なむ子ゆゑに」巻十一 作者不詳
こんな実るあてのない思いに身を焦がすとは。夜ともなれば、ほかの男の腕の中で寝る女のために___人妻への恋をうたったもので「恋をもするか」の「か」にやるせない思いがこもっている。だが「作者不詳」とあるので、個人の独白というより、民謡のように集団に膾炙した歌なのだろう。空想の世界では、不倫は人に甘美な感情を呼び起こさせる。現実の不倫は、苦くみじめな思いに満ちたものだろうけれど。

「ちりひぢの数にもあらぬわれ故に 思ひ侘ぶらむ妹が かなしさ」巻十五 中臣宅守
ものの数にも入らないような自分のために、うちのめされている恋人が愛おしい。___ こちらは作者名が記されていて、歌の成立事情もある程度わかっている。宅守は、狭野茅上娘子(さのちがみのおとめ)との結婚問題が罪に問われて、越前の国に流された。この歌は、二人の間で交わされた「宅守相聞」六三首の一首である。一般には、茅上娘子の情熱的な歌群の方が有名である。宅守の歌はその情熱をうけとめるには、いくらか力が足りないような印象を受ける。「こんなダメな男に惚れたお前は可愛いが・・・・」なんて、他人事みたいに言っていていいの!という感じがする。

「ますらをと思へる吾や みづくきの 水城の上に 涙のごはむ」巻六 大伴旅人
立派な男と自負していた俺なのに。別れのときに、こんな所で涙を拭う始末だとは。___旅人は家持の父。九州大宰府の帥として五年間在任し、任期を終えて都に帰るときの歌。愛人だったと思われる遊行女児島が、水城まで旅人を送り、別れを惜しんで詠んだ歌への返歌である。旅人はこの時すでに六十歳を超えていて、病を得ていた。そうでなくても、児島とは永遠の別れになるだろう。万感の思いが込み上げてくるのを抑えられなかった。不覚の涙、しかし、颯爽とした「ますらを振り」の歌である。

 こうしてみると、女の恋歌が、技巧をこらしていても、相手への直接的な「訴へ」であるのにたいして、男の恋歌はどこか客観的で反省的である。弱々しく見えるのは、最後まで理性といわれるものを捨てきれないためかもしれない。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月11日水曜日

再び「タラントのたとえ」について___投機と投企

もう一回「タラントのたとえ」について考えてみたい。このたとえが、無自覚に「資本の増殖と能力崇拝」を肯定している、という田川健三の指摘は、もちろん正しいだろう。だが、マタイによる福音書の記者が、この記事をイエスの十字架の記事の直前に置いたのは、あくまで「たとえ」として「たとえられるもの」を示したかったからだ。その「たとえられるもの」とはなにか。

 5タラントンをもとに5タラントン儲けるのは、以前書いたように、投資ではなく投機だ。2タラントンも然り。では、なぜ主人は「投機」した者を顕彰したのか。僕たちは「商売」をして儲けた、とあるので、厳密な意味では「投機」といえないかもしれないが、5タラントンで5タラントン儲けることができるのは、かなり「ボロい」_投機的な商売だ。日本人は、「投機」は嫌いな人が多いが、サクセスストーリーは好きな人が多いので、この話に違和感を感じる人は少ないのかもしれない。熱心に商売に励んで、ご主人に褒められる、それがどこがおかしい?といわれそうだ。

 やはり、おかしいと思う。たとえ話とはいえ、5タラントンという資金の巨大さ、「蒔かない所から刈り取る」という苛斂誅求、「何もしなかった」_無為にたいする罰としての放逐、すべて「異常」である。このたとえ話は「異常」を「正常」として語っているのだ。主人から財産を預かったら、何も言われなくても、「早速」出て行って商売をして2倍にしなければならない。苛斂誅求の主人を恐れて、ひたすら「保存」していてはいけない。財産は増やさなければいけない。とにかく、現状維持ではだめなのだ。なすべきことは、即その場で、自己を「投企」することなのだ。無為は許されない。

 「それぞれの力に応じて」与えられた財産=タラントン=たまものを、全身全霊で有効に使うこと、それが日々私たちに要求されているのだとしたら、そんな厳しい要求に私たちはどうやってこたえればいいのだろう。

 イエスは私たちに「救い」をもたらしにきたのだろうか?
  
 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月10日火曜日

「愛(うつく)しき言つくしてよ」___聞かせてよ、愛のことばを

プロフィールで紹介したように、わたしが一番好きな歌は「昭和枯れすすき」である。二番目に好きな歌は「愛のさざ波」で、私のミーハー偏差値が確認されると思う。でも、好きなものは好きなのだ。歌は、恋の歌でなくっちゃ歌じゃない、と思っている。いまの歌は、恋の歌なのかどうか、私には、耳をすませないと歌詞を聞き取れないものが多くて、よくわからない。でも、恋の歌は昔にくらべると少ないような気がする。それで大丈夫なのか、この国は、と危惧している。歌は「うた」であり、「訴ふ」なのだ。絶対的な他者である男と女が、絶対的な他者であるがゆえに求めあうのが「こひ(=魂を乞う)」であり、求めても埋められない断絶をのりこえるために「うた」う=「訴ふ」のに。恋の歌が少なくなっているという現象は、共同体の生命力が衰えていることを示しているのではないか。

 今日は時間がないので、私が一番好きな恋の歌を『和泉式部日記』から一首紹介します。
「夜もすがら 何事をかは思ひつる 窓うつ雨の音を聞きつつ」___一晩中窓にうちつける雨の音に耳をすませていました。そしてただひたすらあなたのことを思っていました。
恋人であった帥の宮と交わした贈答歌のうちの一首であるが、独立した歌として、ほとんど何の説明もなく理解できると思う。ことさらな媚態もなく、思わせぶりな拒絶もない。自己の内面に沈潜していく心をそのまま詠んだ歌であると思う。

 二番目に好きな歌をもう一首。
「恋ひ恋ひて逢へる時だに 愛しき言つくしてよ 長くと思はば」___焦がれ焦がれてやっと逢うことができたこの時だけでも、恋のことばを聞かせ続けてくださいね。二人の関係がずっと続いてほしいと思うなら。
こちらは萬葉集巻四大伴坂上郎女の歌。娘の坂上二嬢(おといらつめ)の代作をしたものといわれている。経験をつんだ恋のベテランが、若い男に直球勝負で交情の持続を要求したものだ。さすが!と脱帽である。

 三番目に好きな歌は・・・・と続けているときりがないので、この辺で今日はおしまいにします。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月9日月曜日

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」___寺山修司の世界

寺山修司が好きだった。といっても、折口信夫が好きだとか深沢七郎が好きだ、というような「好き」ではなく、もっとミーハー次元の「好き」に近いのだけれど。敗戦から高度成長の絶頂期寸前までを駆け抜けた天才は、あまりにも早く逝ってしまった。文学すべてのジャンルをやすやすと越えていっただけでなく、映画、演劇もつねに「前衛」だった。私の理解などとてもついていけないうちに逝ってしまったのだ。

 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
『第一歌集 空には本』の「祖国喪失」と名づけられた連作の第一首である。有名な歌なので、これもネット上でさまざまな感想が述べられている。だが、いまここで、私が注目したいのはもっと形式的なことである。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」と「身を捨つるほどの祖国はありや」の、上五、七、五と下七、七は一首の中で連続しているだろうか。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」はこの五、七、五だけで十分完結したイメージをもたらす。完成した無季俳句といってもよい。
「身捨つるほどの祖国はありや」は、それにつけた脇の句である。この七、七は、上の句から自然に生み落とされたものでなく、上の句といったん切れて、あらたに詠まれたもののように見える。そして、上の句に寄り添うように見えながら、じつは上の句を拘束、限定していく。つまり、これは連歌俳諧の技法なのだ。もっといえば、一首のなかで、上の句と下の句を詠みわける二つの人格を演じてみせたのだ。

 この歌と次に記す歌とを比較してみよう。同じく『第一歌集 空には本』の「チェホフ祭」の第一首
「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」
これも有名な歌である。一見して、一首が第一句から五句まで連続していることがわかる。第三句は、わざわざ「まきしのみ『に』」と字余りを嫌わず『に』をつけくわえて、連続性を保った。完璧な連続性である。

 たった一粒の種をまいただけで、世界を所有したような自負心をひそかにもっている少年の姿が鮮やかに浮かび上がってくる「向日葵の種を・・・・」の歌の抒情から、途中に断絶がある「マッチ擦るつかのま・・・・」の歌へと、寺山の歌は屈折していく。その屈折がどのように自覚的なものであったかは「僕のノオト』として歌集の後書きに記されている。
「ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を戒めさせた。『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」

 だが、寺山の短歌は、限りなく無私に近づくというよりは、よりフィクションの世界に傾倒していったように思われる。そして、やがて、短歌を捨て、自由詩から小説、演劇のジャンルへと、様式の制約をかなぐり捨てていった。様式に制約されることで得られる自由から、様式から脱出することで得られる自由の世界に漕ぎ出していったのだ。

 今日はなかなか「書く」ことのモチベーションがあがらず、またしても日付が変わってしまいました。不出来な作文を読んでいただいてありがとうございます。

2012年1月7日土曜日

しあわせハンス___私たちはどちらの側にいるのか?

昨日に続いて、マタイによる福音書25章の「ぶどう園の労働者」のたとえについて書きたいのですが、それは、もう少し後にして、今日はグリム童話の中から「しあわせハンス」をとりあげます。

 7年間の奉公を終えたハンスという若者が、主人から報酬としてもらった金塊を、馬、牛、豚、ガチョウ、砥石、最後は石ころにと次々に交換し、その石ころも井戸に落として、無一物になって、郷里の母親のもとに帰り着くというお話。ストーリーが単純で他のグリム童話にあるような残酷な場面がないので、美しい絵本として版が重ねられている。この童話のなかに清貧の思想を読み取って、それを賛美したり、一般的な価値観にまどわされない自己の価値観の充足を肯定したりするコメントがネット上で多く見受けられた。一方、他人の持っているものをほしがり、最後には無一物になってしまうハンスのおろかしさを我がこととして受け止め、自戒する法話もあった。

 この話を、たんに「子どものための童話」として、ここから道徳的ないし教訓的なテーマを読み取ろうとすれば、おおむね上記のようになるだろう。グリム兄弟もそれを目的にしたのかもしれない。だが、この単純な話は、決して単純ではない読後感をもたらす。「しあわせ」ハンス・・・・・しあわせ・・・・石ころさえも失って、無一物になって、なにがしあわせ?ほんとうにしあわせ?

 誰もが気づくように、ハンスは、自分が最初に持っていたものを、より価値の低いものへと交換を重ね、最後に何の価値もない石ころに替えてしまった。ハンスは、次々と損をし続けたのだ。逆にいえば、ハンスとものを交換した相手はみんな得をしたのだ。ハンスの損は相手の得であり、「交換」という行為は必ず価値の増減をともなう。たとえ貨幣を仲介させても。そして、相手のものを「ほしがった」方が損をする。

 さて、それで、私たちは、交換を重ねる度に損をするハンスの側にいるのか?それとも、ハンスの欲望を上手に引き出して、ハンスに損をさせ、自分は得をする側にいるのか?

 せっかく7年の年季奉公をつとめあげ、郷里に帰ったハンスは、無一物になって、これからどうするのか?それは、最初から決まっている。また、7年の年季奉公に行くのだ。だって、何もないのだから。

 「おいら、ほんとうに運がいいや」

 この話は、もしかしたら、おそろしく残酷な童話かもしれない。

 今日もまた、最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月6日金曜日

「タラントのたとえ」___不条理な「教え」

一昨日予告していた「タラントのたとえ」について、考えてみたいと思います。

 この話は、イエスの死後、最も早く書かれたといわれるマルコによる福音書と、最も遅れて書かれたというヨハネによる福音書には記されていない。ほぼ同時期に成立したとされるマタイによる福音書およびルカによる福音書にほとんど同じ趣旨のたとえ話が記されている。

 旅行に出かけることになった主人が僕たちを呼んで、それぞれの能力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、そしてもう一人には1タラントン預けた。しばらくして帰ってきた主人は、僕たちを読んで「清算」を始めた。5タラントン預かっていた僕は、商売をして5タラントン儲け、2タラントン預かっていた僕は同じく2タラントン儲け、それぞれ主人に「お前は小さなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とほめられる。ところが、1タラントンしか預からなかった僕は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」と隠しておいた1タラントンを差し出す。すると、主人はこの僕を「怠け者の悪い僕だ」と叱り、さらに「わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、この僕に預けておいた1タラントンを取り上げ、「外の暗闇に追い出せ」と命じるのである。

 以上はマタイによる福音書の記事であって、ルカによる福音書では、お金の単位がムナになっていて、もう少し複雑な筋書きであるが、趣旨はほとんど変わりがない。ちなみに、聖書の注によれば、1タラントンは6000デナリ、1デナリは労働者1日分の賃金なので、5タラントは労働者30000日分の賃金!一生働いても労働者は手にいれることはできないだろう。1タラントも蓄えることは無理だろう。そのような巨額の資金を運用する僕を「小さなものに忠実だった」と評価する主人と僕の関係とは、どんなものなのか。そもそも、限られた期間に資金を倍にする、という行為は、投資というより投機である。投機に成功した者を褒めて取り立て、投機しなかった者にたいしては「怠け者だ!」と罵るばかりか、共同体から放逐してしまうとは、あまりにむごい話ではないか。また「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」とは、苛斂誅求以外なにものでもない。どうしてこれが「天国のたとえ」になるのか。

 このたとえ話については、田川健三が『イエスという男』の中で「資本の増殖と能力崇拝」という章を設けて詳しく解説しているので、私がさらに新しい解釈を付け加える部分はほとんどない。田川は、このたとえ話の主人と僕の関係を、神と、有能な者として神に選ばれた支配者との関係として捉えている。選ばれた僕としての支配者は、だから、神から委託されたものをさらに増やして、繁栄させなければならない。それは至上命令で、怠ることは許されないのだというのが、このたとえ話の主眼なのだろう。

 しかし、このたとえ話をイエスは誰に向けて語ったのか。1デナリしか稼げない労働者たちに向かって語ったのだろうか。それとも、5タラントンを運用するような資産家たちに語ったのか。その日暮らしの労働者たちに語ったのであれば、大いに共感を得たに違いない。彼らに直接の抑圧を与えるのは、1タラントンを隠しておくような無能な支配者だから、そういう人間が「暗闇で泣きわめいて歯ぎしりする」光景を想像して喝采しただろう。だが、しかし、本当に彼らを支配し、生涯1タラントンも貯えることができないような境遇に置き続けているのは、5タラントンを運用する、あるいは5タラントンを僕に預けて旅行に行くような雲の上の資産家なのだ。逆に5タラントンを運用するような支配者層にむけて語ったのだとすれば、これは彼らに対する厳しい弾劾のことばである。聖書の記述は、死を目前にしたイエスが、オリーブ山のふもとで弟子たちに語ったとされているが、マルコとヨハネがこの話を全く伝えていないのは、あるいは、後世の纂入かとも疑われるのだが。 


 天国に関するイエスのたとえ話は他にもたくさんあって、必ずしもその趣旨が同じ方向を目指すとは思われないものもある。しかし、そのたとえ話を通して、イエスの生きた時代がどのような時代であったか、そして、イエスが無条件に受け入れている社会構造がどのようなものであったかを知ることができるのは興味深い。このたとえ話の主人の言葉として、マタイによる福音書の記者は「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と書き記す。これはまさに、古代であれ現代であれ、資本主義の現実そのものではないか。たとえ話ではなく。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月5日木曜日

祀られざるも神には神の身土があると___「復興」ということ

今日は新約聖書の中の貨幣に関する有名な「タラントのたとえ」について書こうと思っていたのですが、予定を変えて、宮沢賢治の詩をとりあげます。

 現在進行形の「ニュース」について直接書くことは、できるだけ避けようと思っている。情報として自分のなかに取り込んだ事実にたいして、十分に消化して、文字に定着させるまでには時間がかかるからだ。しかし、今朝の日経1面トップに「宮城沿岸部に先端農場__官民連携 被災地250ヘクタール借り上げ」という見出しが目に入って、とっさに宮沢賢治の詩の一節が脳裡にひらめいた。詩集『春と修羅』第二集中
「祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さういったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ」

 そういうことだったのか。地震と津波で壊滅的な被害を受けた地域に、先端の科学技術を駆使した大規模実験農場をつくる。素晴らしい新世界!みごとなスクラップアンドビルドだ。だが、「復興」とは、そういうことだったのか。科学的合理的な生産技術で収穫が増え、人手は省かれコストは削減され、管理された流通システムで安定的な収入が得られる。よいことづくめだ。でも、そこに、震災前までそこでなりわいとして農業を営んでこられた方たちの思いは存在するのだろうか。そして、「国破れて、山河なし」となってしまった自然はどんな姿に変わるのだろうか。

 「産業組合青年会」と名づけられた上記の詩はその数行後、
「部落部落の小組合が
ハムを作り羊毛を織り医薬を頒ち
村ごとのまたその聨合の大きなものが
山地の肩を砕いて
石灰岩末の幾千車かを
酸えた野原に注いだり
ゴムから靴を鋳たりもしよう」
と、近代化に轟進するさまを描く。近代化によって、貧困にあえぐ東北の農村の生活を向上させること、賢治は文字通りそのために「献身」したのだ。

 だが、詩片は
「これら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
祀られざるも神には神の身土があると
老いて呟くそれは誰だ」
と閉じられる。

 賢治とその時代は、みずからの手で「山地の肩をひととこ砕いて」自然を破壊した。そのことへの怖れと慄きが、繰り返される「祀られざるも・・・・」という詩句にこめられている。いま、東北の地は「自然災害」によって、賢治の時代と比較できないほど、完膚なきまでに破壊された。そのあとに、じつに理想的な実験農場が開かれる。しかし、そこに、かつて生活していた人々の日常は戻ってくるのだろうか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月4日水曜日

サラの墓__古代社会と貨幣

今日は東京証券取引所の大発会の日で、2012年の株式市場がスタートした。そのタイミングに合わせたわけでもないのだろうが、今朝の日経朝刊に岩井克人という経済学者が「貨幣論の系譜」という記事を書いている。この記事によれば、紀元前6世紀から4世紀の古代ギリシャで誕生した「近代社会」は、歴史上初めて全面的に「貨幣化」した社会であり、この「近代社会」を生きたアリストテレスこそ、国家と資本主義の対立関係を最初に思考した思想家であった。

 だが、貨幣の歴史は、いうまでもなくアリストテレス以前から存在する。「全面的に貨幣化」していたか否かは別として、旧約聖書にはいくつかの貨幣(あるいは貨幣としての金、銀)が登場する。最も早く登場するのは、創世記23章アブラハムの妻サラが127歳!でなくなり、アブラハムが彼女を埋葬するために土地を買い求める場面である。アブラハムは、その時滞在していたヘブロンの地で、畑と洞穴とその周囲に生えている木を含め「銀400シュケル」で自らの所有とした、と記されている。

 聖書の注によれば、1シュケルは5.6gとあるので、400シュケルは2300gである。銀の価格は、現代の市況価格をそのまま当てはめることはできないが、本日の相場は1g79円の売渡価格なので、銀400シュケルは約18万円ということになって、驚くほどの安さである。古代は精錬技術がいまとは比較にならないくらい遅れていたので、銀の値段が相対的に高かったとしても、このことはどう解釈したらいいのだろうか。

 創世記が書かれたのは意外に新しく、紀元前5世紀から4世紀といわれている。創世記の記者はすでにかなり発達した貨幣経済を知っていたのかもしれない。新約聖書の時代になると、登場する貨幣の種類はさらに増え、その機能も複雑になる。新約聖書のなかには、「銀行」と「利息」の記述があるのだ!私は、「キリスト教」が地中海沿岸の諸都市に広まり、やがてローマの国教となる過程で、貨幣経済とギリシャ語の果たした役割は大きいと考えている。それは、言語、民族を異にする人々の共通の生活手段であったはずだ。

 新約聖書を、貨幣経済ないし資本主義という観点から読み直してみたい、という思いを捨てきることができない。イエスの生きた時代は、すでに十分資本主義の時代ではなかったか。そのことを、聖書の記述に即して、明日は、もう少し具体的に考えてみたい。

 今日もできの悪い作文でした。最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月3日火曜日

人生の特権的な瞬間___「書く」ということ

家事の中では、掃除が好きだ。さして広くもないマンションの隅から隅まで、年末の大掃除のような掃除を毎日している。一日のなかで、動いている時間の大半は、掃除に使われる。猫を飼っていて、朝起きると、部屋中が発狂したくなるような惨状を呈しているため、という実用的な理由もあるが、なにより、掃除機をかけているときは無心になれるのだ。ただ、ひたすら、ルーティンの作業をすればいい。料理はそうはいかない。食事つくりというより「食餌」つくりに近いような私の料理でも、「無心」でつくることはできない。

 修道士の人たちが、毎日同じ日課をくりかえして、神につかえるように、私も毎日同じ作業をして時間を使っている。そして、その最中に、1年に1度か2度の割合で、ある特権的な瞬間がおとずれる。「ことば」が外からやってくる、とでもいおうか。マルチン・ブーバーの「我_汝」の関係性とはこういうものか、と思えるような瞬間が。reveal_存在の隠されていたものがあきらかにされる_とき。その「とき」を、流れゆく時間に楔をうち込んで定着させるために、ブログを開設して、「書く」ことを始めた。ところが、こうして、毎日「書く」ことが日課になると、その特権的な瞬間はおとずれそうもない。

 それでも、こうして書いている。待っても外からやってこない「ことば」をうちから無理矢理つむぎだしている。なんのために?いま、私に答えはみつからない。ただ、もし、私が、私自身のために書くのだとすれば、以下のマルグリット・デュラスの文章がその答えに近いのかもしれない。デュラスが七十歳の時に書いて、フランスでベストセラーになった『愛人』という小説の最初の部分である。
「書くとは、いま改めて考えてみると、とてもしばしば、書くとはもはや何ものでもないという気もする。時には私は、こうだと思う。書くということが、すべてをまぜあわせ、区別することなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、その時には書くとは何ものでもない、と」(清水徹訳)

 デュラスはストーリーテラーとしての豊かな才能をみずから封印するかのように、次々と難解で実験的な作品を生み出していった。同じ題材から、新しい作品を、作っては壊し、作っては壊していった。それは、おとずれる特権的な瞬間を定着させることなく、「すべてを混ぜ合わせ、区別することなどやめて空なるものへと向かう」作業だった。__「空なるものへ」

 だが、もし、「書く」ということが、「プロパガンダ」でなく、しかし、他者に向かっての(もちろんその第一番目の他者は自分自身だが)語りかけだとすれば、「書く」ということは何だろう。

 今日も、まとまりの悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月2日月曜日

沈む夕日に___深沢七郎をしのぶ

気がつけばずいぶん日が沈むのが遅くなった。夕方5時を過ぎても、まだ西の空は美しい茜色に染まっている。気温は低くて、寒さはこれから厳しさを増すのだが、今の季節の日没の時刻が好きだ。生まれたところも、移り住んだところも、ほとんどが山が見える場所だった。太陽はいつも、山の稜線の向こうに沈んでいった。

 深沢七郎も、山の見えるところで生まれ、山の見えるところで育ち、だが山は見えず、果てしなく続く地平線の向こうに太陽が沈む平野で死んだ。もう十数年前になるだろうか、私は深沢が最後に移り住んだ埼玉県の東北部の町をたずねて、彼が「ラブミー農場」となづけた農地の辺りに行ってみたことがある。もちろん、深沢が没してかなりの月日が経っていて、「農場」の面影はあるはずもなかったのだが、そんなに若くはないと思われる男の人が一人、作業をしていた。三百六十度の視界が広がる関東平野の田園地帯だった。

 「ラブミー農場」の場所をさがして、その町の役場をたずねたのだが、役場の職員の応対はとても親切だった。「風流無譚」の騒ぎ以降、各地を転々と放浪し、とくに郷里からは、石もて追われるごとくだった深沢にたいして、町の人が「深沢先生」と呼んで、没後も敬愛の念を抱いているようなのが、ちょっと意外だった。この土地で慣れない農家の生活を本気で目指した深沢が、必ずしもすんなりと受け入れられたとは考えられないのだが、それでもここを終の棲家に選んだのはなぜだろう、と思った。山また山が続く郷里の風土が恋しくならなかったのだろうか。

 いつか「深沢七郎論」を書きたいと思っている。代表作『楢山節考』の書き出しはこうである。
「山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。」
ムラという共同体の論理を受け入れ、従順に従うだけでなく、その秩序を乱すものにたいしては制裁を加える実践にも、積極的に参加し、敢然と死んでいく主人公おりんの話は、山に閉ざされた小宇宙の童話だろうか。それとも、あまりにもリアルな現実そのものの叙述だろうか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

「あたらし」と「あらたし」と___折口信夫について

昨日取り上げた大伴家持「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、いや頻け。吉事(よごと)」の「新しき」は「あたらしき」と読むのだろうか?いま、折口信夫全集巻五の『口譯萬葉集』でたしかめようとしたのだが、ただ「新しき・・・」と表記されているだけである。

 いうまでもなく「あたらし」と「あらたし」はちがう言葉である。現代語の語感とは逆に「新しい」は「あらたし」であり、「あたらし」は「愛惜」の念、であろうか。もし、「新しき年」が「あたらしき年」と読むのであれば、「『あたらしき』年のはじめの・・・・」という歌は、たんに新年をことほぐ儀礼歌ではない。「あたらしき年の初めの初春の、今日降る雪の」と、格助詞「の」を連用して、「いや頻け。吉事」と体言で止める。それはまるで、容赦なく過ぎ去っていく日常の時間の流れを、何とかして繋ぎ止めてておこうとする意志をあらわすかのようだ。端正な予祝の歌のようでありながら、もっと激しい渇望にも似た希求を感じとるべきなのかもしれない。

 ところで、折口信夫自身が「あたらし」という言葉を、非常に印象的に用いている歌がある。処女歌集『海山のあひだ』巻頭歌である。
「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」
「踏みしだかれて」という暴力的なイメージに続いて「色『あたらし』」とあれば、これはやはり「新し」ではなく「愛惜し」であろう。とすれば「この山道を行きし『人』」の『人』は、誰をさすのか。「人あり」となぜ断定的にいわなければならなかったのか。

 折口信夫との出会いは、高校の図書館であった。書かれている内容はほとんど理解できなかったが、なぜか全集を次々とひもといていった。紙面から古代の空気の匂いがたちのぼって、、折口その人が姿をあらわしてくるような気がした。孤独な、しかし充実した時間だった。

 『海山のあひだ』の「葛の花・・・」に続く第二首はこの歌である
「谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは」
ほとんど性的な衝動を暗示するこの歌は、巻頭の第一首から独立した歌なのだろうか。

 折口信夫は、いまだ私にとって、あまりにも多くの謎につつまれた、しかしそれゆえに危険な磁力で魂をひきつける存在である。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
またしても、日付が変わってしまいました。

2012年1月1日日曜日

移りゆく時見るごとに___閑散とした年の暮れに

今まで何もしなかったわけではないのだが、それでも今日は最低限の歳末の家事をしていたら、この時間になってしまった。夕方、買い物にでかけて、人出があまりに少ないことに驚いた。昨日もそうだった。風もなく、冬晴れの暖かい日なのに、新年を迎える緊張感もざわめきもない年の暮れだった。
 
 いったいいつからこの国は、こんなに活気のない平板な国になってしまったのだろう。街に人があふれ、終電まで駅のプラットホームが混雑していたバブルのころはもちろん、それ以前のまだ日本が豊かとはいえない六十年代でも、こんなに寒々とした年の暮れはなかった。でも、そう感じるのは、もしかしたら、たんに私が年を取ったからなのかもしれない。いつの時代でも、時間の推移は、人間に悲哀の感情をもたらすのかもしれない。

 「移りゆく時見るごとに、心いたく 昔の人し 思ほゆるかも」
これは、私のもう一つの青春の文学だった万葉集巻二十におさめられている大伴家持の歌。ただし、これは年の暮れに詠んだものではない。「天平勝宝九年六月二三日」と記されているので、真夏の盛りの歌である。しかも「大監物三形王の家で酒宴したときの歌」とあるのだが、およそ宴のどよめきなど無縁である。主に対する儀礼的なことほぎもない。きわめて個人的な感慨を吐露しているだけだ。それがかえって千年以上の時を経てなお共感を呼ぶのだが。

 だが、家持は懐古の情にひたっているだけではいられない。斜陽とはいえ、古代の名門大伴家の族長として、端正な新年のことほぎの歌も残している。
「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、いや頻け 吉言(よごと)」
そして、これが万葉集最後の歌として記録されているものである。

 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。