2020年1月22日水曜日

折口信夫『死者の書』__大津皇子「くれろ。おつかさま」の謎__松浦寿輝『折口信夫論』に触発されて

 三島由紀夫の『奔馬』について書こうと思い、背景となった昭和維新の時代を調べていて、松浦寿輝氏の『折口信夫論』に出会った。出会いの必然はこの著書の後記にある

 この国の、奇妙に柔らかく弾性に富んだ不可視の権力システムの謎は、折口のあの薄気味悪い文章や詩歌の中に、ことごとく畳みこまれているのではないかとつねづね考えていたからである。

という文章がすべてを語っている。松浦氏の『折口信夫論』には、全編珠玉のような文章がきらめていて、そうだ、そうだと「激しく同意」しながら一気に読了した。折口を読まない人でも、この本を読めば折口の最も核心的なものに触れることができるのではないか。もう半世紀以上も折口を読んでいながら、何もいえずに立ちつくしている私は、自分のふがいなさに自信をなくしかけている。

 だが、あえてひとつ言わせてもらうことができるとしたら、これらは折口の「同性」だから書けた文章なのではないか。論の初頭からたびたび引用される折口の「大嘗祭の本義」について、松浦氏は最後にこういっている。

 この「褥=寝床」が異性を排除した独身者の床であるという点をいま一度強調しておくことにしよう。「水の女」が現れ、禊を行い、新天皇がまとうべき衣を織り、それを着せかけてくれるのは、物忌みが明けた後になってからのことにすぎない。「喪の儀礼のさなかにあっては、女との婚姻の証である「水の羽衣」は未だ奪われたままであり、仮死状態を耐えている宙吊りの「死者」は「をゝ寒い。……著物を下さい。著物を___」とおらびつづけなければならない。大嘗祭の「褥」は、異性との交接が行われるエロスの床ではなく、同性同士が軀を擦り合わせる倒錯の舞台なのである。

  文中「仮死状態を耐えている宙吊りの死者」とは、折口信夫の『死者の書』の主人公「滋賀津彦」こと大津皇子である。天皇への反逆を企てたとして処刑され、二上山に埋葬されている死者が数十年後によみがえる。『死者の書』の冒頭「彼の人の眠りは、徐に覚めて行った。」と書き出され、少しずつ意識と記憶を取り戻していった死者は、むき出しの裸体に気づき、寒さに震えながら「著物をください。」と叫ぶのだ。松浦氏の『折口信夫論』は、主として折口の小説『死者の書』をテキストとして取り上げ、その創作の秘儀に迫りつつ、折口自身も気づかなかったのではないかと思われる「折口」を示現させるのだ。

 「大嘗祭」に戻れば、折口自身が、この儀礼についての具体的な描写を「大嘗祭の本義」という論文の中深く畳みこむように、つまり用心深く隠すかのように置いているのと同じく、松浦氏もこの著書の最後でようやく一気に核心を抉り出す。ここに書かれてあることが事実かどうかは検証のしようがないのだが、折口と、そしてもちろん松浦氏とも異性である私には、この文章自体が「同性同士が軀を擦り合わせ」ている」ているように感じられてならない。折口の残虐な魅惑にあえて「十分以上に素肌をさら」すことができるのは同性の特権である。異性は最初から疎外されている。

 だが、だから、それゆえに、松浦氏が『死者の書』の大津皇子(作品中では滋賀津彦と呼ばれる)が召喚する三人の女たち__耳面刀自、姉御(大伯皇女)、おつかさま__の差異に関心がなさそうであるのが、少しものたりないのである。以下、三人の女たちに滋賀津彦がどのように訴えたのかたどってみたい。

 長い眠りから覚めた滋賀津彦の意識が、まず最初に、記憶から呼び起こしたのは耳面刀自だった。謀反の罪をきせられ、磐余の池で処刑される寸前に一目見た耳面刀自を、滋賀津彦は思い続けていた。滋賀津彦は言う。

 おれによって来い。耳面刀自。

 滋賀津彦の独白の中で最も多くその名が呼ばれるのは耳面刀自である。耳面刀自は実在の人物と考えられている。大織冠藤原鎌足の娘で、天智天皇の長子大友皇子の妃となったが、壬申の乱で大友皇子が敗れ自殺したため、妃である耳面刀自も死んだとされている。あるいは、近江宮から脱出し、父鎌足の故地鹿島を目指して九十九里浜に上陸したが、その地で亡くなったという伝説もある。

 作中滋賀津彦と呼ばれる大津皇子は、天武天皇の子でありながら、天智天皇の近江宮で育てられた。人質としての存在だったかもしれない。だから、耳面刀自のことを

 おまへのことを聞きわたった年月は、久しかった。

というのだろう。だが、いつ明けるとも知れぬ岩窟の暗闇の中で

 子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳える子どもを。

と執着するのは異様である。

 「滋賀津彦。其が、おれだったのだ。」と記憶を取り戻して歓びの激情をおぼえたとはいえ、「岩屋の中に矗立(シュクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかった」と描写される滋賀津彦の生々しい欲望は、不思議な現実感をもって読む者の感性を脅かす。それは、立ち枯れの木と描写される滋賀津彦のむこうに、いや内側に、折口信夫その人の姿がすけて見えるような感覚を覚えてしまうからかもしれない。

折口信夫は「耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、さらに深い印象であったに違ひはない。彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髄の心までも、唯彫りつけられたやうになって、残っているのである。」とのみ記すのだが。

 その次に思い出したのは、伊勢の斎宮となった姉の大伯皇女だった。作中彼女の

 いその上に生ふる馬酔木をたをらめど見すべき君がありと言はなくに
 うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと思はむ

二首の和歌が記されている。弟が処刑された後、墓の前で哭きながら歌ったものとされている。誅歌(なきうた)と書かれていて、紛れもなく死者のための歌だが、この二首は、は、誅歌というよりむしろ恋人たちがかわす相聞歌の感情が漂っている。相聞歌と挽歌はいずれも相手の魂を「乞う」歌なので、厳密な区別がつきにくいものだが、万葉集には大伯皇女の歌がこの二首以外にも四首記録されている。そのいずれもむしろ民謡的な相聞歌である。

 よい姉御だった。

折口はあっさりと、滋賀津彦にそういわせているが、墓の戸をこじあけようとする大伯皇女の姿は尋常ではない。

 最後に召喚される「おつかさま」は謎である。実在の大津皇子の母は天智天皇の娘大田皇女だが、大津皇子が七歳の時になくなっている。目覚めた滋賀津彦は

 をゝ寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かったというのなら、あやまります。著物をください。著物を___。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。

と「おつかさま」に訴えかけるのだが、はたして「おつかさま」は早世した太田皇女だろうか。滋賀津彦は

 恵みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでない此世かも知れぬ。

と、「おつかさま」の生死について判断できない。ただ言えることは、「おつかさま」は権力者なのである。「おれが悪かったというのなら、あやまります。」と滋賀津彦が言うのは、いうまでもなく「おつかさま」が「尊い」からであり、「恵みのないおつかさま」でも「お縋りする」しかないのだ。「憐みのないおつかさま」は「おれの妻の、おれに殉死するのを、見殺しになされた。」とも書かれている。大津皇子の実母大田皇女がこのような権力者であったとは考えられない。そもそも大津皇子が処刑され、大津皇子の妃山辺皇女が殉死した時に、大田皇女はすでに他界している。権力者である「おつかさま」は実在のモデルがあるのだろうか。それとも何か抽象的な存在なのだろうか。

 こうしてたどってみると、歌を詠んでくれた姉の大伯皇女の記述が、むしろ一番あっさりしている。この姉弟の関係は、当時からすでに近親愛的な叙事詩としてストーリーが組み立てられていた形跡があるのだが、作者折口はなぜかそこに関心をふりむけようとしないのである。それに対して、耳面刀自と「おつかさま」にからむ滋賀津彦は、奇妙なというか、異様なというか、その具体的身体の描写とあいまって、「死者の性欲」とでもいうべきオーラに満ちている。はたして、この滋賀津彦が南家郎女の俤にあらわれる「黄金の髪と白い肌」の主となるのだろうか。

 こうして書いてくると、松浦氏の明晰かつ抽象化された論の枠組みに無理やり夾雑物を紛れ込ませようとしているようにも思われてくる。だが、『死者の書』は小説として書かれている。「小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ」と坪内逍遥の言葉にあるように、「人情」と「世態風俗」について、もう少しこだわってみてもいいのではないか。「世態風俗」については、もう一人の主人公南家郎女と彼女を取り巻く状況を考えてみたい。その上でもう一度松浦氏の『折口信夫論』にもどって、何か言えることがあるかどうか考えてみたいとも思っている。

 「権力とは現勢化するエロスの反復形態である」という『折口信夫論』の帯の文章は、まさに金言だと思うが、ならばなおのことそのエロスがどのように具体化されているかを、日常、生活者の感性で探ってみたいのである。

 ずいぶん長いこと書かないでいたことも手伝って、未整理に拍車がかかる文章となってしまいました。最後まで読んでくださってほんとうにありがとうございます。