大江健三郎の『宙返り』を読んでいます。これも手強い。大江の小説では数少ない三人称の叙述であることで、ちょっと勝手が違う感じがする。そもそも、冒頭からして、状況が具体的に絵として描けない。で、ちょっと閑話休題。「薔薇」の話です。
『燃え上がる緑の木』第二部「揺れ動く」は主人公ギー兄さんの父「総領事」の死を中心に語られる。ハイライトはその葬儀の模様で、篤志家「亀井さん」の資力で完成した礼拝堂で執り行われ、ギー兄さんはここで名実ともに「救い主」としてデヴューする。そのとき礼拝堂をみたしたのは、ニグロスピリチュアルの女声と「薔薇の奇蹟」_薔薇の香りだった。先のギー兄さんの妻だったオセッチャンの連れ子「真木雄」が礼拝堂の裏の湧水の出る場所に香りのもとを入れたのだった。
おそらく亡くなった総領事が生前彼の身辺の世話をしていた真木雄にそのことを託していたのだろう。死を前にしてイエーツを貪るように読んでいた総領事のなかで、薔薇の香りと霊(スピリット)の本性の結びつきは緊密なものだった。葬儀礼拝の最後に、「やはり淡いものながら、新しく礼拝堂に満ちるようだった」と書かれる薔薇の香りのなかで、ギー兄さんは「《慰めぬしなる霊よ、われらにきたり給え》」と結んだのである。
でも、なぜ薔薇の香りと霊(スピリット)が結びつくのだろう。私はイエーツの詩を原文でも日本語訳でも読んだことがなく、読んでも詩人の感性を理解できないかもしれない。西洋の神秘思想の源流の一つに一七世紀初めに突然出現して忽然と姿を消した「薔薇十字社」という秘密結社がある。イエーツは「黄金の夜明け団」という秘密結社に参加していたから、「薔薇十字社」の神秘思想の流れをくむものだった可能性はある。ヨーロッパの美術、文学における「薔薇」は特別な意味があるようだ。
以前サリンジャーの「対エスキモー戦争前夜」でとりあげたコクトーの「美女と野獣」という映画のなかでも薔薇は重要な記号である。事の発端は美女ベルが、父親にお土産として薔薇の花を一輪所望したことなのだ。貿易商の父親は、あてにしていた荷が入らなくて一文無しになり、深夜迷い込んだ館の薔薇を手折おうとして、館の主の野獣に見つかってしまう。激怒した野獣の命令に従い、父親の身代わりになってベルは館に赴くのだ。そして最後に、王子の姿に戻った野獣はベルに二人のなかは「薔薇がとりもつ縁」だと言う。
コクトーの映画の影響でもないだろうが、戦後一時期薔薇が流行ったことがあった。「薔薇」とかいて「しょうび」と読ませた雑誌があったような記憶がある。澁澤龍彦という作家が関係していたような気がするがたしかではない。たしかなのは三島由紀夫の薔薇への傾倒である。いまは稀観本となってしまった写真集『薔薇刑』はあまりにも有名だ。私は写真を見るのは好きだが、「解釈」しなければならない写真は苦手なので、高額な対価を払って『薔薇刑』を入手しようとは思わない。ネットで見られる限りの写真についての感想は、特にない。薔薇は何色なのだろう、白黒の写真だからよくわからないなあ、たぶん赤だろうが、写真では黒に見えて、黒だったら、ちょっとすてきだなあ、とか、ミーハー度満開の思いにひたったりしている。なかでひとつ、う~ん、という写真があって、それについてだけはつい「解釈」してしまいそうになる。「エノラ・ゲイ」ってこのこと?など。
ちょっときわどい話になりそうなので、最後にウィキペディアでちゃんと調べた知識をひとつ。セオドア、フランクリンと二人の大統領をだしたルーズヴェルトという苗字はRoosevelt(ローズヴェルトともいう)で、「薔薇の畑」という意味だそうである。アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは野球が好きで、それにちなんで「ルーズヴェルト・ゲーム」というゲームもあるそうですね。そういえば、『ナイン・ストーリーズ』の中心に位置する「笑い男」では、「団長」の恋人の美女メアリ・ハドソンも毛皮のコートを身にまとい、はじめて握るバットをもって颯爽と登場、二塁打をかっとばしました。
なんて余計な話です。
脈絡もなく思いつきの乱筆乱文を今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いまからまた、『宙返り』に戻ります。
2014年7月31日木曜日
2013年7月3日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』と「煙が目にしみる」___グッバイ、フィービー
「煙が目にしみる」というタイトルからすぐにメロディーが浮かぶのは、たぶん人生の後半を過ぎた人だろう。黒人歌手の少しかすれた歌声が印象的だった。歌声を聞いて、まだ経験したことのない恋のときめきと、それを失った悲哀と、その両方の感情にひたっていたように思う。ちゃんと聞き取れた歌詞はSmoke gets in your eyesだけだったけれど。
この曲は1933年「ロバータ」というミュージカルのために作曲され、1946年にナット・キングコールがカヴァーし、1958年またプラターズがカヴァーしている。私はナット・キングコールの歌声を聞いていたと思っていたのだが、プラターズのほうだったかもしれない。『ライ麦畑でつかまえて』の最後、フィービーが回転木馬に乗る場面でこの「煙が目にしみる」が流れる。
回転木馬と「煙が目にしみる」のとりあわせがミスマッチのような気もするが、「とてもジャズっぽい、おかしな演奏のしかただったな」と書かれているので、行進曲風にアレンジしたのだろう。ちょっと不思議なのは、この前にホールデンとフィービーが回転木馬の方に近づいて行くときに「いつもやってる間が抜けたみたいな音楽が聞こえだしたんだな。曲は『おお、マリー!』だった」とホールデンが言っていることである。? 回転木馬の所で演奏されていたのはどちらだ?さらに不思議なのは、これに続くホールデンの言葉である。「今から五十年も前になるが、僕の子供の時にも、あの歌をやってたもんさ。これが回転木馬のいいとこなんだ。いつも同じ歌をやってるってところが。」(アンダーラインは筆者)いったいホールデンは何歳なのだ?
そもそも「煙が目にしみる」も「おお、マリー!」もれっきとした大人のラヴ・ソングである。だが、回転木馬は八歳のフィービーが「あたしじゃ大きすぎるわ」というくらい小さな子供向けの乗り物なのだ。ラヴ・ソングが演奏に使われることがあるものだろうか。「おお!マリー」と「煙が目にしみる」の歌詞を書き出してみる。
「おお、マリー」
Here she comes, she's all dressed up in daises
Half the time, you'd swear that she is crazy
Flowered drinks and low-cut dress
That's the way I know her best
She says she's lonely, how could she be?
Every night she's got company
[Chorus]
Oh Marie,
I sure hope you're happy
Oh Marie,
What about me, Marie
She likes the way she looks in her Camaro
She likes lingerie but he prefers the sombrero
She's so famous on the block
She stumbles home around four o'clock
She claims the guys are hard to please
She wears teen perfume behind her knees
[Chorus]
All day long she fills me up with dogma
She's all magazines and benzedrine and vodka
There was one man she truly loved
He took everything but her bear-skin rug
And now and then it's clear to me
That need is love and love is need
[Chorus]
Always an open door
What are you looking for
「煙が目にしみる」
They asked me how I knew
My true love was true
I of course replied something here inside
Cannot be denied
They said someday you'll find
All who love are blind
When your heart's on fire you must realize
Smoke gets in your eyes
So I chaffed them and I gaily laughed
To think they would doubt our love
And yet today my love has gone away
I am without my love
Now laughing friends deride
Tears I cannot hide
So I smile and say when a lovely flame dies
Smoke gets in your eyes
どちらもれっきとしたラヴ・ソングだが、かなり趣きが異なっている。「おお、マリー」のほうは子供向けにはいかがなものかと思われるが、ここでは「煙が目にしみる」の歌詞に注目したい。「煙が目にしみる」とは、失恋の悲涙で目がくもる、ということではないのだ。(今まで、私はそう思っていたのだが)「恋は盲目」の意なのだ。偽りの愛を真実だと信じたのは「煙が目にしみ」たからなのだ。
「煙が目にしみる」の演奏とともに、フィービーは回転木馬に乗ってぐるぐる回る。すると、突然降りだした土砂降りの雨がホールデンをずぶ濡れにする。だが、フィービーがかぶせてくれた赤いハンチングをかぶったホールデンは、濡れながらフィービーの回り続ける姿を見て「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになるのだ。「ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐるぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。」と語って、ホールデンは物語を閉じるである。グッバイ、フィービー_____
フィービーについて語ることはあまりにも多く、そして、それを書くことは『ライ麦畑でつかまえて』の核心に触れることになるので、いまはここまでにしておきたい。いつかまた、フィービーの好きな映画のことや、彼女の書く探偵小説のこと、それからダンスが上手で、深夜ホールデンとダンスを踊ったことなどについても書いてみたい。それまでもう少し時間がほしいと思っている。
今日も拙い文章を読んでくださって、ありがとうございます。
この曲は1933年「ロバータ」というミュージカルのために作曲され、1946年にナット・キングコールがカヴァーし、1958年またプラターズがカヴァーしている。私はナット・キングコールの歌声を聞いていたと思っていたのだが、プラターズのほうだったかもしれない。『ライ麦畑でつかまえて』の最後、フィービーが回転木馬に乗る場面でこの「煙が目にしみる」が流れる。
回転木馬と「煙が目にしみる」のとりあわせがミスマッチのような気もするが、「とてもジャズっぽい、おかしな演奏のしかただったな」と書かれているので、行進曲風にアレンジしたのだろう。ちょっと不思議なのは、この前にホールデンとフィービーが回転木馬の方に近づいて行くときに「いつもやってる間が抜けたみたいな音楽が聞こえだしたんだな。曲は『おお、マリー!』だった」とホールデンが言っていることである。? 回転木馬の所で演奏されていたのはどちらだ?さらに不思議なのは、これに続くホールデンの言葉である。「今から五十年も前になるが、僕の子供の時にも、あの歌をやってたもんさ。これが回転木馬のいいとこなんだ。いつも同じ歌をやってるってところが。」(アンダーラインは筆者)いったいホールデンは何歳なのだ?
そもそも「煙が目にしみる」も「おお、マリー!」もれっきとした大人のラヴ・ソングである。だが、回転木馬は八歳のフィービーが「あたしじゃ大きすぎるわ」というくらい小さな子供向けの乗り物なのだ。ラヴ・ソングが演奏に使われることがあるものだろうか。「おお!マリー」と「煙が目にしみる」の歌詞を書き出してみる。
「おお、マリー」
Here she comes, she's all dressed up in daises
Half the time, you'd swear that she is crazy
Flowered drinks and low-cut dress
That's the way I know her best
She says she's lonely, how could she be?
Every night she's got company
[Chorus]
Oh Marie,
I sure hope you're happy
Oh Marie,
What about me, Marie
She likes the way she looks in her Camaro
She likes lingerie but he prefers the sombrero
She's so famous on the block
<a href="http://www.lovecms.com/music-sheryl-crow/music-oh-marie.html">Oh Marie 歌詞<a>-<a href="http://www.lovecms.com">Loveの歌詞<a>
She stumbles home around four o'clock
She claims the guys are hard to please
She wears teen perfume behind her knees
[Chorus]
All day long she fills me up with dogma
She's all magazines and benzedrine and vodka
There was one man she truly loved
He took everything but her bear-skin rug
And now and then it's clear to me
That need is love and love is need
[Chorus]
Always an open door
What are you looking for
「煙が目にしみる」
They asked me how I knew
My true love was true
I of course replied something here inside
Cannot be denied
They said someday you'll find
All who love are blind
When your heart's on fire you must realize
Smoke gets in your eyes
So I chaffed them and I gaily laughed
To think they would doubt our love
And yet today my love has gone away
I am without my love
Now laughing friends deride
Tears I cannot hide
So I smile and say when a lovely flame dies
Smoke gets in your eyes
どちらもれっきとしたラヴ・ソングだが、かなり趣きが異なっている。「おお、マリー」のほうは子供向けにはいかがなものかと思われるが、ここでは「煙が目にしみる」の歌詞に注目したい。「煙が目にしみる」とは、失恋の悲涙で目がくもる、ということではないのだ。(今まで、私はそう思っていたのだが)「恋は盲目」の意なのだ。偽りの愛を真実だと信じたのは「煙が目にしみ」たからなのだ。
「煙が目にしみる」の演奏とともに、フィービーは回転木馬に乗ってぐるぐる回る。すると、突然降りだした土砂降りの雨がホールデンをずぶ濡れにする。だが、フィービーがかぶせてくれた赤いハンチングをかぶったホールデンは、濡れながらフィービーの回り続ける姿を見て「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになるのだ。「ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐるぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。」と語って、ホールデンは物語を閉じるである。グッバイ、フィービー_____
フィービーについて語ることはあまりにも多く、そして、それを書くことは『ライ麦畑でつかまえて』の核心に触れることになるので、いまはここまでにしておきたい。いつかまた、フィービーの好きな映画のことや、彼女の書く探偵小説のこと、それからダンスが上手で、深夜ホールデンとダンスを踊ったことなどについても書いてみたい。それまでもう少し時間がほしいと思っている。
今日も拙い文章を読んでくださって、ありがとうございます。
2013年4月9日火曜日
『サリンジャー戦記』を読んで____村上春樹氏へ_一つの根本的な疑問
さていよいよフィービーについて書かなければならないのだが、それを書くことは『ライ麦畑でつかまえて』の最終的な結論を提示することになる。その前に前回述べたように、二人の学友アクリーとストラドレーター、カール・ルース、グランド・セントラル・ステイションで出会った二人の尼さんなどについても触れておきたい。それで、今回はちょっと閑話休題、村上春樹と柴田元幸という当代きってのサリンジャー読みが対談した『サリンジャー戦記』という本の読書感想文を試みたい。
対談は「君ってだれだ?」という魅力的な小見出しから始まる。 If you really want to hear about it と書き出されるyou は誰なのか、という問いは謎に満ちた この小説を読み解く上で最も重要な問いだろう。だが、残念なことに魅力的なのは小見出しだけで、結局 you は「ひとつの考え方としてオルターエゴ(もう一つの自我)」ということに落ち着いてしまったようだ。村上春樹は「この小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内面的葛藤というか、『自己存在をどこにもっていくか』という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのかということなんです」と言っている。
そうだろうか。冒頭の文章に続けて、ホールデンは「・・・まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたのか、とかそういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実を言うと僕はそんなことはしゃべりたくないんだな」と宣言している。その通り、ホールデンはペンシーを脱け出してフィービーを回転木馬に乗せ雨にうたれるまでの三日間の出来事だけを語るのだ。語りの最後に「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とあるから、D.Bだけでなく、その他複数の人間に語ったのだ。「内面的葛藤」を多数の人間に語ってその語りが小説になることがあるだろうか。
対談はこの小説のあちこちをつつきながらいくつかの謎を見出すのだが、なんだかボタンの掛け違い、という感じがする。ここでは一番大きいボタンをあげておきたい。題名の訳し方である。原題 The Catcher in the Ryeはいままでの訳では「ライ麦畑でつかまえて」と主語を省いて動詞の連用形で終わるかたちだった。村上訳では「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と一見原題に近いように見える。だが、根本的に違っている。原題は「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」で定冠詞「ザ」が入るのだ。一般的な「捕まえる人」ではなく「その捕まえる人」なのである。特定の個人を念頭において発語しているのだ。
そもそもThe Catcher in the Rye という題名のもとになったロバート・バーンズの詩はフィービーの言うとおりIf a body meet a body coming through the rye でこれをIf a body catch a body と聞き違えるという設定にどうしても不自然なところがある。フィービーに指摘されて気がつくのだが、その後のホールデンの言葉にも納得できない。広いライ麦畑で子供たちがゲームをしていて、誰かが崖から落ちそうになったら その子をつかまえる、そういうものになりたい、という。ライ麦畑に崖?麦畑に崖があるものだろうか。日本の棚田ではあるまいし。ライ麦畑で遊ぶなら、この詩というか俗謡にあるように「二人でキスした、いいじゃないか」だろう。
ライ麦畑の捕まえ手になりたいというホールデンを造形したサリンジャーを村上春樹は「イノセンスというものを守護しようと、一人で立ち上がった」と言う。と言いながらイノセンス自体は読者にとってもはやキー・ポイントではないとする。その理由も二人の対談の中で説明されるが、なんだかわかったようなわからないような感じである。だいたいアメリカ文学を語る三つの大きななテーマがあるようで、イノセンスとイニシエイションと大脱出である、と昔習ったような気がする。そのどれかを用いれば何かを言ったような格好がつくから、学生時代の私なら嬉々としてレポートを書いたかもしれないが、齢?十歳をこえてそういう作業をする気はない。それは源氏物語を語るのに貴種流離譚等のモチーフをもちだして何かを語った気になるのと同じである。
話が横道にそれたが、この対談の最後は「イノセンスから愛へ」という小見出しで締めくくられる。「愛へ」となっているが、結論は「ホールデンは優しさをもっているけれど、誰かを真剣には愛さない」ということで「変動的相対性の海の中にいるというか、普遍的な足場を持たない少年の話なんだけど、それが社会的に許される時期というのは、精神的にはかなりきついけれども、この時期しかないんです」ということになる。?ずいぶんいろいろなことを言ってきてこの結論?まぁ、「一人の男の子の内面的葛藤」とか「自己存在」という言葉で作品分析をすれば、こういう結論になるのだろう。私には同語反復としか思えないが。
大分辛口の読書感想文になってしまったことにわれながら驚いています。最後にこの本を読んで大変参考になったことを一つ書き留めておきたいと思います。それは、対談に先立つ部分「ライ麦畑の翻訳者たち まえがきにかえて」という村上さんの文章の中に、サリンジャーのアメリカ本国のエージェントから訳者がいっさい解説をつけてはならない、という通知がきてせっかく書いた解説をはずした、とあることです。テキストはテキストとして読まれなければならない、ということでしょう。大変貴重な情報でした。村上さんどうもありがとうございました。
不出来なしかも高名なお二人に対して大変失礼な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
対談は「君ってだれだ?」という魅力的な小見出しから始まる。 If you really want to hear about it と書き出されるyou は誰なのか、という問いは謎に満ちた この小説を読み解く上で最も重要な問いだろう。だが、残念なことに魅力的なのは小見出しだけで、結局 you は「ひとつの考え方としてオルターエゴ(もう一つの自我)」ということに落ち着いてしまったようだ。村上春樹は「この小説の中心的な意味あいは、ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内面的葛藤というか、『自己存在をどこにもっていくか』という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのかということなんです」と言っている。
そうだろうか。冒頭の文章に続けて、ホールデンは「・・・まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたのか、とかそういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実を言うと僕はそんなことはしゃべりたくないんだな」と宣言している。その通り、ホールデンはペンシーを脱け出してフィービーを回転木馬に乗せ雨にうたれるまでの三日間の出来事だけを語るのだ。語りの最後に「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とあるから、D.Bだけでなく、その他複数の人間に語ったのだ。「内面的葛藤」を多数の人間に語ってその語りが小説になることがあるだろうか。
対談はこの小説のあちこちをつつきながらいくつかの謎を見出すのだが、なんだかボタンの掛け違い、という感じがする。ここでは一番大きいボタンをあげておきたい。題名の訳し方である。原題 The Catcher in the Ryeはいままでの訳では「ライ麦畑でつかまえて」と主語を省いて動詞の連用形で終わるかたちだった。村上訳では「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と一見原題に近いように見える。だが、根本的に違っている。原題は「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」で定冠詞「ザ」が入るのだ。一般的な「捕まえる人」ではなく「その捕まえる人」なのである。特定の個人を念頭において発語しているのだ。
そもそもThe Catcher in the Rye という題名のもとになったロバート・バーンズの詩はフィービーの言うとおりIf a body meet a body coming through the rye でこれをIf a body catch a body と聞き違えるという設定にどうしても不自然なところがある。フィービーに指摘されて気がつくのだが、その後のホールデンの言葉にも納得できない。広いライ麦畑で子供たちがゲームをしていて、誰かが崖から落ちそうになったら その子をつかまえる、そういうものになりたい、という。ライ麦畑に崖?麦畑に崖があるものだろうか。日本の棚田ではあるまいし。ライ麦畑で遊ぶなら、この詩というか俗謡にあるように「二人でキスした、いいじゃないか」だろう。
ライ麦畑の捕まえ手になりたいというホールデンを造形したサリンジャーを村上春樹は「イノセンスというものを守護しようと、一人で立ち上がった」と言う。と言いながらイノセンス自体は読者にとってもはやキー・ポイントではないとする。その理由も二人の対談の中で説明されるが、なんだかわかったようなわからないような感じである。だいたいアメリカ文学を語る三つの大きななテーマがあるようで、イノセンスとイニシエイションと大脱出である、と昔習ったような気がする。そのどれかを用いれば何かを言ったような格好がつくから、学生時代の私なら嬉々としてレポートを書いたかもしれないが、齢?十歳をこえてそういう作業をする気はない。それは源氏物語を語るのに貴種流離譚等のモチーフをもちだして何かを語った気になるのと同じである。
話が横道にそれたが、この対談の最後は「イノセンスから愛へ」という小見出しで締めくくられる。「愛へ」となっているが、結論は「ホールデンは優しさをもっているけれど、誰かを真剣には愛さない」ということで「変動的相対性の海の中にいるというか、普遍的な足場を持たない少年の話なんだけど、それが社会的に許される時期というのは、精神的にはかなりきついけれども、この時期しかないんです」ということになる。?ずいぶんいろいろなことを言ってきてこの結論?まぁ、「一人の男の子の内面的葛藤」とか「自己存在」という言葉で作品分析をすれば、こういう結論になるのだろう。私には同語反復としか思えないが。
大分辛口の読書感想文になってしまったことにわれながら驚いています。最後にこの本を読んで大変参考になったことを一つ書き留めておきたいと思います。それは、対談に先立つ部分「ライ麦畑の翻訳者たち まえがきにかえて」という村上さんの文章の中に、サリンジャーのアメリカ本国のエージェントから訳者がいっさい解説をつけてはならない、という通知がきてせっかく書いた解説をはずした、とあることです。テキストはテキストとして読まれなければならない、ということでしょう。大変貴重な情報でした。村上さんどうもありがとうございました。
不出来なしかも高名なお二人に対して大変失礼な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年4月3日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』____アントリーニ先生とは何か
黒衣の美女サリー・ヘイズとの惨憺たるデイトのあと、ホールデンはかつてフートンの先輩だったカール・ルースと会う。なぜか夜十時という時間に現れてさっさと帰ってしまったこのルースのことも、それから順序は前後するが、グランド・セントラル・ステーションでホールデンと朝食をともにしながらシェークスピアの話をした尼さんのこと、またペンシーの学友二人アクリーとストラドレーターについても書かなければならないのだが、いまはまず、アントリーニ先生について考えてみたい。ホールデンは三日間の逃避行?の最初と最後に「先生」と名のつく人に会うのである。
妹のフィービーに会いたくて、ホールデンは自宅マンションにしのび込む。だが、そこで夜を明かすことはできないので、かつてエレクトン・ヒルズで英語を教わったアントリーニ先生に電話して泊めてもらうことにする。まだ若い先生にはリリアンという六十くらい(!)年上の大金持ちの奥さんがいて、二人の仲はうまくいっているようだが、不思議なことにこの夫婦は同時に同じ部屋にいることがないので、いつも大声で叫びあっている。この夜も先生の方はハイボール片手にバスロープ姿で現れたが、奥さんは「ホールデン、ちょっとでもあたしを見ちゃだめよ。ひどい格好なんだから」と言って姿を隠そうとする。折りしも「バッファローから来た女房の友だち仲間」とパーティをしていた後で、あたり一面散らかり放題のようである。
アントリオーニ先生は「僕がこれまで接した中で一番いい先生だった」とホールデンはいう。ホールデンがエレクトン・ヒルズをやめた後も彼の様子を見に家を訪れて食事をともにしたり、ホールデンの方が先生の家に行ったりしていた。この夜ホールデンは極度の体調不良で早く休みたかったのだが、酩酊状態の先生は熱っぽく語ってやまない。
先生はホールデンが「どこまでも堕ちて行くだけ」の「特殊な堕落」「恐ろしい堕落」に向かって進んでいると言う。彼が「きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で高貴な死に方をしようとしていることが」はっきりと見える、というのだ。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者の言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」を書いた紙をホールデンに渡す。
さらに先生は学校教育について説き始める。ホールデンは遠からず自分の進むべき道をみつけださずにはいられない。そのときは直ちに学校に入らなければならない、というのだ。そこで自分と同じような経験をして同じような悩みを悩んだ先人の記録に学び、自らもその経験を人に与えることが出来れば、それは「美しい相互援助」というものであり、「こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」と興奮してとどまるところを知らないかのようである。ホールデンのほうは何故か急に眠たくなってあくびをかみころしていたが、先生が「学校教育を続けていけば『自分の頭のサイズ』がわかりかけてくる」というくだりまで話したところでついにあくびをしてしまう。ようやく先生の演説が終わり、ホールデンは窮屈なベッドに身を横たえる。
出来事が起こったのはその後である。あっという間に眠り込んでしまったホールデンだったが、誰か手で頭をさわったのに気がついて突然目を覚ましてしまう。アントリーニ先生が床に坐ってホールデンの頭を愛撫していたようなのだ。ホールデンは「一千フィートばかしも跳び上がった」。そしてなんとか身支度を整えると、どうしても見つからないネクタイはしないまま、先生の部屋から逃げ出したのである。
ホールデンはどうしてそんなに怯えたのだろうか。信頼していた先生が同性愛者だったとしても、「身体が気違いみたいに震えて」汗びっしょりになるほど恐ろしい体験だろうか。こういうことは「子供の頃から二十回ほど」も繰り返した、というが二十回繰り返してもなお「がまんができない」体験?それにしては、前述のカール・ルースとの会話で、ホールデンはルースの性生活について同性愛も含めて話題にしているが、その話ぶりは執拗で、異常といってもいいくらいな執拗さに違和感を覚えるほどだ。話題にすることと実際に体験することとはまったく違うのだろうか?
アントリーニ先生とホールデンの会話はほとんど先生が一方的に熱弁を振るって高邁な教育論を語るのだが、妙に具体的でトーンの異なる箇所がいくつかある。その一つはホールデンが話題にした《弁論表現》の授業について、本題と無関係なことを言って《脱線!》とどなられてばかりいた生徒をホールデンが擁護する場面である。気が小さくて唇のふるえがとまらないこの生徒はいつもこの課目で《Dの上》だったが、あるとき父親が買った農場のことを話していて、途中で彼のおじさんが四十二のときに小児麻痺になったことを興奮して話だした、というのである。それに対してクラスの他の生徒たちは《脱線!》を浴びせかけるが、ホールデンはそのまま話さしてやるべきで、しょっちゅう「統一しろ」「簡潔にしろ」とばかり言う担当の教師も他の生徒たちも間違っているという立場なのだ。彼自身は《弁論表現》の評価は《F》だったという。
もうひとつ微妙にトーンの異なる箇所があって、それはアントリーニ先生が、ホールデンは「恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいる」という話題を持ち出した部分である。その「堕落の種類」について先生が説明するのだが、その「種類」がちょっと不思議なのである。「君が三十くらいになったとき、どっかのバーに坐り込んでいて、大学時代にフットボールをやっていたような様子をした男が入って来るたんびに憎悪をもやす」というような堕落、あるいは「『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間」になってしまうような堕落、さらに「身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になってしまう」ような堕落と三つの例を挙げるのだが、これらはそんなに「恐ろしい堕落」なのだろうか。この後に抽象的で高邁な教育論が続くので、この部分が際立って異質なものに見えるのである。
それから、これは日本語訳の問題かもしれないのだが、アントリーニ先生が「自分の頭のサイズ」はいくつか、という箇所について、原文はWhat size mind you have となっていることに少し引っかかるものを感じてしまう。訳者の野崎さんはこの部分 mind という単語をすべて「頭」と訳していて、ある意味それは名訳だと思うのだが、mind という単語は普通は「心」とか「気持ち」というような感性的なニュアンスの日本語に訳すのではないか?私自身は野崎さんがこの訳語を使ってくれたおかげで随分いろいろなことが見えてきたような気がするのだが。
アントリーニ先生に関して、まだいくつか考えなければならないことがあって、そのひとつが奥さんの名前についての疑問である。奥さんの名前は「リリアン」というのだが、ホールデンの兄D.Bが昔つきあっていた女の名前と同じなのだ。これは偶然なのだろうか。作品の中で違う人間に同じ名前をつけることがあるものだろうか。
アントリーニ先生については、もしかしたらスペンサー先生より謎の部分が多くあるのかもしれません。とりあえず途中経過の報告です。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
妹のフィービーに会いたくて、ホールデンは自宅マンションにしのび込む。だが、そこで夜を明かすことはできないので、かつてエレクトン・ヒルズで英語を教わったアントリーニ先生に電話して泊めてもらうことにする。まだ若い先生にはリリアンという六十くらい(!)年上の大金持ちの奥さんがいて、二人の仲はうまくいっているようだが、不思議なことにこの夫婦は同時に同じ部屋にいることがないので、いつも大声で叫びあっている。この夜も先生の方はハイボール片手にバスロープ姿で現れたが、奥さんは「ホールデン、ちょっとでもあたしを見ちゃだめよ。ひどい格好なんだから」と言って姿を隠そうとする。折りしも「バッファローから来た女房の友だち仲間」とパーティをしていた後で、あたり一面散らかり放題のようである。
アントリオーニ先生は「僕がこれまで接した中で一番いい先生だった」とホールデンはいう。ホールデンがエレクトン・ヒルズをやめた後も彼の様子を見に家を訪れて食事をともにしたり、ホールデンの方が先生の家に行ったりしていた。この夜ホールデンは極度の体調不良で早く休みたかったのだが、酩酊状態の先生は熱っぽく語ってやまない。
先生はホールデンが「どこまでも堕ちて行くだけ」の「特殊な堕落」「恐ろしい堕落」に向かって進んでいると言う。彼が「きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で高貴な死に方をしようとしていることが」はっきりと見える、というのだ。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者の言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」を書いた紙をホールデンに渡す。
さらに先生は学校教育について説き始める。ホールデンは遠からず自分の進むべき道をみつけださずにはいられない。そのときは直ちに学校に入らなければならない、というのだ。そこで自分と同じような経験をして同じような悩みを悩んだ先人の記録に学び、自らもその経験を人に与えることが出来れば、それは「美しい相互援助」というものであり、「こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」と興奮してとどまるところを知らないかのようである。ホールデンのほうは何故か急に眠たくなってあくびをかみころしていたが、先生が「学校教育を続けていけば『自分の頭のサイズ』がわかりかけてくる」というくだりまで話したところでついにあくびをしてしまう。ようやく先生の演説が終わり、ホールデンは窮屈なベッドに身を横たえる。
出来事が起こったのはその後である。あっという間に眠り込んでしまったホールデンだったが、誰か手で頭をさわったのに気がついて突然目を覚ましてしまう。アントリーニ先生が床に坐ってホールデンの頭を愛撫していたようなのだ。ホールデンは「一千フィートばかしも跳び上がった」。そしてなんとか身支度を整えると、どうしても見つからないネクタイはしないまま、先生の部屋から逃げ出したのである。
ホールデンはどうしてそんなに怯えたのだろうか。信頼していた先生が同性愛者だったとしても、「身体が気違いみたいに震えて」汗びっしょりになるほど恐ろしい体験だろうか。こういうことは「子供の頃から二十回ほど」も繰り返した、というが二十回繰り返してもなお「がまんができない」体験?それにしては、前述のカール・ルースとの会話で、ホールデンはルースの性生活について同性愛も含めて話題にしているが、その話ぶりは執拗で、異常といってもいいくらいな執拗さに違和感を覚えるほどだ。話題にすることと実際に体験することとはまったく違うのだろうか?
アントリーニ先生とホールデンの会話はほとんど先生が一方的に熱弁を振るって高邁な教育論を語るのだが、妙に具体的でトーンの異なる箇所がいくつかある。その一つはホールデンが話題にした《弁論表現》の授業について、本題と無関係なことを言って《脱線!》とどなられてばかりいた生徒をホールデンが擁護する場面である。気が小さくて唇のふるえがとまらないこの生徒はいつもこの課目で《Dの上》だったが、あるとき父親が買った農場のことを話していて、途中で彼のおじさんが四十二のときに小児麻痺になったことを興奮して話だした、というのである。それに対してクラスの他の生徒たちは《脱線!》を浴びせかけるが、ホールデンはそのまま話さしてやるべきで、しょっちゅう「統一しろ」「簡潔にしろ」とばかり言う担当の教師も他の生徒たちも間違っているという立場なのだ。彼自身は《弁論表現》の評価は《F》だったという。
もうひとつ微妙にトーンの異なる箇所があって、それはアントリーニ先生が、ホールデンは「恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいる」という話題を持ち出した部分である。その「堕落の種類」について先生が説明するのだが、その「種類」がちょっと不思議なのである。「君が三十くらいになったとき、どっかのバーに坐り込んでいて、大学時代にフットボールをやっていたような様子をした男が入って来るたんびに憎悪をもやす」というような堕落、あるいは「『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間」になってしまうような堕落、さらに「身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になってしまう」ような堕落と三つの例を挙げるのだが、これらはそんなに「恐ろしい堕落」なのだろうか。この後に抽象的で高邁な教育論が続くので、この部分が際立って異質なものに見えるのである。
それから、これは日本語訳の問題かもしれないのだが、アントリーニ先生が「自分の頭のサイズ」はいくつか、という箇所について、原文はWhat size mind you have となっていることに少し引っかかるものを感じてしまう。訳者の野崎さんはこの部分 mind という単語をすべて「頭」と訳していて、ある意味それは名訳だと思うのだが、mind という単語は普通は「心」とか「気持ち」というような感性的なニュアンスの日本語に訳すのではないか?私自身は野崎さんがこの訳語を使ってくれたおかげで随分いろいろなことが見えてきたような気がするのだが。
アントリーニ先生に関して、まだいくつか考えなければならないことがあって、そのひとつが奥さんの名前についての疑問である。奥さんの名前は「リリアン」というのだが、ホールデンの兄D.Bが昔つきあっていた女の名前と同じなのだ。これは偶然なのだろうか。作品の中で違う人間に同じ名前をつけることがあるものだろうか。
アントリーニ先生については、もしかしたらスペンサー先生より謎の部分が多くあるのかもしれません。とりあえず途中経過の報告です。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年3月21日木曜日
「対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」について再び___主人公は誰か
『ライ麦畑でつかまえて』の続きを書かなければ、と思うのだが、その前にコクトーの「美女と野獣」についてもう一度見直さなければいけないような気がしてならない。映画「美女と野獣」の主人公は誰なのか?
「美女と野獣」というタイトルなのだから、「美女」と「野獣」の両方が主人公であって何の疑問の余地もない、というのが常識的な答えだろう。だがコクトーはこの映画を美女と野獣との「二人の愛の物語」にはしなかった。アヴナンという男を登場させて、ベルを挟んだ「三角関係の愛の物語」にしたのである。王子の姿に戻った野獣がベルに「(アヴナンを)愛していたのか?」と訊ね、ベルが「ウィ」と答え、「では野獣は(愛していたのか)?」と聞かれると、これにもベルが「ウィ」と答えるシーンがある。そして王子がベルのことを「変わった娘だ」というくだりになるのは前回書いた通りである。
今回気がついたのは、この前に王子が「人を野獣に変えるのも愛」「醜い男を美しく変えるのも愛」と言っていることである。この「愛」という抽象的な言葉は具体的には美女の「ベル」ということだろう。「ベル」こそが自分に想いをよせるアヴナンを野獣に変え、その「愛に満ちた眼差し」で野獣として死んだ王子を蘇らせたのだから。言い換えればベルはアヴナンと野獣(王子)の二人を操ったのではないか。主人公は「美女と野獣」の二人ではなく、「美女」ベルその人なのではないか。映画の中で何度も繰り返される「ベェ~ル」という言葉が、言葉そのものとしてというより独特の響きをもった音声としていつまでも耳に残る。
美女ベルが二人の男を操った、は言いすぎだとしても二人の男が美女ベルを仲介させて、一方は死に、一方は蘇ったというプロットを「対エスキモー戦争の前夜」と重ね合わせてみると、どんなものが見えてくるだろう?いうまでもなくこちらの主人公はジニー・マノックスである。このほうが分かりやすい、というよりむしろ誰も疑念はいだかないだろう。フランクリンが野獣でエリックがアヴナン、という図式をあてはめることもたぶん間違っていない、と思われる。問題はその次である。「対エスキモー戦争」でアヴナンのエリックは死んで、野獣のフランクリンは蘇って王子となり、ベルのジニーとともに「私(王子)の支配する国」に旅立ったのだろうか?むくむくと湧き上がる雲に乗って。
映画「美女と野獣」については、この他にもいくつか書かなければならないことがあって、「対エスキモー戦争の前夜」という作品を考えるにあたって大事なことなのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。今回はそのテーマを二つだけあげておきたい。ひとつは、サリンジャーが作中エリックに「あの映画だけは開演に間に合うように行かなくっちゃ。そうしないと魅力が台無しになっちまうもん」と言わせていること。観客は幕が上がる前から画面に注目することを要求されているのだ。最初からワンカットも見逃さないでほしい、といっているのが何故か、ということである。
もうひとつは野獣のバラに対するこだわりである。何故こだわるか、ではなく、こだわっているという事実そのものについて考えてみたいと思っている。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「美女と野獣」というタイトルなのだから、「美女」と「野獣」の両方が主人公であって何の疑問の余地もない、というのが常識的な答えだろう。だがコクトーはこの映画を美女と野獣との「二人の愛の物語」にはしなかった。アヴナンという男を登場させて、ベルを挟んだ「三角関係の愛の物語」にしたのである。王子の姿に戻った野獣がベルに「(アヴナンを)愛していたのか?」と訊ね、ベルが「ウィ」と答え、「では野獣は(愛していたのか)?」と聞かれると、これにもベルが「ウィ」と答えるシーンがある。そして王子がベルのことを「変わった娘だ」というくだりになるのは前回書いた通りである。
今回気がついたのは、この前に王子が「人を野獣に変えるのも愛」「醜い男を美しく変えるのも愛」と言っていることである。この「愛」という抽象的な言葉は具体的には美女の「ベル」ということだろう。「ベル」こそが自分に想いをよせるアヴナンを野獣に変え、その「愛に満ちた眼差し」で野獣として死んだ王子を蘇らせたのだから。言い換えればベルはアヴナンと野獣(王子)の二人を操ったのではないか。主人公は「美女と野獣」の二人ではなく、「美女」ベルその人なのではないか。映画の中で何度も繰り返される「ベェ~ル」という言葉が、言葉そのものとしてというより独特の響きをもった音声としていつまでも耳に残る。
美女ベルが二人の男を操った、は言いすぎだとしても二人の男が美女ベルを仲介させて、一方は死に、一方は蘇ったというプロットを「対エスキモー戦争の前夜」と重ね合わせてみると、どんなものが見えてくるだろう?いうまでもなくこちらの主人公はジニー・マノックスである。このほうが分かりやすい、というよりむしろ誰も疑念はいだかないだろう。フランクリンが野獣でエリックがアヴナン、という図式をあてはめることもたぶん間違っていない、と思われる。問題はその次である。「対エスキモー戦争」でアヴナンのエリックは死んで、野獣のフランクリンは蘇って王子となり、ベルのジニーとともに「私(王子)の支配する国」に旅立ったのだろうか?むくむくと湧き上がる雲に乗って。
映画「美女と野獣」については、この他にもいくつか書かなければならないことがあって、「対エスキモー戦争の前夜」という作品を考えるにあたって大事なことなのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。今回はそのテーマを二つだけあげておきたい。ひとつは、サリンジャーが作中エリックに「あの映画だけは開演に間に合うように行かなくっちゃ。そうしないと魅力が台無しになっちまうもん」と言わせていること。観客は幕が上がる前から画面に注目することを要求されているのだ。最初からワンカットも見逃さないでほしい、といっているのが何故か、ということである。
もうひとつは野獣のバラに対するこだわりである。何故こだわるか、ではなく、こだわっているという事実そのものについて考えてみたいと思っている。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年3月6日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』___サリー・ヘイズとは何か
ジェーン・ギャラハーとならぶこの小説の重要人物であるサリー・ヘイズについて、なかなか書けませんでした。書くことがないわけではなかったのですが、相変わらずの身辺雑事に追われていた、というのは言い訳で、サリー・ヘイズに関しては、スペンサー先生やジェーン・ギャラハーに比べてもう一つ魅力的な謎が見出せなかったからかもしれません。謎がないわけではないのですが、何故かどうしても書きたいと突っ込んでいく動機づけが自分自身のなかで作り出せなかった。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年2月6日水曜日
「ちびくろサンボ」を考える___サリンジャーとちびくろサンボ
一昔前、たぶんバブルの八十年代後半だったと思うが、「ちびくろサンボ」が差別かどうかで議論が沸騰したことがあった。「ちびくろサンボ」だけでなく、他の作品も、というより言葉そのものが差別かどうかで議論の対象になり、いくつかの言葉が「言葉狩り」の対象になった。単刀直入にそのものを示すやまとことばはおおっぴらに使うことが躊躇われるようになって、それは今でも続いている。「めくら」は「視覚障害」、「つんぼ」は「聴覚障害」と言い換えられるようになった。いや、「障害『者』」と言う言葉さえも直接当事者に向かって発するには勇気を要する。だが、言葉はそもそも「モノ」や「コト」を他と区別する機能をもつものだ。そのものズバリのやまとことばが差別語であるとして、漢語を使ったまわりくどい表現ならよしとする風潮はおかしい。
「差別語」を使わなければ差別がなくなるわけではない。八十年代後半から今にいたるまで差別は一層深刻になり、「格差」あるいは「格差社会」と言う言葉が発明された。「格差」は抽象的表現で、内実は「貧富の差」「弱肉強食の徹底」である。
さて「ちびくろサンボ」に戻ろう。差別か否かだけが議論の対象となったこの作品は謎に満ちている。サリンジャーの小説がどれも謎にみちているように。サリンジャーは『ナイン・ストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」の中にこの作品を登場させる。主人公シーモアがシビル・カーペンターという少女と浜辺で会話している。シーモアは少女にどこから来たのか訊ねる。最初は知らない、と言った少女がシーモアの誘導に「コネティカット州ホヮーリーウッド」と答えた後、突然「あんた、『ちびくろサンボ』読んだ?」とシーモアに聞く。その後の会話がちょっと不思議なのである。自分も昨夜読み終えたばかりだ、と答えるシーモアは木の周りをぐるぐる回る虎のことを「あんなにたくさんの虎、見たことない」と言う。それにたいしてシビルは「たった六匹よ」とかえす。
よく知られているように、原作に登場する虎は四匹である。なぜシビルは「たった六匹よ」と言ったのだろう。それに対してシーモアは「きみは六匹をたったって言うの」と返して、頭数を訂正するわけでもない。この後シビルは「六本」のバナナをくわえているバナナ魚を見つけた、と書かれているので、「六」という数字は何か意味があるのだろう。だが、わざわざ登場する虎の頭数を変えてまで「ちびくろサンボ」を登場させたのは何故か。
「ちびくろサンボ」は19世紀末に軍医の夫とともにインドで生活したバナーマン夫人が自分の娘たちのために書いた童話であるとされている。チベットの民話が元になっているとも言われるが詳ししい由来は知らない。私自身も岩波版の「ちびくろサンボ」を自分の子どものために買って読み聞かせた覚えがある。お母さんのマンボに赤い上着と青いズボンを作ってもらい、お父さんのジャンボに紫の靴と緑色の傘を市場で買ってもらったサンボは竹やぶの中に出かけて、順々に現れた四匹の虎に命と引き換えにみんな取られてしまう。四匹の虎はそれぞれ自分の獲物を自慢し、自分が一番強いと言って、けんかを始める。相手の尻尾を嚙もうとしてぐるぐる回り始めた虎は、そのうち溶けて「ギー」というバターになってしまう。裸で木の上から見ていたサンボはそのギーを家に持ち帰ってお母さんにホットケーキを作ってもらって、お母さんのマンボが27枚、お父さんのジャンボが55枚、サンボは169枚食べました、というお話である。
童話なのでつじつまが合わないことがあるのは当然だが、それでも不思議なことがいくつもあるお話だと思う。まず、上から下まで新調の衣服を身に着けてご機嫌なサンボはどうして虎が出てくるような危険な竹やぶに入っていったのか。竹やぶで緑色の傘をさすのはなんの必要があってのことか。赤、青、紫、緑、(+虎の黄色、茶色)と色が特定されているのはなにか意味があるのだろうか。それから、最初に虎に出会って赤い上着を取られた、という怖ろしい体験をしたのに、どうしてすぐ家に逃げ帰らなかったのか。一方虎の方も、サンボが身につけていた品物は虎にとってはそれこそ無用の長物なのに、何故そんなものをサンボの命と引き換えに受け取ったのだろう。およそ実用的な価値がない物なのに、それを所有していることで一番の権威を持つことが出来ると考えているようだ。挙句の果ては権力争い?をして自らの体を溶かしてしまうとは。
結末も不思議である。虎のギーで作ったホットケーキをそれぞれが食べた枚数が「27枚」「55枚」「169枚」と具体的に数字を挙げて語られている。荒唐無稽なお話だからあまり意味はないのかもしれないが、なんとなく印象的な数字である。
と、ここまであらすじをたどってきても、サリンジャーが何故「ちびくろサンボ」を「バナナ魚には理想的な日」に登場させたのかよくわからない。童話を深読みしてもよくないのかもしれないが、謎解きのためのヒントはいくつか見つけたよう気がする。古今東西民話の中に登場する動物は現地住民のメタファーであるということ。虎とは何か?サンボ一家は何人か?ジャンボ、マンボ、サンボ、という名前は少なくとも白人ではないだろう。でも虎ではないのだから現地住民でもないだろう。近代的な衣類を身につけ、ホットケーキを食べる習慣があるので、生活様式は文明人だろう。また、・・・とこれ以上書くと子どもの夢を壊す、と叱られそうである。
さて、「きみは六匹をたったって言うの?」とシーモアに聞かれたシビルはそれには答えず「あんた、蠟(原文はwax〉は好き?」とシーモアにたずね、この後二人はバナナ魚を探しに海に入って行く。謎に満ちた展開はまだまだ続くのだが、シビルとシーモアは「ちびくろサンボ」を仲介させて何事かを了解し合ったように思われる。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
「差別語」を使わなければ差別がなくなるわけではない。八十年代後半から今にいたるまで差別は一層深刻になり、「格差」あるいは「格差社会」と言う言葉が発明された。「格差」は抽象的表現で、内実は「貧富の差」「弱肉強食の徹底」である。
さて「ちびくろサンボ」に戻ろう。差別か否かだけが議論の対象となったこの作品は謎に満ちている。サリンジャーの小説がどれも謎にみちているように。サリンジャーは『ナイン・ストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」の中にこの作品を登場させる。主人公シーモアがシビル・カーペンターという少女と浜辺で会話している。シーモアは少女にどこから来たのか訊ねる。最初は知らない、と言った少女がシーモアの誘導に「コネティカット州ホヮーリーウッド」と答えた後、突然「あんた、『ちびくろサンボ』読んだ?」とシーモアに聞く。その後の会話がちょっと不思議なのである。自分も昨夜読み終えたばかりだ、と答えるシーモアは木の周りをぐるぐる回る虎のことを「あんなにたくさんの虎、見たことない」と言う。それにたいしてシビルは「たった六匹よ」とかえす。
よく知られているように、原作に登場する虎は四匹である。なぜシビルは「たった六匹よ」と言ったのだろう。それに対してシーモアは「きみは六匹をたったって言うの」と返して、頭数を訂正するわけでもない。この後シビルは「六本」のバナナをくわえているバナナ魚を見つけた、と書かれているので、「六」という数字は何か意味があるのだろう。だが、わざわざ登場する虎の頭数を変えてまで「ちびくろサンボ」を登場させたのは何故か。
「ちびくろサンボ」は19世紀末に軍医の夫とともにインドで生活したバナーマン夫人が自分の娘たちのために書いた童話であるとされている。チベットの民話が元になっているとも言われるが詳ししい由来は知らない。私自身も岩波版の「ちびくろサンボ」を自分の子どものために買って読み聞かせた覚えがある。お母さんのマンボに赤い上着と青いズボンを作ってもらい、お父さんのジャンボに紫の靴と緑色の傘を市場で買ってもらったサンボは竹やぶの中に出かけて、順々に現れた四匹の虎に命と引き換えにみんな取られてしまう。四匹の虎はそれぞれ自分の獲物を自慢し、自分が一番強いと言って、けんかを始める。相手の尻尾を嚙もうとしてぐるぐる回り始めた虎は、そのうち溶けて「ギー」というバターになってしまう。裸で木の上から見ていたサンボはそのギーを家に持ち帰ってお母さんにホットケーキを作ってもらって、お母さんのマンボが27枚、お父さんのジャンボが55枚、サンボは169枚食べました、というお話である。
童話なのでつじつまが合わないことがあるのは当然だが、それでも不思議なことがいくつもあるお話だと思う。まず、上から下まで新調の衣服を身に着けてご機嫌なサンボはどうして虎が出てくるような危険な竹やぶに入っていったのか。竹やぶで緑色の傘をさすのはなんの必要があってのことか。赤、青、紫、緑、(+虎の黄色、茶色)と色が特定されているのはなにか意味があるのだろうか。それから、最初に虎に出会って赤い上着を取られた、という怖ろしい体験をしたのに、どうしてすぐ家に逃げ帰らなかったのか。一方虎の方も、サンボが身につけていた品物は虎にとってはそれこそ無用の長物なのに、何故そんなものをサンボの命と引き換えに受け取ったのだろう。およそ実用的な価値がない物なのに、それを所有していることで一番の権威を持つことが出来ると考えているようだ。挙句の果ては権力争い?をして自らの体を溶かしてしまうとは。
結末も不思議である。虎のギーで作ったホットケーキをそれぞれが食べた枚数が「27枚」「55枚」「169枚」と具体的に数字を挙げて語られている。荒唐無稽なお話だからあまり意味はないのかもしれないが、なんとなく印象的な数字である。
と、ここまであらすじをたどってきても、サリンジャーが何故「ちびくろサンボ」を「バナナ魚には理想的な日」に登場させたのかよくわからない。童話を深読みしてもよくないのかもしれないが、謎解きのためのヒントはいくつか見つけたよう気がする。古今東西民話の中に登場する動物は現地住民のメタファーであるということ。虎とは何か?サンボ一家は何人か?ジャンボ、マンボ、サンボ、という名前は少なくとも白人ではないだろう。でも虎ではないのだから現地住民でもないだろう。近代的な衣類を身につけ、ホットケーキを食べる習慣があるので、生活様式は文明人だろう。また、・・・とこれ以上書くと子どもの夢を壊す、と叱られそうである。
さて、「きみは六匹をたったって言うの?」とシーモアに聞かれたシビルはそれには答えず「あんた、蠟(原文はwax〉は好き?」とシーモアにたずね、この後二人はバナナ魚を探しに海に入って行く。謎に満ちた展開はまだまだ続くのだが、シビルとシーモアは「ちびくろサンボ」を仲介させて何事かを了解し合ったように思われる。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
2013年1月31日木曜日
対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」____サリンジャーとコクトー
「対エスキモー戦争の前夜」の中で「あれこそまさに醇乎たる天才だね」と作中人物に賞讃される映画「美女と野獣」について、もう一度考えてみたい。サリンジャーは「美女と野獣」のどこに「醇乎たる天才」を見いだしたのか。美しいモノクロの画面の中でくり広げられる物語は荒唐無稽なお伽話のようでありながら、細部の心理描写にリアルなものがあり、ストーリーの展開が緊密で無駄がない。だが、サリンジャーは、たんにそのような映画的完成度にたいして「醇乎たる天才」と言ったのだろうか。
映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。
一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。
美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。
最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。
コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。
一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。
美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。
最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。
コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年1月14日月曜日
サリンジャーと雪
身辺雑事はだいぶかたづいたのですが、原文講読も書くことも遅々としてはかどりません。能力の限界を感じています。と泣き言を言っても何もならないし、たまたま今日は雪が降っているので、本筋とあまり関係がないかもしれないのですが、「サリンジャーと雪」について少しだけ書いてみたいと思います。
『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。
ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。
サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。
書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。
ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。
サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。
書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年12月3日月曜日
「ライ麦畑でつかまえて」____ジェーン・ギャラハーとは何か
久々の更新です。やっとものが書ける環境になりつつあります。だいぶ感覚がなまってしまったようで、少し不安ですが。今回は「ライ麦畑でつかまえて」の影の主人公ともいえるジェーン・ギャラハーについての覚書です。箇条書きに近いまさにnaoko_noteですが。
「ライ麦畑でつかまえて」には主人公ホールデンの他にも何人かの個性的なキャラクタが登場する。冒頭では前回少し触れたスペンサー先生、それからルームメイトのアクリーとストラドレーター、そしてストラドレーターがデイトしたジェーン・ギャラハーの四人は小説前半の重要人物である。ただしジェーン・ギャラハーはホールデンとストラドレーターとの会話およびホールデンの回想の中で触れられるが、直接ストーリーの展開の中に姿を現すことはない。だが、ホールデンは、というよりサリンジャーは執拗にジェーン・ギャラハーについて言及する。そもそもホールデンが、どのみち放校になるにせよ、予定より早くペンシーを出たのは、彼がストラドレーターにジェーン・ギャラハーを「やったのか」どうかについて訊ねたのに対し、、ストラドレーターが「それは職業上の秘密という奴でしてね」とはぐらかしたことが直接のひきがねになったのだ。
「やったのかよ?」というホールデンの言葉は原文ではGive her the time?となっている。日本語でも「やった」という言葉は、様々な漢字が当てられて複雑な意味をもつ。Give the timeを「やった」と訳したのは訳者の野崎孝さんの名訳だと思うのだが、原文も日本語訳もその意味するところは深い。
ホールデンとジェーンはどんな関係だったのだろう。二年前の夏、メイン州にあった彼女の家のドーベルマンが隣のホールデンの家の庭に排泄したことがきっかけで二人は友達になったという。ひと夏を二人は一緒にスポーツを楽しみ、ゲームをしたり、ときには(ホールデンが嫌いなはずの)映画を見に行ったりもした。アメリカ中産階級の子女の典型的なひと夏の体験が語られるのだが、中でも印象的なのが、二人がチェッカーをしていたときのエピソードである。
ジェーン・ギャラハーという少女はまず「(チェッカーをするとき)自分のキングを絶対に動かさない」人物として紹介される。そのことは何回も繰り返して記述される。ある土曜日の午後二人はそうやってチェッカーをしていたのだが、突然土砂降りの雨が降り出す。すると、ヴェランダでゲームをしていた二人の前に彼女の母親の再婚相手の「カダヒさん」という男が現れて「家のどこかに煙草はないか」と彼女に聞く。ところが彼女はまったく答えない。男はあきらめて家の中に戻ったが、その後ホールデンの問いかけにも彼女は口をとざしたままである。そして、チェッカ-盤の赤い桝目上に涙を一滴こぼして、それを指ですりこんでしまう。それを見たホールデンは泣き出した彼女の顔一面に接吻する。口以外のすべてに。
その後ジェーンはいったん家の中に入っていって「赤と白のセーターを着て来」て、二人は映画に行く。事件の顛末はこれだけなのだが、ホールデンは彼女のどこにそんなに惹かれたのだろう。ジェーンの容姿は「厳密な意味では美人といえないと思うけどね、でもイカしたな」と語られる。ちょっと不思議なのは、「口が、唇から何から、五十くらいの方向に動くんだよ」というホールデンの描写である。?縦横斜めくらいは私も動かそうと思えば動かせるかもしれないが、「五十くらいの方向」は?まぁ、何より彼女がホールデンにとって魅力的だったのは、彼と同じセンスの持ち主だったからだろう。彼女は「いつも何かを読んでた」し「しかも、とてもよい本を読んでる」と語られ、ホールデンは彼女に「アリーの野球のミットを、そこに書いてある詩から何からそっくり見せてやった」のだ。そしてそうしたのは「うちの者たちを除けば、彼女だけだった」のである。
「ライ麦畑でつかまえて」に登場する人物はかなりの数になるのだが、実はそれぞれの人物が絡み合うことはほとんどなく、すべてホールデンとの出会いの場面で登場するだけである。逆にいえば、この小説はホールデンの目を通してそれぞれの人物を描いたものと言えるのではないか、とさえ考えられる。その中で、このジェーン・ギャラハーを除けば、ホールデンが価値観を共有するのは、死んでしまった弟のアリーと小さな妹のフィービーだけである。ホールデンはフィービーに再三電話しようと思うのだが、結局電話できないまま最後に直接彼女のところに忍び込む。ジェーンとも電話はつながらない。大事な人間には最後まで電話できないのだ。それにしてもジェーンはストラドレーターとデイトした後無事に家に戻ったのだろうか。
まだまだ読み込みがたりなくて、こなれていない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「ライ麦畑でつかまえて」には主人公ホールデンの他にも何人かの個性的なキャラクタが登場する。冒頭では前回少し触れたスペンサー先生、それからルームメイトのアクリーとストラドレーター、そしてストラドレーターがデイトしたジェーン・ギャラハーの四人は小説前半の重要人物である。ただしジェーン・ギャラハーはホールデンとストラドレーターとの会話およびホールデンの回想の中で触れられるが、直接ストーリーの展開の中に姿を現すことはない。だが、ホールデンは、というよりサリンジャーは執拗にジェーン・ギャラハーについて言及する。そもそもホールデンが、どのみち放校になるにせよ、予定より早くペンシーを出たのは、彼がストラドレーターにジェーン・ギャラハーを「やったのか」どうかについて訊ねたのに対し、、ストラドレーターが「それは職業上の秘密という奴でしてね」とはぐらかしたことが直接のひきがねになったのだ。
「やったのかよ?」というホールデンの言葉は原文ではGive her the time?となっている。日本語でも「やった」という言葉は、様々な漢字が当てられて複雑な意味をもつ。Give the timeを「やった」と訳したのは訳者の野崎孝さんの名訳だと思うのだが、原文も日本語訳もその意味するところは深い。
ホールデンとジェーンはどんな関係だったのだろう。二年前の夏、メイン州にあった彼女の家のドーベルマンが隣のホールデンの家の庭に排泄したことがきっかけで二人は友達になったという。ひと夏を二人は一緒にスポーツを楽しみ、ゲームをしたり、ときには(ホールデンが嫌いなはずの)映画を見に行ったりもした。アメリカ中産階級の子女の典型的なひと夏の体験が語られるのだが、中でも印象的なのが、二人がチェッカーをしていたときのエピソードである。
ジェーン・ギャラハーという少女はまず「(チェッカーをするとき)自分のキングを絶対に動かさない」人物として紹介される。そのことは何回も繰り返して記述される。ある土曜日の午後二人はそうやってチェッカーをしていたのだが、突然土砂降りの雨が降り出す。すると、ヴェランダでゲームをしていた二人の前に彼女の母親の再婚相手の「カダヒさん」という男が現れて「家のどこかに煙草はないか」と彼女に聞く。ところが彼女はまったく答えない。男はあきらめて家の中に戻ったが、その後ホールデンの問いかけにも彼女は口をとざしたままである。そして、チェッカ-盤の赤い桝目上に涙を一滴こぼして、それを指ですりこんでしまう。それを見たホールデンは泣き出した彼女の顔一面に接吻する。口以外のすべてに。
その後ジェーンはいったん家の中に入っていって「赤と白のセーターを着て来」て、二人は映画に行く。事件の顛末はこれだけなのだが、ホールデンは彼女のどこにそんなに惹かれたのだろう。ジェーンの容姿は「厳密な意味では美人といえないと思うけどね、でもイカしたな」と語られる。ちょっと不思議なのは、「口が、唇から何から、五十くらいの方向に動くんだよ」というホールデンの描写である。?縦横斜めくらいは私も動かそうと思えば動かせるかもしれないが、「五十くらいの方向」は?まぁ、何より彼女がホールデンにとって魅力的だったのは、彼と同じセンスの持ち主だったからだろう。彼女は「いつも何かを読んでた」し「しかも、とてもよい本を読んでる」と語られ、ホールデンは彼女に「アリーの野球のミットを、そこに書いてある詩から何からそっくり見せてやった」のだ。そしてそうしたのは「うちの者たちを除けば、彼女だけだった」のである。
「ライ麦畑でつかまえて」に登場する人物はかなりの数になるのだが、実はそれぞれの人物が絡み合うことはほとんどなく、すべてホールデンとの出会いの場面で登場するだけである。逆にいえば、この小説はホールデンの目を通してそれぞれの人物を描いたものと言えるのではないか、とさえ考えられる。その中で、このジェーン・ギャラハーを除けば、ホールデンが価値観を共有するのは、死んでしまった弟のアリーと小さな妹のフィービーだけである。ホールデンはフィービーに再三電話しようと思うのだが、結局電話できないまま最後に直接彼女のところに忍び込む。ジェーンとも電話はつながらない。大事な人間には最後まで電話できないのだ。それにしてもジェーンはストラドレーターとデイトした後無事に家に戻ったのだろうか。
まだまだ読み込みがたりなくて、こなれていない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年10月31日水曜日
「ライ麦畑でつかまえて」___「スペンサー先生とは何か」
ここ二ヶ月余り雑事に追われて、まったく更新できない日々が続いております。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。
そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot your noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。
二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。
「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。
スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。
今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。
そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot your noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。
二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。
「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。
スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。
今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年8月16日木曜日
「テディ」____オレンジの皮と輪廻転生
「テディ」について書くのはこれが三回目である。以前書いたものを踏まえて、というより大幅に修正したものを早く出さなければいけないと思っていた。いま、完全なものが出せるわけではないのだが、とりあえずの経過報告をしたいと思う。
あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。
父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」
この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。
後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。
その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」
最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。
もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。
ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。
ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。
八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。
父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」
この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。
後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。
その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」
最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。
もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。
ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。
ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。
八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年8月7日火曜日
「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」____「わたし」はどんな絵を描いたのか
『ナイン・ストーリーズ』には三つの一人称の小説が収められている。「笑い男」「エズミに捧ぐ」そしてこの「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」である。「笑い男」と「エズミに捧ぐ」は非常に複雑な構造で、入り組んだストーリーの展開を追っていくうちに、語り手が誰なのかが分からなくなってしまう。それに比べると表題の作品は「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」を継父にもつ「わたし_(ド・ドーミエ=スミスという偽名をもつ)」が語る青春の回顧談として無理なく最後まで読んでいくことができる。ただ一つだけ腑に落ちないのは冒頭の一文である。
「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」
かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。
それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。
『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。
ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。
シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。
「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。
以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。
これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。
自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?
あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。
もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」
かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。
それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。
『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。
ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。
シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。
「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。
以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。
これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。
自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?
あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。
もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年6月10日日曜日
「愛らしき口もと目は緑」___緊密な恋愛心理サスペンス
比較的短編で、よくできた心理小説のように思われる。深夜、密着した男と女の間に、突然電話のベルが割り込んでくる。一瞬ためらった後、男は受話器を取る。スタンドの灯りに照らされた男の様子は「もうほとんど白髪に近い」髪を「きれいに手入れを施したばかり」で「要するに『著名人らしい』髪型であった」と描写される。「リー? 寝てたのかい?」と電話の最初に相手の男が言うことから、時は深夜であることがわかる。
電話をかけてきた男は「アーサー」と呼ばれる。彼は妻のジョーニーが帰るのに気づかなかったと白髪まじりの男__「リー」と呼ばれる__に聞いてきたのだ。アーサーと妻のジョーニー、そして白髪まじりの男は一緒にパーティに参加していたらしい。白髪まじりの男は傍らの女に目をやることもなく、アーサーの妻にはまったく気づかなかった、と答える。ここからアーサーと白髪まじりの男の電話器を介した長い会話が始まる。
会話の前半は、居所が不明な妻への不信を訴えるアーサーと、それをなだめて、なんとか彼を落ち着かせようとする白髪まじりの男のやりとりが続く。男はアーサーにジョーニーは「エレンボーゲン夫婦」と一緒に出かけたのではないか、と言う。 そう信じこませたいようだ。だがアーサーは信じられない。(当然のことであるが)。ジョーニーがいかに気の多い女であるかを訴え続けるアーサーに、彼の話を突然さえぎって、白髪まじりの男は、今日の裁判の結果を尋ねる。彼らは二人とも弁護士であるらしい。
裁判の詳しい内容は不明だが、「三つのホテル」に関する訴訟で、どうやらアーサーは敗訴になったらしい。会話の、というより小説の途中で突然挿入されるこの裁判とはいったい何だろうか。「ヴィットリオの気狂い野郎」と呼ばれる裁判長と「南京虫のしみだらけのシーツ」を証拠に提出した「ルームメードの低脳野郎」のおかげで敗訴になってしまった、とアーサーが嘆く裁判とは?
敗訴になったことで「三つのホテル」のジュニアの怒りを怖れるアーサーは、軍隊に戻るかもしれないと言い出す。ジョーニーとの関係についても、去年の夏に別れてしまえばよかった、と言い出すかと思えば、かわいそうだから別れなかったとも言い、「愛してもいるし愛してなくもある」と「揺れ動く」。そしてアーサーは以前ジョーニーに捧げた詩を白髪まじりの男に聞かせるのだ。「肌白く薔薇色の頬。愛らしき口もと目は緑」原文はこうなっている。
Rose my color is and white, Pretty mouth and green my eyes.
この詩を白髪まじりの男に聞かせた後、アーサーの言葉は微妙に変化していく。ジョーニーが彼にスーツを自腹で買ってくれた思い出を語って、彼女の人柄のよさを言い始める。それだけでなく、いまから白髪まじりの男の家に行っていいかと聞くのだ。
虚をつかれた白髪まじりの男は、何とか彼を言いくるめて、そのまま自宅で妻を待つようにと説得して電話を切る。女とともに危機を切り抜けた喜びを分かち合ったのもつかの間、再び電話が鳴る。妻のジョーニーが帰ってきた、とアーサーが報告してきたのだ。エレンボーゲンさん夫婦と一緒にいたらしい、と言う。ニューヨークを離れてコネチカットに小さな家を買って、ジョーニーとやり直したい、とアーサーは言う。裁判の結果についても、ジュニアに会って何とか努力したい、と話し続けるアーサーをさえぎって白髪まじりの男は電話を切る。茫然自失の男は火のついた煙草を指の間からとり落としてしまうのだ。はたして彼は何故そんなに動揺したのだろうか?
以前私はこの小説を「信仰、希望、愛」とサブタイトルをつけて紹介した。それは、間違いではなかったかもしれないが、やはりもう一段の読み込みが必要なのだと思われる。白髪まじりの男とアーサー、この二人のどちらがボールを持っているのか?そして、作中「いわばアイルランドの若い警官と言った感じで男を見守っている」と形容される女は何者なのか?題名となっている「愛らしき口もと目は緑」とは何を意味するのか?
書くことにも読むことにも集中できない日が続いています。一にかかって私自身の努力不足ですが、何とか先に進みたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
電話をかけてきた男は「アーサー」と呼ばれる。彼は妻のジョーニーが帰るのに気づかなかったと白髪まじりの男__「リー」と呼ばれる__に聞いてきたのだ。アーサーと妻のジョーニー、そして白髪まじりの男は一緒にパーティに参加していたらしい。白髪まじりの男は傍らの女に目をやることもなく、アーサーの妻にはまったく気づかなかった、と答える。ここからアーサーと白髪まじりの男の電話器を介した長い会話が始まる。
会話の前半は、居所が不明な妻への不信を訴えるアーサーと、それをなだめて、なんとか彼を落ち着かせようとする白髪まじりの男のやりとりが続く。男はアーサーにジョーニーは「エレンボーゲン夫婦」と一緒に出かけたのではないか、と言う。 そう信じこませたいようだ。だがアーサーは信じられない。(当然のことであるが)。ジョーニーがいかに気の多い女であるかを訴え続けるアーサーに、彼の話を突然さえぎって、白髪まじりの男は、今日の裁判の結果を尋ねる。彼らは二人とも弁護士であるらしい。
裁判の詳しい内容は不明だが、「三つのホテル」に関する訴訟で、どうやらアーサーは敗訴になったらしい。会話の、というより小説の途中で突然挿入されるこの裁判とはいったい何だろうか。「ヴィットリオの気狂い野郎」と呼ばれる裁判長と「南京虫のしみだらけのシーツ」を証拠に提出した「ルームメードの低脳野郎」のおかげで敗訴になってしまった、とアーサーが嘆く裁判とは?
敗訴になったことで「三つのホテル」のジュニアの怒りを怖れるアーサーは、軍隊に戻るかもしれないと言い出す。ジョーニーとの関係についても、去年の夏に別れてしまえばよかった、と言い出すかと思えば、かわいそうだから別れなかったとも言い、「愛してもいるし愛してなくもある」と「揺れ動く」。そしてアーサーは以前ジョーニーに捧げた詩を白髪まじりの男に聞かせるのだ。「肌白く薔薇色の頬。愛らしき口もと目は緑」原文はこうなっている。
Rose my color is and white, Pretty mouth and green my eyes.
この詩を白髪まじりの男に聞かせた後、アーサーの言葉は微妙に変化していく。ジョーニーが彼にスーツを自腹で買ってくれた思い出を語って、彼女の人柄のよさを言い始める。それだけでなく、いまから白髪まじりの男の家に行っていいかと聞くのだ。
虚をつかれた白髪まじりの男は、何とか彼を言いくるめて、そのまま自宅で妻を待つようにと説得して電話を切る。女とともに危機を切り抜けた喜びを分かち合ったのもつかの間、再び電話が鳴る。妻のジョーニーが帰ってきた、とアーサーが報告してきたのだ。エレンボーゲンさん夫婦と一緒にいたらしい、と言う。ニューヨークを離れてコネチカットに小さな家を買って、ジョーニーとやり直したい、とアーサーは言う。裁判の結果についても、ジュニアに会って何とか努力したい、と話し続けるアーサーをさえぎって白髪まじりの男は電話を切る。茫然自失の男は火のついた煙草を指の間からとり落としてしまうのだ。はたして彼は何故そんなに動揺したのだろうか?
以前私はこの小説を「信仰、希望、愛」とサブタイトルをつけて紹介した。それは、間違いではなかったかもしれないが、やはりもう一段の読み込みが必要なのだと思われる。白髪まじりの男とアーサー、この二人のどちらがボールを持っているのか?そして、作中「いわばアイルランドの若い警官と言った感じで男を見守っている」と形容される女は何者なのか?題名となっている「愛らしき口もと目は緑」とは何を意味するのか?
書くことにも読むことにも集中できない日が続いています。一にかかって私自身の努力不足ですが、何とか先に進みたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年5月30日水曜日
「エズミに捧ぐ」___いくつかの確認事項として
「エズミに捧ぐ」について、いま新しく書き加えることはほとんどないのだが、ごく当たり前ののことをいくつか確認しておきたい。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。
その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.
以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。
問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。
この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。
遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。
その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.
以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。
問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。
この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。
遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年5月10日木曜日
「小舟のほとりで」____ほほえましい家庭小説
『ナイン・ストーリーズ』の5番目、連作の真ん中に位置する短編である。九つの連作中もっとも短く、よくまとまった感動的な作品のように見える。いわれない中傷に傷ついた少年と彼を癒す若い母親の物語、として心地よい読後感をもたらす。ここに巧妙な謎が仕掛けられている、と考えることは無理ではないか、と思ってしまう。
この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With string you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。
この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。
珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。
連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。
まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With string you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。
この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。
珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。
連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。
まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年5月2日水曜日
「笑い男」再び___「笑い男」とは何か
前回私は、「笑い男___その用心深い入れこ構造と表現の重層性」の中で、「笑い男」と「コマンチ団」の「団長」をアメリカインディアンのメタファーとして解釈した。その解釈は間違っていないと思うが、それは「サリンジャーの読み方」の第二層目としてそうも読める、というべきで、これはやはりもう一層下の歴史的次元の事実を踏まえて解釈しなければならない。それでは、「笑い男」と「コマンチ団」、そして「団長」とは何か?
『ナイン・ストーリーズ』の九つの連作の中で、この「笑い男」とこれに続く「エズミに捧ぐ」は、もっとも中心的な部分であると思う。作品の長さといい、構造の複雑さといい、サリンジャーが渾身の力を注いで書いたものではないか。そもそも「笑い男」の「原義」は何か?この小説の入り組んだ謎をとく鍵はそこにある。それはまた「エズミに捧ぐ」の謎を解く鍵でもあるのだが。
「用心深い入れこ構造」のなかで、「笑い男」にかんする描写は、あまりにも現実離れしている。「金持ちの宣教師夫妻の一人息子」で、「中国の山賊どもに誘拐された」が、夫妻が身代金を払うことを拒んだために「万力で頭を挟んで、右のほうへ何回かねじった」ために、大人になると「ヒッコリーの実のような形の顔をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いている」顔を「芥子の花びらで作った薄紅色の仮面」で包み、「阿片の匂いをふりまいて歩いた」とある。荒唐無稽とは、このような表現をいうのだろう。何故このような荒唐無稽な表現をしなければならなかったのか。その底に、サリンジャーはどんな真実を潜ませたのだろうか。
孤独のうちに、深い森の動物たちとひそかに交流しながら、笑い男は成長した。山賊たちのノウハウを身につけたばかりか、それを遥かに超える方式で、世界中で富を収奪し、世界一の資産家になった。これは、アメリカ・インディアンのメタファーではないだろう。文字で記された彼らの歴史には、そのような記述はない。その資産の大部分を「ドイツの警察犬を育てることに一生をささげたつつましやかな修道僧」に寄付し、残りはダイヤモンドに換えて、エメラルド色の金庫に収め、黒海に沈めてしまった、と語られる「笑い男」とは、何を意味するのか?その「笑い男」の一代記を語る「団長」とは何か?「団長」の荒唐無稽な話を胸をときめかせて聞く「私」をはじめとする「コマンチ団」とは何か?
「団長」については、「笑い男」の息の仕方を「言葉で説明するより、むしろ実演してみせた」とあることから、「笑い男」と同じカテゴリーに属する存在、というよりほぼ「笑い男」そのもの、といえるかもしれない。そして、「私」をはじめとする「コマンチ団」のメンバー二十五人は、みな「自分を笑い男の直系の子孫と考えていた」だけでなく、「自分の本当の素性を名乗り出ようと、その機会をうかがっていた」し、ひそかに行動に出る準備もしていたのである。つまり、「笑い男」と「団長」と「私」は、複雑にねじれあった構造の中で直接に結びついていたのだ。だから、メアリ・ハドソンとの破局が決定的になったとき、「笑い男」の最期は必然となり、それはまた、「私」をはじめとする「コマンチ団」の恐ろしい運命をも決定することになったのである。
このところ身辺雑事あいついで、読むことも書くこともままならない日が続いています。以前書いたものの大幅な修正をしたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
『ナイン・ストーリーズ』の九つの連作の中で、この「笑い男」とこれに続く「エズミに捧ぐ」は、もっとも中心的な部分であると思う。作品の長さといい、構造の複雑さといい、サリンジャーが渾身の力を注いで書いたものではないか。そもそも「笑い男」の「原義」は何か?この小説の入り組んだ謎をとく鍵はそこにある。それはまた「エズミに捧ぐ」の謎を解く鍵でもあるのだが。
「用心深い入れこ構造」のなかで、「笑い男」にかんする描写は、あまりにも現実離れしている。「金持ちの宣教師夫妻の一人息子」で、「中国の山賊どもに誘拐された」が、夫妻が身代金を払うことを拒んだために「万力で頭を挟んで、右のほうへ何回かねじった」ために、大人になると「ヒッコリーの実のような形の顔をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いている」顔を「芥子の花びらで作った薄紅色の仮面」で包み、「阿片の匂いをふりまいて歩いた」とある。荒唐無稽とは、このような表現をいうのだろう。何故このような荒唐無稽な表現をしなければならなかったのか。その底に、サリンジャーはどんな真実を潜ませたのだろうか。
孤独のうちに、深い森の動物たちとひそかに交流しながら、笑い男は成長した。山賊たちのノウハウを身につけたばかりか、それを遥かに超える方式で、世界中で富を収奪し、世界一の資産家になった。これは、アメリカ・インディアンのメタファーではないだろう。文字で記された彼らの歴史には、そのような記述はない。その資産の大部分を「ドイツの警察犬を育てることに一生をささげたつつましやかな修道僧」に寄付し、残りはダイヤモンドに換えて、エメラルド色の金庫に収め、黒海に沈めてしまった、と語られる「笑い男」とは、何を意味するのか?その「笑い男」の一代記を語る「団長」とは何か?「団長」の荒唐無稽な話を胸をときめかせて聞く「私」をはじめとする「コマンチ団」とは何か?
「団長」については、「笑い男」の息の仕方を「言葉で説明するより、むしろ実演してみせた」とあることから、「笑い男」と同じカテゴリーに属する存在、というよりほぼ「笑い男」そのもの、といえるかもしれない。そして、「私」をはじめとする「コマンチ団」のメンバー二十五人は、みな「自分を笑い男の直系の子孫と考えていた」だけでなく、「自分の本当の素性を名乗り出ようと、その機会をうかがっていた」し、ひそかに行動に出る準備もしていたのである。つまり、「笑い男」と「団長」と「私」は、複雑にねじれあった構造の中で直接に結びついていたのだ。だから、メアリ・ハドソンとの破局が決定的になったとき、「笑い男」の最期は必然となり、それはまた、「私」をはじめとする「コマンチ団」の恐ろしい運命をも決定することになったのである。
このところ身辺雑事あいついで、読むことも書くこともままならない日が続いています。以前書いたものの大幅な修正をしたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年4月16日月曜日
「対エスキモー戦争前夜」___「善きサマリア人」は誰か・その2
「善きサマリア人」はやはりジニー・マノックスであるというのが現時点での私の結論である。細かい点については、まだ解決できない謎がたくさんあるのだが、大筋のところではほぼ輪郭が見えてきたように思う。
本題に入る前に Just Before the War With the Eskimos という題名の意味をもう一度考えてみたい。Just Before という英語は「前夜」という日本語よりもっと切迫した語感を持つように思われる。まさに「直前」なのである。the War With the Esukimos の「直前」。それでは the Eskimos とは何か?the War With the Eskimos とは?
題名の「対エスキモー戦争前夜」は、作中セリーヌの兄フランクリンが「こんだエスキモーと戦争するんだ。知ってるか、あんた」とジニーにたずねることに由来するのだろう。「耳の穴をかっぽじって聞いとくれ」というのだから、よほど大事なことだ、とセリーヌの兄は考えているのだ。彼は何故会ったばかりのジニーにそんな話をしたのだろうか。
その理由は二つある。一つはジニーも彼と同じように「指を切った」という経験を共有していることで、もう一つは、かつてジニーの姉ジョーンに彼が求愛した過去があるからである。「ブリ屋仲間の女王様」とセリーヌの兄が呼ぶジョーンに、「42年のクリスマス・パーティ」で出会った彼は「八遍も手紙を書いた」。だが返事は一度も来なかったのだ。
そしてジニーも彼と言葉を交わしているうちに、彼の「指の傷」について積極的にかかわっていく。「マーキュロは効くかな?」と聞く彼に「ヨーチンでなきゃだめよ」と答え、「猛烈にしみるんじゃないか?」と言われても「でも死にやしませんからね」と駄目を押す。なかば無意識に怪我していないほうの手で傷に触ろうとしたセリーヌの兄は、ジニーの「触っちゃだめ」という言葉を聞いて、何故か非常な衝撃を受け、「夢でも見てるような表情」を浮かべるのである。
だが、ジニーがセリーヌに払わせようとしていたタクシー代を放棄して、「あたし、遊びに来るかもしれない」と彼女に告げたのは、さらにもう一つ決定的な動機が芽生えたからだと思われる。それは、セリーヌの兄と入れ替わりに部屋に入ってきたエリックとの会話の中で示された「ぼくのアパートに同居していた・・・作家だか何だか知らない」奴の「善きサマリア人」のエピソードだろう。「餓死寸前」の作家に「善きサマリア人を地で行ったようなもん」の世話をやいてやった挙句が、「手の届く限りの物をそっくり持ち出して」「朝の五時か六時にぷいっと出て行っちまった」という結末を迎えたのである。この一連の顛末を聞いたジニーは、セリーヌが再び部屋に入ってくると、彼女がドレスを着替えていることを見咎めることもせずに、もうタクシー代は要らないと言い、セリーヌの兄に近づきたいという態度をとり始めるのだ。ジニーはフランクリンの「善きサマリア人」となる宣言をしたのである。
ようやく五合目まで登ったという実感です。頂上制覇はまだまだ先のことのようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
本題に入る前に Just Before the War With the Eskimos という題名の意味をもう一度考えてみたい。Just Before という英語は「前夜」という日本語よりもっと切迫した語感を持つように思われる。まさに「直前」なのである。the War With the Esukimos の「直前」。それでは the Eskimos とは何か?the War With the Eskimos とは?
題名の「対エスキモー戦争前夜」は、作中セリーヌの兄フランクリンが「こんだエスキモーと戦争するんだ。知ってるか、あんた」とジニーにたずねることに由来するのだろう。「耳の穴をかっぽじって聞いとくれ」というのだから、よほど大事なことだ、とセリーヌの兄は考えているのだ。彼は何故会ったばかりのジニーにそんな話をしたのだろうか。
その理由は二つある。一つはジニーも彼と同じように「指を切った」という経験を共有していることで、もう一つは、かつてジニーの姉ジョーンに彼が求愛した過去があるからである。「ブリ屋仲間の女王様」とセリーヌの兄が呼ぶジョーンに、「42年のクリスマス・パーティ」で出会った彼は「八遍も手紙を書いた」。だが返事は一度も来なかったのだ。
そしてジニーも彼と言葉を交わしているうちに、彼の「指の傷」について積極的にかかわっていく。「マーキュロは効くかな?」と聞く彼に「ヨーチンでなきゃだめよ」と答え、「猛烈にしみるんじゃないか?」と言われても「でも死にやしませんからね」と駄目を押す。なかば無意識に怪我していないほうの手で傷に触ろうとしたセリーヌの兄は、ジニーの「触っちゃだめ」という言葉を聞いて、何故か非常な衝撃を受け、「夢でも見てるような表情」を浮かべるのである。
だが、ジニーがセリーヌに払わせようとしていたタクシー代を放棄して、「あたし、遊びに来るかもしれない」と彼女に告げたのは、さらにもう一つ決定的な動機が芽生えたからだと思われる。それは、セリーヌの兄と入れ替わりに部屋に入ってきたエリックとの会話の中で示された「ぼくのアパートに同居していた・・・作家だか何だか知らない」奴の「善きサマリア人」のエピソードだろう。「餓死寸前」の作家に「善きサマリア人を地で行ったようなもん」の世話をやいてやった挙句が、「手の届く限りの物をそっくり持ち出して」「朝の五時か六時にぷいっと出て行っちまった」という結末を迎えたのである。この一連の顛末を聞いたジニーは、セリーヌが再び部屋に入ってくると、彼女がドレスを着替えていることを見咎めることもせずに、もうタクシー代は要らないと言い、セリーヌの兄に近づきたいという態度をとり始めるのだ。ジニーはフランクリンの「善きサマリア人」となる宣言をしたのである。
ようやく五合目まで登ったという実感です。頂上制覇はまだまだ先のことのようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年4月9日月曜日
「コネチカットのひょこひょこおじさん」___語られているのは過去である
七転八倒しながらサリンジャーの原文をよんでいる段階です。過去に書いたものを徹底的に書き直すつもりですが、とりあえず、ある程度の見通しがついたものから少しずつ書いてみたいと思います。
以前「コネチカットのひょこひょこおじさん」について、「語られているのは過去か」と書いた。疑問符、というより付加疑問のような内容だった。訪問者のメアリ・ジェーンズの側に立って、解釈を試みたのだった。だが、いま、「ライ麦畑でつかまえて」という「手」を借りてclappingを試みて、その結果、「語られているのは過去である」という、私なりの結論に達した。ただし、主人公エロイーズのかつての恋人ウオルトとの美しい追憶の過去ではない。
前回私は、自分から訪問を申し出たメアリ・ジェーンズが、何故遅れてきたのか、しかも様子がおかしいのか、と疑問を呈した。今回は、そのメアリが会いたがっていたラモーナというエロイーズの娘について考えてみたい。ラモーナは作中「きれいなドレスを着ている」「小さな子供の声__a small child's voice」という表現がされているが、その他年齢とか髪の毛の色など何も描写されていない。強度の近眼で眼鏡をかけていて、オーヴァーシューズを履いたままで屋内に入るのを度々注意されている。「ジミー」という名の「架空の恋人」をもっている。ラモーナとは何か。そして、メアリ・ジェーンズは何故ラモーナに根掘り葉掘りいろいろなことを聞きたがったのだろう。
この小説は、二人のさりげない昔話の中に、具体的に情景を思い浮かべようとすると、はっきりとした像を結べない場面がいくつもある。「シカゴで買った黒いブラジャー」をした大学の女友達が部屋に飛び込んできたという場面や、列車の中でエロイーズとウオルトの二人がコートを頭からかぶっていたときの一連の描写は、どんなことがあって、何が「おかしかった」のかよくわからない。不思議である。
謎を解く鍵は、最後にエロイーズがラモーナの眼鏡を裏返しにする場面にあると思われる。暗闇の中、エロイーズはラモーナの部屋のナイト・テーブルに突進して彼女の眼鏡を手にとって、頬に押し当て「かわいそうなひょこひょこおじさん」と泣きながら繰り返しつぶやいて、「レンズを下にして」戻すのである。すべての謎がそれで解けるわけではないのだが。というよりわからないことだらけなのだが、おおまかな方向性はつかめると思う。
この小説の中で、エロイーズが語るのは過去だが、サリンジャーーが語るのも過去である。語られているのは、小説的現在であり、また過去なのだ。
七転八倒中の、とりあえずの経過報告です。前回書いたものを大幅に修正する必要があると考えています。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
以前「コネチカットのひょこひょこおじさん」について、「語られているのは過去か」と書いた。疑問符、というより付加疑問のような内容だった。訪問者のメアリ・ジェーンズの側に立って、解釈を試みたのだった。だが、いま、「ライ麦畑でつかまえて」という「手」を借りてclappingを試みて、その結果、「語られているのは過去である」という、私なりの結論に達した。ただし、主人公エロイーズのかつての恋人ウオルトとの美しい追憶の過去ではない。
前回私は、自分から訪問を申し出たメアリ・ジェーンズが、何故遅れてきたのか、しかも様子がおかしいのか、と疑問を呈した。今回は、そのメアリが会いたがっていたラモーナというエロイーズの娘について考えてみたい。ラモーナは作中「きれいなドレスを着ている」「小さな子供の声__a small child's voice」という表現がされているが、その他年齢とか髪の毛の色など何も描写されていない。強度の近眼で眼鏡をかけていて、オーヴァーシューズを履いたままで屋内に入るのを度々注意されている。「ジミー」という名の「架空の恋人」をもっている。ラモーナとは何か。そして、メアリ・ジェーンズは何故ラモーナに根掘り葉掘りいろいろなことを聞きたがったのだろう。
この小説は、二人のさりげない昔話の中に、具体的に情景を思い浮かべようとすると、はっきりとした像を結べない場面がいくつもある。「シカゴで買った黒いブラジャー」をした大学の女友達が部屋に飛び込んできたという場面や、列車の中でエロイーズとウオルトの二人がコートを頭からかぶっていたときの一連の描写は、どんなことがあって、何が「おかしかった」のかよくわからない。不思議である。
謎を解く鍵は、最後にエロイーズがラモーナの眼鏡を裏返しにする場面にあると思われる。暗闇の中、エロイーズはラモーナの部屋のナイト・テーブルに突進して彼女の眼鏡を手にとって、頬に押し当て「かわいそうなひょこひょこおじさん」と泣きながら繰り返しつぶやいて、「レンズを下にして」戻すのである。すべての謎がそれで解けるわけではないのだが。というよりわからないことだらけなのだが、おおまかな方向性はつかめると思う。
この小説の中で、エロイーズが語るのは過去だが、サリンジャーーが語るのも過去である。語られているのは、小説的現在であり、また過去なのだ。
七転八倒中の、とりあえずの経過報告です。前回書いたものを大幅に修正する必要があると考えています。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年4月4日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』と『悪霊』___ホールデンとスタヴローギン
私はドストエフスキーのよい読者ではない。どころか、何度読んでも、登場人物の名前がなかなか覚えられず、途中で投げ出したくなる。『罪と罰』は比較的単純なストーリーで、わかったような気になったが、どれほどわかったのか怪しいものである。『白痴』は、なんだかわからないが、主人公の「キリスト公爵」と呼ばれるムイシュキンが、キリストどころか、かえって周囲を不幸に陥れる役割を演じてしまうのが、何を意味するのかわからないなりに面白かった。『悪霊』は、「超人スタヴローギン」が、最後になぜ自殺するのか、そもそも「スタヴローギン」とは何か、その謎はいまでもわからない。また、ドストエフスキーが、小説の本筋に関係のない「スタヴローギンの告白」を挿入することにこだわったのも謎である。
ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。
イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。
『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。
聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。
まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。
毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。
イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。
『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。
聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。
まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。
毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
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