2019年7月15日月曜日

宮沢賢治『どんぐりと山猫』__かねた一郎と黄金いろの草地

 『どんぐりと山猫』は、私にとって謎に満ちた作品である。いつまで経っても解決の糸口さえ見いだせなくて、ここしばらく作品の周りを行ったり来たりしている。

 不思議なお話はこう始まる。

 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしほで、けっこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい。とびどぐもたないでくなさ
 い。
                                    山猫拝

 ほんとうに「おかしな」はがきである。宛名と日付はきちんと書かれているが、住所は書かれていないようで、「めんどなさいばん」はどこでするのかわからない。「とびどぐもたないでくなさい。」とあるのも少し物騒である。

 一郎という少年はうちじゅうとんだりはねたりするほどうれしくなって、翌朝目をさますと、食事もそこそこに出かける。その道中がまた不思議である。何の案内もなく、一郎は谷川に沿ったみちを上流にむかってのぼって行く。道すがら、やまねこの行方をくりの木、滝、きのこ、りすにたずねながら進んでいくのだが、その問答がまた奇妙なのだ。

 まず、くりの木にやまねこの行方をたずねると、やまねこは馬車でひがしの方に飛んで行ったという。すると一郎は「東ならぼくのいく方だねぇ、おかしいな、とにかくもっといってみよう」という。「ぼくのいく方」だと何故「おかしい」のか。

 次に、笛ふきの滝と呼ばれる滝に同じことを訊く。滝は、やまねこが西の方へ馬車で飛んで行ったと答える。それにたいして一郎は、「おかしいな。西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう」という。滝はくりの木と反対の方角を示したのだが、一郎はくりの木の指した方に「おかしいな」といいながら進むのである。

 さらに進んで、ぶなの木のしたで「変な楽隊」をやっている白いきのこと、くるみの木の梢を飛んでいるりすに訊くと、いずれも朝早く南の方へ飛んで行ったという。一郎は「みなみへ行ったなんて、二とこでそんなことを言うのはおかしいなぁ。」といいながら、さらに、谷川に沿った道を行く。

 ところで、少し脇道にそれるようだが、「おかしい」と表記されている日本語が旧かな遣いでは「をかしい」だったことに触れておきたい。「をかしい」と「おかしい」では松竹新喜劇と吉本くらいの、あるいはそれ以上の差があるのではないだろうか。「おかしい」という表現が、たんに現象の表面的な不可解さをいうのに対して、「をかしい」は「をかし」という語源を意識せざるを得ず、現象の背後にひそむ闇の部分に踏み込んだ深さと重さを感じるのだ。

 さて、一郎は道が尽きると、谷川の南についたあたらしいみちを進んで行く。白いきのことりすが言った通りの方角に行くことになったのである。両側から榧の木の枝が重なりあって真っ黒な中、急坂を上ると、いきなり目が眩むほどの明るさになる。

 そこはうつくしい黄金いろの草地で、草は風にざわざわ鳴り、まわりは立派なオリーブいろの榧の木のもりでかこまれてありました。

 「かねた(金田?)」一郎は「黄金いろの」草地に招待されたのである。黄金いろの草地とは何を意味するのか。

 ここで突如として不思議な人物(?)が登場する。それは「せいの低いおかしな形の男」で「ひざを曲げて手に革鞭を持って」草地のまん中に立っている。「片目で、見えない方の目は、白くびくびくうごき、上着のような半纏のようなへんなものを着て」「足がひどくまがって山羊のよう」「足先ときたら、ごはんをもるへらのかたちだった」まさに異形としかに言いようのない存在だが、これは人間だろうか。

 男は、自分がやまねこの馬車別当だと名告り、一郎にはがきを出したのは自分であるという。文字や文章の稚拙さを恥じる男を一郎が気遣って会話していると、風が吹いて、山猫が現れる。山猫の描写は「黄色な陣羽織のようなものを着て、緑いろの目をまん丸にして立っていました。」と、馬車別当のそれよりずっと簡単である。だが、山猫の権力は絶大で、馬車別当の目の前でたばこをくゆらせると、たばこがほしくてたまらない馬車別当は、なみだをこぼしながら、気をつけの姿勢でがまんしている、と書かれている。

 その権力者の山猫が、一昨日からめんどうなあらそいが起こって、裁判にこまっているという。一昨日とははがきの日付にある九月十九日だろうか。すると、はがきが届くのに一日かかったとして、物語の今は九月二一日ということになるのだが、この具体的な日にちに何か意味があるのだろうか。

 めんどうなあらそいとは、どんぐりの背比べならぬどんぐりの偉さ比べだった。「その数ときたら三百でもきかないような」赤いズボンをはいた黄金のどんぐりが、それぞれに自分がいちばんえらいと騒いでいるのである。いわく「頭がとがっているのがいちばんえらい」「いや、まるいのがえらい」「大きいのがえらい。わたしがいちばん大きい。」「いや、わたしのほうが大きい。」「せいの高いのだ」「押しっこのえらいのだ」・・・

 もう三日続いているという騒ぎをしずめたのは一郎の簡潔直截な助言だった。一郎は「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」と言いわたしたらいい、と裁判長の山猫にいったのである。「ぼくお説教できいたんです。」とも。

 山猫はそれを聞いて「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」と、どんぐりに申しわたす。どんぐりは一瞬でしずかになって、みんな緊まってしまう。何の解決にもならないような判決だが、山猫は騒ぎをしずめることが目的だったようで、一郎に名誉判事になってほしいと頼む。

 さて、ここで一郎が提起する価値の転倒について、どう考えるべきか。作者賢治がこの作品について「必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。」と解説している。私にとっては、賢治のこの解説もまた謎である。この作品の最も深い、根本的な謎といってもいいかもしれない。

 「いちばんえらくないのが、えらい」という価値判断は、じつは判断の放棄である。「いちばんえらくないのが、えらい」なら、その「えら」くなった「いちばんえらくない」のは「えら」くなったことで、再び「えら」くなくなるのだ。何故なら「いちばんえらくないのがえらい」というシステムは、いつまでも循環するからである。

 一郎が助言して山猫が申しわたした判決は、どんぐりたちの、あるいはどんぐりに寓意された学童たちの「内奥」からの個性の主張をばっさりと切り捨て、空疎な抽象論に帰納してしまっている。一郎自身が「ぼくお説教できいたんです。」という「えらくないものがえらい」論は、法華経の常不軽菩薩の精神と結びつけられて解説されることが多いようだが、それは違うのではないか。常不軽菩薩の話は、修行者の実践のありかたとして、他者に向かう姿勢を説いたのであって、異なる個性をもつ一人一人の叫びを封じ込めるためにもちだすべきではないだろう。
 
 だが、ともかくどんぐりたちはしずかになって、一郎は山猫からお礼をもらうことになる。塩鮭のあたまと金いろのどんぐり一升のどちらがいいかと問われて、一郎は黄金のどんぐりを選ぶ。これも不思議なことである。一郎にとって、あるいは山猫にとって、黄金のどんぐりとは何の意味をもつのだろう。山猫は金いろのどんぐりの数が足りないなら「めっきのどんぐりもまぜてこい」と馬車別当に命じる。山猫にとって、どんぐりはますごとさしだすことのできる「もの」だったのか。また、一郎はますでもらった黄金のどんぐりをどうするつもりだったのだろう。

 お礼にもらった黄金のどんぐりは、一郎が家に帰り着くと、ただの茶いろのどんぐりに変わっていた。送ってくれた山猫も馬車別当も乗っていたきのこの馬車も消えていたという結末は童話のお約束だが、茶いろのどんぐりは残っていたので、一郎は実際にどう処分したのだろう。

 「かねた」一郎がうつくしい黄金いろの草地で、黄金のどんぐりの裁判に立ち会って、黄金のどんぐりをもらって帰る、という「黄金づくし」の話は何を寓意するのだろう。東だ、西だ、南だ、(なぜか北は出てこない)と、道中方角にこだわるのは何故だろう。あらすじを追ってきてもわからないことばかりである。

 どんぐりの裁判を終えて、山猫が次に一郎を呼び出すときは「用事これありに付、明日出頭すべし」と書いていいか、とたずねたのも奇妙である。「出頭」は被告人が召喚されるときに使う表現である。名誉判事になってほしいと頼む相手にたいして使う言葉だろうか。

 最後に、物語の主人公「かねた一郎」のついて考えてみたい。冒頭「おかしな」はがきを見た瞬間に「うれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。」とあるので、学校に通っている年齢であることは確かだが、いったい何歳くらいの少年なのだろうか。馬車別当にたいする気遣いといい、山猫への大人びた助言といい、「学童」と呼ばれる年齢ではないと思われる。はがきを見て、即座に欣喜雀躍して、翌日起こることへの期待に胸はずませるのは何故だろう。ふつうは、そんなはがきを受け取ったら、いぶかしさが先に立つと思うのだが。

 「かねた一郎」は山猫の「にゃあとした顔」を知っているようなので、山猫と面識があり、その支配する世界についても何らかの知識があったのだろうか。「かねた一郎」はなぜ黄金の草地に招聘されたのか。そもそも、この作品の主人公が「かねた」と苗字がつけられているのはどんな意味があるのか。賢治のほかの作品では、登場人物のほとんどが名前だけである。「グスコーブドリ」「レオーノ・キュースト」など例外はあるが、それらはいずれも外国人(らしい)である。「かねた」という苗字は、一郎の家族のなんらかの属性を示唆しているのだろうか。

 書き続けていくと、謎の解明どころか、いつもの妄想癖がでそうなので、未整理な乱文はここまでにします。『どんぐりと山猫』を含む『注文の多い料理店』はそれぞれ不思議な作品ばかりなので、いままで取り上げなかったものももう一度読み直してみる必要がありそうです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。