2019年11月14日木曜日

三島由紀夫『春の雪』_大正デモクラシーの王朝絵巻_「みかどのめ(妻)を盗む」というモチーフ

 『豊穣の海』四部作について、いつか書こう、書かなければならないと思いながら、ずるずると書けないまま時間が過ぎてしまった。四部作すべてを見渡して、何か三島文学の結論めいたものを引き出そうなどとだいそれたことは、もちろん考えていない。そういうことではなくて、私にとって三島由紀夫の作品は、批評、分析の対象となる以前に面白すぎるのである。小説ビギナーの私でも無理なく読めて、最初から最後まで読むことの快感に浸りながら、結末までもっていかれてしまう。そして最後になって、はて、この小説はどう読めばいいのか、と立ち止まってしまうのだ。

 『豊穣の海』あるいは『春の雪』だけでなく、三島由紀夫の作品は言葉が溢れかえっている。プロットの展開を語り、登場人物の心理を描写する叙述に破綻はまったくないが、ときに思弁的、形而上学的用語をまじえ、言葉は過剰の域の内側にかろうじてとどまっているように見える。もうひとつ、『春の雪』の文章に特徴的なことは、登場する皇族への待遇表現の丁重さである。作者は徹底して最上級の敬語を使用し、皇族と他の登場人物の間に決して越えられぬ一線を劃している。幼い清顕が魅せられた春日の宮妃、禁断の恋を生きた聡子の婚約者洞院宮王子の一家、留学中のシャムの王子たち、さらに物語の中に一瞬登場する「お上」に対して、王朝の女房文学かと見紛うほどの念入りの敬語が繰りだされる。

 『春の雪』の最後に、後註として、

『豊穣の海』は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunditatis の邦訳である。

と書かれている。輪廻転生は四部作を展開する力学のエネルギー源だが、第一作の『春の海』を読んだ印象では、作者に直接のインスピレーションを与えたのは、『浜松中納言物語』というより『源氏物語』や『伊勢物語』ではないかと思われる。『浜松中納言物語』は数多くある『源氏物語』のひとつの亜流とされている。『源氏物語』さらに遡って『伊勢物語』の重要な主題は「政治と性」具体的には「みかどのめ(妻)を盗む」ことである。

 『源氏物語』はいうまでもなく光源氏と藤壺の不倫から始まる。父桐壷帝の妻を犯し、生まれた子を帝の位につけるという背徳の行為が源氏に栄耀栄華をもたらすのである。一方『伊勢物語』第三段から第六段は「二条の后」と業平と思しき男の恋の経緯が語られてる。こちらは業平の悲恋で、奪い取った「二条の后」藤原高子は彼女の兄たちに奪い返されてしまう。業平は栄耀栄華どころか都落ちを余儀なくされる。源氏と業平の運命は両極端だが、性と権力の相互浸透、というより性=権力の方式が成り立つという点で共通したものがあるのではないかと思われる。

 『春の雪』は平安時代の女房文学ではなく、大正元年(1912年)の十月から始まる物語である。(出版されたのは昭和四十四年_1969年。アポロ11号が月面着陸した年)日清、日露の二つの戦争を経て明治が終わり、日本はどのような社会になっていったのか。実は、『春の雪』という小説中に、社会はまったくといっていいほど描かれないのである。第二作『奔馬』では、作者は、主人公飯沼勳に詳細すぎるほど詳細に、昭和十年代初頭の東北農民の窮状と政治の腐敗を語らせている。一方『春の雪』は、渋谷の郊外に十四万坪の敷地をもつ松枝清顕の屋敷を舞台に、松枝家とその周辺の上流階級が中心で、庶民の生活がふりむかれることはない。

 政治がもちこまれることが決してない、という点で小津安二郎の映画がきわめて政治的であるのと同様に、『春の雪』もまた、きわめて政治的である。前年1911年一月中国で辛亥革命が起り、当年二月十二日には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が退位するなど、東アジアは大きく揺れ動いていた。だが、日本では、というか『春の雪』の世界では、何事も起こらなかったかのように、主人公松枝清顕と綾倉聡子の恋に作者の視線は集中する。聡子に触れることが禁忌にならなかったら決して成立しなかったであろう恋に。清顕にとって、あるいは三島由紀夫にとって、恋の必要条件は「禁忌=不可能」だったのではないか。もしかしたらそれは十分条件だったかもしれない。

 「私たちの歩いている道は、道でなくて桟橋ですから、どこかでそれが終わって、海がはじまるのは仕方がございませんわ」という聡子の言葉の通り、終わりの時が来て、聡子は大叔母が門跡をつとめる月修寺で出家してしまう。「海」_「豊穣の海」_「月の海」_「月修寺」_という連想がたんなる言葉の遊びでなければ、聡子は月世界にもどったかぐや姫だろうか。異次元の世界に行ってしまった聡子にこの世で会うことは不可能なのだから、『天人五衰』のラストは、この時点で決定していたのだ。清顕も、彼の親友本多も、そして六十年後の本多も、肉の身をもつ聡子に再び相まみえることはない。

 一方、清顕は翌年春の歌会始の儀式であらたな天皇の顔をかいま見、そこに清顕に対する怒りをみとめて恐怖する。そのとき、快楽とも戦慄ともつかぬ感覚とともに彼を貫いたのは

 『お上をお裏切り申し上げたのだ。死なねばならぬ』

という考えだった、と書かれている。禁忌を冒すこと、その結果死ぬこと、その二つが二つとも清顕にとっては「快さとも戦慄ともつかぬもの」だったのだ。だから、この後春寒の奈良を訪れて、月修寺に通い詰め、病いを得て死んでいくという深草の少将のような清顕の行動は、成就されるべき死への道行きだったのである。

 『春の雪』については、こんな概念的な感想文でなく、もっと丁寧にストーリーの展開を追って書きたいことがあるのですが、長くなるので回を分けたいと思います。清顕と聡子の、精妙としか呼びようのない性愛と心理の描写、対照的に隠微で生臭い謀略の影、など小説を読む醍醐味はこちらにあるのかもしれません。とくに蓼科と呼ばれる老女の存在感は圧倒的で、『春の雪』の主人公は彼女ではないかと思ってしまいそうです。

 今日も不出来な感想を読んでくださってありがとうございます。