2012年5月30日水曜日

「エズミに捧ぐ」___いくつかの確認事項として

 「エズミに捧ぐ」について、いま新しく書き加えることはほとんどないのだが、ごく当たり前ののことをいくつか確認しておきたい。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。

その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he  always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.

以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。

問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。

この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。

遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年5月10日木曜日

「小舟のほとりで」____ほほえましい家庭小説

『ナイン・ストーリーズ』の5番目、連作の真ん中に位置する短編である。九つの連作中もっとも短く、よくまとまった感動的な作品のように見える。いわれない中傷に傷ついた少年と彼を癒す若い母親の物語、として心地よい読後感をもたらす。ここに巧妙な謎が仕掛けられている、と考えることは無理ではないか、と思ってしまう。

 この小説の焦点は、作品の最期に明かされる少年ライオネルの家出の理由であろう。ライオネルは泣きながら「サンドラがね___スネルさんにね___パパのことを___でかくて、だらしないユダ公だって___そう言ったの」とその理由を明かす。そして、母親ブーブー・タンネンバウムに「坊や、ユダ公ってなんのことだか知ってるの?」と聞かれたライオネルは「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」と答える。「糸を手にもってさ」。この部分は素晴らしい!サリンジャーも素晴らしいが野崎さんの訳も素晴らしい!原文はこうなっている。
"It's one of those things that go up in the air" "With  string  you hold"
ライオネルはkikeとkiteを取り違えて答えたのだ。

この結末に至るまでのストーリーの展開は無理がなく、ライオネルとブーブーの母子についても自然に感情移入がされるような描写になっている。ライオネルの最初の家出は彼が二歳半のときだった。ネオミという女の子が魔法瓶に蚯蚓を飼っていると聞いたことがその原因らしい。それからは定期的に家出を繰り返した。公園でどこかの子供に「臭い」と言われて家出し、見つかったのは夜中の十一時十五分過ぎで、凍死しかけたこともあった。もっとも家出といっても、自宅からそんなに遠くには行かなかったし、自宅のあるアパートの入り口で「お父さんにさよならを言うんだって頑張ってた」こともあった。一連の経緯はブーブーとメードのサンドラ、家事を手伝っているらしいミセス・スネルの三人の会話で語られる。晩秋の湖畔の別荘地の平穏な日常の出来事のようである。ドラマチックなことはなにも起こらなかった。

珠玉の掌編ともいえるこの小説の中で、しいて違和感がある部分を探すとすれば、冒頭から繰り返されるサンドラの「あたしゃくよくよしないよ」という言葉であろう。たかが四歳の男の子に立ち聞きをされたからといって、何故そんなに気にするのか。それから、現在四歳の男の子が二歳半のときから「定期的に」家出を繰り返すということも、常識では考えられないことではないか。その他にもいくつか少しだけ疑問をいだかせるような場面があるのだが、なかでも、「ブーブーは『ケンタッキー・ベーブ』を歯笛に吹きながら歩いて行った」という表現がよくわからない。なぜ「歯笛」なのか?「口笛」ではなくて。原文はこうなっている。
She walked along whistling "Kentucky Babe" through her teeth.
「ケンタッキー・ベーブ」とはどんな歌なのだろう。

連作の折り返し点に位置するこの小説は、それなりの役割をもつのだろう。平和な日常のほほえましい母と子の交流が描かれ、しかし、この後すぐ「エズミに捧ぐ」では、戦時下の不思議な邂逅とその痛ましい後日談が記されるのである。

まだ発表できる段階になっていない文章ですが、あまり長く書かないでいると、書くことができなくなってしまうのではないかという不安に襲われます。途中経過そのものの文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

































2012年5月2日水曜日

「笑い男」再び___「笑い男」とは何か

前回私は、「笑い男___その用心深い入れこ構造と表現の重層性」の中で、「笑い男」と「コマンチ団」の「団長」をアメリカインディアンのメタファーとして解釈した。その解釈は間違っていないと思うが、それは「サリンジャーの読み方」の第二層目としてそうも読める、というべきで、これはやはりもう一層下の歴史的次元の事実を踏まえて解釈しなければならない。それでは、「笑い男」と「コマンチ団」、そして「団長」とは何か?

『ナイン・ストーリーズ』の九つの連作の中で、この「笑い男」とこれに続く「エズミに捧ぐ」は、もっとも中心的な部分であると思う。作品の長さといい、構造の複雑さといい、サリンジャーが渾身の力を注いで書いたものではないか。そもそも「笑い男」の「原義」は何か?この小説の入り組んだ謎をとく鍵はそこにある。それはまた「エズミに捧ぐ」の謎を解く鍵でもあるのだが。 

「用心深い入れこ構造」のなかで、「笑い男」にかんする描写は、あまりにも現実離れしている。「金持ちの宣教師夫妻の一人息子」で、「中国の山賊どもに誘拐された」が、夫妻が身代金を払うことを拒んだために「万力で頭を挟んで、右のほうへ何回かねじった」ために、大人になると「ヒッコリーの実のような形の顔をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いている」顔を「芥子の花びらで作った薄紅色の仮面」で包み、「阿片の匂いをふりまいて歩いた」とある。荒唐無稽とは、このような表現をいうのだろう。何故このような荒唐無稽な表現をしなければならなかったのか。その底に、サリンジャーはどんな真実を潜ませたのだろうか。

孤独のうちに、深い森の動物たちとひそかに交流しながら、笑い男は成長した。山賊たちのノウハウを身につけたばかりか、それを遥かに超える方式で、世界中で富を収奪し、世界一の資産家になった。これは、アメリカ・インディアンのメタファーではないだろう。文字で記された彼らの歴史には、そのような記述はない。その資産の大部分を「ドイツの警察犬を育てることに一生をささげたつつましやかな修道僧」に寄付し、残りはダイヤモンドに換えて、エメラルド色の金庫に収め、黒海に沈めてしまった、と語られる「笑い男」とは、何を意味するのか?その「笑い男」の一代記を語る「団長」とは何か?「団長」の荒唐無稽な話を胸をときめかせて聞く「私」をはじめとする「コマンチ団」とは何か?

「団長」については、「笑い男」の息の仕方を「言葉で説明するより、むしろ実演してみせた」とあることから、「笑い男」と同じカテゴリーに属する存在、というよりほぼ「笑い男」そのもの、といえるかもしれない。そして、「私」をはじめとする「コマンチ団」のメンバー二十五人は、みな「自分を笑い男の直系の子孫と考えていた」だけでなく、「自分の本当の素性を名乗り出ようと、その機会をうかがっていた」し、ひそかに行動に出る準備もしていたのである。つまり、「笑い男」と「団長」と「私」は、複雑にねじれあった構造の中で直接に結びついていたのだ。だから、メアリ・ハドソンとの破局が決定的になったとき、「笑い男」の最期は必然となり、それはまた、「私」をはじめとする「コマンチ団」の恐ろしい運命をも決定することになったのである。

このところ身辺雑事あいついで、読むことも書くこともままならない日が続いています。以前書いたものの大幅な修正をしたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。