2020年12月2日水曜日

映画『ミッドナイトスワン』__ライトノーヴェルから純文学へ__「映画」という奇跡

  とあるブログで取り上げられていた『ミッドナイトスワン』という映画を観に行った。いま流行りのLGBTと母性をテーマとしているようだが、全編不気味な緊張感が漂う画面の連続だった。

 あなたの母になりたい__。

 陽のあたらない場所で、あたたかな愛が生まれる。

という原作小説のカバーの惹句とはかなり異なった感触の作品である。

 映画を観てから原作小説を読んでみた。意外なことに、小説の方は、映画を観ているときのヒリつくような異様な感覚におそわれることはなかった。カバーの惹句にそったプロットの展開が、登場人物の心理を丁寧に描写しながら繰り広げられ、破綻なくラストまで読みすすめることができる。

 ニューハーフショークラブで働く「凪沙」という主人公が「一果」という少女をひきとり、彼女のバレーの才能を育てることで母性に目覚める。だが、肝心なときに一果を虐待していた実の母親が現れ、一果を連れ去ってしまう。残された凪沙は、肉体も女になれば母になることもできる、とタイで性転換の手術をする。手術を終えた凪沙は一果を連れ戻そうと広島の実家を訪れるが、早織や周りの親族に阻まれ、実家から追い出されてしまう。傷心の凪沙は、手術の後遺症もあって、心身ともにボロボロになり、死んでいく。おおまかなストーリーは映画も小説も同じなのだが、いくつか、微妙に異なる点があって、それが映画と小説の読後感の違いにつながってくるように思う。

 小説では、凪沙の初恋の思い出や過去の恋愛体験、凪沙が一果のバレーの月謝を払うために始めた職場の青年と凪沙とのかかわりなどいくつかのエピソードが語られるが、映画では省かれている。また、貧しい一果がバレーを続けられるよう尽くしてくれた「りん」という少女と一果の友情も小説の中では詳しく語られていて、映画のように、無表情な一果にりんが一方的に思いを寄せる、という展開にはなっていない。総じて、誰もが納得できるストーリーの展開であり、結末であって、よくできたライトノーヴェルである。

 映画は謎に満ちている。小説の原作と映画の監督が同一人物であるということが、私には、不思議である。小説の中に流れる「日常」が映画にはないのだ。あるとすれば、それは小説の日常とは違う「日常」である。

 凪沙と一果が食事をする場面がある。映画では、凪沙が一果を引き取ってすぐに食事をつくってあげたようになっているが、原作では、一果がバレー教室に通い始めて半年、とあるので、二人の関係がかなり親密になって、共同生活も軌道に乗り始めたころのことである。「ハニージンジャーソテー」という豚肉の生姜焼きが食卓に並べられる。映画では味噌汁とごはん、人参の千切りが山盛りのサラダもついている。美味しそう、と見えなくもないが、なんとなくメニュー用のつくりものっぽい。ラスト近く、中学を卒業した一果が瀕死の凪沙を訪れて、「ハニージンジャーソテー」をつくるのだが、こちらは黒焦げになった豚肉が原形をとどめず、不気味である。原作では「少しこげていたけれど本当に美味しかった。ひどく懐かしい味がする。」と凪沙の心情が語られているが、どう見てもそうは思えない出来映えである。

 映画の「日常」は、ひとことでいえば、グロテスクなのだ。「追っかけスワン」の人たちからは非難轟々だろうが、いわゆる「美しい」映像で成り立っている映画ではない。冒頭真っ赤なルージュをひく唇と真っ赤なマニキュアを塗る爪が映し出される。それから、ニューハーフショーの舞台で踊る四人が履く真っ赤なバレーシューズ、純白の衣裳に真っ赤な靴がなんとも異様だ。血潮を連想させる赤である。

 この映画の色使いは特徴があって、赤と青が際立っている。一果が広島から高速バスで新宿に着いたときのリュックは赤で、凪沙がベージュのトレンチコートの下に着ているセーターも赤、タイで手術して「女になった」凪沙が来ているトレンチコートもむごたらしいような赤である。ニューハーフショーの舞台で一果が躍る場面があるが、背後のカーテンは赤い。バレースタジオのカーテンも赤だったような気がする。

 凪沙がブルーのセーターを着たり、一果が赤いトレーナーを着たりする場面もあるが、印象的なのは一果の母親早織の衣装がつねに青であるということだ。勤め先のキャバクラで酔い潰れている場面、広島から上京して凪沙のアパート一果を迎えに来る場面、凪沙が広島の実家に一果を連れ戻しに来たときも、そして一果の卒業式の晴れ着風のスーツも、早織の衣装はすべて青である。例外は、バレーのコンテストの舞台で立ちすくんでしまった一果を、舞台に駆け上がってだきしめる場面で、早織は紫_赤と青の混合_のパーカーを着ている。

 ほとんど使われないが、非常に印象的な場面でつかわれているのが黄色である。ニューハーフクラブのママがお店で一果に黄色のジュースを差しだして、「これなま100パーセントよ。お飲みなさい」というのだが「なま100パーセント」って何のなま100パーセント?それから一果があやしげな撮影会で、カメラを持った男に「これ着て」と迫られるのが黄色のビキニである。切羽詰まった一果は男に椅子を投げつけ、男は救急搬送されてしまう。

 夜の場面が多く、全体にざらっと暗いトーンの映像が続くが、ラスト近く、瀕死の凪沙が一果に付き添われて、海を見に行くバスの車内の映像は明るく美しい。凪沙は黒いサングラスをかけ、蒼白の顔に赤い口紅が映える。文句なしに美しい凪沙がそこにいる。凪沙にもたれかかって眠っている一果も可憐だ。バスから降りて、杖をたよりに砂浜を歩く凪沙は、もうトレードマークのブーツを履いていない。黒いローヒールの靴が砂浜にめり込んでいく。青い空と青い海、白い砂、どこまでも明るい画面で、「きれい…」とつぶやきながら、凪沙が死んでいく。うっすらと髭の生えた横顔、だが、美しい。

 原作では、凪沙の死に気づいた一果は嗚咽し、「天国へ行けば二人(亡くなったりんと凪沙)に会える」、と海に入っていく。そして、肩まで海につかって死を覚悟したとき、鳥の羽音を聞く。振り返った一果は、何かが空へ飛び立つのを見る。いまわの際の凪沙が見た幻の白鳥かもしれない。原作は

 大きな影は一果の頭上を一度優雅に旋回し、力強く羽ばたくと、まっすぐ太陽に向かって飛び続ける。

そして、そのまばゆい光に溶けるように、消えていった。

と結ばれる。原作のプローグ

 少女は眩しい太陽をただ見つめているのが好きだった。

とみごとに対応している。

 映画のラストは若干、もしくはかなり異なっている。凪沙の望みで白鳥の湖のオデットを踊っていた一果は凪沙の死に気づくが、その死を確かめると、まったく無表情で海に入っていく。襲いかかる波をものともせず、どんどん進んでいく。その後、場面は転換して、トレンチコート(凪沙の着ていたものと同じように見える)をひるがえし、ジーパンに赤いヒールを履いた一果がさっそうと階段を登っていく。日本を離れて一年半、海外留学中の一果は国際的なコンテストに出場するのだ。晴れやかなスポットライトを浴びて、一果は、白鳥の湖のオデットを踊り終える。

 原作にないこの結末の部分は、ハッピーエンドでストーリーを完結するために付け足された、原作の延長上のエピソードだろうか。見終わって、なんだか喉元に異物がつかえたような感覚になってしまうのは私だけなのだろうか。全身に孤立感と孤独を漂わせて登場した一果が、流暢な英語を話して、世界に羽ばたくバレリーナになっていく。それはたしかに、ハッピーエンドなのだろうけれど。

 最後に、ささいなことだが、この作品の凪沙や一果の実家が広島にあるという設定になっているのは何故だろう。他の地方都市でもよかったのかしらん。それから、なぜ、「凪沙」なのだろうか。「渚」ではなく。原作者の山本氏は松田聖子のファンで、聖子の「渚のバルコニー」という歌から主人公の名を「なぎさ」とした、といっているが、それならふつうは「渚」と表記するだろう。「一果」という名前も、どこから思いついたのだろう、と不思議である。

 解けない謎がいくつもあって、たった二回観ただけのこの映画のことをずっと考え続けている。ああいい映画だった、とカタルシスを味わっておしまいにしてしまうことができないという点で、この映画は私にとって「純文学」なのである。

 見終わってずいぶん時間が経ったのに、何もまとまったことがかけませんでした。最初に観た時の衝撃をうまくつたえることができず、あいかわらずの非力を感じています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。