面白すぎる理由の一つが、登場する人物がそれぞれ魅力的であることだと思う。冒頭死んでしまう「ぼく」の親友斎木犀吉、その最初の妻卑弥子、卑弥子から犀吉を奪った鷹子、犀吉が献身的にサポートした朝鮮人ボクサーの金泰、泣き虫から抜け目ないビジネスマンに変身した雉子彦、原爆症の発症に脅え不審死を遂げる暁、暁を殺したと信じて犀吉をつけ狙う暁の母などがリアルに生き生きと描かれる。物語の展開がスピーディで、なにより、作者が言葉を繰り出すことが楽しくてたまらない、といった趣があるのだ。もちろん、無から有をうみだす創作の苦しみは無視できないし、作者の大江自身がこの作品執筆中にある深刻な状況におかれ、身動きもできない日々が続いた、と記しているのだけれども。
犀吉と「ぼく」の出会いは、二人が「スエズ義勇軍」に参加して、カイロに渡航しようとするところから始まる。スエズ義勇軍!そのような軍隊はほんとうに存在したのだろうか?東京の大学二年生の「ぼく」も関西の私立高校三年生の犀吉も軍隊の経験がないのはもちろんだが、渡航費用もないので、費用を無心に四国の山奥に「ぼく」の祖父を四国の山奥にたずねる。
「頬にも顎にも一本の毛も生えていない」のに、「年寄りは若いうちに殺せ」とフランスの格言?をひいてうそぶいていた犀吉だが、実際に祖父と会うと、「あれは、長老だなあ」と感嘆し、祖父もまた犀吉を「マンホールに落ちても考えつづけている真の哲学者だ」と評価して、二人はたちまち議論に熱中する。年齢差をこえた二人の友情は祖父が愛犬南洲号の死に気落ちして亡くなるまで続くのである。
首尾よく渡航費用は用立ててもらえたのだが、「ぼく」がハシカにかかってしまい、土蔵で隔離されている間に、二人分の旅費十万円を受け取って、犀吉だけが出発してしまう。カイロ行き義勇軍の話は中断されたので、貨物船にたのみこんで、どこか遠方の国へ、単独で。
それから二年間、どうやら犀吉はかなり「非」日常的な冒険をしたようである。犀吉が乗り込んだのは海賊船の宝探しに行く船だったが、何者かに撃沈されて漂流した後、彼は香港の巡視船に救助される。それから九竜キャンプに収容されたが、同性愛のドイツ人によって救いだされる。ドイツ人の求愛をこばむためにずいぶん乱暴な手段をとって、何とか日本に帰ってきた犀吉だったが、もう彼から「戦争の虫」はおちていた。初夏の香港で、きれいに整えられた楽園のような庭に遊ぶ英国人の子供たちと、その傍らでぐったりと絶望している中国人の若い浮浪者を見て、自分はスエズ戦争について「跳ぶよりまえに考えたり見たりしているということに気がついていたわけなんだ」と悟ったのだ。
ようやく「ぼく」と再会した犀吉だが、間もなく彼は姿をくらましてしまう。「セックスという命題に自分自身の意見のカードをもう一枚ふやしたかった」という理由づけで、犀吉よりさらに年少の少年と二人で一人の「ビグネーム」の女優の相手をして、その後その女優から「十万円」強請ったのだ。女優がそれを取り返すべくプロの地まわりに頼んだので、犀吉は逃げなければならなくなったのである。そして、彼は、ただ逃げだしたのではなく、香港から連れて来た「歯医者」という猫を「ぼく」に押しつけていった。彼が「長老」と仰ぐ四国の祖父に飼ってもらうためである。そうして、「ぼく」の原稿料の残りでウイスキーを睡眠薬と一緒にのんで、死の恐怖心を克服し、ボクシング仕込みの拳で地まわりを半殺しにして逃げたのだった。
さらにまた二年がたって、犀吉は「拾ってきた」シトロエンに乗って「ぼく」の前に現れる。運転していたのは彼と一週間前に結婚した「卑弥子」という十八歳の少女だが、独断と偏見でいえば、卑弥子ほど魅力的な女性をほかの大江健三郎の小説で見たことがない。大江は彼女を語るのに、スタンダールやヘンリー・ミラーの言葉を引用しているが、そんなものは不必要に思われる。出自も来歴も明らかにされないが、たん的に卑弥子は、知的で情熱的で、やさしくて感受性に富み、誇り高く、料理が好きで上手い。何よりその小さな体のすべてで犀吉を愛し、尊敬しているのだ。犀吉と「ぼく」は「ぼく」が借りていた下宿に落ち着いたが、卑弥子は盗んできたシトロエンを棄てるために、寒空の中、「ぼく」の町を通る私鉄の終点まで走り、そこで車を乗り捨て、暖房設備のない待合室で酷寒の夜をすごして、始発の電車に乗り、なかば凍てついて戻ってきたのである。
暖かい部屋にもどってきた卑弥子が、氷がないので生のままのウイスキーを「西部劇のジョン.ウエインみたいに一息に」飲んで、ひとしきり泣いた後眠ってしまうと、犀吉の果てしない饒舌が復活する。彼は、この二年間の間に四国の谷間の「ぼく」の祖父をたずねて、いまはもう半ば野生化した彼の猫にも会ってきた話をして「ぼく」を驚かせる。だが、犀吉が「タクシー代がないから」シトロエンを「拾って」までして、「ぼく」のまえに現れたのは、そんな回顧談をするためではない。「直截にいえば、「ぼく」が「自己欺瞞」をしはじめている」ので、それを破壊したいのだというのである。
「ぼく」は大学在学中から小説を書きはじめていた。二年間の間にかなり多くの小説を書いて、文学賞をもらい、大学の友人の妹と結婚することもきめていた。安定的な、いってみればぬるま湯のような作家生活(そんなものが存在するかどうかわからないが)の路線が見えていたが、あるときそれは一変する。「ぼく」が書いた「政治的な残酷物語」によって、「ぼく」は日夜脅迫の電話や手紙の攻勢にさらされる。孤独においつめられた「ぼく」は一種のヒコポンデリアにかかり、大食と知的怠惰の極みの生活を送るようになっていた。
そんな「ぼく」について、谷間の祖父は「左にしろ右にしろ、翼のついた人間とかかわるつもりなら自分もまた跳ぶつもりにならねばならん」といったのだが、犀吉はまさに、「ぼく」のヒコポンデリアの原因が「自己欺瞞」にあると喝破して、それを破壊すべく、日常生活から「ぼく」を「跳び」たたせるために「ぼく」のまえにあらわれたのである。
「ぼく」は、「ゴッホのハタンキョウの絵」がかる犀吉の部屋での大晩餐会の後、夜警をする犀吉につきあって、ビルの屋上から東京の夜明けの瞬間に出会う。「ぼく」は夜明けの東京「人間の魂を搾木でしめつけて死にものぐるいにおののかせるもの」とともに、「様ざまの奇怪な予感におびえながら、しかも荒々しい冒険心の恍惚を感じ」、《さあ行こう、どこへ行こう》という若い詩人の詩と同じように、行く先さだかではないが、日常生活から跳び立つ決断をしたのだった。
ここで、横道にそれるようだが、斎木犀吉のモデルとされる伊丹十三と大江健三郎の関係について、というより、大江健三郎の作品との関係について考えてみたい。むしろ、このテーマを考えるために今回のブログを書き始めたのだが、なかなか本題に入れないでいる。
いうまでもなく、『日常生活の冒険』に描かれる斎木犀吉は伊丹十三の実像とは異なっている。当時伊丹十三はすでに評価の定まった俳優であり、「北京の55日」や「ロードジム」という外国映画で、チャールトンやピーター・オトゥールと共演して重要な役を演じている。文筆家としても、軽妙だが才気あふれ、しかもきちんと筋の通った姿勢がうかがわれる文章が残されている。その他、商業デザイナーなど彼のマルチな才能については若い日の私の記憶にいまでも鮮やかである。要するに当時の彼は、「壁に画鋲で止めたゴッホの複製だけが存在する五帖」の「いつのまにか二階と三階とが解けあっている、その非ユークリッド幾何学的な接合点の歪んだ部屋」を住居とするような生活はしていなかったのだ。
だが、私の関心の中心は、実際の伊丹十三と斎木犀吉との齟齬にあるのではない。モデルと実像との間に距離があるのは当たり前である。問題は、犀吉が「ぼく」に向ける執拗な「否」のベクトルである。物語りのなかで、語り手に最も近い位置に存在する重要人物が語り手に「否」を突きつけ、語り手を追いつめるという主題は大江健三郎の後の作品に繰り返されるのだ。
特に重要な作品が『懐かしい年への手紙』で、ここで斎木犀吉は、かなり飛躍した乱暴な解釈かもしれないが、主人公のKちゃんの師匠(大江の呼び方でいえば「パトロン」)的存在の「ギー兄さん」に昇華して登場する。「ギー」という呼称は『万延元年のフットボール』に登場する「森の隠遁者ギー」を経て、『懐かしい年への手紙』の「ギー兄さん」となる。さらに「ギー兄さん」は『燃え上がる緑の木』の主人公となり、『宙返り』にも少年の「ギー」が登場するのだが、主人公に明確に「否」を突きつけるのは『懐かしい年への手紙』のギー兄さんである。
作品としては『個人的な体験』から出発した大江健三郎≒Kちゃんの創作活動に対して、事故とも事件とも不明瞭な殺人の罪を自ら引き受けて、それを償い終えてKちゃんのもとに現れたギー兄さんはこう言うのだ。
「・・・・・・・Kちゃんが自己の回心の・死と再生の物語をめざしていることはあきらかだよ。しかし、それには時がある。Kちゃんよ、きみのなかで自己の回心の・死と再生の物語を書く時は熟しているかい?」
『懐かしい年への手紙』のギー兄さんの言葉は、『日常生活の冒険』の斎木犀吉とは比較にならないほどの重さがあって、大江の分身として設定されている「Kちゃん」は、長い時間をかけて書いてきた草稿を燃やしてしまう。それが、どれほど大変なことであったかということが、『晩年様式集』でもう一度言及されるのだが、これについては、また回を改めて考えてみたい。そもそも『晩年様式集』は『懐かしい年への手紙』を読み直す、というか『懐かしい年への手紙』という作品をものした作者の真意ともいうべきメッセージを伝えるために、非常に慎重に、工夫をこらして構成されたもののように思われる。
一九八七年に出版された『懐かしい年への手紙』と一九六四年の『日常生活の冒険』をくらべてみると、二十三年の間に大江健三郎の作品世界がまったくと言っていいほど変わってしまったことに気づく。『日常生活の冒険』は、登場人物ひとりひとりが私たちと同じ日常の時間、空間に存在する血の通った人間なのだ。斎木犀吉も卑弥子も「ぼく」も、その他の誰もが、当たり前に呼吸し、生きている。だが、『懐かしい年への手紙』のギー兄さんをはじめとするさまざまな人物は、それなりに作品のなかでリアリティをもちながら、何らかの寓意性をひそめて存在している。いわば、小説のプロットとは別次元の、さらに上位のシナリオを演じている役者のように思われるのだ。
日常生活から跳びたつ決心をした「ぼく」が実行したことは、「アームストロング」という外国製の中古車を買うことだった。フランス人と国際結婚した日本の女優が乗っていたものだったというが、「アームストロング」という車は実在したのだろうか?
「ぼく」は犀吉たちとアームストロングに乗って、冒険の旅に出ようとしたのだが、それはかなわなかった。犀吉の生活が一変してしまったからである。卑弥子を捨てて、大富豪の娘と結婚した犀吉は、憧れだった「ゴージャスな」生活を享受し、モラリストとして培ってきた経験と才能を生かす機会にめぐまれながら、結局「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。」と言って、「ぼく」の前から姿を消して破綻していく。その過程もきちんと追わなければならないが、これもまた、いずれ時間の余裕があれば試みてみたい。
作品に集中的に向かい合う時間をとることができなかったこともあって、書き始めと終わりの整合性が足りませんでした。自分の能力の限界を思い知らされると同時に『晩年様式集』を書いたときの大江健三郎の年齢が七九歳だったという事実に驚嘆しています。ひとなみ優れた物語作家だった彼が、みずからつくった物語を解体し、新しい「晩年様式」をつくりあげたという事実に。
今日も未整理な文章を読んでくださってありがとうございました。
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