2012年4月4日水曜日

『ライ麦畑でつかまえて』と『悪霊』___ホールデンとスタヴローギン

私はドストエフスキーのよい読者ではない。どころか、何度読んでも、登場人物の名前がなかなか覚えられず、途中で投げ出したくなる。『罪と罰』は比較的単純なストーリーで、わかったような気になったが、どれほどわかったのか怪しいものである。『白痴』は、なんだかわからないが、主人公の「キリスト公爵」と呼ばれるムイシュキンが、キリストどころか、かえって周囲を不幸に陥れる役割を演じてしまうのが、何を意味するのかわからないなりに面白かった。『悪霊』は、「超人スタヴローギン」が、最後になぜ自殺するのか、そもそも「スタヴローギン」とは何か、その謎はいまでもわからない。また、ドストエフスキーが、小説の本筋に関係のない「スタヴローギンの告白」を挿入することにこだわったのも謎である。

 ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。

 イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。

 『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。 

 聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。

 まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。

 毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿