2012年1月3日火曜日

人生の特権的な瞬間___「書く」ということ

家事の中では、掃除が好きだ。さして広くもないマンションの隅から隅まで、年末の大掃除のような掃除を毎日している。一日のなかで、動いている時間の大半は、掃除に使われる。猫を飼っていて、朝起きると、部屋中が発狂したくなるような惨状を呈しているため、という実用的な理由もあるが、なにより、掃除機をかけているときは無心になれるのだ。ただ、ひたすら、ルーティンの作業をすればいい。料理はそうはいかない。食事つくりというより「食餌」つくりに近いような私の料理でも、「無心」でつくることはできない。

 修道士の人たちが、毎日同じ日課をくりかえして、神につかえるように、私も毎日同じ作業をして時間を使っている。そして、その最中に、1年に1度か2度の割合で、ある特権的な瞬間がおとずれる。「ことば」が外からやってくる、とでもいおうか。マルチン・ブーバーの「我_汝」の関係性とはこういうものか、と思えるような瞬間が。reveal_存在の隠されていたものがあきらかにされる_とき。その「とき」を、流れゆく時間に楔をうち込んで定着させるために、ブログを開設して、「書く」ことを始めた。ところが、こうして、毎日「書く」ことが日課になると、その特権的な瞬間はおとずれそうもない。

 それでも、こうして書いている。待っても外からやってこない「ことば」をうちから無理矢理つむぎだしている。なんのために?いま、私に答えはみつからない。ただ、もし、私が、私自身のために書くのだとすれば、以下のマルグリット・デュラスの文章がその答えに近いのかもしれない。デュラスが七十歳の時に書いて、フランスでベストセラーになった『愛人』という小説の最初の部分である。
「書くとは、いま改めて考えてみると、とてもしばしば、書くとはもはや何ものでもないという気もする。時には私は、こうだと思う。書くということが、すべてをまぜあわせ、区別することなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、その時には書くとは何ものでもない、と」(清水徹訳)

 デュラスはストーリーテラーとしての豊かな才能をみずから封印するかのように、次々と難解で実験的な作品を生み出していった。同じ題材から、新しい作品を、作っては壊し、作っては壊していった。それは、おとずれる特権的な瞬間を定着させることなく、「すべてを混ぜ合わせ、区別することなどやめて空なるものへと向かう」作業だった。__「空なるものへ」

 だが、もし、「書く」ということが、「プロパガンダ」でなく、しかし、他者に向かっての(もちろんその第一番目の他者は自分自身だが)語りかけだとすれば、「書く」ということは何だろう。

 今日も、まとまりの悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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