2012年1月17日火曜日

「わたしはまことのぶどうの木」___死と復活と再生

前に住んでいた家の庭にぶどうの木が一本あって、ある年突然、信じられないくらいたくさん実をつけた。毎日毎日、顔がぶどうの色になるくらい食べたのだが、とても食べきれないので、潰して、広口瓶に入れ、ふたをして放っておいたら、数日で発酵して、ぶどう酒ができた。夏の終わりでまだ暑い日が続いたので、ちょうどいい加減の温度が保たれたのだと思う。それからしばらく秋になると葡萄酒をつくった。うっすらと粉をふいて、はじけるようなぶどうの粒を圧搾器で潰して、皮も実も種もみんないっしょに広口瓶の六合目くらいまで入れて、最後に発酵を進めるためにちょっと砂糖を加えて、ふたをして、そうすると、さあ、ぶどう酒の天地創造劇の始まりです。

 押し潰されて無残な姿になっていたぶどうの粒が、だんだん皮とどろどろの実に分離してくる。この段階は、皮も実も草色と泥色の混じったような色で、全体にどよーんとした感じ。しばらくすると、少しずつ、泡が出てきて、発酵が始まる。泡がたくさん出て、発酵が進むと、行ったり来たり上下運動をしていたぶどうが皮と実に分離し始める。いつのまにか、どよーんとしていた広口瓶の中身が、きれいな桜色になってくる。ほんとうにきれいな桜色だ。この段階で上澄みを飲んだら、きっと甘口のおいしいぶどう酒なのだろう。でも、甘いお酒がダメな私は、このまま発酵させて、きれいな桜色が、きれいなワインレッドに変わるのを待つ。透明で美しいワインレッドになったら、出来上がり。ざるで漉して、液体は適当な酒瓶に詰める。底にたまった澱も絞って、二番絞りのぶどう酒になる。

 この過程を見ていて、聖書のなかにぶどうに関する記事が多いのがわかるような気がした。これはまさに、死と復活と再生の過程ではないか。一粒の麦ならぬぶどうが刈り取られて、無残に潰され、容器の中に押し込められる。そこから、発酵という復活が始まるのだ。発酵はけっして穏やかな作用ではない。いつか、欲張って広口瓶の八合目くらいまでぶどうを入れたら、内側からもの凄い力で瓶のふたが開けられ、中身が部屋中にとび散った。あのエネルギーはどこから生じるのだろう。まさに、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れよ」である。十分に発酵して、最後にアルコールとして再生すれば、ほぼその状態で安定する。

 聖書の中でも、とくにヨハネによる福音書はぶどうに関するたとえを多く記している。第15章「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という一節が有名だが、第2章の水をぶどう酒に変える奇跡も印象的である。婚礼に招かれたイエスが、母に「ぶどう酒がなくなりました」と言われ「わたしの時はまだ来ていない」と言いながらも、水がめに満たされた水をぶどう酒に変える。これは、ヨハネによる福音書だけが記す奇跡であって、ヨハネはこう記している。「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」

 家の庭にあったぶどうの木は、何年かしたら、まったく実が生らなくなった。ぶどう農家の人に聞いたら、ぶどうは剪定が大事で、たくさん実をつけさせてはならず「地面に木洩れ日がさすくらい」に隙間をあけておくそうだ。それから間もなく、その家を貸して、私たちは引っ越した。いまは、新しく住人となった方たちが、いったんは見る影もなくなったぶどうの木を大事に育ててくださって、去年は初夏に青い花実をつけた。今年はいく房か実るだろうか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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