2012年1月2日月曜日

「あたらし」と「あらたし」と___折口信夫について

昨日取り上げた大伴家持「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、いや頻け。吉事(よごと)」の「新しき」は「あたらしき」と読むのだろうか?いま、折口信夫全集巻五の『口譯萬葉集』でたしかめようとしたのだが、ただ「新しき・・・」と表記されているだけである。

 いうまでもなく「あたらし」と「あらたし」はちがう言葉である。現代語の語感とは逆に「新しい」は「あらたし」であり、「あたらし」は「愛惜」の念、であろうか。もし、「新しき年」が「あたらしき年」と読むのであれば、「『あたらしき』年のはじめの・・・・」という歌は、たんに新年をことほぐ儀礼歌ではない。「あたらしき年の初めの初春の、今日降る雪の」と、格助詞「の」を連用して、「いや頻け。吉事」と体言で止める。それはまるで、容赦なく過ぎ去っていく日常の時間の流れを、何とかして繋ぎ止めてておこうとする意志をあらわすかのようだ。端正な予祝の歌のようでありながら、もっと激しい渇望にも似た希求を感じとるべきなのかもしれない。

 ところで、折口信夫自身が「あたらし」という言葉を、非常に印象的に用いている歌がある。処女歌集『海山のあひだ』巻頭歌である。
「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」
「踏みしだかれて」という暴力的なイメージに続いて「色『あたらし』」とあれば、これはやはり「新し」ではなく「愛惜し」であろう。とすれば「この山道を行きし『人』」の『人』は、誰をさすのか。「人あり」となぜ断定的にいわなければならなかったのか。

 折口信夫との出会いは、高校の図書館であった。書かれている内容はほとんど理解できなかったが、なぜか全集を次々とひもといていった。紙面から古代の空気の匂いがたちのぼって、、折口その人が姿をあらわしてくるような気がした。孤独な、しかし充実した時間だった。

 『海山のあひだ』の「葛の花・・・」に続く第二首はこの歌である
「谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは」
ほとんど性的な衝動を暗示するこの歌は、巻頭の第一首から独立した歌なのだろうか。

 折口信夫は、いまだ私にとって、あまりにも多くの謎につつまれた、しかしそれゆえに危険な磁力で魂をひきつける存在である。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
またしても、日付が変わってしまいました。

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