2012年1月7日土曜日

しあわせハンス___私たちはどちらの側にいるのか?

昨日に続いて、マタイによる福音書25章の「ぶどう園の労働者」のたとえについて書きたいのですが、それは、もう少し後にして、今日はグリム童話の中から「しあわせハンス」をとりあげます。

 7年間の奉公を終えたハンスという若者が、主人から報酬としてもらった金塊を、馬、牛、豚、ガチョウ、砥石、最後は石ころにと次々に交換し、その石ころも井戸に落として、無一物になって、郷里の母親のもとに帰り着くというお話。ストーリーが単純で他のグリム童話にあるような残酷な場面がないので、美しい絵本として版が重ねられている。この童話のなかに清貧の思想を読み取って、それを賛美したり、一般的な価値観にまどわされない自己の価値観の充足を肯定したりするコメントがネット上で多く見受けられた。一方、他人の持っているものをほしがり、最後には無一物になってしまうハンスのおろかしさを我がこととして受け止め、自戒する法話もあった。

 この話を、たんに「子どものための童話」として、ここから道徳的ないし教訓的なテーマを読み取ろうとすれば、おおむね上記のようになるだろう。グリム兄弟もそれを目的にしたのかもしれない。だが、この単純な話は、決して単純ではない読後感をもたらす。「しあわせ」ハンス・・・・・しあわせ・・・・石ころさえも失って、無一物になって、なにがしあわせ?ほんとうにしあわせ?

 誰もが気づくように、ハンスは、自分が最初に持っていたものを、より価値の低いものへと交換を重ね、最後に何の価値もない石ころに替えてしまった。ハンスは、次々と損をし続けたのだ。逆にいえば、ハンスとものを交換した相手はみんな得をしたのだ。ハンスの損は相手の得であり、「交換」という行為は必ず価値の増減をともなう。たとえ貨幣を仲介させても。そして、相手のものを「ほしがった」方が損をする。

 さて、それで、私たちは、交換を重ねる度に損をするハンスの側にいるのか?それとも、ハンスの欲望を上手に引き出して、ハンスに損をさせ、自分は得をする側にいるのか?

 せっかく7年の年季奉公をつとめあげ、郷里に帰ったハンスは、無一物になって、これからどうするのか?それは、最初から決まっている。また、7年の年季奉公に行くのだ。だって、何もないのだから。

 「おいら、ほんとうに運がいいや」

 この話は、もしかしたら、おそろしく残酷な童話かもしれない。

 今日もまた、最後まで読んでくださってありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿