2015年4月25日土曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』__T.S.エリオット「ゲロンチョン」を中心に

 名前だけ聞いて頭の上を通りすぎる存在だったエリオットについて調べていて、なんとも複雑な思いをかみしめている。ヨーロッパにおける、というより近、現代史の時間、空間のなかで、「ユダヤ」もしくは「ユダヤ人」という存在がどのような意味をもってきたか、あるいはもたされてきたか、という問題をあらためてつきつけられたように思う。もちろんそれは今につながるものだ。エリオットは、同志とされるエズラ.パウンドほどではないにしろ、「反ユダヤ主義」と批判される時期があったのだ。「ゲロンチョン」に登場するユダヤ人の大家の描写はあきらかに偏見と侮蔑に満ちている。だが、いまはエリオットの「反ユダヤ主義」を論考するつもりはない。問題としたいのは、なぜ大江健三郎がエリオットに、そして「ゲロンチョン」という詩にこだわったのかということである。少し詳しく「ゲロンチョン」の内容を検討してみたい。

  Here I am, an old man in a dry month,
  Being read to by a boy, waiting for rain
  I was neither at the hot gates
  Nor fought in the warm rain
  Bitten by flies, fought.
  My house is a decayed house,
  And the Jew sqqarts in the window sill, the owner,
  Spawned in some estaminet of Antwerp,
  Blistered in Brussels, patched and peeled in London.
  The goat coughs at night in the field overhead;
  Rocks, moss, stonecrop, iron, merds.
  The woman keeps the kitchen, makes tea,
  Sneezes at evening, poking the peevish gutter.
                                          I an old man
  A dull head among windy spaces.

 本文では深瀬基寛の訳で

まかりいでましたこちらは雨なき月の老いの身
童にもの讀ませつゝ、雨の降るのを待ってます。
われひとたびも激しき戰ひの城門にたちしことなく
はた降りしきる雨を浴び
鹽澤に膝ひたし、だんびら刀振りかぶり
ぶとにまれて戰ひしことさらにない。
わたしの家は、ぼろ家です、
 
と、六行目までがまず引用される。ここまでは芝居気たっぷりに登場したan old manの自己紹介である。問題は、作者大江が、たぶん意図的に省略した7行目以下である。
And the Jew squarts  in the window sill, the owner,(初版ではthe jewと小文字)
窓べりに蹲るユダヤ人が大家として登場し、その人物がアントワープで生まれ、ブリュッセルで疱やみになり、ロンドンで絆創膏をあて、皮を剥がした、となんともいかがわしい経歴が語られる。さらに、深夜に咳をする山羊と、くしゃみをしながら台所仕事をする女が現れ、屋外の描写がそれにはさまれる。in the field over head , Rocks, moss, stonecrops, iron, merds とあるのはたんに荒涼とした原野、ではなく戦場の光景であろう。

 ところで、一つの、根本的な疑問がある。an old man は大家のユダヤ人であるのか?それとも店子の一人なのか?作者の大江はどのように解釈しているのか。私は、エリオットがみずからをユダヤ人と同化してこの詩を作ったとは思えないので、店子の一人、舞台に登場する狂言回しの役だと考える。この詩の六連目にも
  The tiger springs in the new year.…when I
  Stiffen in a rennted house
とあるのだ。(下線部筆者)ところが、作中の繁は、繁と塙吾良は、ふたりそれぞれに、ユダヤ人の大家とゲロンチョンと呼ばれる老人を同一人物として捉え、その姿によりそって自分たちの老後を語ったと言う。では、古義人自身はどうなのか。ここには、非常に重要な問題が曖昧なままにされている。

 この後は
  Signs are taken for wonders. ‘We would see a sign!’
  The word within a word,unable to speak a word,
  Swaddled with  darkness. In juvescence of the year
  Came Christ the tiger
と、宗教的な啓示の言葉が綴られる。そして

  In depraved May, dogwood and chestnut, floweringjudas,
  To be eaten, to be divided, to be drunk
  Among whispers; by Mr.Silvero
  With caressing hands, At Limoges
  Who walked all night in the next  room;

  By Hakagawa,bowing among the Titians;
  By Madame de Tornquist, in the dark room
  Shifting the candles; Fraulein von Kulp
  Who turned in the hall, one hand on the door.
      Vacant shuttles
  Weave the wind , I have no ghost,
  An old man in a draughty house
  Under a windy Knob.

と、室内の様子が描写される。日、仏、独(?)の国際色豊かな店子が住んでいるようだが、日本人らしきハカガワという人物だけ敬称がつかず、ティティアーノの絵にお辞儀をしている、と戯画的に描かれているのが興味深い。それぞれがあい集うことなく、「空のシャトルが風を織る」と結ばれているのは、紡ぎだす糸のない不毛の状況の隠喩だろうか。

 以下
  After such knowledge, what forgiveness? Think now
  History has many cunning passages,contrived corridors
  And issues,decieves with whispering ambitions,
  Guides us by vanities.…
と、an old man _エリオットの歴史哲学が語られる。しかし After such knowledge, what forgiveness?
とはどんな知識、いかなる赦しを指すのか。この詩に書かれた光景から、私達は何を読み取ればいいのだろう。というより古義人は、十九歳の冬に大学の書店で買ったときから今にいたるまで、この詩の何に深く影響されてきたのか。作中二度にわたって引用される
  Neither fear nor courage saves us.
 恐怖もまた勇気もわれらを救わざることを。
の節とそれに続く            Unnatural vices
    Are fathered by our heroism. Virtues
    Are forced upon us by our impudent crimes.
    These tears are shaken from the wrath-bearing tree.
                        自然に背く惡徳は
 われらのヘロイズムにより産み出さる。諸々の美徳も
 われらの犯す厚顔の罪によりわれらに強要せらる。
 みよこの涙、悲憤の實る樹上よりはふり落つるを。
という箴言だろうか。

 これらの箴言が、繁のいうように、古義人の「政治的あるいは社会的な考え方、あえていえば思想」にたいして影響を与えたのはたしかだろう。だが、より本質的なことは、古義人にとって、この詩が「予言的な恐ろしい力」をもつことだったのではないか。

 「ゲロンチョン」の最後のスタンザに
                                                   What will the spider do
    Suspend its operations, will the weevil
    Dlay? De Bailhache, Fresca, Mrs.Cammel, whirled
    Beyond the circuit of the shudering Bear
    In fractured atoms.
とあるのはどういうことだろう。the spider 、 the weevil と定冠詞のついた「蜘蛛」と「ゾウムシ」とは何を指すのか。また「震える熊座の向こう側で、破砕された原子の中をぐるぐる回る」三人とは何のことなのか。この詩が書かれた二十世紀初頭、フクシマはいうに及ばず、ヒロシマ、ナガサキも予兆だになかったのに。

 「陰謀論で読む」といいながら、またまたただの英文解釈以下になってしまいました。懲りないことに、「バーントノートン」と「イーストコーカー」にも挑戦してみたいと思っています。そして、作中執拗に言及される「ミシマ」についても考えなければならない。まったくの独断と偏見ですが、三島由紀夫は「天皇」を考えていた。それにたいして大江健三郎は「天皇制」を考えていたのではないか、とも思うのですが。
 今日も拙い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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