2015年12月21日月曜日

大江健三郎『水死』__コギーという記号とあらゆる手続きの演劇化

 大江健三郎の小説を読んで分かった、と思ったことは一度もない。分かった、と思うときがきたら、そのとき私は大江の読者でなくなるだろう。『水死』も分からない小説で、いろいろな分からなさがあるが、まずは「コギー」なる名称と存在が分からない。

 物語の始めに、古義人が賞をもらったときの記念碑に刻まれた詩(?)を紹介している。
 
 コギーを森に上らせる支度もせず
 川流れのように帰って来ない。
 雨のふらない季節の東京で、
 老年から 幼年時まで
 逆さまに 思い出している。

 最初の二行は古義人の母が作った俳句だという。まず、これからして不思議である。一九三五年生まれの古義人の母(当然母は古義人より少なくとも二十歳は年上)が息子を「コギー」と呼ぶだろうか。しかも、「コギー」は古義人のことであるが、また古義人の息子アカリのことだともいう。この後、妹のアサにも「コギー兄さん」と呼ばせているので、「コギー=古義人」を強調したかったのだろう。だが、アサはいつも古義人を「コギー兄さん」と呼ぶわけではない。

 次に「コギー」を議論の対象としたのは、劇団「ザ・ケイヴ・マン(穴居人)」のリーダーで「長江の穴に住む人」との異名のある穴井マサオである。穴井は「コギー」を「長江さんの全小説を縦断的に脚色して、と考えている主題なんです」という。「穴井マサオ」とは、「コギー」を『水死』という小説のテーマにするために作者大江によって作品中に呼び出されたキャラクターのように思われる。「コギー』とは、穴井によれば、長江の作品中「幾つかの、別々の対象にあたえられている名前」である。それは、子供の時一緒に暮していた自分と瓜二つの子供であり、アグイーという名の死んだ赤ん坊であり、『懐かしい年への手紙』のラストに登場する幼く無垢なアカリである。

 長江が、長江だけがその実在を主張する「コギー」を「ぬいぐるみ」にして可視化し、「水死小説」に登場させようという穴井の計画は「水死小説」の破綻によって立ち消えになってしまった。「コギー」の代わりにぬいぐるみとして劇中に登場するのは、ウナイコの発案した「死んだ犬」(!)だが、これについてはまた後で検討したい。「コギー」は物語の後半、再び作品中に呼び出される。古義人の前に再び現れた穴井マサオは、古義人から去った「コギー」を取り戻す最後のチャンスが洪水下の父の出航だったという。現実には古義人は入り江に戻り、父について行くコギーを見送って、チャンスを逃してしまったのだが、彼は、古義人が「水死小説」を書くことで最後の逆転をはかると期待したのだ。

 ともにある人、癒す人、イノセントそのもの、としての「コギー」がついえて、最後に復活するのは「尸童(しどう)」、しかばねの童のモデルとして、である。谷間の森の円形劇場で「死んだ犬を投げる」公演を成功させたウナイコは東京の大劇場に出演する。そこで彼女は平家物語の建礼門院に取り憑く物の怪の「よりまし」_霊媒を演じる。ウナイコからその「よりまし」の話を聞いた古義人は「よりまし」に「尸童(しどう)」を見るが、ウナイコは「尸童(しどう)」のモデルが「コギー」だという。「コギー」はしかばねの童で、霊媒だったのか!______「水死小説」の、というより『水死』の結論はここにくるのか?

 「コギー」という「長江さんの全作品をつらぬく記号」(穴井マサオの言葉)が何を意味するのか、性急な結論はしばらく置くとして、もうひとつわからないことについて考えてみたい。それは、この作品の中で「演劇」の果たす役割は何か、ということである。ウナイコは漱石の『こころ』を題材に、観客を巻き込んだ討論劇の方法を取り入れ、討論の相手方にぬいぐるみの犬_「死んだ犬」と呼ばれる_を投げつけるという過激なパフォーマンスで喝采を浴びる。___だが、ほんとうにそんなことが、とくに中学、高校の「演劇授業」として許容されるのか?「死んだ犬を投げる」というパフォーマンスのヒントは、物語の冒頭、古義人がウナイコの質問に答えるかたちで、ラブレーの「パンタグリュエル」の説明をする中にあるのだろうが、「パンタグリュエル」ほどグロテスクかつ残酷でないにしても、どう考えても教育的でない。どころか許されない行為だろう。

 ところが、「死んだ犬を投げる」劇で成功したウナイコは、みずから企画した『メイスケ母出陣と受難』ではさらに過激な演出をする。前回のブログでも書いたが、『メイスケ母出陣』は国際的映画女優のサクラさんが直接古義人の母に取材して制作、主演した映画である。地域の一揆を指導した少年「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだ「メイスケ母」の伝承を映画化したもので、シナリオを古義人が書いた。今回はその演劇版だが、映画の最後で、サクラさんの「アー、アー」という声で暗示される強姦シーンを実際に舞台上で演じる、という。しかも、強姦されるのは、劇中のメイスケ母だけでなく、メイスケ母の衣裳を脱ぎ捨てたウナイコ自身である、という設定になっている。

 当然、このことは地域に波紋をまき起す。のみならず、かつてウナイコを強姦した元文部省の高級官僚小河を谷間の森に呼び寄せることになる。ウナイコ自身が舞台上で十七年前の強姦の場面をそのまま演じ、その相手もあきらかにされるからである。ウナイコは小河自身を舞台に引き出すことを考えていたが、出てこなければ、代役を相手に「死んだ犬を投げる」芝居をするつもりだった。小河を呼び寄せるのには、古義人も一役買っていた。ウナイコが強姦された際の血と体液のついた下着、堕胎させられた処理後の品物を、劇団「ザ・ケイヴ・マン(穴居人)」のスケ&カクが舞台上でふりかざすというコントのシナリオを書いたのは、いうまでもなく古義人だからである。

 谷間の森に呼び寄せられた元文部省の高級官僚小河は、配下の者にウナイコとアカリ、ウナイコの片腕でもある親友のリッチャンを拉致させ、大黄さんの錬成道場に軟禁する。アカリとリッチャンを人質にとって、古義人に立ち合わせ、ウナイコに上演を断念させようとしたのだ。だが、強姦ではなかった、と主張する小河は、本当にそうでなかったかどうか、十八年前の再現をしてみようというウナイコの挑発にのってしまう。ウナイコは「尸童(しどう)」_「よりまし」と化して、小河に致命的な一撃をあたえたのだ。情動にかられ再びウナイコを犯した小河は、リッチャンから報告を受けた大黄さんに銃弾二発で倒される。古義人はアサの処方した睡眠薬で深い眠りを眠り、目覚めたとき、すべては終わっていた。

 「記号」というもの、「演劇」と小説、あるいは現実との関係、について、私のなかで見えてくるものは、まだ、ほとんどない。いま、世界中でおこる出来事は瞬時に報道され、可視化される。そこでは固有名詞は記号ではないのか、出来事は地球という舞台で上演される演劇ではないのか、という妄想にかられることがある。唐突なようだが、大江健三郎は何のために小説を書くのか。「すでにあったこと」を書くのか。「これから起こること」を書くのか。『さようなら、私の本よ!』の最後で長江古義人は「徴候」を集めて残すのだ、と言っていたが。

 徹底的に能力不足、体力も不足していたのか、なんとも舌足らずな文章のままでした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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