2015年12月14日月曜日

大江健三郎『水死』___フィクサー・アサの役割と沈黙する古義人

 この小説ほど古義人の妹アサの活躍する作品はない。アサは、物語りの発端から終末まで事件の展開の節目節目に登場して、その主導権を握っていく。アサから古義人への手紙、というかたちで語り手としての役割も担っている。一方、古義人はなんら主体性なく沈黙がちで、結末の破局までなすすべもなかったようにみえる。本当になすすべもなく、何もしなかったのかはひとまず保留しておくが。

 古義人は、「赤革のトランク」を餌にアサに呼び寄せられて、四国の「森の家」に赴く。そして、古義人の作品を演劇化してきたという演劇集団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の活動と同時進行のかたちで「水死小説」の完成をめざすが、期待していた資料が得られず断念する。

 古義人の断念は十年前に亡くなった母とアサの連携プレーによるものだ。古義人の父が手のこんだ手段を用いて残した「赤革のトランク」には、古義人が「水死小説」を完成させる手がかりとなるものは何ひとつ残されていなかった。母が長い年月をかけてすべて処分してしまったのだ。母の傍らでそれを見ていたアサは、古義人が期待する資料が何も残されたいないのを知りながら、むしろ古義人に「水死小説」を断念させるために彼を「森の家」に呼び寄せたのである。

 しかし、たんに「水死小説」を断念させるのが目的ならば、母もアサも「赤革のトランク」ごと捨ててしまえばよかったのだ。そうしなかったのは、母が、穴井マサオのいう「(父を)斃れたヒーローとして書きたいもうひとつの昭和史」ではなくて、古義人が別の「水死小説」を_「あまり愚かでないお父さんのことを小説に書く日がくることを考えていた」からだ。母の遺志を実現するために、「不撓不屈」のアサはフィクサーとして八面六臂の活躍をする。

 そのうち最も重要なのが、ウナイコという反・時代精神の女優と連携し、彼女を徹頭徹尾支援することだった。ウナイコが「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」から自立して演劇活動をするために、アサは「森の家」の所有権を土地ぐるみウナイコに譲渡するよう古義人に要請し、古義人はそれを受けいれたのである。

 「水死小説」を断念した古義人は、穴井マサオに誘われて、父の水死した亀川で敗戦の日と同じように、ミョート岩の裂け目からウグイを見る。その後クロールで泳いだのが無理だったのか、古義人は大眩暈」の発作に襲われる。帰京してからもその発作は続き、さらに息子のアカリとも決定的な破局を迎えてしまう。古義人が大事にしている楽譜にアカリは好意で印にをつける。ところが、楽譜を汚されたことに激怒した古義人が、印をつけたアカリに「きみは、バカだ」と言ってしまったのだ。「水死小説」は挫折し、「斃れたヒーロー」としての父_子関係は破綻したのだが、現実の父_子の関係も破局を迎えてしまった。

 ウナイコ_アサ連合の活躍はめざましかった。ウナイコは漱石の「こころ」を朗読劇に仕立てて、中学、高校に出前授業をする。その演劇授業の集大成として谷間の中学校の円筒劇場で公演するという運びになったのは、ウナイコの実力もさることながら、「狭い谷間で、批判もいろいろある長江古義人の妹として永くやってきた」「政治的人間」のアサの根回しがあったからである。

 アサはまた、「重大な病気」が発見された古義人の妻千樫の依頼で、千樫に付き添うために上京する。アサと入れ替わるかたちで、古義人とアカリが四国の「森の家」に行くことになる。ここで重要なのは、アサが古義人を「元気づけるためのプラン」として、古義人の話し相手として「大黄さん」をさしむけたことである。

 「大黄さん」については前回「大黄さんに関する備忘録」でもふれたが、もう少し補足してみたい。本文中アサの言葉として、大黄さんとは「本来は黄さんだったのに子供としては柄が大きいので大黄さん、孤児の引揚者として作られた戸籍の名は大黄一郎、、それが気の毒だとお母さんが採集する、薬草の大黄が村での呼び名がギシギシなので、そういうておった人」と定義されている。この定義は以前『取り替え子』でも述べられていたが、何だかおかしくないだろうか。「大黄さん」より「ギシギシ」のほうが名前として「気の毒」でないか?どうでもいいことなのかもしれないが、やはり腑に落ちないのである。「ギシギシ」__「技師」「義士」あるいは「義子」__これこそ「空想」でなくて「妄想」なのだろうが。妄想ついでに「大黄さん」は「大王さん」?

 大黄さんと古義人の対話の主題はずばり「王殺し」である。古義人は「赤革のトランク」に残されていたフレイザーの『金枝篇』の講釈をする。『金枝篇』は「高知の先生」が古義人の父に貸したものだという。「高知の先生」は『金枝篇』のうち「王殺し」に関する三巻を古義人の父に貸して、政治教育をしたのである。共同体の豊饒と繁栄を失わないために、衰えの見え始めた王は倒され、倒した者が新たな王になる、という原始社会のセオリーを、古義人は「人間神を殺す」という言葉で語る。

 これに対して大黄さんは事実に即して古義人の父と古義人の行動を語る。大黄さんは、すべてを「見て」いたのだ。古義人の父が、取り巻きの将校たちの誰よりも「高知の先生」に傾倒し、本気で蹶起を考えていたこと、だが、谷間の「鞘」をそのために利用し、冒すことは断固として拒絶したこと、そして、大水の夜たった一人で転覆必至の舟で漕ぎ出していったこと、古義人は置き去りにされたこと、古義人の父の遺体を水底で発見したのも大黄さんだった。アサにみちびかれて古義人は大黄さんと向き合い、そうすることで事実と直面せざるを得なかったのである。

 アサはこの後、反・時代精神の女優ウナイコの『メイスケ母出陣』の演劇化をすすめる活動に協力して、古義人も巻き込む。『メイスケ母出陣』は『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の国際的女優サクラさんが制作、主演した映画だが、日本で公開されることはなかった。『メイスケ母出陣』の演劇化は成功するが、思いがけない(あるいは当然の)事件が起こり、事態は一挙に破局に向かう。ここでも、アサの行動は非常に重要なポイントとなる。そのことについては、古義人の状況も含めて、もう少し詳しく見ていきたいが、長くなるので、また回を改めたい。

 ここまでくるのに悪戦苦闘の連続でした。未整理な乱文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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