2012年2月28日火曜日

「エズミに捧ぐ」その2___テキストへの信頼性とリアリティ

リアリティとは何か、ということを考えている。私たちが文学作品を読むとき、少なくともそのテキストに書かれていることは、一貫する真実である、という無意識の前提で読んでいる。語りが一人称であれ、三人称であれ、作品の中では「真実」__「事実」ではない__が語られていると信じて最後まで読むのだ。「エズミに捧ぐ」を読んでいて、ある不快ともいうべき違和感をどうしてもぬぐえないのは、その前提が揺らぐからだ。そして、その前提の揺らぎは、サリンジャー自身がそう仕向けたものなのだ。サリンジャーはルール違反ぎりぎりのことをやっている。

 語り手の「私」がこれは回想記ですとことわって始まった小説は、その直後「一九四四年四月」と日時を特定したうえでストーリーを展開する。主人公の「私」は史上最大の上陸作戦といわれた「ノルマンディー作戦」に備えた諜報活動のためにデヴォンシアにいる。この作戦がいかに厳しいものだったかは記録が示す通りである。作戦準備のための演習ですでに七百名以上の死者をだしたともいわれている。訓練の最終日に「私」は激しい雷雨の中「引金を引く指がむずむずするような思いとはおよそ離れた気持ち」で外出する。雷に打たれるのも弾丸に撃たれるのも、どちらも「こちらでどうにかできることではないのだから」という思いで。ここまでは、「この小説」の語り手、そしてサリンジャーが文字に定着させたリアリティーを疑わせるものは何ひとつない。異常を日常として生きる人間の孤独な姿が浮かび上がってくる。

 場面はその後「町の中心部__町の中でもおそらく、ここが一番ひどい雨に見舞われているらしかった」教会の中に移る。そこで子供たちが練習している聖歌の響きに「私」は感動する。中でも、際立った声でみんなをリードしている「少女に「私」は目をとめる。その少女が、弟と家庭教師らしき婦人とともに、一足先に教会を出た「私」が立ち寄った喫茶店に入ってきて、「私」と言葉をかわす。リアリティはこのあたりから微妙にゆらぎだすのだ。

  喫茶店の中での三人の会話にも行動にも不自然なところはない。あどけないがやんちゃなチャールズと、彼をたしなめながら、自分たちの身の上を「私」に語るエズミ、少し緊張しながらも彼女の言葉にこたえる「私」のやり取りが一人称で書かれる。ここで少し違和感を覚えるのは、エズミとチャールズの言葉が直接話法で書かれるのに、「私」の言葉は短い応答の言葉がいくつか直接話法で書かれるが、ほとんどが間接話法で記されていることだ。「私」は用心深く背景に退いて、小さな貴婦人のエズミと小さな暴君のチャールズの姿が鮮明に浮かび上がってくる。キャンベル・タータンの服を着て、雨に濡れた美しい金髪をしきりに気にしながら、大人びた言葉づかいで「私」と会話するエズミと、「「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか」という謎謎を繰り返してエズミと「私」の会話に割り込んでくるチャールズの様子は具体的すぎるくらい具体的に語られる。いま目の前に二人がいるような気分になるほど、生き生きとした描写が続く。

 リアリティがゆらぎだすのは、自己紹介を終えたエズミが、「わたしのために」「愛と汚辱の短編」を書いてほしいと頼むあたりからだ。「十三歳くらい」の少女エズミがなぜ「わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」と言うのか。そしてなぜ「お身体の機能がそっくりそのままでご帰還なさいますように」と、ある種不気味な言葉を別れの挨拶にしたのか。やんちゃなチャールズは帰り際なぜ「片方の肢がもう一方のより数インチも短い人みたいに、ひどいびっこを引きながら歩いてゆく」と描写されるのか。エズミとは何ものなのか?チャールズとは?また、「私」の前歯に真っ黒な詰め物がしてある、という記述が繰り返されるのも異様である。

 小説の後半は「私の口から明らかにすることは許されない理由によって」三人称で記述される。だが、語り手は「私」で「私」が三人称で書いている、と読者は無意識のうちに前提している。たしかにそのはずである。そして、誰もがX曹長は「私」である、と信じる。Z伍長はクレーと呼ばれる男で、クレーにはロレッタという心理学に詳しい妻とその母親がいる、と理解する。それ以外に考えられない。だが、小説の冒頭、「私」が結婚式に出られない理由として「家内の義母が、四月の最後の二週間をうちに来て、われわれのところで過ごすのを楽しみにしている」という文章があったのは偶然なのだろうか。それから「アルヴィン」という犬は何のために登場したのか。そもそも本当に犬はいたのだろうか。

 小説の読者は、作品の中で書かれている事柄は、作品中では「真実」である、と信じられるから読み進むことができる。信じることができるから「リアリティ」が存在するのであって、「リアリティ」があるから信じられるのではない。だが、「エズミに捧ぐ」と言う小説は、敢えてリアリティをゆるがすような構成で書かれてる。エズミと「私」の出会い、X曹長とクレーのやりとり、それらは一見いかにもリアルな、一方は「愛」に一方は「汚辱」にかかわるエピソードのようでありながら、実はその細部に複雑な罠が仕掛けられた「短編」の一部なのだ。前回は「語り手は誰か」という問題提起をしたのだが、今回はもうひとつの疑問を提出してとりあえずのまとめとしたい。それは、「この小説」は「何時」書かれたのか。そして「どこで」書かれたのか、という疑問である。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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