2013年8月12日月曜日

「うまざけ 三輪の山」続折口学再考___信仰_呪術の根底にあるもの

 前回に続いて、額田王の作品を取り上げてみたい。額田王は鏡王の娘ではじめ大海人皇子に娶され、後に姉鏡女王とともに中大兄皇子(天智天皇)に娶された。以下は天智天皇作とも伝えられる有名な長、反歌である。

「うまざけ 三輪の山。
あをによし 奈良の山の、
 山の際にい隠るまで、
 道の隈い積るまでに、
  つばらにも見つつ行かむを。
  しばしばも見放けむ山を。
心なく 雲の 隠さふべしや」 萬葉集巻一・一七

   反歌
「三輪山を 然も隠すか。 雲だにも心あらなも。
隠さふべしや」 萬葉集巻一・十八

 六六七年天智天皇は近江の大津京に遷都する。「近江の国に下る時」という題詞から遷都以前に詠まれたものかと考えられる。通りすぎてゆく三輪山をいつまでも見たいのに、雲が立ち込めてこれを阻んでいるので、そうしないでくれ、と訴えかけている歌である。多くの解説がこの歌に三輪山への惜別の情を読み取っている。それで間違いはないと思うのだが、もう少し具体的な情景をイメージして考えてみたい。

 三輪山は山そのものが「御神体」として崇められる古来有名な山だが、標高は海抜467メートルである。山腹に雲が湧き立つような高さの山ではないように思う。同じことは大和三山のつま争いで有名な香具山、畝傍、耳成にもいえるのだが、いったいヤマトからナラにかけては「海山のあひだ」である日本列島では珍しくこじんまりとした平野なのだ。それでも、雨が急速に上がって気温変化が著しい場合は山全体を雲、というより霧がたちこめて隠すこともあるかもしれない。だが、この歌は国境の奈良山(これも海抜100メートル級の低丘陵である)まで道行を進めてきた時点で詠まれているので、そのような気候の変化があったとは考えにくい。とすれば、「雲が隠してしまうので、三輪山が見えない」というのは事実なのだろうか。

 事実として確実なのは、一行は三輪山を見ないで、国越えをしつつある、ということだと思われる。「雲だにも心あらなも」は「せめて雲だけでも情けがあってほしい」の意だが、「せめて雲だけでも」というのは雲以外に「心なき」ものがあって三輪山を隠していることになる。この歌の作者はそれには触れないまま、「せめて雲だけでも」と哀願しているのだ。

 「うまざけ 三輪の山」から「しばしばも見放けむを」までは、中国の四六駢儷体を意識したかのように、結句「心なく 雲の 隠さふべしや」を導くための対句を重ねているが、それだけのことで特に個性的な表現ではない。人麻呂の長歌もより多くの修辞を連ねるが同じ構成である。要は、ことばを連ねることで通り過ぎる三輪山を宥めようとしているのだ。折口は『口譯萬葉集』で「故京に對する執著が、唯一抹の三輪山の、遠山眉に集中してゐる。山について思ふ所の淺い今人の、感情との相違を見る必要がある」と解説している。だが「故京に對する執著」というより、もう一歩すすめ「故京に対する畏怖」といってよいのではないか。そしてそれは、たんに「信仰」の次元というよりももっと具体的な「畏怖しなければならない勢力」への配慮だったのではないか。


 額田王は斉明天皇から持統天皇の時代にいたるまでの間に歌を残している。その多くが天皇ないし高貴な身分の人の代作であると思われる。この長、反歌も天智天皇(この時点ではまだ即位していないと思われるので中大兄皇子)に代わって天智の宮廷のために詠んだものだろう。天智の宮廷が詞を尽くして慰撫しなければならない勢力が三輪山周辺にあったこと、まずそれを念頭においてこの長、反歌を考えるべきである。

 天智の断行した近江遷都は六七一年天智が崩じると翌六七二年壬申の乱によって陥落してしまう。今度は近江が「故京」となって、次の代の歌人たちの懐古の対象になるのだが、それについてはまた回をあらためて考えてみたい。

 いまだ整理のつかない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。












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