2013年8月10日土曜日

「熟田津に 船のりせむと」折口学再考____信仰という名の思考停止を超えて

 前回取り上げたレイモンド・チャンドラーとともに、若い日の私を虜にしたもう一人の男折口信夫について読み直さなければならない、と考えている。と言っても、折口は文学、宗教その他あらゆるジャンルにわたる巨人だ。これは折口批判などいうだいそれたものではなく、あくまで私の個人的な読み直しである。だが、どうしても、いま、しなければならに読み直しなのだ。

 学校の図書館ではじめて折口の著作に触れたとき、そこにあったのは難しくて読めない漢字と容易に意味の読み取れない文脈の連続だった。ほとんど理解できないまま、だが行間から立ち昇る妖気に惹かれて、次々と全集を読みあさった。折口学のよき紹介者となった弟子の池田弥三郎、山本健吉両氏による『萬葉百歌』が理解の手がかりを示してくれたことも大きい。文学を理解、鑑賞するためには、まずその発生の場に立ち帰らなければならない。可能な限り発生時の民衆の生活の場に立つこと、その方法論であり、又その集大成が折口民俗学である、という理解は間違っていないと思う。

 問題は、その民俗学が「信仰」という名の宗教の次元に入り込むことだ。乱暴な言い方をすれば、折口においては、「民俗」=「宗教」である。もちろんそれは、仏教、キリスト教、イスラム教などの教義、教団が確立されたものではない。民衆が生きていくために必要な生活の規定、法と分かち難いものであり、またそれが儀式化したものである。それ故に、折口学=民俗学=宗教学は文学の理解の原点なのだが、文学の理解に不可欠なものがもう一つある。それは文学の発生とその文字化=文献化は権力が関わらなければできない、ということだ。そして民衆と権力(者)の生活において、「信仰」という名で呼ばれる事柄の内容には微妙な、だが確実な違いがある。

 例をあげて考えてみたい。
「熟田津に、船乗りせむと 月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」萬葉集巻一・八
作者は斉明天皇とも額田王ともいわれる。おそらく額田王が斉明天皇に代わって詠んだものであろう。前記『萬葉百歌』には、「斉明七年(六六一年)正月、百済救援のため、西征の軍を発し、十四日に伊予の熟田津の石湯の行宮に着いた。ここに滞在中、女帝が船を水に浮かべて、禊の行事をやられた」とある。事情はおそらくその通りで、史実に即しているものと思われる。船上の「禊」とはどんなことをするのか、浅学菲才の私は具体的にはわからないのだが、船を乗りだすことそのものが「禊」であったのかもしれない。この場において、「信仰」=「宗教」は儀式であり、国家の命運を決める一大行事なのである。

 だから結句「今は漕ぎ出でな」に対して「この軍旅には、斉明女帝・大田皇女をはじめ、婦人の同行者が多かった。厳粛な祭事ではあるが、楽しい祭事でもあり、その華やかさや楽しさへのあふれるような期待が、「今は漕ぎ出でな」の結句字余りに現れていよう」という『萬葉百歌』の山本健吉氏の解釈には首を傾げざるを得ない。「婦人の同行者が多かった」のは本邦になんらかの重大な異変があって、大和に残るのが危険と思われたのではないか。何より、山本氏もいうように「軍旅」なのである。「潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」の間合いに、切迫した呼吸を読み取るべきではないか。この後女帝は七月筑紫朝倉行宮に崩じ、日本水軍は六六三年白村江の戦いで唐水軍に敗れるのである。

 折口学と信仰について、もう少し例をあげて考えたいと思っているが、長くなるので、また回をあらためたい。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。




0 件のコメント:

コメントを投稿