わずか五年で廃都となった近江京は、その後多くの歌人たちの懐古の対象となって詠みつがれていく。ここではもっとも早く懐古、鎮魂の歌を詠んだ人麻呂の作品を取り上げてみたい。
「玉だすき畝傍の山の、橿原の聖の御代ゆ、
あれましゝ神のことごと、栂の木のいやつぎつぎに、天の下知ろしめしゝを、
空見つ大和をおきて、青丹によし奈良山を越え、
いかさまに思ほしけめか、
あまさかる鄙にはあれど、いはゞしる近江国の、漣の大津の宮に、天の下知ろしけむ、
皇祖の神の尊の大宮は、こゝと聞けども、大殿はこゝといへども、
春草の茂く生ひたる、霞立つ春日のきれる、もゝしきの大宮どころ、見れば悲しも」
萬葉集巻一・二十九
反歌
「漣の滋賀の辛埼さきくあれど、大宮人の船待ちかねつ」 萬葉集巻一・三十
「漣の滋賀の大曲淀むとも、昔の人に復も逢はめやも」 萬葉集巻一・三十一
長歌「あれましゝ神のことごと」の解釈がいまひとつ落ち着かないのだが、要するに、継続して都があった大和を捨てて、辺鄙な場所に近江京を造ったのに、今はそのあとかたもなく荒廃し、自然にもどってしまったことを嘆いた歌である。
「玉だすき→畝傍」「栂の木の→いやつぎつぎに」「空見つ→大和」「青丹よし→奈良山」「いはゞしる→近江」「漣の→大津」「もゝしきの→大宮どころ」と、必ず枕詞をおいて地名を詠みこんでいるのは、たんなる修辞ではなく、呪術といってよい絶対の決まりごとだからだろう。折口はそれを「信仰」と呼ぶが、私にはもっと具体的なものへの畏怖の気持ちがそうさせるのだと思う。人麻呂はこの長、反歌を遷都という行為に対して中立の立場で詠んでいるように見えるが、実は違うのではないか。「いかさまに思ほしけめか」と懐疑の念をあらわにしているのである。
反歌二首いずれも変わらぬ自然と激変した人事を対照して詠んでいる。
「大宮人の船待ちかねつ」折口はこの部分を「いくら待っても宮仕への官人衆の船が出て来ない。船を待ちをふせることが出来ないでいる」と口語譯をつけている。それで譯としてはよくわかるのだが、「船で宮仕へ」をするというのがいま一つわからない。人麻呂とほぼ同時代の黒人も
「旅にしてもの恋しきに、やましたの 朱のそほ船 沖に榜ぐ見ゆ」
など官船、及びその船旅を詠む歌をいくつも残していることから、現代の私たちが想像する以上に、この時代すでに水上交通が発達していたのかもしれない。ともかくも人麻呂のこの歌は湖上に船の姿が現れることがまったく期待できないことを嘆きつつ確認しているのだ。そしてさらに次の歌で「昔の人に復も逢はめやも」と念を押す。官人はもう誰もいないのだ、と。
長、反歌あいまって、「(自然にもどってしまった)御所の跡を見ると悲しみにくれる」「船を待っても、来ない」「昔の人に(逢いたいのだが)逢えない」と悲傷、懐古の情が過不足なく詠みこまれている。だが、それは人麻呂個人の感慨を詠んだものというよりは、天武、持統両朝に仕えた宮廷歌人の作品として、廃都となった近江朝及びその建設にかかわった人々への鎮魂、慰撫を目的とするものであろう。さらにいえば、このように悲傷、懐古の姿勢を見せることで、「これほどまでも(廃都となった近江朝を)しのんでいるのだから、決して祟らないでくれ」と呼びかけているのだ。その対象はすでにこの世の人でなくなった天智天皇、大友皇子だけでなく、今も生きている近江朝にかかわった人々を含むのだと思われる。近江朝が滅んで千年もたってからこの歌が詠まれたのではない。
萬葉集はこの歌の次に高市黒人の短歌二首を記載する。
「いにしへの人に 吾あれや。ささなみの故き京を見れば、悲しき」萬葉集巻一・三二
「ささなみの 国つ御神の うらさびて、荒れたる都見れば、悲しも」萬葉集巻一・三三
人麻呂の長、反歌とくらべれば、歌がずっと個人的な感慨に近くなってきていることがわかるだろう。鎮魂のくびきは残っていても、「いにしへの人に 吾あれや」という自省のことばがまず発せられるのだ。ここからは
「古き都に来てみれば 浅茅が原とぞなりにける 月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ」(梁塵秘抄)から「辛崎の 松は花より朧にて」(芭蕉)まですぐのように思われるのだが、いまは歌謡史をたどることは控えて、黒人と人麻呂の歌柄の違いを指摘するにとどめたい。二人の歌人の間にさほどの年代の差があるとは思えない。歌が詠まれる場が異なっているのだと思われる。
最後に、今回のブログの趣旨と少しずれるのだが、人麻呂の近江旧都を詠んだ歌をもう一首あげておこう。これは短歌だけで独立して萬葉集に記載された歌である。
「近江の湖、夕波千鳥、汝が鳴けば、心もしのに いにしへ思ほゆ」 萬葉集巻三・二六六
鎮魂、呪術といった実用を突き抜けた一直線の慟哭である。やはり天才というべきなのだろう。
どうしても素材として作品を取り上げることに徹することが出来ず、鑑賞に傾きがちになってしまいました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年8月16日金曜日
2013年8月12日月曜日
「うまざけ 三輪の山」続折口学再考___信仰_呪術の根底にあるもの
前回に続いて、額田王の作品を取り上げてみたい。額田王は鏡王の娘ではじめ大海人皇子に娶され、後に姉鏡女王とともに中大兄皇子(天智天皇)に娶された。以下は天智天皇作とも伝えられる有名な長、反歌である。
「うまざけ 三輪の山。
あをによし 奈良の山の、
山の際にい隠るまで、
道の隈い積るまでに、
つばらにも見つつ行かむを。
しばしばも見放けむ山を。
心なく 雲の 隠さふべしや」 萬葉集巻一・一七
反歌
「三輪山を 然も隠すか。 雲だにも心あらなも。
隠さふべしや」 萬葉集巻一・十八
六六七年天智天皇は近江の大津京に遷都する。「近江の国に下る時」という題詞から遷都以前に詠まれたものかと考えられる。通りすぎてゆく三輪山をいつまでも見たいのに、雲が立ち込めてこれを阻んでいるので、そうしないでくれ、と訴えかけている歌である。多くの解説がこの歌に三輪山への惜別の情を読み取っている。それで間違いはないと思うのだが、もう少し具体的な情景をイメージして考えてみたい。
三輪山は山そのものが「御神体」として崇められる古来有名な山だが、標高は海抜467メートルである。山腹に雲が湧き立つような高さの山ではないように思う。同じことは大和三山のつま争いで有名な香具山、畝傍、耳成にもいえるのだが、いったいヤマトからナラにかけては「海山のあひだ」である日本列島では珍しくこじんまりとした平野なのだ。それでも、雨が急速に上がって気温変化が著しい場合は山全体を雲、というより霧がたちこめて隠すこともあるかもしれない。だが、この歌は国境の奈良山(これも海抜100メートル級の低丘陵である)まで道行を進めてきた時点で詠まれているので、そのような気候の変化があったとは考えにくい。とすれば、「雲が隠してしまうので、三輪山が見えない」というのは事実なのだろうか。
事実として確実なのは、一行は三輪山を見ないで、国越えをしつつある、ということだと思われる。「雲だにも心あらなも」は「せめて雲だけでも情けがあってほしい」の意だが、「せめて雲だけでも」というのは雲以外に「心なき」ものがあって三輪山を隠していることになる。この歌の作者はそれには触れないまま、「せめて雲だけでも」と哀願しているのだ。
「うまざけ 三輪の山」から「しばしばも見放けむを」までは、中国の四六駢儷体を意識したかのように、結句「心なく 雲の 隠さふべしや」を導くための対句を重ねているが、それだけのことで特に個性的な表現ではない。人麻呂の長歌もより多くの修辞を連ねるが同じ構成である。要は、ことばを連ねることで通り過ぎる三輪山を宥めようとしているのだ。折口は『口譯萬葉集』で「故京に對する執著が、唯一抹の三輪山の、遠山眉に集中してゐる。山について思ふ所の淺い今人の、感情との相違を見る必要がある」と解説している。だが「故京に對する執著」というより、もう一歩すすめ「故京に対する畏怖」といってよいのではないか。そしてそれは、たんに「信仰」の次元というよりももっと具体的な「畏怖しなければならない勢力」への配慮だったのではないか。
額田王は斉明天皇から持統天皇の時代にいたるまでの間に歌を残している。その多くが天皇ないし高貴な身分の人の代作であると思われる。この長、反歌も天智天皇(この時点ではまだ即位していないと思われるので中大兄皇子)に代わって天智の宮廷のために詠んだものだろう。天智の宮廷が詞を尽くして慰撫しなければならない勢力が三輪山周辺にあったこと、まずそれを念頭においてこの長、反歌を考えるべきである。
天智の断行した近江遷都は六七一年天智が崩じると翌六七二年壬申の乱によって陥落してしまう。今度は近江が「故京」となって、次の代の歌人たちの懐古の対象になるのだが、それについてはまた回をあらためて考えてみたい。
いまだ整理のつかない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「うまざけ 三輪の山。
あをによし 奈良の山の、
山の際にい隠るまで、
道の隈い積るまでに、
つばらにも見つつ行かむを。
しばしばも見放けむ山を。
心なく 雲の 隠さふべしや」 萬葉集巻一・一七
反歌
「三輪山を 然も隠すか。 雲だにも心あらなも。
隠さふべしや」 萬葉集巻一・十八
六六七年天智天皇は近江の大津京に遷都する。「近江の国に下る時」という題詞から遷都以前に詠まれたものかと考えられる。通りすぎてゆく三輪山をいつまでも見たいのに、雲が立ち込めてこれを阻んでいるので、そうしないでくれ、と訴えかけている歌である。多くの解説がこの歌に三輪山への惜別の情を読み取っている。それで間違いはないと思うのだが、もう少し具体的な情景をイメージして考えてみたい。
三輪山は山そのものが「御神体」として崇められる古来有名な山だが、標高は海抜467メートルである。山腹に雲が湧き立つような高さの山ではないように思う。同じことは大和三山のつま争いで有名な香具山、畝傍、耳成にもいえるのだが、いったいヤマトからナラにかけては「海山のあひだ」である日本列島では珍しくこじんまりとした平野なのだ。それでも、雨が急速に上がって気温変化が著しい場合は山全体を雲、というより霧がたちこめて隠すこともあるかもしれない。だが、この歌は国境の奈良山(これも海抜100メートル級の低丘陵である)まで道行を進めてきた時点で詠まれているので、そのような気候の変化があったとは考えにくい。とすれば、「雲が隠してしまうので、三輪山が見えない」というのは事実なのだろうか。
事実として確実なのは、一行は三輪山を見ないで、国越えをしつつある、ということだと思われる。「雲だにも心あらなも」は「せめて雲だけでも情けがあってほしい」の意だが、「せめて雲だけでも」というのは雲以外に「心なき」ものがあって三輪山を隠していることになる。この歌の作者はそれには触れないまま、「せめて雲だけでも」と哀願しているのだ。
「うまざけ 三輪の山」から「しばしばも見放けむを」までは、中国の四六駢儷体を意識したかのように、結句「心なく 雲の 隠さふべしや」を導くための対句を重ねているが、それだけのことで特に個性的な表現ではない。人麻呂の長歌もより多くの修辞を連ねるが同じ構成である。要は、ことばを連ねることで通り過ぎる三輪山を宥めようとしているのだ。折口は『口譯萬葉集』で「故京に對する執著が、唯一抹の三輪山の、遠山眉に集中してゐる。山について思ふ所の淺い今人の、感情との相違を見る必要がある」と解説している。だが「故京に對する執著」というより、もう一歩すすめ「故京に対する畏怖」といってよいのではないか。そしてそれは、たんに「信仰」の次元というよりももっと具体的な「畏怖しなければならない勢力」への配慮だったのではないか。
額田王は斉明天皇から持統天皇の時代にいたるまでの間に歌を残している。その多くが天皇ないし高貴な身分の人の代作であると思われる。この長、反歌も天智天皇(この時点ではまだ即位していないと思われるので中大兄皇子)に代わって天智の宮廷のために詠んだものだろう。天智の宮廷が詞を尽くして慰撫しなければならない勢力が三輪山周辺にあったこと、まずそれを念頭においてこの長、反歌を考えるべきである。
天智の断行した近江遷都は六七一年天智が崩じると翌六七二年壬申の乱によって陥落してしまう。今度は近江が「故京」となって、次の代の歌人たちの懐古の対象になるのだが、それについてはまた回をあらためて考えてみたい。
いまだ整理のつかない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年8月10日土曜日
「熟田津に 船のりせむと」折口学再考____信仰という名の思考停止を超えて
前回取り上げたレイモンド・チャンドラーとともに、若い日の私を虜にしたもう一人の男折口信夫について読み直さなければならない、と考えている。と言っても、折口は文学、宗教その他あらゆるジャンルにわたる巨人だ。これは折口批判などいうだいそれたものではなく、あくまで私の個人的な読み直しである。だが、どうしても、いま、しなければならに読み直しなのだ。
学校の図書館ではじめて折口の著作に触れたとき、そこにあったのは難しくて読めない漢字と容易に意味の読み取れない文脈の連続だった。ほとんど理解できないまま、だが行間から立ち昇る妖気に惹かれて、次々と全集を読みあさった。折口学のよき紹介者となった弟子の池田弥三郎、山本健吉両氏による『萬葉百歌』が理解の手がかりを示してくれたことも大きい。文学を理解、鑑賞するためには、まずその発生の場に立ち帰らなければならない。可能な限り発生時の民衆の生活の場に立つこと、その方法論であり、又その集大成が折口民俗学である、という理解は間違っていないと思う。
問題は、その民俗学が「信仰」という名の宗教の次元に入り込むことだ。乱暴な言い方をすれば、折口においては、「民俗」=「宗教」である。もちろんそれは、仏教、キリスト教、イスラム教などの教義、教団が確立されたものではない。民衆が生きていくために必要な生活の規定、法と分かち難いものであり、またそれが儀式化したものである。それ故に、折口学=民俗学=宗教学は文学の理解の原点なのだが、文学の理解に不可欠なものがもう一つある。それは文学の発生とその文字化=文献化は権力が関わらなければできない、ということだ。そして民衆と権力(者)の生活において、「信仰」という名で呼ばれる事柄の内容には微妙な、だが確実な違いがある。
例をあげて考えてみたい。
「熟田津に、船乗りせむと 月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」萬葉集巻一・八
作者は斉明天皇とも額田王ともいわれる。おそらく額田王が斉明天皇に代わって詠んだものであろう。前記『萬葉百歌』には、「斉明七年(六六一年)正月、百済救援のため、西征の軍を発し、十四日に伊予の熟田津の石湯の行宮に着いた。ここに滞在中、女帝が船を水に浮かべて、禊の行事をやられた」とある。事情はおそらくその通りで、史実に即しているものと思われる。船上の「禊」とはどんなことをするのか、浅学菲才の私は具体的にはわからないのだが、船を乗りだすことそのものが「禊」であったのかもしれない。この場において、「信仰」=「宗教」は儀式であり、国家の命運を決める一大行事なのである。
だから結句「今は漕ぎ出でな」に対して「この軍旅には、斉明女帝・大田皇女をはじめ、婦人の同行者が多かった。厳粛な祭事ではあるが、楽しい祭事でもあり、その華やかさや楽しさへのあふれるような期待が、「今は漕ぎ出でな」の結句字余りに現れていよう」という『萬葉百歌』の山本健吉氏の解釈には首を傾げざるを得ない。「婦人の同行者が多かった」のは本邦になんらかの重大な異変があって、大和に残るのが危険と思われたのではないか。何より、山本氏もいうように「軍旅」なのである。「潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」の間合いに、切迫した呼吸を読み取るべきではないか。この後女帝は七月筑紫朝倉行宮に崩じ、日本水軍は六六三年白村江の戦いで唐水軍に敗れるのである。
折口学と信仰について、もう少し例をあげて考えたいと思っているが、長くなるので、また回をあらためたい。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
学校の図書館ではじめて折口の著作に触れたとき、そこにあったのは難しくて読めない漢字と容易に意味の読み取れない文脈の連続だった。ほとんど理解できないまま、だが行間から立ち昇る妖気に惹かれて、次々と全集を読みあさった。折口学のよき紹介者となった弟子の池田弥三郎、山本健吉両氏による『萬葉百歌』が理解の手がかりを示してくれたことも大きい。文学を理解、鑑賞するためには、まずその発生の場に立ち帰らなければならない。可能な限り発生時の民衆の生活の場に立つこと、その方法論であり、又その集大成が折口民俗学である、という理解は間違っていないと思う。
問題は、その民俗学が「信仰」という名の宗教の次元に入り込むことだ。乱暴な言い方をすれば、折口においては、「民俗」=「宗教」である。もちろんそれは、仏教、キリスト教、イスラム教などの教義、教団が確立されたものではない。民衆が生きていくために必要な生活の規定、法と分かち難いものであり、またそれが儀式化したものである。それ故に、折口学=民俗学=宗教学は文学の理解の原点なのだが、文学の理解に不可欠なものがもう一つある。それは文学の発生とその文字化=文献化は権力が関わらなければできない、ということだ。そして民衆と権力(者)の生活において、「信仰」という名で呼ばれる事柄の内容には微妙な、だが確実な違いがある。
例をあげて考えてみたい。
「熟田津に、船乗りせむと 月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」萬葉集巻一・八
作者は斉明天皇とも額田王ともいわれる。おそらく額田王が斉明天皇に代わって詠んだものであろう。前記『萬葉百歌』には、「斉明七年(六六一年)正月、百済救援のため、西征の軍を発し、十四日に伊予の熟田津の石湯の行宮に着いた。ここに滞在中、女帝が船を水に浮かべて、禊の行事をやられた」とある。事情はおそらくその通りで、史実に即しているものと思われる。船上の「禊」とはどんなことをするのか、浅学菲才の私は具体的にはわからないのだが、船を乗りだすことそのものが「禊」であったのかもしれない。この場において、「信仰」=「宗教」は儀式であり、国家の命運を決める一大行事なのである。
だから結句「今は漕ぎ出でな」に対して「この軍旅には、斉明女帝・大田皇女をはじめ、婦人の同行者が多かった。厳粛な祭事ではあるが、楽しい祭事でもあり、その華やかさや楽しさへのあふれるような期待が、「今は漕ぎ出でな」の結句字余りに現れていよう」という『萬葉百歌』の山本健吉氏の解釈には首を傾げざるを得ない。「婦人の同行者が多かった」のは本邦になんらかの重大な異変があって、大和に残るのが危険と思われたのではないか。何より、山本氏もいうように「軍旅」なのである。「潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」の間合いに、切迫した呼吸を読み取るべきではないか。この後女帝は七月筑紫朝倉行宮に崩じ、日本水軍は六六三年白村江の戦いで唐水軍に敗れるのである。
折口学と信仰について、もう少し例をあげて考えたいと思っているが、長くなるので、また回をあらためたい。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年8月9日金曜日
「ソルト・レーク・シティの孤児院で育った」___『長いお別れ』再考
『同時代ゲーム』の読みに難渋しております。SFあるいはファンタジー、さらには網野民俗学とも絡めて読みたくはない天邪鬼な私は、めくらめっぽう資料をあさるうちに、作品とはほとんど無関係かもしれない事実を発見することが多々ありました。それに導かれて、いままで気がつかなかった事が重要な意味を持つのではないか、と思うようになりました。その一つが、以前ブログの開設まもなくとりあげたレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』に登場するテリー・レノックスの「ぼくはソルト・レーク・シティの孤児院で育った」という言葉のもつ意味です。
高級クラブの駐車場で正体をなくすほど飲んだくれていたテリー・レノックスを自宅に連れて行って介抱した探偵マーロウは、再びぼろくずのようになった彼が留置場にほおり込まれるのを救う。そして三度目にマーロウの前に現れたとき、彼は一度離婚した億万長者の娘シルヴィアと再び結婚していており、もはや酔いつぶれるような人間には見えなかった。テリーとシルヴィアの結婚生活に疑問をもつマーロウに、彼は「なぜ彼女がぼくをそばにおきたがっているかを考えるべきだ。ぼくが繻子のクッションにすわって頭をなでられるのを辛抱づよく待っている理由なんか考えないでいいよ」と言う。「君は繻子のクッションが好きなんだろう」と言うマーロウにテリーはこう答える。「そうかもしれない。ぼくはソルト・レーク・シティ・の孤児院で育った」
チャンドラーの読書暦?十年、いままで「ソルト・レーク・シティの孤児院」という言葉はたんに「親のいない、したがって貧しい子の生活する場所」の意味でしか理解してこなかった。それは間違ってはいないが、事柄の半分しかとらえていなかったのだ。「ソルト・レーク・シティ」という記号はより複雑で多義的な意味をもつ。ソルト・レーク・シティは末日聖徒キリスト教会(モルモン教会)がユタ州の荒地に開拓した都市で州の金融、経済の中心地なのである。だが、もっとも重要なのは末日聖徒キリスト教会が長く一夫多妻の生活を送ってきたと言う事実だ。「ぼくはソルト・レーク・シティの孤児院で育った」というテリーの言葉の背後にある状況に注意を喚起しなければならない。一般的なな日本人からみればかなり特殊な共同体の中で、どういう子供が「孤児院で」育たなければならなかったのか。そしてそれは、テリー・レノックスの一生にどんな意味をもつのか。
だが、今はこれ以上の分析はしたくない。テリー・レノックスについても、作品そのものについても。ことばにするにはもう少し時間が必要な気がする。ただ、最後マーロウに「君はぼくを買ったんだよ、テリー。なんともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときのなにげない動作やしずかなバーで飲んだ何杯かの酒で買ったんだ」「まるで五十ドルの淫売みたいにエレガントだぜ」といわれるテリーの悲劇はこの世に生きるだれにとっても無関係な出来事ではないことを言っておきたい。テリー・レノックスは若い日の純粋な愛をつらぬけなかった。それを阻んだのは戦争だった。そして年を経て、抜け殻となった愛を償うために犯罪に加担する結果となってしまう。もし、その愛がそれほど激しく純粋でなかったなら、もし戦争が愛を阻むことがなかったら、そして、もし彼が抜け殻となった愛を償おうとしなかったなら、悲劇は起こらなかった。
ほんとうはもう少し突っ込んだ分析を書きたかったのですが、何だかことばにしたくなくなってきました。今の段階でことばにしてしまうと、この作品の印象を薄っぺらなものにしてしまうような気がします。文学作品は精神分析や社会学的考察の素材ではないので、この小説の馥郁とした香りと奥の深さを伝えながらものが言えるまで、もう少し研鑽を重ねたいと思っています。
今日も拙い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
高級クラブの駐車場で正体をなくすほど飲んだくれていたテリー・レノックスを自宅に連れて行って介抱した探偵マーロウは、再びぼろくずのようになった彼が留置場にほおり込まれるのを救う。そして三度目にマーロウの前に現れたとき、彼は一度離婚した億万長者の娘シルヴィアと再び結婚していており、もはや酔いつぶれるような人間には見えなかった。テリーとシルヴィアの結婚生活に疑問をもつマーロウに、彼は「なぜ彼女がぼくをそばにおきたがっているかを考えるべきだ。ぼくが繻子のクッションにすわって頭をなでられるのを辛抱づよく待っている理由なんか考えないでいいよ」と言う。「君は繻子のクッションが好きなんだろう」と言うマーロウにテリーはこう答える。「そうかもしれない。ぼくはソルト・レーク・シティ・の孤児院で育った」
チャンドラーの読書暦?十年、いままで「ソルト・レーク・シティの孤児院」という言葉はたんに「親のいない、したがって貧しい子の生活する場所」の意味でしか理解してこなかった。それは間違ってはいないが、事柄の半分しかとらえていなかったのだ。「ソルト・レーク・シティ」という記号はより複雑で多義的な意味をもつ。ソルト・レーク・シティは末日聖徒キリスト教会(モルモン教会)がユタ州の荒地に開拓した都市で州の金融、経済の中心地なのである。だが、もっとも重要なのは末日聖徒キリスト教会が長く一夫多妻の生活を送ってきたと言う事実だ。「ぼくはソルト・レーク・シティの孤児院で育った」というテリーの言葉の背後にある状況に注意を喚起しなければならない。一般的なな日本人からみればかなり特殊な共同体の中で、どういう子供が「孤児院で」育たなければならなかったのか。そしてそれは、テリー・レノックスの一生にどんな意味をもつのか。
だが、今はこれ以上の分析はしたくない。テリー・レノックスについても、作品そのものについても。ことばにするにはもう少し時間が必要な気がする。ただ、最後マーロウに「君はぼくを買ったんだよ、テリー。なんともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときのなにげない動作やしずかなバーで飲んだ何杯かの酒で買ったんだ」「まるで五十ドルの淫売みたいにエレガントだぜ」といわれるテリーの悲劇はこの世に生きるだれにとっても無関係な出来事ではないことを言っておきたい。テリー・レノックスは若い日の純粋な愛をつらぬけなかった。それを阻んだのは戦争だった。そして年を経て、抜け殻となった愛を償うために犯罪に加担する結果となってしまう。もし、その愛がそれほど激しく純粋でなかったなら、もし戦争が愛を阻むことがなかったら、そして、もし彼が抜け殻となった愛を償おうとしなかったなら、悲劇は起こらなかった。
ほんとうはもう少し突っ込んだ分析を書きたかったのですが、何だかことばにしたくなくなってきました。今の段階でことばにしてしまうと、この作品の印象を薄っぺらなものにしてしまうような気がします。文学作品は精神分析や社会学的考察の素材ではないので、この小説の馥郁とした香りと奥の深さを伝えながらものが言えるまで、もう少し研鑽を重ねたいと思っています。
今日も拙い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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