2022年1月27日木曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__つげ義春「ねじ式」と河の神_「め」の世界

  千尋の神話的深層を探る前に、この映画が一部下敷きにしているといわれるつげ義春の漫画「ねじ式」について考えてみたい。

 「ねじ式」は一九六八年雑誌『ガロ』に掲載された短編漫画である。海水浴にきて「メメクラゲ」に左腕を嚙まれ、静脈を切断された男が医者を捜しまわるが、村には医者が見当たらない。なんだか奇妙な漁村で、洗濯物をかけた衣紋かけが林立していたり、家と家の間に日の丸の旗がのぞいていたりする。なんとなく、当時としてもレトロな雰囲気が漂う村の中を男は必死に捜すが、村人は誰も「イシャ」のありかを教えてくれない。

 男は隣村に行って捜そうとして、線路の中を歩くが、折よくやってきた汽車に乗る。たった一両、座席も一つしかなさそうな不思議な蒸気機関車である。狐の面をかぶった子供が運転士である。しかも、汽車は後ろに進んで、到着したのはもとの村だった。

 男は「テッテ的」に捜そうとしたが、目玉マークの眼医者が軒をならべているばかりだ。そして、男は金太郎アメをつくっている老婆に出会い、老婆の所有する「金太郎飴ビル」の一室で開業している「産婦人科の女医」を紹介される。男が捜していたのは「産婦人科の女医」だったのだ。

 老婆と男は不思議な縁があるようだ。男は老婆に「あなたはぼくが生まれる以前のおっ母さんなのでしょう」と聞くが、老婆は「それには深ーいわけがある」といってこたえない。それは金太郎アメの製法特許と関係があるらしい。金太郎アメは、桃太郎のデザインだが、金太郎なのだ。はぁ?老婆と男は金太郎アメのおりくちを見せ合って別れる。

 暗くなって、電柱だか十字架だかが立ち並ぶ家の間を通って、ようやくビルの一室にたどりつく。ここはどういう建物なのだろう。円筒形の建屋が二つ見える。「金太郎飴ビル」と看板がかかっている。そのてっぺんに煙突のようなパイプが何本か立っていて、クレーンのようなものも見える。ここに「産 婦人科」という看板がかかっている。ビルというより工場のようだ。

 内部にはドアのない入口がいくつもあって、中に何かよくわからないものが堆積している。その向こうに女医がいる。着物姿で額に診察用の鏡をつけ、千鳥格子の座布団に座っている。おかしな猫足テーブルに向っていて、テーブルの上にはお銚子が一本と猪口が置かれている。開け放った障子の間から海が見え、遠くに軍艦が一艘浮かんでいて、今まさに砲撃している。

 いまは戦争中なのか?冒頭一コマ目も、左腕をかかえる男の頭上に巨大な戦闘機の影が描かれる。「イシヤはどこだ!」と呻く男の背後に喇叭を吹きながら行進する兵隊の影が描かれるコマもある。

 「シリツをしてください!」と叫ぶ男に「お医者さんごっこをしてあげます」と女医は全裸になって、「麻酔もかけずに」「シリツ」をする。「ギリギリ」と音がして、私にはなんだかよくわからないが、静脈は繋がったようである。男の左腕には蝶ねじが挿し込まれている。この手術は「○×方式」を応用したものだが、「ねじは締めたりしないでください。血液の流れが止まってしまいますから」と女医はいう。

 という回顧談を、左腕に蝶ねじを挿し込んだ男が、モーターボートの後ろに座り、話している場面で終わりになる。なんともシュールな漫画だが、そんなに難解でもない。だが、いまはその謎解きをするつもりはなく、ただ「め」と「「ねじ」を覚えておきたい。

 男がなぜ「イシヤ」を探したのか。なぜ眼医者しかなかったのか。それは、男が切断されたのが左腕だったことと関係があるのか。「ねじ」あるいはそれを締めるスパナの意味何か。

 「千と千尋の神隠し」に戻れば、食べ物のにおいにつられて両親が向かった先は、国籍不明だが、何となく中国風、東アジア風な店が並ぶ飲食店街だった。「生あります」という看板が下がり、「餓えと喰う会」という不思議な垂れ幕が張られている。「呪」「骨」「肉」「狗」「鬼皮」など不気味な文字が目につくが、最も目立つのは「め」という文字と目玉マークだろう。豚になった両親に驚いて、来た道を戻ろうとした千尋をとり囲む「めめ」と目玉マーク、「生あります」の看板(最後のクレジットが流れる絵コンテでは「生めあります」になっている)だった。「油屋」の門前は「めの世界」だった。

 油屋の従業員になった千尋が、オクサレさまならぬ「名のある河の主」を迎えて、神さまに刺さった「トゲ」を見つける。「トゲ」は自転車の左側のハンドルだったが、皆でそれを引き抜くと、大量の廃棄物があふれ出てくる。二槽式洗濯機や便器などに混じって、国旗(あるいは白旗?)が出てくるのも印象的だが、最後に水の底に沈むスパナが映されることに注目したい。

 宮崎駿はなぜここまでして、ねじ式の世界を想起させたかったのか?「名のある河の主」と左腕にねじを挿し込んだ男は関係があるのか?

 「名のある河の主」は千尋を濁流から掬い上げ、「善哉」と言って、千尋に草団子をあたえ、角のない龍の姿になって去る。「名のある河の主」とハク、千尋の関係については、難問である。もう少し、時間をかけて考えてみたい。解が見つかるかどうか、心もとないのだが。

 「めの世界」と油屋については、もっと堀下げなければならないかもしれません。今日も乱雑な走り書きを最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2022年1月24日月曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__油屋と銭屋の双頭支配__荻野?

  前回のブログで、現身として表現された「ちひろ」についてささやかな考察を試みた。今回は、この作品のひとつのテーマである「名前」にこだわって考えてみたい。名前とは、存在をアイデンティファイするもっとも重要な要素であることはいうまでもない。

 まず、姓名の名である「ちひろ」について。ジブリの公式サイトというところでは「千尋」と表記され、映画の中でも湯婆と契約するときに本人が「千尋」と書いている。「ひろ」というやまとことばは、両手を広げた状態の長さを表す単位で、とくに水深について使うようである。

 千尋が契約書に書いた文字は漢字の「尋」で、こちらはもうちょっと深い意味があるようだ。漢字の成り立ちを調べてみると、「右」と「左」を組み合わせた文字で、両方の手にそれぞれ「工」という神具と「サイ」(祝詞をかいたものを収める神具)を持ち、踊る様子をあらわしたものという。ちなみに「踊る」の原義は神事の際の舞踏をいう。「神に祈る」というのが「尋」のもともとの意味であると思われる。湯婆がちひろに、「贅沢な名前だね」と言ったのはこれを指して言ったのだろう。「千」_「ち」_非常に多いの意_も祈りをささげるのだから。

 ここまでは、少し調べれば誰でもほぼ同じ結論にたどりつく推理である。私がわからないのは、苗字の「おぎの」である。公式サイトには「荻野」とあるようだが、千尋は湯婆と契約するときに不思議な文字を使った。草冠に「犾」という字である。「狄」という字を草冠の下に書いて「荻」になるが、草冠の下に「犾」という漢字は見当たらない。「獲」の異体字という説もあるが、それでいいのかどうか疑問である。「犾」という字は「ギン」と読み、犭も犬を表すので「二匹の犬が吠え合っているさま」ともいわれるが、これもよくわからない。たんに千尋がまちがえただけかもしれない。

 ごく常識的に「荻」の字をまちがえた、あるいは隠した、ととるほうが作品を筋道立てて理解しやすいのだろう。「荻」は水辺あるいは湿地帯に生える多年草で、かつては茅葺の屋根に利用していたそうで、銭婆の家はこじんまりした茅葺の家だった。オクサレ様を迎える大湯の周辺も荻で覆われていたし、龍の姿になったハクの背中に生えていたのも荻のように見える。

 苗字は出自を示すので「おぎの(荻野?)」という苗字が奪われたことは属性を失い、自分のルーツを辿れなくなってしまうことを意味する。名前の「尋」という字も奪われたということは、個性を抹消されたということである。「千」という記号だけが許された存在。「油屋」の従業員は湯婆と契約を結ぶが、属性も個性も奪われ、一方的に労働力を提供する「記号」として存在する。

 余談だが、千尋の世話役として魅力的に描かれる「リン」は「五十鈴」だと考えている。リンについては、もう少し勉強してから書いてみたい。

 ひとつ注意しておきたいのは、属性と個性を奪って従業員を支配する湯婆は、全知全能の神ではない。千尋を前に「つまらない誓いをたてちまったもんだよ。働きたいものには仕事をやるだなんて」と愚痴をこぼしているように、湯婆は、勤勉で有能な経営者、というより現場支配人なのである。ヒエラルキーでいえば、湯婆の上には暴君の「坊」がいる。「坊」とは何かという問いも、じつは大問題なのだけれども、ともかく湯婆の上には「誓い」を立てた相手がいる。

 同じように双子の姉銭婆も全能ではない。「あたしたち二人で一人前なのに、気が合わなくてね。ほら、あのひと、ハイカラじゃないじゃない」という事情だが、契約印は銭婆がもっているので、ヒエラルキーは銭婆が上だろう。実務家の湯婆としては身を粉にして働いて、肝心の契約印は金融担当の銭婆が握っているのでは割に合わないと考えたのだろう。それで、これまでも忠実に「ヤバい」仕事をしてきたハクに命じて、契約印を奪わせようとしたのだと思われる。

 湯婆と銭婆については、もう少し書くことがあるのだが、長くなるので、今回はここまでにしたい。名前の問題は、ハクについても掘り下げなければならないが、ハクは物語の最後で、みずから「ニギハヤミコハクヌシ」と名告っているので、ヒントは十分にあたえられている。十分すぎるかもしれない。ジブリファンの方々もいろいろ考察されているようである。

 さて、根本的な問題として、私は「千と千尋の神隠し」という題名の意味がわからない。「神隠し」という言葉は、(主に子どもが)行方不明になることである。千尋が行方不明になったから「「千と千尋の」神隠し』なのか。それならば、『「千と千尋が」神隠し(にあった)』というのではないか。なんとなくおさまりが悪いけれど。「千と千尋の神隠し」は『「千と千尋の神」隠し』ではないか。千と千尋の深層にいる神を隠した話ではないか。千いや千尋の深層に神はいないか?隠されたあるいは抹消された神は?そのことについて、次回考えてみたい。

 最初は千尋=瀬織津姫というモチーフで考えていたのですが、いまはまた別のモチーフを考えています。こちらのほうが重く深いテーマなので、とりかかるには体力気力に万全を期して(というほど大げさでもないか)取り組みたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2022年1月23日日曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__油屋と銭屋の双頭支配__「おぎのちひろ」とは何か

  昨年から島崎藤村の『夜明け前』を読んでいるが、遅々として進まない。あまりにも重く、大きな課題に向き合って、最初から腰が引けてしまっている。それで、つい、精巧に組み合わされたジグゾーパズルを解く感覚で、金曜ロードショー『千と千尋の神隠し』に寄り道してしまった。ところが、これもかなりの難問なのである。

 映画の導入がまず、不思議、というか不気味である。「ちひろ 元気でね また会おうね 理砂」という文字と理砂らしき女の子のイラスト入りのカードと、(たぶん)スイトピーの花束が画面いっぱいに映され、花束の向こうに子どもの足(正確にはむきだしの太ももと靴をはいた足)がちらっと見える。その後画面が切り替わると、車の後部座席に寝転がって、足を段ボールの箱の上にのせている女の子がいる。つまらなそうな顔である。一瞬、花束を抱いた子がお棺の中にいるのかと思ってしまった。

 「ちひろ、ちひろ、もうすぐだよ」という男性の声「やっぱり田舎ね。買い物は隣町にいくしかなさそうね」という女性の声「住んで都にするしかないさ」という男性の声が続く。一家は引っ越しの途中で、身の回りの荷物を載せて乗用車で引っ越し先に向かっているらしい。もうすぐ引っ越し先の新しい家に着くようだが、女の子は転校先の学校を示されてもアカンベエをして「前のほうがいいもん」とふて腐れた様子。そして、花束の花が萎れってっちゃったと母親に訴えるのだが「水切りすれば大丈夫」と取り合ってもらえない。「初めてもらった花束がお別れの花束なんて悲しい」という女の子に母親は「あら、この前のお誕生日に薔薇の花をもらったじゃない」とこたえる。それに対して女の子は「一本ね。一本じゃ花束っていえないわ」と返す。なかなかのものである。 

 この後母親が「カードが落ちたわ。窓を開けるわよ。もう、しゃんとしてちょうだい。今日は忙しいんだから」と女の子に言って、(なぜか)窓を開ける。半開きになった窓から外の景色が流れる。さらに三叉路を右に折れていく乗用車の後部が映される。上に掲げられた標識には「国道21号 とちの木 中岡」とあって、車は右側「とちの木」方面に折れ、つづら折りのようになった坂道を登っていく。坂の上にひな壇状に造成された新興住宅街が目的地のようである。そこそこ大きな家が立ち並ぶ住宅街が画面いっぱいに写され、「千と千尋の神隠し」のタイトルがオーヴァーラップする。ここまで1分39秒である。そしてここまでに、この映画の謎が盛りだくさんにつめこまれている。

 何が謎で、その謎をどう解いたらいいかについては、おいおい触れていくことにして、まずとりあげたいのは、この車は「四輪」のアウディで、当然エアコンもついているはずなのに、どうして窓を開けるのだろうか。季節は、暑くもなく寒くもなさそうで、女の子とその両親の服装も半袖のTシャツの軽装である。女の子がスイトピーの花束を握りしめているところを見ると、たぶん五月だろう。連休を利用しての引っ越しだと思われる。

 タイトルが流れた後、画面は切り替わって、杉の巨木が映される。根本に置かれている鳥居に比べると、とてつもなく大きな木であるが、幹から出た枝はほとんど折れている。鳥居の周りに杉の木を囲むようにしてたくさんの石が散らばっている。どうやら道を間違えたようである。「あのうちみたいの何?」と聞く女の子に母親が「石の祠。神さまのおうちよ」と即答して、車はさらに舗装されていない道を進んで行く。

 落雷に直撃されたような杉の巨木と片寄せられて見捨てられた鳥居、石の祠、これらがもたらすメッセージは誰でも受け止められるもので、私がわざわざ解説するまでもないだろう。その先のトンネルの前に立つ蛙の石像も同様で、賽の神である。前と後ろの両面を向いているのが奇妙といえば奇妙だが。

 母親の制止を振り切って、石畳の道を猛烈なスピードで車は進み、蛙の石像に遮られてトンネルの前で止まる。見上げると、暗い赤っぽい色のトンネルの上に屋根があって、「湯屋」と描かれた古い看板が掲げられている。「湯」と「屋」の間に丸で囲んだ「油」という文字がはさまっている。「門みたいだねえ」といいながら父親は興味を覚えたらしく、トンネルの方に進んでいく。母親は戻ろう、と制止するが、女の子はすぐに車を降りて父親の傍に行く。

 「なんだ、モルタル製か。けっこう新しい建物だよ」と父親は言って、薄暗い奥に出口らしきものを見つけて、中に入ろうとするが、足元の枯草がトンネルの中に吸い込まれて行くのを見て女の子は怖くなる。「戻ろうよ、お父さん」と車のところに戻る女の子を置き去りにして、母親までも「ちひろは車の中で待ってなさい」とトンネルの中に入って行く。置き去りにされた女の子は、何ともしれぬ「ほろほろ」と鳴く鳥の声のような音におびえて、両親の後を追い、トンネルの中にはいって行く。

 女の子は「そんなにくっつかないでよ。歩きにくいわ」といわれながらも、母親の腕にしがみついて進んでいく。出口近くいくらか光の指し込む空間が見えてくる。そこにはたくさんの石柱があって、上のほうに小さなランプが石柱を囲むように吊るされている。いくつもの(たぶん)木製のベンチが置かれ、小さな円いステンドグラスのような窓からかすかな光が差し込んでいる。隅の方に壊れた家具のようなものが乱雑に積み重ねられている。修道院のような雰囲気もするが、なんだか、死を待つ人のための部屋、といった趣がある。あるいは、収容所に送られる人が一時そのときを待つための部屋。

 トンネルを進んでその部屋に入ると、前より明るくなって、電車の音が聞こえてくる。小さな円いステンドグラスと蝋燭の燭台が映される。「案外駅が近いかもしれないね」という母親に「行こう。すぐわかるさ」と父親も応じて、三人はトンネルを脱け出る。

 トンネルを脱けると、見わたす限り広い草原で、ここにも奇妙な形の石像があり、ところどころに朽ちかけた家も散在している。父親が「やっぱり、間違いないな。テーマパークの残骸だよ、これ」と言って上をみあげると、トンネルの上は赤っぽい塗料が剥げかけた倉のような建物である。屋根の上に時計塔が乗っている。建物の側面に丸で囲んで「湯」と描かれ、正面にまた別の時計が描かれていて、時計塔の時計と異なる時刻を示している。その下には「復楽」と書かれた看板がかかっている。

 何とも奇妙なのが、時計の文字盤である。上の時計塔のそれは、直角の二面についていて、そのどちらも一見「10時40分」を指しているようだが、「3」と「9」の位置が逆さまで、しかも数字の並びがくるっている。下の時計は文字盤が数字でなく、漢字で書かれているが、かろうじて読めるのは「6」の位置にある「参」だけである。

 九十年代にたくさん計画されて、その後つぶれてしまったテーマパークの残骸が残っているんだ、と言って、どんどん進んで行く父親とその後を追う母親。女の子ひとり、「もう帰ろうよ!」と叫ぶが両親ともふりむかない。残された女の子の頭の上の方から風が吹きつけて、木の葉が舞う。風は時計のほうから吹いてくるようだ。怖くなった女の子は、しかたなく両親の後を追う。

 ここまで6分40秒である。この後、賽の河原だか三途の川を渡って、石段を上り、無人の食べ物屋で山盛りの料理を貪り、両親が豚になるくだりとそれ以降は、多くのジブリファンがさまざまな考察を試みているので、とりあえず今回はここまでにしたい。この作品は、じつはここまでが謎だらけで、しかも、ほとんどの人が謎に気づかないようである。私にとって、最大の謎はこの女の子_「千尋=ちひろ」と呼ばれる_が何ものなのか、ということである。

 誰でも気づくのは、両親、とくに母親が千尋にたいして冷淡であることだ。トンネルの暗がりを歩くときも「くっつかないで」と言い、大きな石ころだらけの川を渡るときは、「早くしなさい」というばかりで、手を貸そうともしない。よく見ると、車から降りた千尋は極端に手足が細くて、着ている服はだぶだぶである。どう見ても、愛されている子の風体ではない。両親と千尋の関係性は、日常現実の世界で理解しようとしても、無理なような気がする。それは「神隠し」_隠された神の世界に入り込んで解き明かすしかないのではないか。私は一つの仮説をもっているが、長くなるので、今回はここまでにしたい。次回はまず、「おぎのちひろ」という名前を手掛かりに考えてみたい。千尋という存在の深層に隠された神は何か。

 最後に蛇足をつけ加えると、この映画の舞台は、双子の姉妹である「油屋」と「銭屋」が双頭の鷲のように支配する異空間である。銭屋が所有する契約印を油屋が奪おうとして失敗する。最も大きなプロットはこれである。その契約は、誰と誰の間で結ばれるものか、という点が、いまの私には疑問なのだけれど。

 いろいろ調べていて時間ばかり経ってしまいました。自分が神話や歴史をあまりにも知らないことに気づいて愕然としています。なので、どこまで読み解けるかわかりませんが、もう少し考察を進めてみたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2021年11月7日日曜日

三島由紀夫『天人五衰』__愛と救済のfarewell__輪廻転生を断ち切る残酷な真実

 前回の投稿で『天人五衰』について、もう言うべきことは言いつくしてしまったような気がするのに、何故か次の作品に向かうことが出来ない日が続いている。とりとめもない日常に埋没して、枯渇しつつあるエロスの対象を作品に集中することを怠っている毎日である。一言でいえば、能力不足なのだが。 

 それで、これから書くものは、読書感想文にもならぬただの「私の心境報告」である。

 この作品の難しさのひとつは、主人公が二人いて、しかもほとんど一人である、ということである。本多繁邦と安永透は、それぞれ別の人格をもって登場するが、二人ともまったく同じように、「純粋な悪」によって、正確無比に廻る歯車をもっている。歯車は、「無限に生産し、無限に廃棄するいやらしいほど清潔な工場の中で」廻りつづけている。そのことを両者ともに認識する存在として描かれている。作者は、あるときは安永透に憑依して彼の認識する世界を語り、あるときは本多繁邦の老いとその日常を彼の内側から告発する。安永透の世界の認識も本多繁邦の老残も、これ以上はないほど的確に叙述される。そして、的確に叙述されればされるほど、私の中で、この作品の「作者像」が揺らぐのである。

 作者像の揺らぎの問題はひとまず措くとして、いまの私の感覚、ほぼ生理的な感覚と言ってよいと思うのだが、それが受け入れやすいのは紛れもなく本多繁邦の老残の姿である。私はまだ本多の年齢には達していないし、本多とは性別を異にしているが、日常を生きることがそのまま死に近づていき、死の浸透をまぬがれないという厳然たる事実と向き合っている。ささやかだが執拗に続く身体の不具合、外の世界に対する秘かな軽蔑と無関心、あるいは破壊の衝動、これらはエロスの枯渇というよりもっと積極的に死の謀略であるという思いがある。

 朝目覚めた本多がまず向き合うのは死の顔だった。そんな現実よりもはるかに生きる喜びに溢れているのが夢の世界だった。目覚めても、夢の余韻に身を漂わせることが本多の習慣になっていた。小説の前半に、夢が思い出させたひとつのエピソードが語られている。若かったころの母が、ある雪の日に作ってくれたホットケーキの話である。

 ふりしきる雪の中を傘もささずに空腹で帰った本多を出迎えた母が、火鉢にフライパンをかけ、油をそそいで、一心に炭火を吹きながらホットケーキを焼いてくれた。炬燵にあたたまりながら食べたホットケーキの蜜とバターの融け込んだ美味も生涯忘れがたいが、少年の本多は、雪明かりのほの暗い茶の間で、ひたすら火を吹く母の突然のやさしさの裡にある憂悶、悲しみを、ホットケーキの美味を通じて、愛のうれしさを通じて、直観したのだった。遠い昔のつかの間の感覚の喜びが、半世紀以上も本多の人生の闇を、少なくとも火のある間は崩壊させたのである。

 このエピソードは、本多が久松慶子に招かれ、外国人の老女たちに囲まれてあまり身の入らないトランプのゲームをしている最中に、ふと想起した出来事のように書かれている。面前の現実よりも夢の世界に想いを馳せることが多くなった老年の本多が幾度も思いだすエピソードである。美しすぎるくらい美しいエピソードだが、ひとつ注目したいのは、この文脈で「愛のうれしさ」という言葉が使われていることである。

 「ホットケーキの美味を通じて」と並んでおかれる「愛のうれしさを通じて」という表現の中に挿入される「愛」という単語が何を意味するかについて、ほとんどの読者はこの箇所でたちどまって考えることはないだろう。どんな事情で母が憂悶をかかえていたかはわからないが、少年の本多は母の悲しみを感じとり、その悲しみを注ぎ込んだかのようなホットケーキの甘さを「愛のうれしさ」と受けとった。本多のこの感情の機微が「愛」と呼ばれていて、これを「愛」と呼ぶことには万人が共感するだろう。

 老年の本多の愛の記憶がどこまでも甘美なのに対して、本多とクローンのように同質の人間として、「純粋な悪として」、登場した安永透の「愛」はどのようなものとして語られるだろうか。

 安永透は孤児である。

 「彼は凍ったように青白い美しい顔をしてゐた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。」

と書き出される。

 いったい透の人物像の造型は、作者が彫琢をきわめればきわめるほど、凡庸な私の理解から遠ざかっていく。その完璧な人工性、独自性、そういう特性は、ことばとしては理解できても、というより、十分すぎるほど理解できるのだが、そうやってつくり上げた透の人間像は、自然に不自然なのだ。あるいは、不自然に自然である、といおうか。

 本多繁邦の養子になった透に縁談がもちこまれる。透は十八歳の高校二年生である。金目当ての申し入れと思いながら、本多は承諾し、透は百子という少女と交際を始めることになる。百子は没落しつつある旧家の令嬢で、美しいが平凡である。百子は無邪気に透に思いを寄せるが、透は、彼女をいたぶり、奸計をめぐらせて陥れ、婚約者の座から突き落とす。透は、満を持して待ち構えていたのだ。家庭教師の古澤に続く第二の犠牲者を。彼の磨き抜かれた刃で傷つける獲物を。そして、その情念を、透は「愛」と呼ぶ。

 「微笑が僕の重荷になったので、百子の前でしばらく不機嫌をつづけてやらふという目論見が僕にうまれた。怪物性をちらとのぞかせる一方、欲望が鬱積して不機嫌になる少年といふ、あのごくありきたりな解釋の餘地も殘しておく。そしてこれらすべてが無目的な演技ではつまらないから、僕にも何らかの情念がなければならない。僕はその情念の理由を探した。一番本當らしいものがみつかった。それは僕の中に生まれた愛だった。」

 小説の中ほどにかなりの部分を占めて「本多透の手記」が存在する。透の一人称で、自己分析をまじえながら、百子との「愛」の顛末が語られている。最初から、透の命題は、百子の「肉體を傷つけないで精神だけ傷つけ」ることだった。もしかしたら、肉體も精神もともに傷つけるよりも、もっと残酷な行為かもしれないが、それを意図した透の心情は理解できなくもない。私がわからないのは、以下に続く文章の意味である。

 「僕は僕の悪の性格をよく知っている。それは意識が、正に意識それ自體が、欲望に化身し了せるというやみがたい欲求なのだ。それは、言ひかへれば、明晰さが完全な明晰さのままで、人間の最奥の渾沌を演ずることだった。」

 難しい単語が使われているわけでもなく、文脈が読めないわけでもない。だが、私には「意識が欲望に化身し了せるというやみがたい欲求」がどういう欲求なのかが、まったくわからない。「明晰さが人間の最奥の渾沌を演ずる」とはどんな行為かわからない。

 突拍子もないことをいうようだが、たぶん、それは私が女だから、ではないだろうか。女は、というか私は、意識が欲望に化身するなどという放れ業は想像すらできない。いや、意識と欲望は未分化である。また、敢えて、独断と偏見をいえば、女と明晰は同じカテゴリーの中に入ることはできない。女は、

 「だって私の心がきれいだってことは、私が知ってゐるんですもの」

と平然と言い放つことができる百子と同じく、「ある悲しみに充ちた至福に涵ってゐて、あの少女趣味のがらくたから愛にいたるまで、かうしたあいまいな液體の中に融かし込んでゐる」生物なのだ。「彼女という浴槽に首まで漬かってゐ」るのは百子だけではない。女の常態である。

 いくつかの三島の小説を読んでいて思うのは、いったい彼はどんな女なら愛することが出来るのか、という疑問である。同時に、こんなに女を「知っている」男がいるのか、という驚嘆だ。もちろん、小説の主人公=三島由紀夫ではない。だが、『天人五衰』の本多透は三島のほぼ自画像といってよいだろう。少なくとも、リアルに存在する十八歳の少年ではない。

 手記の中で透は、「世界の外から手をさし入れて何かを創ってゐたので、自ら世界の内部に取込まれるといふ感じを味はったことはない」と自負する。また、「悲しいほどに獨自だった」と強調する透が、なぜ、特権階級の令嬢とはいえ、ただ平凡なだけの百子に苛立つのか。「他人の自己満足をゆるしておけないのが、僕のやさしさなのだ。」と透はいうのだが。

 「(愛されているかどうかという不安の)柵の内側に決してはいらない」「小さなすばしこい獣」と形容される百子を嫉妬させるために、透は汀という女を利用する。そして、最終的に、百子は、透に執拗に唆されて、汀に手紙を書く。自分は金目当てに透と付き合っていて、一家あげて透との結婚に賭けている。どうか、透と別れてくれ、という内容である。無邪気な百子は、「麻酔をかけるやうに」たえず耳に愛を囁かれて、愚かな女になったのだ。

 透が繰り返した「愛してゐる」という言葉について、彼はこうも言っている。

「しかし、「愛してゐる」といふ經文の讀誦は、無限の繰り返しのうちに、讀み手自身の心に何らかの變質をもたらすものだ。………
 百子の要求するものも亦、このいかにも時代遅れの少女にふさはしく、純粋に「精神的な」確證だけだったから、これに報いるには言葉で十分だった。地上にくっきりと影を落として飛翔する言葉、それこそ僕本来の言葉ではなかったか。僕はもともと言葉をさういふ風にのみ使ふうやうに生まれついたのだ。それなら、(この感傷的な言草はわれながら腹が立つが)、僕の人前に隠してきた本質的な母国語は、愛の言葉そのものだったかもしれない。」

 三島由紀夫の文学の急所がこの独白で語られている。それは、彼の文学が、「地上に影を落としながら飛翔する」すなわち、現実の重力に引きずられない言葉の文学であること、それは文学者として生まれついた出発点からそうであったこと、それから、これが最も重要かもしれないが、「愛の言葉そのもの」だった、という告白である。

 「本多透の手記」という章には「愛」という言葉が散りばめられている。三島の作品で、これほど「愛」という言葉が使われるものがほかにあっただろうか。だが、ここに使われる「愛」という言葉には、複雑な屈折が含まれている。前述のホットケーキにまつわる本多の回想が、万人が共感を寄せるような感情の機微であったのに対し、透の定義する「愛」は

 「しかし要するに、僕の人生はすべて義務だった。こちこちになった新米の水夫のやうに。……そして僕にとって義務でないものは、船酔、すなわち嘔吐だけだった。世間で愛と呼んでいるものに該當するもの、それが僕にとっての嘔吐だった。」

とあって、この言葉を感覚的に受け入れられる人は少ないだろう。

 嘔吐=愛の図式はあまりにも極端で奇を衒ったように思われる。だが、それにもかかわらず、この小説を読了して、私の中に沈殿してくるのは、「愛」である。人生のあらかたを生きてしまった本多の回想の中の甘美な感覚の喜びも、透の屈折と苦渋に満ちた行動の軌跡も、どちらも「愛」なのだ。

 末尾の久松慶子の苛烈な弾劾の言葉の底流も、やはり「愛」だろう。慶子の、そして本多の、「人間について知り過ぎてしまった人の 愛情」____複雑に絡み合った輪廻転生を断ち切ったのは、苦渋に満ちた、残酷な「愛」の真実だった。

 とりとめもない心境報告の最後に、「本多透の手記」の中で、というより『天人五衰』の中で、最も美しい場面を引用して終わりたい。百子と二人、日没間際の後楽園を散歩したときに透が見た光景である。

 「そこで橋上の僕らは、おかめ笹におほわれた丸い築山の小蘆山と、その背後の深い木立に、最後のしたたかな光を投げかけてゐる落日の投網に對してゐた。網目にとらへられることを拒みながら、そのまばゆさに耐へ、苛烈な光明に抗ってゐる最後の一尾の魚のやうに自分を感じた。
 僕はともすると他界を夢みてゐたのかもしれない。……もとより僕は救済を求める者ではないが、もし僕にも救済が来るとすれば、意識を絶たれたあとでなくてはならないと思った。悟性がこんな夕日のなかで腐敗してゆくときは、どんなにか快いにちがひない。
 たまたま西側の橋下は、蓮に充たされた小池であった。
 水のおもても見えぬほど密生した蓮の葉は、水母のやうに夕風に浮遊してゐた。裏革のやうな肌の、胡粉を含んだ粉っぽい緑の葉が、小蘆山の谷底を埋めていたのである。蓮の葉は光を柔軟にやりすごし、隣の葉の影を宿し、あるひは池邊の一枝の紅葉のこまかい葉影を描ゐていた。すべての葉が不安定に揺れながら、かがやく夕空に競って欣求してゐた。そのかすかな聲の合誦が聞こえるかのやうだった。」

 かがやく夕空に競って欣求していたのは蓮の葉であり、透であり、本多だった。生きとし生けるもの、何より私自身だったかもしれない。

 手記を海中に投げ捨て現実に驀進していった透は失明し、本多は、スキャンダルによって、財産以外築いてきたすべてを失った。だが、それでも、とうよりそれこそが、救済だったのではないか。

 長く粗雑な心境報告を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年8月14日土曜日

三島由紀夫『天人五衰』__猫と鼠__安永透と三島由紀夫の運命

  『天人五衰』というウエルダン・ストーリーにからめとられて、相変わらず書けないままである。そうすると、いつもの妄想癖が頭をもちあげて、あれこれ支離滅裂な想念が頭の中をかけめぐり、安永透の運命は三島由紀夫のそれと一致する、あるいは一致する予定だったのではないか、という独断と偏見を書いてみたくなってしまう。以下は合格点を貰う確率ゼロの読書感想文である。

 小説のちょうど真ん中あたりに、「猫と鼠」のエピソードが出てくる。本多に養子に迎えられた安永透が二年遅れの高校受験をする。そのために雇われた国語の家庭教師の古澤という東大生が、猫に喰われそうになった鼠が自殺する話を透に聞かせる。鼠は、たんに猫に追い詰められて死ぬのではない。シンプルに見えて、けっこう複雑な話なのだ。

 鼠は自分を猫だと信じていた。本質を点検してみて、自分は猫にちがいない、と確信するようになって、同類の鼠を見る目もちがってきた。あらゆる鼠は自分の餌にすぎないが、自分が猫だということを見破られないために、ほかの鼠を食わずにいるだけだと信じた。「自分の鼠という肉体」は、「猫という観念」が被った仮装だと考えた。鼠は思想を信じ、肉体を信じなかった。

 その鼠が本物の猫に出会って、「お前を喰べる」と宣言される。鼠はそれはできない、と言う。自分は猫だから、猫が猫を喰べることはできないはずだ、と。そうして、それを証明するために、鼠は洗剤の泡立つ洗濯盥のなかに身を投げて、自殺してしまう。洗剤に浸かった鼠は「喰へたものぢゃない」ので、猫は立ち去る。

 古澤という東大生は、この鼠の自殺が「自己正当化」の行動であり、鼠は「勇敢で賢明で自尊心に充ちていた」と評価する。鼠は、肉体的にはあらゆる点で鼠であるが、「猫に喰われないで死んだこと」、「『とても喰えたものぢゃない』存在に仕立て上げたこと」の二点で「自分を「鼠ではなかった」と証明することができる。「鼠ではなかった」以上、「猫だった」と証明することはずっと容易になる。鼠の形をしているものが鼠でなかったなら、他の何者でもありうるから、というのが古澤の説明である。

 鼠の自殺は成功し、その自己正当化は成し遂げられたが、鼠の死は世界を変えただろうか、と古澤はさらに話し続ける。古澤はもはや透に聞かせるためではなく、自己の内部に沈潜していく。

 鼠の死は猫に何ももたらさなかった。猫は死んだ鼠をすぐに忘れて、眠ってしまった。彼は猫であることに充ち足り、そのことを意識さえしなかった。そして猫は、怠惰な昼寝のなかで、鼠が熱烈に夢みた他者にらくらくとなり、また何でもありえた。安楽で美しい世界に猫の香気と寝息がひろがった。

 語り続ける古澤に透は「権力のことを言ってゐるんですね」相槌を打つ。「そこですべては青年ごのみの悲しい政治的暗喩に終わってしまった」と三島は書くのだが、ここには「青年ごのみの悲しい政治的暗喩」とかたづけられないものがあると思う。決して看過できないものが二点ある。

 ひとつは、作者三島の世界認識がきわめて直截な形で述べられているということである。すなわち、権力の支配構造は「喰うか、喰われるか」ではなくて、「喰うか、喰われないか」なのだ。猫は鼠を、いつでも、任意に「喰う」が、鼠はそれを逃れるために猫を「喰う」ことはできない。「喰われない」ためには「勇敢で賢明で自尊心に充ちた」死を遂げるしかない。支配者と被支配者の関係は、美しいまでに粛然と分かたれている。猫はこの世の逸楽を十分に貪ることができるが、鼠は「勇敢で賢明で自尊心に充ち」て死んだら、もはや何者でもないのだ。

 もうひとつは、「自尊心に充ちた鼠の死」というモチーフは、いうまでもなく、作品終末の安永透の死(未遂だが)を予告するものだが、同時に作者三島の死の予告でもある、ということである。安永透はほとんど三島由紀夫である。『天人五衰』の冒頭数頁、三島は十六歳の安永透に憑依して、倍率三十倍の望遠鏡から駿河湾を覗いている。

 安永透は、水平線の向こうから姿を現す船を認識し、船と交信する。航行する船の状況を港に連絡する「通信員」である。三島由紀夫は、地球上に無数に生起する「出来事」を切り取って「書く」ことによって、読者に提示する「作家」である。「通信員」と「作家」が微妙に重なり合う機微を暗示すると思われる部分があるので、以下に引用してみたい。

 六時。
 すでに大忠丸の船影は、そこを出てゆく興玉丸とすれちがふ形で、薔薇色の沖に模糊として泛んでゐる。それはいはば夢の中からにじみ出てくる日常の影、観念の中からにじみ出てくる現實、……詩が實體化され、心象が客體化される異様な瞬間だった。無意味とも見え、又凶兆とも見えるものが、何かの加減で一旦心に宿ると、心がそれにとらはれて、是が非でもこの世にそれを齎らさずにはおかぬ緊迫した力が生まれ、つひにはそれが存在することになるとすれば、大忠丸は透の心から生まれたものだったかもしれない。はじめ羽毛の一觸のやうに心をかすめた影は、四千噸に垂んとする巨船になった。それはしかし、世界のどこかでたえず起こってゐることだった。

 非常に難解な文脈が続く。いちいちの詳しい解釈は省くが、ここに語られているのは創作の秘儀である。

 さて、透は「暗赤色の巨きな海老のやうな魂の蠢めきを、人には見えない深部に隠している」「鐡道員の倅の貧しい秀才」古澤を周到に遠ざけ、「純粋な悪」のヒーローとして本領を発揮していく。注目すべきはその透の「内面は能ふかぎり本多に似てゐた」と書かれていることである。

 十六歳の透が仕事をしている「帝国通信所」を訪れた本多は、一目見て、透が自分と寸分違わぬ内部機構の持ち主であることを見抜いた。それは「無限に生産し、しかも消費者が見當らぬままに、無限に廃棄する」「磨き上げられた荒涼とした無人の工場」だった。その後透の脇腹に輪廻転生のしるしである「三つの黒子」を認めた本多は、即座に彼を養子に迎えることを決意する。そうして、本多は、清顕、勲、ジン・ジャンの夭折の美しさにこの上ない憧憬をよせながら

 「……詩もなく、至福もなしに!これがもっとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知ってゐる。
 時間を止めても輪廻が待ってゐる。それをも俺はすでに知ってゐる。
 透には、俺と同様に、決してあんな空怖ろしい詩も至福もゆるしてはいけない。これがあの少年に對する俺の教育方針だ」

と考えるのである。だが、これは、本多と透というクローン父子にとって、矛盾以外の何物でもないはずだ。輪廻転生のしるしである「三つの黒子」という「特権」をみとめたからこそ、透を養子にしたのに、その「特権」を享受する「詩と至福」という「運命」は拒否する、そんな都合のよい成り行きはありえない。

 二十歳を目前にした十二月の二十日、透は本多の友人久松慶子に一足早いクリスマスの晩餐に招かれる。孔雀と波を意匠したビーズ刺繍のソワレを着て迎えた慶子は、完膚なきまでに透の自尊心を打ち砕く。

 まず透に驚愕を与えたのは、透が自らひそかな誇りの根拠としていた左脇腹の三つの黒子の存在を慶子が知っていたことである。そればかりか、その黒子のために透は本多家の養子に望まれたのだ、と慶子は言う。黒子をもった者は二十歳で自然に殺される「運命」にあるので、本多は黒子をもった透を養子にして、彼の「神の子」の自負を打ち砕き、凡庸な青年に叩き直すことで、何としても救おうとしたのだ、と。

 桃山風の燦然とした客間の一角にしつらえた暖炉の火が消長する傍らで、透は慶子の語る輪廻転生の永い物語を聞く。聞き終えた透に、慶子はさらに決定的な一撃を与える。透は、これまで話してきた輪廻転生の物語に何の関係もない「贋物」だというのだ。慶子はいう。

 「私や本多さんを殺すことなんかあなたにはできませんよ。あなたの悪はいつも合法的な悪なんですから。観念の生み出す妄想にいい気になって、運命を持つ資格もないのに運命の持主を気取り、この世の果てを見透かしてゐるつもりでつひぞ水平線の彼方から誘ひは受けず、光にも啓示にも縁がなく、あなたの本当の魂は肉にも心にも見當らない。」

 透を「育英資金財圑向きの模範生」と貶め、己惚れた「認識屋」を自分たちのようなもっとすれっからしの同業者が、三十倍の望遠鏡の圓からひっぱりだしたのだ、と止めを刺す慶子の前に透は凍りついたままだった。

 この後、透は本多に乞うて清顕の夢日記を借り、その一週間後にメタノールを飲んで自殺を企る。それが、「鼠の自己正当化の自殺」と同じものなのか、じつはいまの私にはわからない。もうひとつわからないことがあって、養父を貶め、窮地に追いやったからといって、透は、何故ここまで厳しい糾弾の言葉を浴びせられなければならなかったのか。透のしたことは、婚約者の百子を陥れたことも含めて、「合法的な悪」というほどの大げさなものでもなく、ちっぽけな、それこそ「凡庸な青年」の悪である。

 暖炉の焔に照らされて、慶子が繰り出す糾弾の言葉ははたして、目前の透に対してだけ向けられたものだったのか。上述したように、安永透≒三島由紀夫、という独断と偏見に立てば、これは一言一句万金の重みをもつ自己批判の言葉である。作品の中でここまで言い得ている作家が、はたして、その後行動するだろうか。いや、「猫と鼠」の寓話を通して、これほどまでに透徹した権力の支配構造を提示する作家が、「自己正当化」の死を為すだろうか。肉体は思想を裏切って、鼠は自殺したら、猫になるどころか、何者でもなくなってしまうのだから。

 以上で私の支離滅裂な読書感想文は終わるのだが、最後に蛇足をひとつ。『天人五衰』という作品中で、天人に擬せられているのは絹江である。いつも髪に花を飾り、透のもとに訪れては、その髪に花を挿す。作中本多が紹介する「天人五衰」の衰兆の第一に「一に華冠自ら萎み」とあるのを思い出したい。失明した透は絹江のなすがままに豊かな黒髪に紅い葵を飾らせている。絹江ももちろんいっぱいの白い葵を飾っている。「天稟」ともいえる醜さをみずからの自意識ひとつをたよりに逆転させ、絶世の美女と化した絹江こそ、天人だったのだ。

 「豊饒の海」は「荒涼の沙漠」ではなかったのか。

 そうして、再び、「三島由紀夫」とは何者なのか。

 三島については、まだ言い足りないような、もうこれでいいような、複雑な思いをかみしめています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。