2019年4月5日金曜日

映画『運び屋』__男と女、そしてデイリリー

 閑話休題。『ポラーノの広場』について書けないので、映画鑑賞などして怠けています。

 カメラマンをしている愚息に「クリント・イーストウッドがたまらなく素敵でセクシーだから、絶対見に行け」と脅迫されて、『運び屋』という映画を観た。映画に関してはまったくのビギナーなので、この映画について詳しく知りたい方は「運だぜ!アート」というブログをご覧になることをお勧めします。勝手に他人のブログを紹介して、著者の方にはご迷惑かもしれないけれど、この映画だけでなく、ほとんどのクリント・イーストウッドの作品について、ゆきとどいた解説がなされていて素晴らしい文章です。彼の映画が「アメリカ」とどのように切り結んできたのか、その問題意識も的確のように思われます。

 と、いうことで、またまた私の言うことなどないようだけれど、たぶん、これは、女だから言えることで、女だから言ってもいいことだと思うので、あえて言ってみたい。クリント・イーストウッドは「老い」を表現して「セクシー」(愚息は肘のしわまでセクシーだと言っていた)だけれど、同年齢の女優が「老い」を表現して「セクシー」といわれることがあるだろうか。最大限想像し得るのは「可愛い」ではないだろうか。ベティ・ディビスとジョーン・クロフォードという有名な女優二人がかつて「何がジェーンに起こったか」という映画で老いを演じたことがあったが、「可愛い」とは程遠い姿だったように思う。一言でいえば「凄惨」である。

 いや、あれはアメリカの女優だったからそうなったので、日本の女優たち、たとえば森光子とか山田五十鈴といった名優は十分美しかったではないか、という声が聞こえてきそうである。彼女たちはたしかに魅力的だった。だが、彼女たちが魅力的だったのは、「老い」を表現して魅力的だったのではない。スクリーンや舞台に出ていた最後まで「女」だったからである。「女」を表現して魅力的だったのだ。

 男は「老い」と「老い」に伴う孤独に耐えられるけれど、というより男は生まれたときから孤独が運命だろうが、女は「老い」と孤独にたえられないのだ。少なくともひとりでは。

 『運び屋』のアールの妻メアリは、家庭をかえりみない夫が許せなかった。孫娘の結婚式でアールから「きれいだよ」といわれても「過去をやり直すつもり?」と受け付けない。娘が生まれたときも、それから様々な節目の行事のどのときにも、アールが傍らにいることはなかった。メアリはひとりで生きてきたのだ。

  癌に冒されて死の間際のメアリは、運び屋の任務を放棄して駆けつけたアールに「あなたはいつも外にでていた。外の世界に価値があった。」と言う。その後、彼女は「あなたは私の最愛のひと。そして最大の痛みをあたえるひと」と言って息をひきとる。何という鮮烈な愛の言葉!

 そして、メアリを演じる女優のすばらしいこと!ひとりの男を想って、孤独にたえて、死の間際に戻ってきた男を受け入れて、死んでいく。女の悲しみと喜びをこんなにも切なく美しく表現できるとは。

 でも、この女優は、いうまでもなく「老い」を表現したのではない。「女」と「愛」を表現したのだ。ひとりの女が人生の最後で満たされた「愛」。

 『運び屋』の見どころは前述の「運だぜ!アート」にほぼ網羅されていると思われるが、ひとつだけ私が気になったことがある。映画の最初と最後に出てくるユリの花は、キリスト教ではかなり象徴的な、特別の花である。旧約聖書の「雅歌」2章は

 わたしはシャロンのばら、野のゆり。
 おとめたちの中にいるわたしの恋人は
 茨の中に咲きいでたゆりの花。

と始まる官能的な詩だが、新約聖書「マタイによる福音書」6章28節

 野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。

この「野の花」は(なぜか)ゆりの花とされている。
イエスその人を象徴したものがゆりの花であるという説もある。
 
 アールが最初におんぼろトラックで麻薬を運びながら「イエスは困った人を救いに来たんだ・・・」という歌を鼻歌交じりで歌っていたシーンもなぜか印象深い。アールは麻薬を運んだお金で困った人たちをみんな助けた。気前よく。自分のためにはいくらも使わないで。

 映画のモデルとなった老人が花栽培の農園を経営していたそうだが、主人公のアールがユリの花、とくに一日だけ咲くというデイリリーを愛してやまなかったという設定になったのは、実話に基づいているだけでなく、何か深い隠された意味があるのではないか。それもメアリに「あなたは芽がでるときだけ(そばにいる)」といわれるような愛し方で愛するということに。もっとも最後には、刑務所の花畑でいつもつききりで世話をして終わるのかもしれないけれど。

 エンディングに流れる Don't let the old man be in という歌の題名が「老いを迎え入れるな」と訳されていたのが感銘深かった。そして複雑な気持ちになった。私のブログのプロフィールにある通り、私がいままで見た数少ない映画の中で、一番好きな映画は『俺たちに明日はない』である。この映画は1967年アメリカで公開され、日本では1968年に公開された。アメリカ30年代の大恐慌時代の実話をもとにした作品である。同じように、実際の犯罪をもとにした『運び屋』が2018年に公開された。50年余を経て、アメリカも日本も、もちろん私も、変わった。年老いた。

 林檎をかじった後、体中蜂の巣のように銃弾を浴びて死ぬボニーとクライドの最後は、世界にたいして強烈に「ノー」を突きつけた。時代は1968年にピークを迎える学生運動の全盛期だった。そしていま、二十一世紀となって、優しくあたたかく「老いを迎え入れるな」と励まされる。励まされてようやく生きていく老後はもうすぐそこかもしれない。でも、私が望むものは励ましではない。私を含めた全世界に「ノー」という若者だ。いや、若者だけではない。何より私が「ノー」といわなければならない。

 Don't let the old man be in

直訳は「老人を中に置き去りにするな」だろう。

 とりとめもない駄文を最後まで読んでくださってありがとうございます。mule_騾馬という題名になった言葉についても考えているのですが、あまりにくだくだしい駄文を連ねても、映画からうける感銘をそこなうような気がするので、また機会があれば、と思います。
 

2019年3月30日土曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__ケンタウルス_牛殺し_生の軛

 『銀河鉄道の夜』については、多くの分析や論評がなされていて、いま私のような賢治初心者があらたにいうこともないのだが、初心者なりに気が付いたことを少しだけ書いてみたい。

 この作品も生前活字になったものではないので、決定稿がないのだが、物語が始まるのは、主人公ジョバンニの町の「ケンタウル祭」の夜である。「ケンタウル祭」とは何か。

 「ケンタウル」という言葉はあきらかに「ケンタウルス」という星座名に由来するのだろう。ケンタウルスとは半牛半人の怪獣である。半馬半人や半獅子半人として描かれている絵画もあるようだが、元来は牛の下半身と人間の上半身が合体したものである。ギリシャ語で「タウルス」は「牛」であり、「ケンタウルス」は「牛殺し」の意だそうである。

 賢治は巧妙に「ケンタウルス祭」と呼ばずに「ケンタウル祭」としているが、祭りの夜子どもたちは「ケンタウルス、露をふらせ」と叫ぶ。また、物語の最後近く、難破した船と運命をともにして、銀河鉄道に乗り込んできた「タダシ」と呼ばれる男の子も、突然「ケンタウルス、露をふらせ」と叫ぶのだ。「ケンタウル祭」とは何か。主人公ジョバンニは何故ケンタウル祭から疎外されるのか。

 ここで、少し脇道にそれるようだが、ジョバンニと、ジョバンニの同伴者カムパネルラについて触れてみたい。ジョバンニという名の由来はあきらかにヨハネである。新約聖書には、ヨハネという名は福音書の作者として、書簡の著者として、また黙示録の作者としてその名が記載されている。だが、この作品のジョバンニ_ヨハネは、福音書の中で、イエスの前に登場して、荒野で悔い改めを説く洗礼者ヨハネだろう。あるいはイエスの弟子となったヨハネかもしれない。イエスその人ではなく。

 カムパネルラについては、十六世紀後半から十七世紀前半イタリアルネッサンスの時代に生きた修道士トマソ・カンパネッラに由来するといわれている。この作品中のカンパネルラにトマソ・カンパネッラの実像がどれほど投影されているのか疑問だが、自然哲学者、科学者そして魔術者でもあったトマソ・カンパネッラの事跡は賢治の文学と人生に大きな影響を与えたと思われる。カンパネッラの主著「太陽の都」は賢治の『ポラーノの広場』のモデルともいわれている。

 「ケンタウル祭」が何か、ジョバンニは何故「ケンタウル祭」から疎外されているのかを考えることは『銀河鉄道の夜』という作品の最も大きな主題を探ることになると思う。それは、人間が、生きるために食べる、食べるために殺す、ということの絶対的な不条理を考えることである。原罪、という言葉を使うとどうしてもキリスト教の世界を呼び寄せてしまうような気がするので、あえて、不条理といっておきたい。

 ジョバンニは病気の母親のために、配達されなかった牛乳をもらいに行く。だが、牛乳はもらえなかった。物語の最後で種明かしのように明らかになるのだが、牛乳屋の主人が目を離した隙に、仔牛が親牛のところに行って、乳を飲んでしまったからである。

 仔牛が親牛の乳を飲むのは自然の摂理である。人間がそこに介入して、仔牛を疎外してしまう。仔牛の食べ物を人間が略奪しているのである。病気の母親のために必要だからという理由で略奪が赦されるのか。略奪という言葉もまだ欺瞞で、人間の生、食は他の生物の命の収奪である。

 ケンタウルス_牛殺しは神話ではなく、太陽神ミトラスを主神とするミトラ教の秘儀である。牛は古くから家畜として人間の生を養う存在だった。『銀河鉄道の夜』でも、ジョバンニとカムパネレラが「ボス」と呼ばれる牛の祖先の骨を発掘調査している大学士に出会っている。ミトラ教が牛を聖牛として崇め、屠る儀式は、やがてその「血で贖う」というモチーフがキリスト教の救済の教義と結びついていった、という説があるのだが、いまは、この秘儀が生命力の解放と豊穣をもたらすと信じられていたことを確認しておきたい。

 生=食=殺というジレンマが賢治の実生活を苦しめたことはよく知られている。どうにかしてこのジレンマから逃れるすべはないか。この世に生きている限り逃れるすべのないジレンマの、ありうべき解決のベクトルとして、賢治が提示してみせたのが、最初に銀河鉄道に乗り込んできた「鳥を捕る人」だったのではないか。

 鳥捕りは両手を広げていれば、舞いおりてくる鳥を何の苦もなく捕まえることができ、鳥は鳥捕りの袋のなかで「しばらく青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、目をつぶるのでした」という最後を迎える。そしてつかまる鳥よりつかまらない鳥のほうがはるかに多くて、それらは無事天の川に降りると「二、三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。」と書かれる。

 生物が自然の死を迎える直前に捕獲して、そのまま食物とする。しかも「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほどかせいでいるくらい、いいことはありませんな。」と、必要なだけしか捕獲しない。これがシステムとして成り立てば、生=食=殺の軛から逃れることができる。

 ジョバンニは鳥捕りにすすめられて、押し葉になった雁を食べてみる。それはチョコレートよりもおいしいお菓子の味だった。一緒に食べていたカムパネルラも「こいつは雁じゃない。ただのお菓子でしょう」という。二人が食べたのは雁だったのか、それとも「ただのお菓子」だったのか。「ただのお菓子」は雁ではないのか。ここには賢治の巧妙な欺瞞があるような気がするのだが。

 「茶いろの少しぼろぼろの外套を着て」「赤髯の背中のかがんだ人」と描写される鳥捕りとは何か。ジョバンニはその人を見て「なにか大へんさびしいような悲しいような気」がする。赤ひげの人も「なにかなつかしそうにわらいながら」ジョバンニやカムパネルラのようすを見ている。鳥捕りの正体は謎に満ちているが、注目すべきは、ジョバンニは最初から鳥捕りを悲哀の目でみつめ、同情をよせていることである。

 もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸いになるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。

 ジョバンニは、なぜこれほど異様なまでの感情の昂ぶりをあらわにするのか。「この人のほんとうの幸いになるなら」__幸いは「この人」のものであって、けっして「私の」幸いではないことに注意したい。「あなたのほんとうにほしいもの」は何か、ジョバンニが鳥捕りに聞こうとして後ろを振りかえると、鳥捕りの姿は消えていた。「この人のほんとうの幸い」」_絶対利他の到達点をもとめて、ジョバンニの旅は始まる。

 ケンタウルスの主題に戻ろう。ケンタウルスという言葉が再び登場するのは、汽車が蠍の火が燃え盛る天の川の野原を過ぎたときである。蠍の火については、賢治がほとんど同じ主題で「よだかの星」という有名な作品を残している。『銀河鉄道の夜』では、難破船から乗り込んできた女の子がカムパネルラと、食物連鎖から逃れようとした蠍の話をする。他者に自分をたべさせ、他者の生を養うことから逃げ回り、最後は井戸で溺れ死にそうになる蠍の祈りが語られる。この次はむなしく命をすてずに、まことのみんなの幸いのために自分のからだを使ってください、という蠍の願いが聞き入れられ、まっ赤なうつくしい火となって天上で燃え続けている、と女の子は語る。

 蠍の火から遠ざかるにつれて、町のお祭りのような気配がしてくる。突然、ここで、いままで睡っていたタダシという男の子が「ケンタウルス露を降らせ。」と叫ぶ。この後「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねぇ。」「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」というやり取りがある。それまで天上を走っていた汽車が、突然日常世界に戻るのも不思議だが、難破船から乗り込んできた男の子が「ケンタウルス露をふらせ」と叫ぶのもわからない。

 この後、サウザンクロスで多くの人々が下り、ジョバンニはカムパネルラとどこまでも一緒に行こうと誓いをかわす。だが、そのカムパネルラが「あ、あすこ、石炭袋だよ。そらの孔だよ。」と暗闇を見つける。さらに「ああ、あすこの野原はなんてきれいなんだろう。みんな集まっているねぇ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と叫んで消えてしまう。

 最初に書いたように、『銀河鉄道の夜』は決定稿がないが、第四次稿とされるものには、カムパネルラが級友のザネリを助けるために溺れ死んだことが示唆されている。カムパネルラが姿を消す前に蠍の火のモチーフが詳しく語られ、夜空に燃えさかるうつくしい火が描写されるのは、カムパネルラの死の意味を伝えるためだろう。

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
                  ヨハネによる福音書15-13

カムパネルラの死の意味をいうとき、まずこの聖句が思い浮かぶだろう。それでいい、と思うし、そう考えなければいけない、とも思うのだが、カムパネルラの死は「自己犠牲」という言葉で終わらせてはならない、という誘惑にかられるのだ。それは「自己犠牲」ではなく「犠牲」の死だった。カムパネルラは「ケンタウルス、露をふらせ。」の叫びに答えたのだ、と。

 思いつきの走り書きです。複雑で底知れない深さの作品に、ほんのちょっとかぶりついてみて、自分の非力に茫然としています。この作品の隠されたテーマと思われる母と子の関係、後半突如として登場する空の工兵大隊と「星とつるはしを書いた旗」のことなど考えてみたいことはたくさんあるのですが、いったんは『ポラーノの広場』に戻りたいと思います。

 今日も不出来な文章に最後までつきあってくださってありがとうございます。
 

2019年3月20日水曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』その2__和解と祈り__宮沢賢治のキリスト教

 この作品は、おそらく作者の最晩年に現存のかたちにまとめ上げられたものと思われる。これは、作者の実生活での葛藤、相克を経て、最後に至り着いたしずかな「祈り」であり、現実との「和解」である。そしてその「祈り」は、作者が熱心な信徒だったという法華経の世界よりもキリスト教のそれに近いように思われる。近いということは必ずしも一致しているということではないのだが。

 宮沢賢治とキリスト教については『銀河鉄道の夜』が取り上げられることが多い。讃美歌が流れ、光が散りばめられた十字架と「神々しい白いきものの人」が登場するこの作品はキリスト教のイメージが色濃く漂っている。作中主人公のジョバンハニが「たったひとりのほんとうの神さま」について、難破した船に乗っていた女の子やその家庭教師の青年と議論する。天上に行くために次ぎの駅で下りるという女の子にジョバンニは言う。

 「天上なんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなきゃぁいけないって僕の先生が言ったよ。」
 「だっておっかさんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ。」
 「そんな神さまうその神さまだい。」
 「あなたの神さまうその神さまよ。」
 「そうじゃないよ。」
 「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
青年は笑いながら言いました。
 「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。
 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
 「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうの神さまです。」
 「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなたがたがいまにほんとうの神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります」
青年はつつましく両手を組みました。

 この部分は『銀河鉄道の夜』の核心だろう。救命ボートに乗り込まずに、難破した船と運命をともにし、いま天上に向かう女の子と青年が信じる「神さま」と、ジョバンニの「たったひとりのほんとうの神さま」は違う神さまなのか。

 女の子と青年にとって、神さまは、最初から彼らの中にある。神さまの存在は自明の理なのだ。むしろ「始めに神ありき」といったほうがいいかもしれない。それに対してジョバンニの神さまは「ぼくほんとうはよく知りません。けれどそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」という神さまなのである。それは「天上よりももっといいとこをこさえる」実践の旅の過程で「よく知らない。けれど」、きっと出会う神さまだろう。

 光り輝く十字架とその前にひざまずく女の子や青年たち、手をのばしてこっちに来る「ひとりの神々しい白いきものの人」を後にのこして汽車は過ぎて行く。ジョバンニの旅はサザンクロスで終わるわけにはいかなかったのだ。終末はもう近いのだが。

 さて、『ポラーノの広場』は主人公の前十七等官等官レオーノキューストが遁げた山羊を探す場面からはじまる。山羊が何の寓意であるかはひとまず置いて、レオーノキューストが、「教会の鐘」の音で目を覚ましたということ、山羊を探しに外に出たら「黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたち」に出会い、おかみさんたちが「教会へ行くところらしくバイブルも持っていた」という記述に注目したい。ここは明らかに、共同体の中心に教会がある場所なのだ。それにしても、「黒い着物に白いきれをかぶった」女たちの登場は異様である。

 遁げた山羊を連れて来てレオーノキューストに渡してくれたのは、ファゼーロという農夫の少年だった。レオーノキューストとファゼーロ、それから羊飼いのミーロという若者の三人は、つめ草の花を頼りに、歌と祭りがあるという伝説のポラーノの広場を探し始める。

 この作品の「つめくさ」は「小さな円いぼんぼりのような白いつめくさくさ」とあるので「白つめくさ」__クローバーのことらしい。いまはもう、ほとんど見かけなくなってしまったが、昔の農村はれんげの薄紅とクローバーの白で田起こし前の田んぼが覆われていた。夢のように美しい光景だった。蛇がいることがあったが、草むらの中で春の長い日が暮れるまでよく遊んでいた。だが、れんげもクローバーも観賞用ではなく、重要な土壌改良剤だった。とくにクローバーは、酸性土壌の改良剤としてアメリカから輸入したもので、賢治が「つめくさ」に托す思いは深かったのだろう。物語のいたるところで、つめ草は「あかしをともす」という象徴的な表現とともに姿をあらわす。

 探しあてたポラーノの広場では山猫博士の酒宴が開かれていた。ポラーノの広場は山猫博士のもので、県会議員である山猫博士は、そこで次の選挙のための酒宴を開いていたという。酒盛りの場で水をくれというレオーノキューストたちと、酔った山猫博士の間で諍いが起こり、ファゼーロと山猫博士は決闘することになる。本気なのか酔狂なのかよくわからない決闘は、山猫博士が一方的に降参して終わるが、勝ったファゼーロは親方の制裁を怖れる。テーモという親方は山猫博士の手下で、酒盛りに参加していたからである。

 この後、山猫博士とファゼーロは二人とも失踪してしまう。ちょっと不思議なのは、ここまでの出来事の時系列が混乱していることである。遁げた山羊を追ってレオーノキューストとファゼーロが出会った日が「五月の終わりの日曜日」で、それから十五日後にポラーノの広場」でファゼーロと山猫博士が決闘し、その「次の次の日」にキューストが警察から呼び出される。ところが警部はキューストに「おまえは(五月)二十七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会にちん入したなあ」と言っており、キューストもそのことばを否定していないのだ。そして警察からの召喚状の日付は「一九二七年六月廿九日」となっている。

 キューストは必至にファゼーロを探すがどうしても見つからない。八月になって、キューストは「イーハトーヴォ海岸で海産鳥類の卵を採集」するために出張する。彼はモリーオ市の博物局の職員なのである。出張も終わりに近づいた時に、キューストは偶然に山猫博士を見つけ、ファゼーロの行方を尋ねるが、山猫博士も知らないという。彼は林の中に木材の乾溜会社を立てたが、薬品価格の変動で経営が行き詰まり、工場を密造酒の醸造に使っていた。そのことで部下に脅迫され、広場に株主が集まっていた。ファゼーロと決闘したあの晩はやけっぱちになっていたのだという。いまは零落して収入の道もない、という山猫博士に同情してキューストは彼のもとを去る。

 九月一日、出張から帰ってきたレオーノキューストの家にファゼーロが姿を現す。ファゼーロはあの晩どうしても家に入ることができなくて、ずっと離れたところまで歩いて行って座り込んでいたら、革の仲買人が車に乗せてたべものをくれた。それからファゼーロは革をなめしたり着色したりする技術を身につけてセンダードへ行った。八月十日にモリーオに帰ってきたファゼーロは、山猫博士が残した工場で村の人と共同で酢酸をつくっていたという。

 キューストとファゼーロはポラーノの広場のちょっと向こうにあるという工場に行く。そこでファゼーロやミーロは村の老人たちと酢酸をつくったり、革をなめしたり、ハムをこしらえるだけでなく、ここにむかしのほんとうのポラーノの広場、「そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」と決意する。
ファゼーロが音頭をとって、「水を呑んで」新しいポラーノの広場の開場式が行われる。

 『ポラーノの広場』の物語はほぼここで終わっている。それから三年後、キューストは仕事の都合でモリーオ市を離れたが、ファゼーロたちの工場は立派な産業組合となり、みんなでつくったハムと皮類と酢酸とオートミールがひろく出回るようになった。最後はレオーノキューストが郵便で受けとった「ポラーノの広場の歌」が記され、作品も閉じられる。

 作品のあらすじを追うだけで、キリスト教とのかかわりについてはふれることがほとんどできなかったが、長くなるので、それについてはまた回を改めたい。キューストたちを導いて、読者ともにポラーノの広場にいざなうつめくさの花のモチーフを中心に書いてみたいと思う。

 書いては消し、書いては消し、いくら繰り返しても、まとまったものができないので、もう一度同じテーマでチャレンジしてみたいと思います。ひとえに私の能力と経験の不足です。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2019年3月7日木曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』__革命の希求と涜神の怖れ

 二十世紀は革命と戦争の時代だった。「宮沢賢治と革命」という命題の立て方は唐突のように思われるかもしれないが、賢治は童話のジャンルでは寓意的に、詩の中では直接に「革命」について言及している。

 サキノハカという黒い花といっしょに
 革命がやがてやってくる
 ブルジョワジーでもプロレタリアートでも
 おほよそ卑怯な下等なやつらは
 みんなひとりで日向へ出た茸のやうに
 潰れて流れるその日が来る
 (略)
 はがねを鍛えるやうに新しい時代は新しい人間を鍛える
 紺色した山地の稜をも砕け
 銀河をつかって発電所もつくれ

 サキノハカという言葉が何を意味するものか諸説あって、わからないそうだが、もうひとつ「生徒諸君に寄せる」と題した詩のなかにもこの言葉が出てくる。賢治が花巻農学校の教師を辞するときの詩である。

 諸君よ 紺色の地平線が膨らみ高まるときに
 諸君はその中に没することを欲するか
 じつに諸君はその地平線に於る
 あらゆる形の山岳でなければならぬ
 サキノハカ〔以下空白〕
 〔約九字分空白〕来る
 諸君はこの時代に強ひられひ率ゐられて
 奴隷のやうに忍従することを欲するか
 むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
 宙宇は絶えずわれらによって変化する
 潮汐や風、
 あらゆる自然の力を用ゐ尽くすことから一足進んで
 諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ 

 これは「グスコーブドリの伝記」の志向するところとほぼ一致するような内容である。この後さらに賢治は

 新しい時代のコペルニクスよ
 ・・・・・・・・
 新しい時代のダーウィンよ
 ・・・・・・・・
 新たな詩人よ
 ・・・・・・・・
 新たな時代のマルクスよ
 ・・・・・・・・
と農学校の生徒たちに呼びかけ、鼓舞する。ここに見られる賢治の「革命」は二〇世紀初頭に現実に起こった二つの革命とも、理念としての階級闘争とも異なっていて、むしろよりラディカルな、狂想ともいえるようなスケールのものである。だが、しかし、複雑なのは、「紺色した山地の稜をも砕け」と言い、「新たな自然を形成するに努めねばならぬ」と断言しながら、一方で

 祀られざるも神には神の身土があると
 あざけるようなうつろな声で
 さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ

と始まる「産業組合青年会」と題する詩が存在するのである。

 まことの道は
 誰が云ったの行ったの
 さういふ風のものでない
 祭祀の有無を是非するならば
 卑賎の神のその名にさへもふさわぬと
 応えたものはいったい何だ いきまき応えたそれは何だ
 (略)
 部落部落の省組合が
 ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
 村ごとのまたその聯合の大きなものが
 山地の肩をひととこ砕いて
 石灰岩末の幾千車かを 
 酸えた野原にそそいだり
 ゴムから靴を鋳たりもしよう
 (略)
 しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
 祀られざるも神には神の身土があると
 老いて呟くそれは誰だ

そしてこの詩のすぐ後に

 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒くふるへている

という詩が続く。「サキノハカ「という黒い花」と「暗い業の花」は同じものだろうか。賢治は、自然の改変という「革命」をこの世にもたらすことをほんとうに望んだのか。
「神々の名を録」す涜神の怖れに堪えることができると考えたのだろうか。


 前置きが長くなってしまったが、そもそも標題の『ポラーノの広場』の意味するところが複雑なのである。賢治が演出して花巻農学校の生徒に上演させた劇の台本として『ポランの広場』と題した草稿が残っているそうである。「ポラン」から「ポラーノ」への変化もまた謎だが、「ポラーノ」の由来も諸説ある。おおむね「ポール」から派生して「北極星」あるいは「北」の意を含む言葉としているようだが、ポーランド語で「薪」を意味するという説も捨てがたい。作品の末尾で、「私」のもとに郵便で「ポラーノのうた」が楽譜とともに届くのだが、その二番の歌詞に

 まさしきねがいに いさかうとも
 銀河のかなたに ともにわらい
 なべてのなやみを たきぎともしつ
 はえある世界をともにつくらん

とある。

 ポラーノの語義として最も有力なのはエスペラント語の「花粉」だと思われるが、またしても独断と偏見の持ち主である私はロシア語の「森の中の草地」説(これはトルストイの生地の地名でもあるようだ)も捨てがたい。「広場」というとすぐに「赤の広場」を連想してしまう私の想像力の貧困が恥ずかしいのだが、元来ロシア語の「赤」は「美しい」という意味だったそうなので、そんなに突飛な連想でもないと思う。

 「革命」の詩の解釈と「ポラーノ」の語義を調べることでかなりの字数をついやしてしまった。「前十七等官 レオーノキュースト誌 宮沢賢治訳述」と記された『ポラーノの広場』の内容については、次回また書くことにしたい。賢治自身が「少年小説」とメモしたというこの作品は、苦渋に満ちた、しかしある種の諦観に到達した作者の自伝小説のように思われる。「革命」はここでは、「フェビアン協会」のような「社会改良主義」といったほうがよいかもしれないのだが。

 なかなか本題に入れずここまできてしまいました。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2019年1月15日火曜日

映画『新しき土』__シュールで奇怪な国策映画の示すもの

 昨年末から何回もこの映画を観ているのだが、さて、何をどう書こうかと構えるとどうしてもまとまらない。いろいろと曰くのある作品である。

 よくいわれるのは、この映画の制作のかげで、日独防共協定が秘密裡に締結されようとしていたということである。一九三六年十一月二十五日締結にいたる日独防共協定の交渉を仲介したフリードリッヒ・ハックという親日家のドイツ人が『新しき土』の実質的なプロデューサーであったといわれている。フリードリッヒ・ハックについては、ノンフィクション作家の中田整一氏が『ドクター・ハック__日本の運命を二度握った男」という著書で詳しく述べられているが、私見では、日独そしてソ連の三重スパイだったのではないかと考えている。

 映画そのものは、これを何と評してよいか__今日の日本人の目で見ると、「国策映画」として何をプロパガンダしようとしたのか、まったくわからないのである。冒頭、祭囃子の笛、太鼓、拍子木の音とともに、富士山と桜を描いた紙芝居の絵のような画面が現れる。その直後に、今度は日本列島を上から俯瞰した画面で、列島上空には煙とも霧ともつかぬものが立ち込めていてる。それから次は火山が噴火する。噴火のシーンは特撮らしいが、映画の中で何回も登場する。噴火、地震の日本列島なのである。火山の後は、険しい岸壁に荒波が押し寄せては砕けるシーンだ。間違っても、「明るく楽しく満州に行こうよ」という映画ではない。

 ストーリーは単純で、洋行帰りの「大和輝男」という若い男性が、許嫁で戸籍上の妹である「大和光子」という少女と結ばれるまでの物語である。輝男は、富士山の見える農村に住む「神田耕作」という百姓の子だが、大富豪の「大和家」の養子となって、海外留学させてもらったのである。輝男を慕い続けて八年間待った光子は彼の帰国の知らせに飛び上がって喜ぶが、輝男は「ゲルダ・シュトルム」というドイツ人の恋人と一緒だった。

 作品のテーマとしては、ヨーロッパの空気に触れた輝男が、日本の慣習を受け入れるまでの葛藤、であろうか。輝男は「日本のために働きたい」と志し、満洲に自己実現の場を見出す。だが、輝男の帰国を知らせる電報が耕作の家に届いたとたんに、地震が起きるのだ。地震と噴火のシーンは、輝男と日本との葛藤の象徴として、繰り返し登場する。輝男の恋人「ゲルダ・シュトルム」のシュトルムも疾風の意なので、日独とも、天変地異が相次ぐことを示唆しているようだ。

 後半は、噴火する山の描写の連続である。輝男に捨てられたと思った光子が、花嫁衣裳を包んだ風呂敷を手に家を出る。そして、一両編成の市電のような電車に乗って、下車すると、そこから登山道に向かい、着物姿で噴火を続ける山に上って行く。これはいったいどこの火山なのだろう。

 余談だが、たぶん、ドイツ人観客のために名所案内サービスを意図したのだろうが、この映画の地理は無茶苦茶である。大和家がどこにあるのかわからないのだが(横浜に輝男を迎えに来た光子が「あたくし、もう東京にいたくありませんの」と言っているので東京でないのはたしかだろう)、大和家の大邸宅を出ると、厳島神社があったり、浜辺に鹿がいたりする。ヨーロッパから航海して横浜港に入るのに松島湾の映像が挿入されたりする。

 光子を追って、輝男も山に登る。光子は着物姿で険しい山を上って行くが、輝男は不気味な沼を泳いで渡ってずぶ濡れになって、靴も履かずに噴火する山をよじ登るのである。足を血まみれにしながら、山頂で光子と巡りあった輝男が、どうやって光子を抱えて下山できたのか、不思議なのだが、延々二十分ほど続くこの部分がこの映画のクライマックスなのだろう。山岳映画を得意としたドイツ人監督ファンク(フリードリッヒ・ハックの大学の後輩で、彼の依頼で監督を引き受けたそうである)の腕の見せ場、というより若き円谷英二が特撮技術を駆使したものと思われる。迫力満点、というべきか、荒唐無稽、というべきか。

 ラストは満洲である。戦車のようなトラクターに乗った輝男と、生まれて間もない赤ん坊を抱いた光子が登場する。王道楽土に新しい生命を育む若いふたり、と絵に描いたような予定調和の画面で終わる。__と言ってもよいのだろうが、このあと少し気になるシーンがある。

 ひとつは、輝男が光子から渡された赤ん坊をトラクターの轍の溝に置いて「坊主、お前も土の子になれよ」という場面である。赤ん坊を泥の上に寝かせて「土の子になれ」とはどういう意味なのだろう。輝男はそう言って微笑みながら光子を見上げるのだが、光子はニュートラルな表情のまま、視線をそらす。その視線の先には、機関銃を構えた兵士の姿がある。

 さらに気になるのが、アップで映された兵士の表情である。赤ん坊を抱いた二人の光景を見ていた兵士は、笑みをたたえていたのだが、視線を上に向けると、笑みは消え、険しい(あるいは恐怖の色を浮かべた)目つきになる。映画はここで終わるのである。  

 「日独合作映画」としての主題は、大和家を訪れたゲルダと当主の巌が岸壁に押し寄せる荒波を前に佇むシーンにあるのだろう。巌は「私たちが極東でこの岩だらけの島を守っている。この防壁にあらゆる嵐は打ち砕かれるだろう」 と言うのだ。しかし、この映画はどう見ても、戦意高揚(まだ日中戦争も日米戦争も始まっていなかったが)、士気を鼓舞、といった目的にかなうものとは思われない。

 もっとも国策映画らしいのは、登場人物のネーミングかもしれない。大和巌、大和輝男、大和光子、神田耕作、神田日出子((輝男の妹)、ネーミングがキャラクターを十分に説明している。

 全編を通して、おどろおどろしい音響と地震、噴火のシーンの連続で、『新しき土』_満洲国建国の希望につながる要素を見出すのは難しいのである。むしろ、頻繁に登場する噴火の映像は、なんだかキノコ雲のように見えてくる。私だけかもしれないが。もちろん、一九三六年に制作されたこの作品にきノコ雲が登場するはずはないので、噴火も爆発も同じように見える現象だということなのだろう。

 見終わっての感想がどうしてもまとまらないのは、私の理解力の不足かもしれないが、敢えていってしまえば、シナリオが悪いのではないか。あれもこれも入れようとして、ただのごった煮になってしまっている。いろいろな要素が無責任に放り出されているように思う。脚本は伊丹万作とアーノルド・ファンクの共同執筆となっているが、プロが責任をもって制作したものとは思われない。何より情熱が感じられないのだ。それでも、現在の金額に換算すると数十億円を費やして出来上がったのがこの映画だそうで、なんとも不思議な気がする。

 作品の欠点をあげつらうより自らの集中力と文章力の不足を自覚すべきかもしれません。一六歳で主役をつとめた原節子の目を見張るような演技力についても触れたかったのですが、また機会があれば、と思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。