2019年3月7日木曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』__革命の希求と涜神の怖れ

 二十世紀は革命と戦争の時代だった。「宮沢賢治と革命」という命題の立て方は唐突のように思われるかもしれないが、賢治は童話のジャンルでは寓意的に、詩の中では直接に「革命」について言及している。

 サキノハカという黒い花といっしょに
 革命がやがてやってくる
 ブルジョワジーでもプロレタリアートでも
 おほよそ卑怯な下等なやつらは
 みんなひとりで日向へ出た茸のやうに
 潰れて流れるその日が来る
 (略)
 はがねを鍛えるやうに新しい時代は新しい人間を鍛える
 紺色した山地の稜をも砕け
 銀河をつかって発電所もつくれ

 サキノハカという言葉が何を意味するものか諸説あって、わからないそうだが、もうひとつ「生徒諸君に寄せる」と題した詩のなかにもこの言葉が出てくる。賢治が花巻農学校の教師を辞するときの詩である。

 諸君よ 紺色の地平線が膨らみ高まるときに
 諸君はその中に没することを欲するか
 じつに諸君はその地平線に於る
 あらゆる形の山岳でなければならぬ
 サキノハカ〔以下空白〕
 〔約九字分空白〕来る
 諸君はこの時代に強ひられひ率ゐられて
 奴隷のやうに忍従することを欲するか
 むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
 宙宇は絶えずわれらによって変化する
 潮汐や風、
 あらゆる自然の力を用ゐ尽くすことから一足進んで
 諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ 

 これは「グスコーブドリの伝記」の志向するところとほぼ一致するような内容である。この後さらに賢治は

 新しい時代のコペルニクスよ
 ・・・・・・・・
 新しい時代のダーウィンよ
 ・・・・・・・・
 新たな詩人よ
 ・・・・・・・・
 新たな時代のマルクスよ
 ・・・・・・・・
と農学校の生徒たちに呼びかけ、鼓舞する。ここに見られる賢治の「革命」は二〇世紀初頭に現実に起こった二つの革命とも、理念としての階級闘争とも異なっていて、むしろよりラディカルな、狂想ともいえるようなスケールのものである。だが、しかし、複雑なのは、「紺色した山地の稜をも砕け」と言い、「新たな自然を形成するに努めねばならぬ」と断言しながら、一方で

 祀られざるも神には神の身土があると
 あざけるようなうつろな声で
 さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ

と始まる「産業組合青年会」と題する詩が存在するのである。

 まことの道は
 誰が云ったの行ったの
 さういふ風のものでない
 祭祀の有無を是非するならば
 卑賎の神のその名にさへもふさわぬと
 応えたものはいったい何だ いきまき応えたそれは何だ
 (略)
 部落部落の省組合が
 ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
 村ごとのまたその聯合の大きなものが
 山地の肩をひととこ砕いて
 石灰岩末の幾千車かを 
 酸えた野原にそそいだり
 ゴムから靴を鋳たりもしよう
 (略)
 しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
 祀られざるも神には神の身土があると
 老いて呟くそれは誰だ

そしてこの詩のすぐ後に

 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒くふるへている

という詩が続く。「サキノハカ「という黒い花」と「暗い業の花」は同じものだろうか。賢治は、自然の改変という「革命」をこの世にもたらすことをほんとうに望んだのか。
「神々の名を録」す涜神の怖れに堪えることができると考えたのだろうか。


 前置きが長くなってしまったが、そもそも標題の『ポラーノの広場』の意味するところが複雑なのである。賢治が演出して花巻農学校の生徒に上演させた劇の台本として『ポランの広場』と題した草稿が残っているそうである。「ポラン」から「ポラーノ」への変化もまた謎だが、「ポラーノ」の由来も諸説ある。おおむね「ポール」から派生して「北極星」あるいは「北」の意を含む言葉としているようだが、ポーランド語で「薪」を意味するという説も捨てがたい。作品の末尾で、「私」のもとに郵便で「ポラーノのうた」が楽譜とともに届くのだが、その二番の歌詞に

 まさしきねがいに いさかうとも
 銀河のかなたに ともにわらい
 なべてのなやみを たきぎともしつ
 はえある世界をともにつくらん

とある。

 ポラーノの語義として最も有力なのはエスペラント語の「花粉」だと思われるが、またしても独断と偏見の持ち主である私はロシア語の「森の中の草地」説(これはトルストイの生地の地名でもあるようだ)も捨てがたい。「広場」というとすぐに「赤の広場」を連想してしまう私の想像力の貧困が恥ずかしいのだが、元来ロシア語の「赤」は「美しい」という意味だったそうなので、そんなに突飛な連想でもないと思う。

 「革命」の詩の解釈と「ポラーノ」の語義を調べることでかなりの字数をついやしてしまった。「前十七等官 レオーノキュースト誌 宮沢賢治訳述」と記された『ポラーノの広場』の内容については、次回また書くことにしたい。賢治自身が「少年小説」とメモしたというこの作品は、苦渋に満ちた、しかしある種の諦観に到達した作者の自伝小説のように思われる。「革命」はここでは、「フェビアン協会」のような「社会改良主義」といったほうがよいかもしれないのだが。

 なかなか本題に入れずここまできてしまいました。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

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