2012年2月10日金曜日

「甲州子守唄」__深沢七郎の世界の続き

私が生まれて育ったのは東京郊外の町だった。純農村地帯だったのが、戦後まもなく大企業の工場誘致をして、周囲に住宅が増え、比較的早い時期に新興住宅地に変わっていった。だから言葉は標準語と呼ばれるものに近かったが、それでも、土地に住みついていた人たち独特の言い回しがあって、町を流れる川の向こうとこっちで「言葉が違う」ともいわれていた。だが、私は小、中、高校と地域の学校に通わなかったので、土地ことばが使えない。「故郷の訛りなつかし」という感覚を知らない。日本人なら、いつでも、どこでも、だれとでも通用する「標準語」しか話せない、ということがある種のコンプレックスになっているような気がする。私が深沢七郎を愛読するのは、その甲州弁だか石和弁だかが懐かしいからかもしれない。

 「甲州子守唄」は1964年_昭和39年に発表された。笛吹川の橋のたもとに住む「徳次郎」とその母親「オカア」の一家の物語である。不思議なことに深沢の小説の登場人物には苗字がない者が多い。それどころか、固有名詞さえ与えられていない場合もある。この小説でも、徳次郎とならぶもう一人の主人公「オカア」の名前は最後まで記されない。名前などなくても、物語はどんどん進む。さらさらと、それこそ「川の流れのように」深沢は「エンサイクロペディア・イサワーナ」とでも呼びたいような世界を語るのだ。

 物語は、明治の終わり、徳次郎が「アメリカさん」とよばれる移民になって、出稼ぎに行くところから始まる。オカアは、徳次郎がアメリカに行って稼いで20年もすれば「俺家(おらん)でもお蚕を飼ったり」田畑も買える。家も建てられると夢を抱く。徳次郎も、1万円は稼いできて、世話になった母親の妹にも「百円ぐれえは」やろうと思っている。「おばさんだものを」義理は欠くことができないと思っているのだ。「しっかりやっておいでなって」と村の人が叫ぶ中、徳次郎は石和の駅を出発する。

 「10年たったら、帰(けぇ)ってこう、きっと、嫁をきめておくから」と徳次郎に約束してオカアは心待ちにしていた。渡航費用の借金をひと月で返してきた徳次郎は、10年後、砂糖とシャボンと横浜で買ってきた餅マンジュウを土産に戻ってきた。だが、肝心の嫁が決まらない。「アメリカなんかへ行けばうちの人とは生き別れのようなもんさよ」と誰も相手にしてくれないのだ。それになんだか、徳次郎の様子がよそよそしくなっている。アメリカでいくら貯めてきたかをオカアにも教えないのだ。やっと決まった嫁は、乞食の「オクレやん」という女が世話した「狐ッ付きみたいに口がとがっている」不器量のため嫁ぎそびれていたチヨという娘だった。10日ばかりいて、徳次郎はチヨを連れてまたアメリカに戻った。

 さらに10年後、徳次郎はアメリカで生まれた三人の子とチヨの一家五人で帰国した。金は貯めてきて横浜の銀行に預けて利息だけでも相当な収入になるのだが、アメリカに行く前は「百円ぐれえは」やろうと思っていた母親の妹が「20円あればトタン屋根にしたり、湯殿がつくれるけんど」と頼みに来ると、徳次郎は「ゼニを貸してくりォというようなつもりだったらおばさんとは思っちゃいんからね。いますぐ縁を切ってもらいてえ」と怒る。アメリカに行って「ヒトが変わって、薄情に(すっちょなく)な」ってしまったのだ。

 徳次郎が「アメリカさん」になってせっかくためたお金は、戦争になって物が足りなくなるとインフレでどんどん目減りしてしまう。徳次郎が最初に送ってきたお金でささやかな商いを始めていたオカアは、闇の物々交換に手を出すようになる。したたかに闇商売で儲けたオカアだったが、戦争が終わる頃には「髪の毛も白いし顔も頭も胸も白い象のような皺になって」座ってばかりいる。徳次郎が、闇で商うサッカリンにうどん粉をまぜているのを知っても「(いい人間(ひと)で終わってしまうことなんか出来んさ)」と開き直り、「(いいさ、いいさ、、恥をかいてもしかたがねえさ)」とひとりごとを言うのだった。

 「甲州子守唄」は徳次郎とオカアの物語を軸に、石和近辺の風俗と人情の変遷を描く。40年あまりの出来事を一気に読み下せるのは、なにより登場人物の使う石和弁が面白いからである。作者は、いいことも悪いことも、なんでも区別せずに、さらさらと書いていく。作中、もっとも印象的だった石和弁は、戦争中、「ボコに乳(うんま)をやっていた」女のひとが機銃掃射で撃たれて言った「あれ、わしァ困るよう、死ぐじゃアねぇらか」ということばと、それを教えてくれた人の「場即(ばそく)だそうでごいす」ということばである。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月9日木曜日

「愛らしい口もと、わが眼は緑」___信仰、希望、愛

『ニューヨーカー短編集Ⅲ』に掲載されていた表題の小説を初めて読んだのはいまから40年以上も前だった。若かった私は、この小説をよくできた心理小説ないし風俗小説として読んでいたような気がする。唐突な結末が、でも何となく、納得できてしまうのが不思議だった。

 物語は、男と女がベッドを共にしているところに、女の夫から電話がかかってくる。一緒にパーティにでかけた妻が家に戻らないので、居どころを知らないか、と聞いてきたのだ。電話を受けた男は、夫の話に適当に応答しながら、なんとかなだめて、女が帰ってくるのを待つように説得しつづける。弁護士らしい夫は、裁判に負けたこともあって、どん底の精神状態である。夫は、妻である女が男にだらしがないことを呪い、教養がないことをののしり、だが、そんな妻がいかに無邪気で魅力的な女であるか、いかに自分に献身的に尽くしてくれたことがあったかを語って、電話を切ろうとしない。最後に夫は、男の家に行って一杯飲ませてくれという。もちろん、夫に来られたくない男は、妻を家で待つように夫を説得して電話を切る。するとまもなく、また夫から電話がある。男と話し終わった直後に妻が帰ってきた、と言う。そして、ニューヨークという都会を離れて、二人の生活をやり直し、裁判の結果についても善後策を講じてみるつもりだと言うのだ。話し続ける夫をさえぎって電話を切った男は、放心状態で、落とした煙草を拾い上げようとした女をどなりつける。

表題は、作中、夫が妻である女に送った自作の詩「わが色はバラ色にして、白し、愛らしい口もと、わが眼は緑」の一部である。「あいつは緑色の眼なんかしちゃいない__あいつの眼は海の貝殻みたいだ」とある。夫にとって、妻である女は、愛することのすべてだった。だが、女から愛される望みは、少なくとも夫が女を愛するように愛されることは、ほとんど望めなかった。いや、まったく望めなかった。その望みのない望みに夫は賭けたのだ。信じられない妻を信じたのだ。不可能な愛を可能にしたのだ。まさに、「信仰と希望と愛、この三つのものは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは愛である」(コリント人への手紙13章13節)である。

 電話を受けた男は、女の夫の「信仰告白」に打ちのめされる。男とベッドをともにしているのは、「ジョーニイ」と呼ばれる女のぬけがらではないのか。真実の「ジョーニイ」は夫のもとにいるのではないか。男に残されたものは何があるだろう。優位な立場にたって、うまくやりぬいたと思っていた男は、じつは自分が決定的な敗者である、という事実に呆然とするのみだった。

 この作品と、これより以前に発表された「バナナ魚には理想的な日」のシーモアの自殺を関連付けて考えてみようと思っています。まとまったものを書くには、もう少し時間が必要なようです。

 今日もできの悪い読書感想文を読んでいただいて、ありがとうございます。

2012年2月6日月曜日

田中小実昌『アメン父』について__物語は否定できるか

昔田中小実昌の訳でチャンドラーを読んだことがある。ハヤカワミステリの『湖中の女』と『高い窓』だった。清水俊二さんの感傷的なようできちんと勘所を押さえた名訳を読み慣れていたので、田中小実昌の短く文節を区切って言葉をつなげていく訳になじめなかった。今でも、『湖中の女』と『高い窓』を読み返す気がしないのは、チャンドラーのせいではなく訳がしっくりこないからだと思う。推理小説は哲学書ではないのに、いちいち立ち止まって言葉を吟味していては、ストーリーを追うことができないのだ。


『アメン父』は田中小実昌の父「田中種助」(のち遵聖と改名)とイエスの物語である。種助の伝記ではない。書き出しはこうである。
「大きな机の上に、いくつか分けてつんであった。若いときの父に関するものなどだという。」物語は父が軍港呉の山腹に教会と住居を建てたところから始まる。父は「(神から)拝命された」どこの派にも属さない、十字架もない集会の牧師である。父と信者たちは、集会をする場所を「教会」と呼ばず、「中段」と呼んだ。その下に牧師をつとめる父の家があり、さらにその上にも建物があったからである。十字架がないのに、「集会でのわめいたりさけんだりの祈りには、ジュウジカジュウジカという言葉がよくきこえた。」とある。ずいぶん、ラディカルといえば聞こえがいいが、狂信的な感じがする。小実昌は「信仰はココロではない」と何度もくりかえしているが、そこまでいけば、「ココロではない」に決まっている。「言葉」でも「行い」でもないだろう。ただ「十字架」なのか。それでは、何も言っていないのと同じことのように思われるが。

 誤解のないようにことわっておくのだが、これは「田中種助の物語」ではない。「種助とイエス(と小実昌自身の)の物語」なのだ。少なくとも、私はそう読んだ。「物語」について、マルグリット・デュラスの『愛人』の最初にこういう文章がある。
「私の人生の物語などというものは存在しない。そんなものは存在しない。物語をつくりあげるための中心などけっしてないのだ。道もないし、路線もない。ひろびろとした場所がいくつか、そこにはだれかがいたと思わされているけれど、それはちがう、だれもいなかったのだ。」
「だれもいなかった」けれど、語る「わたし」はいて、この後デュラスは「私の青春のごく小さな小さな部分の物語」を始める。小実昌は「道もないし、路線もない。ひろびろとした場所」の時間、空間を行きつ戻りつしながら、種助とイエスと、そして自分自身の物語を語るのだ。

 種助とイエスの出会いは、時系列で整理すれば、明治四十一年種助がアメリカに移民として入国し、シアトルの農園で働いていたときのことだった。「朝五時から晩の九時半までノベツにはたらかなければならぬ」生活の中、明治四十五年ユニテリアンの久布白直勝牧師から洗礼を受ける。のち種助はユニテリアンを「理知信仰」としてこれからはなれる。帰国して大正十四年「はじめて天来の霊感に触れ」歓喜するが、時とともにこれを失い絶望する。だが、昭和二年五月一二日「この機においつめられるや、忽然として観照の光明に接し、生けるキリストの十字架解明の一大発見を与えられ」る。昭和三年一月に小倉市西南学院シオン教会を辞任し、八月十七日呉市に独立教会アサ(聖なるものに遵うの意_種助いわく)会を設立し、牧師となる。ふりかえると、種助の転機というべきものは三度あったが、そのつど信仰を深めた、といった単純なものではなかったようだ。むしろ、転機が訪れるたびに、混迷と絶望は深まっていったように思われる。

 こうして時系列を整理しても、種助についてもイエスについても小実昌自身についても、何も語っていないことに気がつく。小実昌自身が周到に「物語ること」をさけているからだ。「人生の物語などいうものは存在しない」と書いていながら、臆面もなく何葉かの写真を小説に添えたデュラスにたいして、小実昌は、父の写っている何枚かの写真について、文中何度も言及しながら、一枚も載せない。信仰は因果律ではないし、いわんや物語でもないのだから、物語をつくってしまう要素はなるべく排除したのだろうか。それでも、『アメン父』は物語なのだと思う。すくなくとも、「物語」を「解体」した「小説」である。テーマは種助とイエス、ではなく、小実昌その人とイエスだ。

 今日も出来の悪い読書感想文を読んでくださってありがとうございます。

2012年2月5日日曜日

「太っちょのオバサマ」は誰か_____深沢七郎のキリスト

太っちょのオバサマはキリストである。これはサリンジャーの『フラニーとゾーイ』の「ゾーイ」で最後にゾーイが明かす秘密だ。といっても、今日のテーマはサリンジャー論ではない。私はサリンジャーのよい読者ではない。ただ自意識の牢獄で苦闘するフラニーに、最後にゾーイが投げかけることば「そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。・・・・よく聴いてくれよ___この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみには分からんだろうか?・・・・ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」(野崎孝訳)の意味が長い間わからなくて、ずっとやりのこした宿題を抱えているような感覚を心のどこかにもっていたのだ。

 わかった、と思えたのは、深沢の小説を読み直すようになってからだった。今日取り上げる「揺れる家」は、サリンジャーの「フラニー」が出版されたのと同じ1955年_昭和30年に執筆され、「ゾーイ」が出版されたのと同じ1957年_昭和32年に発表された作品である。荷物を運搬する舟の上で生活する一家四人の出来事が庄吉という少年の語りで語られる。庄吉一家は庄吉の祖父「おじい」と母親「母あちゃん」、「吉」と呼ばれる父親「父うちゃん」、と戸籍すら定かでない少年「庄吉」が舟の中の狭い二畳間に住んでいる。庄吉は実は「おじい」とおじいが養女に迎えた「母あちゃん」の間に生まれた子で、「父うちゃん」はその事実をごまかすためにおじいが探してきた婿なのだった。「杓子くらいしかない小さい顔で頭はとんがり帽子のように尖っって瓢箪みたい」な「よりによった醜男で頭の足りない」父うちゃんはおじいだけでなく母あちゃんからも無視され、辛い目に合っている。だが父うちゃんは庄吉にはいつもやさしく、面倒をみてくれるのだった。

 ある夜、暗闇のなかでおじいと母親、父ちゃんの三人の無言の格闘劇が繰り広げられる。母あちゃんを巡って、三人とも一歩もゆずらぬ肉のせめぎ合いがあったのだ。翌朝、おじいが父うちゃんをたたきのめして、舟から追い出してしまう。事件はその後、母あちゃんの両親の介入で収まるかに見えたのだが、父うちゃんが行方不明になり、クリスマスの朝、おじいが警察に連行されるという展開になる。誰もが、父うちゃんはおじいに川に突き落とされて死んでしまったと思ったのだが、正月になって、庄吉はすれちがった肥舟の上に立っている父うちゃんを見つける。幽霊かと思った父うちゃんはじつは生きている人間だと知った庄吉は、見えなくなった父うちゃんに向かって、舟からころげおちそうになるくらい大きく手を振った。

 「フラニーとゾーイ」と偶然にも同じ年に発表された深沢の「揺れる家」は、サリンジャーが精緻な自我の分析と宗教批判を展開してようやく最後に用意した救済を、なんの衒いもなくまっすぐに呈示している。父うちゃんこそ「太っちょのオバサマ」だ。なんの力もなくて、なにもできなくて、けれど、庄吉にとっては父うちゃんはキリストだった。物語の最初に、父うちゃんが流れてきた板切れを拾って、玩具にするために、庄吉の背中に投げてくれる場面がある。血がつながっていなくても、自分が辛い目にあっていても、父うちゃんは庄吉を愛してくれたし、庄吉も父うちゃんが好きだった。キリストは教会の中で聖書を読み讃美歌を歌うときにいるのではない。街の中に、家の中に、どこにでもいるのだ。だれもがキリストになれるし、ならなければいけない。いや、すでにキリストなのだ。この後「楢山節考」のおりんに具現化される深沢のキリストは、この小説の中では、おりんのように美化され理想化された形でなく、現実のどこにでもいそうな能なしの姿でぽんと現れた。救いは天からくるのではなく、私たちのうちにあるのだ。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月2日木曜日

深沢七郎の世界___近代的自我とは何か

この頃また深沢七郎を読み始めている。なんだか深刻そうな、ちゃらちゃらした言葉が煩わしくなるときがあって、無性に深沢の描く「庶民」の「あたたかさ」に触れたくなることがある。

 「おくま嘘歌」は昭和37年から42年にかけて発表された「庶民列伝」という連作の第一作である。本名は「つば」だが、死んだ亭主の名前が熊吉だったので「おくまさん」と呼ばれるようになったくまは「色が黒くて背(せい)が低く、足が短くて四角の様な肩幅で、顔はでかいが眼が細く、アタマが小さくて頸が短」いが「ひとに親切だし、正直だし、働き者」だ。息子と娘の二人の子どもはりっぱにそだち、孫にも恵まれて、生活に不自由はないが、鶏を飼うのが上手で、卵を産ませて商いをしている。楽しみは嫁に行った娘の顔を見にバスを乗り継いで出かけることだが、、孫に会いたくて来たと嘘をつく。娘にひとときでも楽をさせたいので、孫の子守をしてやるのだが、娘に気兼ねをさせたくないのだ。肩にずっしり重い子をおぶって、ふらふらになっても「なーに、いっさら」と嘘をつく。夕飯の蕎麦を打ってやって、目いっぱい働いて、家に帰って、また、今度は息子たち家族のために「なに、いっさら」と働くのである。体の自由がきかなくなると、栄養のあるものは「舌がまずくて」嫌いになり、栄養のないトコロテンを「口あたりがいいら」と食べて、みずから死期を早めるのだ。

 ここに描かれる「庶民」おくまは、徹底的に他者のために生き、他者のために死んでいく。みずからのゆたかなエロスを他者に幸せをあたえることだけにふりむける。知識とか教養ということばとは無縁の、だが、実に繊細で意志の強い人間を「庶民」と呼んで、深沢は提示したのだ。

 もう一つ「おくま嘘歌」とは対照的な「庶民」の話。「おくま嘘歌」より以前の昭和24年ごろに書かれた「魔法使いのスケルツオ」という小説の主人公おつまは、小商いと金貸しで生計をたている。死んだ亭主の母親を世話しているが、どはずれた吝嗇なので、満足に食事もあたえない。息子が二人いるが長男は金の無心に来るだけである。あるとき、長男と修羅場を演じた挙句、金をむしり取られたおつまは、腹いせに姑の食事を断ってしまう。どんなに懇願しても食事がもらえない姑は、餓死寸前の身で部屋のすぐ下を流れるドブ川の岸に降りる。そこで野菊をつんで戻り、むしろに突き刺して死んでいく。その後、おつまは姑の葬式で、手伝いの近所の連中や戻ってきた二人の息子にさんざん散財をさせられる。みんなこの機会に吝嗇なおつまからむしりとってやろうとたくらんできたのだった。

 こちらは徹底的に自分の慾だけに生きる人間を描いた。おつまには、倫理、道徳の観念のかけらもない。唯一「世間」は存在して、最後にその「世間」にやられてしまうのだ。「(稼いでも、みんな使われてしまうのだ)そう思うと涙がポロポロとこぼれてきた」口惜しくてたまらない。だが、反省などとは無縁である。(嫌な奴だったなァ)と思う「姑の姿が戒名だけの小さな形になってしまったので、そう思えばなんだか安心して、口惜しさも少しは我慢する気になってきた。」

 徹底して他人のために生きたおくまと、徹底して自分のためだけに生きたおつま。そのどちらも、懐疑とか内省とか、いわゆる近代的自我とは無縁の人間たちである。あるがままの状況に生き、あるがままの状況を生き抜いていった人間たち。おつまの姑も、受け入れざるを得ない状況を受け入れ、死んでいった。深沢はその姑に人間としての尊厳を保たせるために、野菊を一輪手向けたのだ。日本の社会にも、ほんの少し前までおつまの姑のような人たちは実在していたのだろう。もちろんおつまも、それからおくまも。そのだれもが「あたたかい」のである。つくりものでない、生身の人間の肌触りが懐かしいのである。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。