2013年5月7日火曜日

『万延元年のフットボール』_______「谷間の村」とスーパー・マーケットの天皇

 『万延元年のフットボール』には、読む側の想像力を刺激する神話的イメージがちりばめられている。前回私は「根所蜜三郎」というネーミングに「乳と蜜の流れる地_カナン」を連想したのだが、同時に「根」の「所」から地下=冥界を連想することも可能であり、そのような両義性はこの作品のいたるところにしかけられているように思う。だが、いまはどこまでも想像力を刺激する豊かな神話的イメージをあえて消し去って、「作品が記述している歴史」をたどってみたい。

 「作品が記述している歴史」としてもっとも古いのは、いうまでもなく題名となった「万延元年」の一揆である。苛斂誅求に耐えかねた谷間の百姓が、藩主に代わって金を貸し出し、百姓を救済しようとした庄屋=根所家を襲って、暴力と略奪を恣にしながら、城下町に繰り出して行った。しかも、先頭に立って「頭取」と呼ばれ一揆をリードしていたのは、庄屋=根所家の弟であった。次に記されるのは、敗戦下に起こった朝鮮部落の襲撃事件である。谷間の村の百姓が、自分たちが隠匿していた米を略奪し闇米にして売っていた朝鮮部落を襲って死者まで出した事件と、それに対する朝鮮人たちの報復戦争とも言うべき事件である。そのどちらにも警察が介入することはなかった。S兄さんと呼ばれる根所家の三男は二回目の事件のとき撲殺された。そして、最後に蜜三郎の弟鷹四が企てたスーパー・マーケットの略奪の有様が記される。

 それぞれの「歴史の解釈」は、歴史を語る人たちの立場と思いによって異なっている。狂気の人とされる蜜三郎の母親は、万延元年の一揆で、倉屋敷に籠もって銃を持ってたたかった曽祖父は勇敢な人であり、その弟は自分の家屋敷に放火して打ち壊した狂人であるという。「村全体の魂に責任をもつ」と書かれる寺の住職は、そもそも一揆は隣藩から潜入してきた工作者の企てたもので、曽祖父と弟は、あえて一揆を起こすことでそれ以上の混乱を避けようと、おたがいの役割を演じたのだとする。

 朝鮮部落の襲撃「事件そのもの」の解釈は前記の通りで揺らぎはないようだが、「S兄さんの死」の記憶は蜜三郎と鷹四の間には埋めようのない亀裂がある。鷹四によって語られるS兄さんは、水も光も泥さえも何もかも白い河原で、頭を打ち砕かれ腕を肩の上にかかげ走っているような足の形で死んでいる。無残な、しかしこの上なく聖化された美しい死である。それに対して、蜜三郎は、朝鮮人が死体を覆うために白い絹布をくれ、愛情をこめて死体をとりあつかったことは語るが、S兄さんの死体そのものは縮みこんで泥にまみれて血の匂いをたてていた、ときわめて即物的な表現をする。鷹四が語るS兄さんの死は、海軍帰りの年若いヒーローの死であり、蜜三郎のそれは、朝鮮人を一人殺してしまった谷間の村がバーターとしてさしだした犠牲者の死だったのだ。

 最後に鷹四とフットボール・チームの略奪の有様が記される。日当を払ってチームのメンバーを募り、訓練し、武器となりうる工具も揃えて、だが、略奪は二日間しか続かなかった。厳密には一日だけだったとも言える。そしてリーダーの鷹四は、略奪の蜂起が失敗に終わったことの責任をとって死んだのではなく、不可解な強姦殺人事件を起こして自殺したのである。いったい、この事件は何だったのか?鷹四と相対するスーパー・マーケットの天皇とはいったい何か?

 鷹四がスーパー・マーケットの天皇と会ったのは、谷間の村の若者が養鶏に失敗して鶏を全滅させ、その善後策を講じに町に出かけて行ったときが最初ではない。天皇が「偶然に」視察に訪れたアメリカで二人は出会っている。そして、そのときに鷹四は(兄の蜜三郎に無断で)郷里の倉屋敷を売る話をまとめているのである。物語の前半でさりげなく語られるこのことは、二つの意味で非常に重要である。一つは、根所家の人間にとって、谷間の村にはもはや帰るべき家はなかったのだということ。それから、「倉屋敷」という建物そのものだけでなく、鷹四は「土地」までも売って、まとまった代金を手にした、ということである。フットボール・チームのメンバーを養い、略奪を企て、実行した資金の出所はスーパー・マーケットの天皇その人だったのだ。鷹四と天皇との間には、万延元年の一揆における曽祖父と弟のような共犯関係はなかったのだろうか。現実に、事件の後スーパー・マーケットで売る日用品は二、三割も値上がりしたが、人々は、特に女たちはこぞってそれを買った。天皇は確実に谷間の村に対する支配力を強めたのである。「窪地は屈服した。」と作者は念をおす。

 スーパー・マーケットの天皇は、まず念仏踊りの「御霊」として登場する。鷹四が指揮した季節はずれの念仏踊りの一行が倉屋敷に繰り込んでくる。折口学まで持ち出して考証する「念仏踊り」と「御霊」の詳しい説明は省くが、要するに、村に厄災をもたらすとされる死者の霊を迎え、慰撫する行事である。死者の扮装をした村の若者が森から行列してくりだし、倉屋敷にたどり着いて円陣をなす観客の前で踊る。だが、やってくるのは本来死者の「御霊」であるのに、この季節はずれの念仏踊りのそれは生きているスーパー・マーケットの天皇とその妻なのだ。

 ホンブルク帽をかぶり何故かシャツを着ないで黒いモーニング・コートにチョッキという扮装の天皇を演じるのは、鶏を全滅させた養鶏グループのリーダーである。容貌魁偉の若者である彼が演じる天皇の「御霊」は次のように描写される。「かれは躰を丸めこみ上品な猫背でゆっくり歩きながら、四囲の観衆に威厳のこもった会釈を繰りかえす。」純白のチマ・チョゴリを着て天皇の妻を演じるのは、鷹四たちに占拠されたスーパー・マーケットの事務室で、散髪する鷹四の髪を新聞紙に受けていた「小柄な肉体派の娘」である。スーパー・マーケットの天皇の連絡係りだったのが、鷹四たちの協力者となり、天皇攻撃において勇猛果敢であるという。彼女の様子は次のように描写される。「猥らなほどあからさまに上気した桃色の魅惑的な谷間の娘は、注目の的たるスターの昂揚感にうっとりと微笑んで、眩しげになかば眼を閉じた小さな顔を青空にむけ優雅に歩いていた。」

 天皇の妻を演じた「肉体派の小娘」は不可解な強姦殺人事件の被害者として死んでしまう。一方現実の「スーパー・マーケットの天皇」は物語の最後に、はじめて密三郎の前に姿を現す。天皇が谷間にやってくる、という報告を受けて、村役場前の広場まで降りて行った蜜三郎が見た天皇は「踵に達するほどに長い外套の裾を蹴りながら、軍人のように規則正しく歩いてくる大柄な男」で「大きい袋みたいな鳥撃ち帽をかぶったかれの丸い顔は、遠眼にもあきらかに血色よく肥満している。」と描写される。そして、天皇と蜜三郎の会見は次のように記述される。「やがてスーパー・マーケットの天皇は僕の所在に気づいた。それはともかく僕が、かれと視線のあうことを惧れずにかれを待ちうけている谷間で唯一の人間だからだ。」「根所です。あなたと取引した鷹四の兄です、と僕は自分の意志に反して掠れてしまう声で切りだした。」

 ペク・スン・ギと名告る天皇の容貌は作中他に例を見ないほど詳しく描写される。「豊かな下瞼の上にゆったりと乗っかっている大きな眼」「頬から顎にかけてたっぷりと肉のついた陽気な顔」「白(ペク)の眉は濃く太く鼻梁も逞しいが、赤く濡れた小さい唇は娘のようだし耳は植物さながらみずみずしく、顔全体に若々しい生気を与えている」スーパー・マーケットの天皇の描写はなぜこれほど精細をきわめているのだろうか。

 根所家とスーパー・マーケットの天皇との関係についてはまだ考察しなければならないことがあって、それがこの作品の謎を解く最も重要な鍵であると思われる。それについては、自殺した友人の死体を前に友人の祖母が「サルダヒコのような」と言ったこと、顔を朱に塗り、裸で肛門に胡瓜を差しこんで縊死した友人の死に語り手の僕が最後までとらわれなければならなかったことの意味をも考えなければならない。とりあえずの備忘録その2として、今回は作中の天皇の描写を中心に書き留めてみた。

 今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 


















 

0 件のコメント:

コメントを投稿