『水死』は不思議な小説である。主人公は誰か?大江健三郎は何故この小説を書いたのか?
十七歳の少女が強姦され堕胎をさせられる。十七年後女優になった彼女は強姦した男に復讐する。物語の縦糸はこれである。縦糸に絡む横糸として、作家長江古義人の「水死小説」がある。縦糸と横糸で織り成された作品は未完に終わった水死小説の「現実」による完成を遂げて終わる。
さて、それで、この小説の主人公は誰か?古義人の娘真木の似姿として登場し、ウナイコとよばれる(本名はミツコ)女優、ウナイコを強姦した元文部省の高級官僚を銃殺する錬成道場の主宰者大黄さん、古義人の妹でウナイコの強力な支援者かつ隠然たるフィクサーのアサ、そして未完の水死小説を断念し、ウナイコのために「メイスケ母出陣」の脚本を書く古義人、そのいずれもそれぞれの物語を持って登場する。それぞれの物語がもつれながら絡みあい、放れ、そして最後に唐突に終わる。ここでは、小説の冒頭に颯爽と登場するウナイコについて考えてみたい。
運河に沿った道路で転倒しかけた古義人を文字通りサポートしてくれた娘ウナイコとの出会いは、しかし偶然ではなかった。偶然にみえた出会いは、古義人の妹アサの助言により周到に準備されたものだった。以後、ウナイコと彼女の劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の仲間たちは、四国の「森の家」を根拠に古義人の「水死小説」の進行をリアルタイムで追いながら活動を始める。
ウナイコという奇妙な名の由来はアサが語っている。古義人の娘真木が小さい頃古代の「うない(髪)」のような髪型をしていて、それがウナイコとよばれるようになった娘の髪型と同じだったこと、髪型だけでなく真木とウナイコは似ていること、そして劇団のリーダーの「穴井」_アナイとの発音も似ていることからウナイコ自身がウナイコと改名したのだという。古義人の母が教えたという古歌も引用されている。
郭公(ほととぎす)をちかへり鳴けうなゐこが打ち垂れ髪のさみだれの空 躬恒 拾遺集
「うなゐこが打ち垂れ髪の」の部分の解釈が、私のなかでどうしても揺らぐのと、「郭公をちかへり」の「をちかへり」に、たんに「若返り」というような軽い語感におさまらないものがあって、複雑な思いがする。「をちかへる」という言葉については折口信夫がよく言及していたように記憶するのだが。
小説の中でウナイコの果たす役割は何だろう。彼女は、穴井マサオとともに古義人の作品を演劇化する劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」のリーダーとして活動するが、次第に劇団から自立していく。その過程で、かつて古義人が書いた『みずから我が涙ぬぐいたまう日』が、ウナイコにとっても古義人にとっても読み直されていく、ということが起こる。これは非常に重要かつ複雑な転換である。
古義人が「森の家」に帰ってまもなくの日曜日「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」が演劇版『みずから我が涙ぬぐいたまう日』のリハーサルを行う。ウナイコはベッドに横たわる(自称癌患者の)作家の幻影の少年を演じる。皇居爆撃のための飛行機を調達するために、少年の父を木車に載せ、トラックで地方都市へ向かう軍人たちは外国語の歌を合唱する。バッハのカンタータ(「マタイ受難曲」から)である。原文はドイツ語だが、少年の父はこのように訳して少年に説明する。
天皇陛下ガ、オンミズカラノ手デ、ワタシノ涙ヲヌグッテクダサル、死ヨハヤク来イ、眠リノ兄弟ノ死ヨ、早ク来イ、天皇陛下ガミズカラソノ指デ、涙ヲヌグッテクダサル
「天皇陛下、オンミズカラ」は実際は「Heiland selbst 救い主みずから」となっているのだが、ここでは、問題は訳語の違いではなく、ウナイコ扮するゴボー剣に戦闘帽の少年だけでなく、現実の古義人自身が観客席で歌い始めたことである。それも、一緒に見ていた妹のアサが「あんなに入れ込んで歌っているのを聴いたことはないよ」と言うほど熱心に。
「ずっとずっと感性のなかに埋もれていた歌が、将校や兵隊たちに扮している「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の合唱を聴いているうちに……もしかしたら、コギー兄さんの魂のあたりによみがえったんじゃないの?」とアサは続ける。優れた音楽はある種の魔性があって、理性や経験をこえた情念で人間を囮にしてしまう。(賛美歌や聖歌を捨てきれない私はつくづくそう思う)自分自身も合唱に感動したアサは、古義人の情念が「水死小説」のベクトルとなることを恐れる。
ウナイコもまた、実際に舞台で少年を演じながら、ドイツ語で歌う古義人を見て衝撃を受ける。そして、十七年前伯母と靖国神社に行って、日の丸と軍服軍帽に長剣をもった男を見ながら吐いてしまった、という体験を話す。実はこのとき彼女は妊娠していたのだが。
この一連の文脈で『みずから我が涙ぬぐいたまう日』は、超国家主義者の父と父を慕う少年の物語として読まれている。だが、『みずから我が涙ぬぐいたまう日』はそのような一義的な小説だろうか。『みずから我が涙ぬぐいたまう日』については、以前「ハピィ・デイズという逆説」とサブタイトルをつけて書いているので、興味のある方はそちらを参照していただければありたい。少年の父はつねにあの人とゴシックで記され、「神話か歴史の中の、架空にちかい人物」のようだと書かれている。水中眼鏡とヘッドホーンに身をかためた主人公の作家は「かれ」と自称し、みずからの語りを「遺言代執行人」と呼ぶ妻に口述筆記させるのだが、これを叙述する文章もまた三人称なので地の文でも作家は「かれ」と呼ばれる。非常に入り組んだ複雑な構成なのだ。
なので、当然のこととして、難解極まりない作品となっている。だが、この小説は、意表をついた出だしといい、生き生きとしたプロットの展開といい、謎だらけのまま一気呵成に最後まで読ませる魅力にあふれている。そして、私は独断と偏見で、ひそかに、この小説は、野次とヘリコプターの轟音の中で声を振り絞って演説し、死んでいった三島由紀夫へのレクレイムでありオマージュだと思っている。
多面的重層的な『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を、超国家主義者の蹶起と殉死、そこに傾斜していく古義人の「戦後の改革を徹底して支持する教条主義とはまた別に、深くて暗いニッポン人感覚」という主題に一義化してしまった理由は、この後ウナイコが高校生対象の演劇で取り上げる漱石の「こころ」の主題と共通する要素に絞り込みたかったからだろう。時代精神と殉死、そして決して文字化されることなく語られる大逆事件___『水死』の中に突然登場する「高知の先生」が指し示す存在は何かについて考えなければならない。いうまでもないことだが、ウナイコはこれらの主題にたいして批判的である。演劇を討論の場とし、反対意見を述べる相手方に「死んだ犬を投げる」という奇妙、というよりグロテスクな方法は、彼女の批判の過激な実践の手段だった。
ウナイコについては、これからが本論、といったところですが、長くなるので、続きはまた回を改めたいと思います。相変わらずの未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2015年11月9日月曜日
2015年10月10日土曜日
夏目漱石『こゝろ』__いくつかの不思議の妄想的分析その2__「自白」が守った「純白の記憶」
渡部直己氏も触れていることだが、『こゝろ』の中には、登場人物が心中を吐露する文脈で「自白」という言葉が多用されている。上巻「先生と私」では二箇所だが、下巻「先生の遺書」では十六箇所、計十八箇所で使用され、後半に頻出する。これが作者の無自覚な用法でない証拠には、「告白」という言葉も「先生と私」の中で使われている。「告白」という言葉が使われているのは三箇所、それも先生が自分の厭世観を「覚悟」ということばで吐露するひとつながりの文脈の中にあって、その部分だけである。では「自白」は、どのような場面で使われてているのだろうか。
最初に「自白」という言葉が使われたのは、先生が奥さんとの関係について感想を洩らしたときのことである。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかいない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」
私は今前後の行き掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか判然いう事ができない。」
次は前回取り上げた
「私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。」
という部分である。
下巻「先生と遺書」では、まず冒頭「私」に就職の世話を頼まれた先生がそれに対して
「・・・・・・・・・・しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。」
とことわる場面。
それから先生が叔父に欺かれて親の財産の多くを失った経緯を説明する文脈で
「自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。」
この後Kが登場する。
「自白すると、私は自分でその男を宅に引張って来たのです。」
Kは真宗の寺に生まれ、医者の家に養子に入ったが、「道」のために医学を捨て、そのことで養家から出され実家からは勘当される。経済的にも精神的にも追い詰められたKを救い出し、支えるために、先生は彼を自分の下宿に連れてきたのである。
夏休みに入って「私」は渋るKを誘って一緒に房州を旅行する。「行商」のように炎天下を歩きながら、夜になるとKと先生は「人間らしい」かどうかということで議論する。Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉にたいして先生がもちだした「人間らしい」という言葉の裏には「私」のお嬢さんへの感情があったが、それを直接言い出せなかったのは
「……勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。」
旅行後、下宿先の家の人間関係は微妙に変化した。お嬢さんとKの距離が急速に縮まったのだ。そしてとうとう先生はKに「お嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた」のである。ここから「自白」という言葉が頻出する。「恋の告白」はすべて「自白」という言葉に置き換えられる。
「彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。」
「私の心は半分その自白を聞いていながら……」
「……こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、……」
「Kの自白以前と自白以後とで、彼の挙動にこれという差異が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で……」
「私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているか……」
「それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白について、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。」
Kは恋する者の弱みで先生に進退を相談する。思いもかけずKに先を越されてしまった先生だったが、相手の不安に乗じて、無防備な彼を完膚なきまでに打ちのめし、退路を断つ。先生がKに投げかけた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は
「復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。」
このときKのもらした「覚悟」という言葉に焦った先生は仮病を使って、Kとお嬢さんを遠ざけ、奥さんにお嬢さんを貰う談判をする。話はあっけなくかたづいて、先生はお嬢さんと結婚することになるが、奥さんの口からそれを聞いたKは二日後の日曜日の朝、頚動脈を切って自殺してしまう。
「その時私の受けた第一の感じは、Kから突然の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。」
以上「自白」という言葉が使われている箇所を拾い出してみたが、そのいずれも「告白」という言葉を使う方が自然のように思われる。何故強引に「自白」を使うのかも問題だが、ここでは度重なる「自白」によっても明らかにされない「こゝろ」について考えてみたい。剛毅なKを自殺に追い込んでいく先生の「こゝろ」は詳細にその内側から語られ、「道」を求めて精進するKの「こゝろ」、また「男のように判然したところのある」奥さんの「こゝろ」も、先生の側からある程度語られるが、お嬢さんの「こゝろ」は、何故か、というより当然のように語られないのである。お嬢さんこそは、二人の男(もしくは語り手の「私」を含め三人の男)の関係の中央に位置して、彼らの死(語り手の「私」は死なないが)に最も重要な関わりをもつ存在であるのに。
お嬢さんの「こゝろ」は語られないが、「静」と名がついた彼女の言動の描写は精彩を放っている。美人で、他人にもそう思われていると知っている女のbehaviorの描き方は実に巧みで、漱石がいかに深く女を「知って」いたかがよくわかる。そんな女が、一つ屋根の下に若い男二人と一緒に暮して、男たちの気持ちがわからない、ということがあるだろうか。お嬢さんは先生の気持ちもKの恋心も十分知っていたはずである。そして、先生の優柔不断もKの禁欲もお嬢さんには関係がない。彼女は自分に寄せる二人の好意を分かっていて、二人を「操った」のではなく、自然にふるまっただけなのだ。だからこそ、遺書の最後で、先生は「妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが、私の唯一の希望なのですから」と語り手の「私」に念を押すのである。
はたしてお嬢さん_「静」と呼ばれる先生の奥さんはKの死の真相に気づかなかったのだろうか。小説の前半で語り手の「私」と二人で先生の態度についてやりとりする彼女は、知的で機知に富んでいて、かつコケットリーに満ちているが、先生がKの秘密にふれそうになったときには、巧妙にそれを遮ってもいるのである。さらにいえば、明治天皇の死に際して「最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」というときに「では殉死でもしたらよかろうと調戯」って、死のトリガーとなったのも彼女なのだ。
小説『こゝろ』は謎に満ちている。そもそも、死を決意してから十日もかけてこのような長文の「遺書」を書くという行為が可能だろうか、と思ってしまう。また、「私は今自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。」という言葉の激烈さは何を意味し、「私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。」とはどんな「命」なのだろうか。不思議なことはいくつもあるが、ここでは、この長文の「遺書」という名の「自白文」が「静」と呼ばれる先生の奥さんの記憶の「純白」を無垢のまま守ったことを確認しておきたい。
体力が落ちたのかもともと能力不足なのか、なかなか続きが書けませんでした。もうひとつ、Kという文字が何か、という根本的なことを考えなければいけないのですが、これについてはすでに論が出尽くしているようにも思います。私自身は、原点にかえって「水死」との関係という視点で考えた場合、KはKingという立場で読んでいきたいと思っています。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
最初に「自白」という言葉が使われたのは、先生が奥さんとの関係について感想を洩らしたときのことである。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかいない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」
私は今前後の行き掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか判然いう事ができない。」
次は前回取り上げた
「私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。」
という部分である。
下巻「先生と遺書」では、まず冒頭「私」に就職の世話を頼まれた先生がそれに対して
「・・・・・・・・・・しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。」
とことわる場面。
それから先生が叔父に欺かれて親の財産の多くを失った経緯を説明する文脈で
「自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。」
この後Kが登場する。
「自白すると、私は自分でその男を宅に引張って来たのです。」
Kは真宗の寺に生まれ、医者の家に養子に入ったが、「道」のために医学を捨て、そのことで養家から出され実家からは勘当される。経済的にも精神的にも追い詰められたKを救い出し、支えるために、先生は彼を自分の下宿に連れてきたのである。
夏休みに入って「私」は渋るKを誘って一緒に房州を旅行する。「行商」のように炎天下を歩きながら、夜になるとKと先生は「人間らしい」かどうかということで議論する。Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉にたいして先生がもちだした「人間らしい」という言葉の裏には「私」のお嬢さんへの感情があったが、それを直接言い出せなかったのは
「……勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。」
旅行後、下宿先の家の人間関係は微妙に変化した。お嬢さんとKの距離が急速に縮まったのだ。そしてとうとう先生はKに「お嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた」のである。ここから「自白」という言葉が頻出する。「恋の告白」はすべて「自白」という言葉に置き換えられる。
「彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。」
「私の心は半分その自白を聞いていながら……」
「……こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、……」
「Kの自白以前と自白以後とで、彼の挙動にこれという差異が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で……」
「私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているか……」
「それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白について、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。」
Kは恋する者の弱みで先生に進退を相談する。思いもかけずKに先を越されてしまった先生だったが、相手の不安に乗じて、無防備な彼を完膚なきまでに打ちのめし、退路を断つ。先生がKに投げかけた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は
「復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。」
このときKのもらした「覚悟」という言葉に焦った先生は仮病を使って、Kとお嬢さんを遠ざけ、奥さんにお嬢さんを貰う談判をする。話はあっけなくかたづいて、先生はお嬢さんと結婚することになるが、奥さんの口からそれを聞いたKは二日後の日曜日の朝、頚動脈を切って自殺してしまう。
「その時私の受けた第一の感じは、Kから突然の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。」
以上「自白」という言葉が使われている箇所を拾い出してみたが、そのいずれも「告白」という言葉を使う方が自然のように思われる。何故強引に「自白」を使うのかも問題だが、ここでは度重なる「自白」によっても明らかにされない「こゝろ」について考えてみたい。剛毅なKを自殺に追い込んでいく先生の「こゝろ」は詳細にその内側から語られ、「道」を求めて精進するKの「こゝろ」、また「男のように判然したところのある」奥さんの「こゝろ」も、先生の側からある程度語られるが、お嬢さんの「こゝろ」は、何故か、というより当然のように語られないのである。お嬢さんこそは、二人の男(もしくは語り手の「私」を含め三人の男)の関係の中央に位置して、彼らの死(語り手の「私」は死なないが)に最も重要な関わりをもつ存在であるのに。
お嬢さんの「こゝろ」は語られないが、「静」と名がついた彼女の言動の描写は精彩を放っている。美人で、他人にもそう思われていると知っている女のbehaviorの描き方は実に巧みで、漱石がいかに深く女を「知って」いたかがよくわかる。そんな女が、一つ屋根の下に若い男二人と一緒に暮して、男たちの気持ちがわからない、ということがあるだろうか。お嬢さんは先生の気持ちもKの恋心も十分知っていたはずである。そして、先生の優柔不断もKの禁欲もお嬢さんには関係がない。彼女は自分に寄せる二人の好意を分かっていて、二人を「操った」のではなく、自然にふるまっただけなのだ。だからこそ、遺書の最後で、先生は「妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが、私の唯一の希望なのですから」と語り手の「私」に念を押すのである。
はたしてお嬢さん_「静」と呼ばれる先生の奥さんはKの死の真相に気づかなかったのだろうか。小説の前半で語り手の「私」と二人で先生の態度についてやりとりする彼女は、知的で機知に富んでいて、かつコケットリーに満ちているが、先生がKの秘密にふれそうになったときには、巧妙にそれを遮ってもいるのである。さらにいえば、明治天皇の死に際して「最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」というときに「では殉死でもしたらよかろうと調戯」って、死のトリガーとなったのも彼女なのだ。
小説『こゝろ』は謎に満ちている。そもそも、死を決意してから十日もかけてこのような長文の「遺書」を書くという行為が可能だろうか、と思ってしまう。また、「私は今自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。」という言葉の激烈さは何を意味し、「私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。」とはどんな「命」なのだろうか。不思議なことはいくつもあるが、ここでは、この長文の「遺書」という名の「自白文」が「静」と呼ばれる先生の奥さんの記憶の「純白」を無垢のまま守ったことを確認しておきたい。
体力が落ちたのかもともと能力不足なのか、なかなか続きが書けませんでした。もうひとつ、Kという文字が何か、という根本的なことを考えなければいけないのですが、これについてはすでに論が出尽くしているようにも思います。私自身は、原点にかえって「水死」との関係という視点で考えた場合、KはKingという立場で読んでいきたいと思っています。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
2015年9月28日月曜日
夏目漱石『こゝろ』___いくつかの不思議の妄想的分析その1___「私」は誰でしょう
大江健三郎の「『水死』を読んでいて、作中重要な要素として引用される漱石の『こゝろ』を読まなければいけないと思った。大江が『こゝろ』を漱石の意図通りに引用しているわけではないのはいうまでもない。むしろ『こゝろ』をどのように戦略的に利用しているのか、が知りたかったのだ。読んでみて、最初に思ったのは、漱石は不思議なことをごく自然にみえるように書いてしまう人だな、ということだった。大江健三郎は不思議なことを不思議、というよりあからさまに「変なこと」として書く人で、「変」を際立たせるのだが。
近代文学に無知な私は、『こゝろ』を読むにあたって、渡部直己氏の『不敬文学論序説』を参考にしたことを、まずことわっておかなければならない。この小説が、森鴎外の『雁』と同じく、その作中に直接的な関連を疑わせる片言一句を見出させないまま、当時の世相を震撼させた「大逆事件」に呼応して書かれたものである、という渡部氏の論は正確かつ強靭である。私のような小説読みビギナーがこれに付け加えてさらに何をいうことがあろうか、とも思うのだが、氏が、たぶん紙数の制約から、省かざるを得なかったであろう論と論をつなぐ具体的なことがらのいくつかについて考えてみたい。
『こゝろ』のあらすじについては、いまさら紹介するまでもないだろう。「先生」と呼ばれる人とその親友Kが下宿先の「お嬢さん」をめぐって葛藤する。先生はKの思いを知りながら、先を制してお嬢さんの母親に談判してお嬢さんを貰うことに成功する。Kは自殺し、先生はKの死をひきずりながらお嬢さんとの結婚生活をおくるが、明治天皇とそれに続く乃木大将夫妻の死を追うようにして自殺する。
以上の事柄が語り手の「私」の一人称で語られ、最後は「先生の遺書」という形式で、事柄の真相が先生の一人称で語られる。第一部「先生と私」と第三部「先生の遺書」が、明治天皇と乃木大将の死、おそらくそれらに続くであろう「私」の父の死を記録する第二部「両親と私」をはさんで、事柄の表裏をなすように構成されている。一見緻密な心理劇のようであり、何の破綻もないようだが、どこか納得できないものが残るのだ。
まず第一に疑問に思うことは、語り手の「私」は、中立公平な純客観的記録者だろうか、ということである。「私」は何故先生を追いかけるのか、どうして先生に近づこうとしたのか、その動機は最後まで明かされない、というより、小説のなかで問題とされないのである。「私」と先生の出会いは鎌倉の海岸であったが、小説冒頭に置かれる出会いの場面はこう書かれている。
「私は実に先生をこの雑踏の間に見付け出したのである。」
「見付け出した」ということは、「私」が意志をもって先生を探していたことを意味する。つまり「私」は先生を「知っていた」のである。面識があったかどうかはわからないが。また、この後も
「私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。」
と「見つけ出す」という言葉を繰りかえし使っている。何のために「私」は先生を探していたのか。
それから、ささやかな疑問だが、先生が鎌倉の海岸で伴れていた「一人の西洋人」と先生の関係はどのようなものだろうか。先生がKを葬った雑司ヶ谷の墓地は外人が多く葬られているようだが、それは、社交の乏しい先生が「一人の西洋人」と一緒にいたところを「私」に発見されたことと関係があるのだろうか。また、先生は何故Kの墓をそのような場所に定めたのだろう。Kの生家は真宗の裕福な寺だった、とあるので「イサベラ何々」だの「神僕ロギン」だのと並んで葬られる、ということにかなり異和感があるのだが。
「私」は急速に先生と親しくなり、先生の家に出入りして先生の奥さんともことばをかわすようになり、家族の一員であるかのような待遇を受けるようになる。(先生の奥さん_かつての「お嬢さん」については、また回をあらためて考えてみたい。彼女はこの小説の主要人物中ただ一人「静」という固有名詞をあたえられている存在である)そして、先生の人生に翳をおとしているのが、身内に裏切られて財産の多くを失ってしまったという体験であるということを打ち明けられる。注目すべきは「私」が先生のその「談話」に満足せず、隠さず「過去」を教えてほしいと要求するくだりである。
「私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。」(下線は筆者。以下も同じ)
という文章があるが、その後「私」は
「先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値の無い物になります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
と、巧妙に先生に迫るのである。そして
「私の過去を訐いてもですか」
という先生の言葉を引き出し、
「私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。」
と記す。ここまで先生を追い込む動機はなんだろうか。「思想上の問題について、大いなる利益を受けたことを自白する。」と書きながら、それがどのような思想であるかについての言及はいっさいなく、ただ「隠すな」と言っているのである。自白だとか罪人だとか、まるで警察か検事の取り調べのような用語の多用は異常である。
先生と「私」の関係については、その類似性が多くの評者によって指摘されている。資産家の家に生まれたこと、大学教育を受けたこと、それでいて職につかないことなどであるが、私見ではもう二点ある。一つは、上にみたように、ごく親しい他者を執拗に追い詰めることである。「私」が先生を 追い詰めたように、かつては先生がKを追い詰めたのである。そしてもう一つは先生の「奥さん」との関係になるのだが、これについてはもう少し検討して書いてみたい。
これくらいの名作になると、私が書かなくても誰かが書いているだろうから、とつい怠けて時間ばかり経ってしまいました。『こゝろ』を仕上げないと『水死』にむかえないので、悪戦苦闘しています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
近代文学に無知な私は、『こゝろ』を読むにあたって、渡部直己氏の『不敬文学論序説』を参考にしたことを、まずことわっておかなければならない。この小説が、森鴎外の『雁』と同じく、その作中に直接的な関連を疑わせる片言一句を見出させないまま、当時の世相を震撼させた「大逆事件」に呼応して書かれたものである、という渡部氏の論は正確かつ強靭である。私のような小説読みビギナーがこれに付け加えてさらに何をいうことがあろうか、とも思うのだが、氏が、たぶん紙数の制約から、省かざるを得なかったであろう論と論をつなぐ具体的なことがらのいくつかについて考えてみたい。
『こゝろ』のあらすじについては、いまさら紹介するまでもないだろう。「先生」と呼ばれる人とその親友Kが下宿先の「お嬢さん」をめぐって葛藤する。先生はKの思いを知りながら、先を制してお嬢さんの母親に談判してお嬢さんを貰うことに成功する。Kは自殺し、先生はKの死をひきずりながらお嬢さんとの結婚生活をおくるが、明治天皇とそれに続く乃木大将夫妻の死を追うようにして自殺する。
以上の事柄が語り手の「私」の一人称で語られ、最後は「先生の遺書」という形式で、事柄の真相が先生の一人称で語られる。第一部「先生と私」と第三部「先生の遺書」が、明治天皇と乃木大将の死、おそらくそれらに続くであろう「私」の父の死を記録する第二部「両親と私」をはさんで、事柄の表裏をなすように構成されている。一見緻密な心理劇のようであり、何の破綻もないようだが、どこか納得できないものが残るのだ。
まず第一に疑問に思うことは、語り手の「私」は、中立公平な純客観的記録者だろうか、ということである。「私」は何故先生を追いかけるのか、どうして先生に近づこうとしたのか、その動機は最後まで明かされない、というより、小説のなかで問題とされないのである。「私」と先生の出会いは鎌倉の海岸であったが、小説冒頭に置かれる出会いの場面はこう書かれている。
「私は実に先生をこの雑踏の間に見付け出したのである。」
「見付け出した」ということは、「私」が意志をもって先生を探していたことを意味する。つまり「私」は先生を「知っていた」のである。面識があったかどうかはわからないが。また、この後も
「私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。」
と「見つけ出す」という言葉を繰りかえし使っている。何のために「私」は先生を探していたのか。
それから、ささやかな疑問だが、先生が鎌倉の海岸で伴れていた「一人の西洋人」と先生の関係はどのようなものだろうか。先生がKを葬った雑司ヶ谷の墓地は外人が多く葬られているようだが、それは、社交の乏しい先生が「一人の西洋人」と一緒にいたところを「私」に発見されたことと関係があるのだろうか。また、先生は何故Kの墓をそのような場所に定めたのだろう。Kの生家は真宗の裕福な寺だった、とあるので「イサベラ何々」だの「神僕ロギン」だのと並んで葬られる、ということにかなり異和感があるのだが。
「私」は急速に先生と親しくなり、先生の家に出入りして先生の奥さんともことばをかわすようになり、家族の一員であるかのような待遇を受けるようになる。(先生の奥さん_かつての「お嬢さん」については、また回をあらためて考えてみたい。彼女はこの小説の主要人物中ただ一人「静」という固有名詞をあたえられている存在である)そして、先生の人生に翳をおとしているのが、身内に裏切られて財産の多くを失ってしまったという体験であるということを打ち明けられる。注目すべきは「私」が先生のその「談話」に満足せず、隠さず「過去」を教えてほしいと要求するくだりである。
「私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。」(下線は筆者。以下も同じ)
という文章があるが、その後「私」は
「先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値の無い物になります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
と、巧妙に先生に迫るのである。そして
「私の過去を訐いてもですか」
という先生の言葉を引き出し、
「私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。」
と記す。ここまで先生を追い込む動機はなんだろうか。「思想上の問題について、大いなる利益を受けたことを自白する。」と書きながら、それがどのような思想であるかについての言及はいっさいなく、ただ「隠すな」と言っているのである。自白だとか罪人だとか、まるで警察か検事の取り調べのような用語の多用は異常である。
先生と「私」の関係については、その類似性が多くの評者によって指摘されている。資産家の家に生まれたこと、大学教育を受けたこと、それでいて職につかないことなどであるが、私見ではもう二点ある。一つは、上にみたように、ごく親しい他者を執拗に追い詰めることである。「私」が先生を 追い詰めたように、かつては先生がKを追い詰めたのである。そしてもう一つは先生の「奥さん」との関係になるのだが、これについてはもう少し検討して書いてみたい。
これくらいの名作になると、私が書かなくても誰かが書いているだろうから、とつい怠けて時間ばかり経ってしまいました。『こゝろ』を仕上げないと『水死』にむかえないので、悪戦苦闘しています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2015年8月20日木曜日
大江健三郎『﨟たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ』__「﨟たし」と「らうたし」のはざまに
これは「M計画」というプロジェクトにかかわったサクラさんという国際的な映画女優と作家の「私」、そして「私」の東大の同期生で敏腕プロデュサーの「木守有(こもりたもつ)」の物語である。表題の「﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ」とは、特異な人生を生きたサクラさんを、エドガー・アラン・ポーの詩Annabel Lee にうたわれる夭折した美女のアナベル・リィになぞらえるところに由来する。物語は「私」とWhat! are you here? と呼びかける木守有との三十年ぶりの再会から始まる。以降、小説の大半は三十年前の出来事の回想である。
「M計画」とは、実在した中世ドイツザクセンの商人ハンス・コールハースの反乱を題材に、十九世紀初頭に劇作家ハインリヒ・クライストが書いた『ミヒャエル・コールハースの運命』という作品をアメリカ、ドイツ、中南米、アジアの各国で映画化しようというものである。「M計画」の本部、という言葉が小説のなかにでてくるが、それがどのような実体をもつものかはあきらかにされない。アジア版『ミヒャエル・コールハースの運命』は韓国で制作されることになっていたが、シナリオを書く金芝河が逮捕され製作不可能となってしまう。アジア担当のプロデューサーである木守は善後策を講じるために主演女優のサクラさんと東京を訪れ、金芝河逮捕に抗議してハンスト中の「私」と東大在学以来の再会を果たす。
サクラさんと「私」は、サクラさんが「私には本当に、本当に・・・・・・恐ろしいくらい懐かしい場所です」という松山で接点があった。「私」が高校時代出入りしていた松山のアメリカ文化センターが、サクラさんを保護していた占領軍の情報将校の職場となり、彼女も保護者とともに松山に移ってきたのである。そして「白い寛衣」を着たサクラさんは「お堀端」に横たわり、保護者の米軍情報将校が8ミリフィルムの映画「アナベル・リィ」を撮影したのだ。
作中「アナベル・リィ」の詩は日夏耿之介の訳で引用される。だが、日夏訳はその内容、雰囲気がポーの原詩と微妙に異なっているように思われる。
It was many and many a year ago,
In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
By the name of ANNABELL LEE;
And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.
《在りし昔のことなれども
わたの水阿(みさき)の里住みの
あさ瀬をとめよそのよび名を
アナベル・リィときこえしか。
をとめひたすらこのわれと
なまめきあひてよねんもなし》
一読して、英語圏の人でなくても初歩的な英語力があれば理解可能な原詩を、なぜこんなおどろおどろしい擬古文で訳さなければならなかったのか、素朴な疑問がわくのだが、ここでは次の二点を指摘しておきたい。
その一は、In a kingdom by the sea というフレーズについて。このフレーズは各スタンザごとに執拗に繰り返され、この詩のキーワードであると思われるが、日夏耿之介はすべて「わたの水阿の里住みの」と訳している。In a kingdom by the sea は、「海のほとりの王国で」とkingdom をいかして訳さなければならないのではないか。
もうひとつはshe lived with no other thought / Than to love and be loved by me を「をとめひたすらこのわれと/なまめきあひてよねんもなし」と訳すのは、もちろん誤訳ではないが、かなり脚色がある、といわざるを得ない。だが、むしろそれ故に、この詩を、そのタイトルごと頻繁に作中に引用する意味があるのかもしれない。「なまめきあひてよねんもなし」について、「私」がサクラさんの真の庇護者である柳夫人と論を交わす場面があるのだが、これはサクラさんと彼女の保護者であり、また夫となった米軍の情報将校との隠微で狡猾な関係をいっているのだと思われる。
そもそもthe beautiful Annabel Lee を「﨟たしアナベル・リィ」と訳したのは日夏耿之助だが、「らうたし」に「﨟たし」と漢字を振ったことも日夏の戦略である(日夏以外にも使用例はあるようだが、明治以降のものである)。「らうたし」は「あどけない、いたいけな」というニュアンスの古語で、「﨟」という漢字を振られるとどうしても落ち着かないのである。そして、その落ち着きの悪さこそ、作者大江健三郎の意図したものではないか。大江は、いわば日夏の戦略に乗って、あるいは乗ったふりをして、をれを利用し尽くしたのだ。
「﨟たけた」ということばがある。「﨟」は僧侶の出家後の年数、経験の深さを表すことばだそうで、「﨟たけた」は上品、優美などのニュアンスを含む成熟した女性の美をいうものだろう。それにたいして「らうたし」は、その使用例からみて、未熟な者、幼い者にたいする庇護の感情を含むことばのようである。「﨟たけた」美女として登場したサクラさんが、未遂に終わった「M計画」にかかわり、それが挫折する過程で、自分の存在の真実を発見する。幼くして孤児になった自分を、「らうたし」と保護してくれた米軍情報将校が、じつは残酷きわまる冒涜者だったこと、その人間との関係が彼が死ぬまで「平和に」続いていたこと、これらの真実を、なかば強制的に知らされて、サクラさんの自我は崩壊する。もともとサクラさんの自我は、精緻に構築された魔宮のなかに閉じ込められて成立していたのだが。
三十年ぶりに日本を訪れたサクラさんは、みずから監督をつとめ、木守と「私」の三人だけで自主映画をつくる。それはもはやグローバルな「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化プロジェクトではなく、「私」の郷里の森に伝わる「メイスケさんの生まれ替わり」と「メイスケ母」の物語である。二度の一揆を成功に導いた「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだだけでなく、みずからが一揆を主導した「メイスケ母」の「口説き」は「私」の祖母が芝居に仕立て、戦後の苦境のさなかに興行した。サクラさんはその芝居を自分が座長となって「メイスケ母」を演じることで復元し、それをそのまま撮影する。郷里の森の「鞘」を舞台に、観客も演技者も女だけの野外劇場に「口説き」の果てのサクラさんの叫びがこだまする。____それは歓喜の叫びか、苦痛のそれか、それともその両方なのか。It's only movies,but movies it is! 「らうたし」アナベル・リィが「﨟たし」アナベル・リィとなった産声だろうか。
この小説が戦後の日米関係を寓意しているのはあきらかなのだが、サクラさんと作家の「私」、そして「木守」の関係については、また回をあらためて考えてみたい。小説の最初の部分で老女となったサクラさんのいう「幼女から少女期の自分が何もわからずにやるようにいわれ・・・・・・それも恐ろしいアメリカの軍人から・・・・・・強制されて作られたもの」とは何だろう。最後の「口説き」芝居の映画化はそれへの「熟考した応答として老女の自分が企てる仕事」である、とサクラさんは言っているのだが。
書くことも考えることも遅々として進まず、時間ばかり経ってしまいました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
「M計画」とは、実在した中世ドイツザクセンの商人ハンス・コールハースの反乱を題材に、十九世紀初頭に劇作家ハインリヒ・クライストが書いた『ミヒャエル・コールハースの運命』という作品をアメリカ、ドイツ、中南米、アジアの各国で映画化しようというものである。「M計画」の本部、という言葉が小説のなかにでてくるが、それがどのような実体をもつものかはあきらかにされない。アジア版『ミヒャエル・コールハースの運命』は韓国で制作されることになっていたが、シナリオを書く金芝河が逮捕され製作不可能となってしまう。アジア担当のプロデューサーである木守は善後策を講じるために主演女優のサクラさんと東京を訪れ、金芝河逮捕に抗議してハンスト中の「私」と東大在学以来の再会を果たす。
サクラさんと「私」は、サクラさんが「私には本当に、本当に・・・・・・恐ろしいくらい懐かしい場所です」という松山で接点があった。「私」が高校時代出入りしていた松山のアメリカ文化センターが、サクラさんを保護していた占領軍の情報将校の職場となり、彼女も保護者とともに松山に移ってきたのである。そして「白い寛衣」を着たサクラさんは「お堀端」に横たわり、保護者の米軍情報将校が8ミリフィルムの映画「アナベル・リィ」を撮影したのだ。
作中「アナベル・リィ」の詩は日夏耿之介の訳で引用される。だが、日夏訳はその内容、雰囲気がポーの原詩と微妙に異なっているように思われる。
It was many and many a year ago,
In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
By the name of ANNABELL LEE;
And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.
《在りし昔のことなれども
わたの水阿(みさき)の里住みの
あさ瀬をとめよそのよび名を
アナベル・リィときこえしか。
をとめひたすらこのわれと
なまめきあひてよねんもなし》
一読して、英語圏の人でなくても初歩的な英語力があれば理解可能な原詩を、なぜこんなおどろおどろしい擬古文で訳さなければならなかったのか、素朴な疑問がわくのだが、ここでは次の二点を指摘しておきたい。
その一は、In a kingdom by the sea というフレーズについて。このフレーズは各スタンザごとに執拗に繰り返され、この詩のキーワードであると思われるが、日夏耿之介はすべて「わたの水阿の里住みの」と訳している。In a kingdom by the sea は、「海のほとりの王国で」とkingdom をいかして訳さなければならないのではないか。
もうひとつはshe lived with no other thought / Than to love and be loved by me を「をとめひたすらこのわれと/なまめきあひてよねんもなし」と訳すのは、もちろん誤訳ではないが、かなり脚色がある、といわざるを得ない。だが、むしろそれ故に、この詩を、そのタイトルごと頻繁に作中に引用する意味があるのかもしれない。「なまめきあひてよねんもなし」について、「私」がサクラさんの真の庇護者である柳夫人と論を交わす場面があるのだが、これはサクラさんと彼女の保護者であり、また夫となった米軍の情報将校との隠微で狡猾な関係をいっているのだと思われる。
そもそもthe beautiful Annabel Lee を「﨟たしアナベル・リィ」と訳したのは日夏耿之助だが、「らうたし」に「﨟たし」と漢字を振ったことも日夏の戦略である(日夏以外にも使用例はあるようだが、明治以降のものである)。「らうたし」は「あどけない、いたいけな」というニュアンスの古語で、「﨟」という漢字を振られるとどうしても落ち着かないのである。そして、その落ち着きの悪さこそ、作者大江健三郎の意図したものではないか。大江は、いわば日夏の戦略に乗って、あるいは乗ったふりをして、をれを利用し尽くしたのだ。
「﨟たけた」ということばがある。「﨟」は僧侶の出家後の年数、経験の深さを表すことばだそうで、「﨟たけた」は上品、優美などのニュアンスを含む成熟した女性の美をいうものだろう。それにたいして「らうたし」は、その使用例からみて、未熟な者、幼い者にたいする庇護の感情を含むことばのようである。「﨟たけた」美女として登場したサクラさんが、未遂に終わった「M計画」にかかわり、それが挫折する過程で、自分の存在の真実を発見する。幼くして孤児になった自分を、「らうたし」と保護してくれた米軍情報将校が、じつは残酷きわまる冒涜者だったこと、その人間との関係が彼が死ぬまで「平和に」続いていたこと、これらの真実を、なかば強制的に知らされて、サクラさんの自我は崩壊する。もともとサクラさんの自我は、精緻に構築された魔宮のなかに閉じ込められて成立していたのだが。
三十年ぶりに日本を訪れたサクラさんは、みずから監督をつとめ、木守と「私」の三人だけで自主映画をつくる。それはもはやグローバルな「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化プロジェクトではなく、「私」の郷里の森に伝わる「メイスケさんの生まれ替わり」と「メイスケ母」の物語である。二度の一揆を成功に導いた「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだだけでなく、みずからが一揆を主導した「メイスケ母」の「口説き」は「私」の祖母が芝居に仕立て、戦後の苦境のさなかに興行した。サクラさんはその芝居を自分が座長となって「メイスケ母」を演じることで復元し、それをそのまま撮影する。郷里の森の「鞘」を舞台に、観客も演技者も女だけの野外劇場に「口説き」の果てのサクラさんの叫びがこだまする。____それは歓喜の叫びか、苦痛のそれか、それともその両方なのか。It's only movies,but movies it is! 「らうたし」アナベル・リィが「﨟たし」アナベル・リィとなった産声だろうか。
この小説が戦後の日米関係を寓意しているのはあきらかなのだが、サクラさんと作家の「私」、そして「木守」の関係については、また回をあらためて考えてみたい。小説の最初の部分で老女となったサクラさんのいう「幼女から少女期の自分が何もわからずにやるようにいわれ・・・・・・それも恐ろしいアメリカの軍人から・・・・・・強制されて作られたもの」とは何だろう。最後の「口説き」芝居の映画化はそれへの「熟考した応答として老女の自分が企てる仕事」である、とサクラさんは言っているのだが。
書くことも考えることも遅々として進まず、時間ばかり経ってしまいました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2015年7月8日水曜日
陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』__大江健三郎とは何か__「ミシマ問題」から炙りだされるもの
大江健三郎の作品はどれも難解なのだが、それは、一部に言われているような文章のわかりにくさ、というような次元の問題ではない。ストーリーの起承転結が不自然で納得できない、というわけでもない。読んでいるときは立ち止まることもなく、すらすら進んで結末までいって、最後の大江節に単純な感動すら覚えてしまう。でも、それでいて、何が書かれていたか、つかめないのである。
『さようなら!私の本よ』には何が書かれているのか?ドストエフスキーの『悪霊』、セリーヌの『夜の果てへの旅』というロバンソン小説なるテーマ、執拗に持ち出される「ミシマ」ないし「ミシマ問題」、『ゲロンチョン』および『四つの四重奏』の中から縦横に引用されるエリオットの詩、それらは一見作品の重要な要素をなすもののようでありながら、事実重要な要素なのだが、実は真相を覆い隠す、といえば言い過ぎならば、真相を複雑化するための仕組みなのではないか、という疑念をいだいている。
そもそもこの小説が発表された二〇〇五年の時点で、何故「ミシマ」なのか。1970.11.25の三島由紀夫の死から三五年が経とうとしていた。だが、問題は過ぎ去った年月の長さではない。「楯の会」を組織して自決した三島を2001・9・11のテロと結び付けて語ることに無理があるのだ。だからこそ「ミシマ」、「タテの会」という表記が使われ、決して「三島」「楯の会」と書かれることはないのだけれど。
作中「ミシマ」を、市谷の陸上自衛隊突入とその死という状況にしぼって登場させ、念の入ったことにその首までさらしだす。古義人と繁がミシマの異常に嫌ったという毛蟹の鍋で酒を酌み交わしているとき、アカリが二人の会話に割り込んで、「本当に背の低い人でしたよ、これくらいの人間でした。」と言って、蟹の肉片と三杯酢にまみれた掌で生首の高さを指し示す場面が挿入される。「ミシマ問題」を議論するのに、このような猟奇的な要素は必要だろうか。
さらに、死んでしまったミシマにたいして生前「ミシマ=フォン・ゾーン計画」なるものが存在したという。これもミシマが同性愛者であるという前提のもとに夢想された計画で、地下の魔窟に集めた美少年の魅力で彼を政治的な活動から遠ざけることを目的にしたものであるとされている。「長江さんはミシマに対して、derisively に振る舞うことがある、ともシゲさんから聞いています・・・・・・」と清清が言っているが、「ミシマ問題」の取り上げ方自体がderisively であるように思われてならない。なぜ、このような取り上げ方をしなければならなかったのか。三島の政治思想が、長江古義人(必ずしも=大江健三郎ではない)とのそれと同様に「児戯に類する」という判断については、私も同感するところはあるのだが。
ここで少し脇道にそれるようだが、市ヶ谷突入時に三島が残した檄文について考えてみたい。これを読んで、まず驚いたのが、その文章の凡庸さ、格調の低さである。これが、あの絢爛豪華な旧仮名遣いの文豪の書いたものとはにわかに信じ難い。内容も、要するに、国の腐敗、堕落は、自衛隊を「国軍」と成し得ない(アメリカの押し付けた)憲法が原因であり、前年の1969・10・21の首相訪米の際に「国軍」となる機会を失った自衛隊にクーデターを呼びかけ、みずからは死して憲法改正を成し遂げようというものである。檄文には「男の涙」、「武士の魂」、「日本の真姿」などの言葉がならぶが、これらはほんとうに「三島のことば」だろうか。軍歌を奏でて街宣車の上から市民を睥睨する人たちの文句とどこがちがうのか。
これを、たとえば、2・26事件の青年将校の書いた「蹶起趣意書」とくらべれば、「蹶起趣意書」の、日本を取り巻く内外の危機的状況とその打開を訴えた簡潔明瞭にして緊迫感のある文章が際立ってみえる。「皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。」という結語が大げさなものに感じられず、「陸軍歩兵大尉野中四郎 外 同志一同」と記された人たちのまさに死を賭した思いが伝わってくる。2・26事件の青年将校を蹶起にむけて押し出した状況の深さと拡がりは三島のそれと比較にならなかったのだろう。
実在したかどうかわからない「ミシマの手紙」まで持ちだして死せる「ミシマ」を作品中に呼び戻し、再び1970・11・15の事件に関心を振り向ける。文学に関係のない人間でも、日本中の誰もが「三島由紀夫」に関心を集中させる原因となった「床に立った生首」を描写する。そうすることで、あの事件が何を意味するものだったのかをもう一度考えさせる。それは必ずしも一義的な正解を要求するものではない___という問題の立て方は、これまで大江健三郎が繰り返し行ってきたことである。明治維新、大逆事件、二・二六事件、1945・8・15、そして1951・4・28サンフランシスコ講和条約締結、1960・1970の安保闘争、これら日本の近現代史は大江の作品中で、何回も、ときには寓話の形で取り上げられ、その意味を問われ、また意味の再解釈がなされてきた。
過去の出来事を、「歴史」というカテゴリーに押し込め、風化させてしまうのではなく、混沌とした事実の塊りを掘り起こして、謎は謎のまま、あるいは謎を作り出して、読者の関心を喚起する。それが大江健三郎の小説作法であるのはいうまでもないが、注意すべきは、その作業を行っているのは、これもまたいうまでもなく作者である大江健三郎であって、長江古義人ではない、ということである。『取り替え子』、「憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ』の三部作は、大江の作品のなかでもとりわけモデルが特定されやすく私小説風であるが、間違っても私小説ではない。「本当のこと」を書くために「ウソ」をまぜるのが私小説であるなら、「ウソ」に力をあたえるために「本当のこと」をまぜたものが大江健三郎の小説だろう。『憂い顔の童子』で古義人の母がいうように。
だから「ミシマ」にたいして「derisivelyあるいはmockinglyに振る舞うことがある」のは「長江古義人」であって、大江健三郎ではない。三島が自死という形で完結してしまった1970・11・25のストーリーを、大江はもう一度掴みだして光をあてる。その上で、「ミシマ」の希求が絶望的に不可能であって、その不可能性が1970・11・25の時点だけでなく、いまにいたるまで不可能であり、未来永劫不可能であることを語るのだ。では、その語り部大江健三郎とは何か?何のために語るのか?語ることによって、読者をどこに導こうとするのか?これもまた『憂い顔の童子』で古義人の母が言っているのだが、「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せる」ことはあるのだろうか?
未整理なまま投げ出してしまったような不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
『さようなら!私の本よ』には何が書かれているのか?ドストエフスキーの『悪霊』、セリーヌの『夜の果てへの旅』というロバンソン小説なるテーマ、執拗に持ち出される「ミシマ」ないし「ミシマ問題」、『ゲロンチョン』および『四つの四重奏』の中から縦横に引用されるエリオットの詩、それらは一見作品の重要な要素をなすもののようでありながら、事実重要な要素なのだが、実は真相を覆い隠す、といえば言い過ぎならば、真相を複雑化するための仕組みなのではないか、という疑念をいだいている。
そもそもこの小説が発表された二〇〇五年の時点で、何故「ミシマ」なのか。1970.11.25の三島由紀夫の死から三五年が経とうとしていた。だが、問題は過ぎ去った年月の長さではない。「楯の会」を組織して自決した三島を2001・9・11のテロと結び付けて語ることに無理があるのだ。だからこそ「ミシマ」、「タテの会」という表記が使われ、決して「三島」「楯の会」と書かれることはないのだけれど。
作中「ミシマ」を、市谷の陸上自衛隊突入とその死という状況にしぼって登場させ、念の入ったことにその首までさらしだす。古義人と繁がミシマの異常に嫌ったという毛蟹の鍋で酒を酌み交わしているとき、アカリが二人の会話に割り込んで、「本当に背の低い人でしたよ、これくらいの人間でした。」と言って、蟹の肉片と三杯酢にまみれた掌で生首の高さを指し示す場面が挿入される。「ミシマ問題」を議論するのに、このような猟奇的な要素は必要だろうか。
さらに、死んでしまったミシマにたいして生前「ミシマ=フォン・ゾーン計画」なるものが存在したという。これもミシマが同性愛者であるという前提のもとに夢想された計画で、地下の魔窟に集めた美少年の魅力で彼を政治的な活動から遠ざけることを目的にしたものであるとされている。「長江さんはミシマに対して、derisively に振る舞うことがある、ともシゲさんから聞いています・・・・・・」と清清が言っているが、「ミシマ問題」の取り上げ方自体がderisively であるように思われてならない。なぜ、このような取り上げ方をしなければならなかったのか。三島の政治思想が、長江古義人(必ずしも=大江健三郎ではない)とのそれと同様に「児戯に類する」という判断については、私も同感するところはあるのだが。
ここで少し脇道にそれるようだが、市ヶ谷突入時に三島が残した檄文について考えてみたい。これを読んで、まず驚いたのが、その文章の凡庸さ、格調の低さである。これが、あの絢爛豪華な旧仮名遣いの文豪の書いたものとはにわかに信じ難い。内容も、要するに、国の腐敗、堕落は、自衛隊を「国軍」と成し得ない(アメリカの押し付けた)憲法が原因であり、前年の1969・10・21の首相訪米の際に「国軍」となる機会を失った自衛隊にクーデターを呼びかけ、みずからは死して憲法改正を成し遂げようというものである。檄文には「男の涙」、「武士の魂」、「日本の真姿」などの言葉がならぶが、これらはほんとうに「三島のことば」だろうか。軍歌を奏でて街宣車の上から市民を睥睨する人たちの文句とどこがちがうのか。
これを、たとえば、2・26事件の青年将校の書いた「蹶起趣意書」とくらべれば、「蹶起趣意書」の、日本を取り巻く内外の危機的状況とその打開を訴えた簡潔明瞭にして緊迫感のある文章が際立ってみえる。「皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。」という結語が大げさなものに感じられず、「陸軍歩兵大尉野中四郎 外 同志一同」と記された人たちのまさに死を賭した思いが伝わってくる。2・26事件の青年将校を蹶起にむけて押し出した状況の深さと拡がりは三島のそれと比較にならなかったのだろう。
実在したかどうかわからない「ミシマの手紙」まで持ちだして死せる「ミシマ」を作品中に呼び戻し、再び1970・11・15の事件に関心を振り向ける。文学に関係のない人間でも、日本中の誰もが「三島由紀夫」に関心を集中させる原因となった「床に立った生首」を描写する。そうすることで、あの事件が何を意味するものだったのかをもう一度考えさせる。それは必ずしも一義的な正解を要求するものではない___という問題の立て方は、これまで大江健三郎が繰り返し行ってきたことである。明治維新、大逆事件、二・二六事件、1945・8・15、そして1951・4・28サンフランシスコ講和条約締結、1960・1970の安保闘争、これら日本の近現代史は大江の作品中で、何回も、ときには寓話の形で取り上げられ、その意味を問われ、また意味の再解釈がなされてきた。
過去の出来事を、「歴史」というカテゴリーに押し込め、風化させてしまうのではなく、混沌とした事実の塊りを掘り起こして、謎は謎のまま、あるいは謎を作り出して、読者の関心を喚起する。それが大江健三郎の小説作法であるのはいうまでもないが、注意すべきは、その作業を行っているのは、これもまたいうまでもなく作者である大江健三郎であって、長江古義人ではない、ということである。『取り替え子』、「憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ』の三部作は、大江の作品のなかでもとりわけモデルが特定されやすく私小説風であるが、間違っても私小説ではない。「本当のこと」を書くために「ウソ」をまぜるのが私小説であるなら、「ウソ」に力をあたえるために「本当のこと」をまぜたものが大江健三郎の小説だろう。『憂い顔の童子』で古義人の母がいうように。
だから「ミシマ」にたいして「derisivelyあるいはmockinglyに振る舞うことがある」のは「長江古義人」であって、大江健三郎ではない。三島が自死という形で完結してしまった1970・11・25のストーリーを、大江はもう一度掴みだして光をあてる。その上で、「ミシマ」の希求が絶望的に不可能であって、その不可能性が1970・11・25の時点だけでなく、いまにいたるまで不可能であり、未来永劫不可能であることを語るのだ。では、その語り部大江健三郎とは何か?何のために語るのか?語ることによって、読者をどこに導こうとするのか?これもまた『憂い顔の童子』で古義人の母が言っているのだが、「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せる」ことはあるのだろうか?
未整理なまま投げ出してしまったような不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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