もう一回「タラントのたとえ」について考えてみたい。このたとえが、無自覚に「資本の増殖と能力崇拝」を肯定している、という田川健三の指摘は、もちろん正しいだろう。だが、マタイによる福音書の記者が、この記事をイエスの十字架の記事の直前に置いたのは、あくまで「たとえ」として「たとえられるもの」を示したかったからだ。その「たとえられるもの」とはなにか。
5タラントンをもとに5タラントン儲けるのは、以前書いたように、投資ではなく投機だ。2タラントンも然り。では、なぜ主人は「投機」した者を顕彰したのか。僕たちは「商売」をして儲けた、とあるので、厳密な意味では「投機」といえないかもしれないが、5タラントンで5タラントン儲けることができるのは、かなり「ボロい」_投機的な商売だ。日本人は、「投機」は嫌いな人が多いが、サクセスストーリーは好きな人が多いので、この話に違和感を感じる人は少ないのかもしれない。熱心に商売に励んで、ご主人に褒められる、それがどこがおかしい?といわれそうだ。
やはり、おかしいと思う。たとえ話とはいえ、5タラントンという資金の巨大さ、「蒔かない所から刈り取る」という苛斂誅求、「何もしなかった」_無為にたいする罰としての放逐、すべて「異常」である。このたとえ話は「異常」を「正常」として語っているのだ。主人から財産を預かったら、何も言われなくても、「早速」出て行って商売をして2倍にしなければならない。苛斂誅求の主人を恐れて、ひたすら「保存」していてはいけない。財産は増やさなければいけない。とにかく、現状維持ではだめなのだ。なすべきことは、即その場で、自己を「投企」することなのだ。無為は許されない。
「それぞれの力に応じて」与えられた財産=タラントン=たまものを、全身全霊で有効に使うこと、それが日々私たちに要求されているのだとしたら、そんな厳しい要求に私たちはどうやってこたえればいいのだろう。
イエスは私たちに「救い」をもたらしにきたのだろうか?
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年1月11日水曜日
2012年1月10日火曜日
「愛(うつく)しき言つくしてよ」___聞かせてよ、愛のことばを
プロフィールで紹介したように、わたしが一番好きな歌は「昭和枯れすすき」である。二番目に好きな歌は「愛のさざ波」で、私のミーハー偏差値が確認されると思う。でも、好きなものは好きなのだ。歌は、恋の歌でなくっちゃ歌じゃない、と思っている。いまの歌は、恋の歌なのかどうか、私には、耳をすませないと歌詞を聞き取れないものが多くて、よくわからない。でも、恋の歌は昔にくらべると少ないような気がする。それで大丈夫なのか、この国は、と危惧している。歌は「うた」であり、「訴ふ」なのだ。絶対的な他者である男と女が、絶対的な他者であるがゆえに求めあうのが「こひ(=魂を乞う)」であり、求めても埋められない断絶をのりこえるために「うた」う=「訴ふ」のに。恋の歌が少なくなっているという現象は、共同体の生命力が衰えていることを示しているのではないか。
今日は時間がないので、私が一番好きな恋の歌を『和泉式部日記』から一首紹介します。
「夜もすがら 何事をかは思ひつる 窓うつ雨の音を聞きつつ」___一晩中窓にうちつける雨の音に耳をすませていました。そしてただひたすらあなたのことを思っていました。
恋人であった帥の宮と交わした贈答歌のうちの一首であるが、独立した歌として、ほとんど何の説明もなく理解できると思う。ことさらな媚態もなく、思わせぶりな拒絶もない。自己の内面に沈潜していく心をそのまま詠んだ歌であると思う。
二番目に好きな歌をもう一首。
「恋ひ恋ひて逢へる時だに 愛しき言つくしてよ 長くと思はば」___焦がれ焦がれてやっと逢うことができたこの時だけでも、恋のことばを聞かせ続けてくださいね。二人の関係がずっと続いてほしいと思うなら。
こちらは萬葉集巻四大伴坂上郎女の歌。娘の坂上二嬢(おといらつめ)の代作をしたものといわれている。経験をつんだ恋のベテランが、若い男に直球勝負で交情の持続を要求したものだ。さすが!と脱帽である。
三番目に好きな歌は・・・・と続けているときりがないので、この辺で今日はおしまいにします。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
今日は時間がないので、私が一番好きな恋の歌を『和泉式部日記』から一首紹介します。
「夜もすがら 何事をかは思ひつる 窓うつ雨の音を聞きつつ」___一晩中窓にうちつける雨の音に耳をすませていました。そしてただひたすらあなたのことを思っていました。
恋人であった帥の宮と交わした贈答歌のうちの一首であるが、独立した歌として、ほとんど何の説明もなく理解できると思う。ことさらな媚態もなく、思わせぶりな拒絶もない。自己の内面に沈潜していく心をそのまま詠んだ歌であると思う。
二番目に好きな歌をもう一首。
「恋ひ恋ひて逢へる時だに 愛しき言つくしてよ 長くと思はば」___焦がれ焦がれてやっと逢うことができたこの時だけでも、恋のことばを聞かせ続けてくださいね。二人の関係がずっと続いてほしいと思うなら。
こちらは萬葉集巻四大伴坂上郎女の歌。娘の坂上二嬢(おといらつめ)の代作をしたものといわれている。経験をつんだ恋のベテランが、若い男に直球勝負で交情の持続を要求したものだ。さすが!と脱帽である。
三番目に好きな歌は・・・・と続けているときりがないので、この辺で今日はおしまいにします。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年1月9日月曜日
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」___寺山修司の世界
寺山修司が好きだった。といっても、折口信夫が好きだとか深沢七郎が好きだ、というような「好き」ではなく、もっとミーハー次元の「好き」に近いのだけれど。敗戦から高度成長の絶頂期寸前までを駆け抜けた天才は、あまりにも早く逝ってしまった。文学すべてのジャンルをやすやすと越えていっただけでなく、映画、演劇もつねに「前衛」だった。私の理解などとてもついていけないうちに逝ってしまったのだ。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
『第一歌集 空には本』の「祖国喪失」と名づけられた連作の第一首である。有名な歌なので、これもネット上でさまざまな感想が述べられている。だが、いまここで、私が注目したいのはもっと形式的なことである。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」と「身を捨つるほどの祖国はありや」の、上五、七、五と下七、七は一首の中で連続しているだろうか。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」はこの五、七、五だけで十分完結したイメージをもたらす。完成した無季俳句といってもよい。
「身捨つるほどの祖国はありや」は、それにつけた脇の句である。この七、七は、上の句から自然に生み落とされたものでなく、上の句といったん切れて、あらたに詠まれたもののように見える。そして、上の句に寄り添うように見えながら、じつは上の句を拘束、限定していく。つまり、これは連歌俳諧の技法なのだ。もっといえば、一首のなかで、上の句と下の句を詠みわける二つの人格を演じてみせたのだ。
この歌と次に記す歌とを比較してみよう。同じく『第一歌集 空には本』の「チェホフ祭」の第一首
「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」
これも有名な歌である。一見して、一首が第一句から五句まで連続していることがわかる。第三句は、わざわざ「まきしのみ『に』」と字余りを嫌わず『に』をつけくわえて、連続性を保った。完璧な連続性である。
たった一粒の種をまいただけで、世界を所有したような自負心をひそかにもっている少年の姿が鮮やかに浮かび上がってくる「向日葵の種を・・・・」の歌の抒情から、途中に断絶がある「マッチ擦るつかのま・・・・」の歌へと、寺山の歌は屈折していく。その屈折がどのように自覚的なものであったかは「僕のノオト』として歌集の後書きに記されている。
「ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を戒めさせた。『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」
だが、寺山の短歌は、限りなく無私に近づくというよりは、よりフィクションの世界に傾倒していったように思われる。そして、やがて、短歌を捨て、自由詩から小説、演劇のジャンルへと、様式の制約をかなぐり捨てていった。様式に制約されることで得られる自由から、様式から脱出することで得られる自由の世界に漕ぎ出していったのだ。
今日はなかなか「書く」ことのモチベーションがあがらず、またしても日付が変わってしまいました。不出来な作文を読んでいただいてありがとうございます。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
『第一歌集 空には本』の「祖国喪失」と名づけられた連作の第一首である。有名な歌なので、これもネット上でさまざまな感想が述べられている。だが、いまここで、私が注目したいのはもっと形式的なことである。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」と「身を捨つるほどの祖国はありや」の、上五、七、五と下七、七は一首の中で連続しているだろうか。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」はこの五、七、五だけで十分完結したイメージをもたらす。完成した無季俳句といってもよい。
「身捨つるほどの祖国はありや」は、それにつけた脇の句である。この七、七は、上の句から自然に生み落とされたものでなく、上の句といったん切れて、あらたに詠まれたもののように見える。そして、上の句に寄り添うように見えながら、じつは上の句を拘束、限定していく。つまり、これは連歌俳諧の技法なのだ。もっといえば、一首のなかで、上の句と下の句を詠みわける二つの人格を演じてみせたのだ。
この歌と次に記す歌とを比較してみよう。同じく『第一歌集 空には本』の「チェホフ祭」の第一首
「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」
これも有名な歌である。一見して、一首が第一句から五句まで連続していることがわかる。第三句は、わざわざ「まきしのみ『に』」と字余りを嫌わず『に』をつけくわえて、連続性を保った。完璧な連続性である。
たった一粒の種をまいただけで、世界を所有したような自負心をひそかにもっている少年の姿が鮮やかに浮かび上がってくる「向日葵の種を・・・・」の歌の抒情から、途中に断絶がある「マッチ擦るつかのま・・・・」の歌へと、寺山の歌は屈折していく。その屈折がどのように自覚的なものであったかは「僕のノオト』として歌集の後書きに記されている。
「ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を戒めさせた。『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」
だが、寺山の短歌は、限りなく無私に近づくというよりは、よりフィクションの世界に傾倒していったように思われる。そして、やがて、短歌を捨て、自由詩から小説、演劇のジャンルへと、様式の制約をかなぐり捨てていった。様式に制約されることで得られる自由から、様式から脱出することで得られる自由の世界に漕ぎ出していったのだ。
今日はなかなか「書く」ことのモチベーションがあがらず、またしても日付が変わってしまいました。不出来な作文を読んでいただいてありがとうございます。
2012年1月7日土曜日
しあわせハンス___私たちはどちらの側にいるのか?
昨日に続いて、マタイによる福音書25章の「ぶどう園の労働者」のたとえについて書きたいのですが、それは、もう少し後にして、今日はグリム童話の中から「しあわせハンス」をとりあげます。
7年間の奉公を終えたハンスという若者が、主人から報酬としてもらった金塊を、馬、牛、豚、ガチョウ、砥石、最後は石ころにと次々に交換し、その石ころも井戸に落として、無一物になって、郷里の母親のもとに帰り着くというお話。ストーリーが単純で他のグリム童話にあるような残酷な場面がないので、美しい絵本として版が重ねられている。この童話のなかに清貧の思想を読み取って、それを賛美したり、一般的な価値観にまどわされない自己の価値観の充足を肯定したりするコメントがネット上で多く見受けられた。一方、他人の持っているものをほしがり、最後には無一物になってしまうハンスのおろかしさを我がこととして受け止め、自戒する法話もあった。
この話を、たんに「子どものための童話」として、ここから道徳的ないし教訓的なテーマを読み取ろうとすれば、おおむね上記のようになるだろう。グリム兄弟もそれを目的にしたのかもしれない。だが、この単純な話は、決して単純ではない読後感をもたらす。「しあわせ」ハンス・・・・・しあわせ・・・・石ころさえも失って、無一物になって、なにがしあわせ?ほんとうにしあわせ?
誰もが気づくように、ハンスは、自分が最初に持っていたものを、より価値の低いものへと交換を重ね、最後に何の価値もない石ころに替えてしまった。ハンスは、次々と損をし続けたのだ。逆にいえば、ハンスとものを交換した相手はみんな得をしたのだ。ハンスの損は相手の得であり、「交換」という行為は必ず価値の増減をともなう。たとえ貨幣を仲介させても。そして、相手のものを「ほしがった」方が損をする。
さて、それで、私たちは、交換を重ねる度に損をするハンスの側にいるのか?それとも、ハンスの欲望を上手に引き出して、ハンスに損をさせ、自分は得をする側にいるのか?
せっかく7年の年季奉公をつとめあげ、郷里に帰ったハンスは、無一物になって、これからどうするのか?それは、最初から決まっている。また、7年の年季奉公に行くのだ。だって、何もないのだから。
「おいら、ほんとうに運がいいや」
この話は、もしかしたら、おそろしく残酷な童話かもしれない。
今日もまた、最後まで読んでくださってありがとうございます。
7年間の奉公を終えたハンスという若者が、主人から報酬としてもらった金塊を、馬、牛、豚、ガチョウ、砥石、最後は石ころにと次々に交換し、その石ころも井戸に落として、無一物になって、郷里の母親のもとに帰り着くというお話。ストーリーが単純で他のグリム童話にあるような残酷な場面がないので、美しい絵本として版が重ねられている。この童話のなかに清貧の思想を読み取って、それを賛美したり、一般的な価値観にまどわされない自己の価値観の充足を肯定したりするコメントがネット上で多く見受けられた。一方、他人の持っているものをほしがり、最後には無一物になってしまうハンスのおろかしさを我がこととして受け止め、自戒する法話もあった。
この話を、たんに「子どものための童話」として、ここから道徳的ないし教訓的なテーマを読み取ろうとすれば、おおむね上記のようになるだろう。グリム兄弟もそれを目的にしたのかもしれない。だが、この単純な話は、決して単純ではない読後感をもたらす。「しあわせ」ハンス・・・・・しあわせ・・・・石ころさえも失って、無一物になって、なにがしあわせ?ほんとうにしあわせ?
誰もが気づくように、ハンスは、自分が最初に持っていたものを、より価値の低いものへと交換を重ね、最後に何の価値もない石ころに替えてしまった。ハンスは、次々と損をし続けたのだ。逆にいえば、ハンスとものを交換した相手はみんな得をしたのだ。ハンスの損は相手の得であり、「交換」という行為は必ず価値の増減をともなう。たとえ貨幣を仲介させても。そして、相手のものを「ほしがった」方が損をする。
さて、それで、私たちは、交換を重ねる度に損をするハンスの側にいるのか?それとも、ハンスの欲望を上手に引き出して、ハンスに損をさせ、自分は得をする側にいるのか?
せっかく7年の年季奉公をつとめあげ、郷里に帰ったハンスは、無一物になって、これからどうするのか?それは、最初から決まっている。また、7年の年季奉公に行くのだ。だって、何もないのだから。
「おいら、ほんとうに運がいいや」
この話は、もしかしたら、おそろしく残酷な童話かもしれない。
今日もまた、最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年1月6日金曜日
「タラントのたとえ」___不条理な「教え」
一昨日予告していた「タラントのたとえ」について、考えてみたいと思います。
この話は、イエスの死後、最も早く書かれたといわれるマルコによる福音書と、最も遅れて書かれたというヨハネによる福音書には記されていない。ほぼ同時期に成立したとされるマタイによる福音書およびルカによる福音書にほとんど同じ趣旨のたとえ話が記されている。
旅行に出かけることになった主人が僕たちを呼んで、それぞれの能力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、そしてもう一人には1タラントン預けた。しばらくして帰ってきた主人は、僕たちを読んで「清算」を始めた。5タラントン預かっていた僕は、商売をして5タラントン儲け、2タラントン預かっていた僕は同じく2タラントン儲け、それぞれ主人に「お前は小さなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とほめられる。ところが、1タラントンしか預からなかった僕は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」と隠しておいた1タラントンを差し出す。すると、主人はこの僕を「怠け者の悪い僕だ」と叱り、さらに「わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、この僕に預けておいた1タラントンを取り上げ、「外の暗闇に追い出せ」と命じるのである。
以上はマタイによる福音書の記事であって、ルカによる福音書では、お金の単位がムナになっていて、もう少し複雑な筋書きであるが、趣旨はほとんど変わりがない。ちなみに、聖書の注によれば、1タラントンは6000デナリ、1デナリは労働者1日分の賃金なので、5タラントは労働者30000日分の賃金!一生働いても労働者は手にいれることはできないだろう。1タラントも蓄えることは無理だろう。そのような巨額の資金を運用する僕を「小さなものに忠実だった」と評価する主人と僕の関係とは、どんなものなのか。そもそも、限られた期間に資金を倍にする、という行為は、投資というより投機である。投機に成功した者を褒めて取り立て、投機しなかった者にたいしては「怠け者だ!」と罵るばかりか、共同体から放逐してしまうとは、あまりにむごい話ではないか。また「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」とは、苛斂誅求以外なにものでもない。どうしてこれが「天国のたとえ」になるのか。
このたとえ話については、田川健三が『イエスという男』の中で「資本の増殖と能力崇拝」という章を設けて詳しく解説しているので、私がさらに新しい解釈を付け加える部分はほとんどない。田川は、このたとえ話の主人と僕の関係を、神と、有能な者として神に選ばれた支配者との関係として捉えている。選ばれた僕としての支配者は、だから、神から委託されたものをさらに増やして、繁栄させなければならない。それは至上命令で、怠ることは許されないのだというのが、このたとえ話の主眼なのだろう。
しかし、このたとえ話をイエスは誰に向けて語ったのか。1デナリしか稼げない労働者たちに向かって語ったのだろうか。それとも、5タラントンを運用するような資産家たちに語ったのか。その日暮らしの労働者たちに語ったのであれば、大いに共感を得たに違いない。彼らに直接の抑圧を与えるのは、1タラントンを隠しておくような無能な支配者だから、そういう人間が「暗闇で泣きわめいて歯ぎしりする」光景を想像して喝采しただろう。だが、しかし、本当に彼らを支配し、生涯1タラントンも貯えることができないような境遇に置き続けているのは、5タラントンを運用する、あるいは5タラントンを僕に預けて旅行に行くような雲の上の資産家なのだ。逆に5タラントンを運用するような支配者層にむけて語ったのだとすれば、これは彼らに対する厳しい弾劾のことばである。聖書の記述は、死を目前にしたイエスが、オリーブ山のふもとで弟子たちに語ったとされているが、マルコとヨハネがこの話を全く伝えていないのは、あるいは、後世の纂入かとも疑われるのだが。
天国に関するイエスのたとえ話は他にもたくさんあって、必ずしもその趣旨が同じ方向を目指すとは思われないものもある。しかし、そのたとえ話を通して、イエスの生きた時代がどのような時代であったか、そして、イエスが無条件に受け入れている社会構造がどのようなものであったかを知ることができるのは興味深い。このたとえ話の主人の言葉として、マタイによる福音書の記者は「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と書き記す。これはまさに、古代であれ現代であれ、資本主義の現実そのものではないか。たとえ話ではなく。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
この話は、イエスの死後、最も早く書かれたといわれるマルコによる福音書と、最も遅れて書かれたというヨハネによる福音書には記されていない。ほぼ同時期に成立したとされるマタイによる福音書およびルカによる福音書にほとんど同じ趣旨のたとえ話が記されている。
旅行に出かけることになった主人が僕たちを呼んで、それぞれの能力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、そしてもう一人には1タラントン預けた。しばらくして帰ってきた主人は、僕たちを読んで「清算」を始めた。5タラントン預かっていた僕は、商売をして5タラントン儲け、2タラントン預かっていた僕は同じく2タラントン儲け、それぞれ主人に「お前は小さなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とほめられる。ところが、1タラントンしか預からなかった僕は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」と隠しておいた1タラントンを差し出す。すると、主人はこの僕を「怠け者の悪い僕だ」と叱り、さらに「わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、この僕に預けておいた1タラントンを取り上げ、「外の暗闇に追い出せ」と命じるのである。
以上はマタイによる福音書の記事であって、ルカによる福音書では、お金の単位がムナになっていて、もう少し複雑な筋書きであるが、趣旨はほとんど変わりがない。ちなみに、聖書の注によれば、1タラントンは6000デナリ、1デナリは労働者1日分の賃金なので、5タラントは労働者30000日分の賃金!一生働いても労働者は手にいれることはできないだろう。1タラントも蓄えることは無理だろう。そのような巨額の資金を運用する僕を「小さなものに忠実だった」と評価する主人と僕の関係とは、どんなものなのか。そもそも、限られた期間に資金を倍にする、という行為は、投資というより投機である。投機に成功した者を褒めて取り立て、投機しなかった者にたいしては「怠け者だ!」と罵るばかりか、共同体から放逐してしまうとは、あまりにむごい話ではないか。また「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」とは、苛斂誅求以外なにものでもない。どうしてこれが「天国のたとえ」になるのか。
このたとえ話については、田川健三が『イエスという男』の中で「資本の増殖と能力崇拝」という章を設けて詳しく解説しているので、私がさらに新しい解釈を付け加える部分はほとんどない。田川は、このたとえ話の主人と僕の関係を、神と、有能な者として神に選ばれた支配者との関係として捉えている。選ばれた僕としての支配者は、だから、神から委託されたものをさらに増やして、繁栄させなければならない。それは至上命令で、怠ることは許されないのだというのが、このたとえ話の主眼なのだろう。
しかし、このたとえ話をイエスは誰に向けて語ったのか。1デナリしか稼げない労働者たちに向かって語ったのだろうか。それとも、5タラントンを運用するような資産家たちに語ったのか。その日暮らしの労働者たちに語ったのであれば、大いに共感を得たに違いない。彼らに直接の抑圧を与えるのは、1タラントンを隠しておくような無能な支配者だから、そういう人間が「暗闇で泣きわめいて歯ぎしりする」光景を想像して喝采しただろう。だが、しかし、本当に彼らを支配し、生涯1タラントンも貯えることができないような境遇に置き続けているのは、5タラントンを運用する、あるいは5タラントンを僕に預けて旅行に行くような雲の上の資産家なのだ。逆に5タラントンを運用するような支配者層にむけて語ったのだとすれば、これは彼らに対する厳しい弾劾のことばである。聖書の記述は、死を目前にしたイエスが、オリーブ山のふもとで弟子たちに語ったとされているが、マルコとヨハネがこの話を全く伝えていないのは、あるいは、後世の纂入かとも疑われるのだが。
天国に関するイエスのたとえ話は他にもたくさんあって、必ずしもその趣旨が同じ方向を目指すとは思われないものもある。しかし、そのたとえ話を通して、イエスの生きた時代がどのような時代であったか、そして、イエスが無条件に受け入れている社会構造がどのようなものであったかを知ることができるのは興味深い。このたとえ話の主人の言葉として、マタイによる福音書の記者は「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と書き記す。これはまさに、古代であれ現代であれ、資本主義の現実そのものではないか。たとえ話ではなく。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
登録:
投稿 (Atom)