2018年3月10日土曜日

小津安二郎『東京暮色』_____孝子の見ているものは何か

 『東京暮色』は徹底したリアリズムの映画でありながら、同時に完璧なドラマである。

 冒頭周吉がガラス格子の杉山家の玄関を入ると、三和土と廊下の間が障子戸で仕切られている。障子戸の真ん中にガラスがはめ込まれていて、玄関から入ってきた人間は家の内部(と同時にそれは観客の視線でもある)からガラスの枠を通して覗かれることになる。ガラスの枠は廊下の左右にある部屋と廊下を仕切る障子にもはめこまれているので、庄吉が玄関を開けると、ガラス越しに周吉の顔が三面映りだされる。非常に手の込んだ仕掛けである。そうまでして、この徹底的にリアルな映画が「お芝居」で、登場人物は「役者」なのだ、と強調したかったのだろうか。

 さて、「ただいま」と帰宅した周吉を「お帰りなさい。お寒かったでしょ」と娘の孝子が出迎える。孝子は夫の沼田との折り合いが悪くて、赤んぼうの道子を連れてこの家に戻ってきたばかりなのだが、いそいそと周吉の着替えを手伝う姿は、ずっとこの家にいて主婦をやってきた女のたたずまいである。孝子がいることを予期していなかった周吉は沼田のことをあれこれ話すが、孝子は話題にしたくない様子である。そんな二人の間に、妹の明子が「お姉さん、お床敷いてあるわよ」と割って入る。何気なく見過ごしてしまうのだが、ここは意味深長な場面である。

 このとき初めて周吉は「お前、帰らないのかい?」と孝子に問いかけ、孝子と沼田の関係のただならぬことに気づくのだが、より注目すべきは、いつもより早く帰宅した明子が、周吉より先に孝子から事情を聞いていたのではないかということである。孝子がどこまで話したかはわからないが、道子ともども少なくとも今日は夫の元に戻らないことを、その時点で明子は知っていたのだ。姉妹の間に何らかの「女同志の会話」が成立していたと考えるのが自然だろう。その際に、ずいぶん飛躍したことをいうようだが、孝子は明子の体の変化にまったく気づかないということがあるだろうか。

 周吉は沼田の家を訪れて、孝子と沼田の間に何があったのかを聞き出そうとする。本箱と本だけが目立つ寒々としたな部屋で、周吉と沼田が向き合うのだが、沼田は孝子の夫というより父の周吉の年齢に近いように見える。孝子との関係を問われているのに、とうとうと空疎で抽象的な愛情論を述べ立てる沼田は、なんとも軽薄でいやみな男として描かれる。夫に会ったことを周吉から聞いた孝子が「お父さん、気持ち悪くなさらならなかった?」というほどである。

 降り出した雪のなか傘もささずに帰宅した周吉を「お困りになったでしょ」と孝子が出迎える。着物に割烹着の主婦のたたずまいである。「沼田に会って来たよ」と切りだす周吉に、孝子の態度が急に変わる。取り合いたくないのだ。着替えもせずに背広姿のまま炬燵に手を突っ込んで、周吉は「お父さん、なんだかお前にすまないような気がしてね」というのである。孝子はふっと涙をこらえているようなバツの悪そうな表情をする。

 この後の周吉の言葉に私は耳を疑ってしまった。「こんなんだったら、佐藤なんかのほうが良かったかもしれないよ。お前も嫌いじゃないらしかったし」と言うのである。「佐藤なんかのほうがよかった」__「佐藤がよかった」のではない。「佐藤なんか」「のほう」がよかった、のである。沼田以外に「佐藤」という候補者がいて、いまとなってはそちらのほうがよかった、と言っているのではない。たいして(周吉の)意に沿うわけではないが、こんなことなら他にもいる候補者のなかで「佐藤なんか」のほうがよかった、と言っているのだ。この瞬間孝子の表情は凍り付く。だが、すぐに「いいのよお父さん。もういいの」と孝子はとりなすように言って、伏し目がちにややはにかんだ甘やかな若い女の顔になる。だが、周吉はさらに「だけど、お前に無理にすすめて」と続けるのである。

 この場面から読み取れるのは、孝子は、「佐藤なんか」のほうが、少なくとも沼田よりは好きだった、ということ、それを、どんな事情があるのか、周吉が「無理にすすめて」沼田を孝子の夫に選んだ、ということである。周吉と沼田、そして「佐藤」の関係はよくわからないが、大学の先輩と後輩の関係だろうか。その結果、「無理にすすめられて」結婚した沼田と孝子はどちらも不幸になっている。その原因は直接にも間接にも周吉にあるのだ。温厚で朴訥に見える周吉が、なぜ孝子に意に沿わぬ結婚を強いたのか。

 前回、これは父子家庭の物語である、と書いた。父周吉と孝子、明子の姉妹の物語である。そのうち、周吉と孝子の父子関係は冒頭のシーンから映像が雄弁に物語っている。不在の母の役割を長女の孝子が担ってきたのである。あるときは周吉の妻のように、周吉に寄り添って。孝子が着物姿で登場する時は齢の離れた夫婦のように見える。一方、明子と周吉の関係はどうだったのだろう。

 周吉が沼田に会いに行った夜、周吉より少し遅れて明子が帰ってくる。玄関で雪を払いながら入ってきた明子がそのまま二階に上がって行こうとするのを、周吉が「おい!」と呼び止めるが、明子は立ったまま「なあに」と面白くなさそうな顔でこたえる。周吉が「お前、叔母さんに金借りに行ったってね。なんでお父さんに言わなかったんだ」と問い詰めるが、明子は「もういいの。もう済んじゃったんだから」とその場を離れようとする。金の使い道をきかれても「友達が困っていたから」とうそをつく。被っていたスカーフは脱いでいるが、外套を着たままの姿で、これも背広姿の周吉との間には、最初から険悪な空気が漂っている。

 次に周吉と明子が相対するのは、憲ちゃんを待って深夜喫茶にいた明子が警察に補導され、周吉に内緒で孝子が引き取りに行った晩である。警察からの再度の電話で事情を知った周吉が明子を問い詰める。この場面の周吉は、これ以外では見せることのない冷酷で厳しい顔つきである。明子はしようことなく周吉の前に座るが、下を向いて黙っている。「うちには、警察なんかに呼ばれるものはいないはずだ」と言う周吉。何を問い詰められても黙っているだけの明子に、周吉はついに「なぜ黙っているんだ。そんなやつはお父さんの子じゃない」と言い放つ。「お父さん、そんな」と孝子が周吉を押しとどめて、やっと明子は解放される。この間、明子はスカーフを被り、外套も着たままである。

 明子を二階にやって、周吉と孝子が話し合う場面がある。「どうしてあんな風になったか。困ったもんだ」と周吉がつぶやく。それに対して、孝子が「あきちゃんもさびしいのよ、きっと」と答えるのだが、このとき一瞬孝子の口もとに微笑のようなものが浮かぶ。この後、周吉は、明子にはさびしい思いをさせないように、ときには孝子がひがむのではないかと思うくらい可愛がって育ててきた、と述懐し「いやぁ、子供を育てるってのは難しいもんだ」と嘆く。すると、微笑のようなものが、周吉の言葉を聞き終わった孝子の口もとに再び漂うのだ。口もとだけでなく、目もかすかに笑っているように見える。

 これは私の錯覚なのか?「お父さん、お休みになって」と孝子が促して、周吉が隣の部屋に去った後、カメラがしばらく無言の孝子の表情をとらえるのだが、これが何ともいえず、おそろしいのである。一人になった孝子は、やはり微かに笑みを含んだような表情で数秒間じっとしている。それから何かを決意したようにコートを脱ぎ始める。この間ずっと視線は斜め下に向けられている。蛇のような視線である。

 このとき孝子が見ていたものは何か、という疑問はいつまでも解決できない問題として私の中に残っている。というより、孝子とはいったい、どういう存在なのだろう。このドラマの中で、孝子はまだ明子の妊娠には気づいていない、という設定になっている。あるいは、最後まで、孝子も周吉も知らなかった、ということかもしれない。この時の孝子が見つめていたものは、妹の妊娠、あるいは酒に溺れる夫との生活、などの具体的な生活の苦悩ではなく、もっとたんてきに地獄そのものかもしれない。沈黙と不動の数秒間は、みずからが地獄の中で生きていることを確認している時間だったのではないか。

 ラスト、夫との生活に戻ることを告げる孝子に、周吉が「お前、向こうへ帰って、沼田とうまくやっていけるのかい」と言う。孝子は「やっていきたいと思います。やっていけなくても、やっていかなきゃならないと思います」と答える。孝子は、地獄が日常である生活を生きることを宣言したのである。

 孝子の地獄とこの映画のテーマについては、後半姉妹の母がプロットの展開に介入してくる部分も含めて、もっと追いかけなければならないのですが、すでにかなりの長文になってしまったので、ここでいったん切り上げたいと思います。周吉の家をとりまく十字架に見える電柱とイチジクの木と森永牛乳(エンゼルマーク)の木箱についても、できれば、次回で考えてみたいと思っています。できるかどうか、自信はないのですが。

 不出来な長文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2018年3月6日火曜日

小津安二郎『東京暮色』__緻密で隠微な心理劇の指し示すもの__明子を殺したのは誰か

 映画館に出向いて映画を観たことはこの齢になるまで数えるほどしかないのに、無料トライアルでたまたま小津安二郎のビデオを見て、あまりの面白さに嵌まってしまった。観ることができたのは、主に戦後の作品である。『晩春』から『秋刀魚の味』まで、そのほとんどが「家族」をテーマにしている。「政治」や「社会」を介入させない、という点でそのこと自体逆に極めて「政治的」であるともいえると思う。今回は、一九五七年に封切られた『東京暮色』について書いてみたい。

 小津の作品はどれを取ってみても無駄なシーンや不必要な台詞がないので、活字で紹介するのはなかなか難しいのだが、これは父子家庭の物語である。一家の母は、銀行員の父が京城に赴任中に関係を持った父の部下と出奔して不在である。残された子は三人いて、父親が男手一つで育ててきたが、和ちゃんと呼ばれる兄は「(昭和)二六年に山で遭難」して死んだ。母が出奔したとき三歳だった「明子」と姉(年齢はわからない)の「孝子」が登場する。季節は冬である。

 姉の孝子は学者の夫との折り合いが良くなくて、二歳の女の子(「道子」という名である)を連れて、実家に戻っている。妹の明子は短大を卒業して英文速記を習っているが、「憲ちゃん」という男の学生の子をみごもっている。明子がみごもったのを知って、憲ちゃんは逃げ回っている。憲ちゃんの後を追って、不良学生らがたむろする麻雀屋に行くと、麻雀屋の女将が明子に話しかけてくる。明子が小さいときに近所に住んでいたというのだが、明子はその女が自分の母親である、と気づく。

 その後、明子は、やっと(偶然に)会えた憲ちゃんに窮状を訴えるが、誠意のある対応をしてもらえない。約束した喫茶店に現れない憲ちゃんを深夜まで待っていた明子は警察に補導されてしまう。孝子に引き取られて帰宅した明子だったが、警察からの電話で事情を知った父に叱責されて、「(そんな子は)お父さんの子ではない」とまで言われてしまう。

 絶望の中で明子は堕胎手術を受ける。費用は父の友人の妻に工面してもらったらしい。そんな明子に父の妹が縁談を持ち込んでくる。その折に、父の妹から出奔した母親(喜久子という名であると明かされる)が東京にいると聞いた孝子は、明子に話しかけてきた麻雀屋の女将が母親であると確信して、喜久子に会いに行く。そして、明子が訪ねてきても、母と名乗らないでくれ、と言う。

 だが、明子は再び喜久子に会いに行って、問いただすのだ。自分は本当に父の子か、と。潔白を疑われた喜久子は血相を変えて、「お父さんの子じゃなければ、誰の子だと思ってるの」と明子の疑惑を否定する。一縷の望みを託した仮定も否定されて、明子は絶望する。

 明子は、その後、またまた偶然に鉢合わせした憲ちゃんの口先だけの言葉に激怒して、彼に平手打ちを食わせ、踏切に飛び込んで電車にはねられる。深夜勤務の看護婦だけがあくびを噛み殺しながら宿直する病院で、父と孝子に看取られ、「死にたくない。もう一度やり直したい」と言いながら、明子は死んでいく。

 喪服を着て麻雀屋を訪れた孝子から「あきちゃん死にました。お母さんのせいです」と告げられた喜久子は麻雀屋をたたんで、連れ合いとともに室蘭に行くことを決意する。青森行きの列車の出発時刻が迫る中、喜久子は必死でホームに孝子の姿を求めるが、彼女は来ない。孝子は父に夫のもとに帰って、もう一度やり直すという。彼女の言葉を聞いて、父は明子の遺影に向かって読経のようなものをくちずさむのだ。

 以上、稚拙にプロットをたどってみたが、この映画のすばらしさがまったく伝わらないないのがもどかしい。一見、不実な男に弄ばれて身を持ち崩した女の死に至る物語のようだが、実は男の存在は家族の問題を炙り出す触媒の役割なのではないか。これは複雑で隠微な肉親の愛憎と葛藤の物語なのである。温厚で子煩悩の父親、妹思いの気丈な姉、世話好きのやり手実業家の叔母、血族の誰もが「いい人」なのだが、誰も明子を救えなかった。いや、彼らが明子を死に駆り立てたのだ。

 映画の冒頭、「小松」という小料理屋に初老の男が入ってくる。主人公の父親杉山周吉である。飲み屋の店先に、たぶん当時は珍しかっただろう大型のオートバイが止まっている。店の中ではこのオートバイの持ち主らしい革ジャン(これも当時は貴重品だったと思われる)を着た男が一人で酒を飲んでいる。女将と周吉、それに先客の男をまじえたさりげない会話から、これ以降の物語の展開に必要な情報が過不足なく提示されていく。

 女将と周吉は古いなじみで、家族ぐるみのつきあいのようである。女将は明子も孝子もよく知っているようだ。周吉は銀行員である。だが、どうも、ばりばり仕事をして出世していく、というタイプでもないらしい。「くにからこのわたを送ってきた」という話から、女将の郷里の志摩が話題になり、先客の男が真珠の養殖の話をする。先客の男が「深い海の底で育つ」という真珠の養殖は、この映画のテーマの何らかの寓意なのだろうか。

 小料理屋の店内に孝子の夫(沼田という名である)の帽子が掛けてあったことから、周吉は孝子の夫が数日前酔ってこの店を訪れたことを知る。そして、帰宅すると、孝子が赤んぼうの道子を連れて戻ってきている。

 ここまでわずか数分間の映像で、周吉と彼を取り巻く家族の不幸が暗示される。明るい飲み屋の店内と一変して、周吉の家のある雑司ヶ谷の坂道の暗いこと。周吉の家は、かなり急な坂道を上がったところにあるのだが、坂道の後ろに十字架のように見える電柱が立っている。家の玄関の前には、(このときは暗くてよくわからないのだが)鉢植えのイチジクの木と大きな壺が置かれ、森永牛乳の木箱が玄関のガラス戸に掛かっている。

 これらの映像から、神話的、あるいは宗教的な寓意をよみとることはもちろん可能だが、それよりも徹底してリアルな、緻密に組み立てられた心理劇の伏線として受け取るべきだろう。この心理劇は、孝子を演じる原節子の怖ろしいまでの名演技にかかっているのだが、長くなるので、詳細はまた次回に書きたい。

 一カ月間小津三昧で、その割にまとまったことも書けませんが、何とか出だしの部分まで漕ぎつけました。もう少し、怠けないで頑張りたいと思っています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2018年1月1日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか

 非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある
 
 私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。

という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。

 敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている

 私のなかで
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。

 「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
 憶良はいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。

 「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。

 話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から

 __もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。

 戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。

 ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。

 「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。

 大江健三郎という存在は何なのか。

 大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2017年10月13日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__塙吾良の「ありえない」死と伊丹十三

 前回の「ウソの山のアリジゴクの穴から」で次回は塙吾良の死について書く、と言っておきながらどうしても書けないでいる。ひとつには、塙吾良のモデルである伊丹十三の事件が、小説の外側の現実から投げかける影があまりにも大きく深刻だからである。そしてもうひとつ、小説のなかで説明される事件の経緯が、普通の感覚では容易に受け入れがたいことが、さらに大きな理由なのかもしれない。

 塙吾良の死の解明に関して作者は、彼の最後の恋人(と呼んでいいかどうか迷うのだが)シマ浦という女性をドイツから召喚する。ギー兄さんの死に関して彼の息子のギー・ジュニアをアメリカから召喚したように。かつて『取り換え子』のなかで十八歳の初々しい大柄な娘だったシマ浦は、いま「ルイズ・ブルックスのブローチの面影」と形容される成熟した女性となって長江古義人の前に現れたのだった。

 吾良とシマ浦はヨーロッパの各地で八年間にわたって逢曳を重ねた。『取り換え子』では吾良がドイツに滞在した一時期の交流だった、とされているが、この小説では、シマ浦が人妻となった後も、「宗教上の理由もあって」(これは何のことかわからない)「性器の侵入を許さない」情事を重ねる。最後の密会はジュネーヴだったという。

 大江健三郎はなぜか、「性器の侵入を許さない」行為というモチーフにこだわっているようで、『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の女優サクラさんと、彼女を保護し、後に夫となった米軍の情報将校との間でも同じ行為が繰り返されていたことが暗示されている。

 シマ浦が長江の家を訪れたのは、吾良との最後の逢曳のとき、吾良が描いたスケッチが人目にさらされることを危惧したからだった。千樫が「本当に良い絵」だというそのスケッチは、あお向けになって両肢を開いた裸婦が描かれていて、シマ浦がモデルだった。吾良はその両肢の間の「女性の身体の部分」を表現したいと言って、シマ浦をモデルに構想していた映画のカメラマンと決裂した、という。

 カメラマンとの決裂の夜、吾良は古義人のもとを訪れ、例のスケッチを見せる。そして「映像として示すことのできない一瞬の持続(なんだかT・Sエリオットの詩のようだが)の内容」を「皮膚のある部分の微妙な動きの描写でなく、それそのものが実体である言葉」として表現してほしい、と古義人に要求する。だが、古義人はその要求にこたえることはできなかった。それ以降吾良と古義人の関係は断たれたのだった。

 以上、塙吾良に関する記述は、シマ浦さんの回想と古義人の記録、千樫の証言などを織り交ぜながら続いたのだが、娘の真木に突然ノーを突きつけられる。「もう、時間がない」。こんなことを書いていていいのか、と。妹のアサからも、反原発集会の中野重治の文章の引用を例に出して、古義人はザツだ、と批判される。女たちから、このように、喫緊のことを、精確に書け、という要請を受けたという設定になっているが、おそらく長江古義人の、というより大江健三郎の内部の声の発するものだろう。

 小説の後半、妻の千樫、娘の真木、妹のアサ、そしてシマ浦を交えて、古義人に対するギー・ジュニアのインタヴューが行われる。ここで、塙吾良の死についてのあらたな事実が記録される。そのひとつは、少なくとも古義人は、吾良の死を自殺だと思っていない、ということである。これは「事故」である、と。妻の千樫も同じように考えている、というのである。『取り換え子』冒頭の録音テープに記録されたドシン(という音)は、若い頃から自殺をほのめかし続けた吾良と古義人との間の永年のゲームだった、という。「たまたま」ゲームと「事故」がシンクロしてしまった、と。死の直前の吾良の行動を、古義人はこのように説明するのである。

 強い酒を飲んで、ひとつの思いに取りつかれ、ビルの屋上から飛び降りる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そこで、ふっとひとつの翳りが頭にさして、消えずにいる間に、プロダクション事務所の自室のドアを開けばエレベーターがあって、すぐが屋上でそこに鍵がかかっていなかったとすれば、二、三歩歩いて飛び降りる。思い詰めて、というのじゃなくそういうことをしうる人間にとって、これは「自殺」ではなくて「事故」だ、と僕は考えます。

 この論理を理解できるのは『晩年様式集』の登場人物以外にいないのではないか。にもかかわらず、作者は長江古義人にこう言わせなければならなかった。

 塙吾良の死についてのもうひとつのあらたな問題は、吾良の死亡日時についての解けない謎である。ギー・ジュニアのインタヴューの席で、千樫は古義人の母が吾良の死を悼んでこう言ったというのである。

 お兄さんが痛ましいことでした。・・・・・・・・・・
 コギーはあのように親しくしていただいておりながら、吾良さんが亡くなられるのをそのまま見殺しにしたのでしょう?コギーは恩知らずですから・・・・・・申し訳ないことです。

 吾良が死んだのは一九九七年の十二月二十日、古義人の母が亡くなったのは同じ年の十二月五日のことで、先に亡くなった古義人の母が吾良の死を悼むことはありえない。だが、千樫は自分の記憶にある古義人の母の言葉を思い違いとしたくない、と言うのだ。

 ちなみに『憂い顔の童子』では、古義人の母は病院の待合室で一年前のことを蒸し返した週刊誌を見て、吾良の死を知ったことになっている。つまり、先に亡くなったのは吾良で、古義人の母は吾良の死後、少なくとも一年は生きていたことになる。また、『憂い顔の童子』では、古義人に向かって母は「吾良さんが自害されたそうですな」と、はっきり「自害」と言っている。

 それに対して、この小説では、吾良の死は「痛ましい」と悔やまれているが、「自殺」という表現は使われていない。さらに、古義人の母は、コギーは吾良が亡くなるのを見殺しにした恩知らずだと言っているのだ。古義人の母の言葉は、吾良の死に古義人が無関係ではないことを含んでいる。それは具体的にどんなことを意味するのだろう。

 古義人自身は、千樫の言葉に続いて、「僕への批判としてであれ、そしてまだ吾良が生きていたのであれ、ギー兄さんと塙吾良を結んで思い出す母親の頭は、ボケていなかったと思うよ」と言っている。(下線は筆者)「ギー兄さんと塙吾良を結ぶ」とはどういうことか?古義人の母のなかで、ギー兄さんと塙吾良は同一の存在だったのか?

 ギー兄さんと塙吾良の親縁性は、ギー・ジュニアが最初に古義人の家を訪れたときに、古義人の息子アカリのブレザーを着て現れたエピソードに示されている。真木が、ギー・ジュニアとアカリがよく似ていることを、古義人に見せるつもりでそうさせたのだという。アカリは古義人の息子だが、吾良の甥であり、ブレザーは吾良がアカリに(意図的かどうかわからないが)残したものだった。「それを着ると、アカリに吾良の面影がある」「かれ(アカリ)のために仕立てたよう」とも書かれている。ブレザーをなかだちに、吾良、アカリ、ギー・ジュニアの親縁性が展開され、さらに「長江さんと僕の父は、骨格も身ぶりも似てた、兄弟のようだったとアサさんがいっています」というギー・ジュニアの言葉もある。

  塙吾良の死についての究明を試みるつもりが、いつまでたってもその糸口さえ明らかにできない。長江古義人が、吾良の死を無茶苦茶な論理で「自殺でなく事故」だと「いいはる」のはなぜか?さらに、もっと無茶苦茶なのが、まだ死んでいない吾良を悼む言葉を死の直前の古義人の母が述べたと千樫が「いいはって」いることである。謎を解くカギは「ギー兄さんと塙吾良を結んで」という古義人の言葉にあるのだろうが、これについて、作者はこれ以上何の解説もしない。「ウソの山のアリジゴクの穴から」二枚の紙を差し出したから、真実は読者がそこから炙り出せ、といわんばかりである。

 この作品以降いまに至るまで、大江健三郎はあらたな創作は発表していないようである。『晩年様式集』は「イン・レイト・スタイル」であって「イン・ラスト・スタイル」ではないのだから、また「ウソの山」にもう一枚のウソを積み重ねてほしい、と切望している。カタストロフィーは一回的なものではないのだから。生きることはつねにカタストロフィーなのではないか。

 読み直し、書き直し、生き直す、ということ、私らが生き直す、ということについて、まだたくさん書かなければならないことはあるのですが、今回はこれが私の能力の限界のようです。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2017年9月4日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__「ウソの山のアリジゴクの穴から」

 告発者アサの告発は二つある。一つは、作家の「私」の書いてきた作品のウソについて。もう一つはギー兄さんの死の真相について。この二つは方法論と中身の問題で、つきつめれば、「ギー兄さんの死」__「塙吾良の死」の究明が目的だと思われる。

 小説のウソと本当のことについて、『憂い顔の童子』冒頭で、大江健三郎は母親の言葉として、きわめて簡潔、明瞭に述べている。

 ・・・・・・小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう。そうやないのですか?ホントウのことを書き記すのは、小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・
 ……それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?
 それはウソに力をあたえるためでしょうが!・・・・・・・・・・・・・
 倫理の問題がある、といわれますが、それこそは、私のような歳の者が、毎朝毎晩、考えておることですよ!いつ死んでもおかしゅうない歳になった者が、このまま死んでよいものか、と考えて・・・・・・そのうち気がついてみると、これまでさんざん書いてきたウソの山に埋もれそうになっておる、ということでしょうな!小説家もその歳になれば、このまま死んでよいものか、と考えるのでしょうな。
 ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せるのでしょうか?死ぬ歳になった小説家というものも、難儀なことですな!

 なんだか大江健三郎の弁明、というかアリバイ作りの文章のようで、身も蓋もない、という感があるのだが、『晩年様式集』という作品はまさに「死ぬ歳になった小説家」が「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、差し出された一枚の紙」だろう。ホントウのことを書くのに、さらにウソを交ぜて、語りを複雑にしなければならなかったのだが。

 アサの告発あるいは糾弾はまず、「『懐かしい年への手紙』は真実、書かれたのか、というものである。アサはこう言っている。

 ・・・死んだ(殺された?)ギー兄さんをこれ幸い、『懐かしい年の島」に送り込んでしまうと、少なくとも兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて真実の手紙を書き送る事はしなかったと思う。

 『懐かしい年への手紙』は一九八七年に出版されている。みずから造った人造湖「テン窪大池」に死体となって浮き上がったギー兄さんに呼びかけた小説の末尾の文章はこうなっている。

 《ギー兄さんよ、その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時に生きるわれわれへ向けて、僕は幾通も幾通も、手紙を書く。この手紙に始まり、それがあなたのいなくなった現世で、僕が生の終わりまで書きつづけていくはずの、これからの仕事となろう。》

 上に引用した文章とアサの糾弾の言葉が微妙に、だが確実にくいちがっていることに気がつくだろうか。『懐かしい年への手紙』の末尾では「いつまでも循環する時に生きるわれわれへむけて」手紙を書く、といっている。だが、アサは、たんに「兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて、真実の手紙を書き送ることはしなかった」と非難しているだけだ。「誰に向けた」手紙かには触れていないのである。普通に読めば「「懐かしい年の島」に送り込まれた」ギー兄さんにむけたものだろう。些細な違いにみえるが、ここでも巧妙なすり替えが行われているように思われる。

 そもそも「僕」が「われわれへ向けて」手紙を書く、とはどういうことを意味するのか?

 アサの糾弾は「真実の」「手紙を書いたか」というところにとどまらない。アサは、ギー兄さんの死の真相について、より直截に具体的に言えば、「僕」がギー兄さんを殺したのではないか、という疑念をいだいているのだ。小説後半でアサは直接「僕」に問いただす。

 ギー兄さんの遺児ギー・ジュニアが「僕」にロング・インタヴューをする、という設定で小説後半の「僕」への追及は始まる。その中心は『懐かしい年への手紙』の読み直しである。小説の前半では、ギー・ジュニアは「僕」の創作態度への疑問を提出している。『懐かしい年への手紙』でギー兄さんが試みた奇妙な自殺(未遂)と強姦について、共通のものが、二〇年前に書かれた『万延元年のフットボール』ですでに起こってしまったそれとして描かれている、というものである。それに対してはアサが「僕」の側に立って経緯を説明し、ギー・ジュニアはその説明を受け入れている。

 余談だが、「胡瓜を肛門にさしこみ」「朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし」「首を吊る」という、およそ現実にはあり得ないスタイルでの自殺に大江健三郎はずっとこだわっている。『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』、『同時代ゲーム』にも、自殺ではないが登場人物が「胡瓜を肛門にさしこみ」「顔を赤く塗る」行為をする。強姦という行為に関しても同様なこだわりがあるようで、主人公は不必要かつ不自然な強姦を行って(敢えて)罪をかぶるのだ。作者は、これらの「ウソの山のアリジゴクから、」どのような「本当のこと」を差し出して見せようというのか?

 ロング・インタヴューの主導権を握るのはアサである。ギー兄さんのことを理解するには「小説ではあるけれど」と断ったうえで「唯一の本」として『懐かしい年への手紙』をたどっていく。

 土地に根差した新しい生活_根拠地の運動をすすめていたギー兄さんは、おりからの反・安保デモのさなか、かつて弟子だったKの身を案じて上京し、デモにまきこまれて大怪我をする。その混乱の中から彼を救い出した女性を連れて森のへりに帰ったギー兄さんは、彼女と演劇運動を始める。だが、結果として彼女を殺してしまう事態が起こる。殺人者となったギー兄さんは罪を償って十年間獄中で過ごす。監獄から出て、しばらく日本中を放浪した後、いまは作家となったKの家に現れる。

 Kの留守中にやってきたギー兄さんは、Kの長編の草稿を読み、かつてKのテューターだった時と同じように批評を始める。批評というより批判と言ったほうがいいかもしれない。Kが「自己(セルフ)の回心(コンヴァージョン)の・死と再生(リザレクション)の物語」を書く時は熟していない、と。生業のために作家を続けなければならない、ということなら、自分と一緒に森に帰って新生活を始めよう、と誘ったのである。

 ギー兄さんの言葉を聞いたKは、執筆中の草稿を暖炉で燃やしてしまう。Kのこの行為について、その意味を「僕」に問いかけ、「僕」の本音を引き出したのはギー・ジュニアだった。「書くこと」=「書き直すこと」である「僕」が草稿を燃やしてしまったのは、書き直しが不可能だと知ったからであるが、それであれば何故ギー兄さんと一緒に森へ帰って、彼と新生活を始めなかったのか?ギー・ジュニアの問いかけに「僕」はこう答えるのだ。

 ___こちらを追い詰めて、二つにひとつを選ばせるというのじゃない、ひとつしかない選択肢を、恩賜の態度で示すわけだ。もう四十を越えているという男に。僕は憎悪とでもいうものを感じた、それを思い出すよ。そのうえで拒否した・・・・・・いや、憎悪というほかないものを抱いた

 「僕」のこの告白に鋭敏に反応したのがアサだった。「わたしのなかで意識的に押さえていた変な思い付き」の「妄想」とことわったうえで、アサは、「僕」がギー兄さんを殺したのではないか、という疑念を口にする。ギー兄さんが川を堰き止めて作った「テン窪大池」は、ギー兄さんと町の人間との対立を先鋭的なものにしていた。間にたって和解への導きを期待されて森のへりに帰った「僕」だったが、何ひとつできず東京に戻った。だが、ひそかに再び森のへりにやってきて、ギー兄さんと昔遊んだ「プレイ・チキン」というゲームをする。水中でする我慢比べだが、自分が負けるのを知っている「僕」は隠し持った「メリケン」という凶器でギー兄さんの頭を一撃し、浮かび上がる。翌朝、ギー兄さんは大池に浮かぶ。・・・

 アサの「妄想」は「僕」が持ち出した「証拠品」によって完全に否定されたのだが、この後、娘の真木が、ロング・インタヴューのパート2を始める。そこで彼女は次のように続けるのである。

 ・・・テン窪大檜の島で警察の検視があって、ギー兄さんがお酒を飲んでいたことが重く見られた。水温の低い夜更けにギー兄さんが泳ぎに出たのも普通じゃないですが、ギー兄さんには精神的に健康でない状態が続いていた。それには幾人もの証言がありました。そこで、事故が起こったと見なされました。
 今度はギー・ジュニアが、かれの父親のことですからね、その事故死とされたことについて、また別の噂があったという話を、土地の人から集めました。そのうちギー兄さんは殺されたというものが出て来たんです。

 ここまで、アサと真木の発言にそって『懐かしい年への手紙』を読み直してきたが、発表された『懐かしい年への手紙』で語られているギー兄さんの死は彼女たちの言葉とは微妙に、というよりはっきりと異なっているのだ。小説の末尾近く、こう書かれているのだ。

 死の前夜、夜明けからの大雨の中、ギー兄さんは「テン窪大池」の造成工事反対派の人間と激しい議論を交わしていた。いったん引き下がったかに見えた連中が、今度は屋敷の電話線を切って侵入し、妻のオセッチャンの抵抗をさえぎって、むりやりギー兄さんを雨のなかへ連れ出した・・・

 つまり、原作では、ギー兄さんの死は、あきらかに「テン窪大池」造成反対派の仕業だと思わせるように書いてあるのだが、この小説では、「お酒を飲んで」「泳ぎに出た」ギー兄さんを「警察が事故死」と見なした、と書かれているのだ。だが、殺された、という「噂」もある、と。しかも、「僕」の妹のアサは「僕」が殺したのではないか、と懼れていたのだと。

 この後さらに真木は「ギー・ジュニアの本来の意図」は「ギー兄さん、塙吾良、そして私の父」という失敗した知識人の研究で、かれらの晩年に共通のカタストロフィーが見て取れる、という発想で出発した、という。「長江はまだ生きているけれど、私小説的な長編はみなカタストロフィーを予感している」というギー・ジュニアの言葉も紹介している。完全にフィクションの中の人物であるギー兄さん、フィクション中の人物でありながらモデルが明らかな塙吾良、実在の作家に最も近い「私の父」が「カタストロフィー」ということばで括られている。「カタストロフィー」ということばが、たんに概念的なものでなく、具体的な実在感をもって重く響いてくるような気がする。

 カタストロフィー委員会のもう一人の対象である塙吾良についても書かなければならないのだが、すでにかなりの長文となってしまったので、続きは次回にしたい。もう少し整理した文章が書きたかったのですが、力及ばず、メモ以下になってしまいました。最後まで読んでくださってありがとうございます。