2018年1月1日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか

 非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある
 
 私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。

という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。

 敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている

 私のなかで
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。

 「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
 憶良はいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。

 「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。

 話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から

 __もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。

 戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。

 ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。

 「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。

 大江健三郎という存在は何なのか。

 大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2017年10月13日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__塙吾良の「ありえない」死と伊丹十三

 前回の「ウソの山のアリジゴクの穴から」で次回は塙吾良の死について書く、と言っておきながらどうしても書けないでいる。ひとつには、塙吾良のモデルである伊丹十三の事件が、小説の外側の現実から投げかける影があまりにも大きく深刻だからである。そしてもうひとつ、小説のなかで説明される事件の経緯が、普通の感覚では容易に受け入れがたいことが、さらに大きな理由なのかもしれない。

 塙吾良の死の解明に関して作者は、彼の最後の恋人(と呼んでいいかどうか迷うのだが)シマ浦という女性をドイツから召喚する。ギー兄さんの死に関して彼の息子のギー・ジュニアをアメリカから召喚したように。かつて『取り換え子』のなかで十八歳の初々しい大柄な娘だったシマ浦は、いま「ルイズ・ブルックスのブローチの面影」と形容される成熟した女性となって長江古義人の前に現れたのだった。

 吾良とシマ浦はヨーロッパの各地で八年間にわたって逢曳を重ねた。『取り換え子』では吾良がドイツに滞在した一時期の交流だった、とされているが、この小説では、シマ浦が人妻となった後も、「宗教上の理由もあって」(これは何のことかわからない)「性器の侵入を許さない」情事を重ねる。最後の密会はジュネーヴだったという。

 大江健三郎はなぜか、「性器の侵入を許さない」行為というモチーフにこだわっているようで、『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の女優サクラさんと、彼女を保護し、後に夫となった米軍の情報将校との間でも同じ行為が繰り返されていたことが暗示されている。

 シマ浦が長江の家を訪れたのは、吾良との最後の逢曳のとき、吾良が描いたスケッチが人目にさらされることを危惧したからだった。千樫が「本当に良い絵」だというそのスケッチは、あお向けになって両肢を開いた裸婦が描かれていて、シマ浦がモデルだった。吾良はその両肢の間の「女性の身体の部分」を表現したいと言って、シマ浦をモデルに構想していた映画のカメラマンと決裂した、という。

 カメラマンとの決裂の夜、吾良は古義人のもとを訪れ、例のスケッチを見せる。そして「映像として示すことのできない一瞬の持続(なんだかT・Sエリオットの詩のようだが)の内容」を「皮膚のある部分の微妙な動きの描写でなく、それそのものが実体である言葉」として表現してほしい、と古義人に要求する。だが、古義人はその要求にこたえることはできなかった。それ以降吾良と古義人の関係は断たれたのだった。

 以上、塙吾良に関する記述は、シマ浦さんの回想と古義人の記録、千樫の証言などを織り交ぜながら続いたのだが、娘の真木に突然ノーを突きつけられる。「もう、時間がない」。こんなことを書いていていいのか、と。妹のアサからも、反原発集会の中野重治の文章の引用を例に出して、古義人はザツだ、と批判される。女たちから、このように、喫緊のことを、精確に書け、という要請を受けたという設定になっているが、おそらく長江古義人の、というより大江健三郎の内部の声の発するものだろう。

 小説の後半、妻の千樫、娘の真木、妹のアサ、そしてシマ浦を交えて、古義人に対するギー・ジュニアのインタヴューが行われる。ここで、塙吾良の死についてのあらたな事実が記録される。そのひとつは、少なくとも古義人は、吾良の死を自殺だと思っていない、ということである。これは「事故」である、と。妻の千樫も同じように考えている、というのである。『取り換え子』冒頭の録音テープに記録されたドシン(という音)は、若い頃から自殺をほのめかし続けた吾良と古義人との間の永年のゲームだった、という。「たまたま」ゲームと「事故」がシンクロしてしまった、と。死の直前の吾良の行動を、古義人はこのように説明するのである。

 強い酒を飲んで、ひとつの思いに取りつかれ、ビルの屋上から飛び降りる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そこで、ふっとひとつの翳りが頭にさして、消えずにいる間に、プロダクション事務所の自室のドアを開けばエレベーターがあって、すぐが屋上でそこに鍵がかかっていなかったとすれば、二、三歩歩いて飛び降りる。思い詰めて、というのじゃなくそういうことをしうる人間にとって、これは「自殺」ではなくて「事故」だ、と僕は考えます。

 この論理を理解できるのは『晩年様式集』の登場人物以外にいないのではないか。にもかかわらず、作者は長江古義人にこう言わせなければならなかった。

 塙吾良の死についてのもうひとつのあらたな問題は、吾良の死亡日時についての解けない謎である。ギー・ジュニアのインタヴューの席で、千樫は古義人の母が吾良の死を悼んでこう言ったというのである。

 お兄さんが痛ましいことでした。・・・・・・・・・・
 コギーはあのように親しくしていただいておりながら、吾良さんが亡くなられるのをそのまま見殺しにしたのでしょう?コギーは恩知らずですから・・・・・・申し訳ないことです。

 吾良が死んだのは一九九七年の十二月二十日、古義人の母が亡くなったのは同じ年の十二月五日のことで、先に亡くなった古義人の母が吾良の死を悼むことはありえない。だが、千樫は自分の記憶にある古義人の母の言葉を思い違いとしたくない、と言うのだ。

 ちなみに『憂い顔の童子』では、古義人の母は病院の待合室で一年前のことを蒸し返した週刊誌を見て、吾良の死を知ったことになっている。つまり、先に亡くなったのは吾良で、古義人の母は吾良の死後、少なくとも一年は生きていたことになる。また、『憂い顔の童子』では、古義人に向かって母は「吾良さんが自害されたそうですな」と、はっきり「自害」と言っている。

 それに対して、この小説では、吾良の死は「痛ましい」と悔やまれているが、「自殺」という表現は使われていない。さらに、古義人の母は、コギーは吾良が亡くなるのを見殺しにした恩知らずだと言っているのだ。古義人の母の言葉は、吾良の死に古義人が無関係ではないことを含んでいる。それは具体的にどんなことを意味するのだろう。

 古義人自身は、千樫の言葉に続いて、「僕への批判としてであれ、そしてまだ吾良が生きていたのであれ、ギー兄さんと塙吾良を結んで思い出す母親の頭は、ボケていなかったと思うよ」と言っている。(下線は筆者)「ギー兄さんと塙吾良を結ぶ」とはどういうことか?古義人の母のなかで、ギー兄さんと塙吾良は同一の存在だったのか?

 ギー兄さんと塙吾良の親縁性は、ギー・ジュニアが最初に古義人の家を訪れたときに、古義人の息子アカリのブレザーを着て現れたエピソードに示されている。真木が、ギー・ジュニアとアカリがよく似ていることを、古義人に見せるつもりでそうさせたのだという。アカリは古義人の息子だが、吾良の甥であり、ブレザーは吾良がアカリに(意図的かどうかわからないが)残したものだった。「それを着ると、アカリに吾良の面影がある」「かれ(アカリ)のために仕立てたよう」とも書かれている。ブレザーをなかだちに、吾良、アカリ、ギー・ジュニアの親縁性が展開され、さらに「長江さんと僕の父は、骨格も身ぶりも似てた、兄弟のようだったとアサさんがいっています」というギー・ジュニアの言葉もある。

  塙吾良の死についての究明を試みるつもりが、いつまでたってもその糸口さえ明らかにできない。長江古義人が、吾良の死を無茶苦茶な論理で「自殺でなく事故」だと「いいはる」のはなぜか?さらに、もっと無茶苦茶なのが、まだ死んでいない吾良を悼む言葉を死の直前の古義人の母が述べたと千樫が「いいはって」いることである。謎を解くカギは「ギー兄さんと塙吾良を結んで」という古義人の言葉にあるのだろうが、これについて、作者はこれ以上何の解説もしない。「ウソの山のアリジゴクの穴から」二枚の紙を差し出したから、真実は読者がそこから炙り出せ、といわんばかりである。

 この作品以降いまに至るまで、大江健三郎はあらたな創作は発表していないようである。『晩年様式集』は「イン・レイト・スタイル」であって「イン・ラスト・スタイル」ではないのだから、また「ウソの山」にもう一枚のウソを積み重ねてほしい、と切望している。カタストロフィーは一回的なものではないのだから。生きることはつねにカタストロフィーなのではないか。

 読み直し、書き直し、生き直す、ということ、私らが生き直す、ということについて、まだたくさん書かなければならないことはあるのですが、今回はこれが私の能力の限界のようです。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2017年9月4日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__「ウソの山のアリジゴクの穴から」

 告発者アサの告発は二つある。一つは、作家の「私」の書いてきた作品のウソについて。もう一つはギー兄さんの死の真相について。この二つは方法論と中身の問題で、つきつめれば、「ギー兄さんの死」__「塙吾良の死」の究明が目的だと思われる。

 小説のウソと本当のことについて、『憂い顔の童子』冒頭で、大江健三郎は母親の言葉として、きわめて簡潔、明瞭に述べている。

 ・・・・・・小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう。そうやないのですか?ホントウのことを書き記すのは、小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・
 ……それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?
 それはウソに力をあたえるためでしょうが!・・・・・・・・・・・・・
 倫理の問題がある、といわれますが、それこそは、私のような歳の者が、毎朝毎晩、考えておることですよ!いつ死んでもおかしゅうない歳になった者が、このまま死んでよいものか、と考えて・・・・・・そのうち気がついてみると、これまでさんざん書いてきたウソの山に埋もれそうになっておる、ということでしょうな!小説家もその歳になれば、このまま死んでよいものか、と考えるのでしょうな。
 ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せるのでしょうか?死ぬ歳になった小説家というものも、難儀なことですな!

 なんだか大江健三郎の弁明、というかアリバイ作りの文章のようで、身も蓋もない、という感があるのだが、『晩年様式集』という作品はまさに「死ぬ歳になった小説家」が「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、差し出された一枚の紙」だろう。ホントウのことを書くのに、さらにウソを交ぜて、語りを複雑にしなければならなかったのだが。

 アサの告発あるいは糾弾はまず、「『懐かしい年への手紙』は真実、書かれたのか、というものである。アサはこう言っている。

 ・・・死んだ(殺された?)ギー兄さんをこれ幸い、『懐かしい年の島」に送り込んでしまうと、少なくとも兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて真実の手紙を書き送る事はしなかったと思う。

 『懐かしい年への手紙』は一九八七年に出版されている。みずから造った人造湖「テン窪大池」に死体となって浮き上がったギー兄さんに呼びかけた小説の末尾の文章はこうなっている。

 《ギー兄さんよ、その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時に生きるわれわれへ向けて、僕は幾通も幾通も、手紙を書く。この手紙に始まり、それがあなたのいなくなった現世で、僕が生の終わりまで書きつづけていくはずの、これからの仕事となろう。》

 上に引用した文章とアサの糾弾の言葉が微妙に、だが確実にくいちがっていることに気がつくだろうか。『懐かしい年への手紙』の末尾では「いつまでも循環する時に生きるわれわれへむけて」手紙を書く、といっている。だが、アサは、たんに「兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて、真実の手紙を書き送ることはしなかった」と非難しているだけだ。「誰に向けた」手紙かには触れていないのである。普通に読めば「「懐かしい年の島」に送り込まれた」ギー兄さんにむけたものだろう。些細な違いにみえるが、ここでも巧妙なすり替えが行われているように思われる。

 そもそも「僕」が「われわれへ向けて」手紙を書く、とはどういうことを意味するのか?

 アサの糾弾は「真実の」「手紙を書いたか」というところにとどまらない。アサは、ギー兄さんの死の真相について、より直截に具体的に言えば、「僕」がギー兄さんを殺したのではないか、という疑念をいだいているのだ。小説後半でアサは直接「僕」に問いただす。

 ギー兄さんの遺児ギー・ジュニアが「僕」にロング・インタヴューをする、という設定で小説後半の「僕」への追及は始まる。その中心は『懐かしい年への手紙』の読み直しである。小説の前半では、ギー・ジュニアは「僕」の創作態度への疑問を提出している。『懐かしい年への手紙』でギー兄さんが試みた奇妙な自殺(未遂)と強姦について、共通のものが、二〇年前に書かれた『万延元年のフットボール』ですでに起こってしまったそれとして描かれている、というものである。それに対してはアサが「僕」の側に立って経緯を説明し、ギー・ジュニアはその説明を受け入れている。

 余談だが、「胡瓜を肛門にさしこみ」「朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし」「首を吊る」という、およそ現実にはあり得ないスタイルでの自殺に大江健三郎はずっとこだわっている。『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』、『同時代ゲーム』にも、自殺ではないが登場人物が「胡瓜を肛門にさしこみ」「顔を赤く塗る」行為をする。強姦という行為に関しても同様なこだわりがあるようで、主人公は不必要かつ不自然な強姦を行って(敢えて)罪をかぶるのだ。作者は、これらの「ウソの山のアリジゴクから、」どのような「本当のこと」を差し出して見せようというのか?

 ロング・インタヴューの主導権を握るのはアサである。ギー兄さんのことを理解するには「小説ではあるけれど」と断ったうえで「唯一の本」として『懐かしい年への手紙』をたどっていく。

 土地に根差した新しい生活_根拠地の運動をすすめていたギー兄さんは、おりからの反・安保デモのさなか、かつて弟子だったKの身を案じて上京し、デモにまきこまれて大怪我をする。その混乱の中から彼を救い出した女性を連れて森のへりに帰ったギー兄さんは、彼女と演劇運動を始める。だが、結果として彼女を殺してしまう事態が起こる。殺人者となったギー兄さんは罪を償って十年間獄中で過ごす。監獄から出て、しばらく日本中を放浪した後、いまは作家となったKの家に現れる。

 Kの留守中にやってきたギー兄さんは、Kの長編の草稿を読み、かつてKのテューターだった時と同じように批評を始める。批評というより批判と言ったほうがいいかもしれない。Kが「自己(セルフ)の回心(コンヴァージョン)の・死と再生(リザレクション)の物語」を書く時は熟していない、と。生業のために作家を続けなければならない、ということなら、自分と一緒に森に帰って新生活を始めよう、と誘ったのである。

 ギー兄さんの言葉を聞いたKは、執筆中の草稿を暖炉で燃やしてしまう。Kのこの行為について、その意味を「僕」に問いかけ、「僕」の本音を引き出したのはギー・ジュニアだった。「書くこと」=「書き直すこと」である「僕」が草稿を燃やしてしまったのは、書き直しが不可能だと知ったからであるが、それであれば何故ギー兄さんと一緒に森へ帰って、彼と新生活を始めなかったのか?ギー・ジュニアの問いかけに「僕」はこう答えるのだ。

 ___こちらを追い詰めて、二つにひとつを選ばせるというのじゃない、ひとつしかない選択肢を、恩賜の態度で示すわけだ。もう四十を越えているという男に。僕は憎悪とでもいうものを感じた、それを思い出すよ。そのうえで拒否した・・・・・・いや、憎悪というほかないものを抱いた

 「僕」のこの告白に鋭敏に反応したのがアサだった。「わたしのなかで意識的に押さえていた変な思い付き」の「妄想」とことわったうえで、アサは、「僕」がギー兄さんを殺したのではないか、という疑念を口にする。ギー兄さんが川を堰き止めて作った「テン窪大池」は、ギー兄さんと町の人間との対立を先鋭的なものにしていた。間にたって和解への導きを期待されて森のへりに帰った「僕」だったが、何ひとつできず東京に戻った。だが、ひそかに再び森のへりにやってきて、ギー兄さんと昔遊んだ「プレイ・チキン」というゲームをする。水中でする我慢比べだが、自分が負けるのを知っている「僕」は隠し持った「メリケン」という凶器でギー兄さんの頭を一撃し、浮かび上がる。翌朝、ギー兄さんは大池に浮かぶ。・・・

 アサの「妄想」は「僕」が持ち出した「証拠品」によって完全に否定されたのだが、この後、娘の真木が、ロング・インタヴューのパート2を始める。そこで彼女は次のように続けるのである。

 ・・・テン窪大檜の島で警察の検視があって、ギー兄さんがお酒を飲んでいたことが重く見られた。水温の低い夜更けにギー兄さんが泳ぎに出たのも普通じゃないですが、ギー兄さんには精神的に健康でない状態が続いていた。それには幾人もの証言がありました。そこで、事故が起こったと見なされました。
 今度はギー・ジュニアが、かれの父親のことですからね、その事故死とされたことについて、また別の噂があったという話を、土地の人から集めました。そのうちギー兄さんは殺されたというものが出て来たんです。

 ここまで、アサと真木の発言にそって『懐かしい年への手紙』を読み直してきたが、発表された『懐かしい年への手紙』で語られているギー兄さんの死は彼女たちの言葉とは微妙に、というよりはっきりと異なっているのだ。小説の末尾近く、こう書かれているのだ。

 死の前夜、夜明けからの大雨の中、ギー兄さんは「テン窪大池」の造成工事反対派の人間と激しい議論を交わしていた。いったん引き下がったかに見えた連中が、今度は屋敷の電話線を切って侵入し、妻のオセッチャンの抵抗をさえぎって、むりやりギー兄さんを雨のなかへ連れ出した・・・

 つまり、原作では、ギー兄さんの死は、あきらかに「テン窪大池」造成反対派の仕業だと思わせるように書いてあるのだが、この小説では、「お酒を飲んで」「泳ぎに出た」ギー兄さんを「警察が事故死」と見なした、と書かれているのだ。だが、殺された、という「噂」もある、と。しかも、「僕」の妹のアサは「僕」が殺したのではないか、と懼れていたのだと。

 この後さらに真木は「ギー・ジュニアの本来の意図」は「ギー兄さん、塙吾良、そして私の父」という失敗した知識人の研究で、かれらの晩年に共通のカタストロフィーが見て取れる、という発想で出発した、という。「長江はまだ生きているけれど、私小説的な長編はみなカタストロフィーを予感している」というギー・ジュニアの言葉も紹介している。完全にフィクションの中の人物であるギー兄さん、フィクション中の人物でありながらモデルが明らかな塙吾良、実在の作家に最も近い「私の父」が「カタストロフィー」ということばで括られている。「カタストロフィー」ということばが、たんに概念的なものでなく、具体的な実在感をもって重く響いてくるような気がする。

 カタストロフィー委員会のもう一人の対象である塙吾良についても書かなければならないのだが、すでにかなりの長文となってしまったので、続きは次回にしたい。もう少し整理した文章が書きたかったのですが、力及ばず、メモ以下になってしまいました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2017年8月16日水曜日

大江健三郎『晩年様式集』_____終活ノートの告白その1_「三・一一」とは何か

 「イン・レイト・スタイル」とルビが振られたこの小説について、何か月も何も書けないでいる。ひとえに私が怠惰なためである。これを書こう、という意欲がどうしても湧きあがらないのだ。言い訳じみたことをいえば、読後感が散漫なのである。もっといえば、「物語」が語られないのだ。いくつかの、非常に重要な事柄は存在するが、それは「物語」になっていない。「事実の告白」として作品中に提示されているだけなのだ。だから、読者としての興味、関心は作品世界の中に見出すことができなくて、作品世界の外側にある事実に向かってしまう。それが作者のもくろみなのかもしれないが。

 読後感が散漫な印象を与える理由のひとつに、作中「書き手」(語り手ではない)が三人存在するということがあると思う。作家の「私」、妹の「アサ」、娘の「真木」がそれぞれの文章を書き、パソコンで活字化したものを綴じ合わせ編集し、私家版の雑誌として「晩年様式集」とタイトルをつけた、と「前口上」に書かれている。書かれている事柄の時系列が前後したり、書き手の感情がもつれたりして錯綜して、かなり読みにくい。妹のアサと娘の真木は総じて作家の「私」に批判的である。とくにアサの「告発」が私の「告白」を余儀なくさせる結果となる。前作『水死』では、フィクサー・アサの役割が際立っていたが、今回は「告発者・アサ」として、重要な役割を果たすことになる。

 アサのアシスタントとしてアメリカから召喚されるのが『懐かしい年への手紙』の主人公「ギー兄さん」の遺児ギー・ジュニアである。ギー・ジュニアは、ギー兄さんの不可解な死の後、その遺産を相続した母の「オセッチャン」とともに幼少時アメリカに渡り、そこで教育を受ける。長じてTVのプロデューサーとなった彼は「カタストロフィ委員会」なるものを立ち上げ、「三・一一」直後の日本を訪れるのである。

 ところで、素人の本読みとして、あえて言わせてもらえば、この作品におけるギー・ジュニア(それから母親のオセッチャンも)の生育歴とキャラクターは『燃え上がる緑の木』や『宙返り』のそれと矛盾するところが多すぎるのではないか。前二作の「ギー」は知能犯的悪童であり、不良少年である。その彼が、申し分ない知性と教養、語学力を持ち、「私」の家族をサポートする。そのことによって、「私」の告白を引き出す役割を果たす、という次第はプロットの展開に必要ではあっても、ご都合主義すぎるように思われるのだが。

 そもそも「三・一一」とは何だったのか。それはこの作品における「三・一一」の意味であるとか、作家の「私」にとっての転機であるとかをこえて、いまに続く決定的な出来事の意味を問うことである。日本にとっても、世界にとっても。作家の「私」は、「三・一一後」に、それまで書いていた長編小説に興味を失った、と記している。ところが、私には、作家の「私」にとって、「三・一一後」が何であるか、あるいはあったのか、わからないのである。

 小説の冒頭、「三・一一後」福島に急行したNHKの取材チームによる特集番組が紹介されている。避難指示が出ている村落に一軒だけ残っている家がある。出産間近の馬がいて避難するわけにはいかない。取材したチームのプロデューサーは、翌日仔馬が生まれたことを家の主人から聞く。だが、仔馬を草原で走らせてやることはできない、とも。放射能雨で汚染されているから。

 この映像を見て「私」は泣くのだ。ここまでは、自然な感情の流れとしてすんなり読むことができる。?となるのはその後ダンテの『神曲』「地獄篇」の一節を引用する部分からである。原文に続いて、寿岳文章の訳が記されている。少し長くなるが訳とそれに続く本文を引用してみたい。

 「よっておぬしには了解できよう。未来の扉がとざされるや否や、わしらの知識は悉く死物となりはててしまふことが」
 私はあの時、いま階段の踊り場で哀れな泣き声を自分にあげさせたものが(それはこれまで味わったことのない、新種の恐怖によっての、おいつめられた泣き声であって)、TVの画像という「言葉」で、いま現在の、そこの状態について、どんな物証もなく、知識もない私に告げられた真実によってだった、とさとった。もう私らの「未来の扉」はとざされたのだ、そして自分らの知識は(とくに私らの知識は何というほどのこともなかったが、ともかく)悉く死んでしまったのだ・・・・・・

 生まれた仔馬を草原で走らせてやることができない、という飼い主の言葉は仔馬のみならず、人間を含むあらゆる生物にとって、すこやかな生を脅かすとてつもないことが起こってしまったことを意味する。だが、「私」は直接的な生存の恐怖に対して、というよりむしろ「知識の死物化」に対して悲嘆にくれた、というのだ。どこか感情のボタンが掛けちがえられていないだろうか。

 放射能の汚染による生存の恐怖は障害をもつ息子のアカリの思いとして表現されている。「私」が若い時に書いた『空の怪物アグイー』という小説の中で殺された赤んぼうアグイーが、なぜかアカリにとって何より大事な存在として、再び登場する。アカリは空に浮かぶアグイーを放射能の汚染から何としても守らなければならないと思っているという設定になっている。「三・一一」とアグイーの再登場はどんな関係があるのだろうか。

 『晩年様式集』という小説中に召喚されるのは『空の怪物アグイー』だけではない。最も重要なものは『懐かしい年への手紙』の世界であり、その主人公のギー兄さんである。ギー兄さんとはどのような存在であったのか。そしてもう一人再登場するのが『取り換え子」の塙吾良だ。ギー兄さんについて、塙吾良について、『懐かしい年への手紙』、『取り換え子』の世界を承継しながら、最後はひっくりかえす、その作業をするためにこの小説は書かれたのではないかと思うのだが、長くなるので具体的な検討は次回にしたい。

 書かなければ読んだという事実さえないのと同じことになってしまうので、ともかくも書いてみました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。  

2017年5月10日水曜日

『紙屋悦子の青春』その3_______そして海ヘ___マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

 以前「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」の歌を「寺山修司の世界」とサブタイトルをつけて取り上げたことがあった。そこで私は決定的な間違いをしていたと思う。

 「マッチ擦るつかのま海に霧深し」の上句五・七・五と
 「身捨つるほどの祖国はありや」下句七・七
の間に断絶があるとして、この歌に俳句的要素をみていたのである。そうではなかったのだ。「つかのま海に霧深し」の「海」は『紙屋悦子の青春』の海なのだ。この映画に一シーンだけ現れる海こそ寺山修司の海だ。寺山修司の海の歌の上句と下句の間に断絶などない。一直線の慟哭があるのみだ。慟哭というより憤りかもしれない。それがわからなかったのは、ひとえに私に経験がなくて、浅薄だったからである。


  『紙屋悦子の青春』の冒頭に現れるすすきは海に沈んだ明石の墓標である。いや、明石だけではない。桜の木を囲むすすきの群れは戦争で「ようけ死んで」いった兵士たちの幽明次元を異にした姿だろう。映画の最初に現れる「公園の桜の木」の下に敷き詰められた落ち葉は無数に死んでいった名もない庶民の姿だろう。「誰もかれも死んで」しまったのだ。それでは、この映画は「昔昔のこと」をふりかえったレクレイムなのだろうか。


 そうではないだろう。画面はあまりにも寓意に満ち満ちている。頻繁に登場する十字架に見える電柱。その手前の階段を上って下りてくる二人の兵士、茫々としたすすきに囲まれる桜の木、桜の木がシンボル・ツリーのように置かれた紙屋家。一回だけ現れる月__雲が流れていくのか、回転しているように見える。


 プロットもまた平凡な日常の流れのようでありながら、どこかおかしい。悦子の両親が「帝都の空襲に会われて」死んでまだ二十日なのに「お見合い」の話がもちこまれるだろうか。そもそも両親はなぜ二人そろって鹿児島から東京に行ったのだろう。安忠のことばにあるように「いまは非常時」なのに。


 お見合いの席に「おはぎ」というのもどうだろうか。「おはぎ」は一般にはお彼岸に食べるものである。あるいは四十九日忌明けけに食べるともいわれる。死者を迎え、送る行事の食べ物だろう。兄嫁と二人で「腕によりをかけて作った」おはぎを悦子がなかなか勧めないのも不審である。「静岡いうたら、清水の次郎長ですたい」という永与のことばをきっかけに、明石が「それじゃ、これで」 と席を立とうとすると初めて悦子は「あの、おはぎのあっとです」 というのである。


 最もわざとらしくて違和感があるのは、見合いの時間をまちがえて(?)知らされた悦子が、明石と永与が家に上がっているのを知らずに、外から勝手口に入るときに、漬けもの石につまずく場面である。この石は、ペリマリさんの指摘するように、「躓きの石」だろう。


 これから書くことはすべて私の妄想もしくは狂想である。


 紙屋悦子は「躓いたもの」なのか。十字架の向こうから階段を上がって下りてくる明石と永与は「二人のメシア」ではなくて「二人の悪魔」なのか。悪魔が悦子の青春を買いにきたのか。永与は「俺は悦子さんば貰いに来たとぞ」と明石に言っている。見合いの席だから当たり前といえば当たり前で、さらっと聞き流してしまうのだが。タイトルもまた『紙屋悦子の「「結婚」』ではなくて『紙屋悦子の「青春」』と微妙にズレている。「青春」という言葉の原義は残酷な意味が含まれているとも聞いたことがあるが。明石に気がある悦子が、見合いの当日、早々と「何のとりえもなか。ふつつかもんの私ですけど、どうか、よろしく頼みます」と永与に頭を下げてしまうのも、どこか引っかかるものを感じてしまう。


 桜の木と弁当箱の謎解きは、私などよりはるかに博覧強記の方にお任せしたい。弁当箱についてはペリマリさんがすでに書いているようだ。桜、といえば、『梶井基次郎集』に「櫻の樹の下には」という短編(ほんとうに極短の小説)があって、こう始まっている。

 櫻の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。

紙屋悦子の「ひいおじいちゃん」が植えた桜が何の寓意であるかは、もう、いうまでもないだろうが。

 音声だけ聞こえる「役場の渋谷さん」とセリフがなくて姿だけ現す「郵便配達人」を含めてたった七人しか登場しないこの映画は、役名もまた重要な意味をもっている。「紙屋」という姓は実際に存在し、とくに鹿児島県には相対的に多いようだ。だが、「紙屋」は「かみや」であり「神家」でもあるだろう。あるいは「仮・宮」かもしれない。また、全国に「紙屋」という地名は複数あるが、広島の原爆の爆心地も紙屋町である。偶然かもしれないが。「永与」という姓は見たことも聞いたこともない。劇中、兄嫁のふさが「ながのさん」と言い間違えているくらいだ。「永与」という言葉は中国の詩の中で使われているようだが、残念ながら私には出典がつきとめられない。「明石」という名はさまざまな連想を呼び起こすが、なぜ「明石」は「明石少尉」とあって、ファーストネームが字幕に記されないのだろう。一番不思議なのは、字幕には「看護人」という役名があって、演じる俳優の名も出てくるのに、作品中にはそれらしい人物は現れないのである。DVDを何回見ても見つけられなかった。誰か見つけた人がいたら、教えてください。


 『紙屋悦子の青春』はレクレイムではなくて、予言だろう。ラスト「聞こえました?耳を澄ましてください。波の音の・・・」という悦子の言葉にかぶさる海の音。人気のない病院の屋上で肩を寄せ合って耳を澄ます男と女。この映画の主役は何もかも呑みこみ永劫寄せては返す海だ。昂まる波の音と汽笛は何かの「とき」を告げているのだろう。


 「今日の続きのあっとですか」という女の問いに、男は「う~ん、ずぅ~と続くったい。いつまでてん」と答える。だが、この映画を撮った監督は作品の公開を待たずに急逝してしまった。続編は、もう、ないのだろうか。


 結局最後まで解釈のベクトルさえ見つけられずに終わってしまいました。不思議な透明感のこの映画のすばらしさをうまく伝えられないもどかしさを覚えています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。