2014年10月7日火曜日

大江健三郎『宙返り』___「如何に書いたか」でなく「何を書いたか」

 『懐かしい年への手紙』、『燃え上がる緑の木』と続いた「魂のこと」を扱う小説は、『宙返り』でおしまいになる。谷間の森を舞台に繰り広げられた宗教三部作はこれで完結する。それぞれの作品の主人公は、初代ギー兄さん、二代目ギー兄さん、「師匠(パトロン)」と変化し、語り手も「僕」から「サッチャン」、最後の『宙返り』では作者の分身であるかのような画家「木津」の視点で語られるが三人称の小説である。どの作品も「魂のことをあつかう人々」が主人公である。「魂のこと」そのものが真のテーマであるとは必ずしも思えないのだが。


 題名になっている「宙返り」という言葉もしくは行為は、作中でも触れられているように、一七世紀トルコに生まれ、メシアを自称したサバタ・ツヴィのイスラム教への改宗に由来すると思われる。ユダヤ人社会でいわゆる「偽メシア」と呼ばれる人物はツヴィ以外にも何人もいるようだが、その奇行、カリスマ性でツヴィは傑出した存在だった。ツヴィを「救い主」と証し自らを「預言者」と名告ったガザのナタンとの二人組は十七世紀の東アジア、ヨーロッパを熱狂と混乱の渦にまきこんだのである。「死か、さもなくばイスラム教への改宗か」とスルタンに迫られたツヴィはあっさりと改宗したが、『宙返り』に登場する『救い主」と「預言者」は、二人そろってTVカメラの前でそれまでの信仰の全否定のパフォーマンスを行った。そして、この信仰の全否定を「宙返り」という言葉で呼び、「救い主」を「師匠(パトロン)」預言者を「案内者(ガイド)」と言い換えたのはアメリカのメディアであった。

 「宙返り」から十年後師匠(パトロン)と案内者(ガイド)は再び活動を始める。物語は案内者(ガイド)の死を経て師匠(パトロン)が四国の谷間の森に移住して教会をつくり、そこで焼身自殺を遂げるまでが、主に木津の視点で語られる。この小説は「一年以内にしるしを示す、あるいはしるしとな」った男の歴史である。同時に歴史を書くことになった木津の恋人「よな」と呼ばれる育雄という青年の物語でもある。『宙返り』のもう一つの重要なテーマは旧約聖書の「ヨナ記」にみる神とヨナの対決である。大江健三郎は赦す神という「ヨナ記」の主題を、たぶん意図的にずらせて、神とヨナの対決あるいは神に抗議するヨナに焦点を合わせ、かつて神から「ヤレ」という声を聞き、再びその声を待ち望む育雄とパトロンの物語にしたのだ。

 大江の、とくに中期から後期の作品は、それらの複雑な組み立て方から、「如何に書かれているか」が評論の対象になることが多いように見受けられる。旧作の引用、再解釈、他作品のときには(英語以外の言語による原文での)引用など、文脈を直線的にたどるのが困難をきわめることがしばしばである。(「わかりにくくすること」そのものが大江の方法論の目的ではないかと思っている。)そのため、その複雑で入り組んだ文脈をときほぐすことがまず必要とされるからだろう。だが、作品論は「何を書いたか」をまず第一にあきらかにするべきである。少なくとも私のようなまったくの素人にはそのように思われる。

 『宙返り』は何が書かれているのか。前半は語り手木津と同性の恋人育雄、師匠(パトロン)、師匠(パトロン)のマネージャー役の踊り子(ダンサー)が登場し、偶然と必然のいりまじった出会いが描かれる。木津は師匠(パトロン)に惹かれていく育雄とともにいたい、という思いから、死んだ案内者(ガイド)の後を継いでパトロンの新しい案内者(ガイド)の役割をひきうける。師匠(パトロン)は木津を相手に、また亡くなった案内者(ガイド)の通夜集会で旧信者のグループと報道陣を前にして、説教する。その教義は、「一者」、「光の粒子」など、ギリシャ自然哲学とグノーシスと黙示録などの混在したもののようで、私は、そのように言われればそういう世界もあるのかもしれない、というしかない。師匠(パトロン)が一貫して説くのは、この世の終わりが近いということ、悔い改めが必要だということである。

 後半は舞台がお馴染み四国の谷間の森に移る。二代目ギー兄さんの死後、遺棄されたかたちとなっていた「燃え上がる緑の木」の教会の施設と農場を師匠(パトロン)が「新しい人」の教会を開くために譲り受ける。「新しい人」の教会には師匠(パトロン)を囲んで、「宙返り」後の十年間祈りと悔い改めの信仰を守り続けた「静かな女たち」のグループと、かつて案内者(ガイド)に育てられ、そして案内者(ガイド)を死に追いやった「急進派」の集団がおり、その周囲には教会に施設と農場を譲った二代目ギー兄さんの未亡人サッチャンとその(?)息子ギー、施設を管理してきたアサさん、「燃え上がる緑の木」の伝道の先兵となったがいまは寺に戻った「不識寺の松男さん」など前作の登場人物の姿が見える。なぜか資産の大半を「燃え上がる緑の木」の教会につぎ込んだ片腕の「亀井さん」は登場しないのだけれど。

 なかでも重要なのが、「童子の蛍」という少年グループを率いるギーである。少し乱暴ないい方をすれば、師匠(パトロン)の焼身自殺を成就させた実行犯は育雄と踊り子(ダンサー)であり、なくてはならぬ共犯者となったのがほかならぬギーである。そしてまた、テン窪の大檜を焼き尽くすことを提案し、その準備をしたのはギーの母(?)サッチャンであった。谷間の森を舞台とする宗教三部作は、テン窪大檜の焼失とともに幕を閉じたのである。

 この後大江健三郎は二度と宗教を作品中に登場させることはない。そして谷間の村は大江の分身と目される「長江古義人」に決して親和的でなく、むしろ敵意をあらわにする存在となっていく。


 能力不足と努力不足で整理のつかない文章になってしまいました。この魅力的な作品については、もう少し細部にこだわってみたいことがあるので、また続きを書きたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年8月15日金曜日

大江健三郎『宙返り』___「反キリスト」作家大江健三郎___「宙返り」した悔い改め

 「作家・大江健三郎」は「反キリスト」である。『宙返り』の主人公「師匠(パトロン)」が反キリストだというのではない。『懐かしい年への手紙』から『燃え上がる緑の木』『宙返り』と宗教団体をテーマに小説を書いた作家・大江健三郎が反キリストなのである。そして私はそのことについて必ずしもネガティヴに捉えているのではない。少なくともいまのところは。

 作品としての『宙返り』については、まだ卒読の段階なので詳しく書くことはできない。もっともっと読み込んで作品論を書けるようになってからいうべきなのかもしれない。だが、大江の長編としてはめずらしく三人称で書かれたこの『宙返り』はなかなか複雑で、何通りにも読めてしまうので、解釈の落ち着きを待っていては埒が明かないような気がする。何通りにも読めてしまう、それが作者の狙いであるのだろうが、どんな読み方をしても気になることがある。それを書かないでは先に進めないので、まずはそのことから書いてみたい。

 大江は原水爆についてどう考えているのだろうか。先に『ヒロシマの生命の木』について書いた拙文でも触れたように、原水爆は純然たる経済行為である。爆弾投下は戦闘行為であるとともに、経済行為なのである。爆弾の企画、製作、投下=消費はお金をもってあがなわれる。広島、長崎への原水爆の投下は、莫大な利益を生む経済行為であって、自然災害ではないのだ。一方、『宙返り』のもう一人の主人公ともいうべき「案内人(ガイド)」の父のことばとして、作中次のようなことが語られる。

 軍医という立場上、中国人への直接の残虐行為から免れていた自分は、復員して原爆で潰滅させられた長崎を見た。敬虔なカトリック信者だった妻は赤ん坊を残して殺されていた。
「自分は、これこそが神のおはからい、神の御業だと思う」
「ある場所で罪が行われる。罪に参加しなかった者も、その場所にいたということのみで、同じく罪のある者ではないか?」
「さらにいえば、神が人間に大きい罰をあたえる時、それは罪ある人間、罪のない人間を問わないのではないか?なにより人間であることこそが罰せられるのであるから」

 括弧でくくった三つの文章は、そのままこの小説のもっとも重要なモチーフ「ヨナ書」のテーマであり、「よな」と記される重要人物「育雄」の問いの根本にあるものだと思うが、今は作品論に入ることをさけて、このような文章を書く大江健三郎という作家について考えたい。この三つの文章は先の3・11フクシマの直後、石原慎太郎が「天罰だ」と言ったのとどこが違うのか。共通しているのは「人間であることで罰せられる」という言いまわしである。

 そうではないだろう。いま3・11フクシマはひとまずさておいて、広島、長崎は原爆投下を命じながら、みずからは絶対に安全な場に身を置いて、ぬくぬくと利益(必ずしも経済的利益だけではない)を手中にした人間たちがまず罪に問われるべきである。罰せられるべきである。原水爆というものの存在すら知らなかった大多数の庶民が一方的に残酷に殺されたのに、どうして彼らが「人間であるということ」で罰せられなければならないのか。人間が起した現実の出来事の実相を見ないで、その悲惨を「神のおはからい」といい、「その場所にいたということのみで、同じく罪のある者ではないか?」というのは支配者に都合のいいすり替えである。

 案内者(ガイド)の父は、『人間であることこそが罰せられる」苦しみを生き続けるために生きるのであり、それを介して「悔い改める」ために生きるという。「「悔い改め」は『宙返り』の大きななテーマである。それは黙示録的終末とともに『宙返り』のなかで繰りかえし取り上げられるのだが、いまは作品からいったん離れて考えてみたい。「悔い改め」とはいったいどのようなことか。もっと言えば、何をしたら悔い改めたことになるのか。

 作中の「静かな女たち」のように、俗世間から身を避けて、「祈り」に集中することなのか。「エフェソ人への手紙」を引用して「情欲から身を遠ざけ云々」とあるような禁欲的な生活をすることが「悔い改め」にいたるのか。そもそも、大江の作品にでてくるようなハイ・ブロウな人たちならいざしらず、私を含めた大多数の庶民に「悔い改め」は必要だろうか。「悔い改め」が必要なのは、まず第一に原爆投下にかかわったごく少数の支配者たちであろう。「師匠(パトロン)」と「静かな女たち」の「悔い改め」はまさに「宙返り」している。彼らはまず、空前絶後の悪をなした人間たちを「糾弾」しなければならないのだ。そして、ほんとうに罰せられるべきは誰かをあきらかにしなければならない。

 作品論に入る前にのっけから刺激的な文章になってしまいました。『宙返り』はいままでに読んだ大江の小説の中で、ある意味一番面白く、魅力的な作品だと思います。もう少し熟読して、また書きたいと思います。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年7月31日木曜日

たとえば薔薇___コクトー、三島、そして大江健三郎

 大江健三郎の『宙返り』を読んでいます。これも手強い。大江の小説では数少ない三人称の叙述であることで、ちょっと勝手が違う感じがする。そもそも、冒頭からして、状況が具体的に絵として描けない。で、ちょっと閑話休題。「薔薇」の話です。

 『燃え上がる緑の木』第二部「揺れ動く」は主人公ギー兄さんの父「総領事」の死を中心に語られる。ハイライトはその葬儀の模様で、篤志家「亀井さん」の資力で完成した礼拝堂で執り行われ、ギー兄さんはここで名実ともに「救い主」としてデヴューする。そのとき礼拝堂をみたしたのは、ニグロスピリチュアルの女声と「薔薇の奇蹟」_薔薇の香りだった。先のギー兄さんの妻だったオセッチャンの連れ子「真木雄」が礼拝堂の裏の湧水の出る場所に香りのもとを入れたのだった。

 おそらく亡くなった総領事が生前彼の身辺の世話をしていた真木雄にそのことを託していたのだろう。死を前にしてイエーツを貪るように読んでいた総領事のなかで、薔薇の香りと霊(スピリット)の本性の結びつきは緊密なものだった。葬儀礼拝の最後に、「やはり淡いものながら、新しく礼拝堂に満ちるようだった」と書かれる薔薇の香りのなかで、ギー兄さんは「《慰めぬしなる霊よ、われらにきたり給え》」と結んだのである。

 でも、なぜ薔薇の香りと霊(スピリット)が結びつくのだろう。私はイエーツの詩を原文でも日本語訳でも読んだことがなく、読んでも詩人の感性を理解できないかもしれない。西洋の神秘思想の源流の一つに一七世紀初めに突然出現して忽然と姿を消した「薔薇十字社」という秘密結社がある。イエーツは「黄金の夜明け団」という秘密結社に参加していたから、「薔薇十字社」の神秘思想の流れをくむものだった可能性はある。ヨーロッパの美術、文学における「薔薇」は特別な意味があるようだ。

 
 以前サリンジャーの「対エスキモー戦争前夜」でとりあげたコクトーの「美女と野獣」という映画のなかでも薔薇は重要な記号である。事の発端は美女ベルが、父親にお土産として薔薇の花を一輪所望したことなのだ。貿易商の父親は、あてにしていた荷が入らなくて一文無しになり、深夜迷い込んだ館の薔薇を手折おうとして、館の主の野獣に見つかってしまう。激怒した野獣の命令に従い、父親の身代わりになってベルは館に赴くのだ。そして最後に、王子の姿に戻った野獣はベルに二人のなかは「薔薇がとりもつ縁」だと言う。

 コクトーの映画の影響でもないだろうが、戦後一時期薔薇が流行ったことがあった。「薔薇」とかいて「しょうび」と読ませた雑誌があったような記憶がある。澁澤龍彦という作家が関係していたような気がするがたしかではない。たしかなのは三島由紀夫の薔薇への傾倒である。いまは稀観本となってしまった写真集『薔薇刑』はあまりにも有名だ。私は写真を見るのは好きだが、「解釈」しなければならない写真は苦手なので、高額な対価を払って『薔薇刑』を入手しようとは思わない。ネットで見られる限りの写真についての感想は、特にない。薔薇は何色なのだろう、白黒の写真だからよくわからないなあ、たぶん赤だろうが、写真では黒に見えて、黒だったら、ちょっとすてきだなあ、とか、ミーハー度満開の思いにひたったりしている。なかでひとつ、う~ん、という写真があって、それについてだけはつい「解釈」してしまいそうになる。「エノラ・ゲイ」ってこのこと?など。

 ちょっときわどい話になりそうなので、最後にウィキペディアでちゃんと調べた知識をひとつ。セオドア、フランクリンと二人の大統領をだしたルーズヴェルトという苗字はRoosevelt(ローズヴェルトともいう)で、「薔薇の畑」という意味だそうである。アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは野球が好きで、それにちなんで「ルーズヴェルト・ゲーム」というゲームもあるそうですね。そういえば、『ナイン・ストーリーズ』の中心に位置する「笑い男」では、「団長」の恋人の美女メアリ・ハドソンも毛皮のコートを身にまとい、はじめて握るバットをもって颯爽と登場、二塁打をかっとばしました。

 なんて余計な話です。

脈絡もなく思いつきの乱筆乱文を今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いまからまた、『宙返り』に戻ります。

2014年7月23日水曜日

大江健三郎『燃え上がる緑の木』__『懐かしい年への手紙』との断絶

 もう1ヶ月以上もしかしたら2ヶ月にわたって『燃え上がる緑の木』について考えている。何を書こうか?というより大江健三郎は「何を書いたのか?」ということが掴めないのだ。

 こういう言い方も正確ではないかもしれない。作品を一通り読めば、ひとつの宗教的共同体の成立と崩壊の過程がドラマチックな演出のもとに十分に描かれている。問題は、その過程があまりにも定石通りで、作者の構想は完璧に作品化されているけれど、ひとつひとつのプロットあるいは登場人物が作者の構想を実現するための駒でしかないような感じがすることだ。作品の均衡を打ち破って動き出すようなプロットや魅力的な人物が見当たらないのである。

 「救い主」に祀り上げられ、その役割をみずから引き受けながら、教団=宗教共同体から逃げ出す主人公「ギー兄さん」、その父親でイエーツを読んで死んでいく「総領事」、作者の分身K伯父さん、K伯父さんの旧友の遺児でマルチの才能をもち、教会音楽をリードするザッカリー、ギー兄さんの義母で熱心な信者となる「弓子さん」、総領事の友人で世界を駆け巡る音楽家でありながらギー兄さんの言葉を忠実に記録する「泉さん」、ギー兄さんを迫害するが後に回心して私財を投げうち教会を支える「亀井さん」、外部から教団を支援する地元ホテルの支配人「胡さん」(実は香港独立運動にかかわっている)、先のギー兄さんを裏切るかたちとなったが、今回は教団の公平なかじとりをする「徳田医師」、大学を停学して中途から教団に参加し、農場経営に携わって教団の主導権を握る「愛、育、英の伊能三兄弟」、最後までギー兄さんにつきしたがう「ター」、東京の若者向け雑誌編集者だった「ミツちゃん」、ギー兄さんを純粋に慕う知的障害の少年「ジン」、死の恐怖とその超克についてギー兄さんに問う脳腫瘍の少年「カジ」、ギー兄さんに心臓病を治してもらった「登君」とその母親、同じくーギー兄さんに眼を治してもらい、登君の母親とともに巡礼団を組織して旅立つ禅宗の僧侶「松男さん」・・・・様々な人物がその役割を担って登場する。いずれも個性的ではあるが、いかにもその通り、と妙に納得してしまう描かれ方なのだ。

 魅力的な人物がいないことが作品をわかりにくしているわけでは、もちろんない。問題は、そうやって、いってみれば類型的な人物を配置して組み立てられた「物語」が『懐かしい年への手紙』を発展、完成させたように見えながら、じつは、大きな亀裂、断絶を生じていることである。断絶の第一は、「『懐かしい年への手紙』では存在の片鱗すらもみせなかった「オーバー」が物語の冒頭に「屋敷」の家長として登場することである。『懐かしい年への手紙』では、先のギー兄さんが、複雑な家庭の事情ながら、若くして莫大な資産を相続し、「屋敷」の家長となる。そして、父の「おてかけさん」だったセイサンと関係をもつのだが、その娘のオセッチャンを妻にする。であれば、先のギー兄さんが死ねば、「屋敷」の財産は、妻のオセッチャンが相続の権利をもつのが当然ではないか。しかも、作品の末尾でオセッチャンはギー兄さんの子を孕んでいるようにほのめかされている。ところが、『燃え上がる緑の木』に登場するオセッチャンは、オーバーのたんなる使用人のあつかいである。

 オーバーの登場は、その人物が「新しいギー兄さん」を指名して、彼に土地の「魂」を承継させるという「神話」を語るためだったのだろう。先のギー兄さんの「魂のこと」が、ダンテの神曲をめぐる形而上学的かつ個人的なものだったのにたいして、オーバーが(新しい)ギー兄さんに教え込んだそれは、徹底して民俗学的な口誦による共同体全体のものだった。ギー兄さんは、というより『燃え上がる緑の木』という作品は「魂のこと」へ、まずは土着的、民俗学的なアプローチを試みたのである。  

 ギー兄さんが魂のことへ土着的なアプローチを試みたから、というより、オーバーの葬儀の際の偶然的な出来事が彼を特別な存在に祀り上げた。オーバーの遺体を焼く煙を潜りぬけた鷹が野鼠を掌に載せていたギー兄さんを襲撃したのである。(実は棺にオーバーの遺体は入っていなかったのだが。)オーバーがもっていたという「治癒能力(ヒーリングパワー)」が、鷹の一撃を通じてギー兄さんに受け継がれたのだ、という信仰が共同体の中でひろまった。それはおそらく、共同体の側に、そうあってほしいという欲求があって、タイミングよく鷹の襲撃があったのだろう。「奇跡」と呼ばれる出来事の成立にはこのような機微がかかわることが多いのではないか。

 ともあれ、こうしてギー兄さんは「癒す人」として信仰の対象となった。それが「救い主」へ変化していくのは、皮肉なことに、その「治癒能力」が否定される事件が起きたからである。ギー兄さんを慕っていたカジが死んだこと、オーバーの遺体が掘り起こされテン窪に浮かんだことで、ギー兄さんに反感をもつ共同体の人間が集会を開き、彼を吊るし上げ、殴った。そしてそれを手引きしたのが、作者の分身と思われるK伯父さんの妹「アサさん」とこの小説の語り手である両性具有!の「私=サッチャン」だった。

 『懐かしい年への手紙』との断絶のひとつに、この「アサさん」なる人物像がある。『同時代ゲーム』の「妹」は、語り手「僕」の近親相姦の対象であり、性的魅力を振りまく存在だった。『懐かしい年への手紙』では、お行儀はよくなったが、生き生きと活発な村娘だった。ところが、この小説の「アサさん」は、筋金入りの日教組の組合員で出世が遅れたという中学校の「校長の奥さん」である。なおかつ「遺言で託された」ために理屈はともかく化石のような「マルクス・レーニン主義者」なのだ。物語の最後、ギー兄さんを殺したセクトの残党五人組を「なかなかの人物揃い」と評価して救援活動を始めたというほどの。黄色いスバルを駆使して谷間と在を動き回り、徹底して実際的な立場から物語の交通整理をする彼女には、性的魅力のかけらもない。

 性的(魅力があるかどうかは判断に悩むところだが)存在という点では、「サッチャン」は性的存在そのもである。両性具有なのだから。神話の世界では両性具有は神の特性なのだろうが、この小説でサッチャンという両性具有の存在は、アサさんと共謀してギー兄さんが殴られるように仕向けた。そして殴られたギー兄さんと性行為をして、彼を「救い主」として受けいれた人間なのである。

 大江健三郎は、巧妙にもこの小説では自らを「K伯父さん」と呼んで語り手の役から降り、代わりに、「サッチャン」というオトコオンナからオンナオトコに「転換」した両性具有という名の「半陰陽」の若者に「このようなことがあったと言いはる」ように書くことを勧める、と記すのだ。この作品のわからなさの根本はここにあるのだろう。『燃え上がる緑の木』という定石通りの教団興亡史は、そのまま両性具有の「サッチャン」の自分史なのだ。「転換」したサッチャンは、「性の三位一体」を夢見るギー兄さんと結ばれ、そのことによって「転換」に意味をあたえた、と「言いはる」。「救い主」を支えるために「転換」して待機していたのだ、と。こう「言いはる」サッチャンの論理を、言葉の上でなく、実感として理解することは、少なくともいまの私にはできない。

 作品の後半は、イエーツだけでなく、アウグスチヌスやシモーヌ・ヴェーユを引用して「魂の暗夜」に迫ろうという筆遣いである。シモーヌ・ヴェーユは私も一時期読んだことがあって(もちろん翻訳)、フランス語がまったくわからないのが残念だった。この作品が発表された九〇年代前半はヴェーユが読まれた時期だったのだ、となつかしく思う。ヴェーユ自身は第二次大戦中にハンガーストライキをして死んだ人だったが、何故かこの時期日本でもよく読まれた。研ぎ澄まされた感性が記す独特の哲学的断片が人を惹きつけるのだが、生活者としてこの世に根を下ろすことができなかった人だった。そのことはまた、この作品がバブル崩壊後の日本の経済情勢に触れながら、驚くほど生活に楽観的であるのと無関係ではないだろう。もう確実に峠を越して、山を下り始めているのに、まだ「魂のこと」に集中する集団を描くことができた時期だった。Rejoice!と結ぶことが可能な時代だったのだ。


 もっと丁寧に作品に寄りそいながら書かなければいけないのですが、どうしても集中しきれませんでした。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年5月28日水曜日

大江健三郎『懐かしい年への手紙』___Kちゃんによる福音書あるいは黙示録___神話の世俗化と世俗の神話化

 この難解な作品については、文庫本の出版にあたり作者自身が「著者から読者へ__『ギー兄さん』」と題してあとがきをつけ、さらに小森陽一氏のゆきとどいた解説が書かれている。いまさら私が言うことなどあろうか、という思いもするのだが、せっかく一ヶ月以上もダンテだイエーツだマタイ伝だと悪戦苦闘したので、気がついたことを少しだけ書いてみたい。

 最初に『懐かしい年への手紙』という表題について。
「懐かしい年」とは何か。作者みずから作中「循環する時」の意に用いていると書いてあり、それがまず第一義なのだろうが、解説の小森氏は「年」をトポスとしてとらえている。ほぼそれで遺漏はないのだろうが、もう少しささいなことにこだわってみたい。「懐かしい」は解説の小森氏も指摘するように、『同時代ゲーム』の「壊す人」の「壊す」に通じるとされており、「懐かしい年」は「壊す年」あるいは(小森氏は「壊れる年」と表記されているが)「壊される年」でもある。始めもなく終わりもない円環構造の中で、それまでの世界が「壊される」特定の期間__それが「懐かしい年」なのではないか。

 次に「ギー兄さん」とは何か。
これも作者みずから前述文庫版の「ギー兄さん」と題したあとがきの中で、架空の人物であり、現実に出会った多くの人格の合成になる理想像であると書いている。そのとおりなのだろう。だがそれだけではないと思う。そもそもギー兄さんはいわゆる「人格者」として描かれてはいない。年若くしてデタラメと開き直って「家業?」の「千里眼」をやり、同居する母と子の両方と関係をもつばかりか、かつての恋人とその友人に卑劣極まりない性的屈辱を与える。Kちゃんに対してはよき教師であり的を射た批評家であったが、真に彼の自立を促すものであったのかという点では疑問の余地もある。「ギー兄さん」とは何か。そしてギー兄さんとKちゃん_「僕」との関係はいったい何なのか。

 ギー兄さんと僕の関係を端的にあらわす表現がこの小説のはじめの部分に出てくる。敗戦の年十歳になったばかりの「僕」がギー兄さんの自習の相手(これも不思議な関係だが)に選ばれて、はじめてギー兄さんの「屋敷」に行ったときのことである。
「僕はギー兄さんが勉強をする自習相手に選ばれて、村一番の資産家の、固有名詞のように屋敷と呼ばれている住居に出頭したところだったのである」(下線は筆者)
「出頭」とはこのような場合に使う表現だろうか。しかも「僕」は、母親が借りてくれた従兄の革靴を途中で脱いで橋のたもとにかくし、はだしで屋敷の土間に立ち、その後金盥で足を洗ったのである。はだしで「出頭」し、水で足を洗う___この行為の意味するものは何か。たんに泥で汚れたから足を洗った、ということではなく、ある種の宗教的象徴的行為なのではないか。だとすれば、この小説は「ギー兄さん」という「架空の人物」(?)の軌跡を記す福音書として読むことができるのではないだろうか。

 「その秋、僕が生まれ育った森のなかの、谷間の村で暮している妹から電話があった」とはじまる物語の最初の部分にギー兄さんからの手紙が二通記されている。その二通目、こちらのほうが時期的には早く書かれたものだが、書き出しはこうなっている。
《「無花果の樹よりの譬えを学べ、その枝すでに柔らかくなりて葉芽めば、夏の近きを知る」聖書のこの一句に、自分が深くひきつけられたことをいいたいと思う。・・・・・」
美しい夏の訪れにこころをはずませる文章のように見えるが、実はそれだけではない。いやむしろ、そのような日常的な感覚から異次元の世界への飛躍の契機として「無花果の樹」を想起しているのだ。

 この「無花果の樹の教え」は、ギー兄さんの手紙にもあるように、マタイ伝24章32節に挿入されたイエスの言葉である。32節以前にはエルサレム神殿の崩壊と世の終わりのさまが具体的に示され、選ばれた人達が苦難のあとイエスの再臨を迎えることが述べられている。新共同訳聖書では以下のように書かれている。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」枝が柔らかくなり、葉が伸びて夏が近づくということは季節の到来を告げるのではなく、イエスの再臨に先立つ世の終わりを意味するのである。

 さらに、ギー兄さんはプラトンの「パイドロス」をひいて、樹木の枝が柔らかくなるとその部分ガムズガユクなって翼が生えてくる様子に感情移入するという。私には「枝が柔らかくなる」という感覚もしくは状況が(ことばとしてはわかるような気がするが)わからないし、樹木の枝が翼になるというシュールな感覚はもっとわからない。これらは神話の世界の出来事のように思われる。森の魔力の磁場のなかで生まれ・育ち「このように美しい少年がいるのかと思った」と描写される「ギー兄さん」と呼ばれる存在は、一部の評者がいうような作者の分身などではなく、神話の世界の人物なのではないだろうか。

 作品中いたるところにちりばめられる死と再生のモチーフ(冒頭、四国の郷里にむかう旅のはじめに、ヒカリが癲癇の発作を起して「大きい公衆便所のようにも見える地下道に、釈迦の涅槃図のような恰好で倒れていた」と書かれているのも小説全体のテーマであり最後のギー兄さんの運命の暗示であろう)、実体を持った存在として語られる魂の問題、生殖機能を失うギー兄さん=去勢の暗示、など、この小説は神話を世俗的に語ったのではないか。あるいは世俗的な現実を神話化したのか。

 神話の完成はいうまでもなくギー兄さん=森の神の死である。「煉獄のモデル」をつくり「魂の浄化」をするために、自らの私有地である「テン窪」を堰きとめて人造湖をつくろうとしたギー兄さんは殺された。堰きとめられつつあるテン窪という湿地帯が、「壊す人」の事跡の始原にあったような黒い水をたたえ、くさい臭いをたてはじめて、下流の人々がその堰堤の決壊を怖れたからである。

 だがギー兄さんはたんなる被害者ではない。みずから夢のなかの話として、人造湖となったテン窪に小舟を浮かべ、自分が合図して堰堤を爆破させる、そして真黒い水ともども、自分が鉄砲水になって突き出す。その黒々としてまっすぐな線が自分の生涯の実体であり、世界中のあらゆる人々への批評なのだ、と語っている。現実に「僕」の妹は「ステッキをついて工事現場で陣頭指揮するギー兄さんは、正直いえば狂信者めいてきてね」と悪魔的な破壊者の様相を呈するギー兄さんの姿を客観的に描写する。もはや、「隠遁者ギー」の面影はない。ギー兄さんは、頭蓋骨に重傷を負うことになる安保デモのときにも、ステッキならぬ雨傘をふりかざして大立ち回りをしたのだったが。

 さて、話は戻るが、この小説は神話を世俗化したのか、あるいは世俗的な現実を神話化したのだろうか。その両者の幸福な(?)一致が宗教だろうか。そしてこれは、Kちゃんによるギー兄さんの福音書なのか、それとも、「懐かしい年_壊される年」への手紙という黙示録なのか。ギー兄さんの堰堤工事を弾劾して谷間と在のいたるところに貼りめぐらされたビラの黒い水人殺しという文字は無気味である。作品発表当時は思いもよらなかった出来事が起こってしまったいまとなっては。

 この小説については、「ギー」という音(隠遁者ギーとギー兄さんの(実名の)音の共通性ということばが冒頭に出てくる)、固有名詞で語られる作中人物の容姿の描写など、考えなければならない問題を多く含むが、解決にいたるまでまだ長い道のりがあると思う。

 この作品にくらべれば『同時代ゲーム』はずっとわかりやすかった、と思えてきました。あくまで、「くらべれば」ですが。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。