2014年5月7日水曜日

深沢七郎『風流夢譚』___「時計仕掛け」の革命夢譚

 いま大江健三郎の『懐かしい年への手紙』を読んでいる。錯綜した時系列の要所々々にダンテの「神曲」、イエーツの詩、新旧約の聖書などが原文または文語訳、ときにはラテン語などでかなりの分量が引用され、西洋文学にたいして通り一遍の知識と教養しかない、もしくはそれすらも覚束ない私は悪戦苦闘を強いられている。それでも大半は、(当たり前だが)日本語で書かれている。日本語および日本文学の読者として、この作品を読み進めるにあたって、どうしても看過できない、というほど大げさでもないかもしれないが、喉に突き刺さった骨のような感触を覚える部分があるので、それについて書いてみたい。

 ひとつは主人公ギー兄さんが淡い思いをよせた女優のSさんを懐古してくちずさむ「のうさてな、逢ひ見ての後の心にくらぶれば、かほど物をば思はじものを、昔恋ひしやな、今の身や」という古歌とも謡ともつかぬ語句である(下線は筆者)。作中妻のオユーサンが指摘するように百人一首にある権中納言敦忠の歌から引用しているのだが、原歌は「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」(下線は筆者)である。ここは打ち消しの助動詞「ず」(この場合は連用形「ざり」)しか使えない。「思はじ」の「じ」は否定の意志、推量の助動詞「じ」(この場合は連体形「じ」)なのだが、それでは前の句と意味が繋がらない。日本語として意味が成り立たないのである。「のうさてな・・・・」は何度も繰り返されるので、その部分を読むたびに意識は混乱してそこでたちどまってしまう。

  もうひとつは、こちらが本題なのだが、自作『セヴンティーン』を発表し右翼から攻撃されたことに関連して、深沢七郎の『風流夢譚』に言及した箇所である。ほぼ時期を同じくして発表された『風流夢譚』について大江健三郎は「天皇家をめぐり、土着的な独自のグロテスク趣味に、強い風刺性をないまぜたこの小説」と総括している。?「土着的な独自のグロテスク趣味」とはあまりに皮相なもっといえば浅薄な見方ではないか。深沢はその独特な石和弁とおよそ作家らしからぬ日本語の使い方からそのように誤解されるかもしれないが、きわめて都会的、理知的な作家である。『風流夢譚』のグロテスク趣味とは何を指していうのか。私には大江健三郎の情愛を伴わない性描写の方がよほどグロテスクに感じられる。もっとも、「グロテスク」は非難の言葉ではないのだが。

 前回のブログでも述べたように、『風流夢譚』は堅固な構成の作品である。前回は「私は誰でしょう?」と語り手に焦点を当てて考察してみたが、今回は作品の枠組みをつくる「時間」について考えてみたい。冒頭「あの晩の夢判断をするには、私の持っている腕時計と私との妙な因果関係を分析しなければならないだろう」と書かれているが、この小説には二つの時計が重要な役割を果たすのだ。一つは「アメリカ婦人」のものだったのを「私」が友人から買った腕時計であり、もう一つは同居している甥の「ミツヒト」が家に置いてある「高級なウエストミンスターの大型時計」である。「アメリカ婦人」のものだった腕時計は「私」が腕からはずして寝ると止まって、朝起きて腕につけると動きだすのだが、「ウエストミンスターの置時計」はつねに正確な時を刻む。「私」は二つのタイム・スケジュールにのっとって生きているのである。

 日中活動しているときは「アメリカ婦人」のものだった腕時計の時間が流れるが、眠っているときは腕時計は止まっている。一方「ウエストミンスター」の置時計は休むことなく動いていて、厳然として流れは止まることがない。ただ「あの晩」の午前1時50分から2時の10分間だけは「私」の腕時計も動いていて、「私」は革命の夢を見た。グロテスクな描写などどこを探してもなく、あっけらかんと、それこそ大江のいう「祝祭としての革命」の夢である。夢の中味を詳しく吟味することは次の機会に譲って、いまは、この夢が二つの時間の流れが一致した僅か10分間に見られたものだった、ということを指摘しておきたい。アメリカの時計とイギリスの時計が重なって動いた10分間。そして夢の中で繰り返し出現する「イギリス製」の皇族の衣裳。それは偶然の一致だろうか。

 ほんとうは『懐かしい年への手紙』に集中すべきなのですが、大江の『風流夢譚』へのあまりにおざなりな評価の仕方に一言いいたくなって寄り道してしまいました。大江健三郎という作家が日本語および日本文学に対してどのような姿勢をとっているのか、についてはもっと時間をかけて考え続けなくてはいけないように思います。

 今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年4月14日月曜日

三島由紀夫『宴の後』____シンデレラボーイにされた政治家

 功成り遂げた美貌の料亭女将が硬骨かつ高潔な老政治家に恋をして、彼の選挙のために情熱と知略と全財産をささげて戦い、破局をむかえる。言ってみればそれだけの小説で、よくできてはいるがどこに文学的興味を覚えればいいのか、との趣もある。この小説が有名になったのは、いまはごく普通の日本語となった感のある「プライヴァシー」の侵害という件で作者の三島由紀夫と小説を出版した新潮社がモデルとなった政治家有田八郎に提訴されたからである。

 政財界の要人が利用する高級料亭雪後庵の女将福沢かづは客として店で出会った元大使の野口雄賢に惹かれる。寡黙で朴訥でありながら事に当たって迅速な行動力を見せた野口は、過去を懐かしむだけの他の客と際立って異なっていた。妻を亡くして独り身を通していた野口とかづはどこか不器用ながらやがて結ばれ、正式に結婚する。

 結婚は天涯孤独で運命を切り開いてきたかづに「野口家の墓に入れる!」という安心感をもたらしたが、雪後庵の客は少しずつ減り始めた。雪後庵の客は保守党の要人で、野口は革新党の政治家だったからである。そのような状況で野口に都知事選立候補の要請があった。料亭経営に以前ほど熱情を傾けられなくなっていたかづは、野口の背中を押してこの要請を受けさせ、みずから主導権をとって動き始める。違反すれすれのなりふり構わぬ選挙運動もしたが、最後に相手陣営がかづの過去をスキャンダラスに暴露した文書を撒いたこともあって野口は敗れる。かづもありったけの金を使ったが、最後は保守党の金が勝ったのだ。

 落選した野口は陶淵明の「帰去来辞」のような生活を望むが、かづはそこにおさまることができる人間ではなかった。選挙戦のさなかにいったん閉めた雪後庵を再開しようと保守党のかつての顧客に奉加帳を廻したかづに野口は激怒し、二人は離婚する。物語の最後は、選挙参謀でかづのよきパートナーだった山崎という男が、雪後庵再開の招待状への返信としてしたためた手紙で締めくくられている。

 以上のあらすじは概ね事実に基づいていると思われる。もとより小説はフィクションなので、事実そのままでなくても訴えられることはない。だから原告の有田氏も「プライヴァシーの侵害」という抽象的な理由で提訴せざるを得なかった。だが、もう少し詳しく事実と小説の関係を見ていきたい。問題としたいのは、まず、有田氏と妻となった「かづ」こと畔上輝井の結婚生活についてである。

 小説の中ではかづは野口と知り合ってまもなく都知事選を迎えたように書かれている。だが、畔上輝井と有田八郎は大戦中の一九四四年に事実上の夫婦(入籍は一九五三年)となり、戦後はじめての衆議院議員選挙で有田は新潟一区から出馬し最高得票で当選している。その後一九五五年二回目の衆議院選挙で落選し、直後都知事選に立候補するがこれも落選、『宴の後』で書かれた選挙戦はその後一九五九年に再び行われた都知事選のものである。つまり有田氏と畔上輝井との結婚生活は少なくとも一五年は続いたのである。「紅の豚」のジーナではないが、「(この国では)人生はもうちょっと複雑なの」ではないか。

 また元大使の野口が学者肌で理想主義的な政治家として描かれていることも微妙な問題を孕んでいると思う。実際の政治家有田八郎はチャイナスクールと呼ばれるアジア通で、近衛、平沼、米内の三代の内閣で外務大臣を務め、日独伊防共協定を締結した人物である。終戦直前に天皇に上奏文を書いたことでも知られ、豪胆かつ実務的な政治家のように思われる。小説の中で、彼を潔癖で清貧の人として描くのは間違っているとはいえないが、政治家として有能な側面をないがしろにしている感が否めない。そのあたりが有田氏を提訴に踏み切らせた真の動機ではないだろうか。

 妻となった畔上輝井という人については資料がほとんど見当たらない。有田氏と知り合ったときすでに高級料亭「般若苑」の女将だったことは事実だが、その後三田に「桂」という料亭を出し有田氏の生活を支えた、といわれる。「桂」という店名は有田氏の実父山本桂の「桂」にちなんだかとも思われ、資金の出所が畔上輝井の側だけだったのかどうか疑問である。また「般若苑」についても、畔上輝井が実際に取得したのは一九四九年だったので、それまで所有していたのは誰だったのだろう。不思議なのは、小説の中でも実際にも、「超」がつくほどの高級料亭を女手ひとつでどうしたら手に入れることができたのだろうか、ということである。(つい最近高名な実業家が般若苑の跡地(もしくはその一部)を買って白亜の宮殿風建物を建てたということで話題になった)小説の中では、野口がかづに貢がれたシンデレラボーイとして描かれているが、普通に考えれば、まずシンデレラが畔上輝井だろう。

 三田の「桂」という料亭は、戦後まもなく起きた「辻嘉六事件」の舞台となった何やらきな臭い匂いもする場所である。『宴の後』裁判は案外奥の深いものだったのかもしれない。そもそもこの小説は激動の昭和三五年雑誌「中央公論」に連載されながら中央公論社から単行本として出版されず、新潮社から出たのである。作者三島がそれほどにもこだわって出版したのは何故なのだろう。ここに描かれる政治および政治家の姿はむしろ類型的で、一般読者の通念におもねっているようにも思われ、文学作品として心血を注ぎきったものとまではみえないのだが。

 ともあれ六〇年安保を境に日本の革新勢力とその運動は転換期を迎え、有田氏個人の政治生命は完全に終息したのである。

 書かなければ、と思いながらなかなか進まず、散漫な文章になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月19日水曜日

三島由紀夫『金閣寺』___「父」と「子」そして「母」の「家庭小説」___「非政治」という政治性

 水上勉の『金閣炎上』を読んでふたたび『金閣寺』を考えている。学者でも評論家でもなく小説読みビギナーとして、まず思うことは、なぜ三島由紀夫はこのように実像とかけはなれた人物を描きだしたのか、ということである。三島の『金閣寺』に登場する主人公「私」(溝口)、母、そして金閣和尚の道詮の人間像は水上勉『金閣炎上』の林養賢、母の志満子、慈海和尚とあまりにも異なっている。とくに林養賢と母の志満子は、『金閣寺』の中ではひたすら醜く、母の志満子は作中固有名詞すらあたえられず、養賢(「私」)は偏執的精神異常者の外貌をもつ。彼ら母子の人格の復権は、水上勉が『金閣炎上』を著わすまで二十年待たなければならなかった。三島が同じようなモデル小説『宴のあと』を書いたときは、モデルとされた有田八郎氏が社会的地位も高く、経済的にも知的にも充分な能力があったため、世に言う「プライバシー裁判」を起された。だが、『金閣寺』のモデルとなった林母子はなんら社会的地位のない庶民で、作品が世に出たときにはすでに死んでおり、遺族もまたもう事件に触れてほしくないという判断だったのだろう。死人に口なし、である。

 醜く狷介不羈で自尊心の塊りに描かれた主人公「私」(溝口)はいうまでもなく作者三島の自画像だろう。同じく障碍を負いながらそれを逆手にとって道徳的反逆者を標榜する柏木、この二人と正反対で悪意ということを知らないアポロンのような青年として登場し、あっけなく自殺してしまう鶴川、これらも同様に三島の自画像だと思われる。私見では、『金閣寺』には主人公「私」と、「母」、そして道詮老師の三人しか登場しない。冒頭登場して恋人に撃ち殺される有為子は女=母の象徴である。柏木に捨てられる美しい女たちは生き残った有為子だ。最後に「私」を性の世界にみちびくまり子は、反転した「母」だと思われる。そして道詮老師は、あっけなく死んでしまった「私」の「父」に代わる『父』であり、富と権力をほしいままにする存在である。要するにこの小説は、「父」と「母」と「子」の三者が複雑にからみあう「家庭小説」なのではないか。だとすれば、ここにあるのはどす黒い近親憎悪だろう。

 いまその近親憎悪の様相を精緻に分析するつもりはない。問題にしたいのは、「父」「母」「子」という三者に介入してくる他者の不在ということである。「家庭小説」の中に「社会」がないのだ。金閣放火はあくまでも「私」と『父』道詮老師の関係の破綻を契機に、「私」が生きるために行われる。

 「私」と老師の関係が緊張を余儀なくされるのは、進駐軍兵士の子を孕んだ娼婦の腹を「私」が踏んで女を流産させた出来事が契機となる。ここになんらかの政治的寓意をうけとることも可能かもしれないが、このエピソードから読み取るべきは、女の腹を踏むよう米兵に強制された「私」が、その行為にひそかな快感を覚え、それに気づきながら知らないふりをした老師のなかに「私」が自分と同質のものが存在するのをさとった、ということである。「私」は隠微な背徳の喜び老師と共有したと感じたのだ。「老師は、私の感じた中核、その甘美さの中核を知っていた!」

 関係が決定的に破綻にいたるのは、「私」が偶然に、あるいは物語的には必然に、和尚が女連れでハイヤーに乗り込むのを見てしまった事件から始まる。雑踏のなかをひとりで歩いていた「私」は芸妓と連れ立って歩いていた老師を見つけ、とっさに自分が見られたことを危惧した。だが、なぜかぼろぼろの風体をした黒い尨犬のあとを追ううちに再び老師と出会ってしまう。動顚した「私」は、発すべき言葉を出せないままに、和尚に向かって笑いかけてしまう。そして老師は「馬鹿者!わしをつける気か」と叱咤したのである。

 この事件の後、「私」はあの日の出会いがなかったかのような老師の無言に耐えられなくなっていく。ついに「私」は老師の連れていた芸妓の写真を買い、それを新聞の間に挟んで老師に届ける。脅迫ともみえる行為をなした「私」の心理を作者はこう説明している。
 「自室に坐って、学校へ行くまでのその間、鼓動のいよいよ高まるのに任せながら、私はこうまで希望を以て何事かを待ったことはない。老師の憎しみを期待してやった仕業であるのに、私の心は人間と人間とが理解し合う劇的な熱情に溢れた場面をさえ夢みていた。」

 当然のことながらこんな空想は実現するはずはなかった。老師は女の写真を紙に包み「私」が学校に行っている間に「私」の机の抽斗に入れておいたのである。写真は「私」から老師へ、老師から「私」へ、ひそかに届けられ、同じようにひそかに返還された。そして、老師が人目を忍ぶ行為を余儀なくされ、そのことが「私」への憎しみを産んだ、という思いは「私」のなかで「得体のしれない喜び」となった。「私」と老師は憎しみを媒介に結ばれたのである。

 この結びつきは老師の一方的な決別宣言で崩壊する。老師は「私」を金閣の後継にする意志がない、と言い渡したのである。その返答として「私」はまたしても別事を言う。老師が「私」のことを隈なく知るように、「私」も老師を知っている、と言ったのである。それは表面的にはハイヤーに女と一緒に乗り込んだことを指すが、より深層の次元では背徳の喜びを共有していることを示唆している。それに対する老師の答えは、「私」が老師を知っている、ということを否定するものではなく、知っていても何の益にもならぬ、というものだった。老師は現世のすべてを見捨てているのだった。背徳の喜びまでも。___「私」は出奔を考えた。自分のまわりにただよう「血色のよい温かみのある屍」の漂わす「無力」から遠ざかりたかったのだ。「無力」ではないが、「凡ての無力の根源である」金閣からも。

 柏木に旅費を用立ててもらった「私」は海に向かった。「西舞鶴」で列車を降り、河口沿いを歩いて荒涼とした晩秋の由良の浜に着いたのだった。そしてそれは「正しく裏日本の海だった!私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力の源泉だった。」と書かれる。海は「私」に親密だった。私は自足し、何ものにも脅かされず、ひとつの想念につつまれた。『金閣を焼かねばならぬ』

 想念を現実の行動に移すにはもうひとつの力がはたらかねばならない。「私」は逗留先の宿の女将に警察に不審者として通報されたことから居所が知れ、再び金閣に戻ったが、寺の門前に待っていたのは母だった。その母の醜く歪んだ顔を見下ろして、「私」は母から解放されたと感じる。

 「・・・・・・しかし今、母が母性的な悲嘆におそらくは半ば身を沈めているのを見ながら、突然私は自由になったと感じた。何故であるかは知れない。母がもう決して私を脅かすことはできないと感じたのである。」

 「私」を脅かしていたのは母だった、と書かれていることは興味深い。醜い母、どこまでも醜さが強調される母、その醜さの根源にあるものが「希望」だと書かれていることも。

 「湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。」

 身をもち直すよう哀願する母の姿が、「私」の絆しを断ち切って、想念を現実の行動へと踏み出させたのである。

 この後「私」が束ねた藁に燐寸の火をつけ金閣を焼くにいたるまで、じつはかなり複雑な心理のあやが、とくに老師との間の微妙なそれが語られるのだが、長くなるのでいまはその部分を割愛したい。だが、放火決行の直前にたまたま金閣を訪れた生前の父の友であり、老師の友でもある禅海という禅僧との「私」の会話について、書いておきたい。禅海和尚は老師と正反対ともいえる豪放磊落、直情の人として描かれる。「私」は和尚に酌をしながら、自分がどう見えるかを問う。善良で平凡な学僧に見えるという和尚に、「私」は「私を見抜いて下さい」と言う。そして和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と判断を下す。この言葉が「私」を走りださせたのである。

 「私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。」

 この最後の会話の部分は謎である。「私」と老師=『父』との葛藤に結末をつける行為に向けて、最後に背中を押した会話は禅問答のようである。「禅海」和尚もまた『父』なのか。

 そして最後、闇のなかに絢爛と輝く金閣を観照し、「私」は「弱法師」の俊徳丸の日想観を思う。ここにもまた、「父」と「子」がある。

 駆け足で、粗雑に筋書きを追った文章になってしまいました。ほんとうは、『金閣炎上』にある「東山工作」をまったく取り上げないこと、敗戦の日に道詮和尚が「南泉斬猫」の講話をしたことなど、三島がこの作品から「政治」「社会」を徹底的に遠ざけたことについて、もっと書きたかったのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。「政治」を遠ざけるということ、そのことが完全に政治なのですが。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2014年3月11日火曜日

水上勉『金閣炎上』___信仰と宗教

 
 敗戦を郷里の成生でむかえた養賢は翌昭和二十一年四月に金閣寺に戻り、昭和二十二年四月に大谷大学に入学する。病もほとんど癒えたかに見えた。希望をもって大学に進み、成績も悪くはなかった。一、二学年は上位の成績を残している。ところが三学年になるとほとんどすべての課目の点数が急落し、最下位の席次になってしまう。何故このようなことになってしまったのか。ほんとうのところは、もしかしたら本人もわからなかったのかもしれないが、水上勉は養賢がまだ金閣に戻っていなかった昭和二十年敗戦直後に起こった「東山工作」とよばれる出来事に注目して、その原因を推測している。

 昭和二十年八月十六日南京国民政府が瓦解、主席の陳公博は日本に亡命する。八月二十五日に特別機で南京を脱出した陳公博とその一行計七名は鳥取県米子市に到着したが、数箇所を転々とした後に九月八日夜金閣寺に入る。亡命を指揮し、実際に陳氏一行の世話をしたのは日本政府であり京都府(知事および県警)で、府知事の発案で市内の寺院にかくまうことが提案されたようである。当時の府知事三好重夫氏が懇意だった天竜寺派管長関精拙師に依頼、精拙師はこれを受諾し、みずからは重篤の病床にあるため、法嗣の牧翁師をよんで金閣寺にたのめと指示した。金閣寺の慈海和尚はこれを受け入れたのである。

 日本の国民ばかりでなくアメリカ進駐軍からも秘密に庇護しなければならない一行は金閣寺では「東山商店一行」とよばれた。十月一日に陳公博が中国に帰国するまでの1ヶ月弱に関しては資料が複数あるが、そのいずれもが、彼らの(少なくとも傍目には)贅沢な、飢えに苦しむ庶民とは別世界のような生活ぶりを伝えている。とくに有名なのが金閣寺の前の池の鯉を丸揚げにして食べたというエピソードである。水上勉はこの一連の出来事を複雑な視線でみつめている。

 「慈海師の信奉する一所不住、不立文字の禅が、どこにあっても不住であり、不立であるとするなら、将軍の別荘にあっても、禅はあり得て不思議ではない。だが、そこに住んで、参観者の志納金によって喰う以上は、不住であるはずはなく、そこは禅者の常住地獄である。」

 
 ここまで厳しい視線を養賢も共有したか否かわからない。政治権力と金は、誤解を恐れず言うなら、宗教の基盤である。どんな宗教も政治権力から離れてあるいは対立して国家の中で存立することはできない。また金がなければ組織を維持できない。突き詰めて考えれば、金閣寺に限らず、寺院とは修行者にとって常住地獄なのではなかろうか。若い養賢が「地獄は一常住みかぞかし」と割り切ることが出来たとは思えないから、敗戦後の金閣が日々退廃、堕落していくように感じて、正義感と一体のリゴリズムに固まっていったとしても不思議はない。

 
 金閣の観光収入が増すのにつれて、事務方が寺の作務に介入してきて、そのことが徒弟たちとの軋轢をうみ、養賢のリゴリズムをより強固なものにしたかもしれない。だが、彼が孤立感を深めたのは、母志満子が成生の西徳寺から放逐されたことも原因と思われる。以前は彼自身が母に生家に戻るよう言ったのだが、実際に彼女が寺から追われてしまえば、養賢には帰る場所はない。そこにしか生きる場がない金閣が、信仰の上でも日常生活の面でも意識せぬ地獄でしかなかったら、それを消滅させて自分も死のう、と思うことはありうるのではないだろうか。

 『金閣炎上』後半は、放火を犯した後の養賢にかかわった人たちや裁判の記録が大半を占める。
それを読んでさまざまな思いがあるが、水上勉は昭和二十三年に金閣庭園の修理をうけもった久垣秀治氏の一文をひいて、養賢の人格を弁護し寺院側の体制を問題視している。久垣氏は「少年が法を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい」と記している。これはそのまま自身長く仏教とかかわってきた水上勉の思いだろう。また、養賢が収容されていた加古川刑務所総務部長の橘恵龍氏が、金閣和尚の慈海師に書いた手紙を取り上げている。僧侶出身で大谷大学の先輩でもあった橘氏は養賢の心身衰弱を見て、金閣にもう一度戻りたいという彼の思いを代弁し、慈海師に連絡を請うたのである。だが、当然のことながら、慈海師の返答はない。昭和二十五年八月養賢は僧籍を除籍されている。

 刑務所の中で養賢は『歎異抄』を読んだのだろうか。五日に一度の割合で書いたという慈海師への手紙には「よき人のお仰せを蒙りて念仏申しおりますが」「いずれの行をも及び難き」という語句が散見される。「禅をやって自分の精神症状を吹飛ばす心算をしてゐます」という文章もあって、自力、他力を問わず何とか救いを得ようと懸命な努力を続けていたことがうかがわれる。だが、結核の進行と独居生活の長期化からか心身ともに衰弱の一途をたどり、昭和三十年十月釈放後すぐに入院した京都府立洛南病院で翌三十一年三月七日死亡した。入院直後から喀血が続き、最後は大量の喀血だったという。死に立ち会った小林淳鏡氏によれば、養賢は最後に「殺仏殺祖」についてながく考えてもわからなかったとつたえたということである。

 私は仏教についてはまったくの門外漢だが、養賢が獄中親しんだと思われる歎異抄に「念仏申さんと思ひ立つ心のおきるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずからしめたまふなり」という一節があることを思う。

 養賢の母志満子は彼が逮捕された直後、面会に行って拒否され、大江山山麓の実家に戻る途中保津峡に身を投げ死んでいる。水上勉は養賢と志満子の墓をたずねて成生の西徳寺、志満子の生家の大江山麓を探した。京都の金閣寺には無論養賢の墓はない。そして最後に養賢の父道源の生家がある安岡部落の共同墓地に二人の墓が別々に並んで建てられているのを発見する。ともに林家の建立したものである。水上勉は、孤独に、現世では救われることなく死んでいった母子に次の文章をたむけてこの長編を閉じる。

 「母子が俗家へ帰ったのだから、養賢としては、身近な在家である林家にもどって不思議はない、と思えるものの、大江山麓から嫁にきた志満子が、里の実家に眠らず、夫の実家の墓地で、成生の夫とはなされて眠るけしきは『三界に家なし』と仏門でいう女のありようを思わせた。子の墓石とならび、二基とも風霜で肌も荒れ、台石にはまだらにうす苔が被っていた。誰が供えたか、枯竹の花筒に、黄菊の束が差し込まれ、よごれた葉は涸れていた。

 養賢が林家に寄寓していた中学時代に、成生から海沿いの陽照り道を、日傘さして通った志満子が、『よく一人ぼっちで道ばたの石に腰かけ、海を見ていなさった』と話してくれた酒巻広太郎の思い出の光景が私の瞼にゆらぎづけた。

 帰りに村人に聞いてみると、母子の墓には、僧形の墓参者はひとりとてないとのことだった。」

 三島由紀夫の『金閣寺』の資料として読み始めた『金閣炎上』だったが、小説としての面白さ、水上勉のこころざしの深さゆえに我を忘れてひきこまれてしまった。『金閣寺』との比較はまた次の機会に、だがなるべく早くしたいと思っている。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月6日木曜日

水上勉『金閣炎上』____母と子への鎮魂歌

 三島由紀夫が『金閣寺』を書くために、膨大な資料から何を切り取って何を捨てたか、あるいは改変したかを知りたくて、水上勉の『金閣炎上』を読んでみた。『金閣炎上』は三島の『金閣寺』より二十年以上後に出版されたものだが、犯人の林養賢と事件に関して丹念な取材を積み重ねたもので、第一次資料として参考になるのではないかと考えたからである。

 裁判の記録や犯人の青年の周辺の人物への聞きこみなど、事実の経過をたどるための資料として読むことを考えていたのだが、読み始めていくらも経たないうちに、三島の『金閣寺』とはまったく違ったおもしろさに夢中になってしまった。こんなに小説がおもしろいものだということに、人生の後半になってやっと気がついたのである。三島の『金閣寺』が、絵画にたとえて端正な屏風絵だとしたら、水上勉の『金閣炎上』は荒削りなデッサンあるいは油絵のように思われる。立体的な画面から厳しい裏日本の風土と昂然と生きて無残に死んでいった孤独な母と子の姿が浮かび上がってくる。

 金閣寺放火犯の林養賢は若狭湾に突き出た京都府成生(なりう)岬で生まれた。生家は西徳寺という禅宗の末寺である。成生という集落がいまも存在するのかどうかわからないが、当時は二十二戸の檀家があり、漁で生計をたてていた。数年おきに鰤の大漁があって集落は裕福ともいえたが、寺は貧しかった。

 養賢の父道源の家は成生の南に位置する青葉山山麓の安岡という部落の中農だったが、病弱のため部落の寺の徒弟となって得度、二十五歳で無住だった西徳寺に赴任した。翌年道源は妻を娶る。妻の志満子は京都の大江山麓の尾藤という村の生まれである。成生にくらべ広大な水田を持つ村で、志満子はそこのやはり中農といえる家の長女だった。勝気で学校の成績もよかったが、早くに母をなくし家事をみるため高等科を中退しなければならなかった。大江山麓から二十四歳で辺境の成生に嫁ぐのにどんな事情があったのかわからない。水上勉は土地の漁婦の言葉をかりて、志満子の嫁ぐ日の姿をこのように描いている。

 「お寺へ嫁さんがくるというんで、浜とまでみんな出て見てました。ほしたら、田井の港で舟を下りやんしたとみえて、村口の坂をトランク一つと、日傘をもった背のひくい志満子さんが、紫地に花柄の銘仙の袷に、黄色い帯しめて、小股歩きにとぼとぼおいでなさってのう。あの日は、たぶん、浜の弥太夫さんの家で化粧やら、着替えやらなさって、西徳寺入りなさったとおぼえとります。式というてものう、総代さんやら五、六人が本堂にあつまりなさって、盃事しなさっただけで夕方に終わったようにおぼえとります。そのまま志満子さんは寺に泊りなさりました」

 
 それから足かけ五年経って昭和四年三月十九日林養賢が生まれた。結核の夫に代わって田畑を耕し、山にも入って、暮れれば蔭地の寺に戻って食事の仕度をする日々を送り、二十八歳の春志満子はたった一人で養賢を生んだのである。道源も志満子も子の誕生を喜ばぬ理由があるわけはないが、水上勉は周囲の複雑な視線をこう記している。

 「風の吹きつける野ざらしの産小舎跡は部落から離れていたために、こんな所まできて子を産まなければならなかった部落の因習のふかさを思わせた。志満子がその小舎で養賢を出産していなかったにしても、限られた農地しかない貧寒部落で、うとまれての出産であることをつゆ知らず、冬空にひびいたろう、幾人かの子の産声をきく思いがした。眼の下の淵はふかくえぐれ、紺青の水は岩裾に密着して、波立ちのない淀んだ深い穴であった。」

 吃音は養賢が三歳のときから始まったが、彼は三島の小説の主人公溝口のようなひよわで醜い少年ではなかった。大柄で学力も体力もまさっていた。年下の子どもの面倒見もわるくはなかった。彼に経文と尺八を教えた父は昭和十七年冬に死んだ。死ぬ前に父は一面識もない金閣寺の慈海和尚に手紙を書いて、養賢の入山を願い出た。多くの徒弟を戦争で徴集されていたこともあって、入山は許された。

 十三歳で得度した養賢は入山したが、戦時下で食糧事情が逼迫していたために、いったんは安岡の叔父の元に帰る。その後一年ほどでまた京都に戻り、金閣寺から花園中学に通って卒業する。この間母の志満子と何らかの確執があったのではないかと水上勉は推測している。花園中学在学中に養賢は父と同じく結核を発症する。勤労動員の過酷な労働が原因であろう。大学入学を目前にして、病を得た養賢は再び郷里に戻らなければならなかった。昭和二十年五月のことであった。

 敗戦を成生で迎えた養賢は翌年四月まで西徳寺で母と寺を守った。だが、そこはもう母と子が安住できる場所ではなかった。養賢はなんとしても金閣に戻ることを望み、母の志満子には大江山の生家に帰るように告げたのである。養賢の心中になにがあったのかはわからない。水上勉は西徳寺の檀家で寺のすぐ前に住む酒巻広一からの聞き書きとして、養賢が降り積もる雪の中、「くぐつ」と呼ばれる罠にかかった小動物をあつめて進む姿を臨場感あふれる文章で記してる。養賢はくぐつを作るのも仕掛けるのも巧みだった。父ゆずりの毛糸の首巻きをして学生服の肩をぬれるにまかせ、養賢は獲物をひきずって進んだ。同行した酒巻広一はこのときの養賢のたたずまいを「勇ましくもおぞましい」と述懐しているが、水上勉は以下のように記している。

 「・・・・人はたてまえだけでは生きられぬ。仏弟子も腹がへれば、鳥も兎も食う。女犯の戒を守るのが金閣住職のたてまえだったが、先住敬宗師の奔放な肉食、女性道楽を耳にしていた養賢にこのくぐつあそびが、深く宗教上の反省を強いられながらの行為であったかどうか、そこのところはわからない。広一からこの話をきいて、吹雪の中をひたすら獲物に向い、つき進んでいた養賢の、着ぶくれした十六歳の冬に、私はのちの金閣放火の、小雨の降る一夜をかさねて息をつめる。」


 水上勉はこの後敗戦の翌年に金閣にもどった養賢がどのように変わっていったか、あるいは金閣がどのように変わっていったかを書いていくのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。